僕は今でもミルクキャラメルみたいな恋をしている。
暑い時期は柔らかいから歯にくっ付いて離れない。
寒い時期は硬いから口の中で温めないといけない。
恋も同じ。
熱かった時はずっとその人のことばかり考えているのに、もう会えないのではないかと胸が冷たくなったら温めたいと思うようになる。
「……なんてな。次は何を描こうか」
僕はミルクキャラメルを手に取り、口に運ぶ。最後の一個。味は変わらない。
テーブルの前に座り、木目を見ながら考え込む。ある程度、構想を練ったら、授業で配られた標準サイズのプリント、その裏側にHBの鉛筆で下書きをしていく。過去のデッサンを思い出しながら白の世界に浮かび上がるのは一人の少女。
書くことに行き詰まったら現実に戻る。オレンジ色の卓上ライトのみに照らされて、手の影が紙に映っている。カーテンを開けてみれば、新月の今日、窓の外の街灯がいつもよりも輝いていた。
「それは何を食べてるんだ?」
下書きをしているとルームメイトが英語で話しかけてくる。
「ミルクキャラメル。日本のお菓子だ。もうないけど、今度送ってもらうからその時にあげるよ」
「それは助かる……ところで、あの件、考えてくれたか?」
「留学を一年延ばして、一緒にグループを組むって話か」
「ああ、お前含めた俺たちの絵なら絶対に売れる。事実、売れ始めているじゃないか」
「……そうだな」
僕は手を止める。目も合わせず、浮かび上がった一人の少女だけを見つめる。
もう彼女は美しい女性になっている頃だろうか。
それとも、などと言う想像はしたくない。
「日本で大学を卒業した後はもう一度、ここに来ればいい」
考えていると思われたのか、彼が僕の肩に手を置いた。
答えはもうとっくの前から決まっている。
「悪いが、その提案は受けられないな。会いたい人がいるから」
「好きな人か?」
反射で肩が動く。すると彼は豪快に笑った。
「じゃあ仕方ないか。気が変わったら言ってくれ」
「ああ。そうする」
「早く寝ろよ。良い夜を」
彼は自分のベッドに入るなり、数分で寝息を立て始めた。
下書きを終わらせてしまおうと僕は再び鉛筆を動かし始める。かつて相思相愛だった女性を、今も僕が恋している女性を、形に、絵に。
あなたが天国にいようとどこにいようと僕はいつまでも待っている。
「今日は寒い夜だな」
引き出しから一冊のノートを取り出し、胸に抱き締めた。今でも冷めない熱が胸に届き、心に伝わる。
もうすぐ一年。
僕が彼女と出会ったのは大学一年生の初夏のことだった。
***
梅雨明けのジメジメとした暑さには冷えたミルクティーが効く。
ストローでこまめに吸いながら、英語の勉強をするのが最近の僕の流行り。
と、喫茶店に通う正当な理由を一応は持っている。
英語試験の頻出単語をノートに写すのに疲れた僕は辺りを見渡した。相変わらずレトロな喫茶店だ。家具も壁も柱も木。全体的に木々で構築された空間は外の世界とは隔離されていることを僕たちに示している。カウンター周辺の壁はレンガの模様が描かれていて、カウンターテーブルにはコーヒー豆が詰まったガラス瓶が置かれている。その下のショーケースには食欲をそそるケーキやサンドイッチ。上を見上げれば、和モダンのペンダントライトがぶら下がっている。
照明も空間の色も暗いわけではないので勉強にちょうど良い。冷房も効いている。平日の昼なので客も少なく、いるのは主婦らしき女性と老人、あとは小学生の子供が二人。商品を注文すれば勉強していても問題はない。
四人テーブルのソファに腰掛けながらミルクティーを一口。そしてため息。
勉強に適した空間とはいえ、一時間も勉強していれば疲れてくる。絵ならばいくらでも描けるのに勉強となると途端に手が重くなるのだから不思議だ。
「半分もないか。氷溶けて薄くなってるし、おかわりしてもいいな……って」
完全に集中力が薄くなった状態でガラスのコップを回していると、目の前を一人の女性が通りかかった。
ふわっとしたポニーテールに透き通った白い肌、目が合うだけで心臓さえ動くことを忘れるほどに潤った瞳。横顔も美しいなと思うし、正面で見たらもっと可愛らしい。彼女は白シャツの上に緑色のエプロンを着ていて、格好もまた彼女の可愛さを助長している。
僕は鉛筆と横開きのスケッチブックを取り出し、彼女の絵を描き始めた。あの一瞬、彼女が目の前を通った一瞬を忘れないために。
もう何枚描いていることだろう。スケッチブックの半分が彼女の絵で埋まろうとしている。彼女を描くために買ったのだから当然といえば当然。冷静になれば、描き過ぎな気もする。
――お待たせしました、アイスコーヒーになります。
彼女を目で追いかけ、HBの鉛筆を動かす。色はないし、塗る予定もない。不完全な絵だが、完成させなくていい。僕の画力で彼女の美しさを表現できるとは思えないから。
輪郭を描き、頭を描き、こちらを見ているような構図に変えておく。彼女の足元まで描き、カフェの内装も簡単に描き込んでいく。
下手なストーカーよりも引かれる気しかしない。それでも手は止まらない。
カフェに来る本当の理由は名前も知らない店員の彼女に会いたいがためだった。男の一目惚れだ。間違いなく僕は彼女に惹かれているし、引かれるのは怖い。
連絡先を交換してください、などと言う勇気はない。あれば絵など描いていない。
でも今日の僕は一味違う。彼女の連絡先を聞くために来たのだから。スケッチブックはもう半分も埋まっているのだ。行動せずに終わるのは避けたい。
断られたら仕方がない。鉛筆とスケッチを捨てて数日は筆を握れなくなるだけ。
心の準備をすると、スケッチブックと鉛筆を手さげバッグの中にしまった。
「すみません!」
僕は彼女が前を通りかかろうとしたタイミングで手を挙げる。
「はい、どうされましたか?」
彼女は絵になる笑顔を浮かべながら近づいてくる。描きたい。今すぐ鉛筆を踊らせて、白紙の中に彼女を収めたい。
「……あの、何か?」
彼女は首を傾げる。緊張もあって、見惚れてしまったらしい。
気を取り直し、改めて彼女の目を見た。
「その、れ、れ……れん……!」
「れん?」
今までにないほど鼓動が早くなる。彼女は話を聞こうと、僕の緊張した体に近づくせいで甘い香りが心臓を刺激してくるのだ。もはや目は合わせられない。それでも聞くと決めた。
息を吸い、言い放った。
「……レモンケーキ一つ」
「レモンケーキですね。かしこまりました」
彼女は丁寧にお辞儀をし、去っていった。
僕は彼女の背中を見ながら深くため息をつく。人間の性格は意気込み一つで変わるものではない。もう何度目の失敗だろう。
前の客が立ち去って、柱に設置された鏡が僕の姿を映し出す。髪はボサボサ、ファッションも地味。連絡先を聞こうという意気込みだけして家を出たので、お洒落を忘れていた。連絡先を聞かないのが正解だったのかもしれない。絵ならいくらでも描き込みたいと思うのに自分には興味が湧かない。
「……そういう問題じゃないんだろうけどな」
ボサボサの髪を手で整える。もう一度、鏡を見たところで印象は変わらなかった。
僕は諦めてシャーペンを持ち、英語の勉強を再開した。
注文したレモンケーキが届いたのは半ページ分の英単語を書き終えた後だった。
「お待たせしました。レモンケーキになります」
届けてくれたのは先ほどの彼女。机の上にレモンケーキが乗った皿を優しく置く。
ふと、僕はあることに気づく。クッキーが二枚、ケーキの横に置かれている。二枚とも犬の形をしている。
クッキーを頼んだ覚えはない。問おうとすると、彼女は優しく微笑み、自身の唇に人差し指をあてた。
「しーっ。いつも勉強頑張ってるから、サービスです」
彼女は柔らかな表情から一転、無邪気に微笑む。
「あ、ありがとうございます」
「頑張ってください」
彼女は囁き、注文を待つ次の客に向かっていった。
「……反則、だろ」
耳を包む柔らかな声、鼻から心臓に突き刺さる甘い匂い、加えて無邪気な笑顔。それらを味わえただけで十分だというのに極め付けは優しい気遣い。向こうも顔は覚えてくれているらしい。
僕は再びスケッチブックを開き、彼女の横に並び歩く犬を付け足しておいた。犬のクッキーを見た時、彼女は動物が似合う女性だと直感的に思った。犬は喫茶店内には入れないが現実を非現実に変えてくれるのが絵だ。
そしてスケッチブックから白紙を一枚、剥ぎ取る。
口頭では言えなくても紙なら言える気がした。今、接客しているのは彼女だけだ。皿を片付けるのは彼女だから紙を置いて帰れば読んでくれるはず。
連絡が来るかどうかは別の問題である。
僕はミルクティーを飲み干し、剥ぎ取った紙に伝えたい言葉を書いた。
『連絡先、交換しませんか?』
紙をグラスとテーブルの間に挟み込む。彼女がグラスを片付ける前に残りのレモンケーキとクッキーを食べて、お会計を済ませた。会計を担当してくれたのは彼女だった。
「さ、さっきはありがとうございました」
「いえいえ、お気になさらず。頑張ってくださいね」
彼女はニコッと微笑む。何色にも表現できない笑顔。
会計の時に聞くことも考えたがこの心臓の様子だと無理だ。紙を置いておいて正解だった。それに、これで連絡が来なければそういうこと。口で断られるより傷は少ない。
僕は彼女に軽く頭を下げ、店を去った。
それから五日。彼女から連絡が来ることはなかった。
「何でもいいからお惣菜、か」
大学の授業終わり、ショッピングモール。父から送られてきた買い物リストを見ながら一人呟く。
大学が昼過ぎで終わってしまう日にはいつも暇をしている。大半の僕と同じ美大生はバイトをしているそうだが、する予定はない。暇さえあれば絵を描いていたいし、英語の勉強もしなければならないからだ。材料費を調達したいときは単発のバイトをしている。人と遊ばないのでそれで十分。
授業が昼過ぎで終わった今日、いつもならあの人がいるカフェに足を運んでいるところだが、そうもいかない。連絡先を交換しないか、という紙を残してから彼女からの連絡が来ていないのだ。脈がなかったのでカフェには行けない。行っても気まずい。
カフェに行かなくなってから今日で五日。ベッドで彼女用のスケッチブックを見ながら落ち込んでいたところ、暇なら買い物に行ってこいと父からメールが送られてきて、今は外に駆り出されている。
「お父さんの好きはいまいちわからないんだよな」
買い物リストのほとんどは食材で手元の袋に入っている。あとは『何でもいいからお惣菜』なのだが父の好みがわからない。
父と過ごして十八年、父と二人で暮らすようになって約十年。いまだに父の好きな食べ物がわからない。
「……コロッケか唐揚げでも買ってくか」
買う惣菜を考えながら、モール内を歩いていた時だった。
男児が二人。小学生くらいだろうか。ペアルックなのでおそらく兄弟。身長差はそれほどなく、髪がとんがっている兄らしき人物がおかっぱ頭の弟の手を引っ張っている。
何かを探している様子で弟の方は今にも泣きだしそうだ。
――おねーちゃん、どこ? みつからなかったらどうしよう。
――ばか、泣くんじゃない。俺が見つけるもん。
迷子か。二人の様子に気づいた人は他にいなさそうだ。僕は声をかけに行った。
「どうした? 迷子か?」
「あ……だ、誰?」
兄は弟を後ろにして手を大きく広げる。弟を庇う兄の愛には感動するが不審者だと思われては困る。
「怪しい者じゃないよ。お姉ちゃんを探してるのか?」
「そうだけど」
「じゃあ一緒に探そうか?」
僕は手を差し出す。兄は差し出した手を嫌いな食べ物を前にした子犬のように睨む。
「知らない人にはついていくなって姉ちゃんが言ってた」
「……そりゃあ立派なお姉ちゃんなことだ。顔が見てみたいよ」
警戒心マックスでは助け舟も出せない。弟の方に話しかけようとすると、兄が邪魔をするので顔すら合わせられない。
「困ったなあ。お菓子でもあげれば信用してくれるか?」
僕は手に持っていた袋から飴を取り出す。風邪気味の父のために買ったのど飴だ。フルーツ味なので子供も好きだろう。
「どうぞ」
「飴あげるからこっちおいで、とか、おじさん、完全に不審者じゃん。もっとマシな誘い文句考えなよ」
「……誰もそんなこと言ってねえよ。一緒に探そうって言ってるんだけど。っていうか、まだ十九だし」
「嘘だ。そんなボサボサの髪して、姉ちゃんと同い年なわけない!」
事実なので否定はできない。純粋な目をしているから余計に胸に刺さる。
ここで突き放してしまうのは簡単だが、困っているなら助けたい。
「とりあえずお姉ちゃんの特徴を言ってみろ。一緒に探してやるから」
「なんでおじさんは俺らを助けようとするんだよ」
「子供助けるのに理由なんているか!」
問答の末に僕はようやく子供二人と並んで歩き出した。兄の警戒心は消えていて、二人と簡単な会話はできるようになっていた。
話を聞くと、二人はやはり兄弟で兄が恭平(きょうへい)、弟が陽平(ようへい)という名前らしい。恭平は小学三年生で陽平が小学一年生。姉とここに来たはいいが、姉が偶然にもバイト先の知り合いと出会って話し込んでいたので、その隙に恭平が陽平を連れてゲーム売り場に行ったのだそうだ。戻ったら姉と知り合いがいなくて、迷子。
「自業自得だな」
「じごう……何だ?」
「自分たちが行なった結果だから仕方ない、ってこと」
「いや、俺らが迷子じゃなくてお姉ちゃんが迷子なんだよ」
姉も大変だ。よくわからない理論を唱えるこの男児の面倒を見ないといけないのだから。一方で陽平の方は無口で静かだ。自分を出さない子なのか、ずっと兄に振り回されている。時々、見せる笑みは子供らしくて柔らかい。
そうして三人で話しながら、姉が話し込んでいたという雑貨屋の前に向かった。
雑貨屋は一つ下の階に位置していた。着いても誰もいない。道中も姉に遭遇したり、誰かを探している女性を見つけることはなかった。
陽平は兄の手を握りながら肩を落とす。兄として恭平が励ますも、まだ小学三年生。恭平も不安がっている。近くにあったソファに座っていろと言うと僕は店内をぐるっと見回る。それらしき人はいない。
「おねーちゃん……いた?」
「いや、いなかった。でもここで待ってれば見つかる。迷子の時は不用意に動かないのが正解なんだ」
陽平の頭を撫でると落ち着いたのか、表情を崩す。恭平は不満そうに口を尖らせていたが、何も言わなかった。
「にしても……この雑貨屋、可愛いグッズがいっぱい置いてあるな。特に動物のグッズ」
「うん、姉ちゃんが好きな店だよ」
「何か買おうか? お兄さんの奢りだ」
「ゲーム欲しい」
「それは無理」
僕は恭平の隣に座る。
お洒落で綺麗な雑貨屋だ。暇つぶしに絵でも描いてもいいかもしれない。
ポケットから黒のボールペンとミニサイズのスケッチブックを取り出し、足を組む。そして目の前の雑貨屋を描き始めた。
壁や店内の色は真っ白、床は茶色と白のタイル模様が描かれている。シンプルだが、お洒落と思わせているのは棚の配置とグッズの種類。犬猫のグッズを前の陳列棚に置き、注目を集めている。棚の一番上には可愛らしい動物の人形が置かれていて、犬猫だけではなくウサギやウマもいる。
「おじさ……兄ちゃん、何してるの?」
「絵描いてる」
「うわあ、上手」
恭平は感心したらしく、手元をじっと見つめている。生意気な性格だが子供っぽい無邪気なところは可愛らしい。
「そうだ、恭平たちはあっち向いてろ」
「なんで?」
「いいから」
二人の視界から僕が外れる場所を指差す。二人がそちらを向いたことを確認すると、新しい白紙に絵を描き始めた。
絵に描くのは二人の姿だ。
簡易的でも特徴的なところは押さえよう。正面を向くより背中を見せた方がいいだろうか。
「いつまで?」
「もうちょっと待ってろ」
構図を決め、最初は恭平から。尖った髪を描き、上から下に描いていく。
次は陽平。恭平より低い位置からおかっぱ頭を描くと、あとは同じ要領。二人が手を繋いでいるようにすれば完成だ。
「もういいぞ」
二人は僕の顔を見る。段々と胸元に掲げていた絵に視線を移した。
「うわっ! すっげ! これ、俺と陽平?」
「そうだ。よかったらあげるよ」
「いいのか!?」
恭平は絵を受け取り、天井に掲げる。陽平も目をぱちぱちとさせながら息を漏らしている。
「これ、姉ちゃん付け足せる?」
「やろうと思えば……特徴は?」
「髪長くて、俺らより背でっかくて、兄ちゃんよりは小ちゃくて……」
黒色の長い髪で二人よりは大きく、僕よりは小さい。恭平曰く僕と同じ十九歳のお姉ちゃん。
一人、同じ特徴を持つ若い女性が雑貨屋から離れたところにあるエレベーター付近でキョロキョロとしている。
「あの人みたいな?」
「うん、そう……って」
「おねーちゃん!」
二人が女性に向かって大きく手を振る。女性は二人に気づき、小走りで近づいてきた。
「恭平! 陽平!」
二人は立ち上がり、女性に近づく。ゼロ距離になったところで抱き合い、感動の再会。
「もう、どこ行ってたのよ! 勝手に出歩いちゃダメでしょ!」
『……ごめんなさい』
姉に怒られた二人はしょんぼりと肩を落とした。
一方、姉の目には涙が溜まっている。気が気でなかったのだろう。
ふと、僕は姉を見て、引っ掛かりを覚える。どこかで見たような気がしてならないのだ。二人に顔を埋めているせいで顔はあまり見えないが、姿や声、雰囲気が記憶上の誰かと似ている。
「とにかく、見つかってよかったわ。心配したんだから」
「あのおにーちゃんがいてくれたの」
陽平が僕を指差す。姉が顔を上げ、そして目が合った。
姉の正体はあのカフェの店員さんだった。
お互いがお互いに気づき、気まずい空気が流れる。
「こ、こんにちは」
「……どうも」
彼女は姿勢を正し、会釈する。僕もぎこちない会釈で返す。
「あれ、この兄ちゃんと姉ちゃんって知り合い?」
「知り合いっていうか何というか……弟たちを助けてくださりありがとうございます!」
彼女は深々と礼をした。
「いえいえ、お気になさらず。見つかってよかった」
「本当に何とお礼を言ったらいいか……ご迷惑をおかけしました」
「姉ちゃんが迷子のところを助けてくれたんだから、何かお礼しないの?」
「あなたたちが迷子になったんでしょうが!」
姉の軽いチョップが弟たちに炸裂する。巻き添えを食らった陽平は口を尖らせながらも表情には笑みが含まれている。
姉兄弟で仲睦まじい様子は見ていて微笑ましい。
「すみません、お見苦しいところを。そうですよね。何かお礼の一つでも……」
「別に構いません。二人と一緒にいて、僕も楽しかったし」
胸元で手を振り、お礼を拒否する。
玉砕した相手にお礼を要求したところで相手も困る。
「では、僕はそろそろ……」
彼女の姿を見るのはこれで最後。その場を後にしようとした時だった。
「あの……!」
彼女の声が僕を呼び止める。そして耳に飛び込んできたのは予想もしていなかった言葉だった。
「連絡先、交換しないんですか?」
驚き、目を合わせると、彼女は視線を外す。黙っていると、彼女の方から喋り始める。
「だ、だって、置き手紙してあって……れ、連絡先交換しようってあなたが言ったんじゃないですか」
「でも結局、連絡来なくて……」
「連絡先書いてなかったらどこに連絡すればいいかなんてわかりませんよ」
「あれ、僕、紙に連絡先書いてませんでしたっけ」
彼女がポケットから一枚の紙を取り出す。四つ折りされた紙を開けると、そこに書かれていたのは間違いなく僕の文字だった。
『連絡先、交換しませんか?』
紙にはそう書かれているだけで肝心の連絡先が書かれていない。
「次、店に来た時に交換しようかなって思ってたんです。けど……なかなか来ないから」
「連絡先、忘れてました。断られたんだって勝手に思って、店に行きづらいなって」
自身の失態に苦笑いするしかない。一人で落ち込んでいた僕が馬鹿みたいじゃないか。
彼女の顔が見れなくなって恥ずかしさに身を包まれていると、彼女はいきなり笑い出した。中々、彼女の笑いが止まらないので羞恥心は増すばかり。
「そ、そんなに笑います?」
「あはは、ごめんなさい……でも何だかおかしくって、ふふ。そっか、そういうことか」
彼女はツボにハマったようでお腹を抱えながら笑っている。
相変わらず絵になる可愛らしい笑顔。加えて、弟たちと似た無邪気さ。
やらかしたことに対する恥ずかしさは消えない。けれど彼女の笑顔が見られたならそれでいいかとも思えた。
今ならもう堂々と言える。最初からこうすればよかった。
「改めてですけど連絡先、交換しませんか?」
彼女は柔らかく微笑み、頷いた。
スマホを取り出してお互いの連絡先を交換した。相手のアイコンは犬の写真で名前はひらがなで『しらいし』と書かれている。交換してすぐ、彼女から犬のスタンプが送られてきた。
僕は雑貨屋に目を向ける。恭平の発言は本当だったらしい。よく見てみれば、彼女が肩にかけている白いトートバッグも犬柄である。
「しらいしさんの名前って何ですか?」
「白石 緋夏(しらいし ひなつ)です。緋色のひに季節の夏。あなたは?」
「加賀美 歩夢(かがみ あゆむ)です。夢に歩くって書いて、歩夢です」
「夢に歩く……そっか、いい名前」
そうしてお互いに連絡先の交換と自己紹介を終えた。これ以上話すこともない。
緋夏は弟たちを連れて、僕は惣菜を買ってから帰ろうとする。しかし弟たちがまたいなくなっていた。
「え、あ、あの子たちは!?」
辺りを見渡すと、二人は雑貨屋の隣の隣のカードショップにいた。目をキラキラとさせながらショーケースの中のカードを眺めている。居場所を伝えると、緋夏は手で頭を抑える。姉も大変だ。
「……弟たちがすみません」
「ううん、僕もごめん。ちょっと喋りすぎました」
「そんなことないです。加賀美さんと初めてプライベートで話せて、嬉しかったから」
緋夏は一瞬、頬を赤く染める。僕が返答する前に緋夏は弟たちのところへ向かった。
「また来てくださいね。待ってます」
緋夏は手を振り、カードショップの中へ消えていく。僕は緋夏が見えなくなるまで手を振った。緋夏が去った後もしばらくはその場から動けなかった。早まりすぎた鼓動が体を動かしてはくれなかった。
緋夏のいる喫茶店は最寄駅と自宅の間に位置する。
電車通学なので駅と自宅を往復しているうちに見つけた。そこで働いていた彼女に一目惚れした結果、盗撮まがいのことが習慣化していったのだ。
午後、ジメジメとした暑さと雲一つない空から差し込んでくる太陽光に体を焼かれながら、今日も駅から喫茶店へと足を進めていく。教材とスケッチブックが入った手さげバッグが重い。
訪れるのが六日ぶりだからか、緋夏と知り合い程度にはなったからか。
足を前に突き出すたびに緊張が体に走っている。
昨日の今日なのであれから緋夏とは連絡を取っていない。取ろうか迷った末に直接会って仲良くなるのがいいと思った。ある程度は髪も整えて、会う準備はできている。
歩いて五分、僕は喫茶店の前に着いた。道路沿いに位置するこの建物は人を惹きつける外観している。一階建てで内装と同様、外装も木をテーマにしており、メインの色は茶色。入り口には観葉植物が置かれているので映えるデザインだ。
扉横に張られている大きな窓からは中で働いている緋夏の姿が見える。扉に手をかける頃には緊張も消えていた。
「いらっしゃいませー」
扉を開けると扉上部につけられた鈴の音が店内に響き渡った。
客の注文を取り終えた緋夏と目が合い、こちらに近づいてくる。
「いらっしゃい、加賀美さん。来てくれたんですね」
「ここの商品はどれも美味しいので」
「それはありがとうございます。中にどうぞ」
案内された席は隅のソファ席だった。四人テーブルなので広々と使える。
緋夏の配慮なのか、客が少ない日は決まってここだ。
「ミルクティー、ですか?」
席に座るなり、おしぼりが出され、緋夏がそう尋ねる。
「覚えてくれたんですね」
「だってミルクティー以外は頼まないから」
緋夏はクスッと笑う。恥ずかしさ半分、嬉しさ半分。通い続けてきた甲斐はあった。
「少々お待ちください」
緋夏は背中を向け、後ろの髪がふわっと舞う。甘い香りが鼻腔を掠める。緋夏が視界にいる限りは一枚の絵を見ているような気分。
彼女と連絡先を交換した実感は湧かない。これからどうするべきなのか考えてもいなかった。緋夏の名前をただ知りたくて、連絡先を交換したかった。
考え事をしながら、バッグから取り出したのは英語のノート。
振られたと勝手に思っていた五日間は英語の勉強に集中できなかった。取り返さなければならない。
ミルクティーが来るまで、英語のノートにひたすら単語を書き込んでいく。
「兄ちゃん、何してるの?」
「英語の勉強」
「へー、何でもいいけどケーキ買って」
「ある意味、二人は立役者だからな……何かお礼はしなくちゃか」
「そうだそうだ。お礼、お礼―!」
自然と視界に入り込んできた子供二人に思わず顔をあげる。目の前の椅子に恭平と陽平の二人が座っていた。
「……何でいるの?」
「兄ちゃんこそ何でいるの?」
「それは……」
緋夏に会いに来たとは言いづらい。一旦、シャーペンを置いてから答える。
「ミルクティーを飲みに来た」
「ああ、兄ちゃんって、この店のじょーれんさんってやつか。だから姉ちゃんと……」
恭平は一人で納得したように頷く。
「二人はお姉ちゃんに会いに来たのか?」
「うん。この時間は家に誰もいないから」
「家に誰も?」
「姉ちゃんはバイトだし、母ちゃんは仕事だし。小学生二人だけで留守番は任せられないってさ」
「もしかして毎日来てるのか?」
「うん、ほぼ毎日」
「それは気づかなかった」
家庭事情は人それぞれある。思い返せば、二人と同じような子供をよく見かけていた気がする。
恭平は足元に置いたランドセルから筆箱とファイルを取り出した。陽平も同じように筆箱とプリントを取り出し、宿題をし始めた。
「……なんで二人とも加賀美さんの目の前に座ってるのよ」
僕も英語の勉強を再開しようと思った時、ミルクティーをトレーに乗せた緋夏がやってくる。緋夏はミルクティーを机に置き、二人を軽く睨んだ。
「加賀美さんの邪魔になるじゃない」
「別にいいじゃん。兄ちゃんがここにいたから。俺ら仲良し」
恭平は僕を見てニッと笑った。
「ごめんなさい、加賀美さん。邪魔なら移動させますけど……」
「いいですよ、別に」
僕は二人に笑顔で返して見せる。緋夏の弟ならいいようにするのは当然のこと、という下心はあるが、なくても気にしていない。
「何度もごめんなさい。加賀美さんには迷惑かけてばっかりですね」
「謝らなくていいですよ。二人と一緒にいるの面白いし」
「それは……ふふ、ありがとうございます。だってさ、二人とも」
緋夏は二人を見て顔を綻ばせる。一方、恭平は姉の方を見て眉間にしわを寄せていた。
「そんなに難しい顔してどうしたの?」
「いや、なんで二人とも同い年なのに敬語なの」
「同い年? 私と加賀美さんが?」
お互いに目が合い、緋夏は目をぱちぱちとさせる。
「じゃあ加賀美さんも十八……?」
「いや、十九です。六月生まれで、今は大学一年生」
「うっそ。私、十八だけど二月生まれだから同級生じゃん。てっきり加賀美さんの方が二、三個年上かなって」
「そんなに老けて見える?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……その……」
緋夏は口ごもる。言いたいことはなんとなくわかる。
少し慌てる緋夏の姿に思わず笑った。
緋夏が弁明をしようとしていると、他の客が緋夏を呼んだ。プライベートの感覚で話していたが、緋夏はまだ業務の最中。
「すぐ行きます!」
緋夏は僕に店員らしく一礼してから、
「またあとで」
と、小声で呟いた。
「……兄ちゃん、姉ちゃんのこと見過ぎ」
どれくらいの時間が経ったか。ぼーっとしていたらしく、恭平の声が意識を現実へと引き戻した。
「考え事してただけだ」
「兄ちゃんって、姉ちゃんのこと好きなの?」
表情は変えず、少し考える。
言うべきか、言わないべきか。
「……何でもないよ。小三は男女で仲良かったら恋愛とすぐに結びつけちゃうお年頃だもんな」
「子供扱いするんじゃねえ」
恭平はわかりやすく口を尖らせる。そして再び宿題に取り掛かり始めた。
僕はその様子を眺める。恭平は言動は生意気だが字は丁寧だし、宿題もしているあたり真面目なのだろう。
「そこ、間違えてるぞ」
「え、どこ?」
「一キロをメートルに直してないからおかしくなってる」
「……どうすればいい?」
受験時代は数学をしなかったが、常識的な算数ならできる。指を差しながら少し教えてあげると、恭平はすぐに応用問題まで解き切った。
「ありがと。解けた」
「宿題くらいなら教えられるからわからないことあったら聞けよ」
「うん。そうする」
隣に座っている陽平も鉛筆でプリントに書き込んでいた。しかしプリントが白紙だ。
「陽平は何してるんだ?」
「ん、しゅくだいのうらっかわにラクガキ」
「……なるほど」
陽平は大人しいが真面目ではないのだろうか。絵を見てみれば、意外と上手である。
犬の絵を描いているのだが、体のバランスがしっかりしていて、各パーツも特徴を押さえられている。
「陽平は絵を描くのが好きなのか?」
「うん、おねーちゃんをうまくかけるようになってプレゼントしたいんだ」
子供ながらの無邪気な発言が胸に刺さる。緋夏を勝手に描いたスケッチブックは今もバッグの中に入っている。二人がいるから出していない。
「どーしたの?」
「なんでもない」
「そっか……そういえば、おにーちゃん、おえかきじょーずだったよね? みてー」
陽平は完成した絵を広げて僕に見せる。やはり小一とは思えないほど上手な絵だ。子供らしさがあって可愛らしい。
「いいな。上手だ」
「えへへ、やった。おにーちゃんもかいてみてよ」
「うーん、そうだな」
美大生の僕に絵を描いてと言われると気分が上がる。腕の見せどころ。
手元にあったシャーペンを手に取り、英語のノートに犬を描き始めた。全体像を描くのではなく敢えてイラストっぽく描いてみる。雰囲気を出すよりは簡単で子供ウケもいい。
そうして完成した絵を見せると、陽平は目を輝かせた。
「うわあ、すごい! やっぱりじょーず!」
「犬で大事なのは目だと個人的に思ってる」
「おめめ?」
「たとえば陽平の絵もちょっと目をいじると……」
陽平の描いた絵を模写し、目を変え、色の濃淡を付け加える。すると一般像の犬からしば犬もどきへと変わった。
「すごいすごい!」
「どっちもあげるよ」
「ほんと!? ありがと!」
絵を描いたページだけを破り、陽平に差し出す。陽平は無邪気な笑顔を浮かべながら、差し出した絵を受け取った。
英語の勉強を続け、二人に宿題と絵をそれぞれ教え、疲れたら二人と話す。机の上のミルクティーが無くなっても僕は喫茶店に居続けた。気がつけば閉店時間の十七時半になっていた。
三人で集中していたところを業務を終えた緋夏がやってくる。
「さて、二人とも帰ろっか」
スマホで時間を確認してみると営業時間を過ぎている。窓越しに見る外の情景も橙色を帯び始めていた。
「えー、まだおにーちゃんとおえかきしたい」
「わがまま言わないの……加賀美さんもありがとうございます。いつもこんな時間までいないのに」
「いえいえ、家に帰っても暇ですから。でも、一個だけいいですか?」
「何ですか?」
緋夏の視線が緊張を呼ぶ。連絡先を聞けたのだから大丈夫だと心の中で唱えると、僕は言った。
「同級生だからもう敬語じゃなくてもいいかなって思うんだけど……どうかな?」
「たしかに。それなら加賀美さんじゃなくて、加賀美くん、かな」
「俺はなんて呼べばいい? 白石?」
「白石はここに三人もいるから、緋夏でいいよ」
「緋夏……さん?」
「さん付け禁止。緋夏でいいから」
提案しておきながら、いざ緋夏のことを呼び捨てにするのは躊躇いがある。視線を外しながら僕は緋夏の名前を口にした。
「……緋夏」
「ふふ、よろしく、加賀美くん。これからプライベートの時はタメ口使うから」
会話をしているうちに恭平と陽平は片付けを終えて、椅子から降りる。営業時間は終わっているので僕も急いで机の上の筆記用具を片付けた。
店を出たところで方面が違う三人とはお別れ。
「じゃあね、加賀美くん。明日もここにいるから……その、待ってるね」
橙色に染まる情景の中、緋夏の頬は緋色に染まっていた。
姉を真ん中に、三人は手をつなぎながら歩いていく。
「おにーちゃん、ばいばい」
「また明日―!」
僕は三人の姿が見えなくなるまで手を振った。
三人の姿が見えなくなり、帰ろうとした時だった。突然、心臓が破裂しそうな勢いで稼働し始める。緋夏に会うたび、大きくなっていくこの気持ちがそろそろ抑えられそうにない。
帰路の途中、公園に寄るとブランコに座ってスケッチブックを開く。そして恭平と陽平を描いた絵と同じ構図で先ほどの三人の姿を白の世界に映し出した。
「緋夏を描いている時が一番……」
ふと、膝の上に置いたスケッチブックから顔を上げる。目の前の花壇に咲いた赤い花がやつれた野良犬に噛みつかれていた。
緋夏と連絡先を交換してから一週間が経った。
時間がある時には喫茶店に通うようにしている。以前と違うのは一人じゃなくなったこと。学校が終わる時間になると恭平と陽平が当たり前のように僕の前に座るようになった。二人が来ない土日に行っても肝心の緋夏がいないので、最近はスケッチブックを埋められていない。けれどそれは恋愛が順調に行っている証。
「……兄ちゃん、なんでニヤニヤしてるの?」
英語の勉強をしていると恭平が話しかけてくる。恭平がわざと机に突っ伏すと鏡に口角が上がった自身の表情が映った。
「本当だ。ニヤニヤしてるな」
「うまく英語の問題解けたの?」
「……そんなところだ」
緋夏をデートに誘う妄想をしていたなどスケッチブックを人質に取られない限りは言えない。
一週間が経って、緋夏とスマホで連絡を取ったのは数えられるほど。二人の寝顔が送られてきた時と喫茶店が臨時休業していた時。とはいえリアルでは仲良くなっている。
そろそろデートに誘ってもいい頃合いだろうか。
スマホでのやり取りを増やしてからの方がいいだろうかとも悩みつつ、デートプランばかり考えている。
「またニヤニヤしてる」
「……気をつける」
「そういえば兄ちゃんってなんで英語、勉強してるの?」
「留学に行きたいからな」
「りゅーがく?」
「海外に勉強しに行くことを留学って言うんだ。大学生……早ければ高校生で行けるぞ」
恭平に説明しても首を傾げている。小学校の授業で英語は習わないだろう。あっても外国語の科目で週一の授業だった気もする。留学と言われてもピンとこないか。
「ふーん、知らない」
「僕も小学校の頃にお母さんに教えてもらって知ったからな。普通ならまだ知らないか」
「面白いの?」
「面白いっていうか、目標っていうか……約束だから」
病室にいた母の姿が頭によぎった。二人の年齢くらいの時だったか。
無性に二人が撫でたくなり、僕は手を伸ばして二人の頭を撫でた。恭平は不満を顔に出しながらも子供扱いするなとは言わなかった。
「私も加賀美くんに撫でてもらおっかなー」
二人を撫でている横に緋夏がやってくる。
「え、僕が緋夏を?」
「ふふ、冗談です……本当にしてくれてもいいけど」
僕は二人から手を引っ込めた。心臓に悪いからかいだ。
注文もしていないのでからかいに来ただけかと思っていると、緋夏は品を三つ、机の上に置いた。
「これ、店の試作品だからよかったら食べてみて」
「いいのか?」
「うん、他のお客さんにも渡してるから」
白い皿の上に乗っているのは一瓶の容器。中には緑色がかったプリンが入っている。さくらんぼが乗っていてシンプルだが映えそうなプリンだ。
「名前はまだないけど、新作のフルーツ味のミルクプリンです。キウイ使ってみたの」
「いいな。美味しそうだ」
スプーンを手に取り、口に運ぶ。口の中にまず広がったのはほんのりと甘いミルクプリンだった。後からキウイの酸味が追いかけてきて、クセになる。
「どうかな」
「美味しい。緋夏が作ったのか?」
「うーん、半分。店長の手伝いで一緒に作ったの」
「そっか。僕は好きだな、このプリン」
「ふふ、加賀美くんに言われると……ちょっと嬉しい」
緋夏は頬を赤らめながら、表情を緩める。相変わらず絵になる笑顔。
笑顔を見せるたび緋夏の絵を描きたい、緋夏のことをもっと知りたいという欲が高まっていく。
今、デートに誘っても了承してくれるだろうか。
「加賀美くんって食べ物だと何が好きなの?」
「甘いものが好きで逆に苦いものは苦手かな」
「甘いもの……たとえば?」
「ミルクキャラメルとか」
「へー、ちょっと意外。レモンケーキかなって」
「レモンケーキは……」
何度、連絡という言葉が出せなくて、レモンケーキと言っただろうか。一歩を踏み出すのに必要な過程だった、とでも思わなければ羞恥の色で心が塗りつぶされる。オドオドとしていた自分が恥ずかしい。
「レモンケーキは、ミルクティーとあうだけだ」
「そっか……よく考えてみたら私、加賀美くんのこと全然知らないかも」
「それはお互い様。僕も緋夏のことあんまり知らないし」
「私のことは……うーん、加賀美くんになら言えるかもね」
「それってどういう……」
僕が言葉の意味を問おうとした時、新しい客が喫茶店に入ってきた。緋夏は接客のために席から離れていった。
そうして喫茶店での過ごす時間はいつものように過ぎていった。
「兄ちゃん、ここ教えて」
「おにーちゃん、ねこちゃんかいてー!」
英語の勉強をしながら、二人の家庭教師をやっているような気分だ。恭平には勉強を教えて、陽平には絵を教える。客が少ない時には緋夏がエプロンを外して僕の隣に座り、世間話でもしていた。日常と化した時間。
気がつけば十七時半になり、営業時間を過ぎていた。
「二人とも帰ろっか……って……」
しばらくして業務を終えた緋夏が席にやってくる。僕はノートから顔を上げる。すると目の前の二人は寝息を立てながら寝ていた。机に伏せて、どちらもプリントによだれをつけている。
「寝てるね」
「みたいだな」
集中していたので気が付かなかった。
木曜日。学校終わりで疲れていても仕方がない。
緋夏は二人の肩を軽く揺さぶる。起きる気配は感じられない。
「よっぽど疲れてるのか」
「だね。どうしようかな」
緋夏は肩にかけていたバッグからスマホを取り出す。二人にスマホを向けるとシャッター音が鳴った。今度は僕にも向けるとまたシャッター音。
「……僕の写真、需要ある?」
「ふふ、いいじゃん別に」
緋夏とそんな会話をしていると、陽平が目をこすりながら起き上がった。緋夏を一瞥してから、何も言うことなく片付けを始める。まだ眠そうだ。恭平も時間差で起き上がり、片付けを始めた。
「帰ろっか」
忘れ物がないことを確認してから四人で店を出る。昼間のような熱気は消えていて、夏にしては涼しい夕方だった。
店を出たところで陽平が立ったまま眠っていた。緋夏が陽平の名前を呼ぶと、目をこすりながら一言。
「……おんぶ」
「もう、しょうがないなあ。はい」
緋夏はしゃがみ、陽平が緋夏の背中に乗った。
「姉ちゃん、俺も」
「二人は無理。それにもう小三でしょ。一人で歩きなさいよ」
恭平は要望は跳ね返され、肩を落とす。もう小三と言っても、まだ小三。姉に甘えたい時期だ。僕は恭平の前でしゃがんだ。
「ほら」
「いいの?」
「僕でよければ。男の背中を守ってくれ」
「……ありがと」
恭平を落とさないように太ももの裏をしっかりとホールドし、慎重に立ち上がった。重い。ランドセルの分だろう。バッグも邪魔だが仕方がない。前屈みになると、僕の首に回している恭平の腕から力が抜ける。
「ごめんね、加賀美くん」
「これくらいは任せて。家まで送る」
「ありがとう。加賀美くんはいいお兄ちゃんだね」
「一人っ子なんだけどな」
「そうなんだ、初耳」
眠った恭平と陽平を背負いながら、二人で歩き出す。お互いに男児を背負っているから歩調はゆっくり。カラスが鳴きながら真上を飛び去っていく。
陽平は姉の背中でぐっすりと眠っていた。恭平も一定の間隔で寝息を立てている。緋夏と目を合わせて、二人を起こさないように笑った。
「本当に可愛い弟たちだなー」
「そうだな。絵になる」
「ふふ、美大生らしい発言だね」
「基本的に絵を描くことしか頭にないから」
趣味はデッサンやスケッチ。綺麗なものが視覚に入れば、描きたいという感情が先走る。美術館巡りはあまり好きではない。手を動かす方が好きだから。
「加賀美くんって何科なの? 美術大学って言っても人によって学ぶことは違うんでしょ?」
「美術学科の洋画専攻」
「ふーん」
緋夏は何回か頷く。反応がよくわからない。
「意外か?」
「ううん。毎日、ミルクティー飲んでるし、似合ってる」
「なんだそれ」
「洋画を描いてる雰囲気はあるよ」
緋夏はニヤニヤとしながら答える。
褒められているのか、からかわれているのか。いつものことだが反応に困る。しかし緋夏が笑顔を見せてくれるなら構いはしない。
「加賀美くんって、絵を描く以外に趣味はないの?」
「一切ない。趣味が欲しいとは思ってるんだけど……気づいたら描いてる」
「いいじゃん。素敵だなー、そういうの」
緋夏の言葉に内心では驚いていた。絵を褒める人は多いが、お絵描きをすることが素敵だと言うのは緋夏で二人目だ。
『お絵描きしてるの? 素敵ね。将来は画家さんかしら』
また母のことを思い出す。
「いつかさ、私の絵も描いてよ」
「……気が向いたらな」
「えー、ミルクティー半額にするから」
「職権濫用されても困る。それに描かないとは言ってない」
既にもう描いている。でも緋夏にはスケッチブックの存在は知らせたくないし、緋夏の前では絵を描きたくない。今はこの時間を大切にしたい。
人はいつ死ぬのかわからないのだから。
『見て! ぼく、お母さんを描いたの! あげる!』
『上手ね。ありがとう』
白い空間で佇む母の姿は当時の僕にとってはあまりにも輝いていた。
「私のこと……いつか描いてね」
緋夏の柔らかな表情は記憶の中の母と似た雰囲気を纏っていた。
「気が向いたら描くよ。ちなみに緋夏の趣味は?」
「私は……趣味じゃないかもだけど可愛いものが好き。特に犬」
「犬か。恭平が姉ちゃんは犬が好きって前に言ってたな」
「昔ね、犬を飼ってたの。私が小さい頃に病気で亡くなっちゃったけど、それから好きなんだー」
緋夏は濃くなった橙色の空を仰ぐ。何となく緋夏には犬が似合う。犬柄の白いトートバッグを肩にかけているからだろうか。
そんな話をしている最中、野良犬が緋夏の横をすれ違った。緋夏には目もくれず、道路の脇をまっすぐ進んでいっている。緋夏は野良犬の向かう先を目で追いかけていた。
僕が緋夏に見惚れていると、目が合う。
「あの子、野良犬なの。喫茶店の近所で誰かが餌をやってるからうろついてる。飼ってほしいんだけど、誰も飼わないし、喫茶店でも飼えないから」
「飼ったら犬カフェになるもんな」
「ふふ、たしかに。加賀美くんのユーモア、面白いね」
二人で会話をしながら夕方の帰路を進んでいった。しばらくして緋夏の住む団地の前に着く。三階に部屋があるらしく、エレベーターがなかったので背負ったまま階段を登った。二人はまだ眠っている。
家に入らせてもらい、二人をそのまま寝室に寝かせた。敷布団に寝かせるなり、恭平が陽平を抱きしめたので思わず口角が上がった。仲のいいことだ。
「ここまで運んでくれて、ありがと。今度、お礼でもするから」
「大丈夫。二人の寝顔がお礼になってる」
「ふふ、じゃあまた寝顔の写真を送るね」
緋夏は二人の頭を撫でた後、寝室の扉を閉める。
これで実質、部屋に二人の状況。親はいないらしく、男と二人きりなど怖さはあるだろう。お暇しようとした時だった。
「ちょっとだけ涼んでいきなよ。流石に暑かったでしょ」
たしかに恭平を背負っていたので体には汗をかいている。
「それにもうちょっと話したいし」
緋夏にそう言われ、断れるわけもなかった。
「なら……遠慮なく」
「うん、くつろいでて。何飲む?」
冷えた麦茶を所望し、僕はテレビの前のソファに座らされる。待つこと数分、緋夏は麦茶の入ったグラスを二つ、机の上に置いた。そして僕の横に座る。距離は、近かった。手を少し伸ばせば触れられる。
脈ありと捉えるべきか、意識されていないと捉えるべきか。
どちらにせよそろそろデートに誘いたい。
「……私の顔、何かついてる?」
「あ、ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「加賀美くんもお疲れだね。大学生はやっぱり忙しい?」
「忙しい。でも楽しいよ」
「そっか。いいなー、大学。私は高校卒業してからフリーターやってるから」
「ってなると、緋夏の方が大変な気もするけど」
「お互い様だよ。みんな大変」
緋夏はグッと腕を伸ばす。腕を上に伸ばした時に胸のラインが強調されて、反射的に目を逸らした。
ふと、逸らしたついでに辺りを見渡す。母、緋夏と恭平、陽平の四人で住んでいるらしいが人数を考えると狭い。
「大変でも、そうだね。私は……稼がないといけないんだよね。お父さんがいないってだけでも辛いのに、金銭的に弟たちに大変な思いをさせたくないな」
緋夏は前を見ながら言う。視線の先には鏡として以外は何も機能していない真っ黒なテレビが存在している。どう反応すればいいかわからず、僕は話題を変えた。
「そういえば三人は兄弟仲が良いよな。恭平と陽平も歳の差が離れてないから喧嘩しそうなもんだけど」
「陽平が優しいから我慢してるだけなんだけどね」
「……たしかにそうだな」
「でも周りと比べたら仲は良い方だと思う。家族で協力しあって生きてきたからかな」
緋夏と二人の歳の差は離れているので仲が良いのはわかる。むしろ緋夏が二人に愛を注いでいる。可愛い弟二人を持つとブラコンにもなるだろう。
三人で仲が良いのはずっと協力しあってきたからだとしたら、見習わなければならない話だ。父に支えられてばかりの僕は父の好物すら未だに知らない。
「ねえ、加賀美くん、突然なんだけどさ」
「どうした?」
緋夏は神妙な面持ちで僕に向き合う。一拍置いてから、言った。
「私って、いいお姉ちゃん、できてるかな」
緋夏の視線は寝室へと移る。いつも笑顔の緋夏が珍しく真剣な表情を浮かべている。
弟たちには甘く、自分には厳しい。
一瞬、心臓が大きく高鳴る。最初は一目惚れだったのに気がつけば性格にも惚れている。どうしようもない。僕は自分に笑ってしまった。
「な、なんで笑うの?」
「ごめん。緋夏のことを笑ったわけじゃないよ」
緋夏の目を見て、僕は言った。
「そうやって悩んでるのが答えだと僕は思うけどな」
「どういうこと?」
「今だって頑張ってるのにいい姉になろうってまだ頑張ろうとしてる、可愛いお姉ちゃんってこと」
「でも……え、か、可愛い?」
緋夏は何度も瞬きする。自分に指を差して、首を傾げる。
「私、口説かれてる?」
「……今のはなし。いいお姉ちゃんって意味だ」
僕は咳払いをして誤魔化そうとする。本音が口から滑ってしまった。顔が徐々に暑くなっていくのを感じる。
しかし誤魔化しきれず、緋夏は真面目な顔から一転。笑い始め、お腹まで抱える。
「ぷっ、ふふ、そっか。私って、可愛いお姉ちゃんかー」
「い、言いたいことはわかるだろ」
「わかってるよ。けど……ふふ、ちょっと元気出た」
緋夏の目には笑い涙までも浮かんでいる。僕は羞恥心で押しつぶされそうだった。真面目に答えるつもりが二つの意味で滑ってしまった。
「ありがと。慰めてくれて」
「何もアドバイスはできてないけどな」
「ううん、自信が出た気がする。だからありがとう」
笑顔の輝きは元に戻っている。やはり緋夏は笑顔の方がよく似合う。
「緋夏は頑張りすぎる癖があるから……その、疲れたら、頼ってくれ。弟たちと遊ぶくらいならできるし、相談にも乗るから」
かっこいいことは言えない。一丁前に行動できるわけでもない。それでも緋夏のために何か行動したい。笑顔の緋夏を描きたいから。
「そうする。可愛いお姉ちゃんでいたいからねー、ふふ」
「……おい」
緋夏はいつものように僕をからかう。笑顔でいてくれるなら悪い気はしない。
「やっぱり加賀美くんになら言えるかもね」
「何が?」
「私の秘密。まだ言わないけど」
緋奈はグラスを手に取り、一気に飲み干した。
「加賀美くんが驚くに賭けてもいいよ」
「驚かなかったら?」
「何でも一個、言うことを聞いてあげる。その代わり、驚いたら私の絵を描いてよ」
「そんなに描いて欲しいのか」
「だって将来、画家として有名になるかもしれないじゃん」
緋夏は僕の右手に触れる。グラスを持っていたからか、冷たさが伝わってくる。そして僕の中指を手で包んだ。
「こんな大きなペンだこ付けてて、有名にならないわけないよ」
「……緋夏の言う将来でも仲が良かったら、わざわざ今、絵を描く必要もないけどな」
「それでも描いてもらいたいの!」
緋夏は顔を近づけ、睨むように僕を見つめる。睨むと言っても可愛いことには変わりないので心臓がもたない。
「わ、わかったから」
僕が折れると、緋夏は満足したように笑った。
そうして緋夏と二人きりの会話を楽しんだ。一対一で長時間話すことはなかったからか、いつもよりも体が熱い。時間の感覚を忘れて、気がつけば十八時半を過ぎようとしていた。
「もうこんな時間か。そろそろ帰ろうかな」
「うん。二人がまだ寝てるから玄関までだけど、見送るね」
僕はソファから立ち上がり、余っていた麦茶を飲み干す。忘れ物がないかチェックだけした後、玄関で靴を履いた。
「加賀美くん、また二人で話さない?」
「ああ、そうだな。楽しかった」
「今度は加賀美くんの悩みも話してよ。相談に乗ってあげる」
「じゃあそうさせてもらおうかな。僕のことも知ってもらいたいし……緋夏のこと、もっと知りたいし……」
今、誘うのは不自然だろうか。もっと後の方がいいだろうか。
結論が出ないまま玄関に立っている。デートプランも考えていない。あるのはただデートに行きたいという気持ちだけ。
緊張しながらも緋夏の顔を見る。引き込まれるほど綺麗な瞳、触りたくなる頬と白く透き通った肌。きっとこの感情は何色にも当てはまらない。どんな形でも表現できない。
緋夏のことを、この感情をもっと知りたい。
「もっと知りたいし……だから、その……」
口が動かない。もごついてしまう。連絡先を聞くより緊張するではないか。
緋夏は黙って、僕を見ている。次の言葉を待っている。
僕は大きく息を吸う。そして言葉にした。
「今度、僕とデート、してくれませんか」
緋夏は笑みと赤みを表情に含ませ、たった三文字。
「いいよ」
デートは誘った次週の日曜日に決まった。
着ていく服を用意し、散髪に行ったりして喫茶店には行けなかった。スマホでの連絡は頻繁にするようになった。デートのプランを決めているうちにやり取りが増えたのだ。
『今日は来なかったんだね』
『五限まで授業あったから。散髪も行ってた』
『髪切ったんだ! 期待してる!』
『ただ切っただけだから期待されても困る』
気がつけばスマホを見てニヤついている。やり取りが増えると通知が気になってくるもので、英語の勉強に集中できない。まともに絵を描くこともできなかった。夏休みの課題として出された油絵制作も上手く進んでいない。一番好きな制作であってもだ。
緋夏との初デートは美術館と犬カフェに決まった。どちらとも緋夏の要望である。美術館を案として出された時は意外だった。美大生の僕に解説してほしい、とのこと。緋夏が行きたがった美術館は動物を取り上げた芸術家の作品がメインだった。詳しくはない。それでも僕と行きたいと言ってくれたのでその二つに決まった。
時間の流れはあっという間だった。起きた時にはデート当日の朝になっていた。
『明日の集合は十時だからね。早く寝るんだよ!』
『そうする。緋夏もしっかり寝てくれ』
『うん。おやすみ、加賀美くん』
『おやすみ』
当日の朝、六時に目が覚めた僕は昨夜の緋夏とのやりとりを見返す。カーテンの隙間から差し込む白い光は寝ぼけた僕の頭を活性化させ、徐々に緊張を生ませた。
まだ待ち合わせ時間まで四時間もあるのに落ち着かない。緊張ほぐしのためにもスクロールをして、緋夏とのトーク履歴を見返していく。やりとりを始めたのがここ数日のことだったので、すぐに一番上へと辿り着いた。
「おはようって送った方が……まだ早いか?」
一人で問答しつつ、ベッドで転げ回る。やがて設定していた棚のアラームが鳴った。僕はベッドから起き上がり、アラームを消す。遅れるよりは早めに準備する方がいい。緊張をほぐしながら身支度をし始めた。
「どこか行くのか?」
ちょうど家を出る前、父が部屋から出てきた。ボサボサの髪をかきながらあくびをしている。以前の僕と父が似ていたことに気づき、改めて玄関の鏡を見る。髪は慣れないワックスで整えているし、服装もおかしくはない。
父ほど忙しくもないのにお洒落すら怠っていた過去の自分が恥ずかしくなる。
「友達と……遊んでくる。夕飯はまた連絡する」
「わかった。お小遣いは足りるか?」
「大丈夫。いってきます」
父に見送られ、僕は家を後にした。待ち合わせは駅前だった。通学する際にいつも利用している最寄駅だ。遅れるなら早く行って待とうと思い、駅前に着いたのは待ち合わせ時間の十五分前。日曜日だからか、駅周辺はいつもよりも人が多い。空いていたベンチに座って緋夏を待つ。スマホを開ける。九時四十六分。到着したと連絡するのは急かしていると思われるだろうか。とはいえ昨夜以降、何も連絡していない。おはようと一言送ることも結局していない。連絡も来ていない。
『先に着いたからベンチに座って待ってる。緋夏はゆっくり来てくれ』
僕は緋夏にメッセージを送り、スマホをしまった。
ふと、僕は線路を見る。線路からは陽炎が立って景色が歪んでいる。日陰にあるベンチとはいえ体からは汗が滲み出ている。美術館や犬カフェなど中で楽しめるものでよかった。僕は自販機で冷えた麦茶を買い、体を冷やしながら緋夏を待った。
九時五十五分、待ち合わせ時間五分前。緋夏はまだ来ていない。スマホを見ても送ったメッセージに既読はついていない。外にいて確認していないだけだろう。もうすぐで来そうだ。
暇つぶしに描いていたスケッチをしまって緋夏を待った。一分、また一分と時間が経過していく。待ち合わせ時間の十時。緋夏はまだ来ていない。
女性は準備に時間がかかるというので十分くらいは気長に待とう。
一分、また一分。十分が経過しても現れない。送ったメッセージには既読がついていない。
『あとどれくらいで着く?』
メッセージを送った後、待ち合わせの日にちが今日であることを改めて確認する。間違いはない。待ち合わせ時間も午前十時だ。
緋夏からの連絡を待ちながらスケッチを再開した。白い紙の中に道路ができて、線路ができて、駅ができる。三十分、一時間と経過して、結局、緋夏だけは描けなかった。変わりゆく人の移動の中に緋夏はいない。お茶を口に含むとそのぬるさに驚いた。
痺れを切らした僕は電話をするも繋がらない。
『駅の中で待ってるな』
中に移動し、再び緋夏を待つ。一時間、二時間、三時間。太陽が真上に登り、沈むまで緋夏は現れなかった。楽しみにしていた日曜日の半日は駅の中で座っているだけで浪費された。日が沈むまで待ったのはほんの少しの期待があったからだと思う。ただ、父からの連絡で僕は我に帰った。
『夕飯どうする?』
返信する前に緋夏とのやりとりを見る。相変わらず既読がついていない。どこで間違えたのだろうか。
「嫌われた……のか?」
僕はゆっくりと立ち上がる。ちょうど電車がやってきて改札から多くの人が流れ込んでくる。遊び帰りの学生は顔に疲れを見せながらも満足そうに笑みを浮かべていた。
連絡先を変な方法で聞いたときかもしれない。
お洒落を頑張るのが遅かったのかもしれない。
緋夏の悩みに対する発言が悪かったのかもしれない。
思考がぐるぐると回って、家に向かう足は遅くなっていた。駅から離れたくない。もしかしたら、という思いを胸に振り返る。いたのは赤い花を咥えた野良犬だけだった。
その日は喪失感を胸に抱えたまま帰路についた。父には楽しかったと伝え、自身の恋が終わったことをベッドの中で一人悟った。
月曜日を迎えて僕は大学に行った。昨日の感情のほとんどは消えていて、強いて言うならば心に穴が空いた気分。憂鬱ではない。
どれだけ辛いことが起きようと、世界には新たな絵が生まれる。嘆いても夏の葉っぱは緑色。下を向いてもアスファルトは灰色。空は見上げたくないが、どうせ色がついている。前の日常に戻っただけ。
月曜日は座学とデッサンの必修授業がある。デッサンは好きだがデッサンの授業は好きではない。周りの人たちは当たり前のように上手い。海外のコンクールで入賞していたり、すでに個展を開いたりしている人もいる。周りと自分の絵を比べるたび、なぜ僕が美大に入れたのか不思議に思う。加えて、絵を描くことが何なのか定まっていない僕は周りとの会話についていけない。
――あの人の授業、すごい嫌なんだけど
――今度の課題の件だけどさ
予備校でも絵や感性を磨いたはずなのに絵を描き続ける原動力は一つしかない。だから与えられたことをこなすだけ。自立していない考えとあまり上手くもない絵を描くことが唯一の趣味であるせいで大学には友達がいない。
小さい頃からずっと絵を描き続けているのに情けない。
『素敵だなー、そういうの』
緋夏の発言が蘇る。頭を横に振り、僕は授業に専念した。
五限目の授業にも出席してから大学を後にする。大学から駅まで歩き、自宅の最寄り駅まで電車で移動する。いつもの帰路。
空を見上げればやはり色が視界に入る。橙色。曇りであってほしかった。今は明るい絵を描く気分ではない。天気さえ良いモデルにはなってくれないのか。
考えながら僕の足は喫茶店へと向かっている。緋夏の姿を一目見たくなった。まだ営業時間内なので店内にいるはずだ。
やがて僕は喫茶店の前に着いた。中から見られないように木の後ろへ隠れて、店の窓を覗く。緋夏はいなかった。代わりに別の女性従業員がいる。一度入って、緋夏の居場所を聞いてみようかとも思った。けれど未練がましい人だと緋夏から思われるのも怖い。
「……既読はついてないし、ブロックされてるのかもな」
スマホを握りしめ、僕が家へ帰ろうとした時だった。手に振動が伝わったかと思うと通知音が鳴った。
送り主は緋夏だった。
『ごめん。今頃、すごく怒ってると思う』
僕はスマホを手に、固まる。続けてメッセージが送られてくる。僕はその内容に自分の目を疑った。
『日曜日の朝に倒れちゃって、今起きたところなの』
緋夏が、倒れた。
理由はわからない。嫌な記憶が頭によぎる。ロック解除を二回間違えた末にスマホを開けて、連絡を返す。
『大丈夫なのか? 今は病院?』
すぐに既読がついた。
『うん、病院』
『すぐに行くから場所を教えてくれ』
『落ち着いて。私はもう元気だから』
スタンプも送られてくるが顔を見ないことには安心できない。不安が心地の悪い汗を生む。
『明日、来てくれたら嬉しいな。加賀美くんと話したい』
緋夏から病院の位置が送られてくる。今すぐ駆けつけたいところだが少し遠い場所にある上、目覚めたばかりの緋夏に面会できるかどうかはわからない。
『わかった。昼前くらいに行く』
『ありがと。それと、日曜日は行けなくてごめん』
『謝らなくていい。明日、また話してくれ』
スマホをしまい、僕は無駄な早足で帰路についた。
「お母さんが倒れた。お父さんと一緒に病院に行こう」
十年以上の前の話。母が入院した時のこと。
当時、小学生だった僕は授業を受けている最中だった。途中で父が迎えに来て、母が入院する病院へ向かった。今でも何となく覚えている。
小さいながら母が大変な目にあっていることは理解していて、病院へ向かう車の中ではずっと不安でいっぱいだった。父と会話した気がするがそこまでは覚えていない。不安が消えたのは病院に着いて、母の元気な顔を見た後だった。
「ごめんね、歩夢。心配かけたね」
頭を撫でる母の手の感触を味わい、耳に馴染む声を聞いて、やっと安心を得られた。結局、不安だったのはその日だけだった。今ならわかる。入院していても、母は僕を不安にさせないように努力していたのだと思う。
一年、二年と過ぎて、もう十年。
『病院、着いたよ』
昼前、太陽がまだ真上まで登っていない時間。
僕は母が入院していたような大きな病院を視界の中心に置いていた。誰かの見舞いに行くことなど母以来だ。
『受付してきて。病室で待ってるから』
緋夏から連絡が返ってくると、中に入って受付を済ませる。面会許可証を首にかけ、緋夏が入院する病室へと向かった。エレベーターで七階まで登り、病室の案内を見ながら歩いていく。目的地に着くと、迷うことなくドアを開ける。すると僕の視界に手を振る緋夏の姿が映った。抱えていた不安がひとまず安心に変わる。
病室は大病室のようでベッドが六つもあった。満床で他はカーテンが閉まっていたり、新聞を読むお爺さんがいる。
緋夏の病床は入って一番右奥。僕は緋夏に手を振り返しながら近づいた。
「加賀美くん、来てくれてありがとう」
近づくなり、緋夏はニコッと笑った。いつも通りの笑顔に胸を撫で下ろす。
「とりあえず元気そうでよかった。もう大丈夫なのか?」
「大丈夫。今日の夕方には退院する予定……立ってないで座りなよ。ゆっくり話そ」
言われた通り、僕はベッド横にあったパイプ椅子に座った。冷房がよく効いていて座ると心地が良い。
懐かしい感覚。
目を合わせると緋夏は柔らかく微笑む。
「外、暑かったでしょ。汗だくじゃん」
「悪い。急いで来たから」
「こっちこそごめんね。授業終わり?」
「ああ、必修だけ受けてきた」
「お疲れ様。今日に限って、雲ひとつない良い天気だから困りものだね」
緋夏の視線につられて、背後にあった窓から外の景色を見る。空はたしかに雲ひとつ浮かんでいない。
そこで世間話が終わり、会話が途切れる。空を眺めて沈黙を長引かせた後、ようやく緋夏の方を向いた。緋夏はただ俯いていた。
「良ければ、何があったのか教えてくれないか? 大変だったことはわかるんだが……」
「うーん、どこから話そうかな」
「土曜日の夜は何ともなかったのか?」
「そうだね。倒れたのは日曜日の朝だから」
緋夏はぽつぽつと話し始めた。
「土曜日は家でずっと二人の面倒を見てたの。その時は体調悪いかなー、くらいだったんだけど夜に酷くなっちゃって、加賀美くんとやり取りした後はすぐに寝た。寝たら治るだろうって思ってたから。でも朝に起きたら起き上がれないくらい酷くなってて……無理やり起き上がったらそのまま倒れちゃったの」
最初は明るかった声色はだんだんと暗くなっていく。緋夏の表情からは笑顔が抜け落ちていた。
「次に起きたら、病室で月曜日の夕方だった……笑えないよ」
緋夏は掛け布団を強く握り締める。手元を見たまま、小さく肩を震わせている。どう言葉をかけたら良いのか、わからない。
「きっと待っててくれたよね。ごめんね」
「謝らなくていい。こればっかりはどうしようもないだろ」
「どうしようもない……そう、かもね」
緋夏は言い終えると、黙り込んだ。
「本当に気にしなくていいから」
当たり障りのない言葉を投げかるが返ってこない。緋夏の耳に届いている様子はなかった。気まずさは、誰かが新聞紙を開ける音を鮮明にさせている。
沈黙に耐えかねた僕は緋夏に質問を投げかける。
「結局、原因は何だったんだ?」
「大したことじゃないよ。連日の疲れ」
「ずっと働いてるもんな。今はゆっくり……」
「って、言えたらよかったんだけどなー」
緋夏はため息まじりに含みのある言い方をする。手を前に突き出して体を伸ばした後、僕を見た。
「今から言うこと、弟たちには内緒ね。私の秘密」
緋夏は息を吸い、言った。
「私さ、あと一年ちょっとしか生きられないみたいなの」
耳に入ってきた言葉は現実を疑わせるにはあまりにも十分だった。緋夏が無理に浮かべる表情が記憶の中の母と重なる。
「一年ちょっとしか……生きられない?」
「うん。倒れたのも病気のせい。高校卒業と同時に余命宣告を受けてさ、遺伝性の病気で父親が持ってた可能性が高いんだって。自分の人生に笑うしかないよね、本当」
「……前に言ってた秘密って余命のことだったのか?」
「そうだよ。いつかは打ち明けようと思ってたの。驚いた?」
「驚いたも何も……そりゃあ驚くだろ」
緋夏は僕の反応を見てクスッと笑う。僕は嘘でも笑えそうになかった。好きな人が余命宣告を受けていると知って、容易には受け入れられない。
「手伝えることがあったら……言ってくれ。何もできないけど」
あの時と同じ。
「加賀美くん」
僕は無意識に俯いていた。名前を呼ばれて顔を上げると、緋夏は胸の前に一冊のノートを掲げていた。緋夏がノートを突き出したので、僕は受け取った。
『死ぬまでにすることリスト』
表紙には黒ペンでそう書かれている。
「……これは?」
「私が死ぬまでにやらなきゃいけないことをまとめたノート。もしよかったら手伝ってくれないかな」
「僕が? もっと他にいないのか?」
「ふふ、さっきまで手伝うって言ってたのに」
「僕なんかでいいのかってことだ。友達とか、もっと他にいるだろ」
「友達はいないよ。高校生の時はずっとバイトしてたから。恋人もいないし、頼れるのは歩夢くんだけ」
頼られるのは素直に嬉しい。僕が頼られるほどの存在ではないことを除けばの話だ。それでも僕が断れば緋夏は一人で行動しなければならない。
一人には、させたくない。
「普通は断りたいだろうし、断っていいよ。あと一年で死ぬかもしれない人間とは関わらない方が……」
「手伝うよ。このノートに書かれてること」
「加賀美くん、よく考えてから結論……」
「考えた。手伝うよ」
緋夏は即答した僕を見つめて何度か瞬きする。
「でも一個だけ条件がある」
「何?」
「加賀美くんじゃなくて、下の名前で呼んでくれたら手伝う」
僕は真面目な表情をしながら言う。少し間をあけたあと、緋夏は吹き出した。
「ぷっ、ふふ、加賀美くんって意外に頑固?」
「また苗字呼び。僕だけ緋夏呼びはずるいだろ」
「もしかしてずっと気にしてたの?」
僕が頷くと緋夏はさらに笑う。目に涙が出るほど笑っている。
不満を表情に出すと緋夏は笑うのをやめた。
「じゃあ……歩夢くん!」
いざ名前で呼ばれると、緋夏の目を直視できない。同時に笑みも隠しきれなかった。
「これでいい?」
「……ああ、手伝うよ」
「でも本当にいいの? 私、歩夢くんに迷惑はかけたくない」
「いいよ。手伝う。それに……デートもまた誘っていいか?」
アタックせずに失恋するなどこちらからお断りだ。
「……うん。ありがと」
緋夏は視線を逸らしながらも礼を述べた。
「ちなみにやらなきゃいけないことって具体的に何だ?」
手伝うとは言っても内容によって役に立てる自信はない。僕は手元のノートを開けようとする。緋夏は僕が中身を目にする前にノートを取り上げた。
「恥ずかしいから見るのは禁止。手伝ってほしいことはその時に言うから」
「……もし見たら?」
「ちょっと怒る。歩夢くんがノートを見るのは私が死んだ後かなー」
「反応しづらいジョークはやめてくれ」
緋夏は悪戯っぽい笑みを浮かべるが、笑えない冗談である。
正直、まだ飲み込めていないことも多い。それでもノートの内容を手伝うだけで緋夏の笑顔が見られるなら容易い。あの時の罪滅ぼしにもなるなら断る選択肢はなかった。
それから緋夏と世間話をしながら過ごしていると看護師の人が緋夏の昼食を持ってきた。スマホを見れば十二時を過ぎている。
「歩夢くん、お昼は食べたの?」
「まだ食べてない。買ってこようかな」
「うん、一階にコンビニがあったはずだよ」
「何かいるか?」
「じゃあ私の好きそうなものを一つ、買ってきてもらおうかな。歩夢くんのチョイスが気になる」
僕は承諾し、大病室を出た。
緋夏の好きそうなものと言われても見当がつかない。病気の件もそうだが、僕はまだ緋夏のことを知らない。もっと知っていきたいし、だからデートもしたい。緋夏が治るまで隣にいたいとも思う。
僕は訳もなく息を漏らしていた。感情がごちゃ混ぜ色になっている。
緋夏の好きそうなものを恭平か陽平に聞けたらな、と考えながら廊下を歩いていた時だった。聞き慣れた声が耳に入ってくる。
「おにい、ごめん」
「だから陽平には怒ってない。イライラしてるだけだってば」
声の正体は恭平と陽平だった。二人は七階のエレベーター付近にある公共のスペースで椅子に座っている。
「あれ、恭平と陽平もお見舞い?」
「……兄ちゃん」
恭平は顔を上げる。今日の恭平は不機嫌が前面に出ていた。
「そうだよ、お見舞い。兄ちゃんも?」
「ああ、さっき行ってきた」
「ふーん……働き過ぎで倒れるとか、姉ちゃんも気をつけろよな」
恭平は貧乏ゆすりをしながら呟く。やはり病気のことは知らせていないらしい。知る事になるのは病気が悪化した時か、二人が大きくなった時だろう。もし二人が知る前に緋夏が亡くなったら、と考えるだけで胸が痛む。
「兄ちゃん、なんでそんな微妙な顔してるの?」
「それは恭平も同じだと思うんだけど」
「別に微妙な顔してないし、不機嫌でもない」
恭平は言いながら、突き放すような言い方で口も髪型と同じくらい尖っている。僕は丸テーブルを挟んで二人の向かい側の椅子に座った。
「自販機で何か買ってあげようか?」
「別にいらない」
二人の後ろには自動販売機が数台設置してある。飲料の自販機やアイスの自販機など種類は豊富。子供なら好きそうだが見向きもしない。
「何かあったのか?」
僕が聞いても恭平は答えない。すると隣にいた陽平が代わりに答える。
「おにい、がっこーでともだちとげーむしてたらまけちゃったの」
「それで拗ねてるのか」
「違う。カードゲームで負けたのは事実だけどそういうことじゃねえよ」
「……にせかーど、わたしたのおこってる?」
「にせかーど?」
「俺が持ってないディアクレスヘラクレススーパーハイマー初号機を相手が持ってて、それで負けた。陽平に話したらカードを作ってくれたんだ」
「ディアクレス……?」
「一番強いカード」
恭平はポケットから一枚の紙切れを取り出す。しわくちゃになっているが、陽平が作ったカードのようで長方形の紙切れの中にキャラや文字が鉛筆で書き込まれていた。大部分を占めているのがドラゴンの絵だ。描くのが難しいだろうがドラゴンだとはっきりわかる。前足の部分が描き込まれていて、陽平の絵は前よりも格段に上手くなっている。
「これはこれでありがとう」
「えへへ、どーいたしまして」
兄に頭を撫でられた陽平は嬉しそうに顔を綻ばせた。カード程度なら買ってあげないこともないなとスマホで調べれば一番安いカードで三万円もする。五万円や十万円も珍しくない。
「……高いな」
「うん、パックで引かないとゲットできない」
恭平の機嫌は治る気配を見せない。放っておいたら治りそうだが不機嫌の恭平を見るのは緋夏が可哀想だ。
「よし、カードは買えないけど、コンビニのものくらいなら何でも買ってあげよう」
「何でも?」
「……買える範囲で。行く?」
二人は同時に頷いた。そうして二人を連れてコンビニまで向かう。
単発バイトで稼いだお金がまだある。新しい英語の教材に充てるつもりだったが子供二人に奢るだけの余裕はあった。
「おにーちゃん、おかねあるの?」
「ちょっとだけな。もうすぐ夏休みだから短期でバイトしようとも思ってるし……二人の夏休みはいつからなんだ?」
「来週」
「早いな。そういえば今日は学校ないのか?」
「よくわかんないけど、半日授業だった」
「ひさしぶりにおかーさんにおくってもらったの!」
陽平は無邪気に笑いながら右手でチョキを作る。何だか、段々と二人が自分の弟であるかのような錯覚がしてくる。
「兄ちゃんも今日は大学ないの?」
「あるにはあるけど自由が効くからな。小学校みたいに毎日、授業に出なきゃいけない訳じゃない」
「姉ちゃんみたいにバイトも……できる?」
「ああ、もちろん。大学と言わず、高校生になったらできる」
顔を上げていた恭平は足元を見て考え込む。どうしたのかと尋ねる前にエレベーターが一階に到着した。歩いて、コンビニへと向かう。
コンビニは病院内にあるとはいえ広く、品揃えが良さそうだった。
僕は入り口にある緑のカゴを手に取って、コンビニ内をふらついた。二人には買いたいものがあれば好きに入れてくれと伝えており、今はデザートコーナーで何やら話し合っている。
「緋夏の好きそうなもの……の前に、おにぎりかな」
先ほどからお腹が鳴っている。緋夏に聞かれたくはないので自身の昼食を先にカゴの中に入れた。おにぎり二つとチキンは後で頼む予定だ。
緋夏に買うものはデザート系がいいだろうか。喫茶店で働いているので甘いものが好きなイメージがある。コーヒーの可能性も捨てられない。
「いや、難しいな」
迷ったものを全て買ってしまう手もあるが邪道な気がする。面白くないと言われてしまいそうだ。
「どうしたの?」
「緋夏におつかいを頼まれてるんだけど、俺のチョイスで買っていいらしいから悩んでる」
「全部買っちゃえばいいじゃん」
「面白みに欠けるし、手持ちの金が足りない」
恭平は選び終えたようでチョコケーキをカゴの中に入れた。犬の形をしていて有名なケーキ屋とのコラボ商品らしい。少し高い気もするが問題はない。
「これだけでいいのか?」
「うん、大丈夫」
陽平も後から一冊の本を抱えてやってくる。そしてカゴの中に入れた。
「本?」
僕はカゴの中の本を手に取り、表紙を見てみる。
『おとこのこの描き方』
表紙にはデカデカとしたカラフルな文字でそう描かれていた。子供向けのお絵描き教材らしい。お菓子を選ぶと思っていたので意外だ。値段を見てみれば二千円超え。ケーキを優に超えている。
「本当にこれでいいのか?」
「うん!」
元気良く答える陽平の目はキラキラと輝いていた。
「……何でもいいか」
悩んだ末、僕も緋夏に買う商品を手に取った。僕が選んだのはプリンだった。食後に食べたいもので考えた時にアイスかそれ以外のデザートかで迷ったのだが、アイスだと寒すぎる。大病室は冷房がよく効いていた。それ以外のデザートで考えた時、緋夏にプリンを作ってもらったことを思い出したのだ。
コンビニで商品を購入した後、三人で緋夏の病室に向かった。戻った頃には緋夏は昼食の半分を食べ終えていた。
「おかえりー。二人も連れてきてくれたんだ」
「エレベーターのところにいたから、ついでに」
「ありがと。さて、歩夢くんは何を選んできたのかな?」
「期待はしないでくれ」
僕はコンビニ袋からプリンを取り出そうとする。すると恭平が僕より先に袋に手を入れてプリンを取り出した。何食わぬ顔でパイプ椅子に座り、付属のスプーンで食べ始める。
「あ……おい」
「歩夢くん、もしかして二人にも何か買ってくれたの?」
「そ、そうだけど」
「ありがと。やっぱりお兄ちゃんだ。あとでお金払うね」
「一人っ子……だけどな。お金はいいよ。奢るから」
「じゃあ今度、何かでお返しする」
緋夏の笑顔と言葉を前に恭平に物申すことができなくなる。どういう意図でプリンを盗んだのかはわからないが、緋夏には恭平が選んだケーキを渡すしかない。
僕は袋からケーキを取り出した。するとケーキを見るなり、緋夏はベッドから身を乗り出す。
「え! これ! 限定発売のやつじゃん! 私がずっと欲しかったやつ!」
「……そうなのか?」
「うん! 昨日、売ってなかったから売り切れたものかと思ってたのに……本当ありがと! チョイスいいね!」
緋夏は両手でケーキを受け取る。緋夏の見せた反応は予想とは違っていた。こんなにも喜ばれるとは思っておらず、内心では困惑している。
「ちなみに恭平が食べてるプリンと悩んでたんだけど、そっち選んでたら?」
「あー……私、プリン苦手なんだよね。嫌いじゃないんだけど」
僕は恭平に視線を移す。恭平は得意げな笑みを浮かべていた。
それから十三時過ぎまで四人で時間を過ごした後、僕は大学に戻った。退院する夕方まで一緒にいたかったが大学の授業を優先してほしいと緋夏に言われたからだった。
「……歩夢くん」
帰り際、緋夏は僕を呼び止める。
「ありがとね。あとこれからよろしくね」
僕に見せた緋夏の笑顔はどんな名画よりも磨きがかかっていた。
七月も終わりかけの頃、大学が夏休みに入った。
念願、というわけではないが休みがもらえるのは嬉しい。部活やサークルに入っていないので夏休みはバイトで潰す予定だった。留学のために資金を整える必要がある。父は負担すると言っているものの、頼ってばかりはいられない。
あとは緋夏の手伝いもしなければならない。しばらくは期末テストがあったので会うことさえ難しかったが、夏休みはいくらでも会って手伝うことができる。あわよくばデートにも誘いたい。
「……って、夏休みが始まったばかりの頃は考えてたっけな」
気がつけば、夏休みが始まって一週間。夏休み前とあまり変わり映えのない日々を過ごしている。
「バイトお疲れ様。いつものミルクティーです」
「ありがとう」
午後の喫茶店、緋夏はミルクティーを机の上に置く。
バイトが終わった後、僕は緋夏の働く喫茶店で英語の勉強をするようにしていた。緋夏と会う時間を減らしたくなかったからだ。
それに夏休み中は恭平と陽平が学童にいるので話す時は緋夏と二人きり。緋夏のスケッチも進んでしまう。夏休みになっても学童に行くのはかわいそうだと思ったが、友達と遊べたりして充実しているらしい。
「バイトはどう?」
「プールの監視バイトだから暑いけど楽だよ」
「そっか。私も残りの時間、頑張らないとなー」
「頑張れ。二人が待ってる」
「歩夢くんも……待っててくれるでしょ?」
「あ、ああ、もちろん」
「ふふ、じゃあ頑張らないと」
緋夏は僕の心臓を鷲掴みにしてから他の客の元へ注文を取りに行く。
可愛い、と口が滑ってしまいそうでいつも怖い。
緋夏が働いている間はスケッチをしたり、英語の勉強をして時間を潰している。たまに目が合って、微笑まれる時はスケッチの方が捗る。
営業時間が終わるまで喫茶店で過ごした後は外に出て緋夏を待った。
「お待たせ。ごめんね、片付け遅くなった」
「大丈夫。じゃあ行こう」
夕暮れの道を二人並んで歩いていく。
デート、ではない。学童まで緋夏の弟たちを迎えにいくだけ。
「毎日、一緒に迎えに行ってもらってありがとね」
「全然。提案したのは僕だし、緋夏といる時間を増やしたいから」
「え……」
僕は前を向きながら何気なく言葉にする。しかしいつまで経っても返事が返ってこない。緋夏を見てみると、なぜか顔を背けていた。
「どうした?」
「う、ううん、一緒にいる時間を増やしたいってストレートに言われたから……ちょっとびっくりしただけ」
緋夏は髪をいじり、顔は背けたまま。僕は自身の発言を振り返ってみる。途端にただでさえ暑い体の芯から熱が襲ってきて、収まらなかった。
「わ、悪い。そういう意味……で、ではあるんだけど……!」
僕が焦っていると緋夏は顔を赤ながらも笑い出した。羞恥は消えない。でも緋夏の笑いが心の中に明るい色を付け足してくれる。
「よくわからないけど、ありがと。私、この時間が癒しになってる」
「なら、よかった」
「歩夢くんは優しいね。私のためにも弟たちのためにも、感謝してる」
「何もしてないけどな。ノートだって手伝えてないし」
「あれは……ううん、気にしなくていいよ。手伝ってほしい時に言うから」
遠慮しているのだろうか。緋夏の力になりたい気持ちは大きい。
その気持ちも後々から伝えたい。
「あと、忙しいのはわかってるけど……デートの件は考えといてくれ」
一度誘うと二度目はさらっと言葉に出せた。
「改めてなんだけど、デートの相手が私でいいの?」
「僕は緋夏と行きたい、って思ってるから」
奥手だった自分が放つ言葉とは到底思えない。けれど緋夏の余命を聞いてから甘えたことも言ってられなくなった。
あの時と同じ自分はもう嫌だから。
「う、うん……時間は作り、ます」
緋夏は珍しく不器用に笑った。
他愛もない話をしながら学童まで歩いて、二人を迎えに行った。
「おねーちゃん! おにーちゃん! ただいま!」
陽平は姉を見るなりすぐにダイブする。緋夏は陽平を受け止めて、抱きしめた。
一方、恭平は思春期なのか姉には抱きつかない。側から眺めている。
「今日は姉ちゃん、元気そう」
「何言ってるの? いつも元気だよ。」
「……でも兄ちゃんがいる時は明らかに元気」
恭平は僕に視線を配る。話が掴めずにいると恭平は僕のお腹を殴った。
「殴られる必要あった?」
「何となく」
「年上を何となくで殴るんじゃない」
恭平は無邪気に笑った。緋夏に視線を向けると、恭平と僕から目を背けるように小学校の校舎側を眺めていた。
「……夏休みが始まってからもう三週間なんだが」
カレンダーを見て、一人呟いた。夏休みが終わるまでちょうど半分。
変わると思っていた日々は変わらず、ノートを手伝ってくれとも言われなかった。
何より、デートに誘っても予定が空いていないと言われ、緋夏との関係が何も進まないまま時間だけが過ぎているのである。
『大丈夫か? 疲れてるなら休んでくれ』
『ううん、平気。みんなそう言うけど、心配しなくて良いからね』
みんな、と言っている時点でおそらく弟たちにも気づかれている。顔色に疲れが見える緋夏を僕は黙って見守ることしかできない。
倒れてから、緋夏はずっと焦りを感じているようにも見える。何に焦っているのか知りたいのに知れない、もどかしい時間が続いていた最中のことだった。
『今日、バイトかな? 終わったら私の家に来れたりする?』
バイト中に緋夏からメッセージが届いていた。
緋夏はバイトがないのだろうか。
何はともあれ、家に誘われたことは初めてだった。一言だけ返事を送り、バイトが終わったらすぐに緋夏の家に向かった。当然、髪と服は整えた後である。
一度行ったことがあるので場所は覚えていた。迷うことなく緋夏の部屋の前に着き、インターホンを鳴らす。中から物音がした後、出迎えてくれたのは恭平だった。
「兄ちゃんだ。入っていいよ」
「お邪魔します」
玄関で靴を揃え、恭平に続いて歩く。リビングは一段と騒がしく、物音や陽平の笑い声が聞こえる。恭平がリビングのドアを開けると、目に飛び込んできたのは緋夏が陽平を肩車している光景だった。
「いらっしゃい、歩夢くん。見ての通り、手が離せないからとりあえず楽にしてて」
「おねーちゃん、次はあっちー!」
陽平に指示され、緋夏はドタバタと動いている。
「いつもこんな感じなのか?」
恭平に聞くと、かぶりを振った。
「でも昔はこんな感じだったよ。兄ちゃんは俺とカードゲームやろ」
「もしかして僕を呼び出したのって恭平?」
恭平は何も言わずにただニヤつく。緋夏と会えるなら何でも良かったので心の中で感謝しつつ、カードが並べられた机に座った。
「兄ちゃん、カードゲームはやったことある?」
「一回もないな」
「えー……」
「そう言われても」
「教えるから一緒にやろ」
ルールも何もわからないので教えてもらいながら、早速ゲームを進めていく。デッキというものがあるらしく、いまいちわからない。
俺が恭平に指示されながらカードを並べていた時のことだった。リビングではしゃいでいる緋夏と陽平が机にぶつかった。机が大きく揺れ動く。
恭平が物申そうとして立ち上がるが、陽平が口を塞ぐように緋夏の肩から兄に攻撃。
「あたっーーーく!」
兄はカードを持ったまま弟に倒され、床にカードが散乱。カードだけではない。部屋の様子だけ見ると大惨事である。今日はいつにも増してこの家族のテンションが高い。僕は恭平に怪我がないことだけ確認して、カードを拾い始めた。緋夏も陽平を下ろして、謝りながらカードを拾おうとした。
偶然、緋夏の足元に一枚のカードがあった。
「あ……」
緋夏は綺麗に足を滑らせる。倒れる先には恭平と陽平がいる。
当たれば誰かは間違いなく怪我をする。危ない。二人の横に立っていた僕は咄嗟に片腕を伸ばして緋夏を受け止めた。
「……危なっ。大丈夫か?」
緋夏の方を見る。顔が何だか近い。自身の腕を見ると、どういう訳か緋夏の背中に手を回して緋夏を抱き寄せていた。
今、誰が緋夏を抱き寄せているのかと聞かれれば、多分、僕なのである。
「わ、悪い! 反射的に!」
僕は緋夏から離れようとした。状況的に仕方がなかったが嫌がられてもおかしくはない。しかし緋夏の手もまた僕の腰回りにあった。離れられず、そのままの態勢で固まる。
近くで見る緋夏の顔は思った以上に整っていた。
絵に描けないほど質感の良いさらさらとした黒髪。
鉛筆が乗りそうなほどに長いまつ毛。
何度もスケッチに描き込んだ、潤んで澄んでいる瞳。
純粋な薄桃色をした唇と透き通った白い肌、いつもよりも紅潮した頬。
描きたい、という感情よりも触れたいという感情が湧き立って仕方がない。
緋夏は頬を赤ながら、逸らしていた視線を僕に向ける。僕の方が身長が高いので上目遣いの構図。柔軟剤とシャンプーの混ざった甘い匂いが思考を麻痺させる。
時が止まったかのようだった。このまま彼女の頬に、唇に触れられたら。
「あ、歩夢くん……」
空いた片手が空気をかき分け、指先は緋夏を捉えている。そして、インターホンが鳴り響いた。
一気に現実に戻り、お互いに離れる。恭平と陽平も僕たちを見て、固まっていた。
「あの……あり、がとう」
「ど、どういたしまして。それよりインターホン出なくていいのか?」
「そうだ、出なくちゃ」
緋夏は小走りで玄関に向かった。インターホンを押したのは下の階の人だった。騒がしいから注意を受けたとのこと。
その後は何事もなかったかのように四人で部屋の片付けを始めた。気まずさも羞恥も気づけば無くなっていた。ただ、あの瞬間の高揚感だけは残り続けていた。
部屋の片付けが終わった。今度は恭平と陽平が二人で遊び始め、僕と緋夏は椅子に座りながら二人を見守る形になった。
「あー、疲れたー」
緋夏は手を伸ばしながら机にもたれかかる。その手が僕の腕に触れたかと思うと、すぐに引っ込んだ。緋夏の頬はまだ少し赤い。
「緋夏、さっきは……ごめん」
「う、うん、気にしないで。私も……ごめん。歩夢くんに触れられて、ちょっと固まってた」
沈黙が流れる。二人のはしゃぎ声だけが部屋に響いている。
「あ、歩夢くんって、誰かと付き合ったこととかあるの?」
「……急だな」
「い、嫌なら答えなくてもいいんだけど」
「恥ずかしながら、経験はない。絵ばっかり描いてたから」
「そうなんだ、意外かも。もっと慣れてるのかなって思ってた」
「……なんで?」
「優しい、から?」
緋夏は首を傾げながら答える。僕は思わず笑ってしまった。
「理由になってないな」
「たしかに」
理由はなくても慣れていると思われたのは良かった。緋夏の前では格好をつけたい。
「緋夏は、恋愛経験あるのか?」
美人で可愛い。一人くらいはいるだろう。
しかし緋夏の答えは予想とは真逆のものだった。
「ないよ。誰とも付き合ったことない」
「……告白されたことは?」
緋夏は首を横に振る。
「好きになったことは?」
「ある、かも?」
「そりゃあそっか。でも意外だな。可愛いし、モテそうなものだけど」
緋夏に好意を向けられた人が羨ましい。僕だったら緋夏のような異性に好意を向けられて、逃したくはない。机の一点を見つめながら、緋夏に好意を向けられた男性に嫉妬していた。すると緋夏が小声で呟いた。
「……ほら、そういうところ」
机から緋夏に視線を移すと、緋夏の耳はなぜか真っ赤に染まっていた。頬杖をついて口元を隠しているが、おそらく顔全体も赤くなっている。
「どういうところ?」
「さらっと可愛いって……言ってくるし」
僕は自身の言動を振り返る。たしかに可愛いと言った気がする。目の前の緋夏の反応を見るに、本当に言ったのだろう。
「もしかして褒められるのに耐性なかったりする?」
「わからないけど……恥ずかしくはなる」
緋夏は顔を逸らす。
褒めると照れやすい。
また一つ、緋夏のことを知っていく。前に可愛いと言ったら笑われた覚えがあるが、強がりで笑っていたのだと思うと可愛いとまた言ってみたくなる。
「……な、何? 歩夢くんがそんなにニヤニヤしてるところ初めて見たんだけど」
「わ、悪い。でもちょっと嬉しかった」
「もう……からかいすぎ」
緋夏は可愛らしく口を尖らせた。
たまにからかってくる癖に自分がからかわれると少し拗ねる、子供っぽい一面もあるらしい。また一つ、緋夏の新しい一面を見れて、口角は上がりっぱなしだ。
「そういえば話は変わるけど今日はバイトがないのか?」
「本当はあったよ。でも学童に行かせようとしたら、朝から二人が遊べ遊べーって、聞かなくて」
「珍しいな。いつも行ってるのに」
「そうなの。一日くらいはいいかなって思って、三人でこうやって過ごしてる……何ヶ月ぶりだろ」
緋夏は遊んでいる二人の方を見て微笑む。姉の言うことをよく聞く二人がわがままを言うとは意外だ。
ふと、僕は心の中で引っ掛かりを覚える。僕がデートに行けないのはまだいい。二人と遊ぶ時間すら緋夏にはないのだろうか。家庭事情でバイトを忙しくするのはわかる。しかし一日の休息もなく働いているのだとしたら、ただでさえ弱っている体を壊してしまう。
「兄ちゃん、アイス買ってきて」
考え事をしていると、恭平が近づいてきた。今日は一段とわがままだ。
「なんで僕が?」
「冷蔵庫にアイスがなかったから」
「僕だけが行く理由を聞いてるんだが……何がいい?」
僕は思考を中断して立ち上がった。コンビニは近いので面倒というほどではない。
「かき氷みたいなアイス!」
「ぼくはばにら!」
「緋夏は?」
「私は大丈夫。一緒に行こっか?」
「二人を見ないといけないだろ。買ってくるから」
「ごめんね。ありがと」
僕は財布を持って、緋夏の家を出る。外の熱気に蒸されながらコンビニで四人分のアイスを買った。要らないとは言っても緋夏も二人と遊んで、汗をかいていた。
しかし緋夏の家に戻った頃には配慮もコンビニに行った意味もなくなっていた。
「……寝てる」
全員が眠っていた。恭平と陽平はテレビの前に置かれた低い机に、緋夏は食卓として使われている机に突っ伏して寝ている。起きる気配はない。
冷凍庫にアイスを入れた後、緋夏の前に座った。
緋夏は片方の腕に頭を預けている。寝顔がよく見える。僕はスケッチブックを取り出し、緋夏のスケッチを始めた。
緋夏の寝顔を見るのは初めてだ。相変わらず可愛らしい。顔を見るたびに心臓が大きく鳴る。それでも手を止めずに描き続けていく。
輪郭、髪、目、鼻、口、肌の質感。
腕を描き、ボールペンを描き、腕の下に敷かれたノートを描く。
「……ボールペンとノート?」
描き始めてやっと、僕は緋夏が何をしていたのかに目を向けた。寝顔に見惚れていたが、ノートに何かを書いている途中で寝落ちしたようだ。ノートはやらなければならないことリストとはまた違う大きさをしている。一回り小さい。
「ん……」
緋夏は一瞬動く。起きたのかと驚くが緋夏は眠り続けた。緋夏がいる位置は冷房が直当たりしている。寝心地も悪い上に体が冷えてしまう。恭平と陽平は日に当たっていてむしろ暑そうだ。冷房の向きを変え、ソファにあったブランケットを緋夏に被せた。
そのついでにノートの中身を覗いた。ノートはびっしりと文字で埋め尽くされていた。
内容は一日のルーティンだった。
七時に起床して、家事の手伝いや二人を学童に送り届けてバイトに行く。十八時に家に帰って、夜ご飯を作って二人に食べさせる。
ここまでは僕も知っている緋夏のルーティンだ。知らなかったのはその後だった。
緋夏は夜ご飯を食べて二人を寝かせた後、夜勤に行っていた。帰るのは深夜の三時過ぎ。
不思議と納得が言った。デートに行けなかった理由、恭平と陽平が姉にわがままを言った理由。
緋夏の寝顔を見る。無性に腹が立った。緋夏にも、自分にも。
『頑張り屋さん』
その日、僕は初めて緋夏のスケッチにタイトルを付けた。
結局、三人は十七時を過ぎても起きなかった。二人はともかく、緋夏は起きなくて当然。寝なければ、体は寝ようとする。
買ったアイスは冷凍庫に入れた旨を置き手紙に書いてから、緋夏の家を後にした。
『ごめん! 寝ちゃってた! アイスありがとう』
緋夏からのメッセージが届いたのは日を跨ぎかけた遅い夜のことだった。取り掛かっていた課題の油絵を中断して、スマホを開ける。
『今起きたの?』
『起きたのは二十時くらい。お母さんが帰ってきて起きた』
『じゃあだいぶ寝てたな』
『うん、おかげで寝れない』
緋夏から犬のスタンプも送られてくる。スタンプの犬は前足で頭を抱えていた。
画面の向こうで笑っている緋夏が想像できる。
『じゃあ今から電話とかどう?』
すぐに既読がつく。ただ、メッセージは数分間帰ってこなかった。緋夏の声が聞きたい、と送りかけたのを削除する。目標の書かれた張り紙が冷房の風でペラペラと捲れていたので、テープで補強しながら返信を待った。
『いいよ』
緋夏に電話をかけるとすぐに繋がった。
「おはよう。ぐっすり寝てたな」
『……恥ずかしい。ほんっと、ごめんね』
「緋夏が疲れてるのは知ってる」
『ありが……』
「けど、どうしようか。呼び出されたのに寝落ちされちゃったからな」
『……私が悪いんだけどさ。今日の歩夢くん、なんだか意地悪じゃない?』
緋夏から拗ねたような声が返ってくる。僕は笑い声で返すだけだった。
意地悪なのは自覚がある。けれどやらなければならない。
『寝落ちしたのは……ごめんね。次から気をつけるから』
「謝罪はいらない。けど一個頼まれて欲しいことはある」
『何?』
「デート」
たった三文字。途端に電話から声は途絶える。
何度目の誘いだろうか。今回もきっと断られる。だから意地悪になる必要があった。
『ごめん。今は忙しいから。あと一ヶ月ぐらい経てば……』
「もう待たない。来週の日曜日」
『……三日後じゃん』
ノートには土日の予定も書いてあった。土曜日は病院の後に夜勤バイト。日曜日は昼にキャンプ場でバイトをして、夜はまた三時までバイトが入っている。昼はともかく、夜はやめさせないといけない。
「正直、俺はもう待てない。夏休みが明けたら忙しくなると思うから。来週の日曜日でも無理だったら、緋夏との関係は続けたくない」
嘘だ。続けたい。振られても一緒にいたい。けれど意地悪にならないと緋夏は断る。いつかまた倒れる。
しばらくの沈黙の後だった。緋夏は弱々しい声で答えた。
『……今まで断ってごめん。来週の日曜日、空けとくね』
「ありがとう」
『やっぱり今日の歩夢くん、意地悪』
「そりゃあどうも」
『褒めてないんだけど』
口調的にも緋夏は怒っている。それでも了承してくれるのだから多少の申し訳なさはあった。
「じゃあ夜も遅いし、おやすみ」
『待って。もしかしてデート誘いたくて、電話しただけ?』
「ああ、それだけ」
緋夏の声が聞きたかったという理由は伏せておいた。すると電話越しに緋夏の笑い声が聞こえてくる。
『そっかー。だいぶ待たせちゃってごめんね』
「謝らなくていい。行く場所は前に予定してたところで大丈夫だよな?」
『うん、大丈夫』
「わかった……じゃあ、おやすみ」
『おやすみ。デート、楽しみにしてるね』
そうして緋夏との電話は終わった。最後は笑って、終われた。
口が寂しくなって、パレット横に置いたミルクキャラメルを頬張る。最後の一個だったからか、いつもより甘い。僕はおやすみの後の緋夏の言葉に胸を掴まれながら、ベッドにダイブした。椅子に座っていられない。横になると、余計に心臓の音が聞こえた。
僕は何度もデートの三文字を頭の中で唱える。今度こそは緋夏との初デートに行けるだろう。
壁の張り紙を油絵越しに見つめ、妄想に耽る。
「怒った緋夏の声も……ちょっと可愛かったな」
僕は枕を抱きしめ、眠ることもできず、油絵にも取りかかれない夜の時間を過ごした。
日曜日、デート当日。
デートが決まった後の時間の流れは相変わらず早く、気がつけば待ち合わせ場所の駅に着いていた。待ち合わせの時間は十時。流石に暑いので、待ち合わせ場所は駅舎内の自販機の前に変わっている。
今は九時四十五分。待ち合わせ時間五分前。
『おはよう。倒れてないから安心してね』
今日は朝の七時ごろ、緋夏からメッセージが送られてきた。ユーモアある挨拶に、僕は朝から安心していた。緋夏とのやりとりを見返しつつ、彼女を待つ。スケッチができるような精神状態ではない。
九時五十分。あと十分。
僕は内カメで身なりを確認する。服装はデートに行きそびれた時に来た服なので悪くはない。昨日、美容院で髪も整えてもらったばかり。
緊張をほぐしていた時だった。
「歩夢くん」
緋夏の声が聞こえた。彼女は手を振りながらこちらに近づいてくる。スマホをしまい、僕も手を振る。しかし彼女が近づくにつれて、僕の時間は止まっていった。
現れた彼女は西洋の名画に描かれる天使そのものだった。僕では表現しきれない存在が愛嬌を振りまいて近づいてくる。
「お待たせ。ちょっと遅かったかな?」
「いや、俺が早すぎただけだから……全然……」
「本当だ。まだ十分前だもんね」
緋夏だとわかるのは声だけ。雰囲気と容姿は別人。
「歩夢くん、髪切ったんだ。似合ってる」
「あ、ありがとう……緋夏も、いつもとは全然違うな」
緋夏は白のデニムを着用し、インナーを白でまとめている。天使のような純潔さがそこにはあり、ピンクカラーのシアーシャツを羽織ることで女性っぽさも演出している。バッグは緋夏がいつも愛用している犬柄の白いトートバッグだが、服装も相まって似合っている。
バイト終わり、もしくは家にいる緋夏のラフな格好しか見たことがなかったので、ギャップに心底驚かされている。
「いつもと違うって、いい意味?」
「……もちろん。大人っぽくて、驚いてる」
「ふふ、ありがと。ちょっと頑張った」
僕の鼓動はすでに、素直に褒める余裕を奪うほど荒ぶっていた。
「ちょっと早いけど行く?」
「そうだな。行こう」
緋夏から顔を逸らすようにして改札へ向かう。電車の時間まであと五分。少しだけ時間がある。
「……お手洗いだけ行ってきてもいいか?」
「わかった。待ってるね」
緋夏は自然な微笑を浮かべる。いつもなら何も思っていないだろう。けれど今は緋夏がどんなに些細な動きをしようと、緋夏から目を逸さざるを得なかった。顔と体が暑くなって、まともに喋ることさえ出来なくなりそうだった。
軽い会話をしているうちにデートへの緊張は薄れていった。電車に揺られること二十分。美術館の最寄り駅に到着した。
プランとしては午前に美術館、その後はデパートに移動して昼食を摂り、午後からデパート内の犬カフェで犬と戯れる予定になっている。
「歩夢くんって、美術館はよく行くの?」
「頻繁ではないけど、たまに行くな」
「趣味が美術館巡りの人って、ちょっと格好良いよね」
緋夏との会話を楽しみつつ、美術館に着いた。美術館は大きな公園の隣に位置していた。正面はガラス張りで白いコンクリートに囲われおり、その周りには植物や木々が生えている。自然の中にある美術館は緋夏にとって、格好良い、らしく入る前からテンションを上げていた。
中に入ると左手にチケット売り場があり、並ぶことなくチケットを購入しに行く。
「大学生の方はおひとり様、五百円になります」
チケットは大学生なら半額だった。二人で千円なら安い、と考えていたのだが、学生証の提示が求められたところで気づく。緋夏は大学生ではない。
「すみません。やっぱり一般料金二枚分でお願いします」
「では、二千円になります」
僕は財布から千円札を二枚取り出し、引き換えにチケットを二枚もらった。一枚を緋夏に手渡す。緋夏は目をぱちぱちとさせた。
「……いいの?」
「何が?」
「払ってくれたこともそうだし、歩夢くんは一般料金で払う必要なかったのに」
「僕だけ半額とか、何となく嫌だったから。お揃いの方がいいかなと」
「ふーん、そっか」
緋夏は手元のチケットを見つめる。
「ありがと」
緋夏は顔を上げると同時に笑顔で言った。僕は照れくさくなって、視線を逸らした。
チケットを見せて、二人で中に入る。日曜にも関わらず、中は空いていた。人は少なく、ほぼ二人きり。チケット売り場から察してはいた。
「美術館ってどう回るの?」
「僕は順番に歩いてる。説明とか読みながら、写真撮ってもいいやつは撮ったり……動物の展示だけ興味あったら、飛ばしてもいい」
「ううん、順番に見よ。他の絵も見てみたいから」
緋夏の要望通り、順番に見ていくことにした。紙と木が混じった美術館特有の匂いに包まれながら二人で進んでいく。
最初のエリアは地図と説明だけが書かれており、作品の展示エリアは次からだった。
展示エリアは大きな立方体に閉じ込められたかと錯覚する空間で、四辺には絵が飾られていた。一辺に数枚の絵が一定間隔で並べられており、展示は動物を主題に取り上げた絵画が多い。他の洋画や彫刻も十分に展示されていた。緋夏は感嘆の息をこぼしながらそれぞれの展示品を見ていた。
「習作ってどういう意味?」
緋夏はある洋画を前にして、囁き声で聞いてくる。このエリアには監視員以外に誰もいないので、驚くほど静かな雰囲気に二人とも飲まれていた。
僕も小声で答える。
「習作は練習用の作品とか、スケッチとか」
「ふーん、これが習作とは思えないんだけどなあ」
緋夏を悩ます絵画の額縁には鳥が一羽ずついる四枚のスケッチが収められていて、タイトルの最後には習作と書かれている。たしかに習作の出来とは思えない。
「習作の英語はスタディだからな。生物観察の意味合いもあるんじゃないか?」
「じゃあ納得かも。詳しいね」
時々、僕が解説をしながら作品を見ていく。フランスの風景画やドイツの画家が描いた肖像画など、緋夏は作品を一つずつ、熱心に見ていた。流し見するだけかと思っていたので素直に嬉しくなる。
「芸術家って、堂々と下半身描くよね」
ヌードが主題の作品を熱心に見ていた時はどう反応すればいいかわからなかったけれど。
「歩夢くんって、どんな画家になりたいの?」
緋夏がそう問いかけたのは人物画を二人で眺めていた時だった。
「どんな……か。海外で活躍する画家になりたいな」
「おお、歩夢くんの夢?」
僕は頷く。画家を志望したのも、美大に入ったのも、約束と夢を叶えるため。
海外で活躍する画家になる。
「歩夢くんってどんな絵を描いてるの?」
「恥ずかしながら決まってない。大体の美大生って、表現したいものとか決まってるんだけどな。そういうのもないし」
「じゃあ私を描けばいいじゃん」
緋夏は表情を変えずに言った。冗談なのか、本気なのか。
「緋夏を絵にして欲しいのか?」
「うん、私を描いて欲しい。何でもいい」
「ノートの内容だから描け、とは言わないんだな」
「私は歩夢くんに心を込めて描いて欲しいの。描かされたんじゃなくて、描きたいって思って描いて欲しいな」
緋夏は目の前に飾られた絵画の女性のように、朗らかな笑みを浮かべた。
「だって……この絵、素敵だと思わない?」
緋夏と眺めている人物画は画家の婚約者を描いたもの。この美術館が売りにしている画家は動物だけではなく、風景や人の作品も数多く残している。この人物画もそのうちの一つ。
「愛が絵になって、ずっと現実に残ってる。それが素敵だと思うの」
緋夏が絵に向ける視線は、向けてはいけない憧れのように見えて仕方がなかった。
「……僕よりよっぽど、美大生してる」
「え? 私?」
「絵がずっと現実に残るから素敵だとか、あんまり考えたことなかったから」
「そっかー、私センスあるのかー」
緋夏は得意げに胸を張った。胸のラインが強調され、目のやり場に困った僕は視線を移した。その先にあったのは一枚の水彩画だった。人物と室内が細かく描かれており、ベッドの上で横たわった女性がこちらを見ていた。
「歩夢くんは天国って、どんなところだと思う?」
僕は続けて難しい質問を投げかけられる。一方、緋夏は僕の顔など見ておらず、視線の先に風景画を捉えていた。水彩画の横にあった絵画だった。
三分割構図で奥に山を置き、真ん中に湖、手前には枝垂れ効果を用いて木が描かれている。手前と真ん中の間にはリス、ネズミ、猫など天敵だろうが関係なく動物が集まっていて、周りを植物で彩っている。ただ、早朝なのだろうか。全体としてぼかされている。瞬きをすれば消えてしまいそうな絵画。
「さあ。こんなところだったらいいと思うけどな」
僕は曖昧な回答でしか答えることができなかった。
天国の想像など、今はしたくもない。
「次、行こう」
「そうだね。次は何かな」
最後のエリアは現代アートと日本画がメインだった。現代アートは空いた穴に顔を覗かせて、影で飾られた空間を眺めるものだった。
「現代アートって、やっぱりよくわからないかも」
緋夏の呟きに内心では賛同していた。
最後のエリアを抜け、そのままお土産コーナーに入った。中よりも人は多く、カップルらしき人々も腕を組んでお土産を眺めている。
流石に手はまだ繋げないか。
「どうしたの?」
「いや、その、何か買うのかなと思って」
「じゃあお揃いの物を買おうよ」
「あ、ああ。いいけど……いいのか?」
「ふふ、よくわからないけど、私は歩夢くんとお揃いが良いな」
素直に言われて、断るわけがない。お土産を楽しみながら見つつ、お揃いで買う商品を一緒に探した。
店内のカップルがいちゃついているからだろうか。僕も緋夏とデートをしているという実感がようやく湧いてきた。
手を、つなぎたい。
「緋夏」
勇気を出してみることにした。声をかけ、緋夏はこちらを向く。僕は若干、上目遣いの彼女を見て、心臓が舞い上がる。緊張しながらも息を吸い、言った。
「……この、犬のキーホルダーとかどう?」
やはり僕は勇気が出せなかった。代わりに取ったのは展示品をキーホルダーにしたグッズ。緋夏に見せると、彼女は気に入ったようだった。
「いいじゃん! お揃いでそれ買おう!」
「あ、ああ、俺買ってくるよ」
「ううん、私が払うよ。チケット奢ってもらったし」
「いや、今日、誘ったのは俺だから」
「歩夢くん、大学生でしょ。私はフリーターなの、お姉さんなの」
「その理論は無理がある」
今日くらいは緋夏に払うつもりだった。しかしお互いに譲らないので僕は折れる。
「じゃあお揃いのキーホルダーをそれぞれ買う、でいいか?」
「うーん、いいけど」
緋夏は微妙な顔をする。二人でレジに並んで、緋夏が笑顔になったのは購入した後だった。
「ふふ、お揃いだね」
押しに弱いと思っていたが、意外に頑固な一面もあるらしい。緋夏はキーホルダーをトートバッグに付け、僕は家の鍵に付けた。二人で一緒のものを買うのも悪くない。
美術館を出た後はデパートに移動して、昼食を摂った。場所はファミレス。事前に二人で決めていたところだった。
ここでも奢る奢らないの言い合いが発生した。最初に僕が一括で払い、緋夏からの支払いを拒否したのだが、どうしてもと聞かない。結局、僕は緋夏からの支払いを受け取った。
「歩夢くんって頑固だよね」
「……そっくりそのまま返したい」
「じゃあ今日はもう奢ったり奢られるのは無し。お互いの料金はお互いで払うこと」
「それがいい」
言い合っても、二人で笑い合ってもいるのだから不思議である。もっとも、緋夏が笑うから僕も笑顔になれる。本当によく笑う明るい人だ。緋夏の印象は初めて見た時から変わらない。
今は緋夏の笑顔を間近で見ることができる。二ヶ月くらい前なら夢には思っていても、現実になるとは思っていなかった。
「どうしたの? 歩夢くん、何か考え事?」
二人でデパート内をぶらついていると、緋夏が心配そうにこちらを見る。会話が途切れたままで繋ぐことを忘れていた。少し、気まずかっただろうか。
僕は気持ちをすぐに切り替える。
「いや……何でもない」
「そっか。私の方を見てたから何か言いたいことでもあるのかなって」
一瞬、僕は緋夏の手に視線を移す。華奢で真っ白な手。
「緋夏って、ある程度のミスだったら許してくれるか?」
「ミス? 小さなことだったら……」
緋夏が言い終える前に、僕は右手で緋夏の左手を握った。恋人繋ぎではなくとも手を握っている事実には変わりがない。
「手が……滑った」
緋夏は呆気に取られたような顔をする。僕は怖くなって前を向いた。同時に、手が握り返される感覚がした。もう一度、緋夏の顔を見ると、彼女の表情は和らいでいた。
「嫌だったら離してもらってもいい」
「ううん、私も手が滑った。だからお互い様だね」
緋夏はニッと笑って、はにかむ。それから少し距離を縮めた。
今だけは筆の代わりに緋夏の手を握っていたいと思えた。
犬カフェに向かったのは手を繋ぎながらぶらついた後だった。
昼食が消化された頃、二人で中へ入る。時間入れ替え制だったが、受付に行くとすぐに通してもらえた。並んでいなかったようで、中には三人家族と大人の男女二人がいたくらい。午前は混んでいたらしいのでデートプランとしては上出来だったわけである。
「はわ、わんちゃんだ! おいで!」
犬の待つ店内に入るなり、緋夏は真っ白のサモエドをわしゃわしゃと撫で始めた。
ここは犬カフェの中でもサモエドカフェなので、真っ白のサモエドかミックスしかいない。壁の色も真っ白で床は思ったよりも清潔だった。犬特有の匂いが漂っているが、視界が可愛いで埋め尽くされているせいでそれどころではない。
「うう……可愛い……!」
顔を埋める緋夏に対して、犬も自身の体を擦り付ける。先ほどから僕の足元を歩いている犬もいる。人懐っこい犬が多そうだ。
足元の犬を撫でようとしたところで、犬は緋夏の元へ向かった。僕は小さく肩を落とし、目に入った座席スペースに座る。僕が座った横にも犬はいた。綺麗な黒目と鼻をこちらに向けている。背中を撫でようとすると犬はまたどこかへ行った。
犬は可愛いと思うがスケッチしたいというほどではない。
「はわー、犬パラダイス……よしよし、いい子いい子、可愛い……!」
真っ白のサモエドを撫でる緋夏ならスケッチをしたかった。犬と遊ぶちょっと子供っぽい緋夏も絵になる。
座って緋夏を見ていると、彼女はこちらを向いた。
「羨ましいの?」
突然、僕は心の中を読まれる。心臓がドキリと鳴る。
あくまでも無表情で僕は答えた。
「い、いや、別に」
「犬にモテてる私が羨ましいんでしょ」
「……そっちか」
緋夏は見せつけるように三頭の犬を撫で付ける。単なる勘違いだったらしい。犬に嫉妬する自分もバカらしくなってくる。
安心したのも束の間、
「歩夢くんも撫でてあげよっか?」
と、緋夏は揶揄うように言った。やはり心の中を読まれているのだろうか。僕は笑って返した。
壁に視線を移してみる。白い壁には犬たちの名前や説明が貼られていた。リン、シズ、しのぶ、こはねなどの名前の下には性別や特徴が書かれている。明るく、静か、元気溌剌、おとなしいなど、性格も多種多様。犬は犬と一括りで考えていたので何となく申し訳ない気持ちになる。
誰が誰かはわからない。犬にモテないので、顔と名前を一致させるゲームで無理やり楽しむことに決めた。すると緋夏は犬を引き連れて僕の隣に座った。
「触ってみる?」
「じゃあ……」
僕はゆっくりと手を伸ばす。犬はまた、触れる前に僕たちの元から去っていった。もう一頭にも手を伸ばすが同じ。緋夏はクスッと笑った。
「ごめん。離れてった」
「歩夢くん、何だか可哀想」
「……犬に嫌われる体質なのかもな」
緋夏のもとに残ったのは一匹だけだった。緋夏が座った時から彼女の膝の上でくつろいでいる犬だ。今は愛おしさが感じられる。でも触れば、きっと逃げてしまう。
「触っていいよ。気にしないで」
察したのか、緋夏はフォローしてくれた。僕は最後の一匹に手を伸ばす。毛に触れ、そして体に触れた。ふわっとしていた。
「感想は?」
緋夏の髪も触ったらこんな感じなのだろうか。
「可愛いな」
「でしょ。犬はやっぱりいいよね」
二人で犬を撫でる。犬は膝の上で気持ちよさそうにしていた。段々と、この犬の名前が気になってくる。壁に貼られた犬の写真と名前を見るも、当てられる自信はない。
「この犬の名前って何だろうな」
「ぺぺくんだって。可愛い名前でしょ?」
緋夏は壁を見ることなく即答した。膝の上の犬とぺぺの犬写真を見比べれば、たしかに一致している、ような気がする。犬を愛せばわかるものなのかもしれない。
「そういえば緋夏が昔、買ってた犬の名前って何なんだ?」
緋夏は一拍置いて、答えた。
「……ぺぺだよ。同じ名前なの」
緋夏はまた一呼吸おいて、
「病気で死んじゃったんだけどね」
と、犬を撫でながら呟いた。
犬カフェを出たのは十五時半ごろだった。帰るにはまだ早い時間。これからのプランは決めていない。
「まだちょっと早いな。カフェとか入るか?」
犬カフェと名前は付いてもカフェではない。実際、お茶を一杯飲んだだけだった。小腹は空いている。
「それもいいけど……ちょっとだけ付き合って欲しいな」
何に付き合うのか尋ねる前に、緋夏はトートバッグから一冊のノートを取り出す。以前、緋夏が病室で見せてきたノートだった。
「手伝ってくれるんだよね?」
「もう忘れかけてた。あれこれ指示されると思ったら、全然何も言われないし」
「本当は私一人でもやれることだからね」
緋夏は僕の手を取り、引っ張る。デパート内を二人で歩いて、着いた先はカードショップだった。大きめのカードショップでショーケースに多くのカードが並べられている。カードの種類も豊富だ。恭平が来たら大興奮で見て回りそうな店だった。
緋夏はそのまま中へと進み、ショーケースの中身を確認しながら回った。
「何しようとしてるか、もうわかる?」
「緋夏にカードゲームが趣味があったとは、初耳だな」
「違うかも。恭平にやらされてるからハマりつつあるけどね」
弟思いの緋夏のことなので大方、察してはいる。
「プレゼントか?」
「うん。このカードを欲しがってたから」
緋夏はスマホで目当てのカードを僕に見せる。名前からして強そうなカードだった。思い返せば、以前、恭平が欲しいと言っていた気もする。
カードが多いので店員さんに聞き、案内してもらった。
「こちらになります」
お目当てのカードは一つだけ違う雰囲気を纏っていた。一番上の棚の中央に置かれていて、金色に光り輝いている。
値段は七万円。
「お買い上げになるときは言ってください。鍵を開けますので」
店員はどこかへ去っていった。二人でカードを見上げる。
「買うのか?」
「……恭平がね。このカードを持ってる友達に負けたんだって。すっごくレアで強いカードなんだって」
質問に答えることなく、緋夏はぽつぽつと語り出した。
「泣いてた。今は学校で一番弱いらしいの。私の治療費でお金がなくて、全然カードを買ってあげられないから」
「そっか」
「でもね、あの子、文句もわがままも滅多に言わないの。小学生なのにお兄ちゃんだからって我慢して、私の代わりに陽平の面倒も見てくれてる。本当はお姉ちゃんの私が二人の面倒を見ないといけないんだけどね」
緋夏はショーケースに一歩、近づく。他者がお金のことに口を挟むべきではない。それでも、緋夏はこのまま七万円のカードを買ってもいいのだろうか。
「ノートの内容って何なんだ? 恭平にプレゼントを買うことなのか?」
「弟たちにいっぱいプレゼントを買うことだよ。クリスマスプレゼントとか、誕生日プレゼントとか、ずっと我慢させてたから。買いたいって言ったもの、私が死ぬまでに全部買ってあげるの」
緋夏はショーケース越しにプレゼントに触れる。買うのだろう。僕は反対しない、つもりでいた。
「死んだ後にもサプライズとか用意したら、前を向いてくれるかなって」
緋夏は無邪気に笑いながら言った。途端に、僕の意見が覆った。
なぜ緋夏が笑えるのか僕には全くわからなかった。自分が死んだ後のことなど考えたことがない。でも一つ、たしかに言えることはある。
『歩夢は本当に絵を描くのが好きなのね。これ、あげるわ』
子供の頃、母がボールペンをくれたのをいまだに覚えている。最近まで、緋夏と初めて会う日まで使っていたからだった。だからあの日、緋夏を一目見た時、一目惚れで運命だと思った。
「だから夜勤とかしてるのか?」
気づけば、僕は口を開いていた。
「……知ってたの?」
「緋夏の家に上がった時、机にノートが広がってたから」
「勝手に見ないでよ」
「ごめん。それで、いつも何時まで働いてるんだ?」
「……二時とか、三時」
「お母さんは許してくれてるのか?」
「嘘ついてるから。友達と遊びに行ってるって。もう大人なんだから夜遊びくらいさせてよって……無理やり。夜勤だって知ったら、絶対に許してくれない」
「そうだろうな」
僕がもし親なら絶対に許さない。けれど夜遊びなら納得してしまう。もうすぐ死ぬのだから好きにさせてよ、と言われれば何も言い返せない。
「ねえ、お願い。夜勤のこと、黙っててくれないかな。お母さんとは面識ないだろうけど、弟たちにも」
「嫌だな」
「……なんで?」
緋夏は困惑したように眉をひそめる。ショーケースからも半歩下がった。緋夏のお願いならいつも聞き続けてきた。緋夏のためになると思ったから。今、緋夏がしていることは緋夏のためになるとは思えない。弟たちのためにもなっていない。
「お願い。いっぱいプレゼント買ってあげたいの……二人のお金、貯めないといけないの。私が死んで、かかるお金を少なくしたいの」
「何を言われても嫌だな。夜勤を続けるなら母親にチクる」
「なんで……なんで、最近の歩夢くんはそんなに意地悪なの?」
緋夏の表情がだんだんと曇っていく。
「退院してから、一日も休みなしで働いてただろ。休んだのは弟たちに休めって言われた時だけ」
「……歩夢くんには関係ないじゃん」
「関係ある。無理して、倒れるのは緋夏の方だ」
「倒れたって、私はどうせ死ぬ! ちょっと早死にしてでも……!」
緋夏が声を張り上げると、周囲の視線が僕たちに集まる。ワードが物騒だったこともあって周りの呟きは増していった。
「緋夏、外で話そう」
僕は緋夏の手を引いて、店の外に出た。座れる場所を見つけるまで、僕たちは無言だった。偶然、閉まった店の前にソファがあった。周りに人はいない。他の場所より冷房も効いている。二人で座り、僕は緋夏の方を向く。緋夏は俯いていた。
「悪いけど、夜勤を続けるなら言うつもりでいる」
「……ほんっと、意地悪」
緋夏に憎しみのこもった声で言われる。心が痛い。
嫌われても、意地悪でも、緋夏は休ませないといけない。
「歩夢くんには関係ないじゃん」
「そうだな。関係はないかもしれない。けど、緋夏のやろうとしてることは間違ってる」
「何それ、意味わかんないよ。本当だったら今日も働いて、お金稼げてた。プレゼント一個でも買えてた。歩夢くんが意地悪言って、デート行かなかったら、本当は……!」
緋夏は言い切る前に言葉を止めた。顔を上げて、僕の表情を見たからだろう。
「……ごめん。さっきの発言はなし。本音じゃない」
「本音でも気にしない。意地悪でデートに誘ったのは僕だから。元々は緋夏を休ませたくて誘ったから」
「気にしなくていいよ、私のこと。どうせ死ぬもん。だらだらと生き続けるより、家族のために稼げるだけ稼いで死んだ方がマシだから」
「その思考が間違ってるって言ってるんだ」
「っ……歩夢くんにはどうせわかんないよ!」
緋夏は声を荒げる。緋夏の涙が床に飛び散った。
「クリスマスにサンタさんから欲しいものが届かなかった時の気持ちも! 誕生日プレゼントがしょぼいケーキだけだった時の気持ちも! サンタさんに期待するのをやめて、プレゼントを望まなくなった時の気持ちも! 全部、全部! わかんないでしょ!」
顔を上げて、僕に怒りをぶつけようとする緋夏は泣いていた。膝の上で拳を握りしめ、眉尻を下げて、拳に涙を落とす緋夏の表情からは怒りより悲しさしか伝わってこなかった。
「そうだな。わかってあげられない」
「だったら……!」
「でも弟たちが望んでいないことはわかるよ」
緋夏の言葉は全部、弟たちの気持ちの代弁だとすぐにわかった。だから僕も緋夏の気づいていない弟たちの気持ちを、僕がわかっている恭平たちの気持ちを代弁しなければならない。
「どれだけプレゼントを贈っても、死んだら全部呪いになる。サプライズで死んだ後にプレゼントしようものなら尚更。体を張ってするようなことじゃない」
「それはあなたが欲しいプレゼントをずっと貰えてきたから言えることでしょ……」
「違う。緋夏はわかってない」
形見は乾き切った絵の具と同じ。心にへばりついて取れなくなる。心のキャンパスを彩って、人生を豊かにしてくれる時もある。逆に、心を黒一色に染める時もある。
「少しは想像してくれ。仮に緋夏が死んだとして、大好きな姉からもらったカードを使うたびに姉の顔が思い浮かぶんだぞ。これ、姉ちゃんからもらったカードだなって……姉ちゃん、もうこの世にいないんだもんなって、ずっと思い続けるんだぞ」
「じゃあ……私はもう、どうすればいいの……わかんないよ」
緋夏の怒りは消えていた。ただただ涙を流していた。手渡したティッシュで涙を拭いながら、緋夏は震えた声で喋り続ける。
「私には、もうこれくらいしか……やれることがないの……私は最後まで二人のお姉ちゃんでいてあげたいの。ずっと育ててくれたお母さんに……死ぬまでに親孝行してあげたいの」
「何もお金を稼いだり、プレゼントすることが悪いとは言ってない。体を張ってまですることじゃないって言ってるんだ」
「だから私は……!」
僕は緋夏の手を両手で包んだ。
「……めっちゃ濡れてる」
思わず、そう呟いた。沈黙の後、緋夏は少しだけ笑った。
「誰が……泣かせたと思ってるの」
「ごめん。けど夜勤はもうやめてほしい。緋夏のためにならない」
「私のためって言っても……私はいいよ」
「次、夜勤したら緋夏が困るほどギャン泣きするから」
緋夏は真っ赤な目で僕を捉えた。口がポカンと開いていた。
そして、また少しだけ笑った。
「何それ」
「緋夏はもっと自分を大切にしてほしい。それが弟たちの気持ちなんじゃないのか? だからわがまま言って、緋夏を休ませたんじゃないのか?」
「それは……じゃあ、私はどうすればいいの」
「生きればいい。緋夏が生きたら全部解決する」
「無責任で意地悪な答えだね」
「いいや、そうでもない。俺が言いたいのは最初から死ぬつもりで生きるなってことだ」
綺麗事かもしれない。それでも僕はまた笑った緋夏が見たい。
「もっと家族と思い出を作ってくれ。死ぬつもりだとしても、弟たちにとってはこれが緋夏と過ごす最後の夏休みなんだ」
「歩夢くん……私……」
緋夏はまだ涙を流す。見過ごしていられなくて、気持ちよりも先に手が動いていた。僕は彼女を抱きしめた。
「これから緋夏が全力で生きるって言うんだったら、僕は手伝う。夢があるんだったら、応援する。海とか川とか、やりたいことがあれば一緒にするから」
「私だって、本当はもっとやりたいことあるんだよ……?」
「知ってる」
「手伝って欲しいって言ったら、歩夢くんは手伝ってくれるの……?」
「もちろん」
「死ぬまでだよ?」
「何十年後だろうな」
「やっぱり……意地悪……」
緋夏は僕の胸でしばらく泣き続けた。僕は緋夏が泣き止むまで、彼女を腕の中に収めた。こんなにも泣いている彼女に何もしてあげられない自分が嫌になる。それでも今、やっと甘えてくれたことが嬉しかった。
「ありがと、落ち着いた」
体が暑くなってきたところで、緋夏は僕から離れる。目も頬も赤色の絵の具で塗られていた。
「泣く予定はなかったんだけどな」
「頑張りすぎてたんだよ。しばらくは休んだほうがいい」
「……うん」
緋夏の表情は随分と柔らかくなっていた。涙を出して落ち着けたのだろう。
「夜勤やめるかどうかは、考える。でも歩夢くんの言うとおり、弟たちとの時間が取れてなかった。全然……気づかなかった」
「自分の時間も、な。夢があるなら追いかけたらいい」
「じゃあ獣医師免許の勉強でもしようかな」
「……獣医師になりたいのか?」
緋夏は髪をいじり、恥ずかしそうに頷いた。獣医師。意外、というわけでもない。
「動物好きだもんな」
「それもあるけど……昔、飼ってた犬が病気で死んじゃった時に獣医師になりたいって思ったんだ。お金がなくて、諦めたんだけどね」
「いいんじゃないか? 治った後なら職についたほうがいいしな」
「ふふ、そうだね。治った後のことを考えないとね」
緋夏は僕を見つめながら、笑った。目元には涙の最後の一滴がついていて、僕は人差し指で彼女の涙を拭う。彼女をキャンバスに描くなら涙は不要な要素でしかない。
緋夏は一瞬だけ驚いた顔をするが、もう一度、笑顔を見せた。
「まだ目が赤いと思うから、もうちょっとだけゆっくりしていい?」
「もちろん。今日は緋夏がゆっくりする日だ」
「……デート行かなかったらとか、さっきは酷いこと言ってごめん」
「気にしてない」
「ありがと。優しいね、歩夢くんは」
体を壊すほど家族のために頑張れる緋夏。気にかけているだけの僕。どちらの方が優しいかと聞かれれば間違いなく緋夏だ。
「ちなみに緋夏の本音は?」
「心の底から楽しみにしてたよ。誰かと遊びに行くなんて久しぶりだったから」
緋夏は言い終えて、僕の右肩にもたれかかる。僕は右を向く。緋夏が僕の肩にいる。当然のようにもたれかかっている。
彼女の感触が肩から心臓に伝わって、急に荒ぶり始めた。先ほどは勢いで抱きしめたが、素に戻るとスキンシップには慣れない。
「時間はまだあるから、あとでカフェ行く?」
「あ、ああ、緋夏が行きたいなら……」
「じゃあ行こ。まだ……一緒にいたい」
緋夏が僕の肩にもたれかかっている。望んでいた時間のはずが、いざ手に入ると怖い。
「……スルーされると傷つくんだけど」
「わ、悪い。スルー?」
「もうっ。何でもない」
緋夏は顔を上げて、拗ねた子供のように頬を膨らませる。けれど気にしていない様子でまた僕に体を預けた。
「歩夢くんって、もしかして鈍感?」
「なんでだ?」
「何でもない。それでも……ううん、むしろそれでいいんだけどね」
「そっか」
「ねえ、歩夢くんのこと困らせていい?」
「……いいけど」
「歩夢くんって、私のこと好き?」
「もちろん、好きだ。じゃなかったら今日も誘ってないし」
「……へ?」
「え? ……あ」
自身の発言に気がついた瞬間、頭がフリーズした。夢のような時間だったので頭の中にモヤがかかっていた。心の中を隠す余裕などなく、馬鹿正直に答えてしまったようである。人はパニックになりすぎると、他人事に感じるらしい。
ひとまず落ち着こうと、緋夏の方を見れば顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせていた。
「い、いや、これは、その……」
「そ、そっか。もちろん、なんだ」
「……はい」
もはや否定のしようもなく、素直に頷く。告白したのと同じではないか、と思ったが、これが告白なのも嫌だった。
「なので、好き……です。付き合ってください」
僕は緋夏に頭を下げた。不思議と緊張はしなかった。ある意味、振り切れていて、隠す気持ちはもう何も残っていない。
しかし中々、返事は返ってこない。顔を上げると、緋夏はそのままの体勢でフリーズしていた。
「た、ただ困らせるつもりだったんだけど……」
「緋夏が、困ってると」
「……うん」
「質問がずるいし、緋夏が悪い」
「それは……わかってるけど」
緋夏は綺麗な黒髪をくるっといじりながら、目を逸らし続けている。
可愛いな、と思った。目の前にいる女性は誰だろう。僕の好きな人である。
「ご、ごめん」
あっさり断られた。
「そっか。いや、悪かった」
「ち、違うの! 返事待って欲しいって意味のごめん!」
緋夏は慌てて訂正する。
「私、恋愛とかしたことなくて、頭の中がまだ整理できてなくて……ちょっとだけ、待ってほしい」
「いいよ、待ってる」
「……ありがと」
「質問したの、緋夏だけどな」
「そ、そうなんだけど……い、意地悪……」
緋夏は真っ赤な表情に困ったとでも言いたげな色も加える。
「も、もう行こっ。ここ、ちょっと暑い」
ここより涼しい場所はない。にも関わらず、緋夏は立ち上がった。僕も荒ぶった心臓を抱えて立ち上がる。
二人で歩き出すと、緋夏が手を握ってきた。意図してなのか、無意識なのか。それほど長く、返事を待ちきれる気はしなかった。
緋夏とデートに行った日を境に、彼女は夜勤を辞めた。バイトの数も減らし、弟たちと過ごす時間を増やすようになった。前より顔色が良くなって可愛くなった気もしている。恭平や陽平は姉の元気な姿を見て、よく笑うようになった。何でもない日々は姉といるだけで思い出に変わる。そして、その時間になぜか僕が加わるようになった。邪魔しては悪い、と言ったが三人が望んでいた。
「おにーちゃんいるとたのしー!」
「兄ちゃんは必須カード」
「歩夢くんがいてくれた方がみんなでワイワイって感じで楽しいかな」
緋夏に言われては仕方がない。多分、僕は満更でもない顔で一緒にいる。
恭平と陽平の夏休みは八月末までだったので時間があまりなかった。空いている日はなるべく出かけるようになった。遊園地、水族館、ゲームセンター、自然公園、海、川。行けるところは全て行った。恭平の要望で大きなカードショップや陽平の要望で画材屋にも足を運んだりした。
緋夏がバイトで溜めたお金はなるべく使わさずに隙を見ては僕が払った。遊園地のチケットをもらったと嘘をついたりして誤魔化した。
あの涙を見てから、ずっと僕にできることを探している。
母の時は何もできなかったから。
「……おにーちゃん、おまつり、はじめて?」
日が暮れた夜の道。三人で歩いていると、僕と手を繋いでいる陽平が聞いてくる。陽平と恭平は子供用の甚平を着ている。僕も一応は着ている。これから夏祭りに行くからだ。
緋夏に至ってはピンク色の浴衣を着て、髪をお団子にしている。三人に誘われておきながら、いつもと雰囲気が違う緋夏を独占したい気持ちはどうしても出てしまう。
「お祭りは初めてじゃないよ。家族とも友達とも、何回か行ったかな」
「ぼくも。でも、おにーちゃんといくのははじめて」
陽平は無邪気な笑顔を見せる。緋夏への独占欲は薄れていった。
「そういえば緋夏の浴衣、可愛いな。さっきも言ったけど」
「ふふ、でしょ? おばあちゃんがお母さんに作った浴衣なの。それを私が受け継いでる」
「いいな」
「将来、もし私に女の子の子供とかできたらあげようかなって」
前を見ながら、緋夏は言った。想像する将来で、緋夏の隣に僕がいることを願いつつ、夏祭りの会場に足を進めた。
会場に着くとすでに多くの人で賑わっていた。家族連れや友達同士、腕を組みながら歩くカップルを見ると、羨ましく思ってしまう。
夏祭りの楽しみと言えば屋台だろう。恭平と陽平にとっては尚更のことだった。二人に連れ回されながら、僕たちは屋台を楽しんだ。射的や金魚掬い、おみくじなど定番の屋台を攻略していく。焼きそばやベビーカステラなど楽しめるものは楽しんだ。
途中、恭平の同級生とも出会った。
「恭平っちは家族で来てるのな」
「今年は兄ちゃんもいたから」
「兄ちゃんなんていたの?」
「ううん、けど兄ちゃん」
「あー、義兄ってやつか。お義兄ちゃんだ」
最近の小学三年生は難しい単語を知っているらしい。どちらにせよ、勘違いされている。緋夏の方を向いたが、顔は見えなかった。
「多分そう」
訂正することなく、恭平は頷いた。しばらく二人の会話が続いた後、同級生は今時の子供らしくスマホを取り出して、言った。
「あ、花火もうすぐ始まるじゃん。じゃあ俺ら行くわ。またな、恭平っち」
「来年は一緒に行こう」
「うん、また誘う」
同級生は恭平に別れを告げて、去って行った。
緋夏がその背中を見ながら言う。
「よかったの? 一緒に行ってもいいんだよ?」
「いいよ、別に。この四人がいい」
「……そっか」
緋夏は恭平の頭を優しく撫でる。陽平も求めたので、姉は二人の頭を撫でた。
「歩夢くんも撫でてあげよっか?」
「からかってるだろ。僕はいい」
「ふふ、冗談じゃないのに」
欲を言えば頷きたかった。
「そういえば兄ちゃんと姉ちゃんって何なの?」
「何なのって、何だよ」
「友達? それとも付き合ってるの?」
僕は緋夏と目を合わせる。告白してからまだ返事を待っている途中だが、説明するのは難しい。友達で誤魔化そうと口を開く前に、緋夏が先に言葉を発した。
「……付き合ってるよ。歩夢くんは私の恋人」
「ふーん、そっか」
恭平は僕に目を向けて、疑おうともしなかった。緋夏が僕の腕に抱きついていたからだった。
「じゃあ俺たちも花火、見に行こー」
恭平は陽平の手を引いて、歩き出す。緋夏は少しだけ立ち止まって、耳元で囁いた。
「遅くなってごめんね。これからよろしくお願いします」
「ってことは……」
「うん。歩夢くんの彼女でいさせてください」
緋夏は頬を赤ながら笑みを浮かべる。
「初めての恋人だし、慣れないこともあるけど……頑張るからっ!」
緋夏の耳は、恋人の頬は、緋色に染まっている。手を伸ばし、触れた。柔らかい。緋夏は嫌がることなく、僕だけを見つめていた。
「僕も頑張る。恋人って頑張るものなのかわからないけど」
「ふふ、たしかに。じゃあお互いに頑張ろう」
二人の方を見ると、屋台で綿菓子を注文している途中だった。まだ少しだけ、緋夏を独り占めしたい。
「ハグ……していいか?」
「お好きにどうぞ。もう私はあなたの恋人です」
堪らず、僕は緋夏を抱きしめた。暖かく、ずっと幸せで、この時間がいつまでも続けばいいのにと思った。
その時、花火が上がった。紅色の花火が、夜空のキャンバスを綺麗に彩っていた。
十月初旬。木の茶色と同化するセミたちが鳴き止んでもいいような季節。街路樹を見れば、まだ彼らはいる。受験期の夏にスケッチしたことが懐かしい。十月とは思えない程の暑さで僕はまだ夏気分を抜け出せずにいた。
喫茶店のミルクティーで喉を潤し、英語の勉強を進めていく。
「お疲れ様、精が出るね」
僕が集中していると、バイト中の緋夏がやってくる。手には白い皿を持っていて、机の上に置いた。皿の上には橙色の丸いクッキーが三枚、並べられていた。
「どうぞ、クッキーです」
「いいのか?」
緋夏が頷いたので、橙色のクッキーを一枚、口に運ぶ。
「……かぼちゃ味か」
「正解。どう?」
「今まで食べた中でいちばんのクッキー」
「ふふ、流石にお世辞がすぎるよ」
「でもかなり美味しい」
「ありがと。私が作ったんだー」
僕はミルクティーを飲んだ後、クッキーをもう一枚、口に運んだ。ほのかに香るかぼちゃの風味とクッキーの甘さがマッチしている。緋夏が作ったと聞いてからおいしさが倍増したのは気のせいではない。
「他のお客さんにも出してみようかな」
「ああ、全然出せる」
「よかった。じゃあこれからも試作品は歩夢くんに食べさせようかな」
「それは嬉しいんだけど、馬鹿舌だから当てにならない気もする」
「大丈夫、店長にも食べてもらってるから。それに……」
緋夏は溜めを作り、目を見て言った。
「彼氏くんには一番に食べてもらいたいからね」
結局、彼女の笑顔の方が甘かった。
「ここで休憩してもいい? 勉強の邪魔かな」
「別に大丈夫だ。僕も休憩しようと思ってたから」
「よかった」
緋夏は僕の向かい側に座る。珍しく、店内の客は僕以外に誰もいない。二人きりの時間ができるといつも心が踊る。
かなり疲れたのか、緋夏は息を吐きながら机に突っ伏した。手を伸ばし、僕のペンだこを何度か突く。
「大学生は大変だね」
「この前の試験、悪かったからな。巻き返さないといけない」
試験、というのは英語の資格試験のことだ。留学する際には英語資格やスコアの提出が求められる。緋夏の病気もあるので留学するかは迷っているが、九月の中旬に受けていた。結果は振るわず。大学での成績がよほど良くなければ、留学に行くのは厳しい。
今度は十一月に英語の試験が二つ。良い点が取れれば行ける可能性は高い。
「私は応援してるから」
「ありがとう。その言葉だけでやる気が出てくる」
「ねえ、もっとやる気、出させてもいい?」
「出してくれるならありがたいけど」
緋夏はペンだこのある僕の中指をいじりながら言った。
「デートしよ」
やる気が出た。
「今週の土曜日、空いてない?」
「空いてる……って言いたいけど、用事があるんだ」
「女の子?」
「それは違う。緋夏以外にいないから」
僕が焦りながら答えると、緋夏はクスッと笑う。他に関わる女性がいないのを知っての質問だろう。少しだけ悔しかった。
「日曜日なら行けるけど」
「ごめん。その日は病院に行かなきゃだから」
「じゃあまた空いてる日だな」
「そうだね。夏休みにいっぱい行ったから、今は我慢しないと」
緋夏の言う通り、夏休みの終盤には緋夏とよくデートに行っていた。ノートの内容も含めて、二人だけの夏の思い出を作った。
恭平と陽平は八月末から学校だったが、大学の夏休みは九月下旬まで。彼女と二人きりの時間が増えて、有効に使わない手はなかった。
「……ふふ」
不意に、緋夏が笑顔を見せた。机に突っ伏しながら、僕の顔を上目遣いで見つめている。
「どうした?」
「何でもない。困ったら……いつでも頼ってね。彼女なんだから」
「そうする。緋夏も頼ってくれ」
「これ以上は頼れないよ。でも、気づかずに甘えちゃうかも」
「いいよ、好きなだけ甘えてくれたら」
そうして会話をしていると、扉についた鈴が鳴った。二人きりの時間はそう長くは続かない。緋夏はすぐに立ち上がり、入ってきた客の元へと向かった。
「ただいま」
土曜日、大学から家に帰った僕は玄関扉を開けると同時に言う。するとリビングの方から聞き慣れた低い声で、おかえり、と返事が聞こえた。
僕はリビングに顔を出す。父は椅子で腕を組みながらテレビを見ていた。ただ眺めているだけのようで、父はテレビに顔を向けたまま、口を開く。
「説明会、どうだった?」
「今から言うよ。資料とかももらってきたから」
父はリモコンを手に取り、テレビを消す。リビングが静けさに包まれる。時計が針を刻む音だけが鮮明に鳴り響いていた。
僕は父と向かい合う形で座る。父は腕組みをやめて、椅子を机に近づけた。父と面と向かって話そうとするのはいつぶりだろうか。恥ずかしさと緊張が入り混じる。
「何か……飲むか?」
「大丈夫。お茶あるから」
「そうか」
父は机の上のコーヒーを一口啜る。沈黙。父は寡黙で自分の口から多くを語らない。一切の会話すらないほど忙しかった受験時代が終わってから、僕も話しかけ方を忘れてしまった。父とは何となく気まずい状態が続いている。
気まずさを紛らわすかのようにバッグを漁り、留学説明会でもらった資料を机に置いた。父は赤縁のメガネをかけて、資料に目を通し始める。
「一年留学プログラムの一次募集が十二月に締め切りなのか。冬休みが始まるまでだな」
父は後ろのカレンダーを振り返りながら言う。僕も父の肩越しにカレンダーを見てみる。予定は何も書かれておらず、今週の金曜日までの日付に赤バツが付いているだけ。横に飾られた花と動物の温かな絵の方が鮮やかだった。
「うん。二次募集が一月までだけど……受かる人は少ないらしい」
「そうか」
会話して、また沈黙。父は黙々と資料を読んでいく。緊張するのは留学の件についてまだ迷っていることが多いからだろうか。
留学は小さい頃に交わした母との約束。果たそうと今まで生きてきて、何の悪戯か、好きな人ができてしまった。好きな人は病気で、余命一年。僕は狭間に立たされている。
「行くのか? イギリスに」
読み終えた父が僕を見る。真剣な眼差しと口調。僕は目を逸らしてしまった。
「もし行きたいって言ったら?」
「お金は出す。留学したいってずっと言ってたから資金は貯めてある」
「ありがとう」
「いや、当然だろう」
父は平然と言い放った。感謝される意味がわからない、とも聞いて取れる。
今度は僕が沈黙した末に言った。
「……来年は、やめようと思う」
「どうしてだ?」
「三年生でもいいのかもなって」
「成績が悪かったのか?」
「前期の成績は良かった。後期は反映されないからあとは英語だけ……英語はもう少し頑張れば何とかなるとは思う」
「そうか」
父とは、大学二年生でイギリスに留学するプランで話をしていた。
緋夏の病気が治らない想像はしたくないが、一年留学に行ってしまえば緋夏の最期には確実に立ち会えない。日本からイギリスは遠く離れている。会えるとしたら緋夏が亡くなった後。永遠の別れを意味する。
寛容の父のことだから何だかんだ許してくれると思い始めた矢先のことだった。
「……ダメだ」
たった三文字。僕の心に画鋲を突き刺す。
「なんでダメなんだ? 二年生で留学ってプランからは外れるけど、二年生も三年生も変わらないだろ?」
僕は早口で捲し立てる。父は変わらず、首を横に振る。
「三年生は就活があるだろう。画家になるとしても、考えなければいけない大事な時期だ。そんな時期に留学など親としてさせられない」
「でも……!」
「短期留学なら好きに行け。でも一年だ。若いうちの一年の価値を見誤ってはいけない」
父の言う通りだった。何も言い返せない。大学二年生に設定していたのは父が言った理由が大半だった。
「歩夢の選択肢は三つある。一つ目は留学を諦めること、二つ目は二年生で一年留学すること、三つ目は短期留学や休暇中に留学すること」
「正直……イギリスに一年留学する以外は考えられない」
「そうか。まだ時間はあるからよく考えろ。英語の試験はどちらにしろ受けるといい」
「留学関係なしにそれは受けるけど……」
「資料は読んだからあとは自分で決めろ」
父はコーヒーを飲み干し、資料を僕に返す。席を立ち、台所で洗い物を始めた。
資料を見つめて結論を出そうとしても、その日のうちに決めることはできなかった。
実の母が病気で亡くなった。小学二年生の時だった。
親馬鹿とも言えるほど子供思いで優しい母だった。僕はそんな母のことが大好きだった。
昔から病気がちだった母は入退院を繰り返しながら生活していた。ごめんね、は母の口癖。ありがとう、が聞きたくて、僕はよく母のために絵を描いた。
「お母さん! あげる!」
「ありがとう。歩夢は絵が上手ね。将来は画家さんになれるかもね」
「うん! 画家さんになる!」
「ふふ、歩夢が何を目指しても私は応援してるからね」
僕の頭を撫でる母の温かな手が、大好きだった。
絵を描き始めたきっかけも母がその手で絵を描いていたからだったと思う。母が白紙に作り上げる世界は温かで、優しかった。人間も動物もみんなが手を繋いでいて、地面にはたくさんの花が咲いていて、美大に入った今でも母の絵は再現できない。特別に上手くはない。でもあんなに温かな絵は母にしか描けない。
描き始めは下手だった。りんごの絵は動きながら描いたのかとでも言いたくなるくらい線が揺れている。人の絵は図形をくっつけて、顔に点を三つ描いただけ。リアルに描こうとして得体の知れないものをよく生み出した。
それでも母に渡せば、いつも笑って受け取ってくれた。
「ごめんね。入院してばっかりで」
「ううん。それよりお母さんにあげる!」
「あら、今日もくれるのね。ありがとう。素敵だわ」
渡すたびに、頭を撫でてくれた。ごめんね、が、ありがとう、に変わった。母の真似事は母を喜ばせたいという思いに変わった。
ずっと描き続けていると、絵も自然に上手くなってくる。母の病気がひどくなって、病院から外に出られないような状態が続いた時、僕の絵は母の目の代わりになった。外の景色をスケッチして、毎日、母に見せていた。
母の描く絵が好きだった。
絵を渡すたびに喜んでくれる母が好きだった。
母が、大好きだった。
「僕、画家になる。留学に行って、海外に行って……僕、お母さんのために描くから!」
「歩夢の夢なら、応援してるよ」
「ううん、約束……約束だもん!」
ある日、僕は母に約束しようと言った。経緯は覚えていない。
子供の頃の僕は絵を描くことくらいしかできず、体調が悪くなっていく大好きな母をただ見ていた。少なくとも絵を描けば笑顔にはなってくれる。特大の絵を母のために描けば治るとでも思っていたのかも知れない。
そして八歳の時、母は天国に行った。
「でもね、歩夢。私はね……」
体が揺れている。意識が鮮明になってきて、耳の中に音が入ってくる。電車がレールの繋ぎ目を通過し、音は一定のリズムで鳴っていた。
次第に感触も伝わってきて、右肩に違和感を感じた。目を開ければ、緋夏が僕の右肩に頭を預けて眠っていた。
体が硬くなっていたので少しだけ動かすと、緋夏の目が開く。僕を見て、眠たそうに目を擦った。
「おはよう、緋夏」
「ごめん。寝ちゃってた」
「僕も寝てたから大丈夫だ」
「よかった……今日は疲れたね」
「そうだな。人も多かったし」
電車の窓越しに夕日を見ながら、一日を振り返る。
今日は緋夏と久々のデートだった。観光がしたいというので遠出して、有名なスポットを巡った。午前は絶景を見るために山を登り、街を一望。昼は老舗の店で和食を食べて、午後からは動物園。日曜日の動物園は人でいっぱいだった。
「歩夢くんとパンダは可愛かったけど、次に行くとしたらマイナーなところがいいな」
「……僕は動物なのか?」
「ふふ、たまにサモエドに見える」
「複雑だな」
「褒め言葉だよ。歩夢くんに会ったら、私のお母さんも同じことを言うだろうなー」
緋夏の母はどんな人なのだろうか。緋夏が母思いの娘である以上、良い人に間違いはない。
母がいる家庭を見ると、たまに羨ましさを感じる。
「……どうしたの?」
「わ、悪い。考え事してた」
「最近の歩夢くん、ぼーっとすること多くない? ちゃんと寝てる?」
「寝てはいるんだけどな」
当然、悩みの種は留学の件。母との約束か、緋夏と最期まで過ごすか。
短期留学は選択肢にない。海外で活躍しようと思うなら不十分な時間だ。今は十月下旬。時間はあるが、結論を出せるだろうか。
「私でよければ話くらい聞くよ?」
「大したことじゃない」
「……私には話せない、かな」
緋夏は上目遣いで僕を見る。ズルだ。断る選択肢を消している。
「悩むっていうか……母親の命日が近づいてるからだろうな」
「お母さん、病気で亡くなったんだよね」
「小学生の時にな。それから父親と二人暮らし」
「大変、だったね。片親の子供の気持ちは、私もわかるから」
「緋夏は……女手一つで育てられたんだよな」
「うん。小学生の時に親が離婚したから」
緋夏の家庭事情は詳しく知らない。緋夏から話すことはないし、こちらから踏み込むようなこともしない。これからも僕から聞くことはないだろう。
「……歩夢くんのお母さんはどんな人だったの?」
「優しくて、落ち着いた人だったな。家族のことをいつも考えてくれてた」
「いいお母さんだったんだね」
「生きてたら緋夏に会わせてあげたかった。緋夏のこと、きっと気にいるだろうな」
もし母が生きていたら。何度も想像して、虚しくなる。けれど実現しようもない緋夏と母の絡みを想像した時は笑みが溢れてしまう。
反対に、父との絡みが想像できない。想像しようとしても挨拶で想像が止まる。
「歩夢くんのお父さんはどんな人なの?」
「寡黙な人だ。緋夏と会ったら、どんな反応するんだろうな」
「なんか……緊張してきた」
「会う予定もないだろ」
「ううん、いつか会いたい。私のお母さんにも歩夢くんを紹介したいな」
「……緊張してきた」
「でしょ? ふふ」
緋夏は笑って、僕の左胸に耳を当てる。向かいに座っていたサラリーマンが僕たちを見るが、視線をすぐにスマホへ下げた。
「……鳴ってる」
「鳴ってなかったら困る」
今は早くなりすぎて困っている。
「だね、安心。私のも確認する?」
緋夏は起き上がり、自身の胸に手を当てた。目のやり場に困って、ひとまず首を横に振った。
「……二人きりの時にな」
「二人きりだったら聞いてくれるんだ」
緋夏はクスッと笑う。そのままの表情で、緋夏は言った。
「私ね、もう死ぬのが怖くないよ。だって誰かさんが一緒にいてくれるから」
「なら……よかった。一緒にいるだけなんだけどな」
「ううん。私、歩夢くんに甘えてばっかりだよ。だから……歩夢くんも、たまには甘えていいからね」
緋夏は自身の胸を数回叩く。僕が苦笑いで返すと、彼女はムスッと唇を尖らせる。
「悩んでたら言って。力になるから」
言葉の代わりに手を握ると、緋夏は満足したように僕の肩にもたれかかった。
お互いの視線の先で、赤い夕日が地平線に沈んでいた。風景は再現できる。でも、再現できないものもあると最近になって知った。
それから数日後のことだった。
十一月に入ってすぐ、緋夏は僕の目の前で倒れた。
緋夏が倒れてから三日。彼女は目を覚ましていない。命に別状はなく、あとは目が覚めるのを待つだけとのこと。
それでも目が覚めなかったら、と一日に二十四回くらいは考える。
一人で授業を受けて、ご飯を食べて、あとは家で過ごす。家では絵を描いて、キャラメルを食べて、また絵を描く。繰り返し。
緋夏がいない日常に戻っただけのはずが喪失感が埋まろうとしない。
「留学の件、決めたか?」
緋夏が倒れた翌日は英語の資格試験があった。父にテストの出来を聞かれて、流れで質問された時、まだ悩んでいると答えるしかなかった。
かれこれ一ヶ月は悩んでいる。しかし今は緋夏の心配で頭が埋まっている。
状況が変わったのは授業を受けている最中のことだった。
『今、起きました。心配かけてごめんなさい』
緋夏からのメッセージを見て、持っていたシャーペンをすぐに置いた。
『よかった。授業が終わったら行くから』
『うん、待ってるね』
病院の住所と病室が送られてくる。前に緋夏が入院していた病院だ。
残りの十五分を落ち着かない気持ちで過ごしたあと、すぐに病院へと向かった。
病室は相変わらずの大病室。緋夏の病床を覗くと、意外にも彼女は元気な顔をしていた。机の上にノートを広げ、教材を見ながら書き込んでいる。
近づくと、緋夏は僕が声をかける前に顔を上げた。
「歩夢くんだ。来てくれてありがと」
「大丈夫……そうだな」
「うん、倒れてただけだから。心配かけてごめん」
倒れていただけ、の感覚はわからないが表情は明るい。ひとまず安心し、パイプ椅子に座った。見舞いの品が入った袋をテレビの横に置こうとすると、今欲しいとねだるので手渡した。
「歩夢くん、私の好みがわかってきたね」
中に入っているのはいちごのケーキと甘すぎない市販の紅茶。緋夏は上機嫌で受け取り、礼を述べた。
「それにしても、私、歩夢くんの前で倒れたんだよね。今更だけど恥ずかしいな」
「流石に驚いた。何ともないようでよかったけど」
緋夏が倒れたのはデートの最中だった。喫茶店が臨時休業で、大学終わりに二人で遊びに行っていた。その帰りのことだった。
「ちょっと黒歴史かも。歩夢くんには身体の面で弱いところを見せたくなかったから」
「いいじゃないか。彼氏なんだし」
「ふふ、そう言ってくれると救われる」
「それに僕がいなかったらって考えると怖い」
「たしかに。歩夢くんは命の恩人だね……いつもありがと」
照れくさくなった僕は視線を逸らす。緋夏は机の上の筆記用具や教材を片付け始めた。
「何を勉強してたんだ?」
「ペットシッターの資格勉強。あったら便利だってネットに書いてあったから」
「目指してるのか?」
「うん。病気が治ったら、なりたいなって思ってる」
「そっか。応援してる」
緋夏は思った以上に先を見据えていた。ペットシッター。動物好きの緋夏にお似合いの職業だ。ケーキを食べるには散らかりすぎた机だったことから、本気度も伺える。
「そういえば恭平と陽平は?」
「平日だから学校だよ」
「じゃあ僕は見舞いに来た一人目なのか?」
「ふふ、そうだよ。お母さんもまだ来てないし」
緋夏は口周りに生クリームを付けながら答える。母親よりも先に緋夏の元気な顔を見れたのは彼氏として嬉しいことだ。
僕は緋夏にティッシュを手渡した。緋夏が口周りを拭いた途端、彼女のスマホが鳴った。
「噂をすれば。もうすぐお母さん、来るって」
「じゃあ僕はお暇しようかな」
「せっかくだから会ってってよ」
「お母さんと?」
緋夏は頷く。邪魔だと思ったので帰ろうとしたが、付き合っているなら挨拶はしないといけない。立ちかけていた僕はパイプ椅子に座り直した。結婚の挨拶でもないのに緊張してくる。
「緋夏のお母さんってどんな人?」
「心配性。だけどいい人だよ」
「緋夏にまとわりつく変な虫とか思われないよな」
「多分ないと思うけど……彼氏紹介とかしたことないから」
初カレなので当然だ。嬉しい分、緊張が増した。
そうして緋夏との会話で緊張を紛らわしていた時だ。病室の扉が開く音がした。緋夏の病床に女性が一人、現れる。
「緋夏っ……!」
女性は僕には目もくれず、緋夏に抱きついた。
「起きてよかった……緋夏……ああ、よかった」
「お母さん、苦しいってば。大丈夫だから」
緋夏は僕に目を向ける。言ったでしょ、とでも言いたげに迷惑そうな顔をしながら口角は上がっている。心配性というより娘思いのいい母親じゃないか。
数分間、僕は置いてけぼりにされた。
「……お母さん、暑いし、苦しいんだけど」
「ああ、本当に良かった。このまま目を覚まさなかったらどうしようって……」
緋夏の母は娘からようやく離れる。目は赤く、潤んでいる。落ち着いたのか、僕の存在に気がついた。
「あら……こんにちは。緋夏のお友達?」
「初めまして、娘さんとお付き合いさせていただいてます。加賀美歩夢です」
パイプ椅子から立ち上がり、我ながら失礼のない挨拶。反応を伺うと、緋夏の母は口をぽかんと開けたまま、僕の目をじっと見ていた。
「……お付き合い? 彼氏?」
「うん、私の彼氏の歩夢くん」
「あなた、彼氏いたの?」
緋夏の母は聞いてないんだけど、という視線を娘に向ける。僕も言ってないのか、という疑問を視線に乗せる。
彼女は僕らの視線を笑顔で一蹴した後、
「サプライズで紹介しようかなって」
と、無邪気に言った。
「もう、言ってよ! メイクとか崩れたままなんだけど……あ、初めまして! 娘の母親の白石 美菜(しらいし みな)です。娘がお世話になっております」
「ど、どうも。改めて加賀美歩夢です」
「二人はいつから付き合ってるの?」
「八月中旬くらいからです」
「あら、じゃあ二ヶ月半くらいかしら。びっくりしたわ。娘に彼氏が……ああ、また泣きそう」
美菜さんの目には再び涙が溜まり始めている。予想もしていない反応だった。
「今までこの子から恋愛の話とか聞いたことがなくて、心配だったんだけど……そっか、そっか」
「お母さん、泣きすぎ。私も彼氏くらいできるから」
緋夏はチラッと僕に目を配る。美菜さんはバッグからハンカチを取り出して、涙を拭っている。愉快な人だ。
容姿も雰囲気も緋夏に似ている。緋夏の母だとわかる顔立ちに佇まいや雰囲気も緋夏とそっくり。絵に描いたらもっとわかりやすくなるだろう。
「加賀美くんは何歳なの?」
「六月生まれで十九です」
「じゃあ緋夏と同級生なのね」
「歩夢くん、美術大学に通ってるんだよ。絵がすごく上手いの」
「あら、すごいじゃない!」
「いえいえ、通ってるだけです」
僕は美菜さんに根掘り葉掘り聞かれた。
大学生活はどう。何の絵を描いてるの。どこ出身なの。緋夏とはどこで出会ったの。
正直に答えていたが、馴れ初めだけは秘密にした。すると緋夏が暴露するので僕の顔は赤色の水彩絵の具で塗りたくったみたいになった。美菜さんと緋夏は笑っていた。
美菜さんへの印象はよく笑う人、だ。笑顔も親子で似ている。
しばらくして緋夏の検査の時間がやってきたので、僕はお暇することにした。
「じゃあね、歩夢くん」
「明日もまた来るからな」
「うん、待ってる」
緋夏は手を振り、看護師と病室を後にする。
美菜さんと僕の二人きり。用もないので帰ろうとした時だった。
「娘と付き合ってくれてありがとうね。加賀美くん」
美菜さんが深々と頭を下げた。
「いえ、僕は緋夏のことが好きだから付き合ってるだけです」
「それでもよ。余命のこと、もう知っているのでしょう?」
僕は黙って頷く。真剣な表情をしていた美菜さんは、なぜか表情を柔らかくした。
「加賀美くんは緋夏の病気を知った上で付き合ってくれた。親としては感謝しなくちゃいけないわ。あの子、私たちのためにバイトばかりしてたから友達も恋人もいなかったの。夢もあっただろうに何も言わなかった」
ふと、僕は緋夏の言葉を思い出す。
『獣医師になりたいって思ったんだ。お金がなくて、諦めたんだけどね』
どれだけ重い意味が込められていたか、僕にはわからない。
「病気があって、家は貧しくて……親としてずっと申し訳なかった。何もできなかった」
美菜さんは拳を強く握る。肩を震わせる。
「そんなこと……」
擁護しようとすると、一転。美菜さんは体を弛緩させた。
「けど、あの子も彼氏を作って、自分の人生を歩んでいるんだなってわかった時、安心したし、嬉しかった……もし歩ませてくれたのが加賀美くんなら、親として感謝しなくちゃいけない。だからありがとう」
「どういたしまして……というのもおかしいですけど、好きだから当然です」
「頼もしいわね」
美菜さんは緋夏によく似た笑顔を浮かべた。
「二人のことには干渉したくないけど、一つだけ言わせて」
「……何ですか?」
「緋夏は重い病気です。いつか死んで、加賀美くんを悲しませるかもしれない。それでも娘と一緒にいてくれますか?」
美菜さんの目は潤んでいた。けれど僕をまっすぐ見つめている。
僕に彼氏としての覚悟を、問いていた。
ふと、母の存在が思い浮かぶ。
人間、いつかは亡くなる。最期に僕がいなかったら、そんな想像もしたくない。
弱気でいる選択肢はもはや心の中に存在していなかった。
「もちろんです。一緒にいます」
「っ……ありがとう、加賀美くん」
娘思いの母親はまた一粒、涙を流していた。
十一月八日、母の命日。
外は肌寒く、曇りということもあって昨日よりも冷えていた。薄手の長袖を着てしまったことを後悔しつつ、僕は父と二人で石階段を登っていく。周りには墓石がたくさんあって、母の墓は上の方にある。
「お父さん、持つよ」
「ありがとう」
父から水と柄杓の入った鉄バケツを受け取り、一段、また一段。後ろを振り返れば山に囲まれた街並みが見渡せるところまで来ていた。下を見下ろすと墓を管理している寺が見える。不思議なもので、地元の空気を吸うだけで昔を思い出す。土と新鮮な空気の混じった匂いが記憶を呼び起こす。
「今更だが、歩夢は泊まりでよかったのか?」
「用事はあるにはあるけど、おばあちゃんの家に泊まるのも悪くないし。有給使ってるんだからお父さんこそだろ」
「大人も……たまには休みたい」
真顔で素直なことを言う父に僕は思わず笑った。
「いつも感謝してますよ」
こういう時くらいしか僕も素直になれない。そう思うと、母は亡くなっても僕と父を繋いでくれている。
家から父の車で約二時間。僕と父は母のお墓がある地元に来ている。母方の祖父母の家もこの地元にあり、孫の顔を見るついでに泊めてくれる。
今日は母の命日であり、緋夏の退院日だ。出来ることなら顔を出したかったが、命日は一年に一回。母に謝罪もしなければならない。
最上段の少し手前、僕たちは母が眠る墓に辿り着いた。秋なので、ここに来る時はいつも枝木や枯れ葉が墓の周りに積もっている。
「まずは掃除だな。歩夢は塵取りを持って来てくれ」
二人で分担しながら、階段の脇にあった箒と塵取りで墓周りを綺麗に掃除した。花立の中身を入れ替え、水鉢の水も新しくする。墓が綺麗になっていく様は見ていて心地がよい。景色がよく、空気も澄んでいて、落ち着く。雲に覆われた空も今は悪くないと思える。
掃除が終わって、僕たちは墓の前で手を合わせた。
ここに、母が眠っている。
目を瞑ると、昔の情景が瞼の裏に映し出された。
『歩夢』
『なあに? お母さん』
僕は母の病室から窓越しに見える空を縦開きのスケッチブックに描いていた。きっと、子供の僕から見たら綺麗な空だったのだろう。僕は描くことに夢中になっていた。
『歩夢は本当に絵を描くのが好きなのね。これ、あげるわ』
母が一生懸命に絵を描く僕にくれたのは長方形の箱だった。橙と白の対比が美しい、綺麗な箱だった。
『開けてみて』
中に入っていたのは一本の多機能ボールペンだった。ボディは濃い赤色で僕の名前がローマ字で白く書かれている。当時の僕は読めなかったけれど、後に気づいた。
母が死ぬ間際にくれた贈り物だった。
『ありがと! お母さん! すっごくかっこいい!』
『気に入った?』
『うん! お母さん、大好き』
『嬉しいわ。大事に使ってね』
大好き、なんて普段は滅多に言わない言葉で感謝を述べて、僕は外に出かけた。縦開きのスケッチブックに母がくれた赤色のボールペン。
早く絵を描きたかった。母に絵を見せたかった。
母が亡くなったのはその直後だった。僕が病室に戻った頃には母は亡くなっていた。
誰よりも優しくて温かかった人物の最期は、一人だった。
父は母に頼まれた買い物に行っていて、僕は母を任されていた。
僕が外に行っていなければ、僕が絵を描くことを優先していなければ、一人で天国に行くことはなかった。
『歩夢、生まれてきてくれて、ありがとうね』
箱の底にはメッセージが書かれていた。これほど息子思いの母を、僕は一人にしたのだ。大きくなるにつれて、僕は自分が許せなかった。父は僕を責めるということはしなかった。代わりに僕が自分を責めた。
お母さん、ごめんなさい。
僕は留学には行きません。
好きな人が最期の瞬間にいないのはすごく寂しいことだと思うから。
約束したのに、ごめんなさい。
画家には絶対になるから。
だから親不孝な僕をどうか許してください。
「歩夢?」
父に肩を叩かれ、自分がどれほど長い時間、手を合わせていたかに気づいた。
「……ごめん、お父さん。留学には行かないことにした」
父は一言、わかった、と返すだけだった。
緋夏が倒れた日を境に彼女の体調は悪くなっていった。入退院を繰り返すようになり、一目でわかるほど顔色の悪い日が続く時もあった。
会うたびに、大丈夫だから、と笑顔を振りまく彼女の姿を見るのは耐えられない。それでも僕は緋夏のために何かしてあげることはできない。ただそばにいるだけだった。
「……別れたかったら、別れてもいいから」
普段は笑顔の彼女が弱音を吐く時もあった。
「別れるわけないだろ。ずっとそばにいるから」
「頼もしい……彼氏だね。ありがと」
僕がどれだけ言葉を投げかけても、緋夏にとっては重荷になっているような気さえした。
「格好いい彼氏の前で格好悪いところは見せられないね」
違う。そうじゃない。もっと弱音を見せて、頼ってほしい。
言ったところで通じないから、話の最後にはいつも緋夏を抱きしめた。
体調が良さそうな時は二人で、四人で遊んだ。十二月に入ってから緋夏の体調が戻ってくると、クリスマスは一緒に出かけられるかも、と楽観的な自分もいた。
「もう十二月かー。早いね」
「クリスマスデート……行こうな」
「……行けたらね。期待はしないで」
緋夏は笑うことなく言い放つ。緋夏の手を握りながら、僕は楽観的でいた自分を強く責めた。指と指を絡めても不安は収まらない。
「それで、どっちに行くの?」
話を変えるように、緋夏は明るい声色で聞く。
「右に曲がって、まっすぐ行けば僕の家」
「じゃあもうすぐだ。楽しみだなー」
「いい家ではないけどな」
「豪邸?」
「普通の一軒家だ」
冬の寒さを手から伝わるお互いの体温で耐え凌ぎながら、僕の家へ向かって歩いていく。付き合ってから、緋夏を家に上げるのは今日が初めてだ。
少し前から、歩夢くんの家に行ってみたい、と緋夏は口にしていた。数日前に英語の資格試験も終わって、二人とも暇だった日曜、こうしてお家デートをすることになった。
歩いて数分、二階建て一軒家の前に着いた。壁色は白と灰色で総二階建てのシンプルな家だ。敷地にあるのは家と白い車一台だけで、家の前の小さな庭ですら花や植物の装飾は一切ない。同じ住宅街にある家と比べても質素な方だろう。
鍵で玄関扉を開け、緋夏を先に中に入れた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
緋夏は丁寧に靴を揃えて、家に上がる。僕は玄関から向かって左のリビングに入り、床暖房をつけた。
「歩夢くんの家、結構広いかも」
緋夏はリビングを見回しながら呟く。
「昔は父方の祖父母と一緒に暮らしてたから。今は田舎でのんびりやってるけど」
「そうなんだ。いい家だね……お父さんはいないの?」
「今はいない。十八時過ぎまで出かけるって言って、出ていった」
昨日、彼女を連れてくる、と父に報告したが、出かける予定があるから好きにしてくれと返された。父に限って、配慮しているとは思えない。会社の人か知り合いに会っているのだろう。
「歩夢くんのお父さんに挨拶したかったな。彼女いるって、知ってるんでしょ?」
「言ってある。緋夏みたいにサプライズで言っても反応は薄そうだから」
「ふふ、そっか。じゃあもう親公認のカップルだね」
緋夏は口角を上げながら、恥じらった表情も見せる。愛らしい赤い頬に触れて、キスをしてしまいたかった。けれど付き合って数ヶ月、いまだにキスはできていない。手を繋ぐ、ハグとハードルを超えていったが、接吻のハードルがどうにも高い。
「……どうしたの? 照れちゃった?」
「い、いや、何でもない。何か飲み物でも出すから、その辺に座っててくれ……ココアとかでいいか?」
「うん、お願いします」
キスを想像しながら、僕は一度、ココアを台所でこぼした。緋夏にバレないように作り直して、テレビ前のソファに座る彼女の元へ持っていく。
「はい、お待たせ」
「ありがと」
ココアを二つ、机の上に置く。白い湯気が静かにコップの上を漂っている。
僕は緋夏の横に座り、ココアを口にする緋夏の方を見た。
「映画とか一緒に見るか?」
「うーん、それもいいけど……家で女の子と二人きりなんだよ?」
「口周りにココアつけられても色気はない」
「っ……うそっ」
緋夏はテーブル上のティッシュを手に取り、口を拭った。色気はなくとも久々に焦る彼女を見るのは楽しい。緋夏はムスッと口を尖らせて、機嫌の良い僕を見る。しかし彼女はすぐに表情を弛緩させた。
「歩夢くんは……やっぱりいい彼氏だね。」
「責任の取れないことはしない。病気なのにもしもがあったら困る」
「二人きりって聞いて、私、襲われると思ったんだけどな」
「襲うわけないだろ。逆に襲って欲しかったのか?」
「うーん、どうだろ?」
緋夏は眉を下げて、考える。
「でも最近の歩夢くんは優しすぎる気もするなー」
「優しすぎる?」
「なんていうか、私のことを考えすぎてる気がするの」
自覚のない性格の指摘は僕の心に画鋲を突き刺した。振り返れば、日常生活で八割くらい緋夏のことを考えている気もする。夫婦ではなく、ただの恋人なのに緋夏のいない生活は考えられない。
「……重いか?」
「そういうことじゃないよ。けど私に言ってくれたように、もっとわがままになったり、自分の時間を優先にしてくれていいんだけどなって」
「緋夏といる時間が自分の時間になりつつあるけどな」
「私もそうだよ。でも、一緒に絵を描くとか、歩夢くんが本当に行きたいところに行くとか、たまには彼氏のわがままに振り回されたいっていうのが彼女のわがままかな」
緋夏は髪をいじりながら、僕を見る。言われたところで、自分のしたいことは頭に思い浮かばなかった。強いていうなら緋夏を笑顔にさせたい。
「僕のわがままか。あんまり考えたことがない」
「……そっか」
緋夏は困ったような笑みを浮かべた。
「そういえば、あの絵は歩夢くんが書いたの?」
緋夏の視線は僕の後ろに向けられている。振り向くと、視線の先には花と動物が描かれた絵が壁に飾られていた。額縁に入れて、保管してある。僕にとっては隣のカレンダーと共に見慣れた装飾だ。
「いや、お母さんが描いた絵だ。今でも残してる」
「素敵だね。可愛くて……温かい」
人間と動物が交互に並んで手を取り合い、地面にはたくさんの花が咲いている。子供向けの平面的な絵。僕は今でも絵を見て、母を思い出す。
「テレビの横の仏壇は……お母さんの、だよね」
僕は頷く。最初から気になっていたのか、緋夏はソファから立ち上がる。テレビの横に置かれた棚、一番上に母の小さな仏壇が置かれている。葬儀の後、分骨してもらって作ったものだ。母は遺影の中で幼い頃の記憶を引き出すような笑みを浮かべている。
緋夏はしゃがんで、仏壇に目の高さを合わせる。静かに、手を合わせた。時間にしては数秒程度だったと思う。不思議な時間だった。
手を合わせた後、緋夏は振り返って言う。
「歩夢くんの部屋を案内してほしいな」
「……片付けてないけどいい?」
「余計に気になるじゃん」
わがままを使って拒否することもできるが、からかわれそうなのでやめた。僕は立ち上がり、リビングから出る。
自室は階段を上がって二階の一番奥の部屋だ。リビングで映画でも見ながら過ごそうと思っていたので、部屋を片付けるのを忘れていた。
「散らかってるけどいいか?」
「何? 怪しいものでもあるの?」
緋夏は若干の期待を含ませた眼差しを向け、悪戯っぽく聞く。男の部屋とはいえ、怪しいものはない。
あるとすれば、
「……画家の部屋だね」
部屋に入った緋夏が真っ先に呟いた言葉だった。床には本が散らかっていて、上にはティッシュが覆い被さっている。無論、バイト代で買った美術解剖学の本と、炭が付き、色が染み込んだティッシュだ。他にも空になった絵の具や使えない筆。汚部屋だ。
壁際には作業机とイーゼルに立てかけられたキャンバス、木の丸椅子が置かれている。
「片付けてなくて悪い。部屋っていうより、アトリエになってるから」
「ううん、大丈夫。美大生っぽくて格好良い部屋だね」
緋夏は物の隙間に足を通しながら、部屋を見回る。自分の部屋を見られるのは意外にも恥ずかしい。綺麗なのがベッドだけなので、今更ながら部屋を片付け始めた。
ある程度が片付いた頃だった。
「ねえ、歩夢くん、留学は行かないの?」
思わず、顔を上げる。
緋夏の手元には大きなバツがつけられた留学の案内用紙が一枚。油絵の背後にある張り紙と見比べ、案内を読み込んでいる。張り紙には『長期留学に行く』と大きな黒文字で書かれていて、下に項目が三つ。あまりに日常の風景で剥がし忘れていたのだ。
「行かないよ」
「夢だったら行ってもいいじゃん」
「もう……終わったことだから」
「そっか。じゃあ留学はしたんだ」
僕はかぶりを振る。
「そういうわけじゃない。留学の話が終わっただけ。行けなくなった」
「……なんで?」
緋夏が病気だから、とは口が裂けても言えなかった。僕は黙り込む。
「私に手伝えることがあったら言ってよ。歩夢くんの夢なんでしょ?」
「どうしても行けない事情ができた。だからもういいんだ」
僕はゴミ袋を床に置き、張り紙を剥がしに行く。項目は三つ。
一つ目、英語の勉強を頑張る。
二つ目、上手い絵を描く。
「……三つ目、お母さんとの約束」
緋夏が呟いた。張り紙に伸びた手が止まった。
「野暮なことだってわかってるよ。でも、なんで行けなくなったの?」
「それは……」
「私には言えないこと?」
「……大学三年生で留学する予定だった。でも二年生じゃないと留学を許してくれなかった。だから諦めた」
焦る心をひた隠しにしながら答える。半分は本当のことだった。
「私が病気だから? 余命一年だから?」
成績が足りないから、英語の資格が取れなかった。いくらでも言い訳はできた。
しかし僕は数秒間、俯いて黙り込んでしまった。緋夏に考える時間を与えるには十分だった。
「……私のせいじゃん」
「それは違う。緋夏のせいじゃない。成績が足りなかっただけで……」
僕は弁明しようと再び顔を上げる。
もう、遅かった。
緋夏は全てを察した上で、涙を流していた。
「英語の勉強を頑張ってたのも、そういうことだったんだね。でも私がいたから、私が歩夢くんを好きになったから、私が歩夢くんと付き合ったから……」
「違う! 僕は……!」
緋夏を抱きしめようと手を伸ばす。彼女は背を向け、手は空を切った。
「……ごめん」
緋夏はそう言い、涙を流しながら部屋から出ていった。追いかける僕から逃げるようにリビングの荷物を取り、家からも出ていった。
その数日後のことだった。病院での検査結果が悪かった緋夏は長期入院することになった。余命三ヶ月。新たに下された余命宣告だった。
緋夏の病床を訪れると、彼女は僕から顔を背ける形で横になっていた。
「……大丈夫か?」
僕は見舞いの品を机の上に置き、椅子に座る。袋が擦れた音がしたにも関わらず、彼女は反応しない。横になったまま、緋夏は嫌味っぽく言った。
「大丈夫だと思う?」
緋夏からすれば僕の言葉こそが嫌味に聞こえたのかもしれない。
「……ごめん」
「ううん、私こそごめん。今の言葉はあんまりだった」
緋夏はゆっくりと起き上がろうとする。髪は乱れていて、それよりも顔色が悪いことが気になった。ほっそりとして、頬には色がない。大丈夫か、なんて言葉はあまりにも無配慮な言葉だったかもしれない。
昨日、数日ぶりに緋夏から連絡が来た。
『大事な話をしましょう』
緋夏から送られてきたメッセージに最初は安堵した。緋夏が僕の家を出たっきり、会うことも連絡を取り合うこともなかった。けれど次に送られてきたメッセージで余命が残り少ないことを知らされた。
三ヶ月。緋夏に残された期間はたったのそれだけ。
「あんまり無理するなよ。寝ててもいいから」
「大事な話って言ったでしょ」
弱った力で体を動かし、緋夏はようやくヘッドボードにもたれかかった。起き上がるだけでも辛そうな緋夏を見て、自分の無力さを実感する。
しばらくはお互いに無言だった。
「……それで、話って?」
恐る恐る、僕は口を開いた。
「単刀直入に言うけど、もう別れない?」
予想はしていた言葉だった。いざ言われると、金縛りにあったかのように動けなくなる。口も動かない。
「この関係はもう私たちのためにならないと思う」
「僕は……緋夏と一緒にいたい」
「留学、行くんじゃないの?」
「もう終わった話だ。大学二年生で行く気はない」
「……私が病気だから? 余命三ヶ月だから?」
緋夏は続けて問いかける。
「留学は亡くなったお母さんとの約束じゃないの?」
反論できなかった。事実だから言葉を選ぼうとしてしまった。
緋夏は黙り込む僕に言葉を投げ続ける。
「言葉に詰まる時点で、まだ行きたい気持ちが残ってるってことだよ」
「留学には行きたい。でもそれ以上に緋夏との時間を大切にしたい。余命三ヶ月って聞いたら僕は尚更……!」
「ふーん、優しいね。でも失礼な人」
緋夏は僕を強く睨む。負の感情のこもった視線に、僕はたじろいだ。
「人に死ぬつもりで生きるなって言ったくせに、歩夢くんは私が死ぬ前提で考えてたんだ」
「それは……緋夏のために、僕は……」
「私のために何? じゃあ私のために留学に行ってよ。人の気も知らず、勝手に人のためを思って……お母さんも可哀想」
「っ……緋夏の最期にまた立ち会えないなんて嫌に決まってるだろ!」
荒げた声は病室に反響し、自分の本音を僕の耳に届けた。
気づいた時には遅かった。緋夏は落胆した目で僕を見ていた。
「そっか。それが歩夢くんの本音なんだね。歩夢くんは……私が生きるって信じてくれないんだ」
「違う、なんでそうなる」
「何も違わないよ。さっき自分が言った通りじゃん」
看護師の人がやってきた。次に大きな声を出したら追い出すと言われ、いつの間にか立ち上がっていた僕は椅子に座り直した。唇を強く噛む。鉄の味がした。
「もう、別れようよ」
「……別れたくない」
「子供っぽいこと言わないで、大人になってよ」
緋夏の目には涙が溜まっていた。声も半分、震えていった。
「私は……夢を選べない。獣医師になれなくて、病気にもなってさ。だから歩夢くんには夢を選んでほしい」
きっと、言いたくないことを我慢して言っている。
「それでも、僕は……」
言いかけようとした時だった。
「……選べる人はいいよね、本当」
緋夏がボソッと呟いた。
「今日はもう帰って。一週間あげるからよく考えて、答えを出して」
緋夏は僕に背中を向けて、横になる。何も言わず、僕はその場から立ち去った。
一週間の猶予は僕にとってあまりに短い期間だった。
留学に行かなければ緋夏は別れを切り出す。
留学に行けば緋夏とは別れることになる。
実質、一択しかないような答えを同じ思考の繰り返しで答えを出せずにいる。
留学は長年の夢で母との約束でもある。数ヶ月付き合っただけの恋人とどちらを優先させるか、客観的に考えれば明白。けれど気持ちは他人の尺度で測れない。
緋夏と最期まで一緒にいたい。
考え事をしながら歩いていると、野良犬が道路を横切った。気を取られた僕は転び、その場で尻餅をついた。
「……いって」
何となく、空を見上げる。雨か雪でも降り出しそうな灰色の雲に覆われていた。息を吐けば、白に塗られた空気が雲の一部になろうと昇っていく。
前を向くと初めて、自分が喫茶店へ足を進めていることに気がついた。大学終わりの習慣が残っていたのだろう。中に緋夏はいないが寒い。暖を取りたい。僕は震えた足で喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
中に入ると、僕の顔を見た店長は目を見開いた。店長は三十代前半の風貌をした中年女性だ。左手の薬指には結婚指輪が付いているので既婚者なのだろう。
店長は何か言いたげだったが、すぐに営業スマイルへと切り替えて席に案内された。一瞬、見えたキッチンでは体格の大きい男性が何かを作っている最中だった。
席に着くなり、僕はミルクティーのホットを頼んだ。店長はかしこまりました、と丁寧に礼をして、キッチンへ戻っていった。
緋夏に接客された訳ではないので、いつもの四人席ではなかった。壁際の二人用席で向かい側にもう一つの椅子がある。荷物を置き、スケッチブックだけを取り出して机に広げた。スケッチのモデルはいないのに習慣だけが残っている。僕は最初のページから一枚、二枚とスケッチをめくっていった。
緋夏が接客しているスケッチ。
緋夏が注文を運んでいるスケッチ。
なぜか犬も一緒に描かれたスケッチ。
途中から恭平と陽平も加わり、スケッチも上手くなっていく。緋夏を近くで見る機会が増え、鮮明に描けるようになったからだろう。
それでも最後のページまで僕は彼女の笑顔を再現することはできなかった。
「もう、お別れ……なのだろうか」
店長がこちらへ向かってきているのを横目に見て、僕はスケッチを閉じた。
「お待たせしました」
店長は机の上にミルクティーを置く。そしてクッキーの乗った皿も一つ。
「あれ、クッキーは頼んで……」
言いかけた時、店長は自身の唇に人差し指を当てた。サービスらしい。
「ありがとうございます」
「緋夏ちゃんの彼氏くんでしょ?」
「そう、です」
まだ付き合っているが歯切れが悪くなる。
「緋夏ちゃんがバイトを辞めて、もう来てくれないと思ってたから」
「……え?」
僕は自分の耳を疑った。
「聞いてなかったの?」
「あ、いや、そうでしたね」
考えてみれば当たり前のことだ。余命三ヶ月と宣告され、長期入院。バイトなど続けられない。
「病気のことも知ってるんでしょ?」
僕は頷く。店長はしばらく机の上のミルクティーを見つめていた。
「本当、やるせないわよね」
「……そう、ですね」
「緋夏ちゃんね、君がただのお客さんだった頃から、君の話をよくしてたの。毎日、勉強してて偉いなって。頑張れる人って羨ましいし、尊敬するなーって」
ふと、緋夏が病室で言い放った言葉を思い出した。夢を追えない人にとっては夢を追えること自体が贅沢なのかもしれない。
「あー、ごめんね、こんな話。ゆっくりしていって」
他の客が店長を呼び、話は終わった。知り合う前から緋夏が僕のことを話していた。その嬉しさよりも心の虚しさが広がっていた。
僕は緋夏に対して失礼だったのかもしれない。夢を追えなかった緋夏が目の前にある夢を手放そうとする僕に怒りを抱いて当然だ。
喫茶店にいた時間は一時間にも満たなかった。英語の勉強をする必要はなく、緋夏もいない。スケッチしようにも手は進まなかった。
落ち込みが顔に出ていたのか、店長は頑張ってと言って僕を送り出した。
外は寒かった。
帰りに公園に立ち寄り、一人でブランコに乗った。目の前では野良犬が寒そうに体を丸めていた。凍え死なないのだろうか。思うだけで、僕は何もできなかった。
家に帰ると、ただいまを言い忘れた僕の耳におかえりと低い声が聞こえた。
「ただいま。帰ってきてたんだ」
父はリビングの椅子に座り、テレビを見ている。
「冷蔵庫にケーキが入ってる」
「夜にでも食べるよ」
「……ああ」
手を洗って、いつもなら自分の部屋へ上がる。けれど僕の足はリビングへと向かっていた。父は相変わらず真顔でテレビを見ている。
「なあ、お父さん」
「……どうした?」
テレビを見たまま、父は耳を傾けてくれた。
一拍置いて、僕は聞いた。
「しなければいけないこと、と、したいこと。どっちを取ればいいと思う?」
好きにしろ、と返ってくるのだろうと思っていた。意外にも父はテレビを消して真剣に悩み始める。
「若い頃、俺はしなければならないことを取った」
「したいこと、じゃなかったのか。なんで?」
「そうしなければいけなかったからだ」
「……お父さんはそれを選んで幸せ?」
「ああ、もちろん。どんな選択をしても時間が経てば後悔はなくなる。けど、選択自体に間違いはなかったと思ってるよ」
長期的に見れば、留学をする方が幸せになれる。数ヶ月付き合った程度の恋人など忘れて、新しい恋人と結婚。側から見れば充実した人生。
ふと、母のことが頭に浮かんだ。無理だ。後悔を引きずる自信しかない。
理屈で人は幸せにはなれない。幸せな環境が手に入るだけで幸せとは限らない。
「世の中には選択の余地がないこともあるものだ」
父が付け足した。緋夏の言う通り、僕の考えは子供じみたものなのだろう。その場の気持ちだけを優先して、後のことを考えていない。
思えば、母が死んだ時もそうだった。絵を描きたいことを優先したからずっと後悔することになった。後悔がない方は、もしかすれば留学することかもしれない。
「若いうちはしっかり悩め」
僕が突っ立っていると、父は一枚の封筒を僕に渡した。十一月末に受けた英語の資格試験の結果だった。中の紙切れに書かれたスコアは充分過ぎるほど良い点だった。
父の肩越しに母の描いた絵を見る。選択の余地は残っていない。せめて綺麗な終わり方が良い。
「……やっぱり留学、行っていい?」
「好きにしろ」
父はそう答え、テレビを付け直した。
緋夏の元へ訪れたのはちょうど一週間後の昼だった。病床に行くと、緋夏はすでに起き上がって、スマホで写真を眺めていた。何の写真だったかまではわからない。僕が声をかけるまでスマホを握っていた。
「……お待たせ」
「結論は出た?」
僕は一息置いてから、答えた。
「留学、行くよ」
「……そっか」
緋夏はやっと笑顔を見せる。本心からの笑顔なのか、作り笑いなのか。どちらにせよ緋夏の笑顔を見て、胸が握りつぶされる感覚を覚えたのは初めてだった。
「それがいいよ。用紙はもう提出したの?」
「まだ提出してない。一週間が経ったから報告に来ただけだ」
「いつまで?」
「イブの日まで」
「提出、忘れないようにね」
緋夏はもう一度、笑顔を浮かべてみせる。表情の輝きと色はカーテンが作る影で覆われていた。
「留学先でも頑張って。応援してるから」
緋夏は布団を被り、横になる。僕はしばらく無言のまま突っ立っていた。
「……何?」
「もう終わりなのか?」
「当たり前じゃん。あなたは留学に行くんだから、私とあなたはこれでお別れ。お見舞いにはもう来なくていいから。私のことなんて忘れてね」
あっさりとしたお別れに僕はやはり立ち尽くしていた。名残惜しいというより、これまでの数ヶ月をたった数分で終わらせたくなかった。
「あなたのことが嫌いですって、面と向かって言った方がいい?」
「……今まで、ありがとう」
僕はそう言い、立ち去る。何か聞こえた気がしたが振り返りはしなかった。
選択の余地は始めからなかったのだ。
病室を出ると、重い何かから解放されたような気がした。心地の良いものでは決してない。不意に自身の右手が視界に入る。絵を描くことしかできない右手を恨んだ。でも右も左も変わらない。僕はこの先も絵を描き続けるのだろう。
「夢を追うって……そういうことなんだろうな」
ポケットに手を突っ込み、早歩きで院内を歩いた。早く帰って、絵を描きたかった。何かに没頭したい気分だった。
歩けば歩くほど、心のキャンバスが荒れていく。無名の作者が真っ白なキャンバスを筆で塗りたくっている。黄色、次は緑色、次は黒色。赤色はなかった。でも赤色が良かった。口内炎が治ったばかりの内唇を強く噛む。鉄の味。
「っ……忘れるなんて無理だろ」
キャンバスから漏れ出た色は喉の奥に熱いものを生み出した。
半ば小走りの状態で、階のエレベーターを視界に捉えた時だった。見慣れた人物が視界の端を横切った。一度、立ち止まり、振り返ってみる。恭平と陽平だ。僕が彼らの前を横切っていた。
「あ、兄ちゃんだ」
二人は自販機前の椅子に座って、机の上にカードを広げている。恭平は僕と目が合うなり、無邪気に手を振った。少し落ち着いた僕は二人に近づいた。
「お姉ちゃんのお見舞いか?」
「うん、寂しがりだから俺らがいないとダメなんだ」
「恭平は偉いな」
僕は恭平の頭を撫でようとして止めた。考えれば、二人に会うのもこれが最後だ。緋夏とは別れたのだから二人と会う機会もなくなる。最後に励ましの言葉くらいはかけた方がいいだろう。
「お姉ちゃんの入院は長いけど、退院したらいっぱい遊んでもらえよ」
僕は不安にさせない笑顔を心がげる。一方で、恭平は手にカードを持ったまま俯いた。
「……姉ちゃん、重い病気なんでしょ?」
「知ってた、のか」
「やっぱり……そうなんだ。母さんと姉ちゃんが話してるの聞いたんだ」
入退院を繰り返していれば、察しがつくものもあるのだろう。話を聞いていなくても知られるのは時間の問題だった。
「どこまで知ってる?」
「姉ちゃんがどんな病気だとかわからないけど……あと三ヶ月くらいしか生きられないって話してた」
「そうだな。姉ちゃんの余命は三ヶ月だ」
「姉ちゃん……死ぬの?」
「わからない」
未来のことなど誰にもわからない。無論、僕は未来になっても緋夏が死んだかどうかなどわからない。今、緋夏の側にいてあげられるのは二人しかいない。
「頑張れよ、二人とも」
僕は背を向けて去ろうとした。すると恭平が呼び止める。
「兄ちゃん」
「……どうした?」
「なんで最近、姉ちゃんの見舞いに来ないの?」
「忙しいんだ。もう、ここにも……」
僕は拳を握りしめる。今の感情を説明するのにぴったりの言葉がやっと見つかったからだった。悔しいのだ。緋夏の側にいるのが自分ではなくて悔しい。側にいることを拒否されたから余計に悔しい。
「もう、あえないの?」
いつの間にか、陽平に服の裾を引っ張られていた。陽平は小さな瞳で僕を捉えている。
「おにーちゃんとおえかきしたい」
「ああ、また今度な」
僕は陽平の頭を撫でる。陽平もきっと姉がもうすぐ死んでしまうことを直感的に理解している。
「なあ、兄ちゃん……忙しくても、姉ちゃんに会ってほしい」
「忙しい僕の代わりに二人がいてあげてくれ」
「それじゃあダメなんだ!」
恭平は声を荒げる。肩は震えていて、手に持ったカードは曲がっている。
「姉ちゃんを笑顔にさせられるのは兄ちゃんしかいないんだよ! 俺たちが姉ちゃんに会ったら……いつも泣いてる。でも俺たちを見たら、わざと笑顔を作ってる」
僕だって緋夏を笑顔にさせられるわけじゃない。だから僕は緋夏の側にいさせてもらえなかった。
恭平もまた、同じだった。
「俺……悔しいんだ……」
恭平は椅子から立ち上がり、僕に近づく。
「せめて最期は……兄ちゃんが、姉ちゃんといてあげてほしい」
陽平と同じ小さな瞳で僕を見上げる。無邪気な子供そのものだった。残酷なことに、緋夏が亡くなれば恭平が一番上になる。
無理な約束だとしても、今は大人が子供に約束してあげたかった。
「……努力するよ。でも、もしも、があるかもしれない。その時に一番近くにいるのは二人だ。だから緋夏を頼んだぞ、長男。頑張れるか?」
恭平はこぼしかけていた涙を拭って、強く頷いた。二人の頭を撫で、僕は病院を後にした。
もう二人に、緋夏に会うことはないだろう。
さようなら。
どこかで生きてくれればそれでいい。
「……いいわけ、ないんだけどな」
吐いた息が色づいたかと思うと、またすぐに消えていった。
緋夏と別れてから一週間。もう二週間は経っているかもしれない。別れた日など記憶しているわけもなく、僕は大学生になったばかりの頃と同じ生活を続けている。
意外にも喪失感はなく、別れてからすんなりと受け入れている自分がいる。課題の絵が講評で褒められて、調子はいい。留学に向けて英語の勉強も再開した。けれどスケッチを捨てることはできず、今も手元に残っている。先延ばしする性格もあるかもしれないが、留学の紙もギリギリまで手元に残っていた。
別れてから、何度か自分に問いた。
このまま留学に行ってしまってもいいのだろうか。
『私は夢を選べなかった……選べる人はいいよね、本当』
問うたびに浮かんだのが緋夏の言葉だった。
『約束……約束だもん!』
過去に言い放った自分の言葉も思い出した。どうして約束をしたのか、いまだに思い出せない。約束は母と僕を繋ぐ唯一のもの。ずっと約束に縋り続けて、画家を目指してきた。
夢は目の前にある。
留学の紙を持ってリビングに行くと、父が赤いトンガリ帽子をかぶっていた。
「歩夢、似合うか?」
「似合わなくはないけど……何してるんだ?」
「会社でクリスマスパーティーと忘年会を開くらしくてな」
「今日?」
「いや、三日後。それでサンタ役になった」
父のことはいまいちよくわからない。鏡を見ながら、真剣にサンタコスの練習をしている姿は変人だとも真面目だとも捉えられる。
「今日はイブだし、夜にサンタでも来てくれるのかと思った」
僕は冗談を飛ばしてみる。父は鼻で笑って、答える。
「プレゼントならある」
「え、本当?」
「物じゃないけどな。なんなら今にでも渡せる……言えるの方が正しいな」
「……帰ってきたら聞かせてほしい」
僕は玄関に行き、座って靴を履く。靴紐が緩い気がしたので結び始める。
「今から留学の紙を出しに行ってくる」
言わなくてもいいことを口に出していた。心のどこかではためらいがあったのかもしれない。外に出れば、もう止まれないから。
靴紐を結び終えた後、何度か踏み付けて立ち上がった。
「行って……きます」
僕は手を伸ばし、玄関扉を開けようとした。
「歩夢」
父が僕を呼び止める。振り返れば、サンタの格好をした父が立っていた。
「お前はデキ婚で産まれた子だ」
「……は?」
急に何、だった。呆気に取られていると、父は続ける。
「お前のお父さんとお母さんはデキ婚なんだよ」
「え、そうなの?」
「これがクリスマスプレゼント」
父は真顔で言い切る。十九年間、生きてきた中で衝撃の事実だった。だからどうというわけでもないが、驚きは大きい。
「前にしたいこと、と、しなければいけないことの話をしただろう?」
「僕が聞いたやつか」
「……俺がしたいことは、愛した女性と二人で暮らすことだった。当時は子供が嫌いだったし、病弱な彼女に子供を産ませたくなかったのもある。でも彼女は妊娠した。彼女は喜んだ。俺も産まなければならないと思った。だから歩夢を産んだ」
僕という存在は父の人生プランには入っていなかったらしい。望まれていなかった子供、とでも言えるだろう。
「……僕を産んだから、お母さんは病気になったのか?」
「いいや、関係ない。いつか病気にはなっていた」
僕は軽く息を吐く。余計に留学へ行く必要性が高まった。母との約束さえも果たせなければ僕の存在に意味はない。
「……行ってくるよ、お父さん」
一粒、履いた靴に水が落ちた。視界が滲む。そこで初めて、自分が震えていることに気がついた。涙というほどでもない、あくびに等しい一粒で僕の腰は抜けた。僕はしゃがみ込む。父も座り、目線を合わせた。
「何に悩んでる。言ってみろ」
「……留学。正直、まだ迷ってる」
「自分の気持ちに従ってみろ。歩夢のしたいことは何なんだ?」
「留学に行くこと……じゃなきゃダメなんだ」
「そんなことはない。なら、歩夢はなんで留学に行くんだ?」
「お母さんとの約束だから。僕はお母さんとの最期に一緒にいられなかった……だからせめて、約束だけはって……!」
顔を上げる。父はいなかった。代わりに温かいものを感じた。サンタコスのザラザラとした感触に僕は包まれていた。
父は僕を抱きしめていた。
「……お父さん?」
「はっきり言う。俺はお前を愛してる。お母さんが産んだ子供だからじゃない。俺の息子だからだ。俺だって愛した女性の最期に付き添えなかった……夫失格だ。でも、そう思うのも俺がお前のお母さんを愛していたからだ」
父の震えた声を聞いたのは母の葬式以来だった。僕は父の大きな肩に顔を埋めた。温かかった。母と似た、けれど少し違う。涙が溢れて、止まらない。
「なんで、歩夢は留学に行くんだ?」
「お母さんが好きだったから……お母さんのことが、大好きだったから……」
「もう一度聞く。歩夢のしたいことはなんだ?」
「……彼女に、会いたい。彼女、病気なんだ。余命三ヶ月なんだ。だから……会いたい。ずっと一緒にいたい。明日にでも最期を迎えるかもしれない。いつ死んでもおかしくない。だからその時まで……一緒にいたいんだ……」
「……どうせそんなことだろうと思ったよ」
一度、溢れ出た涙は容易には止まらなかった。その日、僕は子供のように父の腕の中で泣きじゃくった。馬鹿みたいに泣いた。父は僕が泣き止むまで抱きしめてくれた。
泣き止んで冷静になると、羞恥が押し寄せてきたのは言うまでもない。恥ずかしさで笑えば、父も久々の笑顔で返してくれた。
「詳しいことは聞かない。けど決まったか?」
「決まった。今から彼女のところに行ってくる」
僕は留学の紙を四つ折りにして、ポケットにしまった。
「今度、俺にも紹介しろ」
「わかってる。いつか紹介するから……いってきます」
僕は玄関扉に手をかけ、外に出た。もう、戻れない。
「いってらっしゃい」
父はいつもの低い声で僕を送り出した。
僕は灰色の空の下を走り出す。今日は雪でも降るのだろうか。初雪の中でクリスマスイブを迎えられるなんて、一部の人にとっては幸せこの上ない。一方で、世の中にはイブの日にこんなにも息を切らしながら走っている人もいる。
「……緋夏っ」
カップルだらけの最寄り駅に入って、電車に乗り込んだ。長らく運動していなかったから膝に手をつかないと倒れてしまいそうだった。
悩んで、決めて、悩んで、決めて、馬鹿みたいだ。
もう僕は迷わない。
母は天国でどう思っているかわからないけど、きっと応援してくれている。母にも父にも僕は昔から迷惑をかけてばかりだ。恩の一つも返せていない。二人にはありがとうしか言えない。
でも今は愛した女性の側にいたい。
馬鹿な元彼だ、子供っぽい元彼だ、未練がましい元彼だ。
『姉ちゃんを笑顔にさせられるのは兄ちゃんしかいないんだよ!』
その前に、僕はサンタの格好をした父の息子だ。
病院に着くまで、僕は走った。走る意味はないのかもしれない。けれど今すぐにでも緋夏に会いたかった。
入るなり、面会許可も取らずに病室へ向かった。
「ちょっと! 院内では走らないでください!」
周りの声は聞こえていなかったと思う。落ち着きを取り戻したのは病室の前に着いた時だった。呼吸を整えてから扉を開けた。
緋夏の病床を訪れると、緋夏は布団に包まっているようだった。点滴なのか、液体の入った袋から細い管が腕に部分に伸びていた。
声をかける前、僕の耳に声が届く。
鼻をすすり、小さくうめくような声。
そして、
「……歩夢くん」
彼女はたしかに僕の名前を読んだ。
「結局……未練たらたらかよ」
僕は小さく呟く。
「……お母さん?」
近づくと、緋夏は布団から顔を出す。目があった。緋夏の目は真っ赤で顔はぐちゃぐちゃ。鼻水と涙が可愛い顔を台無しにしている。
視界が潤んで見えないのか、彼女は目をぱちぱちとさせる。
「……え、歩夢くん」
「ああ。歩夢くん、だ」
「な、なんで! だってもうお見舞いには来ないでって……! 私、あなたのこと嫌いだって……!」
「泣きながら僕の名前を呼ばれても、説得力はない」
「っ……」
「とりあえず泣き止んでくれ。話はそれから」
緋夏は掛け布団で顔を拭う。僕は緋夏のベッドに座り、テレビ横にあったティッシュ箱を手渡した。自分の名前が呼ばれた時点で泣いていた理由は察せる。恥ずかしさと安心が混ざり、僕は緋夏に笑いかける。
「なんで……来たの?」
緋夏は僕を睨んだ。覇気はなく、何かに怯えた子犬のようだった。
「心配だったから」
「……留学は?」
「今日締め切り。提出をほったらかして、緋夏のお見舞いにやってきた」
「馬鹿じゃないの!」
緋夏は布団をぎゅっと握りしめる。僕は自身の手をその拳に重ねた。
「大馬鹿だと思うよ。自分でも大馬鹿だと思うくらい、緋夏のことが好きなんだ」
「っ……なんで……なんでよ……」
理屈で考えれば良い選択だったとは言えないのかもしれない。でも理屈で気持ちは測れない。作者が何を思って絵を描いたかなんて、誰にもわからない。
「お母さんとの約束じゃないの?」
「ああ、約束だ」
「なんで……行かないの?」
「それ以上に今は緋夏のことが好きだから」
緋夏は僕の手を押し除け、顔を覆った。
「私だって好き! 大好き! でもせっかく……別れたじゃんか。私、歩夢くんの邪魔にはなりたくなかった。好きな人の邪魔にはなりたくなかった」
「だから一人で死のうってか?」
「一人じゃない。お母さんもいる。弟たちもいる」
けれど緋夏は僕の名前を呼んだ。
「ねえ、お願い。留学に行って。最後くらい、好きな人の邪魔をしたくないの。あなたには私じゃなくて……夢を、選んで……選んで……っ!」
「ほら、詰まってる。それが本音なんだろ」
「……元カノからの最後のお願いです。留学に行って、夢を叶えて。私にいつか、留学先のことを教えて。だって、たった数ヶ月付き合っただけの恋人じゃない。だから……私のことなんて、忘れてよ」
緋夏は僕に縋りつき、また涙を流し始める。僕は緋夏を抱き寄せた。彼女は拒もうとはしなかった。
「喧嘩、二回目だな」
「……え?」
「前にも似たようなことがあったなって思って」
「だって、歩夢くんが言うこと聞いてくれないから……!」
「お互いに似たもの同士なんだよ。意地っ張りで、決めた意見は曲げない。僕も優柔不断だけど心に決めたらもう曲げない。それを緋夏は意地悪だって言ったっけ」
緋夏はいつも怒る時、誰かのためを思っている。一回目は家族のため、二回目は僕のために意見を曲げようとしなかった。自分のために怒ったことなどない。僕はそんな緋夏が好きだから最後まで側にいてあげたいと思った。
腕の中から暖かさが伝わる。今、僕が抱きしめているのは喫茶店で一目惚れした緋夏ではない。僕が恋心を抱く唯一の女性だ。
「正直、緋夏のことは一目惚れだった」
「……そうなの?」
「ああ。一生懸命働く姿を見て、好きが増したのは間違いない。けど一目惚れだったと思う。喫茶店に初めて入った日は最悪の日だったな」
僕は目を瞑る。あの日の光景が暗闇の中に浮かんだ。
「同時に最高の日でもあったんだろうな」
少し前の自分はこんなにも人を好きになるなど、思ってもいなかったから。
「緋夏を初めて見た日、実は僕の誕生日だった。けどよくないことが続いててさ。お父さんが出張だったから祝ってくれる人はいないし、外でスケッチしようとしたら暑いし、お母さんの形見だったボールペンを無くすし……散々だった」
形見を無くしたときは死にたくなった。
昔の僕が生きる理由は過去の母親の存在だけだった。絵を描いているのも、画家を志望しているのも、留学に行こうとしているのも、全て母親の存在があったから。
今は違う。
「散々な気持ちで目に留まった喫茶店に入ったら、君がいた。一目見た瞬間、恋に落ちた。落ち込んだ気分がどうでもよくなった」
「……それは、言い過ぎ」
「誇張もなしに本当だ。一目惚れだった。その日から僕が生きる理由に君が少しずつ入ってきたんだ。名前を聞こうかなって迷ったり、顔を覚えてくれたことに喜んだり……連絡先を聞くのに失敗したり」
緋夏が小さく笑う。
「引かれるかもしれないけど、喫茶店に通うようになった半分は緋夏が理由だ」
「……引かないよ。私も、歩夢くんが来てくれるのを楽しみにしてたから。連絡先を交換したのだって、あなたが気になってたから」
「知ってる。緋夏が今も僕を好きでいてくれているのも知ってる」
好きじゃなかったら泣いていない。いっそ嫌いでいてくれた方が僕の心も多少は楽だったはずだ。好きでいてくれるから、胸の奥がずっと苦しい。
「だったら……私のことなんてほっといてよ。好きな人の邪魔になりたくないの……」
「邪魔じゃない。言っただろ、僕が生きる理由は緋夏だ。母親との約束だけじゃない。同じか、それ以上に僕は緋夏が好きだ」
「っ……そんなの……そんなの……私も好きに決まってるじゃん」
緋夏は声を震わせる。
「一緒にいたい! 私だってずっと一緒にいたいよ!」
「なら、一緒にいればいい」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃない。でも僕は本気で一緒にいたい」
僕は緋夏をより一層、強く抱きしめる。
「一回……振ったのに」
「関係ない」
僕は一息置いて、言葉にした。
「緋夏のことが好きです。もう一度、僕と付き合ってください。緋夏の一番近くにどうか居させてください」
「……本当に、馬鹿。大馬鹿」
緋夏は顔を上げる。罵りながら、口は笑っていた。
「私も、好き。最後まで一緒に……居てください」
「ああ、ずっと一緒だ」
僕は緋夏の頬に手を添える。柔らかで暖かい。口をゆっくりと近づけ、そして、緋夏に口付けをした。何度も、何度も、お互いの存在を確かめるように、キスをした。
外ではクリスマスイブを祝うかのように、初雪が降っていた。
緋夏と仲直りしてからは毎日のように彼女の元へ通った。大学が冬休みに入り、できた時間はほとんど緋夏との日々に費やした。
体調は悪化する一方で、訪れるたびに緋夏の顔はやつれていた。それでも笑顔の輝きは劣らず、彼女への好意は増していくばかり。
「ねえ、歩夢くん。私、どんどんあなたのことが好きになっていくの。もうすぐ死ぬかもしれないのに……なんでだろうね」
緋夏は元気のない顔で輝きのある笑顔を見せる。僕は優しく緋夏を抱きしめる。
「僕もだ、緋夏」
「ふふ、そっか……よかった」
緋夏に会えない日もあった。寝たきりの日もあった。
僕は、いつも彼女の側に居た。手を握り続けた。
体も声もだんだんと弱くなっていく。生命の灯火が目に見えて小さくなっていく。
「歩夢……くん」
それでも目が合うと、彼女は笑いかける。
最近は緋夏の笑顔を見るたびに胸が締め付けられ、彼女の手を握った手が震えそうになる。我慢して、僕は彼女の手を強く握り直していた。
緋夏の次に辛いのは僕ではない。家族だ。
彼女の母親、美菜さんは特に辛そうだった。緋夏の前でこそ泣かないが、病院一階の受付前で一人泣いているところを何度も見た。緋夏の病室から一緒に出ると、すぐに涙を流し始めることもあった。
「大丈夫ですか?」
「ご……ごめんなさい。こんなつもりじゃないのだけれど……」
「いいんです。一旦、どこかに座りましょう」
つられて泣きそうになった。でも僕が泣けば、緋夏はもう笑顔を見せてくれない気がした。
そうしてクリスマスを祝い、一年を振り返り、新年を迎えた。
「歩夢くん、最後に……お出かけできてよかった」
外出許可が出たのは大学が始まる前日のことだった。緋夏の強い希望と前日の検査結果が悪くなかったこともあって、外出を許された。
「最後とか言うなよ」
「……ごめんね」
「謝られても困る」
「ううん。お出かけしよって誘ったけど、デートじゃなかったから。嘘ついたかなって」
僕は緋夏が乗った車椅子を押しながら隣を歩く恭平と陽平を見る。当然、緋夏のことを大切に思うのは僕だけではない。
人のいない歩道を四人でゆっくりと歩いていく。車椅子の車輪が段差にぶつからないように気をつけながら進む。
「姉ちゃん、寒くない?」
「おねーちゃん、げんき?」
二人は心配そうな目で姉を見る。緋夏は取り繕ってもいない様子で明るく答えた。
「大丈夫。誰かさんのおかげで元気だし、あったかいから」
緋夏は自身を覆う茶色のコートに顔を埋めた後、僕を見る。茶色のコートは元々、僕が羽織っていたものだった。『死ぬまでにすることリスト』に彼氏から上着を借りること、が入っていたらしい。どうでもいいことだなと思いつつ、毛布代わりにして匂いまでかがれると、反応に困る。
「治ったらお姉ちゃんといっぱい遊ぼうね。病気くらい、すぐに治しちゃうんだから」
「……うん」
恭平が足を止める。緋夏は二人が病気のことを知っているとは知らない。二人も姉が隠していることを知っているから口に出せない。
僕は車椅子を止め、緋夏が恭平の顔を見えるように角度を曲げる。
そして恭平はしばらく黙り込んだ後、言った。
「……約束?」
過去の自分を見ているようだった。僕ならどう答えるだろうか、考える前に緋夏が即答した。
「約束」
恭平は安心したようにもう一度、歩き出した。
四人で行ったのは病院から電車で一時間圏内にある動物公園だった。緋夏が癒されたかったのと車椅子でも楽しめる場所を考えた結果だった。すっかり体が弱ってしまった緋夏は支えなしに歩くことができない。ピクニックなら車椅子でも四人でも楽しむことができる。
「お母さんもいたらなー。仕事で来られないのはわかってるんだけどね」
美菜さんが作ってくれたハムのサンドウィッチを食べながら、緋夏は呟く。シーツの上に座る僕と緋夏の目の前で恭平と陽平が白い息を吐きながら鬼ごっこをしていた。枯れ木の上では名前も知らない鳥が鳴いている。
緋夏がフリーターではなくなった今、治療費を稼ぎ、家計を支えているのは美菜さんだけだ。家族団欒とはいかない。
四人で過ごすこの時間が貴重に思えた。外が寒かろうと、雲から覗いている日差しと同じくらい暖かで心地が良い時間。
「あーあ、眠たくなってきちゃった」
緋夏はサンドウィッチを食べ終え、僕の膝に寝っ転がった。彼女の綺麗な黒髪がふわりと乱れ、瞳は僕だけを捉える。露わになった額に手を置くと、はにかみ、少しだけ顔を逸らした。
「……綺麗な空だなー」
緋夏は目を瞑った。
「二人のはしゃぎ声に暖かな日差しと寒すぎるくらいの風、なびく音……目を開けたら綺麗な空と歩夢くんがいてさ」
目を瞑りながら、緋夏を口を動かす。
「天国ってこんな感じなのかな」
「……天国に僕もいるのか?」
「ふふ、違うよ。多分……私、一人。愛犬がいたら嬉しいな。そうだ、歩夢くんのお母さんにでも会って来ようかな」
「まだ挨拶はさせたくないな。こんな少女に挨拶されてもって感じだろうし」
「はあー? もう立派なレディーですー」
僕は拗ねた緋夏の頬を引っ張る。指から伝わってくる柔らかな感触で僕は緋夏の存在を確かめた。真面目に答えるのが怖かった。
「私、もう死ぬのは怖くないよ」
「……なんで?」
「天国に行けるかどうかはわからないけど、死後の世界がこんなところだったら怖くない」
ふと、母の死を思い出した。体から生気が抜けてただの物体になる。そこに母がいるのにいない。緋夏もそうなるのだろう。あの時は立ち直れないと思うほど苦しくて、辛くて、体の一部が欠けたような感覚だった。死に近い人を愛することほど残酷なものはないのかもしれない。
「もしも、もしもの話だよ? 私が明日にでもいなくなったら、歩夢くんはどうする?」
「黙秘権はないのか?」
「ないよ。いつ急変してもおかしくないってお医者さんには言われた。明日にでもいなくなっちゃうかもしれない」
「僕は……」
「本音だよ。本音で答えて」
僕の魂胆は緋夏にとって見え透いたものらしい。嘘をつくつもりはなかった。そうあってほしいと僕が願った考えだった。けれど現実的に考えたことを本音だと言うのならば仕方がない。
「緋夏が亡くなったらずっと落ち込む、立ち直れる自信がない、一生忘れない……って、言おうと思ったけど、少ししたら立ち直ってると思う。お母さんの時もそうだったから」
「……そっか」
「思い出も忘れて、新しい恋人も作るかもしれない」
彼女を失って落ち込んだところで、父と母に孫の顔を見せないわけにはいかない。
「でも……頭の片隅には緋夏との楽しかった思い出がずっと残り続けるんだと思うよ。だって一番好きなのは過去も未来も緋夏だけだから」
これ以上に好きな人はいない。断言できるほど、僕は緋夏のことが好きだ。
顔を上げると二人は遠くの遊具で遊んでいた。二人きり。緋夏に口付けしようとした時だった。彼女は、涙を流していた。
「やっぱり……嘘。私、死にたくない。死ぬのが、怖い」
緋夏は声を震わせる。そして、僕に抱きついた。
「歩夢くんが好き、大好き。この世で一番、好き。歩夢くんに忘れられるの、嫌だよ。歩夢くんが新しい恋人を作るのなんて嫌だよ。私だけを見ててほしい。私のことを忘れないでほしい……でもね、それ以上に、今が一番楽しいの……大好きって言い合える今が一番楽しいの」
いつも笑顔の彼女が弱気になっているのが少し意外だった。嬉しかった。同時に、苦しかった。我慢していた涙と苦しみがいつ溢れてもおかしくなかった。
お互いに強く抱きしめ合う。強く、強く、抱きしめ合う。
「今が失われるのが……私は一番、嫌なの」
僕は緋夏が落ち着くまで自身の体温を届け続けた。
「緋夏」
落ち着いた頃、僕は緋夏の名前を呼んだ。真っ赤な目で見つめ返す緋夏から僕は唇を奪う。
「なら、生きればいい。来月の緋夏の誕生日はデートをしよう。生きて、泣き顔も笑顔も見せてほしい」
僕はいつも彼女が笑っているように、笑ってみせる。
「……何それ。本当に歩夢くんは失礼だし、意地悪だと思う」
緋夏は散々、僕を罵った後、言葉にした。
「でも、そんなあなたのことが世界で一番好きです」
今度は緋夏から僕に口付けをした。そして、笑った。
どんな名画よりも、ひまわりよりも、輪郭の見えない微笑みよりも、彼女の笑顔は僕の一番だった。
この先、何があろうと、僕の生涯でこの時に見た笑顔は忘れることがないと思った。
いつまでもこの時間が続きますように。
『授業が終わったから、今から向かう』
大学が始まっても僕は緋夏に会いに行く。十七時まで授業があったせいで遅れたが、面談可能時間まで余裕はある。
急いで荷物を片付けると、僕は大学を後にした。好きな人に今から会えるのだと思うと、自然と早歩きになるものだ。一歩、踏み出すたびに昨日の思い出が頭に蘇る。
このまま治ってくれないだろうか。今度はデートにも行きたい。
「……今日も元気だといいけどな」
病院に入ると、いつものように一階の受付へと向かう。正面から入って、左手に受付は位置している。
僕は初めて見る若い看護師さんに話しかけた。
「すみません。白石緋夏さんの面会に来たのですが」
「緋夏さん……?」
看護師は首を傾げる。やがてパソコンを操作し始めた。新しい人だろうか。いつもならすぐに通してくれるが今回のような場合もあるらしい。
看護師はもう一度、首を傾げた後、後ろにいた中年の女性に話しかける。彼女は見たことのある人だった。僕を一瞥してから看護師と話し込んだ後、近づいてくる。胸騒ぎがした。そして中年の看護師は耳を疑うような言葉を口にした。
「……白石緋夏さんは、もうこの病院にはいません」
時間が、止まった。心臓が止まった感覚がした。
「どういう、ことですか?」
「転院されました。個人情報に加え、本人の意向なので場所までは言えません」
「なんで転院……しかも、本人の意向って……」
呆然と立ち尽くす僕に一枚の紙を手渡す。何も言わず、何も言わせず、彼女は受付の中の扉を開けて、中に入っていった。
僕は渡された紙を開ける。
『さようなら』
四つ折りにされ、ノートを破ったような紙の中にただ一言、そう書かれていた。
それから緋夏に何度、メッセージを送っても既読がつくことはなかった。電話をかけても繋がらない。ブロックされているのだろう。
僕は緋夏に捨てられた。訳がわからなかった。怒りは湧かない。逃げられたとすれば僕に原因があるだろうから。ただ、その理由を知りたかった。
約二時間、受付の前のソファに紙を握ったまま座り込んだ。ため息しか出ない。外は真っ暗。父親から夕飯をどうするのか連絡が来ても返す気にはなれなかった。
失意のまま、僕はゆっくりと立ち上がる。ここにいても緋夏には会えない。同時に、中年の看護師が僕の前を通ろうとした。目が合う。
「……何があったのかは知りません。でもあなたのせいじゃないと思うから」
「緋夏から何か、聞いているんですか?」
看護師はかぶりを振る。
「でも緋夏ちゃんを担当してたの。歩夢くんって、あなたのことでしょう?」
「……はい」
「いつも楽しそうに君の話を聞かせてくれたわ」
看護師は小さく会釈をして立ち去っていった。慰めの言葉は僕を多少なりとも歩ける状態にまでしてくれた。
僕が大学に行かなくなるまではそう時間も掛からなかった。一因は緋夏が僕の元から離れたことにある。とはいえ根本的な原因は自分の弱さだ。僕が何もできなかったせいで去ってしまったのだから、緋夏のせいにはしたくない。
緋夏がいなくなってから今日で一週間。連絡は取れず、居場所もわからない。会いたいとは思えど、居場所を知ったところで会いに行く気にはなれない。最初の数日は大学に通っていた。緋夏がいなくなっても時間は流れる。緋夏に言った言葉と同じような生活をしていた。
今は言葉を訂正したい気分だ。
絵が、全く描けなくなった。ペンは握れる。筆は握れる。絵が描けない。
授業内で教授に絵が描けないと申告する日が来るとは思わなかった。家でも絵は描けなかった。絵だけの人間が絵を描けなくなれば、美大で勉強する意味はない。
必然と引きこもりのような生活になった。
「……どうした? 何かあったのか?」
寡黙な父も一度は心配してくれた。けれど心の傷が深いわけではない。心配された時も明るい表情で返答した。胸が苦しくなることも病院以来、ない。全てがいつも通り。強いて言うなら、自分という存在がわからなくなってしまった。
引きこもっていれば物事に対するやる気も起きなくなって、ベッドに寝転びながら緋夏を描いたスケッチブックを眺める毎日。作業スペースのイーゼルには真っ白のキャンバスが立てかけられている。
キャンバスを眺めていると、世界から色が抜け落ちて自分と世界の境界線が曖昧になっていく感覚がする。白色でも黒色でもなくて、言い表すなら全てが同じ灰色。明暗も何もないから灰色だけがそこに存在している。
イーゼルの前の椅子に座って、筆を握った。葛藤すること数時間。キャンバスが灰色に塗りつぶされただけだった。
疲労だけが溜まった僕は机の上のミルクキャラメルに手を伸ばす。空っぽ。もう何ヶ月も前になくなっていた。
ふと、死にたいと思った。
生きる意味を失った僕がこれ以上、生きる意味はない。
「……外、出るか」
何も持たずに一階へ続く階段を降りる。外の空気を吸いたかった。一階のリビングからは珍しく父の笑い声が聞こえた。覗いてみると、テレビを見ているらしい。目が合い、父に手招きされる。
「この番組、中々に面白いぞ」
「……何これ?」
「バラエティ」
父が見ているのは行き当たりばったりの旅をするバラエティ番組だった。旅をする人は有名人でボケやハプニングがあるから確かに面白い。司会進行役の二人によるツッコミも味になっている。父はこういう番組が好きなのだろうか。
「お前のお母さんはツッコミを入れてるあの二人の芸能人が好きだったんだ」
「そうだったのか。有名だよな」
「……二人で見て、一緒に笑ってた。お母さんが好きだったから俺も好きになった」
母が生きていて、今も父の横で一緒に笑っている光景を想像してみる。僕も加わって笑い、家族揃って思い出を共有する。
――面白いね。お父さん、歩夢。
ここに母はいない。
ぼーっとしていると、父がうっすらと笑みを浮かべた。僕に対してだった。何があったかは聞かず、慰めようとしているのだと悟った。相変わらず、不器用な父だ。
気づけば、泣いていた。一粒だけ、涙が出ていた。僕はあくびでもしたかのように目を拭い、父の前に座った。
「……人生って残酷だよな」
テレビを見ながら、僕は呟く。決して自分に対してだけ向けられた言葉ではない。緋夏の余命が短くなったと知った時、なぜこれからという時期に緋夏が死ななければならないのか、やるせない気持ちでいっぱいだった。
僕に緋夏の死を知る権利はないが、どこかで生きていてほしいと願う。最後まで一緒にいることを許してもらえなかった僕ができる唯一のことだから
『歩夢くんが好き、大好き。世界で一番、好き』
でも、あの言葉が嘘だったとは思えない。
会いたい。
緋夏に、会いたい。
「そうでもない」
「……え?」
「人生が残酷な訳じゃない。人生の中に残酷なことがあるだけだ。楽しいこともあれば、悲しい時もある。悲しさが嬉しさに繋がることもある」
父はテレビを見たまま、話を続ける。
「決めるのは自分自身だ。これからの人生をどうするのか、他人や他の物事に委ねてはいけないよ」
「僕自身……」
父の言葉を聞いて、思い出した。母も似たようなことを言っていた気がする。
『でもね。歩夢、私はね……歩夢に自分の人生を生きてもらえればそれでいいんだよ』
十年以上も前に言われた言葉にも関わらず、頭の片隅にはずっと残っていたらしい。当時も今もよく分からない。
「お母さんも同じようなことを言ってた」
「そうか。俺たちはそうやって結婚したからな」
「……どういうこと?」
「俺も同じことを言われた。だからお互いに自分の人生を生きるようにしていた。その先にお互いの存在があった。結婚の決め手は歩夢がお腹に宿ったことでも、結婚しようと決めたのは生きてきた先にお互いの存在があったからだ。必要だったからじゃない」
「難しいな」
「歩夢にはまだわからないだろう。けど、いつかわかる」
父はテレビを消して立ち上がる。リビングから出て行ったかと思うと、手に一枚の写真を持って戻ってくる。
「俺は……あの人が大好きだ。愛している。今でもそれは変わらない」
父は写真を机の上に置いた。写真の中では、母の実家の玄関前で赤ん坊の僕が母に抱き抱えられていて、父が僕を見ながら母の肩に手を回している。数少ない三人の家族写真。
「お父さんの寝室に置いてる写真だよな?」
「ああ、お気に入りの写真だ」
父は写真の上に乗った小さな埃を僕と母を撫でるように、取り除く。
「一緒に年老いたかった。歩夢の成長を一緒に喜びたかった」
父の声が揺らいだ。僕は写真から目を離さなかった。
「それでも俺と歩夢は二人で生きてきた。生きる理由からあの人がいなくなっても、俺はあの人を愛している。いなくなったからこそ、愛していると断言できる」
「……そっか」
「歩夢も愛しているよ。生きる理由は歩夢だが全部じゃない。だからこそ、愛していると言える。良い父親とは、言えないかもしれないけどな……」
「お父さんは良い父親だと思う。お父さんのことは……慕ってる」
愛してる。口に出せなくても、いつも感謝している。
「そう言ってもらえると、お母さんに報告したくなるな。こんなに立派に育ったんだって。あと五ヶ月か。早く一緒にお酒が飲みたい」
父はそう言って、リビングから去っていった。
静かになったリビングで僕は一人呟く。
「……僕は一体、何をしてるんだろうな」
緋夏と出会うまでは母との約束が僕の生きる理由だった。出会ってから、緋夏の存在が段々と生きる理由になって、迷った時に気付いていたはずだ。にも関わらず、立ち止まって、引きこもり。僕は緋夏のことが好きだった。でも愛していたとは言えないのかもしれない。
ふと、僕は顔を上げた。一枚の絵に焦点が当たった。母が描いた絵だった。額縁の中に収まった状態で壁にかけられている。
僕は近づき、額縁の下部を開ける。中から慎重に絵を取り出した。この絵は前の家でもリビングに飾っていた。額縁を開けるのはいつぶりだろうか。絵に直接、触れたい気分だった。いつ見ても綺麗で温かな絵だ。
細部まで見ながら絵を堪能していると、裏面に何か書かれていることに気が付く。裏返してみると、文字やイラスト、写真が印刷されている。ウェブサイトか何かを印刷したのだろう。
『家族旅行におすすめ 将来行くべき海外の観光スポット』
タイトルは黒文字でそう書かれている。
「旅行か、懐かしい」
治ったら旅行に行きたい、と母はよく病院のベッドで口にしていた。どこかに行くのが好きな人で海外にも行ってみたいと父にお願いするくらいだ。昔は金銭的に厳しかったからか、父が渋い顔をしていたのを覚えている。
「……ああ、そっか。僕は本当に何をしていたんだか」
昔のことを思い出して、僕は吹き出した。リビングで一人笑うおかしさも相まって、笑いは止まらなかった。
緋夏の言う通り、僕は本当に大馬鹿ものだ。母との約束という形だけのものに縋って生きてきたのだから。約束した理由にすら目を向けようとしなかった。
洗面台から物音がしたかと思うと、父が戻ってくる。
「……どうした?」
真顔の父が声色に戸惑いを含ませて聞く。息子がリビングで一人、母の描いた絵を手に笑っているのだ。僕は父に質問で返す。
「お父さんの好きな食べ物は?」
唐揚げ、と父は答えた。
僕は笑って、自分の部屋に戻る。
明日から前に進まなければ、今度会ったときに緋夏に怒られてしまうだろう。しかし今日くらいは立ち止まらせて欲しかった。
僕は部屋のカーテンを閉めて、机に置いてあった留学の案内用紙を取る。読み通した後、膝から崩れ落ちた。熱いものが込み上げてきて止まらなかった。
泣いた。
子供のように泣きじゃくった。
生きる理由から緋夏を抜いて、残った気持ちは会いたいの一心だった。
緋夏の声が好きだった。優しい柔らかな声で名前を呼んでもらうのが好きだった。あの声で好意を初めて伝えられた時は生きていて良かったと本気で思えた。
緋夏の笑顔が好きだった。からかう時の悪戯っぽく笑った顔も、犬に触れ合ったときに見せる無邪気な笑顔も、照れた時に見せるはにかんだ笑顔も、何より、いつものなんてことのない笑顔が僕は好きだった。
緋夏が、大好きだった。真面目で不器用で、頑張り屋さんで小学生二人の姉で、よくからかってくる。でもからかわれるのには慣れてなくて、可愛くて、優しくて、どこまでも他人思いの緋夏が世界で一番好きだった。
「……緋夏に、会いたい」
声をあげて泣き続けた。緋夏との思い出が蘇っては過去のものだとして消えていった。
ようやく泣き止んだ頃に僕はカーテンも窓も開ける。身を乗り出すと、冷えた風が熱を帯びた体に吹きかける。
冬の無機質な匂いに包まれながら、緋色に染まった夕方の空を日が暮れるまで眺めていた。
暑い時期は柔らかいから歯にくっ付いて離れない。
寒い時期は硬いから口の中で温めないといけない。
恋も同じ。
熱かった時はずっとその人のことばかり考えているのに、もう会えないのではないかと胸が冷たくなったら温めたいと思うようになる。
「……なんてな。次は何を描こうか」
僕はミルクキャラメルを手に取り、口に運ぶ。最後の一個。味は変わらない。
テーブルの前に座り、木目を見ながら考え込む。ある程度、構想を練ったら、授業で配られた標準サイズのプリント、その裏側にHBの鉛筆で下書きをしていく。過去のデッサンを思い出しながら白の世界に浮かび上がるのは一人の少女。
書くことに行き詰まったら現実に戻る。オレンジ色の卓上ライトのみに照らされて、手の影が紙に映っている。カーテンを開けてみれば、新月の今日、窓の外の街灯がいつもよりも輝いていた。
「それは何を食べてるんだ?」
下書きをしているとルームメイトが英語で話しかけてくる。
「ミルクキャラメル。日本のお菓子だ。もうないけど、今度送ってもらうからその時にあげるよ」
「それは助かる……ところで、あの件、考えてくれたか?」
「留学を一年延ばして、一緒にグループを組むって話か」
「ああ、お前含めた俺たちの絵なら絶対に売れる。事実、売れ始めているじゃないか」
「……そうだな」
僕は手を止める。目も合わせず、浮かび上がった一人の少女だけを見つめる。
もう彼女は美しい女性になっている頃だろうか。
それとも、などと言う想像はしたくない。
「日本で大学を卒業した後はもう一度、ここに来ればいい」
考えていると思われたのか、彼が僕の肩に手を置いた。
答えはもうとっくの前から決まっている。
「悪いが、その提案は受けられないな。会いたい人がいるから」
「好きな人か?」
反射で肩が動く。すると彼は豪快に笑った。
「じゃあ仕方ないか。気が変わったら言ってくれ」
「ああ。そうする」
「早く寝ろよ。良い夜を」
彼は自分のベッドに入るなり、数分で寝息を立て始めた。
下書きを終わらせてしまおうと僕は再び鉛筆を動かし始める。かつて相思相愛だった女性を、今も僕が恋している女性を、形に、絵に。
あなたが天国にいようとどこにいようと僕はいつまでも待っている。
「今日は寒い夜だな」
引き出しから一冊のノートを取り出し、胸に抱き締めた。今でも冷めない熱が胸に届き、心に伝わる。
もうすぐ一年。
僕が彼女と出会ったのは大学一年生の初夏のことだった。
***
梅雨明けのジメジメとした暑さには冷えたミルクティーが効く。
ストローでこまめに吸いながら、英語の勉強をするのが最近の僕の流行り。
と、喫茶店に通う正当な理由を一応は持っている。
英語試験の頻出単語をノートに写すのに疲れた僕は辺りを見渡した。相変わらずレトロな喫茶店だ。家具も壁も柱も木。全体的に木々で構築された空間は外の世界とは隔離されていることを僕たちに示している。カウンター周辺の壁はレンガの模様が描かれていて、カウンターテーブルにはコーヒー豆が詰まったガラス瓶が置かれている。その下のショーケースには食欲をそそるケーキやサンドイッチ。上を見上げれば、和モダンのペンダントライトがぶら下がっている。
照明も空間の色も暗いわけではないので勉強にちょうど良い。冷房も効いている。平日の昼なので客も少なく、いるのは主婦らしき女性と老人、あとは小学生の子供が二人。商品を注文すれば勉強していても問題はない。
四人テーブルのソファに腰掛けながらミルクティーを一口。そしてため息。
勉強に適した空間とはいえ、一時間も勉強していれば疲れてくる。絵ならばいくらでも描けるのに勉強となると途端に手が重くなるのだから不思議だ。
「半分もないか。氷溶けて薄くなってるし、おかわりしてもいいな……って」
完全に集中力が薄くなった状態でガラスのコップを回していると、目の前を一人の女性が通りかかった。
ふわっとしたポニーテールに透き通った白い肌、目が合うだけで心臓さえ動くことを忘れるほどに潤った瞳。横顔も美しいなと思うし、正面で見たらもっと可愛らしい。彼女は白シャツの上に緑色のエプロンを着ていて、格好もまた彼女の可愛さを助長している。
僕は鉛筆と横開きのスケッチブックを取り出し、彼女の絵を描き始めた。あの一瞬、彼女が目の前を通った一瞬を忘れないために。
もう何枚描いていることだろう。スケッチブックの半分が彼女の絵で埋まろうとしている。彼女を描くために買ったのだから当然といえば当然。冷静になれば、描き過ぎな気もする。
――お待たせしました、アイスコーヒーになります。
彼女を目で追いかけ、HBの鉛筆を動かす。色はないし、塗る予定もない。不完全な絵だが、完成させなくていい。僕の画力で彼女の美しさを表現できるとは思えないから。
輪郭を描き、頭を描き、こちらを見ているような構図に変えておく。彼女の足元まで描き、カフェの内装も簡単に描き込んでいく。
下手なストーカーよりも引かれる気しかしない。それでも手は止まらない。
カフェに来る本当の理由は名前も知らない店員の彼女に会いたいがためだった。男の一目惚れだ。間違いなく僕は彼女に惹かれているし、引かれるのは怖い。
連絡先を交換してください、などと言う勇気はない。あれば絵など描いていない。
でも今日の僕は一味違う。彼女の連絡先を聞くために来たのだから。スケッチブックはもう半分も埋まっているのだ。行動せずに終わるのは避けたい。
断られたら仕方がない。鉛筆とスケッチを捨てて数日は筆を握れなくなるだけ。
心の準備をすると、スケッチブックと鉛筆を手さげバッグの中にしまった。
「すみません!」
僕は彼女が前を通りかかろうとしたタイミングで手を挙げる。
「はい、どうされましたか?」
彼女は絵になる笑顔を浮かべながら近づいてくる。描きたい。今すぐ鉛筆を踊らせて、白紙の中に彼女を収めたい。
「……あの、何か?」
彼女は首を傾げる。緊張もあって、見惚れてしまったらしい。
気を取り直し、改めて彼女の目を見た。
「その、れ、れ……れん……!」
「れん?」
今までにないほど鼓動が早くなる。彼女は話を聞こうと、僕の緊張した体に近づくせいで甘い香りが心臓を刺激してくるのだ。もはや目は合わせられない。それでも聞くと決めた。
息を吸い、言い放った。
「……レモンケーキ一つ」
「レモンケーキですね。かしこまりました」
彼女は丁寧にお辞儀をし、去っていった。
僕は彼女の背中を見ながら深くため息をつく。人間の性格は意気込み一つで変わるものではない。もう何度目の失敗だろう。
前の客が立ち去って、柱に設置された鏡が僕の姿を映し出す。髪はボサボサ、ファッションも地味。連絡先を聞こうという意気込みだけして家を出たので、お洒落を忘れていた。連絡先を聞かないのが正解だったのかもしれない。絵ならいくらでも描き込みたいと思うのに自分には興味が湧かない。
「……そういう問題じゃないんだろうけどな」
ボサボサの髪を手で整える。もう一度、鏡を見たところで印象は変わらなかった。
僕は諦めてシャーペンを持ち、英語の勉強を再開した。
注文したレモンケーキが届いたのは半ページ分の英単語を書き終えた後だった。
「お待たせしました。レモンケーキになります」
届けてくれたのは先ほどの彼女。机の上にレモンケーキが乗った皿を優しく置く。
ふと、僕はあることに気づく。クッキーが二枚、ケーキの横に置かれている。二枚とも犬の形をしている。
クッキーを頼んだ覚えはない。問おうとすると、彼女は優しく微笑み、自身の唇に人差し指をあてた。
「しーっ。いつも勉強頑張ってるから、サービスです」
彼女は柔らかな表情から一転、無邪気に微笑む。
「あ、ありがとうございます」
「頑張ってください」
彼女は囁き、注文を待つ次の客に向かっていった。
「……反則、だろ」
耳を包む柔らかな声、鼻から心臓に突き刺さる甘い匂い、加えて無邪気な笑顔。それらを味わえただけで十分だというのに極め付けは優しい気遣い。向こうも顔は覚えてくれているらしい。
僕は再びスケッチブックを開き、彼女の横に並び歩く犬を付け足しておいた。犬のクッキーを見た時、彼女は動物が似合う女性だと直感的に思った。犬は喫茶店内には入れないが現実を非現実に変えてくれるのが絵だ。
そしてスケッチブックから白紙を一枚、剥ぎ取る。
口頭では言えなくても紙なら言える気がした。今、接客しているのは彼女だけだ。皿を片付けるのは彼女だから紙を置いて帰れば読んでくれるはず。
連絡が来るかどうかは別の問題である。
僕はミルクティーを飲み干し、剥ぎ取った紙に伝えたい言葉を書いた。
『連絡先、交換しませんか?』
紙をグラスとテーブルの間に挟み込む。彼女がグラスを片付ける前に残りのレモンケーキとクッキーを食べて、お会計を済ませた。会計を担当してくれたのは彼女だった。
「さ、さっきはありがとうございました」
「いえいえ、お気になさらず。頑張ってくださいね」
彼女はニコッと微笑む。何色にも表現できない笑顔。
会計の時に聞くことも考えたがこの心臓の様子だと無理だ。紙を置いておいて正解だった。それに、これで連絡が来なければそういうこと。口で断られるより傷は少ない。
僕は彼女に軽く頭を下げ、店を去った。
それから五日。彼女から連絡が来ることはなかった。
「何でもいいからお惣菜、か」
大学の授業終わり、ショッピングモール。父から送られてきた買い物リストを見ながら一人呟く。
大学が昼過ぎで終わってしまう日にはいつも暇をしている。大半の僕と同じ美大生はバイトをしているそうだが、する予定はない。暇さえあれば絵を描いていたいし、英語の勉強もしなければならないからだ。材料費を調達したいときは単発のバイトをしている。人と遊ばないのでそれで十分。
授業が昼過ぎで終わった今日、いつもならあの人がいるカフェに足を運んでいるところだが、そうもいかない。連絡先を交換しないか、という紙を残してから彼女からの連絡が来ていないのだ。脈がなかったのでカフェには行けない。行っても気まずい。
カフェに行かなくなってから今日で五日。ベッドで彼女用のスケッチブックを見ながら落ち込んでいたところ、暇なら買い物に行ってこいと父からメールが送られてきて、今は外に駆り出されている。
「お父さんの好きはいまいちわからないんだよな」
買い物リストのほとんどは食材で手元の袋に入っている。あとは『何でもいいからお惣菜』なのだが父の好みがわからない。
父と過ごして十八年、父と二人で暮らすようになって約十年。いまだに父の好きな食べ物がわからない。
「……コロッケか唐揚げでも買ってくか」
買う惣菜を考えながら、モール内を歩いていた時だった。
男児が二人。小学生くらいだろうか。ペアルックなのでおそらく兄弟。身長差はそれほどなく、髪がとんがっている兄らしき人物がおかっぱ頭の弟の手を引っ張っている。
何かを探している様子で弟の方は今にも泣きだしそうだ。
――おねーちゃん、どこ? みつからなかったらどうしよう。
――ばか、泣くんじゃない。俺が見つけるもん。
迷子か。二人の様子に気づいた人は他にいなさそうだ。僕は声をかけに行った。
「どうした? 迷子か?」
「あ……だ、誰?」
兄は弟を後ろにして手を大きく広げる。弟を庇う兄の愛には感動するが不審者だと思われては困る。
「怪しい者じゃないよ。お姉ちゃんを探してるのか?」
「そうだけど」
「じゃあ一緒に探そうか?」
僕は手を差し出す。兄は差し出した手を嫌いな食べ物を前にした子犬のように睨む。
「知らない人にはついていくなって姉ちゃんが言ってた」
「……そりゃあ立派なお姉ちゃんなことだ。顔が見てみたいよ」
警戒心マックスでは助け舟も出せない。弟の方に話しかけようとすると、兄が邪魔をするので顔すら合わせられない。
「困ったなあ。お菓子でもあげれば信用してくれるか?」
僕は手に持っていた袋から飴を取り出す。風邪気味の父のために買ったのど飴だ。フルーツ味なので子供も好きだろう。
「どうぞ」
「飴あげるからこっちおいで、とか、おじさん、完全に不審者じゃん。もっとマシな誘い文句考えなよ」
「……誰もそんなこと言ってねえよ。一緒に探そうって言ってるんだけど。っていうか、まだ十九だし」
「嘘だ。そんなボサボサの髪して、姉ちゃんと同い年なわけない!」
事実なので否定はできない。純粋な目をしているから余計に胸に刺さる。
ここで突き放してしまうのは簡単だが、困っているなら助けたい。
「とりあえずお姉ちゃんの特徴を言ってみろ。一緒に探してやるから」
「なんでおじさんは俺らを助けようとするんだよ」
「子供助けるのに理由なんているか!」
問答の末に僕はようやく子供二人と並んで歩き出した。兄の警戒心は消えていて、二人と簡単な会話はできるようになっていた。
話を聞くと、二人はやはり兄弟で兄が恭平(きょうへい)、弟が陽平(ようへい)という名前らしい。恭平は小学三年生で陽平が小学一年生。姉とここに来たはいいが、姉が偶然にもバイト先の知り合いと出会って話し込んでいたので、その隙に恭平が陽平を連れてゲーム売り場に行ったのだそうだ。戻ったら姉と知り合いがいなくて、迷子。
「自業自得だな」
「じごう……何だ?」
「自分たちが行なった結果だから仕方ない、ってこと」
「いや、俺らが迷子じゃなくてお姉ちゃんが迷子なんだよ」
姉も大変だ。よくわからない理論を唱えるこの男児の面倒を見ないといけないのだから。一方で陽平の方は無口で静かだ。自分を出さない子なのか、ずっと兄に振り回されている。時々、見せる笑みは子供らしくて柔らかい。
そうして三人で話しながら、姉が話し込んでいたという雑貨屋の前に向かった。
雑貨屋は一つ下の階に位置していた。着いても誰もいない。道中も姉に遭遇したり、誰かを探している女性を見つけることはなかった。
陽平は兄の手を握りながら肩を落とす。兄として恭平が励ますも、まだ小学三年生。恭平も不安がっている。近くにあったソファに座っていろと言うと僕は店内をぐるっと見回る。それらしき人はいない。
「おねーちゃん……いた?」
「いや、いなかった。でもここで待ってれば見つかる。迷子の時は不用意に動かないのが正解なんだ」
陽平の頭を撫でると落ち着いたのか、表情を崩す。恭平は不満そうに口を尖らせていたが、何も言わなかった。
「にしても……この雑貨屋、可愛いグッズがいっぱい置いてあるな。特に動物のグッズ」
「うん、姉ちゃんが好きな店だよ」
「何か買おうか? お兄さんの奢りだ」
「ゲーム欲しい」
「それは無理」
僕は恭平の隣に座る。
お洒落で綺麗な雑貨屋だ。暇つぶしに絵でも描いてもいいかもしれない。
ポケットから黒のボールペンとミニサイズのスケッチブックを取り出し、足を組む。そして目の前の雑貨屋を描き始めた。
壁や店内の色は真っ白、床は茶色と白のタイル模様が描かれている。シンプルだが、お洒落と思わせているのは棚の配置とグッズの種類。犬猫のグッズを前の陳列棚に置き、注目を集めている。棚の一番上には可愛らしい動物の人形が置かれていて、犬猫だけではなくウサギやウマもいる。
「おじさ……兄ちゃん、何してるの?」
「絵描いてる」
「うわあ、上手」
恭平は感心したらしく、手元をじっと見つめている。生意気な性格だが子供っぽい無邪気なところは可愛らしい。
「そうだ、恭平たちはあっち向いてろ」
「なんで?」
「いいから」
二人の視界から僕が外れる場所を指差す。二人がそちらを向いたことを確認すると、新しい白紙に絵を描き始めた。
絵に描くのは二人の姿だ。
簡易的でも特徴的なところは押さえよう。正面を向くより背中を見せた方がいいだろうか。
「いつまで?」
「もうちょっと待ってろ」
構図を決め、最初は恭平から。尖った髪を描き、上から下に描いていく。
次は陽平。恭平より低い位置からおかっぱ頭を描くと、あとは同じ要領。二人が手を繋いでいるようにすれば完成だ。
「もういいぞ」
二人は僕の顔を見る。段々と胸元に掲げていた絵に視線を移した。
「うわっ! すっげ! これ、俺と陽平?」
「そうだ。よかったらあげるよ」
「いいのか!?」
恭平は絵を受け取り、天井に掲げる。陽平も目をぱちぱちとさせながら息を漏らしている。
「これ、姉ちゃん付け足せる?」
「やろうと思えば……特徴は?」
「髪長くて、俺らより背でっかくて、兄ちゃんよりは小ちゃくて……」
黒色の長い髪で二人よりは大きく、僕よりは小さい。恭平曰く僕と同じ十九歳のお姉ちゃん。
一人、同じ特徴を持つ若い女性が雑貨屋から離れたところにあるエレベーター付近でキョロキョロとしている。
「あの人みたいな?」
「うん、そう……って」
「おねーちゃん!」
二人が女性に向かって大きく手を振る。女性は二人に気づき、小走りで近づいてきた。
「恭平! 陽平!」
二人は立ち上がり、女性に近づく。ゼロ距離になったところで抱き合い、感動の再会。
「もう、どこ行ってたのよ! 勝手に出歩いちゃダメでしょ!」
『……ごめんなさい』
姉に怒られた二人はしょんぼりと肩を落とした。
一方、姉の目には涙が溜まっている。気が気でなかったのだろう。
ふと、僕は姉を見て、引っ掛かりを覚える。どこかで見たような気がしてならないのだ。二人に顔を埋めているせいで顔はあまり見えないが、姿や声、雰囲気が記憶上の誰かと似ている。
「とにかく、見つかってよかったわ。心配したんだから」
「あのおにーちゃんがいてくれたの」
陽平が僕を指差す。姉が顔を上げ、そして目が合った。
姉の正体はあのカフェの店員さんだった。
お互いがお互いに気づき、気まずい空気が流れる。
「こ、こんにちは」
「……どうも」
彼女は姿勢を正し、会釈する。僕もぎこちない会釈で返す。
「あれ、この兄ちゃんと姉ちゃんって知り合い?」
「知り合いっていうか何というか……弟たちを助けてくださりありがとうございます!」
彼女は深々と礼をした。
「いえいえ、お気になさらず。見つかってよかった」
「本当に何とお礼を言ったらいいか……ご迷惑をおかけしました」
「姉ちゃんが迷子のところを助けてくれたんだから、何かお礼しないの?」
「あなたたちが迷子になったんでしょうが!」
姉の軽いチョップが弟たちに炸裂する。巻き添えを食らった陽平は口を尖らせながらも表情には笑みが含まれている。
姉兄弟で仲睦まじい様子は見ていて微笑ましい。
「すみません、お見苦しいところを。そうですよね。何かお礼の一つでも……」
「別に構いません。二人と一緒にいて、僕も楽しかったし」
胸元で手を振り、お礼を拒否する。
玉砕した相手にお礼を要求したところで相手も困る。
「では、僕はそろそろ……」
彼女の姿を見るのはこれで最後。その場を後にしようとした時だった。
「あの……!」
彼女の声が僕を呼び止める。そして耳に飛び込んできたのは予想もしていなかった言葉だった。
「連絡先、交換しないんですか?」
驚き、目を合わせると、彼女は視線を外す。黙っていると、彼女の方から喋り始める。
「だ、だって、置き手紙してあって……れ、連絡先交換しようってあなたが言ったんじゃないですか」
「でも結局、連絡来なくて……」
「連絡先書いてなかったらどこに連絡すればいいかなんてわかりませんよ」
「あれ、僕、紙に連絡先書いてませんでしたっけ」
彼女がポケットから一枚の紙を取り出す。四つ折りされた紙を開けると、そこに書かれていたのは間違いなく僕の文字だった。
『連絡先、交換しませんか?』
紙にはそう書かれているだけで肝心の連絡先が書かれていない。
「次、店に来た時に交換しようかなって思ってたんです。けど……なかなか来ないから」
「連絡先、忘れてました。断られたんだって勝手に思って、店に行きづらいなって」
自身の失態に苦笑いするしかない。一人で落ち込んでいた僕が馬鹿みたいじゃないか。
彼女の顔が見れなくなって恥ずかしさに身を包まれていると、彼女はいきなり笑い出した。中々、彼女の笑いが止まらないので羞恥心は増すばかり。
「そ、そんなに笑います?」
「あはは、ごめんなさい……でも何だかおかしくって、ふふ。そっか、そういうことか」
彼女はツボにハマったようでお腹を抱えながら笑っている。
相変わらず絵になる可愛らしい笑顔。加えて、弟たちと似た無邪気さ。
やらかしたことに対する恥ずかしさは消えない。けれど彼女の笑顔が見られたならそれでいいかとも思えた。
今ならもう堂々と言える。最初からこうすればよかった。
「改めてですけど連絡先、交換しませんか?」
彼女は柔らかく微笑み、頷いた。
スマホを取り出してお互いの連絡先を交換した。相手のアイコンは犬の写真で名前はひらがなで『しらいし』と書かれている。交換してすぐ、彼女から犬のスタンプが送られてきた。
僕は雑貨屋に目を向ける。恭平の発言は本当だったらしい。よく見てみれば、彼女が肩にかけている白いトートバッグも犬柄である。
「しらいしさんの名前って何ですか?」
「白石 緋夏(しらいし ひなつ)です。緋色のひに季節の夏。あなたは?」
「加賀美 歩夢(かがみ あゆむ)です。夢に歩くって書いて、歩夢です」
「夢に歩く……そっか、いい名前」
そうしてお互いに連絡先の交換と自己紹介を終えた。これ以上話すこともない。
緋夏は弟たちを連れて、僕は惣菜を買ってから帰ろうとする。しかし弟たちがまたいなくなっていた。
「え、あ、あの子たちは!?」
辺りを見渡すと、二人は雑貨屋の隣の隣のカードショップにいた。目をキラキラとさせながらショーケースの中のカードを眺めている。居場所を伝えると、緋夏は手で頭を抑える。姉も大変だ。
「……弟たちがすみません」
「ううん、僕もごめん。ちょっと喋りすぎました」
「そんなことないです。加賀美さんと初めてプライベートで話せて、嬉しかったから」
緋夏は一瞬、頬を赤く染める。僕が返答する前に緋夏は弟たちのところへ向かった。
「また来てくださいね。待ってます」
緋夏は手を振り、カードショップの中へ消えていく。僕は緋夏が見えなくなるまで手を振った。緋夏が去った後もしばらくはその場から動けなかった。早まりすぎた鼓動が体を動かしてはくれなかった。
緋夏のいる喫茶店は最寄駅と自宅の間に位置する。
電車通学なので駅と自宅を往復しているうちに見つけた。そこで働いていた彼女に一目惚れした結果、盗撮まがいのことが習慣化していったのだ。
午後、ジメジメとした暑さと雲一つない空から差し込んでくる太陽光に体を焼かれながら、今日も駅から喫茶店へと足を進めていく。教材とスケッチブックが入った手さげバッグが重い。
訪れるのが六日ぶりだからか、緋夏と知り合い程度にはなったからか。
足を前に突き出すたびに緊張が体に走っている。
昨日の今日なのであれから緋夏とは連絡を取っていない。取ろうか迷った末に直接会って仲良くなるのがいいと思った。ある程度は髪も整えて、会う準備はできている。
歩いて五分、僕は喫茶店の前に着いた。道路沿いに位置するこの建物は人を惹きつける外観している。一階建てで内装と同様、外装も木をテーマにしており、メインの色は茶色。入り口には観葉植物が置かれているので映えるデザインだ。
扉横に張られている大きな窓からは中で働いている緋夏の姿が見える。扉に手をかける頃には緊張も消えていた。
「いらっしゃいませー」
扉を開けると扉上部につけられた鈴の音が店内に響き渡った。
客の注文を取り終えた緋夏と目が合い、こちらに近づいてくる。
「いらっしゃい、加賀美さん。来てくれたんですね」
「ここの商品はどれも美味しいので」
「それはありがとうございます。中にどうぞ」
案内された席は隅のソファ席だった。四人テーブルなので広々と使える。
緋夏の配慮なのか、客が少ない日は決まってここだ。
「ミルクティー、ですか?」
席に座るなり、おしぼりが出され、緋夏がそう尋ねる。
「覚えてくれたんですね」
「だってミルクティー以外は頼まないから」
緋夏はクスッと笑う。恥ずかしさ半分、嬉しさ半分。通い続けてきた甲斐はあった。
「少々お待ちください」
緋夏は背中を向け、後ろの髪がふわっと舞う。甘い香りが鼻腔を掠める。緋夏が視界にいる限りは一枚の絵を見ているような気分。
彼女と連絡先を交換した実感は湧かない。これからどうするべきなのか考えてもいなかった。緋夏の名前をただ知りたくて、連絡先を交換したかった。
考え事をしながら、バッグから取り出したのは英語のノート。
振られたと勝手に思っていた五日間は英語の勉強に集中できなかった。取り返さなければならない。
ミルクティーが来るまで、英語のノートにひたすら単語を書き込んでいく。
「兄ちゃん、何してるの?」
「英語の勉強」
「へー、何でもいいけどケーキ買って」
「ある意味、二人は立役者だからな……何かお礼はしなくちゃか」
「そうだそうだ。お礼、お礼―!」
自然と視界に入り込んできた子供二人に思わず顔をあげる。目の前の椅子に恭平と陽平の二人が座っていた。
「……何でいるの?」
「兄ちゃんこそ何でいるの?」
「それは……」
緋夏に会いに来たとは言いづらい。一旦、シャーペンを置いてから答える。
「ミルクティーを飲みに来た」
「ああ、兄ちゃんって、この店のじょーれんさんってやつか。だから姉ちゃんと……」
恭平は一人で納得したように頷く。
「二人はお姉ちゃんに会いに来たのか?」
「うん。この時間は家に誰もいないから」
「家に誰も?」
「姉ちゃんはバイトだし、母ちゃんは仕事だし。小学生二人だけで留守番は任せられないってさ」
「もしかして毎日来てるのか?」
「うん、ほぼ毎日」
「それは気づかなかった」
家庭事情は人それぞれある。思い返せば、二人と同じような子供をよく見かけていた気がする。
恭平は足元に置いたランドセルから筆箱とファイルを取り出した。陽平も同じように筆箱とプリントを取り出し、宿題をし始めた。
「……なんで二人とも加賀美さんの目の前に座ってるのよ」
僕も英語の勉強を再開しようと思った時、ミルクティーをトレーに乗せた緋夏がやってくる。緋夏はミルクティーを机に置き、二人を軽く睨んだ。
「加賀美さんの邪魔になるじゃない」
「別にいいじゃん。兄ちゃんがここにいたから。俺ら仲良し」
恭平は僕を見てニッと笑った。
「ごめんなさい、加賀美さん。邪魔なら移動させますけど……」
「いいですよ、別に」
僕は二人に笑顔で返して見せる。緋夏の弟ならいいようにするのは当然のこと、という下心はあるが、なくても気にしていない。
「何度もごめんなさい。加賀美さんには迷惑かけてばっかりですね」
「謝らなくていいですよ。二人と一緒にいるの面白いし」
「それは……ふふ、ありがとうございます。だってさ、二人とも」
緋夏は二人を見て顔を綻ばせる。一方、恭平は姉の方を見て眉間にしわを寄せていた。
「そんなに難しい顔してどうしたの?」
「いや、なんで二人とも同い年なのに敬語なの」
「同い年? 私と加賀美さんが?」
お互いに目が合い、緋夏は目をぱちぱちとさせる。
「じゃあ加賀美さんも十八……?」
「いや、十九です。六月生まれで、今は大学一年生」
「うっそ。私、十八だけど二月生まれだから同級生じゃん。てっきり加賀美さんの方が二、三個年上かなって」
「そんなに老けて見える?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……その……」
緋夏は口ごもる。言いたいことはなんとなくわかる。
少し慌てる緋夏の姿に思わず笑った。
緋夏が弁明をしようとしていると、他の客が緋夏を呼んだ。プライベートの感覚で話していたが、緋夏はまだ業務の最中。
「すぐ行きます!」
緋夏は僕に店員らしく一礼してから、
「またあとで」
と、小声で呟いた。
「……兄ちゃん、姉ちゃんのこと見過ぎ」
どれくらいの時間が経ったか。ぼーっとしていたらしく、恭平の声が意識を現実へと引き戻した。
「考え事してただけだ」
「兄ちゃんって、姉ちゃんのこと好きなの?」
表情は変えず、少し考える。
言うべきか、言わないべきか。
「……何でもないよ。小三は男女で仲良かったら恋愛とすぐに結びつけちゃうお年頃だもんな」
「子供扱いするんじゃねえ」
恭平はわかりやすく口を尖らせる。そして再び宿題に取り掛かり始めた。
僕はその様子を眺める。恭平は言動は生意気だが字は丁寧だし、宿題もしているあたり真面目なのだろう。
「そこ、間違えてるぞ」
「え、どこ?」
「一キロをメートルに直してないからおかしくなってる」
「……どうすればいい?」
受験時代は数学をしなかったが、常識的な算数ならできる。指を差しながら少し教えてあげると、恭平はすぐに応用問題まで解き切った。
「ありがと。解けた」
「宿題くらいなら教えられるからわからないことあったら聞けよ」
「うん。そうする」
隣に座っている陽平も鉛筆でプリントに書き込んでいた。しかしプリントが白紙だ。
「陽平は何してるんだ?」
「ん、しゅくだいのうらっかわにラクガキ」
「……なるほど」
陽平は大人しいが真面目ではないのだろうか。絵を見てみれば、意外と上手である。
犬の絵を描いているのだが、体のバランスがしっかりしていて、各パーツも特徴を押さえられている。
「陽平は絵を描くのが好きなのか?」
「うん、おねーちゃんをうまくかけるようになってプレゼントしたいんだ」
子供ながらの無邪気な発言が胸に刺さる。緋夏を勝手に描いたスケッチブックは今もバッグの中に入っている。二人がいるから出していない。
「どーしたの?」
「なんでもない」
「そっか……そういえば、おにーちゃん、おえかきじょーずだったよね? みてー」
陽平は完成した絵を広げて僕に見せる。やはり小一とは思えないほど上手な絵だ。子供らしさがあって可愛らしい。
「いいな。上手だ」
「えへへ、やった。おにーちゃんもかいてみてよ」
「うーん、そうだな」
美大生の僕に絵を描いてと言われると気分が上がる。腕の見せどころ。
手元にあったシャーペンを手に取り、英語のノートに犬を描き始めた。全体像を描くのではなく敢えてイラストっぽく描いてみる。雰囲気を出すよりは簡単で子供ウケもいい。
そうして完成した絵を見せると、陽平は目を輝かせた。
「うわあ、すごい! やっぱりじょーず!」
「犬で大事なのは目だと個人的に思ってる」
「おめめ?」
「たとえば陽平の絵もちょっと目をいじると……」
陽平の描いた絵を模写し、目を変え、色の濃淡を付け加える。すると一般像の犬からしば犬もどきへと変わった。
「すごいすごい!」
「どっちもあげるよ」
「ほんと!? ありがと!」
絵を描いたページだけを破り、陽平に差し出す。陽平は無邪気な笑顔を浮かべながら、差し出した絵を受け取った。
英語の勉強を続け、二人に宿題と絵をそれぞれ教え、疲れたら二人と話す。机の上のミルクティーが無くなっても僕は喫茶店に居続けた。気がつけば閉店時間の十七時半になっていた。
三人で集中していたところを業務を終えた緋夏がやってくる。
「さて、二人とも帰ろっか」
スマホで時間を確認してみると営業時間を過ぎている。窓越しに見る外の情景も橙色を帯び始めていた。
「えー、まだおにーちゃんとおえかきしたい」
「わがまま言わないの……加賀美さんもありがとうございます。いつもこんな時間までいないのに」
「いえいえ、家に帰っても暇ですから。でも、一個だけいいですか?」
「何ですか?」
緋夏の視線が緊張を呼ぶ。連絡先を聞けたのだから大丈夫だと心の中で唱えると、僕は言った。
「同級生だからもう敬語じゃなくてもいいかなって思うんだけど……どうかな?」
「たしかに。それなら加賀美さんじゃなくて、加賀美くん、かな」
「俺はなんて呼べばいい? 白石?」
「白石はここに三人もいるから、緋夏でいいよ」
「緋夏……さん?」
「さん付け禁止。緋夏でいいから」
提案しておきながら、いざ緋夏のことを呼び捨てにするのは躊躇いがある。視線を外しながら僕は緋夏の名前を口にした。
「……緋夏」
「ふふ、よろしく、加賀美くん。これからプライベートの時はタメ口使うから」
会話をしているうちに恭平と陽平は片付けを終えて、椅子から降りる。営業時間は終わっているので僕も急いで机の上の筆記用具を片付けた。
店を出たところで方面が違う三人とはお別れ。
「じゃあね、加賀美くん。明日もここにいるから……その、待ってるね」
橙色に染まる情景の中、緋夏の頬は緋色に染まっていた。
姉を真ん中に、三人は手をつなぎながら歩いていく。
「おにーちゃん、ばいばい」
「また明日―!」
僕は三人の姿が見えなくなるまで手を振った。
三人の姿が見えなくなり、帰ろうとした時だった。突然、心臓が破裂しそうな勢いで稼働し始める。緋夏に会うたび、大きくなっていくこの気持ちがそろそろ抑えられそうにない。
帰路の途中、公園に寄るとブランコに座ってスケッチブックを開く。そして恭平と陽平を描いた絵と同じ構図で先ほどの三人の姿を白の世界に映し出した。
「緋夏を描いている時が一番……」
ふと、膝の上に置いたスケッチブックから顔を上げる。目の前の花壇に咲いた赤い花がやつれた野良犬に噛みつかれていた。
緋夏と連絡先を交換してから一週間が経った。
時間がある時には喫茶店に通うようにしている。以前と違うのは一人じゃなくなったこと。学校が終わる時間になると恭平と陽平が当たり前のように僕の前に座るようになった。二人が来ない土日に行っても肝心の緋夏がいないので、最近はスケッチブックを埋められていない。けれどそれは恋愛が順調に行っている証。
「……兄ちゃん、なんでニヤニヤしてるの?」
英語の勉強をしていると恭平が話しかけてくる。恭平がわざと机に突っ伏すと鏡に口角が上がった自身の表情が映った。
「本当だ。ニヤニヤしてるな」
「うまく英語の問題解けたの?」
「……そんなところだ」
緋夏をデートに誘う妄想をしていたなどスケッチブックを人質に取られない限りは言えない。
一週間が経って、緋夏とスマホで連絡を取ったのは数えられるほど。二人の寝顔が送られてきた時と喫茶店が臨時休業していた時。とはいえリアルでは仲良くなっている。
そろそろデートに誘ってもいい頃合いだろうか。
スマホでのやり取りを増やしてからの方がいいだろうかとも悩みつつ、デートプランばかり考えている。
「またニヤニヤしてる」
「……気をつける」
「そういえば兄ちゃんってなんで英語、勉強してるの?」
「留学に行きたいからな」
「りゅーがく?」
「海外に勉強しに行くことを留学って言うんだ。大学生……早ければ高校生で行けるぞ」
恭平に説明しても首を傾げている。小学校の授業で英語は習わないだろう。あっても外国語の科目で週一の授業だった気もする。留学と言われてもピンとこないか。
「ふーん、知らない」
「僕も小学校の頃にお母さんに教えてもらって知ったからな。普通ならまだ知らないか」
「面白いの?」
「面白いっていうか、目標っていうか……約束だから」
病室にいた母の姿が頭によぎった。二人の年齢くらいの時だったか。
無性に二人が撫でたくなり、僕は手を伸ばして二人の頭を撫でた。恭平は不満を顔に出しながらも子供扱いするなとは言わなかった。
「私も加賀美くんに撫でてもらおっかなー」
二人を撫でている横に緋夏がやってくる。
「え、僕が緋夏を?」
「ふふ、冗談です……本当にしてくれてもいいけど」
僕は二人から手を引っ込めた。心臓に悪いからかいだ。
注文もしていないのでからかいに来ただけかと思っていると、緋夏は品を三つ、机の上に置いた。
「これ、店の試作品だからよかったら食べてみて」
「いいのか?」
「うん、他のお客さんにも渡してるから」
白い皿の上に乗っているのは一瓶の容器。中には緑色がかったプリンが入っている。さくらんぼが乗っていてシンプルだが映えそうなプリンだ。
「名前はまだないけど、新作のフルーツ味のミルクプリンです。キウイ使ってみたの」
「いいな。美味しそうだ」
スプーンを手に取り、口に運ぶ。口の中にまず広がったのはほんのりと甘いミルクプリンだった。後からキウイの酸味が追いかけてきて、クセになる。
「どうかな」
「美味しい。緋夏が作ったのか?」
「うーん、半分。店長の手伝いで一緒に作ったの」
「そっか。僕は好きだな、このプリン」
「ふふ、加賀美くんに言われると……ちょっと嬉しい」
緋夏は頬を赤らめながら、表情を緩める。相変わらず絵になる笑顔。
笑顔を見せるたび緋夏の絵を描きたい、緋夏のことをもっと知りたいという欲が高まっていく。
今、デートに誘っても了承してくれるだろうか。
「加賀美くんって食べ物だと何が好きなの?」
「甘いものが好きで逆に苦いものは苦手かな」
「甘いもの……たとえば?」
「ミルクキャラメルとか」
「へー、ちょっと意外。レモンケーキかなって」
「レモンケーキは……」
何度、連絡という言葉が出せなくて、レモンケーキと言っただろうか。一歩を踏み出すのに必要な過程だった、とでも思わなければ羞恥の色で心が塗りつぶされる。オドオドとしていた自分が恥ずかしい。
「レモンケーキは、ミルクティーとあうだけだ」
「そっか……よく考えてみたら私、加賀美くんのこと全然知らないかも」
「それはお互い様。僕も緋夏のことあんまり知らないし」
「私のことは……うーん、加賀美くんになら言えるかもね」
「それってどういう……」
僕が言葉の意味を問おうとした時、新しい客が喫茶店に入ってきた。緋夏は接客のために席から離れていった。
そうして喫茶店での過ごす時間はいつものように過ぎていった。
「兄ちゃん、ここ教えて」
「おにーちゃん、ねこちゃんかいてー!」
英語の勉強をしながら、二人の家庭教師をやっているような気分だ。恭平には勉強を教えて、陽平には絵を教える。客が少ない時には緋夏がエプロンを外して僕の隣に座り、世間話でもしていた。日常と化した時間。
気がつけば十七時半になり、営業時間を過ぎていた。
「二人とも帰ろっか……って……」
しばらくして業務を終えた緋夏が席にやってくる。僕はノートから顔を上げる。すると目の前の二人は寝息を立てながら寝ていた。机に伏せて、どちらもプリントによだれをつけている。
「寝てるね」
「みたいだな」
集中していたので気が付かなかった。
木曜日。学校終わりで疲れていても仕方がない。
緋夏は二人の肩を軽く揺さぶる。起きる気配は感じられない。
「よっぽど疲れてるのか」
「だね。どうしようかな」
緋夏は肩にかけていたバッグからスマホを取り出す。二人にスマホを向けるとシャッター音が鳴った。今度は僕にも向けるとまたシャッター音。
「……僕の写真、需要ある?」
「ふふ、いいじゃん別に」
緋夏とそんな会話をしていると、陽平が目をこすりながら起き上がった。緋夏を一瞥してから、何も言うことなく片付けを始める。まだ眠そうだ。恭平も時間差で起き上がり、片付けを始めた。
「帰ろっか」
忘れ物がないことを確認してから四人で店を出る。昼間のような熱気は消えていて、夏にしては涼しい夕方だった。
店を出たところで陽平が立ったまま眠っていた。緋夏が陽平の名前を呼ぶと、目をこすりながら一言。
「……おんぶ」
「もう、しょうがないなあ。はい」
緋夏はしゃがみ、陽平が緋夏の背中に乗った。
「姉ちゃん、俺も」
「二人は無理。それにもう小三でしょ。一人で歩きなさいよ」
恭平は要望は跳ね返され、肩を落とす。もう小三と言っても、まだ小三。姉に甘えたい時期だ。僕は恭平の前でしゃがんだ。
「ほら」
「いいの?」
「僕でよければ。男の背中を守ってくれ」
「……ありがと」
恭平を落とさないように太ももの裏をしっかりとホールドし、慎重に立ち上がった。重い。ランドセルの分だろう。バッグも邪魔だが仕方がない。前屈みになると、僕の首に回している恭平の腕から力が抜ける。
「ごめんね、加賀美くん」
「これくらいは任せて。家まで送る」
「ありがとう。加賀美くんはいいお兄ちゃんだね」
「一人っ子なんだけどな」
「そうなんだ、初耳」
眠った恭平と陽平を背負いながら、二人で歩き出す。お互いに男児を背負っているから歩調はゆっくり。カラスが鳴きながら真上を飛び去っていく。
陽平は姉の背中でぐっすりと眠っていた。恭平も一定の間隔で寝息を立てている。緋夏と目を合わせて、二人を起こさないように笑った。
「本当に可愛い弟たちだなー」
「そうだな。絵になる」
「ふふ、美大生らしい発言だね」
「基本的に絵を描くことしか頭にないから」
趣味はデッサンやスケッチ。綺麗なものが視覚に入れば、描きたいという感情が先走る。美術館巡りはあまり好きではない。手を動かす方が好きだから。
「加賀美くんって何科なの? 美術大学って言っても人によって学ぶことは違うんでしょ?」
「美術学科の洋画専攻」
「ふーん」
緋夏は何回か頷く。反応がよくわからない。
「意外か?」
「ううん。毎日、ミルクティー飲んでるし、似合ってる」
「なんだそれ」
「洋画を描いてる雰囲気はあるよ」
緋夏はニヤニヤとしながら答える。
褒められているのか、からかわれているのか。いつものことだが反応に困る。しかし緋夏が笑顔を見せてくれるなら構いはしない。
「加賀美くんって、絵を描く以外に趣味はないの?」
「一切ない。趣味が欲しいとは思ってるんだけど……気づいたら描いてる」
「いいじゃん。素敵だなー、そういうの」
緋夏の言葉に内心では驚いていた。絵を褒める人は多いが、お絵描きをすることが素敵だと言うのは緋夏で二人目だ。
『お絵描きしてるの? 素敵ね。将来は画家さんかしら』
また母のことを思い出す。
「いつかさ、私の絵も描いてよ」
「……気が向いたらな」
「えー、ミルクティー半額にするから」
「職権濫用されても困る。それに描かないとは言ってない」
既にもう描いている。でも緋夏にはスケッチブックの存在は知らせたくないし、緋夏の前では絵を描きたくない。今はこの時間を大切にしたい。
人はいつ死ぬのかわからないのだから。
『見て! ぼく、お母さんを描いたの! あげる!』
『上手ね。ありがとう』
白い空間で佇む母の姿は当時の僕にとってはあまりにも輝いていた。
「私のこと……いつか描いてね」
緋夏の柔らかな表情は記憶の中の母と似た雰囲気を纏っていた。
「気が向いたら描くよ。ちなみに緋夏の趣味は?」
「私は……趣味じゃないかもだけど可愛いものが好き。特に犬」
「犬か。恭平が姉ちゃんは犬が好きって前に言ってたな」
「昔ね、犬を飼ってたの。私が小さい頃に病気で亡くなっちゃったけど、それから好きなんだー」
緋夏は濃くなった橙色の空を仰ぐ。何となく緋夏には犬が似合う。犬柄の白いトートバッグを肩にかけているからだろうか。
そんな話をしている最中、野良犬が緋夏の横をすれ違った。緋夏には目もくれず、道路の脇をまっすぐ進んでいっている。緋夏は野良犬の向かう先を目で追いかけていた。
僕が緋夏に見惚れていると、目が合う。
「あの子、野良犬なの。喫茶店の近所で誰かが餌をやってるからうろついてる。飼ってほしいんだけど、誰も飼わないし、喫茶店でも飼えないから」
「飼ったら犬カフェになるもんな」
「ふふ、たしかに。加賀美くんのユーモア、面白いね」
二人で会話をしながら夕方の帰路を進んでいった。しばらくして緋夏の住む団地の前に着く。三階に部屋があるらしく、エレベーターがなかったので背負ったまま階段を登った。二人はまだ眠っている。
家に入らせてもらい、二人をそのまま寝室に寝かせた。敷布団に寝かせるなり、恭平が陽平を抱きしめたので思わず口角が上がった。仲のいいことだ。
「ここまで運んでくれて、ありがと。今度、お礼でもするから」
「大丈夫。二人の寝顔がお礼になってる」
「ふふ、じゃあまた寝顔の写真を送るね」
緋夏は二人の頭を撫でた後、寝室の扉を閉める。
これで実質、部屋に二人の状況。親はいないらしく、男と二人きりなど怖さはあるだろう。お暇しようとした時だった。
「ちょっとだけ涼んでいきなよ。流石に暑かったでしょ」
たしかに恭平を背負っていたので体には汗をかいている。
「それにもうちょっと話したいし」
緋夏にそう言われ、断れるわけもなかった。
「なら……遠慮なく」
「うん、くつろいでて。何飲む?」
冷えた麦茶を所望し、僕はテレビの前のソファに座らされる。待つこと数分、緋夏は麦茶の入ったグラスを二つ、机の上に置いた。そして僕の横に座る。距離は、近かった。手を少し伸ばせば触れられる。
脈ありと捉えるべきか、意識されていないと捉えるべきか。
どちらにせよそろそろデートに誘いたい。
「……私の顔、何かついてる?」
「あ、ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「加賀美くんもお疲れだね。大学生はやっぱり忙しい?」
「忙しい。でも楽しいよ」
「そっか。いいなー、大学。私は高校卒業してからフリーターやってるから」
「ってなると、緋夏の方が大変な気もするけど」
「お互い様だよ。みんな大変」
緋夏はグッと腕を伸ばす。腕を上に伸ばした時に胸のラインが強調されて、反射的に目を逸らした。
ふと、逸らしたついでに辺りを見渡す。母、緋夏と恭平、陽平の四人で住んでいるらしいが人数を考えると狭い。
「大変でも、そうだね。私は……稼がないといけないんだよね。お父さんがいないってだけでも辛いのに、金銭的に弟たちに大変な思いをさせたくないな」
緋夏は前を見ながら言う。視線の先には鏡として以外は何も機能していない真っ黒なテレビが存在している。どう反応すればいいかわからず、僕は話題を変えた。
「そういえば三人は兄弟仲が良いよな。恭平と陽平も歳の差が離れてないから喧嘩しそうなもんだけど」
「陽平が優しいから我慢してるだけなんだけどね」
「……たしかにそうだな」
「でも周りと比べたら仲は良い方だと思う。家族で協力しあって生きてきたからかな」
緋夏と二人の歳の差は離れているので仲が良いのはわかる。むしろ緋夏が二人に愛を注いでいる。可愛い弟二人を持つとブラコンにもなるだろう。
三人で仲が良いのはずっと協力しあってきたからだとしたら、見習わなければならない話だ。父に支えられてばかりの僕は父の好物すら未だに知らない。
「ねえ、加賀美くん、突然なんだけどさ」
「どうした?」
緋夏は神妙な面持ちで僕に向き合う。一拍置いてから、言った。
「私って、いいお姉ちゃん、できてるかな」
緋夏の視線は寝室へと移る。いつも笑顔の緋夏が珍しく真剣な表情を浮かべている。
弟たちには甘く、自分には厳しい。
一瞬、心臓が大きく高鳴る。最初は一目惚れだったのに気がつけば性格にも惚れている。どうしようもない。僕は自分に笑ってしまった。
「な、なんで笑うの?」
「ごめん。緋夏のことを笑ったわけじゃないよ」
緋夏の目を見て、僕は言った。
「そうやって悩んでるのが答えだと僕は思うけどな」
「どういうこと?」
「今だって頑張ってるのにいい姉になろうってまだ頑張ろうとしてる、可愛いお姉ちゃんってこと」
「でも……え、か、可愛い?」
緋夏は何度も瞬きする。自分に指を差して、首を傾げる。
「私、口説かれてる?」
「……今のはなし。いいお姉ちゃんって意味だ」
僕は咳払いをして誤魔化そうとする。本音が口から滑ってしまった。顔が徐々に暑くなっていくのを感じる。
しかし誤魔化しきれず、緋夏は真面目な顔から一転。笑い始め、お腹まで抱える。
「ぷっ、ふふ、そっか。私って、可愛いお姉ちゃんかー」
「い、言いたいことはわかるだろ」
「わかってるよ。けど……ふふ、ちょっと元気出た」
緋夏の目には笑い涙までも浮かんでいる。僕は羞恥心で押しつぶされそうだった。真面目に答えるつもりが二つの意味で滑ってしまった。
「ありがと。慰めてくれて」
「何もアドバイスはできてないけどな」
「ううん、自信が出た気がする。だからありがとう」
笑顔の輝きは元に戻っている。やはり緋夏は笑顔の方がよく似合う。
「緋夏は頑張りすぎる癖があるから……その、疲れたら、頼ってくれ。弟たちと遊ぶくらいならできるし、相談にも乗るから」
かっこいいことは言えない。一丁前に行動できるわけでもない。それでも緋夏のために何か行動したい。笑顔の緋夏を描きたいから。
「そうする。可愛いお姉ちゃんでいたいからねー、ふふ」
「……おい」
緋夏はいつものように僕をからかう。笑顔でいてくれるなら悪い気はしない。
「やっぱり加賀美くんになら言えるかもね」
「何が?」
「私の秘密。まだ言わないけど」
緋奈はグラスを手に取り、一気に飲み干した。
「加賀美くんが驚くに賭けてもいいよ」
「驚かなかったら?」
「何でも一個、言うことを聞いてあげる。その代わり、驚いたら私の絵を描いてよ」
「そんなに描いて欲しいのか」
「だって将来、画家として有名になるかもしれないじゃん」
緋夏は僕の右手に触れる。グラスを持っていたからか、冷たさが伝わってくる。そして僕の中指を手で包んだ。
「こんな大きなペンだこ付けてて、有名にならないわけないよ」
「……緋夏の言う将来でも仲が良かったら、わざわざ今、絵を描く必要もないけどな」
「それでも描いてもらいたいの!」
緋夏は顔を近づけ、睨むように僕を見つめる。睨むと言っても可愛いことには変わりないので心臓がもたない。
「わ、わかったから」
僕が折れると、緋夏は満足したように笑った。
そうして緋夏と二人きりの会話を楽しんだ。一対一で長時間話すことはなかったからか、いつもよりも体が熱い。時間の感覚を忘れて、気がつけば十八時半を過ぎようとしていた。
「もうこんな時間か。そろそろ帰ろうかな」
「うん。二人がまだ寝てるから玄関までだけど、見送るね」
僕はソファから立ち上がり、余っていた麦茶を飲み干す。忘れ物がないかチェックだけした後、玄関で靴を履いた。
「加賀美くん、また二人で話さない?」
「ああ、そうだな。楽しかった」
「今度は加賀美くんの悩みも話してよ。相談に乗ってあげる」
「じゃあそうさせてもらおうかな。僕のことも知ってもらいたいし……緋夏のこと、もっと知りたいし……」
今、誘うのは不自然だろうか。もっと後の方がいいだろうか。
結論が出ないまま玄関に立っている。デートプランも考えていない。あるのはただデートに行きたいという気持ちだけ。
緊張しながらも緋夏の顔を見る。引き込まれるほど綺麗な瞳、触りたくなる頬と白く透き通った肌。きっとこの感情は何色にも当てはまらない。どんな形でも表現できない。
緋夏のことを、この感情をもっと知りたい。
「もっと知りたいし……だから、その……」
口が動かない。もごついてしまう。連絡先を聞くより緊張するではないか。
緋夏は黙って、僕を見ている。次の言葉を待っている。
僕は大きく息を吸う。そして言葉にした。
「今度、僕とデート、してくれませんか」
緋夏は笑みと赤みを表情に含ませ、たった三文字。
「いいよ」
デートは誘った次週の日曜日に決まった。
着ていく服を用意し、散髪に行ったりして喫茶店には行けなかった。スマホでの連絡は頻繁にするようになった。デートのプランを決めているうちにやり取りが増えたのだ。
『今日は来なかったんだね』
『五限まで授業あったから。散髪も行ってた』
『髪切ったんだ! 期待してる!』
『ただ切っただけだから期待されても困る』
気がつけばスマホを見てニヤついている。やり取りが増えると通知が気になってくるもので、英語の勉強に集中できない。まともに絵を描くこともできなかった。夏休みの課題として出された油絵制作も上手く進んでいない。一番好きな制作であってもだ。
緋夏との初デートは美術館と犬カフェに決まった。どちらとも緋夏の要望である。美術館を案として出された時は意外だった。美大生の僕に解説してほしい、とのこと。緋夏が行きたがった美術館は動物を取り上げた芸術家の作品がメインだった。詳しくはない。それでも僕と行きたいと言ってくれたのでその二つに決まった。
時間の流れはあっという間だった。起きた時にはデート当日の朝になっていた。
『明日の集合は十時だからね。早く寝るんだよ!』
『そうする。緋夏もしっかり寝てくれ』
『うん。おやすみ、加賀美くん』
『おやすみ』
当日の朝、六時に目が覚めた僕は昨夜の緋夏とのやりとりを見返す。カーテンの隙間から差し込む白い光は寝ぼけた僕の頭を活性化させ、徐々に緊張を生ませた。
まだ待ち合わせ時間まで四時間もあるのに落ち着かない。緊張ほぐしのためにもスクロールをして、緋夏とのトーク履歴を見返していく。やりとりを始めたのがここ数日のことだったので、すぐに一番上へと辿り着いた。
「おはようって送った方が……まだ早いか?」
一人で問答しつつ、ベッドで転げ回る。やがて設定していた棚のアラームが鳴った。僕はベッドから起き上がり、アラームを消す。遅れるよりは早めに準備する方がいい。緊張をほぐしながら身支度をし始めた。
「どこか行くのか?」
ちょうど家を出る前、父が部屋から出てきた。ボサボサの髪をかきながらあくびをしている。以前の僕と父が似ていたことに気づき、改めて玄関の鏡を見る。髪は慣れないワックスで整えているし、服装もおかしくはない。
父ほど忙しくもないのにお洒落すら怠っていた過去の自分が恥ずかしくなる。
「友達と……遊んでくる。夕飯はまた連絡する」
「わかった。お小遣いは足りるか?」
「大丈夫。いってきます」
父に見送られ、僕は家を後にした。待ち合わせは駅前だった。通学する際にいつも利用している最寄駅だ。遅れるなら早く行って待とうと思い、駅前に着いたのは待ち合わせ時間の十五分前。日曜日だからか、駅周辺はいつもよりも人が多い。空いていたベンチに座って緋夏を待つ。スマホを開ける。九時四十六分。到着したと連絡するのは急かしていると思われるだろうか。とはいえ昨夜以降、何も連絡していない。おはようと一言送ることも結局していない。連絡も来ていない。
『先に着いたからベンチに座って待ってる。緋夏はゆっくり来てくれ』
僕は緋夏にメッセージを送り、スマホをしまった。
ふと、僕は線路を見る。線路からは陽炎が立って景色が歪んでいる。日陰にあるベンチとはいえ体からは汗が滲み出ている。美術館や犬カフェなど中で楽しめるものでよかった。僕は自販機で冷えた麦茶を買い、体を冷やしながら緋夏を待った。
九時五十五分、待ち合わせ時間五分前。緋夏はまだ来ていない。スマホを見ても送ったメッセージに既読はついていない。外にいて確認していないだけだろう。もうすぐで来そうだ。
暇つぶしに描いていたスケッチをしまって緋夏を待った。一分、また一分と時間が経過していく。待ち合わせ時間の十時。緋夏はまだ来ていない。
女性は準備に時間がかかるというので十分くらいは気長に待とう。
一分、また一分。十分が経過しても現れない。送ったメッセージには既読がついていない。
『あとどれくらいで着く?』
メッセージを送った後、待ち合わせの日にちが今日であることを改めて確認する。間違いはない。待ち合わせ時間も午前十時だ。
緋夏からの連絡を待ちながらスケッチを再開した。白い紙の中に道路ができて、線路ができて、駅ができる。三十分、一時間と経過して、結局、緋夏だけは描けなかった。変わりゆく人の移動の中に緋夏はいない。お茶を口に含むとそのぬるさに驚いた。
痺れを切らした僕は電話をするも繋がらない。
『駅の中で待ってるな』
中に移動し、再び緋夏を待つ。一時間、二時間、三時間。太陽が真上に登り、沈むまで緋夏は現れなかった。楽しみにしていた日曜日の半日は駅の中で座っているだけで浪費された。日が沈むまで待ったのはほんの少しの期待があったからだと思う。ただ、父からの連絡で僕は我に帰った。
『夕飯どうする?』
返信する前に緋夏とのやりとりを見る。相変わらず既読がついていない。どこで間違えたのだろうか。
「嫌われた……のか?」
僕はゆっくりと立ち上がる。ちょうど電車がやってきて改札から多くの人が流れ込んでくる。遊び帰りの学生は顔に疲れを見せながらも満足そうに笑みを浮かべていた。
連絡先を変な方法で聞いたときかもしれない。
お洒落を頑張るのが遅かったのかもしれない。
緋夏の悩みに対する発言が悪かったのかもしれない。
思考がぐるぐると回って、家に向かう足は遅くなっていた。駅から離れたくない。もしかしたら、という思いを胸に振り返る。いたのは赤い花を咥えた野良犬だけだった。
その日は喪失感を胸に抱えたまま帰路についた。父には楽しかったと伝え、自身の恋が終わったことをベッドの中で一人悟った。
月曜日を迎えて僕は大学に行った。昨日の感情のほとんどは消えていて、強いて言うならば心に穴が空いた気分。憂鬱ではない。
どれだけ辛いことが起きようと、世界には新たな絵が生まれる。嘆いても夏の葉っぱは緑色。下を向いてもアスファルトは灰色。空は見上げたくないが、どうせ色がついている。前の日常に戻っただけ。
月曜日は座学とデッサンの必修授業がある。デッサンは好きだがデッサンの授業は好きではない。周りの人たちは当たり前のように上手い。海外のコンクールで入賞していたり、すでに個展を開いたりしている人もいる。周りと自分の絵を比べるたび、なぜ僕が美大に入れたのか不思議に思う。加えて、絵を描くことが何なのか定まっていない僕は周りとの会話についていけない。
――あの人の授業、すごい嫌なんだけど
――今度の課題の件だけどさ
予備校でも絵や感性を磨いたはずなのに絵を描き続ける原動力は一つしかない。だから与えられたことをこなすだけ。自立していない考えとあまり上手くもない絵を描くことが唯一の趣味であるせいで大学には友達がいない。
小さい頃からずっと絵を描き続けているのに情けない。
『素敵だなー、そういうの』
緋夏の発言が蘇る。頭を横に振り、僕は授業に専念した。
五限目の授業にも出席してから大学を後にする。大学から駅まで歩き、自宅の最寄り駅まで電車で移動する。いつもの帰路。
空を見上げればやはり色が視界に入る。橙色。曇りであってほしかった。今は明るい絵を描く気分ではない。天気さえ良いモデルにはなってくれないのか。
考えながら僕の足は喫茶店へと向かっている。緋夏の姿を一目見たくなった。まだ営業時間内なので店内にいるはずだ。
やがて僕は喫茶店の前に着いた。中から見られないように木の後ろへ隠れて、店の窓を覗く。緋夏はいなかった。代わりに別の女性従業員がいる。一度入って、緋夏の居場所を聞いてみようかとも思った。けれど未練がましい人だと緋夏から思われるのも怖い。
「……既読はついてないし、ブロックされてるのかもな」
スマホを握りしめ、僕が家へ帰ろうとした時だった。手に振動が伝わったかと思うと通知音が鳴った。
送り主は緋夏だった。
『ごめん。今頃、すごく怒ってると思う』
僕はスマホを手に、固まる。続けてメッセージが送られてくる。僕はその内容に自分の目を疑った。
『日曜日の朝に倒れちゃって、今起きたところなの』
緋夏が、倒れた。
理由はわからない。嫌な記憶が頭によぎる。ロック解除を二回間違えた末にスマホを開けて、連絡を返す。
『大丈夫なのか? 今は病院?』
すぐに既読がついた。
『うん、病院』
『すぐに行くから場所を教えてくれ』
『落ち着いて。私はもう元気だから』
スタンプも送られてくるが顔を見ないことには安心できない。不安が心地の悪い汗を生む。
『明日、来てくれたら嬉しいな。加賀美くんと話したい』
緋夏から病院の位置が送られてくる。今すぐ駆けつけたいところだが少し遠い場所にある上、目覚めたばかりの緋夏に面会できるかどうかはわからない。
『わかった。昼前くらいに行く』
『ありがと。それと、日曜日は行けなくてごめん』
『謝らなくていい。明日、また話してくれ』
スマホをしまい、僕は無駄な早足で帰路についた。
「お母さんが倒れた。お父さんと一緒に病院に行こう」
十年以上の前の話。母が入院した時のこと。
当時、小学生だった僕は授業を受けている最中だった。途中で父が迎えに来て、母が入院する病院へ向かった。今でも何となく覚えている。
小さいながら母が大変な目にあっていることは理解していて、病院へ向かう車の中ではずっと不安でいっぱいだった。父と会話した気がするがそこまでは覚えていない。不安が消えたのは病院に着いて、母の元気な顔を見た後だった。
「ごめんね、歩夢。心配かけたね」
頭を撫でる母の手の感触を味わい、耳に馴染む声を聞いて、やっと安心を得られた。結局、不安だったのはその日だけだった。今ならわかる。入院していても、母は僕を不安にさせないように努力していたのだと思う。
一年、二年と過ぎて、もう十年。
『病院、着いたよ』
昼前、太陽がまだ真上まで登っていない時間。
僕は母が入院していたような大きな病院を視界の中心に置いていた。誰かの見舞いに行くことなど母以来だ。
『受付してきて。病室で待ってるから』
緋夏から連絡が返ってくると、中に入って受付を済ませる。面会許可証を首にかけ、緋夏が入院する病室へと向かった。エレベーターで七階まで登り、病室の案内を見ながら歩いていく。目的地に着くと、迷うことなくドアを開ける。すると僕の視界に手を振る緋夏の姿が映った。抱えていた不安がひとまず安心に変わる。
病室は大病室のようでベッドが六つもあった。満床で他はカーテンが閉まっていたり、新聞を読むお爺さんがいる。
緋夏の病床は入って一番右奥。僕は緋夏に手を振り返しながら近づいた。
「加賀美くん、来てくれてありがとう」
近づくなり、緋夏はニコッと笑った。いつも通りの笑顔に胸を撫で下ろす。
「とりあえず元気そうでよかった。もう大丈夫なのか?」
「大丈夫。今日の夕方には退院する予定……立ってないで座りなよ。ゆっくり話そ」
言われた通り、僕はベッド横にあったパイプ椅子に座った。冷房がよく効いていて座ると心地が良い。
懐かしい感覚。
目を合わせると緋夏は柔らかく微笑む。
「外、暑かったでしょ。汗だくじゃん」
「悪い。急いで来たから」
「こっちこそごめんね。授業終わり?」
「ああ、必修だけ受けてきた」
「お疲れ様。今日に限って、雲ひとつない良い天気だから困りものだね」
緋夏の視線につられて、背後にあった窓から外の景色を見る。空はたしかに雲ひとつ浮かんでいない。
そこで世間話が終わり、会話が途切れる。空を眺めて沈黙を長引かせた後、ようやく緋夏の方を向いた。緋夏はただ俯いていた。
「良ければ、何があったのか教えてくれないか? 大変だったことはわかるんだが……」
「うーん、どこから話そうかな」
「土曜日の夜は何ともなかったのか?」
「そうだね。倒れたのは日曜日の朝だから」
緋夏はぽつぽつと話し始めた。
「土曜日は家でずっと二人の面倒を見てたの。その時は体調悪いかなー、くらいだったんだけど夜に酷くなっちゃって、加賀美くんとやり取りした後はすぐに寝た。寝たら治るだろうって思ってたから。でも朝に起きたら起き上がれないくらい酷くなってて……無理やり起き上がったらそのまま倒れちゃったの」
最初は明るかった声色はだんだんと暗くなっていく。緋夏の表情からは笑顔が抜け落ちていた。
「次に起きたら、病室で月曜日の夕方だった……笑えないよ」
緋夏は掛け布団を強く握り締める。手元を見たまま、小さく肩を震わせている。どう言葉をかけたら良いのか、わからない。
「きっと待っててくれたよね。ごめんね」
「謝らなくていい。こればっかりはどうしようもないだろ」
「どうしようもない……そう、かもね」
緋夏は言い終えると、黙り込んだ。
「本当に気にしなくていいから」
当たり障りのない言葉を投げかるが返ってこない。緋夏の耳に届いている様子はなかった。気まずさは、誰かが新聞紙を開ける音を鮮明にさせている。
沈黙に耐えかねた僕は緋夏に質問を投げかける。
「結局、原因は何だったんだ?」
「大したことじゃないよ。連日の疲れ」
「ずっと働いてるもんな。今はゆっくり……」
「って、言えたらよかったんだけどなー」
緋夏はため息まじりに含みのある言い方をする。手を前に突き出して体を伸ばした後、僕を見た。
「今から言うこと、弟たちには内緒ね。私の秘密」
緋夏は息を吸い、言った。
「私さ、あと一年ちょっとしか生きられないみたいなの」
耳に入ってきた言葉は現実を疑わせるにはあまりにも十分だった。緋夏が無理に浮かべる表情が記憶の中の母と重なる。
「一年ちょっとしか……生きられない?」
「うん。倒れたのも病気のせい。高校卒業と同時に余命宣告を受けてさ、遺伝性の病気で父親が持ってた可能性が高いんだって。自分の人生に笑うしかないよね、本当」
「……前に言ってた秘密って余命のことだったのか?」
「そうだよ。いつかは打ち明けようと思ってたの。驚いた?」
「驚いたも何も……そりゃあ驚くだろ」
緋夏は僕の反応を見てクスッと笑う。僕は嘘でも笑えそうになかった。好きな人が余命宣告を受けていると知って、容易には受け入れられない。
「手伝えることがあったら……言ってくれ。何もできないけど」
あの時と同じ。
「加賀美くん」
僕は無意識に俯いていた。名前を呼ばれて顔を上げると、緋夏は胸の前に一冊のノートを掲げていた。緋夏がノートを突き出したので、僕は受け取った。
『死ぬまでにすることリスト』
表紙には黒ペンでそう書かれている。
「……これは?」
「私が死ぬまでにやらなきゃいけないことをまとめたノート。もしよかったら手伝ってくれないかな」
「僕が? もっと他にいないのか?」
「ふふ、さっきまで手伝うって言ってたのに」
「僕なんかでいいのかってことだ。友達とか、もっと他にいるだろ」
「友達はいないよ。高校生の時はずっとバイトしてたから。恋人もいないし、頼れるのは歩夢くんだけ」
頼られるのは素直に嬉しい。僕が頼られるほどの存在ではないことを除けばの話だ。それでも僕が断れば緋夏は一人で行動しなければならない。
一人には、させたくない。
「普通は断りたいだろうし、断っていいよ。あと一年で死ぬかもしれない人間とは関わらない方が……」
「手伝うよ。このノートに書かれてること」
「加賀美くん、よく考えてから結論……」
「考えた。手伝うよ」
緋夏は即答した僕を見つめて何度か瞬きする。
「でも一個だけ条件がある」
「何?」
「加賀美くんじゃなくて、下の名前で呼んでくれたら手伝う」
僕は真面目な表情をしながら言う。少し間をあけたあと、緋夏は吹き出した。
「ぷっ、ふふ、加賀美くんって意外に頑固?」
「また苗字呼び。僕だけ緋夏呼びはずるいだろ」
「もしかしてずっと気にしてたの?」
僕が頷くと緋夏はさらに笑う。目に涙が出るほど笑っている。
不満を表情に出すと緋夏は笑うのをやめた。
「じゃあ……歩夢くん!」
いざ名前で呼ばれると、緋夏の目を直視できない。同時に笑みも隠しきれなかった。
「これでいい?」
「……ああ、手伝うよ」
「でも本当にいいの? 私、歩夢くんに迷惑はかけたくない」
「いいよ。手伝う。それに……デートもまた誘っていいか?」
アタックせずに失恋するなどこちらからお断りだ。
「……うん。ありがと」
緋夏は視線を逸らしながらも礼を述べた。
「ちなみにやらなきゃいけないことって具体的に何だ?」
手伝うとは言っても内容によって役に立てる自信はない。僕は手元のノートを開けようとする。緋夏は僕が中身を目にする前にノートを取り上げた。
「恥ずかしいから見るのは禁止。手伝ってほしいことはその時に言うから」
「……もし見たら?」
「ちょっと怒る。歩夢くんがノートを見るのは私が死んだ後かなー」
「反応しづらいジョークはやめてくれ」
緋夏は悪戯っぽい笑みを浮かべるが、笑えない冗談である。
正直、まだ飲み込めていないことも多い。それでもノートの内容を手伝うだけで緋夏の笑顔が見られるなら容易い。あの時の罪滅ぼしにもなるなら断る選択肢はなかった。
それから緋夏と世間話をしながら過ごしていると看護師の人が緋夏の昼食を持ってきた。スマホを見れば十二時を過ぎている。
「歩夢くん、お昼は食べたの?」
「まだ食べてない。買ってこようかな」
「うん、一階にコンビニがあったはずだよ」
「何かいるか?」
「じゃあ私の好きそうなものを一つ、買ってきてもらおうかな。歩夢くんのチョイスが気になる」
僕は承諾し、大病室を出た。
緋夏の好きそうなものと言われても見当がつかない。病気の件もそうだが、僕はまだ緋夏のことを知らない。もっと知っていきたいし、だからデートもしたい。緋夏が治るまで隣にいたいとも思う。
僕は訳もなく息を漏らしていた。感情がごちゃ混ぜ色になっている。
緋夏の好きそうなものを恭平か陽平に聞けたらな、と考えながら廊下を歩いていた時だった。聞き慣れた声が耳に入ってくる。
「おにい、ごめん」
「だから陽平には怒ってない。イライラしてるだけだってば」
声の正体は恭平と陽平だった。二人は七階のエレベーター付近にある公共のスペースで椅子に座っている。
「あれ、恭平と陽平もお見舞い?」
「……兄ちゃん」
恭平は顔を上げる。今日の恭平は不機嫌が前面に出ていた。
「そうだよ、お見舞い。兄ちゃんも?」
「ああ、さっき行ってきた」
「ふーん……働き過ぎで倒れるとか、姉ちゃんも気をつけろよな」
恭平は貧乏ゆすりをしながら呟く。やはり病気のことは知らせていないらしい。知る事になるのは病気が悪化した時か、二人が大きくなった時だろう。もし二人が知る前に緋夏が亡くなったら、と考えるだけで胸が痛む。
「兄ちゃん、なんでそんな微妙な顔してるの?」
「それは恭平も同じだと思うんだけど」
「別に微妙な顔してないし、不機嫌でもない」
恭平は言いながら、突き放すような言い方で口も髪型と同じくらい尖っている。僕は丸テーブルを挟んで二人の向かい側の椅子に座った。
「自販機で何か買ってあげようか?」
「別にいらない」
二人の後ろには自動販売機が数台設置してある。飲料の自販機やアイスの自販機など種類は豊富。子供なら好きそうだが見向きもしない。
「何かあったのか?」
僕が聞いても恭平は答えない。すると隣にいた陽平が代わりに答える。
「おにい、がっこーでともだちとげーむしてたらまけちゃったの」
「それで拗ねてるのか」
「違う。カードゲームで負けたのは事実だけどそういうことじゃねえよ」
「……にせかーど、わたしたのおこってる?」
「にせかーど?」
「俺が持ってないディアクレスヘラクレススーパーハイマー初号機を相手が持ってて、それで負けた。陽平に話したらカードを作ってくれたんだ」
「ディアクレス……?」
「一番強いカード」
恭平はポケットから一枚の紙切れを取り出す。しわくちゃになっているが、陽平が作ったカードのようで長方形の紙切れの中にキャラや文字が鉛筆で書き込まれていた。大部分を占めているのがドラゴンの絵だ。描くのが難しいだろうがドラゴンだとはっきりわかる。前足の部分が描き込まれていて、陽平の絵は前よりも格段に上手くなっている。
「これはこれでありがとう」
「えへへ、どーいたしまして」
兄に頭を撫でられた陽平は嬉しそうに顔を綻ばせた。カード程度なら買ってあげないこともないなとスマホで調べれば一番安いカードで三万円もする。五万円や十万円も珍しくない。
「……高いな」
「うん、パックで引かないとゲットできない」
恭平の機嫌は治る気配を見せない。放っておいたら治りそうだが不機嫌の恭平を見るのは緋夏が可哀想だ。
「よし、カードは買えないけど、コンビニのものくらいなら何でも買ってあげよう」
「何でも?」
「……買える範囲で。行く?」
二人は同時に頷いた。そうして二人を連れてコンビニまで向かう。
単発バイトで稼いだお金がまだある。新しい英語の教材に充てるつもりだったが子供二人に奢るだけの余裕はあった。
「おにーちゃん、おかねあるの?」
「ちょっとだけな。もうすぐ夏休みだから短期でバイトしようとも思ってるし……二人の夏休みはいつからなんだ?」
「来週」
「早いな。そういえば今日は学校ないのか?」
「よくわかんないけど、半日授業だった」
「ひさしぶりにおかーさんにおくってもらったの!」
陽平は無邪気に笑いながら右手でチョキを作る。何だか、段々と二人が自分の弟であるかのような錯覚がしてくる。
「兄ちゃんも今日は大学ないの?」
「あるにはあるけど自由が効くからな。小学校みたいに毎日、授業に出なきゃいけない訳じゃない」
「姉ちゃんみたいにバイトも……できる?」
「ああ、もちろん。大学と言わず、高校生になったらできる」
顔を上げていた恭平は足元を見て考え込む。どうしたのかと尋ねる前にエレベーターが一階に到着した。歩いて、コンビニへと向かう。
コンビニは病院内にあるとはいえ広く、品揃えが良さそうだった。
僕は入り口にある緑のカゴを手に取って、コンビニ内をふらついた。二人には買いたいものがあれば好きに入れてくれと伝えており、今はデザートコーナーで何やら話し合っている。
「緋夏の好きそうなもの……の前に、おにぎりかな」
先ほどからお腹が鳴っている。緋夏に聞かれたくはないので自身の昼食を先にカゴの中に入れた。おにぎり二つとチキンは後で頼む予定だ。
緋夏に買うものはデザート系がいいだろうか。喫茶店で働いているので甘いものが好きなイメージがある。コーヒーの可能性も捨てられない。
「いや、難しいな」
迷ったものを全て買ってしまう手もあるが邪道な気がする。面白くないと言われてしまいそうだ。
「どうしたの?」
「緋夏におつかいを頼まれてるんだけど、俺のチョイスで買っていいらしいから悩んでる」
「全部買っちゃえばいいじゃん」
「面白みに欠けるし、手持ちの金が足りない」
恭平は選び終えたようでチョコケーキをカゴの中に入れた。犬の形をしていて有名なケーキ屋とのコラボ商品らしい。少し高い気もするが問題はない。
「これだけでいいのか?」
「うん、大丈夫」
陽平も後から一冊の本を抱えてやってくる。そしてカゴの中に入れた。
「本?」
僕はカゴの中の本を手に取り、表紙を見てみる。
『おとこのこの描き方』
表紙にはデカデカとしたカラフルな文字でそう描かれていた。子供向けのお絵描き教材らしい。お菓子を選ぶと思っていたので意外だ。値段を見てみれば二千円超え。ケーキを優に超えている。
「本当にこれでいいのか?」
「うん!」
元気良く答える陽平の目はキラキラと輝いていた。
「……何でもいいか」
悩んだ末、僕も緋夏に買う商品を手に取った。僕が選んだのはプリンだった。食後に食べたいもので考えた時にアイスかそれ以外のデザートかで迷ったのだが、アイスだと寒すぎる。大病室は冷房がよく効いていた。それ以外のデザートで考えた時、緋夏にプリンを作ってもらったことを思い出したのだ。
コンビニで商品を購入した後、三人で緋夏の病室に向かった。戻った頃には緋夏は昼食の半分を食べ終えていた。
「おかえりー。二人も連れてきてくれたんだ」
「エレベーターのところにいたから、ついでに」
「ありがと。さて、歩夢くんは何を選んできたのかな?」
「期待はしないでくれ」
僕はコンビニ袋からプリンを取り出そうとする。すると恭平が僕より先に袋に手を入れてプリンを取り出した。何食わぬ顔でパイプ椅子に座り、付属のスプーンで食べ始める。
「あ……おい」
「歩夢くん、もしかして二人にも何か買ってくれたの?」
「そ、そうだけど」
「ありがと。やっぱりお兄ちゃんだ。あとでお金払うね」
「一人っ子……だけどな。お金はいいよ。奢るから」
「じゃあ今度、何かでお返しする」
緋夏の笑顔と言葉を前に恭平に物申すことができなくなる。どういう意図でプリンを盗んだのかはわからないが、緋夏には恭平が選んだケーキを渡すしかない。
僕は袋からケーキを取り出した。するとケーキを見るなり、緋夏はベッドから身を乗り出す。
「え! これ! 限定発売のやつじゃん! 私がずっと欲しかったやつ!」
「……そうなのか?」
「うん! 昨日、売ってなかったから売り切れたものかと思ってたのに……本当ありがと! チョイスいいね!」
緋夏は両手でケーキを受け取る。緋夏の見せた反応は予想とは違っていた。こんなにも喜ばれるとは思っておらず、内心では困惑している。
「ちなみに恭平が食べてるプリンと悩んでたんだけど、そっち選んでたら?」
「あー……私、プリン苦手なんだよね。嫌いじゃないんだけど」
僕は恭平に視線を移す。恭平は得意げな笑みを浮かべていた。
それから十三時過ぎまで四人で時間を過ごした後、僕は大学に戻った。退院する夕方まで一緒にいたかったが大学の授業を優先してほしいと緋夏に言われたからだった。
「……歩夢くん」
帰り際、緋夏は僕を呼び止める。
「ありがとね。あとこれからよろしくね」
僕に見せた緋夏の笑顔はどんな名画よりも磨きがかかっていた。
七月も終わりかけの頃、大学が夏休みに入った。
念願、というわけではないが休みがもらえるのは嬉しい。部活やサークルに入っていないので夏休みはバイトで潰す予定だった。留学のために資金を整える必要がある。父は負担すると言っているものの、頼ってばかりはいられない。
あとは緋夏の手伝いもしなければならない。しばらくは期末テストがあったので会うことさえ難しかったが、夏休みはいくらでも会って手伝うことができる。あわよくばデートにも誘いたい。
「……って、夏休みが始まったばかりの頃は考えてたっけな」
気がつけば、夏休みが始まって一週間。夏休み前とあまり変わり映えのない日々を過ごしている。
「バイトお疲れ様。いつものミルクティーです」
「ありがとう」
午後の喫茶店、緋夏はミルクティーを机の上に置く。
バイトが終わった後、僕は緋夏の働く喫茶店で英語の勉強をするようにしていた。緋夏と会う時間を減らしたくなかったからだ。
それに夏休み中は恭平と陽平が学童にいるので話す時は緋夏と二人きり。緋夏のスケッチも進んでしまう。夏休みになっても学童に行くのはかわいそうだと思ったが、友達と遊べたりして充実しているらしい。
「バイトはどう?」
「プールの監視バイトだから暑いけど楽だよ」
「そっか。私も残りの時間、頑張らないとなー」
「頑張れ。二人が待ってる」
「歩夢くんも……待っててくれるでしょ?」
「あ、ああ、もちろん」
「ふふ、じゃあ頑張らないと」
緋夏は僕の心臓を鷲掴みにしてから他の客の元へ注文を取りに行く。
可愛い、と口が滑ってしまいそうでいつも怖い。
緋夏が働いている間はスケッチをしたり、英語の勉強をして時間を潰している。たまに目が合って、微笑まれる時はスケッチの方が捗る。
営業時間が終わるまで喫茶店で過ごした後は外に出て緋夏を待った。
「お待たせ。ごめんね、片付け遅くなった」
「大丈夫。じゃあ行こう」
夕暮れの道を二人並んで歩いていく。
デート、ではない。学童まで緋夏の弟たちを迎えにいくだけ。
「毎日、一緒に迎えに行ってもらってありがとね」
「全然。提案したのは僕だし、緋夏といる時間を増やしたいから」
「え……」
僕は前を向きながら何気なく言葉にする。しかしいつまで経っても返事が返ってこない。緋夏を見てみると、なぜか顔を背けていた。
「どうした?」
「う、ううん、一緒にいる時間を増やしたいってストレートに言われたから……ちょっとびっくりしただけ」
緋夏は髪をいじり、顔は背けたまま。僕は自身の発言を振り返ってみる。途端にただでさえ暑い体の芯から熱が襲ってきて、収まらなかった。
「わ、悪い。そういう意味……で、ではあるんだけど……!」
僕が焦っていると緋夏は顔を赤ながらも笑い出した。羞恥は消えない。でも緋夏の笑いが心の中に明るい色を付け足してくれる。
「よくわからないけど、ありがと。私、この時間が癒しになってる」
「なら、よかった」
「歩夢くんは優しいね。私のためにも弟たちのためにも、感謝してる」
「何もしてないけどな。ノートだって手伝えてないし」
「あれは……ううん、気にしなくていいよ。手伝ってほしい時に言うから」
遠慮しているのだろうか。緋夏の力になりたい気持ちは大きい。
その気持ちも後々から伝えたい。
「あと、忙しいのはわかってるけど……デートの件は考えといてくれ」
一度誘うと二度目はさらっと言葉に出せた。
「改めてなんだけど、デートの相手が私でいいの?」
「僕は緋夏と行きたい、って思ってるから」
奥手だった自分が放つ言葉とは到底思えない。けれど緋夏の余命を聞いてから甘えたことも言ってられなくなった。
あの時と同じ自分はもう嫌だから。
「う、うん……時間は作り、ます」
緋夏は珍しく不器用に笑った。
他愛もない話をしながら学童まで歩いて、二人を迎えに行った。
「おねーちゃん! おにーちゃん! ただいま!」
陽平は姉を見るなりすぐにダイブする。緋夏は陽平を受け止めて、抱きしめた。
一方、恭平は思春期なのか姉には抱きつかない。側から眺めている。
「今日は姉ちゃん、元気そう」
「何言ってるの? いつも元気だよ。」
「……でも兄ちゃんがいる時は明らかに元気」
恭平は僕に視線を配る。話が掴めずにいると恭平は僕のお腹を殴った。
「殴られる必要あった?」
「何となく」
「年上を何となくで殴るんじゃない」
恭平は無邪気に笑った。緋夏に視線を向けると、恭平と僕から目を背けるように小学校の校舎側を眺めていた。
「……夏休みが始まってからもう三週間なんだが」
カレンダーを見て、一人呟いた。夏休みが終わるまでちょうど半分。
変わると思っていた日々は変わらず、ノートを手伝ってくれとも言われなかった。
何より、デートに誘っても予定が空いていないと言われ、緋夏との関係が何も進まないまま時間だけが過ぎているのである。
『大丈夫か? 疲れてるなら休んでくれ』
『ううん、平気。みんなそう言うけど、心配しなくて良いからね』
みんな、と言っている時点でおそらく弟たちにも気づかれている。顔色に疲れが見える緋夏を僕は黙って見守ることしかできない。
倒れてから、緋夏はずっと焦りを感じているようにも見える。何に焦っているのか知りたいのに知れない、もどかしい時間が続いていた最中のことだった。
『今日、バイトかな? 終わったら私の家に来れたりする?』
バイト中に緋夏からメッセージが届いていた。
緋夏はバイトがないのだろうか。
何はともあれ、家に誘われたことは初めてだった。一言だけ返事を送り、バイトが終わったらすぐに緋夏の家に向かった。当然、髪と服は整えた後である。
一度行ったことがあるので場所は覚えていた。迷うことなく緋夏の部屋の前に着き、インターホンを鳴らす。中から物音がした後、出迎えてくれたのは恭平だった。
「兄ちゃんだ。入っていいよ」
「お邪魔します」
玄関で靴を揃え、恭平に続いて歩く。リビングは一段と騒がしく、物音や陽平の笑い声が聞こえる。恭平がリビングのドアを開けると、目に飛び込んできたのは緋夏が陽平を肩車している光景だった。
「いらっしゃい、歩夢くん。見ての通り、手が離せないからとりあえず楽にしてて」
「おねーちゃん、次はあっちー!」
陽平に指示され、緋夏はドタバタと動いている。
「いつもこんな感じなのか?」
恭平に聞くと、かぶりを振った。
「でも昔はこんな感じだったよ。兄ちゃんは俺とカードゲームやろ」
「もしかして僕を呼び出したのって恭平?」
恭平は何も言わずにただニヤつく。緋夏と会えるなら何でも良かったので心の中で感謝しつつ、カードが並べられた机に座った。
「兄ちゃん、カードゲームはやったことある?」
「一回もないな」
「えー……」
「そう言われても」
「教えるから一緒にやろ」
ルールも何もわからないので教えてもらいながら、早速ゲームを進めていく。デッキというものがあるらしく、いまいちわからない。
俺が恭平に指示されながらカードを並べていた時のことだった。リビングではしゃいでいる緋夏と陽平が机にぶつかった。机が大きく揺れ動く。
恭平が物申そうとして立ち上がるが、陽平が口を塞ぐように緋夏の肩から兄に攻撃。
「あたっーーーく!」
兄はカードを持ったまま弟に倒され、床にカードが散乱。カードだけではない。部屋の様子だけ見ると大惨事である。今日はいつにも増してこの家族のテンションが高い。僕は恭平に怪我がないことだけ確認して、カードを拾い始めた。緋夏も陽平を下ろして、謝りながらカードを拾おうとした。
偶然、緋夏の足元に一枚のカードがあった。
「あ……」
緋夏は綺麗に足を滑らせる。倒れる先には恭平と陽平がいる。
当たれば誰かは間違いなく怪我をする。危ない。二人の横に立っていた僕は咄嗟に片腕を伸ばして緋夏を受け止めた。
「……危なっ。大丈夫か?」
緋夏の方を見る。顔が何だか近い。自身の腕を見ると、どういう訳か緋夏の背中に手を回して緋夏を抱き寄せていた。
今、誰が緋夏を抱き寄せているのかと聞かれれば、多分、僕なのである。
「わ、悪い! 反射的に!」
僕は緋夏から離れようとした。状況的に仕方がなかったが嫌がられてもおかしくはない。しかし緋夏の手もまた僕の腰回りにあった。離れられず、そのままの態勢で固まる。
近くで見る緋夏の顔は思った以上に整っていた。
絵に描けないほど質感の良いさらさらとした黒髪。
鉛筆が乗りそうなほどに長いまつ毛。
何度もスケッチに描き込んだ、潤んで澄んでいる瞳。
純粋な薄桃色をした唇と透き通った白い肌、いつもよりも紅潮した頬。
描きたい、という感情よりも触れたいという感情が湧き立って仕方がない。
緋夏は頬を赤ながら、逸らしていた視線を僕に向ける。僕の方が身長が高いので上目遣いの構図。柔軟剤とシャンプーの混ざった甘い匂いが思考を麻痺させる。
時が止まったかのようだった。このまま彼女の頬に、唇に触れられたら。
「あ、歩夢くん……」
空いた片手が空気をかき分け、指先は緋夏を捉えている。そして、インターホンが鳴り響いた。
一気に現実に戻り、お互いに離れる。恭平と陽平も僕たちを見て、固まっていた。
「あの……あり、がとう」
「ど、どういたしまして。それよりインターホン出なくていいのか?」
「そうだ、出なくちゃ」
緋夏は小走りで玄関に向かった。インターホンを押したのは下の階の人だった。騒がしいから注意を受けたとのこと。
その後は何事もなかったかのように四人で部屋の片付けを始めた。気まずさも羞恥も気づけば無くなっていた。ただ、あの瞬間の高揚感だけは残り続けていた。
部屋の片付けが終わった。今度は恭平と陽平が二人で遊び始め、僕と緋夏は椅子に座りながら二人を見守る形になった。
「あー、疲れたー」
緋夏は手を伸ばしながら机にもたれかかる。その手が僕の腕に触れたかと思うと、すぐに引っ込んだ。緋夏の頬はまだ少し赤い。
「緋夏、さっきは……ごめん」
「う、うん、気にしないで。私も……ごめん。歩夢くんに触れられて、ちょっと固まってた」
沈黙が流れる。二人のはしゃぎ声だけが部屋に響いている。
「あ、歩夢くんって、誰かと付き合ったこととかあるの?」
「……急だな」
「い、嫌なら答えなくてもいいんだけど」
「恥ずかしながら、経験はない。絵ばっかり描いてたから」
「そうなんだ、意外かも。もっと慣れてるのかなって思ってた」
「……なんで?」
「優しい、から?」
緋夏は首を傾げながら答える。僕は思わず笑ってしまった。
「理由になってないな」
「たしかに」
理由はなくても慣れていると思われたのは良かった。緋夏の前では格好をつけたい。
「緋夏は、恋愛経験あるのか?」
美人で可愛い。一人くらいはいるだろう。
しかし緋夏の答えは予想とは真逆のものだった。
「ないよ。誰とも付き合ったことない」
「……告白されたことは?」
緋夏は首を横に振る。
「好きになったことは?」
「ある、かも?」
「そりゃあそっか。でも意外だな。可愛いし、モテそうなものだけど」
緋夏に好意を向けられた人が羨ましい。僕だったら緋夏のような異性に好意を向けられて、逃したくはない。机の一点を見つめながら、緋夏に好意を向けられた男性に嫉妬していた。すると緋夏が小声で呟いた。
「……ほら、そういうところ」
机から緋夏に視線を移すと、緋夏の耳はなぜか真っ赤に染まっていた。頬杖をついて口元を隠しているが、おそらく顔全体も赤くなっている。
「どういうところ?」
「さらっと可愛いって……言ってくるし」
僕は自身の言動を振り返る。たしかに可愛いと言った気がする。目の前の緋夏の反応を見るに、本当に言ったのだろう。
「もしかして褒められるのに耐性なかったりする?」
「わからないけど……恥ずかしくはなる」
緋夏は顔を逸らす。
褒めると照れやすい。
また一つ、緋夏のことを知っていく。前に可愛いと言ったら笑われた覚えがあるが、強がりで笑っていたのだと思うと可愛いとまた言ってみたくなる。
「……な、何? 歩夢くんがそんなにニヤニヤしてるところ初めて見たんだけど」
「わ、悪い。でもちょっと嬉しかった」
「もう……からかいすぎ」
緋夏は可愛らしく口を尖らせた。
たまにからかってくる癖に自分がからかわれると少し拗ねる、子供っぽい一面もあるらしい。また一つ、緋夏の新しい一面を見れて、口角は上がりっぱなしだ。
「そういえば話は変わるけど今日はバイトがないのか?」
「本当はあったよ。でも学童に行かせようとしたら、朝から二人が遊べ遊べーって、聞かなくて」
「珍しいな。いつも行ってるのに」
「そうなの。一日くらいはいいかなって思って、三人でこうやって過ごしてる……何ヶ月ぶりだろ」
緋夏は遊んでいる二人の方を見て微笑む。姉の言うことをよく聞く二人がわがままを言うとは意外だ。
ふと、僕は心の中で引っ掛かりを覚える。僕がデートに行けないのはまだいい。二人と遊ぶ時間すら緋夏にはないのだろうか。家庭事情でバイトを忙しくするのはわかる。しかし一日の休息もなく働いているのだとしたら、ただでさえ弱っている体を壊してしまう。
「兄ちゃん、アイス買ってきて」
考え事をしていると、恭平が近づいてきた。今日は一段とわがままだ。
「なんで僕が?」
「冷蔵庫にアイスがなかったから」
「僕だけが行く理由を聞いてるんだが……何がいい?」
僕は思考を中断して立ち上がった。コンビニは近いので面倒というほどではない。
「かき氷みたいなアイス!」
「ぼくはばにら!」
「緋夏は?」
「私は大丈夫。一緒に行こっか?」
「二人を見ないといけないだろ。買ってくるから」
「ごめんね。ありがと」
僕は財布を持って、緋夏の家を出る。外の熱気に蒸されながらコンビニで四人分のアイスを買った。要らないとは言っても緋夏も二人と遊んで、汗をかいていた。
しかし緋夏の家に戻った頃には配慮もコンビニに行った意味もなくなっていた。
「……寝てる」
全員が眠っていた。恭平と陽平はテレビの前に置かれた低い机に、緋夏は食卓として使われている机に突っ伏して寝ている。起きる気配はない。
冷凍庫にアイスを入れた後、緋夏の前に座った。
緋夏は片方の腕に頭を預けている。寝顔がよく見える。僕はスケッチブックを取り出し、緋夏のスケッチを始めた。
緋夏の寝顔を見るのは初めてだ。相変わらず可愛らしい。顔を見るたびに心臓が大きく鳴る。それでも手を止めずに描き続けていく。
輪郭、髪、目、鼻、口、肌の質感。
腕を描き、ボールペンを描き、腕の下に敷かれたノートを描く。
「……ボールペンとノート?」
描き始めてやっと、僕は緋夏が何をしていたのかに目を向けた。寝顔に見惚れていたが、ノートに何かを書いている途中で寝落ちしたようだ。ノートはやらなければならないことリストとはまた違う大きさをしている。一回り小さい。
「ん……」
緋夏は一瞬動く。起きたのかと驚くが緋夏は眠り続けた。緋夏がいる位置は冷房が直当たりしている。寝心地も悪い上に体が冷えてしまう。恭平と陽平は日に当たっていてむしろ暑そうだ。冷房の向きを変え、ソファにあったブランケットを緋夏に被せた。
そのついでにノートの中身を覗いた。ノートはびっしりと文字で埋め尽くされていた。
内容は一日のルーティンだった。
七時に起床して、家事の手伝いや二人を学童に送り届けてバイトに行く。十八時に家に帰って、夜ご飯を作って二人に食べさせる。
ここまでは僕も知っている緋夏のルーティンだ。知らなかったのはその後だった。
緋夏は夜ご飯を食べて二人を寝かせた後、夜勤に行っていた。帰るのは深夜の三時過ぎ。
不思議と納得が言った。デートに行けなかった理由、恭平と陽平が姉にわがままを言った理由。
緋夏の寝顔を見る。無性に腹が立った。緋夏にも、自分にも。
『頑張り屋さん』
その日、僕は初めて緋夏のスケッチにタイトルを付けた。
結局、三人は十七時を過ぎても起きなかった。二人はともかく、緋夏は起きなくて当然。寝なければ、体は寝ようとする。
買ったアイスは冷凍庫に入れた旨を置き手紙に書いてから、緋夏の家を後にした。
『ごめん! 寝ちゃってた! アイスありがとう』
緋夏からのメッセージが届いたのは日を跨ぎかけた遅い夜のことだった。取り掛かっていた課題の油絵を中断して、スマホを開ける。
『今起きたの?』
『起きたのは二十時くらい。お母さんが帰ってきて起きた』
『じゃあだいぶ寝てたな』
『うん、おかげで寝れない』
緋夏から犬のスタンプも送られてくる。スタンプの犬は前足で頭を抱えていた。
画面の向こうで笑っている緋夏が想像できる。
『じゃあ今から電話とかどう?』
すぐに既読がつく。ただ、メッセージは数分間帰ってこなかった。緋夏の声が聞きたい、と送りかけたのを削除する。目標の書かれた張り紙が冷房の風でペラペラと捲れていたので、テープで補強しながら返信を待った。
『いいよ』
緋夏に電話をかけるとすぐに繋がった。
「おはよう。ぐっすり寝てたな」
『……恥ずかしい。ほんっと、ごめんね』
「緋夏が疲れてるのは知ってる」
『ありが……』
「けど、どうしようか。呼び出されたのに寝落ちされちゃったからな」
『……私が悪いんだけどさ。今日の歩夢くん、なんだか意地悪じゃない?』
緋夏から拗ねたような声が返ってくる。僕は笑い声で返すだけだった。
意地悪なのは自覚がある。けれどやらなければならない。
『寝落ちしたのは……ごめんね。次から気をつけるから』
「謝罪はいらない。けど一個頼まれて欲しいことはある」
『何?』
「デート」
たった三文字。途端に電話から声は途絶える。
何度目の誘いだろうか。今回もきっと断られる。だから意地悪になる必要があった。
『ごめん。今は忙しいから。あと一ヶ月ぐらい経てば……』
「もう待たない。来週の日曜日」
『……三日後じゃん』
ノートには土日の予定も書いてあった。土曜日は病院の後に夜勤バイト。日曜日は昼にキャンプ場でバイトをして、夜はまた三時までバイトが入っている。昼はともかく、夜はやめさせないといけない。
「正直、俺はもう待てない。夏休みが明けたら忙しくなると思うから。来週の日曜日でも無理だったら、緋夏との関係は続けたくない」
嘘だ。続けたい。振られても一緒にいたい。けれど意地悪にならないと緋夏は断る。いつかまた倒れる。
しばらくの沈黙の後だった。緋夏は弱々しい声で答えた。
『……今まで断ってごめん。来週の日曜日、空けとくね』
「ありがとう」
『やっぱり今日の歩夢くん、意地悪』
「そりゃあどうも」
『褒めてないんだけど』
口調的にも緋夏は怒っている。それでも了承してくれるのだから多少の申し訳なさはあった。
「じゃあ夜も遅いし、おやすみ」
『待って。もしかしてデート誘いたくて、電話しただけ?』
「ああ、それだけ」
緋夏の声が聞きたかったという理由は伏せておいた。すると電話越しに緋夏の笑い声が聞こえてくる。
『そっかー。だいぶ待たせちゃってごめんね』
「謝らなくていい。行く場所は前に予定してたところで大丈夫だよな?」
『うん、大丈夫』
「わかった……じゃあ、おやすみ」
『おやすみ。デート、楽しみにしてるね』
そうして緋夏との電話は終わった。最後は笑って、終われた。
口が寂しくなって、パレット横に置いたミルクキャラメルを頬張る。最後の一個だったからか、いつもより甘い。僕はおやすみの後の緋夏の言葉に胸を掴まれながら、ベッドにダイブした。椅子に座っていられない。横になると、余計に心臓の音が聞こえた。
僕は何度もデートの三文字を頭の中で唱える。今度こそは緋夏との初デートに行けるだろう。
壁の張り紙を油絵越しに見つめ、妄想に耽る。
「怒った緋夏の声も……ちょっと可愛かったな」
僕は枕を抱きしめ、眠ることもできず、油絵にも取りかかれない夜の時間を過ごした。
日曜日、デート当日。
デートが決まった後の時間の流れは相変わらず早く、気がつけば待ち合わせ場所の駅に着いていた。待ち合わせの時間は十時。流石に暑いので、待ち合わせ場所は駅舎内の自販機の前に変わっている。
今は九時四十五分。待ち合わせ時間五分前。
『おはよう。倒れてないから安心してね』
今日は朝の七時ごろ、緋夏からメッセージが送られてきた。ユーモアある挨拶に、僕は朝から安心していた。緋夏とのやりとりを見返しつつ、彼女を待つ。スケッチができるような精神状態ではない。
九時五十分。あと十分。
僕は内カメで身なりを確認する。服装はデートに行きそびれた時に来た服なので悪くはない。昨日、美容院で髪も整えてもらったばかり。
緊張をほぐしていた時だった。
「歩夢くん」
緋夏の声が聞こえた。彼女は手を振りながらこちらに近づいてくる。スマホをしまい、僕も手を振る。しかし彼女が近づくにつれて、僕の時間は止まっていった。
現れた彼女は西洋の名画に描かれる天使そのものだった。僕では表現しきれない存在が愛嬌を振りまいて近づいてくる。
「お待たせ。ちょっと遅かったかな?」
「いや、俺が早すぎただけだから……全然……」
「本当だ。まだ十分前だもんね」
緋夏だとわかるのは声だけ。雰囲気と容姿は別人。
「歩夢くん、髪切ったんだ。似合ってる」
「あ、ありがとう……緋夏も、いつもとは全然違うな」
緋夏は白のデニムを着用し、インナーを白でまとめている。天使のような純潔さがそこにはあり、ピンクカラーのシアーシャツを羽織ることで女性っぽさも演出している。バッグは緋夏がいつも愛用している犬柄の白いトートバッグだが、服装も相まって似合っている。
バイト終わり、もしくは家にいる緋夏のラフな格好しか見たことがなかったので、ギャップに心底驚かされている。
「いつもと違うって、いい意味?」
「……もちろん。大人っぽくて、驚いてる」
「ふふ、ありがと。ちょっと頑張った」
僕の鼓動はすでに、素直に褒める余裕を奪うほど荒ぶっていた。
「ちょっと早いけど行く?」
「そうだな。行こう」
緋夏から顔を逸らすようにして改札へ向かう。電車の時間まであと五分。少しだけ時間がある。
「……お手洗いだけ行ってきてもいいか?」
「わかった。待ってるね」
緋夏は自然な微笑を浮かべる。いつもなら何も思っていないだろう。けれど今は緋夏がどんなに些細な動きをしようと、緋夏から目を逸さざるを得なかった。顔と体が暑くなって、まともに喋ることさえ出来なくなりそうだった。
軽い会話をしているうちにデートへの緊張は薄れていった。電車に揺られること二十分。美術館の最寄り駅に到着した。
プランとしては午前に美術館、その後はデパートに移動して昼食を摂り、午後からデパート内の犬カフェで犬と戯れる予定になっている。
「歩夢くんって、美術館はよく行くの?」
「頻繁ではないけど、たまに行くな」
「趣味が美術館巡りの人って、ちょっと格好良いよね」
緋夏との会話を楽しみつつ、美術館に着いた。美術館は大きな公園の隣に位置していた。正面はガラス張りで白いコンクリートに囲われおり、その周りには植物や木々が生えている。自然の中にある美術館は緋夏にとって、格好良い、らしく入る前からテンションを上げていた。
中に入ると左手にチケット売り場があり、並ぶことなくチケットを購入しに行く。
「大学生の方はおひとり様、五百円になります」
チケットは大学生なら半額だった。二人で千円なら安い、と考えていたのだが、学生証の提示が求められたところで気づく。緋夏は大学生ではない。
「すみません。やっぱり一般料金二枚分でお願いします」
「では、二千円になります」
僕は財布から千円札を二枚取り出し、引き換えにチケットを二枚もらった。一枚を緋夏に手渡す。緋夏は目をぱちぱちとさせた。
「……いいの?」
「何が?」
「払ってくれたこともそうだし、歩夢くんは一般料金で払う必要なかったのに」
「僕だけ半額とか、何となく嫌だったから。お揃いの方がいいかなと」
「ふーん、そっか」
緋夏は手元のチケットを見つめる。
「ありがと」
緋夏は顔を上げると同時に笑顔で言った。僕は照れくさくなって、視線を逸らした。
チケットを見せて、二人で中に入る。日曜にも関わらず、中は空いていた。人は少なく、ほぼ二人きり。チケット売り場から察してはいた。
「美術館ってどう回るの?」
「僕は順番に歩いてる。説明とか読みながら、写真撮ってもいいやつは撮ったり……動物の展示だけ興味あったら、飛ばしてもいい」
「ううん、順番に見よ。他の絵も見てみたいから」
緋夏の要望通り、順番に見ていくことにした。紙と木が混じった美術館特有の匂いに包まれながら二人で進んでいく。
最初のエリアは地図と説明だけが書かれており、作品の展示エリアは次からだった。
展示エリアは大きな立方体に閉じ込められたかと錯覚する空間で、四辺には絵が飾られていた。一辺に数枚の絵が一定間隔で並べられており、展示は動物を主題に取り上げた絵画が多い。他の洋画や彫刻も十分に展示されていた。緋夏は感嘆の息をこぼしながらそれぞれの展示品を見ていた。
「習作ってどういう意味?」
緋夏はある洋画を前にして、囁き声で聞いてくる。このエリアには監視員以外に誰もいないので、驚くほど静かな雰囲気に二人とも飲まれていた。
僕も小声で答える。
「習作は練習用の作品とか、スケッチとか」
「ふーん、これが習作とは思えないんだけどなあ」
緋夏を悩ます絵画の額縁には鳥が一羽ずついる四枚のスケッチが収められていて、タイトルの最後には習作と書かれている。たしかに習作の出来とは思えない。
「習作の英語はスタディだからな。生物観察の意味合いもあるんじゃないか?」
「じゃあ納得かも。詳しいね」
時々、僕が解説をしながら作品を見ていく。フランスの風景画やドイツの画家が描いた肖像画など、緋夏は作品を一つずつ、熱心に見ていた。流し見するだけかと思っていたので素直に嬉しくなる。
「芸術家って、堂々と下半身描くよね」
ヌードが主題の作品を熱心に見ていた時はどう反応すればいいかわからなかったけれど。
「歩夢くんって、どんな画家になりたいの?」
緋夏がそう問いかけたのは人物画を二人で眺めていた時だった。
「どんな……か。海外で活躍する画家になりたいな」
「おお、歩夢くんの夢?」
僕は頷く。画家を志望したのも、美大に入ったのも、約束と夢を叶えるため。
海外で活躍する画家になる。
「歩夢くんってどんな絵を描いてるの?」
「恥ずかしながら決まってない。大体の美大生って、表現したいものとか決まってるんだけどな。そういうのもないし」
「じゃあ私を描けばいいじゃん」
緋夏は表情を変えずに言った。冗談なのか、本気なのか。
「緋夏を絵にして欲しいのか?」
「うん、私を描いて欲しい。何でもいい」
「ノートの内容だから描け、とは言わないんだな」
「私は歩夢くんに心を込めて描いて欲しいの。描かされたんじゃなくて、描きたいって思って描いて欲しいな」
緋夏は目の前に飾られた絵画の女性のように、朗らかな笑みを浮かべた。
「だって……この絵、素敵だと思わない?」
緋夏と眺めている人物画は画家の婚約者を描いたもの。この美術館が売りにしている画家は動物だけではなく、風景や人の作品も数多く残している。この人物画もそのうちの一つ。
「愛が絵になって、ずっと現実に残ってる。それが素敵だと思うの」
緋夏が絵に向ける視線は、向けてはいけない憧れのように見えて仕方がなかった。
「……僕よりよっぽど、美大生してる」
「え? 私?」
「絵がずっと現実に残るから素敵だとか、あんまり考えたことなかったから」
「そっかー、私センスあるのかー」
緋夏は得意げに胸を張った。胸のラインが強調され、目のやり場に困った僕は視線を移した。その先にあったのは一枚の水彩画だった。人物と室内が細かく描かれており、ベッドの上で横たわった女性がこちらを見ていた。
「歩夢くんは天国って、どんなところだと思う?」
僕は続けて難しい質問を投げかけられる。一方、緋夏は僕の顔など見ておらず、視線の先に風景画を捉えていた。水彩画の横にあった絵画だった。
三分割構図で奥に山を置き、真ん中に湖、手前には枝垂れ効果を用いて木が描かれている。手前と真ん中の間にはリス、ネズミ、猫など天敵だろうが関係なく動物が集まっていて、周りを植物で彩っている。ただ、早朝なのだろうか。全体としてぼかされている。瞬きをすれば消えてしまいそうな絵画。
「さあ。こんなところだったらいいと思うけどな」
僕は曖昧な回答でしか答えることができなかった。
天国の想像など、今はしたくもない。
「次、行こう」
「そうだね。次は何かな」
最後のエリアは現代アートと日本画がメインだった。現代アートは空いた穴に顔を覗かせて、影で飾られた空間を眺めるものだった。
「現代アートって、やっぱりよくわからないかも」
緋夏の呟きに内心では賛同していた。
最後のエリアを抜け、そのままお土産コーナーに入った。中よりも人は多く、カップルらしき人々も腕を組んでお土産を眺めている。
流石に手はまだ繋げないか。
「どうしたの?」
「いや、その、何か買うのかなと思って」
「じゃあお揃いの物を買おうよ」
「あ、ああ。いいけど……いいのか?」
「ふふ、よくわからないけど、私は歩夢くんとお揃いが良いな」
素直に言われて、断るわけがない。お土産を楽しみながら見つつ、お揃いで買う商品を一緒に探した。
店内のカップルがいちゃついているからだろうか。僕も緋夏とデートをしているという実感がようやく湧いてきた。
手を、つなぎたい。
「緋夏」
勇気を出してみることにした。声をかけ、緋夏はこちらを向く。僕は若干、上目遣いの彼女を見て、心臓が舞い上がる。緊張しながらも息を吸い、言った。
「……この、犬のキーホルダーとかどう?」
やはり僕は勇気が出せなかった。代わりに取ったのは展示品をキーホルダーにしたグッズ。緋夏に見せると、彼女は気に入ったようだった。
「いいじゃん! お揃いでそれ買おう!」
「あ、ああ、俺買ってくるよ」
「ううん、私が払うよ。チケット奢ってもらったし」
「いや、今日、誘ったのは俺だから」
「歩夢くん、大学生でしょ。私はフリーターなの、お姉さんなの」
「その理論は無理がある」
今日くらいは緋夏に払うつもりだった。しかしお互いに譲らないので僕は折れる。
「じゃあお揃いのキーホルダーをそれぞれ買う、でいいか?」
「うーん、いいけど」
緋夏は微妙な顔をする。二人でレジに並んで、緋夏が笑顔になったのは購入した後だった。
「ふふ、お揃いだね」
押しに弱いと思っていたが、意外に頑固な一面もあるらしい。緋夏はキーホルダーをトートバッグに付け、僕は家の鍵に付けた。二人で一緒のものを買うのも悪くない。
美術館を出た後はデパートに移動して、昼食を摂った。場所はファミレス。事前に二人で決めていたところだった。
ここでも奢る奢らないの言い合いが発生した。最初に僕が一括で払い、緋夏からの支払いを拒否したのだが、どうしてもと聞かない。結局、僕は緋夏からの支払いを受け取った。
「歩夢くんって頑固だよね」
「……そっくりそのまま返したい」
「じゃあ今日はもう奢ったり奢られるのは無し。お互いの料金はお互いで払うこと」
「それがいい」
言い合っても、二人で笑い合ってもいるのだから不思議である。もっとも、緋夏が笑うから僕も笑顔になれる。本当によく笑う明るい人だ。緋夏の印象は初めて見た時から変わらない。
今は緋夏の笑顔を間近で見ることができる。二ヶ月くらい前なら夢には思っていても、現実になるとは思っていなかった。
「どうしたの? 歩夢くん、何か考え事?」
二人でデパート内をぶらついていると、緋夏が心配そうにこちらを見る。会話が途切れたままで繋ぐことを忘れていた。少し、気まずかっただろうか。
僕は気持ちをすぐに切り替える。
「いや……何でもない」
「そっか。私の方を見てたから何か言いたいことでもあるのかなって」
一瞬、僕は緋夏の手に視線を移す。華奢で真っ白な手。
「緋夏って、ある程度のミスだったら許してくれるか?」
「ミス? 小さなことだったら……」
緋夏が言い終える前に、僕は右手で緋夏の左手を握った。恋人繋ぎではなくとも手を握っている事実には変わりがない。
「手が……滑った」
緋夏は呆気に取られたような顔をする。僕は怖くなって前を向いた。同時に、手が握り返される感覚がした。もう一度、緋夏の顔を見ると、彼女の表情は和らいでいた。
「嫌だったら離してもらってもいい」
「ううん、私も手が滑った。だからお互い様だね」
緋夏はニッと笑って、はにかむ。それから少し距離を縮めた。
今だけは筆の代わりに緋夏の手を握っていたいと思えた。
犬カフェに向かったのは手を繋ぎながらぶらついた後だった。
昼食が消化された頃、二人で中へ入る。時間入れ替え制だったが、受付に行くとすぐに通してもらえた。並んでいなかったようで、中には三人家族と大人の男女二人がいたくらい。午前は混んでいたらしいのでデートプランとしては上出来だったわけである。
「はわ、わんちゃんだ! おいで!」
犬の待つ店内に入るなり、緋夏は真っ白のサモエドをわしゃわしゃと撫で始めた。
ここは犬カフェの中でもサモエドカフェなので、真っ白のサモエドかミックスしかいない。壁の色も真っ白で床は思ったよりも清潔だった。犬特有の匂いが漂っているが、視界が可愛いで埋め尽くされているせいでそれどころではない。
「うう……可愛い……!」
顔を埋める緋夏に対して、犬も自身の体を擦り付ける。先ほどから僕の足元を歩いている犬もいる。人懐っこい犬が多そうだ。
足元の犬を撫でようとしたところで、犬は緋夏の元へ向かった。僕は小さく肩を落とし、目に入った座席スペースに座る。僕が座った横にも犬はいた。綺麗な黒目と鼻をこちらに向けている。背中を撫でようとすると犬はまたどこかへ行った。
犬は可愛いと思うがスケッチしたいというほどではない。
「はわー、犬パラダイス……よしよし、いい子いい子、可愛い……!」
真っ白のサモエドを撫でる緋夏ならスケッチをしたかった。犬と遊ぶちょっと子供っぽい緋夏も絵になる。
座って緋夏を見ていると、彼女はこちらを向いた。
「羨ましいの?」
突然、僕は心の中を読まれる。心臓がドキリと鳴る。
あくまでも無表情で僕は答えた。
「い、いや、別に」
「犬にモテてる私が羨ましいんでしょ」
「……そっちか」
緋夏は見せつけるように三頭の犬を撫で付ける。単なる勘違いだったらしい。犬に嫉妬する自分もバカらしくなってくる。
安心したのも束の間、
「歩夢くんも撫でてあげよっか?」
と、緋夏は揶揄うように言った。やはり心の中を読まれているのだろうか。僕は笑って返した。
壁に視線を移してみる。白い壁には犬たちの名前や説明が貼られていた。リン、シズ、しのぶ、こはねなどの名前の下には性別や特徴が書かれている。明るく、静か、元気溌剌、おとなしいなど、性格も多種多様。犬は犬と一括りで考えていたので何となく申し訳ない気持ちになる。
誰が誰かはわからない。犬にモテないので、顔と名前を一致させるゲームで無理やり楽しむことに決めた。すると緋夏は犬を引き連れて僕の隣に座った。
「触ってみる?」
「じゃあ……」
僕はゆっくりと手を伸ばす。犬はまた、触れる前に僕たちの元から去っていった。もう一頭にも手を伸ばすが同じ。緋夏はクスッと笑った。
「ごめん。離れてった」
「歩夢くん、何だか可哀想」
「……犬に嫌われる体質なのかもな」
緋夏のもとに残ったのは一匹だけだった。緋夏が座った時から彼女の膝の上でくつろいでいる犬だ。今は愛おしさが感じられる。でも触れば、きっと逃げてしまう。
「触っていいよ。気にしないで」
察したのか、緋夏はフォローしてくれた。僕は最後の一匹に手を伸ばす。毛に触れ、そして体に触れた。ふわっとしていた。
「感想は?」
緋夏の髪も触ったらこんな感じなのだろうか。
「可愛いな」
「でしょ。犬はやっぱりいいよね」
二人で犬を撫でる。犬は膝の上で気持ちよさそうにしていた。段々と、この犬の名前が気になってくる。壁に貼られた犬の写真と名前を見るも、当てられる自信はない。
「この犬の名前って何だろうな」
「ぺぺくんだって。可愛い名前でしょ?」
緋夏は壁を見ることなく即答した。膝の上の犬とぺぺの犬写真を見比べれば、たしかに一致している、ような気がする。犬を愛せばわかるものなのかもしれない。
「そういえば緋夏が昔、買ってた犬の名前って何なんだ?」
緋夏は一拍置いて、答えた。
「……ぺぺだよ。同じ名前なの」
緋夏はまた一呼吸おいて、
「病気で死んじゃったんだけどね」
と、犬を撫でながら呟いた。
犬カフェを出たのは十五時半ごろだった。帰るにはまだ早い時間。これからのプランは決めていない。
「まだちょっと早いな。カフェとか入るか?」
犬カフェと名前は付いてもカフェではない。実際、お茶を一杯飲んだだけだった。小腹は空いている。
「それもいいけど……ちょっとだけ付き合って欲しいな」
何に付き合うのか尋ねる前に、緋夏はトートバッグから一冊のノートを取り出す。以前、緋夏が病室で見せてきたノートだった。
「手伝ってくれるんだよね?」
「もう忘れかけてた。あれこれ指示されると思ったら、全然何も言われないし」
「本当は私一人でもやれることだからね」
緋夏は僕の手を取り、引っ張る。デパート内を二人で歩いて、着いた先はカードショップだった。大きめのカードショップでショーケースに多くのカードが並べられている。カードの種類も豊富だ。恭平が来たら大興奮で見て回りそうな店だった。
緋夏はそのまま中へと進み、ショーケースの中身を確認しながら回った。
「何しようとしてるか、もうわかる?」
「緋夏にカードゲームが趣味があったとは、初耳だな」
「違うかも。恭平にやらされてるからハマりつつあるけどね」
弟思いの緋夏のことなので大方、察してはいる。
「プレゼントか?」
「うん。このカードを欲しがってたから」
緋夏はスマホで目当てのカードを僕に見せる。名前からして強そうなカードだった。思い返せば、以前、恭平が欲しいと言っていた気もする。
カードが多いので店員さんに聞き、案内してもらった。
「こちらになります」
お目当てのカードは一つだけ違う雰囲気を纏っていた。一番上の棚の中央に置かれていて、金色に光り輝いている。
値段は七万円。
「お買い上げになるときは言ってください。鍵を開けますので」
店員はどこかへ去っていった。二人でカードを見上げる。
「買うのか?」
「……恭平がね。このカードを持ってる友達に負けたんだって。すっごくレアで強いカードなんだって」
質問に答えることなく、緋夏はぽつぽつと語り出した。
「泣いてた。今は学校で一番弱いらしいの。私の治療費でお金がなくて、全然カードを買ってあげられないから」
「そっか」
「でもね、あの子、文句もわがままも滅多に言わないの。小学生なのにお兄ちゃんだからって我慢して、私の代わりに陽平の面倒も見てくれてる。本当はお姉ちゃんの私が二人の面倒を見ないといけないんだけどね」
緋夏はショーケースに一歩、近づく。他者がお金のことに口を挟むべきではない。それでも、緋夏はこのまま七万円のカードを買ってもいいのだろうか。
「ノートの内容って何なんだ? 恭平にプレゼントを買うことなのか?」
「弟たちにいっぱいプレゼントを買うことだよ。クリスマスプレゼントとか、誕生日プレゼントとか、ずっと我慢させてたから。買いたいって言ったもの、私が死ぬまでに全部買ってあげるの」
緋夏はショーケース越しにプレゼントに触れる。買うのだろう。僕は反対しない、つもりでいた。
「死んだ後にもサプライズとか用意したら、前を向いてくれるかなって」
緋夏は無邪気に笑いながら言った。途端に、僕の意見が覆った。
なぜ緋夏が笑えるのか僕には全くわからなかった。自分が死んだ後のことなど考えたことがない。でも一つ、たしかに言えることはある。
『歩夢は本当に絵を描くのが好きなのね。これ、あげるわ』
子供の頃、母がボールペンをくれたのをいまだに覚えている。最近まで、緋夏と初めて会う日まで使っていたからだった。だからあの日、緋夏を一目見た時、一目惚れで運命だと思った。
「だから夜勤とかしてるのか?」
気づけば、僕は口を開いていた。
「……知ってたの?」
「緋夏の家に上がった時、机にノートが広がってたから」
「勝手に見ないでよ」
「ごめん。それで、いつも何時まで働いてるんだ?」
「……二時とか、三時」
「お母さんは許してくれてるのか?」
「嘘ついてるから。友達と遊びに行ってるって。もう大人なんだから夜遊びくらいさせてよって……無理やり。夜勤だって知ったら、絶対に許してくれない」
「そうだろうな」
僕がもし親なら絶対に許さない。けれど夜遊びなら納得してしまう。もうすぐ死ぬのだから好きにさせてよ、と言われれば何も言い返せない。
「ねえ、お願い。夜勤のこと、黙っててくれないかな。お母さんとは面識ないだろうけど、弟たちにも」
「嫌だな」
「……なんで?」
緋夏は困惑したように眉をひそめる。ショーケースからも半歩下がった。緋夏のお願いならいつも聞き続けてきた。緋夏のためになると思ったから。今、緋夏がしていることは緋夏のためになるとは思えない。弟たちのためにもなっていない。
「お願い。いっぱいプレゼント買ってあげたいの……二人のお金、貯めないといけないの。私が死んで、かかるお金を少なくしたいの」
「何を言われても嫌だな。夜勤を続けるなら母親にチクる」
「なんで……なんで、最近の歩夢くんはそんなに意地悪なの?」
緋夏の表情がだんだんと曇っていく。
「退院してから、一日も休みなしで働いてただろ。休んだのは弟たちに休めって言われた時だけ」
「……歩夢くんには関係ないじゃん」
「関係ある。無理して、倒れるのは緋夏の方だ」
「倒れたって、私はどうせ死ぬ! ちょっと早死にしてでも……!」
緋夏が声を張り上げると、周囲の視線が僕たちに集まる。ワードが物騒だったこともあって周りの呟きは増していった。
「緋夏、外で話そう」
僕は緋夏の手を引いて、店の外に出た。座れる場所を見つけるまで、僕たちは無言だった。偶然、閉まった店の前にソファがあった。周りに人はいない。他の場所より冷房も効いている。二人で座り、僕は緋夏の方を向く。緋夏は俯いていた。
「悪いけど、夜勤を続けるなら言うつもりでいる」
「……ほんっと、意地悪」
緋夏に憎しみのこもった声で言われる。心が痛い。
嫌われても、意地悪でも、緋夏は休ませないといけない。
「歩夢くんには関係ないじゃん」
「そうだな。関係はないかもしれない。けど、緋夏のやろうとしてることは間違ってる」
「何それ、意味わかんないよ。本当だったら今日も働いて、お金稼げてた。プレゼント一個でも買えてた。歩夢くんが意地悪言って、デート行かなかったら、本当は……!」
緋夏は言い切る前に言葉を止めた。顔を上げて、僕の表情を見たからだろう。
「……ごめん。さっきの発言はなし。本音じゃない」
「本音でも気にしない。意地悪でデートに誘ったのは僕だから。元々は緋夏を休ませたくて誘ったから」
「気にしなくていいよ、私のこと。どうせ死ぬもん。だらだらと生き続けるより、家族のために稼げるだけ稼いで死んだ方がマシだから」
「その思考が間違ってるって言ってるんだ」
「っ……歩夢くんにはどうせわかんないよ!」
緋夏は声を荒げる。緋夏の涙が床に飛び散った。
「クリスマスにサンタさんから欲しいものが届かなかった時の気持ちも! 誕生日プレゼントがしょぼいケーキだけだった時の気持ちも! サンタさんに期待するのをやめて、プレゼントを望まなくなった時の気持ちも! 全部、全部! わかんないでしょ!」
顔を上げて、僕に怒りをぶつけようとする緋夏は泣いていた。膝の上で拳を握りしめ、眉尻を下げて、拳に涙を落とす緋夏の表情からは怒りより悲しさしか伝わってこなかった。
「そうだな。わかってあげられない」
「だったら……!」
「でも弟たちが望んでいないことはわかるよ」
緋夏の言葉は全部、弟たちの気持ちの代弁だとすぐにわかった。だから僕も緋夏の気づいていない弟たちの気持ちを、僕がわかっている恭平たちの気持ちを代弁しなければならない。
「どれだけプレゼントを贈っても、死んだら全部呪いになる。サプライズで死んだ後にプレゼントしようものなら尚更。体を張ってするようなことじゃない」
「それはあなたが欲しいプレゼントをずっと貰えてきたから言えることでしょ……」
「違う。緋夏はわかってない」
形見は乾き切った絵の具と同じ。心にへばりついて取れなくなる。心のキャンパスを彩って、人生を豊かにしてくれる時もある。逆に、心を黒一色に染める時もある。
「少しは想像してくれ。仮に緋夏が死んだとして、大好きな姉からもらったカードを使うたびに姉の顔が思い浮かぶんだぞ。これ、姉ちゃんからもらったカードだなって……姉ちゃん、もうこの世にいないんだもんなって、ずっと思い続けるんだぞ」
「じゃあ……私はもう、どうすればいいの……わかんないよ」
緋夏の怒りは消えていた。ただただ涙を流していた。手渡したティッシュで涙を拭いながら、緋夏は震えた声で喋り続ける。
「私には、もうこれくらいしか……やれることがないの……私は最後まで二人のお姉ちゃんでいてあげたいの。ずっと育ててくれたお母さんに……死ぬまでに親孝行してあげたいの」
「何もお金を稼いだり、プレゼントすることが悪いとは言ってない。体を張ってまですることじゃないって言ってるんだ」
「だから私は……!」
僕は緋夏の手を両手で包んだ。
「……めっちゃ濡れてる」
思わず、そう呟いた。沈黙の後、緋夏は少しだけ笑った。
「誰が……泣かせたと思ってるの」
「ごめん。けど夜勤はもうやめてほしい。緋夏のためにならない」
「私のためって言っても……私はいいよ」
「次、夜勤したら緋夏が困るほどギャン泣きするから」
緋夏は真っ赤な目で僕を捉えた。口がポカンと開いていた。
そして、また少しだけ笑った。
「何それ」
「緋夏はもっと自分を大切にしてほしい。それが弟たちの気持ちなんじゃないのか? だからわがまま言って、緋夏を休ませたんじゃないのか?」
「それは……じゃあ、私はどうすればいいの」
「生きればいい。緋夏が生きたら全部解決する」
「無責任で意地悪な答えだね」
「いいや、そうでもない。俺が言いたいのは最初から死ぬつもりで生きるなってことだ」
綺麗事かもしれない。それでも僕はまた笑った緋夏が見たい。
「もっと家族と思い出を作ってくれ。死ぬつもりだとしても、弟たちにとってはこれが緋夏と過ごす最後の夏休みなんだ」
「歩夢くん……私……」
緋夏はまだ涙を流す。見過ごしていられなくて、気持ちよりも先に手が動いていた。僕は彼女を抱きしめた。
「これから緋夏が全力で生きるって言うんだったら、僕は手伝う。夢があるんだったら、応援する。海とか川とか、やりたいことがあれば一緒にするから」
「私だって、本当はもっとやりたいことあるんだよ……?」
「知ってる」
「手伝って欲しいって言ったら、歩夢くんは手伝ってくれるの……?」
「もちろん」
「死ぬまでだよ?」
「何十年後だろうな」
「やっぱり……意地悪……」
緋夏は僕の胸でしばらく泣き続けた。僕は緋夏が泣き止むまで、彼女を腕の中に収めた。こんなにも泣いている彼女に何もしてあげられない自分が嫌になる。それでも今、やっと甘えてくれたことが嬉しかった。
「ありがと、落ち着いた」
体が暑くなってきたところで、緋夏は僕から離れる。目も頬も赤色の絵の具で塗られていた。
「泣く予定はなかったんだけどな」
「頑張りすぎてたんだよ。しばらくは休んだほうがいい」
「……うん」
緋夏の表情は随分と柔らかくなっていた。涙を出して落ち着けたのだろう。
「夜勤やめるかどうかは、考える。でも歩夢くんの言うとおり、弟たちとの時間が取れてなかった。全然……気づかなかった」
「自分の時間も、な。夢があるなら追いかけたらいい」
「じゃあ獣医師免許の勉強でもしようかな」
「……獣医師になりたいのか?」
緋夏は髪をいじり、恥ずかしそうに頷いた。獣医師。意外、というわけでもない。
「動物好きだもんな」
「それもあるけど……昔、飼ってた犬が病気で死んじゃった時に獣医師になりたいって思ったんだ。お金がなくて、諦めたんだけどね」
「いいんじゃないか? 治った後なら職についたほうがいいしな」
「ふふ、そうだね。治った後のことを考えないとね」
緋夏は僕を見つめながら、笑った。目元には涙の最後の一滴がついていて、僕は人差し指で彼女の涙を拭う。彼女をキャンバスに描くなら涙は不要な要素でしかない。
緋夏は一瞬だけ驚いた顔をするが、もう一度、笑顔を見せた。
「まだ目が赤いと思うから、もうちょっとだけゆっくりしていい?」
「もちろん。今日は緋夏がゆっくりする日だ」
「……デート行かなかったらとか、さっきは酷いこと言ってごめん」
「気にしてない」
「ありがと。優しいね、歩夢くんは」
体を壊すほど家族のために頑張れる緋夏。気にかけているだけの僕。どちらの方が優しいかと聞かれれば間違いなく緋夏だ。
「ちなみに緋夏の本音は?」
「心の底から楽しみにしてたよ。誰かと遊びに行くなんて久しぶりだったから」
緋夏は言い終えて、僕の右肩にもたれかかる。僕は右を向く。緋夏が僕の肩にいる。当然のようにもたれかかっている。
彼女の感触が肩から心臓に伝わって、急に荒ぶり始めた。先ほどは勢いで抱きしめたが、素に戻るとスキンシップには慣れない。
「時間はまだあるから、あとでカフェ行く?」
「あ、ああ、緋夏が行きたいなら……」
「じゃあ行こ。まだ……一緒にいたい」
緋夏が僕の肩にもたれかかっている。望んでいた時間のはずが、いざ手に入ると怖い。
「……スルーされると傷つくんだけど」
「わ、悪い。スルー?」
「もうっ。何でもない」
緋夏は顔を上げて、拗ねた子供のように頬を膨らませる。けれど気にしていない様子でまた僕に体を預けた。
「歩夢くんって、もしかして鈍感?」
「なんでだ?」
「何でもない。それでも……ううん、むしろそれでいいんだけどね」
「そっか」
「ねえ、歩夢くんのこと困らせていい?」
「……いいけど」
「歩夢くんって、私のこと好き?」
「もちろん、好きだ。じゃなかったら今日も誘ってないし」
「……へ?」
「え? ……あ」
自身の発言に気がついた瞬間、頭がフリーズした。夢のような時間だったので頭の中にモヤがかかっていた。心の中を隠す余裕などなく、馬鹿正直に答えてしまったようである。人はパニックになりすぎると、他人事に感じるらしい。
ひとまず落ち着こうと、緋夏の方を見れば顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせていた。
「い、いや、これは、その……」
「そ、そっか。もちろん、なんだ」
「……はい」
もはや否定のしようもなく、素直に頷く。告白したのと同じではないか、と思ったが、これが告白なのも嫌だった。
「なので、好き……です。付き合ってください」
僕は緋夏に頭を下げた。不思議と緊張はしなかった。ある意味、振り切れていて、隠す気持ちはもう何も残っていない。
しかし中々、返事は返ってこない。顔を上げると、緋夏はそのままの体勢でフリーズしていた。
「た、ただ困らせるつもりだったんだけど……」
「緋夏が、困ってると」
「……うん」
「質問がずるいし、緋夏が悪い」
「それは……わかってるけど」
緋夏は綺麗な黒髪をくるっといじりながら、目を逸らし続けている。
可愛いな、と思った。目の前にいる女性は誰だろう。僕の好きな人である。
「ご、ごめん」
あっさり断られた。
「そっか。いや、悪かった」
「ち、違うの! 返事待って欲しいって意味のごめん!」
緋夏は慌てて訂正する。
「私、恋愛とかしたことなくて、頭の中がまだ整理できてなくて……ちょっとだけ、待ってほしい」
「いいよ、待ってる」
「……ありがと」
「質問したの、緋夏だけどな」
「そ、そうなんだけど……い、意地悪……」
緋夏は真っ赤な表情に困ったとでも言いたげな色も加える。
「も、もう行こっ。ここ、ちょっと暑い」
ここより涼しい場所はない。にも関わらず、緋夏は立ち上がった。僕も荒ぶった心臓を抱えて立ち上がる。
二人で歩き出すと、緋夏が手を握ってきた。意図してなのか、無意識なのか。それほど長く、返事を待ちきれる気はしなかった。
緋夏とデートに行った日を境に、彼女は夜勤を辞めた。バイトの数も減らし、弟たちと過ごす時間を増やすようになった。前より顔色が良くなって可愛くなった気もしている。恭平や陽平は姉の元気な姿を見て、よく笑うようになった。何でもない日々は姉といるだけで思い出に変わる。そして、その時間になぜか僕が加わるようになった。邪魔しては悪い、と言ったが三人が望んでいた。
「おにーちゃんいるとたのしー!」
「兄ちゃんは必須カード」
「歩夢くんがいてくれた方がみんなでワイワイって感じで楽しいかな」
緋夏に言われては仕方がない。多分、僕は満更でもない顔で一緒にいる。
恭平と陽平の夏休みは八月末までだったので時間があまりなかった。空いている日はなるべく出かけるようになった。遊園地、水族館、ゲームセンター、自然公園、海、川。行けるところは全て行った。恭平の要望で大きなカードショップや陽平の要望で画材屋にも足を運んだりした。
緋夏がバイトで溜めたお金はなるべく使わさずに隙を見ては僕が払った。遊園地のチケットをもらったと嘘をついたりして誤魔化した。
あの涙を見てから、ずっと僕にできることを探している。
母の時は何もできなかったから。
「……おにーちゃん、おまつり、はじめて?」
日が暮れた夜の道。三人で歩いていると、僕と手を繋いでいる陽平が聞いてくる。陽平と恭平は子供用の甚平を着ている。僕も一応は着ている。これから夏祭りに行くからだ。
緋夏に至ってはピンク色の浴衣を着て、髪をお団子にしている。三人に誘われておきながら、いつもと雰囲気が違う緋夏を独占したい気持ちはどうしても出てしまう。
「お祭りは初めてじゃないよ。家族とも友達とも、何回か行ったかな」
「ぼくも。でも、おにーちゃんといくのははじめて」
陽平は無邪気な笑顔を見せる。緋夏への独占欲は薄れていった。
「そういえば緋夏の浴衣、可愛いな。さっきも言ったけど」
「ふふ、でしょ? おばあちゃんがお母さんに作った浴衣なの。それを私が受け継いでる」
「いいな」
「将来、もし私に女の子の子供とかできたらあげようかなって」
前を見ながら、緋夏は言った。想像する将来で、緋夏の隣に僕がいることを願いつつ、夏祭りの会場に足を進めた。
会場に着くとすでに多くの人で賑わっていた。家族連れや友達同士、腕を組みながら歩くカップルを見ると、羨ましく思ってしまう。
夏祭りの楽しみと言えば屋台だろう。恭平と陽平にとっては尚更のことだった。二人に連れ回されながら、僕たちは屋台を楽しんだ。射的や金魚掬い、おみくじなど定番の屋台を攻略していく。焼きそばやベビーカステラなど楽しめるものは楽しんだ。
途中、恭平の同級生とも出会った。
「恭平っちは家族で来てるのな」
「今年は兄ちゃんもいたから」
「兄ちゃんなんていたの?」
「ううん、けど兄ちゃん」
「あー、義兄ってやつか。お義兄ちゃんだ」
最近の小学三年生は難しい単語を知っているらしい。どちらにせよ、勘違いされている。緋夏の方を向いたが、顔は見えなかった。
「多分そう」
訂正することなく、恭平は頷いた。しばらく二人の会話が続いた後、同級生は今時の子供らしくスマホを取り出して、言った。
「あ、花火もうすぐ始まるじゃん。じゃあ俺ら行くわ。またな、恭平っち」
「来年は一緒に行こう」
「うん、また誘う」
同級生は恭平に別れを告げて、去って行った。
緋夏がその背中を見ながら言う。
「よかったの? 一緒に行ってもいいんだよ?」
「いいよ、別に。この四人がいい」
「……そっか」
緋夏は恭平の頭を優しく撫でる。陽平も求めたので、姉は二人の頭を撫でた。
「歩夢くんも撫でてあげよっか?」
「からかってるだろ。僕はいい」
「ふふ、冗談じゃないのに」
欲を言えば頷きたかった。
「そういえば兄ちゃんと姉ちゃんって何なの?」
「何なのって、何だよ」
「友達? それとも付き合ってるの?」
僕は緋夏と目を合わせる。告白してからまだ返事を待っている途中だが、説明するのは難しい。友達で誤魔化そうと口を開く前に、緋夏が先に言葉を発した。
「……付き合ってるよ。歩夢くんは私の恋人」
「ふーん、そっか」
恭平は僕に目を向けて、疑おうともしなかった。緋夏が僕の腕に抱きついていたからだった。
「じゃあ俺たちも花火、見に行こー」
恭平は陽平の手を引いて、歩き出す。緋夏は少しだけ立ち止まって、耳元で囁いた。
「遅くなってごめんね。これからよろしくお願いします」
「ってことは……」
「うん。歩夢くんの彼女でいさせてください」
緋夏は頬を赤ながら笑みを浮かべる。
「初めての恋人だし、慣れないこともあるけど……頑張るからっ!」
緋夏の耳は、恋人の頬は、緋色に染まっている。手を伸ばし、触れた。柔らかい。緋夏は嫌がることなく、僕だけを見つめていた。
「僕も頑張る。恋人って頑張るものなのかわからないけど」
「ふふ、たしかに。じゃあお互いに頑張ろう」
二人の方を見ると、屋台で綿菓子を注文している途中だった。まだ少しだけ、緋夏を独り占めしたい。
「ハグ……していいか?」
「お好きにどうぞ。もう私はあなたの恋人です」
堪らず、僕は緋夏を抱きしめた。暖かく、ずっと幸せで、この時間がいつまでも続けばいいのにと思った。
その時、花火が上がった。紅色の花火が、夜空のキャンバスを綺麗に彩っていた。
十月初旬。木の茶色と同化するセミたちが鳴き止んでもいいような季節。街路樹を見れば、まだ彼らはいる。受験期の夏にスケッチしたことが懐かしい。十月とは思えない程の暑さで僕はまだ夏気分を抜け出せずにいた。
喫茶店のミルクティーで喉を潤し、英語の勉強を進めていく。
「お疲れ様、精が出るね」
僕が集中していると、バイト中の緋夏がやってくる。手には白い皿を持っていて、机の上に置いた。皿の上には橙色の丸いクッキーが三枚、並べられていた。
「どうぞ、クッキーです」
「いいのか?」
緋夏が頷いたので、橙色のクッキーを一枚、口に運ぶ。
「……かぼちゃ味か」
「正解。どう?」
「今まで食べた中でいちばんのクッキー」
「ふふ、流石にお世辞がすぎるよ」
「でもかなり美味しい」
「ありがと。私が作ったんだー」
僕はミルクティーを飲んだ後、クッキーをもう一枚、口に運んだ。ほのかに香るかぼちゃの風味とクッキーの甘さがマッチしている。緋夏が作ったと聞いてからおいしさが倍増したのは気のせいではない。
「他のお客さんにも出してみようかな」
「ああ、全然出せる」
「よかった。じゃあこれからも試作品は歩夢くんに食べさせようかな」
「それは嬉しいんだけど、馬鹿舌だから当てにならない気もする」
「大丈夫、店長にも食べてもらってるから。それに……」
緋夏は溜めを作り、目を見て言った。
「彼氏くんには一番に食べてもらいたいからね」
結局、彼女の笑顔の方が甘かった。
「ここで休憩してもいい? 勉強の邪魔かな」
「別に大丈夫だ。僕も休憩しようと思ってたから」
「よかった」
緋夏は僕の向かい側に座る。珍しく、店内の客は僕以外に誰もいない。二人きりの時間ができるといつも心が踊る。
かなり疲れたのか、緋夏は息を吐きながら机に突っ伏した。手を伸ばし、僕のペンだこを何度か突く。
「大学生は大変だね」
「この前の試験、悪かったからな。巻き返さないといけない」
試験、というのは英語の資格試験のことだ。留学する際には英語資格やスコアの提出が求められる。緋夏の病気もあるので留学するかは迷っているが、九月の中旬に受けていた。結果は振るわず。大学での成績がよほど良くなければ、留学に行くのは厳しい。
今度は十一月に英語の試験が二つ。良い点が取れれば行ける可能性は高い。
「私は応援してるから」
「ありがとう。その言葉だけでやる気が出てくる」
「ねえ、もっとやる気、出させてもいい?」
「出してくれるならありがたいけど」
緋夏はペンだこのある僕の中指をいじりながら言った。
「デートしよ」
やる気が出た。
「今週の土曜日、空いてない?」
「空いてる……って言いたいけど、用事があるんだ」
「女の子?」
「それは違う。緋夏以外にいないから」
僕が焦りながら答えると、緋夏はクスッと笑う。他に関わる女性がいないのを知っての質問だろう。少しだけ悔しかった。
「日曜日なら行けるけど」
「ごめん。その日は病院に行かなきゃだから」
「じゃあまた空いてる日だな」
「そうだね。夏休みにいっぱい行ったから、今は我慢しないと」
緋夏の言う通り、夏休みの終盤には緋夏とよくデートに行っていた。ノートの内容も含めて、二人だけの夏の思い出を作った。
恭平と陽平は八月末から学校だったが、大学の夏休みは九月下旬まで。彼女と二人きりの時間が増えて、有効に使わない手はなかった。
「……ふふ」
不意に、緋夏が笑顔を見せた。机に突っ伏しながら、僕の顔を上目遣いで見つめている。
「どうした?」
「何でもない。困ったら……いつでも頼ってね。彼女なんだから」
「そうする。緋夏も頼ってくれ」
「これ以上は頼れないよ。でも、気づかずに甘えちゃうかも」
「いいよ、好きなだけ甘えてくれたら」
そうして会話をしていると、扉についた鈴が鳴った。二人きりの時間はそう長くは続かない。緋夏はすぐに立ち上がり、入ってきた客の元へと向かった。
「ただいま」
土曜日、大学から家に帰った僕は玄関扉を開けると同時に言う。するとリビングの方から聞き慣れた低い声で、おかえり、と返事が聞こえた。
僕はリビングに顔を出す。父は椅子で腕を組みながらテレビを見ていた。ただ眺めているだけのようで、父はテレビに顔を向けたまま、口を開く。
「説明会、どうだった?」
「今から言うよ。資料とかももらってきたから」
父はリモコンを手に取り、テレビを消す。リビングが静けさに包まれる。時計が針を刻む音だけが鮮明に鳴り響いていた。
僕は父と向かい合う形で座る。父は腕組みをやめて、椅子を机に近づけた。父と面と向かって話そうとするのはいつぶりだろうか。恥ずかしさと緊張が入り混じる。
「何か……飲むか?」
「大丈夫。お茶あるから」
「そうか」
父は机の上のコーヒーを一口啜る。沈黙。父は寡黙で自分の口から多くを語らない。一切の会話すらないほど忙しかった受験時代が終わってから、僕も話しかけ方を忘れてしまった。父とは何となく気まずい状態が続いている。
気まずさを紛らわすかのようにバッグを漁り、留学説明会でもらった資料を机に置いた。父は赤縁のメガネをかけて、資料に目を通し始める。
「一年留学プログラムの一次募集が十二月に締め切りなのか。冬休みが始まるまでだな」
父は後ろのカレンダーを振り返りながら言う。僕も父の肩越しにカレンダーを見てみる。予定は何も書かれておらず、今週の金曜日までの日付に赤バツが付いているだけ。横に飾られた花と動物の温かな絵の方が鮮やかだった。
「うん。二次募集が一月までだけど……受かる人は少ないらしい」
「そうか」
会話して、また沈黙。父は黙々と資料を読んでいく。緊張するのは留学の件についてまだ迷っていることが多いからだろうか。
留学は小さい頃に交わした母との約束。果たそうと今まで生きてきて、何の悪戯か、好きな人ができてしまった。好きな人は病気で、余命一年。僕は狭間に立たされている。
「行くのか? イギリスに」
読み終えた父が僕を見る。真剣な眼差しと口調。僕は目を逸らしてしまった。
「もし行きたいって言ったら?」
「お金は出す。留学したいってずっと言ってたから資金は貯めてある」
「ありがとう」
「いや、当然だろう」
父は平然と言い放った。感謝される意味がわからない、とも聞いて取れる。
今度は僕が沈黙した末に言った。
「……来年は、やめようと思う」
「どうしてだ?」
「三年生でもいいのかもなって」
「成績が悪かったのか?」
「前期の成績は良かった。後期は反映されないからあとは英語だけ……英語はもう少し頑張れば何とかなるとは思う」
「そうか」
父とは、大学二年生でイギリスに留学するプランで話をしていた。
緋夏の病気が治らない想像はしたくないが、一年留学に行ってしまえば緋夏の最期には確実に立ち会えない。日本からイギリスは遠く離れている。会えるとしたら緋夏が亡くなった後。永遠の別れを意味する。
寛容の父のことだから何だかんだ許してくれると思い始めた矢先のことだった。
「……ダメだ」
たった三文字。僕の心に画鋲を突き刺す。
「なんでダメなんだ? 二年生で留学ってプランからは外れるけど、二年生も三年生も変わらないだろ?」
僕は早口で捲し立てる。父は変わらず、首を横に振る。
「三年生は就活があるだろう。画家になるとしても、考えなければいけない大事な時期だ。そんな時期に留学など親としてさせられない」
「でも……!」
「短期留学なら好きに行け。でも一年だ。若いうちの一年の価値を見誤ってはいけない」
父の言う通りだった。何も言い返せない。大学二年生に設定していたのは父が言った理由が大半だった。
「歩夢の選択肢は三つある。一つ目は留学を諦めること、二つ目は二年生で一年留学すること、三つ目は短期留学や休暇中に留学すること」
「正直……イギリスに一年留学する以外は考えられない」
「そうか。まだ時間はあるからよく考えろ。英語の試験はどちらにしろ受けるといい」
「留学関係なしにそれは受けるけど……」
「資料は読んだからあとは自分で決めろ」
父はコーヒーを飲み干し、資料を僕に返す。席を立ち、台所で洗い物を始めた。
資料を見つめて結論を出そうとしても、その日のうちに決めることはできなかった。
実の母が病気で亡くなった。小学二年生の時だった。
親馬鹿とも言えるほど子供思いで優しい母だった。僕はそんな母のことが大好きだった。
昔から病気がちだった母は入退院を繰り返しながら生活していた。ごめんね、は母の口癖。ありがとう、が聞きたくて、僕はよく母のために絵を描いた。
「お母さん! あげる!」
「ありがとう。歩夢は絵が上手ね。将来は画家さんになれるかもね」
「うん! 画家さんになる!」
「ふふ、歩夢が何を目指しても私は応援してるからね」
僕の頭を撫でる母の温かな手が、大好きだった。
絵を描き始めたきっかけも母がその手で絵を描いていたからだったと思う。母が白紙に作り上げる世界は温かで、優しかった。人間も動物もみんなが手を繋いでいて、地面にはたくさんの花が咲いていて、美大に入った今でも母の絵は再現できない。特別に上手くはない。でもあんなに温かな絵は母にしか描けない。
描き始めは下手だった。りんごの絵は動きながら描いたのかとでも言いたくなるくらい線が揺れている。人の絵は図形をくっつけて、顔に点を三つ描いただけ。リアルに描こうとして得体の知れないものをよく生み出した。
それでも母に渡せば、いつも笑って受け取ってくれた。
「ごめんね。入院してばっかりで」
「ううん。それよりお母さんにあげる!」
「あら、今日もくれるのね。ありがとう。素敵だわ」
渡すたびに、頭を撫でてくれた。ごめんね、が、ありがとう、に変わった。母の真似事は母を喜ばせたいという思いに変わった。
ずっと描き続けていると、絵も自然に上手くなってくる。母の病気がひどくなって、病院から外に出られないような状態が続いた時、僕の絵は母の目の代わりになった。外の景色をスケッチして、毎日、母に見せていた。
母の描く絵が好きだった。
絵を渡すたびに喜んでくれる母が好きだった。
母が、大好きだった。
「僕、画家になる。留学に行って、海外に行って……僕、お母さんのために描くから!」
「歩夢の夢なら、応援してるよ」
「ううん、約束……約束だもん!」
ある日、僕は母に約束しようと言った。経緯は覚えていない。
子供の頃の僕は絵を描くことくらいしかできず、体調が悪くなっていく大好きな母をただ見ていた。少なくとも絵を描けば笑顔にはなってくれる。特大の絵を母のために描けば治るとでも思っていたのかも知れない。
そして八歳の時、母は天国に行った。
「でもね、歩夢。私はね……」
体が揺れている。意識が鮮明になってきて、耳の中に音が入ってくる。電車がレールの繋ぎ目を通過し、音は一定のリズムで鳴っていた。
次第に感触も伝わってきて、右肩に違和感を感じた。目を開ければ、緋夏が僕の右肩に頭を預けて眠っていた。
体が硬くなっていたので少しだけ動かすと、緋夏の目が開く。僕を見て、眠たそうに目を擦った。
「おはよう、緋夏」
「ごめん。寝ちゃってた」
「僕も寝てたから大丈夫だ」
「よかった……今日は疲れたね」
「そうだな。人も多かったし」
電車の窓越しに夕日を見ながら、一日を振り返る。
今日は緋夏と久々のデートだった。観光がしたいというので遠出して、有名なスポットを巡った。午前は絶景を見るために山を登り、街を一望。昼は老舗の店で和食を食べて、午後からは動物園。日曜日の動物園は人でいっぱいだった。
「歩夢くんとパンダは可愛かったけど、次に行くとしたらマイナーなところがいいな」
「……僕は動物なのか?」
「ふふ、たまにサモエドに見える」
「複雑だな」
「褒め言葉だよ。歩夢くんに会ったら、私のお母さんも同じことを言うだろうなー」
緋夏の母はどんな人なのだろうか。緋夏が母思いの娘である以上、良い人に間違いはない。
母がいる家庭を見ると、たまに羨ましさを感じる。
「……どうしたの?」
「わ、悪い。考え事してた」
「最近の歩夢くん、ぼーっとすること多くない? ちゃんと寝てる?」
「寝てはいるんだけどな」
当然、悩みの種は留学の件。母との約束か、緋夏と最期まで過ごすか。
短期留学は選択肢にない。海外で活躍しようと思うなら不十分な時間だ。今は十月下旬。時間はあるが、結論を出せるだろうか。
「私でよければ話くらい聞くよ?」
「大したことじゃない」
「……私には話せない、かな」
緋夏は上目遣いで僕を見る。ズルだ。断る選択肢を消している。
「悩むっていうか……母親の命日が近づいてるからだろうな」
「お母さん、病気で亡くなったんだよね」
「小学生の時にな。それから父親と二人暮らし」
「大変、だったね。片親の子供の気持ちは、私もわかるから」
「緋夏は……女手一つで育てられたんだよな」
「うん。小学生の時に親が離婚したから」
緋夏の家庭事情は詳しく知らない。緋夏から話すことはないし、こちらから踏み込むようなこともしない。これからも僕から聞くことはないだろう。
「……歩夢くんのお母さんはどんな人だったの?」
「優しくて、落ち着いた人だったな。家族のことをいつも考えてくれてた」
「いいお母さんだったんだね」
「生きてたら緋夏に会わせてあげたかった。緋夏のこと、きっと気にいるだろうな」
もし母が生きていたら。何度も想像して、虚しくなる。けれど実現しようもない緋夏と母の絡みを想像した時は笑みが溢れてしまう。
反対に、父との絡みが想像できない。想像しようとしても挨拶で想像が止まる。
「歩夢くんのお父さんはどんな人なの?」
「寡黙な人だ。緋夏と会ったら、どんな反応するんだろうな」
「なんか……緊張してきた」
「会う予定もないだろ」
「ううん、いつか会いたい。私のお母さんにも歩夢くんを紹介したいな」
「……緊張してきた」
「でしょ? ふふ」
緋夏は笑って、僕の左胸に耳を当てる。向かいに座っていたサラリーマンが僕たちを見るが、視線をすぐにスマホへ下げた。
「……鳴ってる」
「鳴ってなかったら困る」
今は早くなりすぎて困っている。
「だね、安心。私のも確認する?」
緋夏は起き上がり、自身の胸に手を当てた。目のやり場に困って、ひとまず首を横に振った。
「……二人きりの時にな」
「二人きりだったら聞いてくれるんだ」
緋夏はクスッと笑う。そのままの表情で、緋夏は言った。
「私ね、もう死ぬのが怖くないよ。だって誰かさんが一緒にいてくれるから」
「なら……よかった。一緒にいるだけなんだけどな」
「ううん。私、歩夢くんに甘えてばっかりだよ。だから……歩夢くんも、たまには甘えていいからね」
緋夏は自身の胸を数回叩く。僕が苦笑いで返すと、彼女はムスッと唇を尖らせる。
「悩んでたら言って。力になるから」
言葉の代わりに手を握ると、緋夏は満足したように僕の肩にもたれかかった。
お互いの視線の先で、赤い夕日が地平線に沈んでいた。風景は再現できる。でも、再現できないものもあると最近になって知った。
それから数日後のことだった。
十一月に入ってすぐ、緋夏は僕の目の前で倒れた。
緋夏が倒れてから三日。彼女は目を覚ましていない。命に別状はなく、あとは目が覚めるのを待つだけとのこと。
それでも目が覚めなかったら、と一日に二十四回くらいは考える。
一人で授業を受けて、ご飯を食べて、あとは家で過ごす。家では絵を描いて、キャラメルを食べて、また絵を描く。繰り返し。
緋夏がいない日常に戻っただけのはずが喪失感が埋まろうとしない。
「留学の件、決めたか?」
緋夏が倒れた翌日は英語の資格試験があった。父にテストの出来を聞かれて、流れで質問された時、まだ悩んでいると答えるしかなかった。
かれこれ一ヶ月は悩んでいる。しかし今は緋夏の心配で頭が埋まっている。
状況が変わったのは授業を受けている最中のことだった。
『今、起きました。心配かけてごめんなさい』
緋夏からのメッセージを見て、持っていたシャーペンをすぐに置いた。
『よかった。授業が終わったら行くから』
『うん、待ってるね』
病院の住所と病室が送られてくる。前に緋夏が入院していた病院だ。
残りの十五分を落ち着かない気持ちで過ごしたあと、すぐに病院へと向かった。
病室は相変わらずの大病室。緋夏の病床を覗くと、意外にも彼女は元気な顔をしていた。机の上にノートを広げ、教材を見ながら書き込んでいる。
近づくと、緋夏は僕が声をかける前に顔を上げた。
「歩夢くんだ。来てくれてありがと」
「大丈夫……そうだな」
「うん、倒れてただけだから。心配かけてごめん」
倒れていただけ、の感覚はわからないが表情は明るい。ひとまず安心し、パイプ椅子に座った。見舞いの品が入った袋をテレビの横に置こうとすると、今欲しいとねだるので手渡した。
「歩夢くん、私の好みがわかってきたね」
中に入っているのはいちごのケーキと甘すぎない市販の紅茶。緋夏は上機嫌で受け取り、礼を述べた。
「それにしても、私、歩夢くんの前で倒れたんだよね。今更だけど恥ずかしいな」
「流石に驚いた。何ともないようでよかったけど」
緋夏が倒れたのはデートの最中だった。喫茶店が臨時休業で、大学終わりに二人で遊びに行っていた。その帰りのことだった。
「ちょっと黒歴史かも。歩夢くんには身体の面で弱いところを見せたくなかったから」
「いいじゃないか。彼氏なんだし」
「ふふ、そう言ってくれると救われる」
「それに僕がいなかったらって考えると怖い」
「たしかに。歩夢くんは命の恩人だね……いつもありがと」
照れくさくなった僕は視線を逸らす。緋夏は机の上の筆記用具や教材を片付け始めた。
「何を勉強してたんだ?」
「ペットシッターの資格勉強。あったら便利だってネットに書いてあったから」
「目指してるのか?」
「うん。病気が治ったら、なりたいなって思ってる」
「そっか。応援してる」
緋夏は思った以上に先を見据えていた。ペットシッター。動物好きの緋夏にお似合いの職業だ。ケーキを食べるには散らかりすぎた机だったことから、本気度も伺える。
「そういえば恭平と陽平は?」
「平日だから学校だよ」
「じゃあ僕は見舞いに来た一人目なのか?」
「ふふ、そうだよ。お母さんもまだ来てないし」
緋夏は口周りに生クリームを付けながら答える。母親よりも先に緋夏の元気な顔を見れたのは彼氏として嬉しいことだ。
僕は緋夏にティッシュを手渡した。緋夏が口周りを拭いた途端、彼女のスマホが鳴った。
「噂をすれば。もうすぐお母さん、来るって」
「じゃあ僕はお暇しようかな」
「せっかくだから会ってってよ」
「お母さんと?」
緋夏は頷く。邪魔だと思ったので帰ろうとしたが、付き合っているなら挨拶はしないといけない。立ちかけていた僕はパイプ椅子に座り直した。結婚の挨拶でもないのに緊張してくる。
「緋夏のお母さんってどんな人?」
「心配性。だけどいい人だよ」
「緋夏にまとわりつく変な虫とか思われないよな」
「多分ないと思うけど……彼氏紹介とかしたことないから」
初カレなので当然だ。嬉しい分、緊張が増した。
そうして緋夏との会話で緊張を紛らわしていた時だ。病室の扉が開く音がした。緋夏の病床に女性が一人、現れる。
「緋夏っ……!」
女性は僕には目もくれず、緋夏に抱きついた。
「起きてよかった……緋夏……ああ、よかった」
「お母さん、苦しいってば。大丈夫だから」
緋夏は僕に目を向ける。言ったでしょ、とでも言いたげに迷惑そうな顔をしながら口角は上がっている。心配性というより娘思いのいい母親じゃないか。
数分間、僕は置いてけぼりにされた。
「……お母さん、暑いし、苦しいんだけど」
「ああ、本当に良かった。このまま目を覚まさなかったらどうしようって……」
緋夏の母は娘からようやく離れる。目は赤く、潤んでいる。落ち着いたのか、僕の存在に気がついた。
「あら……こんにちは。緋夏のお友達?」
「初めまして、娘さんとお付き合いさせていただいてます。加賀美歩夢です」
パイプ椅子から立ち上がり、我ながら失礼のない挨拶。反応を伺うと、緋夏の母は口をぽかんと開けたまま、僕の目をじっと見ていた。
「……お付き合い? 彼氏?」
「うん、私の彼氏の歩夢くん」
「あなた、彼氏いたの?」
緋夏の母は聞いてないんだけど、という視線を娘に向ける。僕も言ってないのか、という疑問を視線に乗せる。
彼女は僕らの視線を笑顔で一蹴した後、
「サプライズで紹介しようかなって」
と、無邪気に言った。
「もう、言ってよ! メイクとか崩れたままなんだけど……あ、初めまして! 娘の母親の白石 美菜(しらいし みな)です。娘がお世話になっております」
「ど、どうも。改めて加賀美歩夢です」
「二人はいつから付き合ってるの?」
「八月中旬くらいからです」
「あら、じゃあ二ヶ月半くらいかしら。びっくりしたわ。娘に彼氏が……ああ、また泣きそう」
美菜さんの目には再び涙が溜まり始めている。予想もしていない反応だった。
「今までこの子から恋愛の話とか聞いたことがなくて、心配だったんだけど……そっか、そっか」
「お母さん、泣きすぎ。私も彼氏くらいできるから」
緋夏はチラッと僕に目を配る。美菜さんはバッグからハンカチを取り出して、涙を拭っている。愉快な人だ。
容姿も雰囲気も緋夏に似ている。緋夏の母だとわかる顔立ちに佇まいや雰囲気も緋夏とそっくり。絵に描いたらもっとわかりやすくなるだろう。
「加賀美くんは何歳なの?」
「六月生まれで十九です」
「じゃあ緋夏と同級生なのね」
「歩夢くん、美術大学に通ってるんだよ。絵がすごく上手いの」
「あら、すごいじゃない!」
「いえいえ、通ってるだけです」
僕は美菜さんに根掘り葉掘り聞かれた。
大学生活はどう。何の絵を描いてるの。どこ出身なの。緋夏とはどこで出会ったの。
正直に答えていたが、馴れ初めだけは秘密にした。すると緋夏が暴露するので僕の顔は赤色の水彩絵の具で塗りたくったみたいになった。美菜さんと緋夏は笑っていた。
美菜さんへの印象はよく笑う人、だ。笑顔も親子で似ている。
しばらくして緋夏の検査の時間がやってきたので、僕はお暇することにした。
「じゃあね、歩夢くん」
「明日もまた来るからな」
「うん、待ってる」
緋夏は手を振り、看護師と病室を後にする。
美菜さんと僕の二人きり。用もないので帰ろうとした時だった。
「娘と付き合ってくれてありがとうね。加賀美くん」
美菜さんが深々と頭を下げた。
「いえ、僕は緋夏のことが好きだから付き合ってるだけです」
「それでもよ。余命のこと、もう知っているのでしょう?」
僕は黙って頷く。真剣な表情をしていた美菜さんは、なぜか表情を柔らかくした。
「加賀美くんは緋夏の病気を知った上で付き合ってくれた。親としては感謝しなくちゃいけないわ。あの子、私たちのためにバイトばかりしてたから友達も恋人もいなかったの。夢もあっただろうに何も言わなかった」
ふと、僕は緋夏の言葉を思い出す。
『獣医師になりたいって思ったんだ。お金がなくて、諦めたんだけどね』
どれだけ重い意味が込められていたか、僕にはわからない。
「病気があって、家は貧しくて……親としてずっと申し訳なかった。何もできなかった」
美菜さんは拳を強く握る。肩を震わせる。
「そんなこと……」
擁護しようとすると、一転。美菜さんは体を弛緩させた。
「けど、あの子も彼氏を作って、自分の人生を歩んでいるんだなってわかった時、安心したし、嬉しかった……もし歩ませてくれたのが加賀美くんなら、親として感謝しなくちゃいけない。だからありがとう」
「どういたしまして……というのもおかしいですけど、好きだから当然です」
「頼もしいわね」
美菜さんは緋夏によく似た笑顔を浮かべた。
「二人のことには干渉したくないけど、一つだけ言わせて」
「……何ですか?」
「緋夏は重い病気です。いつか死んで、加賀美くんを悲しませるかもしれない。それでも娘と一緒にいてくれますか?」
美菜さんの目は潤んでいた。けれど僕をまっすぐ見つめている。
僕に彼氏としての覚悟を、問いていた。
ふと、母の存在が思い浮かぶ。
人間、いつかは亡くなる。最期に僕がいなかったら、そんな想像もしたくない。
弱気でいる選択肢はもはや心の中に存在していなかった。
「もちろんです。一緒にいます」
「っ……ありがとう、加賀美くん」
娘思いの母親はまた一粒、涙を流していた。
十一月八日、母の命日。
外は肌寒く、曇りということもあって昨日よりも冷えていた。薄手の長袖を着てしまったことを後悔しつつ、僕は父と二人で石階段を登っていく。周りには墓石がたくさんあって、母の墓は上の方にある。
「お父さん、持つよ」
「ありがとう」
父から水と柄杓の入った鉄バケツを受け取り、一段、また一段。後ろを振り返れば山に囲まれた街並みが見渡せるところまで来ていた。下を見下ろすと墓を管理している寺が見える。不思議なもので、地元の空気を吸うだけで昔を思い出す。土と新鮮な空気の混じった匂いが記憶を呼び起こす。
「今更だが、歩夢は泊まりでよかったのか?」
「用事はあるにはあるけど、おばあちゃんの家に泊まるのも悪くないし。有給使ってるんだからお父さんこそだろ」
「大人も……たまには休みたい」
真顔で素直なことを言う父に僕は思わず笑った。
「いつも感謝してますよ」
こういう時くらいしか僕も素直になれない。そう思うと、母は亡くなっても僕と父を繋いでくれている。
家から父の車で約二時間。僕と父は母のお墓がある地元に来ている。母方の祖父母の家もこの地元にあり、孫の顔を見るついでに泊めてくれる。
今日は母の命日であり、緋夏の退院日だ。出来ることなら顔を出したかったが、命日は一年に一回。母に謝罪もしなければならない。
最上段の少し手前、僕たちは母が眠る墓に辿り着いた。秋なので、ここに来る時はいつも枝木や枯れ葉が墓の周りに積もっている。
「まずは掃除だな。歩夢は塵取りを持って来てくれ」
二人で分担しながら、階段の脇にあった箒と塵取りで墓周りを綺麗に掃除した。花立の中身を入れ替え、水鉢の水も新しくする。墓が綺麗になっていく様は見ていて心地がよい。景色がよく、空気も澄んでいて、落ち着く。雲に覆われた空も今は悪くないと思える。
掃除が終わって、僕たちは墓の前で手を合わせた。
ここに、母が眠っている。
目を瞑ると、昔の情景が瞼の裏に映し出された。
『歩夢』
『なあに? お母さん』
僕は母の病室から窓越しに見える空を縦開きのスケッチブックに描いていた。きっと、子供の僕から見たら綺麗な空だったのだろう。僕は描くことに夢中になっていた。
『歩夢は本当に絵を描くのが好きなのね。これ、あげるわ』
母が一生懸命に絵を描く僕にくれたのは長方形の箱だった。橙と白の対比が美しい、綺麗な箱だった。
『開けてみて』
中に入っていたのは一本の多機能ボールペンだった。ボディは濃い赤色で僕の名前がローマ字で白く書かれている。当時の僕は読めなかったけれど、後に気づいた。
母が死ぬ間際にくれた贈り物だった。
『ありがと! お母さん! すっごくかっこいい!』
『気に入った?』
『うん! お母さん、大好き』
『嬉しいわ。大事に使ってね』
大好き、なんて普段は滅多に言わない言葉で感謝を述べて、僕は外に出かけた。縦開きのスケッチブックに母がくれた赤色のボールペン。
早く絵を描きたかった。母に絵を見せたかった。
母が亡くなったのはその直後だった。僕が病室に戻った頃には母は亡くなっていた。
誰よりも優しくて温かかった人物の最期は、一人だった。
父は母に頼まれた買い物に行っていて、僕は母を任されていた。
僕が外に行っていなければ、僕が絵を描くことを優先していなければ、一人で天国に行くことはなかった。
『歩夢、生まれてきてくれて、ありがとうね』
箱の底にはメッセージが書かれていた。これほど息子思いの母を、僕は一人にしたのだ。大きくなるにつれて、僕は自分が許せなかった。父は僕を責めるということはしなかった。代わりに僕が自分を責めた。
お母さん、ごめんなさい。
僕は留学には行きません。
好きな人が最期の瞬間にいないのはすごく寂しいことだと思うから。
約束したのに、ごめんなさい。
画家には絶対になるから。
だから親不孝な僕をどうか許してください。
「歩夢?」
父に肩を叩かれ、自分がどれほど長い時間、手を合わせていたかに気づいた。
「……ごめん、お父さん。留学には行かないことにした」
父は一言、わかった、と返すだけだった。
緋夏が倒れた日を境に彼女の体調は悪くなっていった。入退院を繰り返すようになり、一目でわかるほど顔色の悪い日が続く時もあった。
会うたびに、大丈夫だから、と笑顔を振りまく彼女の姿を見るのは耐えられない。それでも僕は緋夏のために何かしてあげることはできない。ただそばにいるだけだった。
「……別れたかったら、別れてもいいから」
普段は笑顔の彼女が弱音を吐く時もあった。
「別れるわけないだろ。ずっとそばにいるから」
「頼もしい……彼氏だね。ありがと」
僕がどれだけ言葉を投げかけても、緋夏にとっては重荷になっているような気さえした。
「格好いい彼氏の前で格好悪いところは見せられないね」
違う。そうじゃない。もっと弱音を見せて、頼ってほしい。
言ったところで通じないから、話の最後にはいつも緋夏を抱きしめた。
体調が良さそうな時は二人で、四人で遊んだ。十二月に入ってから緋夏の体調が戻ってくると、クリスマスは一緒に出かけられるかも、と楽観的な自分もいた。
「もう十二月かー。早いね」
「クリスマスデート……行こうな」
「……行けたらね。期待はしないで」
緋夏は笑うことなく言い放つ。緋夏の手を握りながら、僕は楽観的でいた自分を強く責めた。指と指を絡めても不安は収まらない。
「それで、どっちに行くの?」
話を変えるように、緋夏は明るい声色で聞く。
「右に曲がって、まっすぐ行けば僕の家」
「じゃあもうすぐだ。楽しみだなー」
「いい家ではないけどな」
「豪邸?」
「普通の一軒家だ」
冬の寒さを手から伝わるお互いの体温で耐え凌ぎながら、僕の家へ向かって歩いていく。付き合ってから、緋夏を家に上げるのは今日が初めてだ。
少し前から、歩夢くんの家に行ってみたい、と緋夏は口にしていた。数日前に英語の資格試験も終わって、二人とも暇だった日曜、こうしてお家デートをすることになった。
歩いて数分、二階建て一軒家の前に着いた。壁色は白と灰色で総二階建てのシンプルな家だ。敷地にあるのは家と白い車一台だけで、家の前の小さな庭ですら花や植物の装飾は一切ない。同じ住宅街にある家と比べても質素な方だろう。
鍵で玄関扉を開け、緋夏を先に中に入れた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
緋夏は丁寧に靴を揃えて、家に上がる。僕は玄関から向かって左のリビングに入り、床暖房をつけた。
「歩夢くんの家、結構広いかも」
緋夏はリビングを見回しながら呟く。
「昔は父方の祖父母と一緒に暮らしてたから。今は田舎でのんびりやってるけど」
「そうなんだ。いい家だね……お父さんはいないの?」
「今はいない。十八時過ぎまで出かけるって言って、出ていった」
昨日、彼女を連れてくる、と父に報告したが、出かける予定があるから好きにしてくれと返された。父に限って、配慮しているとは思えない。会社の人か知り合いに会っているのだろう。
「歩夢くんのお父さんに挨拶したかったな。彼女いるって、知ってるんでしょ?」
「言ってある。緋夏みたいにサプライズで言っても反応は薄そうだから」
「ふふ、そっか。じゃあもう親公認のカップルだね」
緋夏は口角を上げながら、恥じらった表情も見せる。愛らしい赤い頬に触れて、キスをしてしまいたかった。けれど付き合って数ヶ月、いまだにキスはできていない。手を繋ぐ、ハグとハードルを超えていったが、接吻のハードルがどうにも高い。
「……どうしたの? 照れちゃった?」
「い、いや、何でもない。何か飲み物でも出すから、その辺に座っててくれ……ココアとかでいいか?」
「うん、お願いします」
キスを想像しながら、僕は一度、ココアを台所でこぼした。緋夏にバレないように作り直して、テレビ前のソファに座る彼女の元へ持っていく。
「はい、お待たせ」
「ありがと」
ココアを二つ、机の上に置く。白い湯気が静かにコップの上を漂っている。
僕は緋夏の横に座り、ココアを口にする緋夏の方を見た。
「映画とか一緒に見るか?」
「うーん、それもいいけど……家で女の子と二人きりなんだよ?」
「口周りにココアつけられても色気はない」
「っ……うそっ」
緋夏はテーブル上のティッシュを手に取り、口を拭った。色気はなくとも久々に焦る彼女を見るのは楽しい。緋夏はムスッと口を尖らせて、機嫌の良い僕を見る。しかし彼女はすぐに表情を弛緩させた。
「歩夢くんは……やっぱりいい彼氏だね。」
「責任の取れないことはしない。病気なのにもしもがあったら困る」
「二人きりって聞いて、私、襲われると思ったんだけどな」
「襲うわけないだろ。逆に襲って欲しかったのか?」
「うーん、どうだろ?」
緋夏は眉を下げて、考える。
「でも最近の歩夢くんは優しすぎる気もするなー」
「優しすぎる?」
「なんていうか、私のことを考えすぎてる気がするの」
自覚のない性格の指摘は僕の心に画鋲を突き刺した。振り返れば、日常生活で八割くらい緋夏のことを考えている気もする。夫婦ではなく、ただの恋人なのに緋夏のいない生活は考えられない。
「……重いか?」
「そういうことじゃないよ。けど私に言ってくれたように、もっとわがままになったり、自分の時間を優先にしてくれていいんだけどなって」
「緋夏といる時間が自分の時間になりつつあるけどな」
「私もそうだよ。でも、一緒に絵を描くとか、歩夢くんが本当に行きたいところに行くとか、たまには彼氏のわがままに振り回されたいっていうのが彼女のわがままかな」
緋夏は髪をいじりながら、僕を見る。言われたところで、自分のしたいことは頭に思い浮かばなかった。強いていうなら緋夏を笑顔にさせたい。
「僕のわがままか。あんまり考えたことがない」
「……そっか」
緋夏は困ったような笑みを浮かべた。
「そういえば、あの絵は歩夢くんが書いたの?」
緋夏の視線は僕の後ろに向けられている。振り向くと、視線の先には花と動物が描かれた絵が壁に飾られていた。額縁に入れて、保管してある。僕にとっては隣のカレンダーと共に見慣れた装飾だ。
「いや、お母さんが描いた絵だ。今でも残してる」
「素敵だね。可愛くて……温かい」
人間と動物が交互に並んで手を取り合い、地面にはたくさんの花が咲いている。子供向けの平面的な絵。僕は今でも絵を見て、母を思い出す。
「テレビの横の仏壇は……お母さんの、だよね」
僕は頷く。最初から気になっていたのか、緋夏はソファから立ち上がる。テレビの横に置かれた棚、一番上に母の小さな仏壇が置かれている。葬儀の後、分骨してもらって作ったものだ。母は遺影の中で幼い頃の記憶を引き出すような笑みを浮かべている。
緋夏はしゃがんで、仏壇に目の高さを合わせる。静かに、手を合わせた。時間にしては数秒程度だったと思う。不思議な時間だった。
手を合わせた後、緋夏は振り返って言う。
「歩夢くんの部屋を案内してほしいな」
「……片付けてないけどいい?」
「余計に気になるじゃん」
わがままを使って拒否することもできるが、からかわれそうなのでやめた。僕は立ち上がり、リビングから出る。
自室は階段を上がって二階の一番奥の部屋だ。リビングで映画でも見ながら過ごそうと思っていたので、部屋を片付けるのを忘れていた。
「散らかってるけどいいか?」
「何? 怪しいものでもあるの?」
緋夏は若干の期待を含ませた眼差しを向け、悪戯っぽく聞く。男の部屋とはいえ、怪しいものはない。
あるとすれば、
「……画家の部屋だね」
部屋に入った緋夏が真っ先に呟いた言葉だった。床には本が散らかっていて、上にはティッシュが覆い被さっている。無論、バイト代で買った美術解剖学の本と、炭が付き、色が染み込んだティッシュだ。他にも空になった絵の具や使えない筆。汚部屋だ。
壁際には作業机とイーゼルに立てかけられたキャンバス、木の丸椅子が置かれている。
「片付けてなくて悪い。部屋っていうより、アトリエになってるから」
「ううん、大丈夫。美大生っぽくて格好良い部屋だね」
緋夏は物の隙間に足を通しながら、部屋を見回る。自分の部屋を見られるのは意外にも恥ずかしい。綺麗なのがベッドだけなので、今更ながら部屋を片付け始めた。
ある程度が片付いた頃だった。
「ねえ、歩夢くん、留学は行かないの?」
思わず、顔を上げる。
緋夏の手元には大きなバツがつけられた留学の案内用紙が一枚。油絵の背後にある張り紙と見比べ、案内を読み込んでいる。張り紙には『長期留学に行く』と大きな黒文字で書かれていて、下に項目が三つ。あまりに日常の風景で剥がし忘れていたのだ。
「行かないよ」
「夢だったら行ってもいいじゃん」
「もう……終わったことだから」
「そっか。じゃあ留学はしたんだ」
僕はかぶりを振る。
「そういうわけじゃない。留学の話が終わっただけ。行けなくなった」
「……なんで?」
緋夏が病気だから、とは口が裂けても言えなかった。僕は黙り込む。
「私に手伝えることがあったら言ってよ。歩夢くんの夢なんでしょ?」
「どうしても行けない事情ができた。だからもういいんだ」
僕はゴミ袋を床に置き、張り紙を剥がしに行く。項目は三つ。
一つ目、英語の勉強を頑張る。
二つ目、上手い絵を描く。
「……三つ目、お母さんとの約束」
緋夏が呟いた。張り紙に伸びた手が止まった。
「野暮なことだってわかってるよ。でも、なんで行けなくなったの?」
「それは……」
「私には言えないこと?」
「……大学三年生で留学する予定だった。でも二年生じゃないと留学を許してくれなかった。だから諦めた」
焦る心をひた隠しにしながら答える。半分は本当のことだった。
「私が病気だから? 余命一年だから?」
成績が足りないから、英語の資格が取れなかった。いくらでも言い訳はできた。
しかし僕は数秒間、俯いて黙り込んでしまった。緋夏に考える時間を与えるには十分だった。
「……私のせいじゃん」
「それは違う。緋夏のせいじゃない。成績が足りなかっただけで……」
僕は弁明しようと再び顔を上げる。
もう、遅かった。
緋夏は全てを察した上で、涙を流していた。
「英語の勉強を頑張ってたのも、そういうことだったんだね。でも私がいたから、私が歩夢くんを好きになったから、私が歩夢くんと付き合ったから……」
「違う! 僕は……!」
緋夏を抱きしめようと手を伸ばす。彼女は背を向け、手は空を切った。
「……ごめん」
緋夏はそう言い、涙を流しながら部屋から出ていった。追いかける僕から逃げるようにリビングの荷物を取り、家からも出ていった。
その数日後のことだった。病院での検査結果が悪かった緋夏は長期入院することになった。余命三ヶ月。新たに下された余命宣告だった。
緋夏の病床を訪れると、彼女は僕から顔を背ける形で横になっていた。
「……大丈夫か?」
僕は見舞いの品を机の上に置き、椅子に座る。袋が擦れた音がしたにも関わらず、彼女は反応しない。横になったまま、緋夏は嫌味っぽく言った。
「大丈夫だと思う?」
緋夏からすれば僕の言葉こそが嫌味に聞こえたのかもしれない。
「……ごめん」
「ううん、私こそごめん。今の言葉はあんまりだった」
緋夏はゆっくりと起き上がろうとする。髪は乱れていて、それよりも顔色が悪いことが気になった。ほっそりとして、頬には色がない。大丈夫か、なんて言葉はあまりにも無配慮な言葉だったかもしれない。
昨日、数日ぶりに緋夏から連絡が来た。
『大事な話をしましょう』
緋夏から送られてきたメッセージに最初は安堵した。緋夏が僕の家を出たっきり、会うことも連絡を取り合うこともなかった。けれど次に送られてきたメッセージで余命が残り少ないことを知らされた。
三ヶ月。緋夏に残された期間はたったのそれだけ。
「あんまり無理するなよ。寝ててもいいから」
「大事な話って言ったでしょ」
弱った力で体を動かし、緋夏はようやくヘッドボードにもたれかかった。起き上がるだけでも辛そうな緋夏を見て、自分の無力さを実感する。
しばらくはお互いに無言だった。
「……それで、話って?」
恐る恐る、僕は口を開いた。
「単刀直入に言うけど、もう別れない?」
予想はしていた言葉だった。いざ言われると、金縛りにあったかのように動けなくなる。口も動かない。
「この関係はもう私たちのためにならないと思う」
「僕は……緋夏と一緒にいたい」
「留学、行くんじゃないの?」
「もう終わった話だ。大学二年生で行く気はない」
「……私が病気だから? 余命三ヶ月だから?」
緋夏は続けて問いかける。
「留学は亡くなったお母さんとの約束じゃないの?」
反論できなかった。事実だから言葉を選ぼうとしてしまった。
緋夏は黙り込む僕に言葉を投げ続ける。
「言葉に詰まる時点で、まだ行きたい気持ちが残ってるってことだよ」
「留学には行きたい。でもそれ以上に緋夏との時間を大切にしたい。余命三ヶ月って聞いたら僕は尚更……!」
「ふーん、優しいね。でも失礼な人」
緋夏は僕を強く睨む。負の感情のこもった視線に、僕はたじろいだ。
「人に死ぬつもりで生きるなって言ったくせに、歩夢くんは私が死ぬ前提で考えてたんだ」
「それは……緋夏のために、僕は……」
「私のために何? じゃあ私のために留学に行ってよ。人の気も知らず、勝手に人のためを思って……お母さんも可哀想」
「っ……緋夏の最期にまた立ち会えないなんて嫌に決まってるだろ!」
荒げた声は病室に反響し、自分の本音を僕の耳に届けた。
気づいた時には遅かった。緋夏は落胆した目で僕を見ていた。
「そっか。それが歩夢くんの本音なんだね。歩夢くんは……私が生きるって信じてくれないんだ」
「違う、なんでそうなる」
「何も違わないよ。さっき自分が言った通りじゃん」
看護師の人がやってきた。次に大きな声を出したら追い出すと言われ、いつの間にか立ち上がっていた僕は椅子に座り直した。唇を強く噛む。鉄の味がした。
「もう、別れようよ」
「……別れたくない」
「子供っぽいこと言わないで、大人になってよ」
緋夏の目には涙が溜まっていた。声も半分、震えていった。
「私は……夢を選べない。獣医師になれなくて、病気にもなってさ。だから歩夢くんには夢を選んでほしい」
きっと、言いたくないことを我慢して言っている。
「それでも、僕は……」
言いかけようとした時だった。
「……選べる人はいいよね、本当」
緋夏がボソッと呟いた。
「今日はもう帰って。一週間あげるからよく考えて、答えを出して」
緋夏は僕に背中を向けて、横になる。何も言わず、僕はその場から立ち去った。
一週間の猶予は僕にとってあまりに短い期間だった。
留学に行かなければ緋夏は別れを切り出す。
留学に行けば緋夏とは別れることになる。
実質、一択しかないような答えを同じ思考の繰り返しで答えを出せずにいる。
留学は長年の夢で母との約束でもある。数ヶ月付き合っただけの恋人とどちらを優先させるか、客観的に考えれば明白。けれど気持ちは他人の尺度で測れない。
緋夏と最期まで一緒にいたい。
考え事をしながら歩いていると、野良犬が道路を横切った。気を取られた僕は転び、その場で尻餅をついた。
「……いって」
何となく、空を見上げる。雨か雪でも降り出しそうな灰色の雲に覆われていた。息を吐けば、白に塗られた空気が雲の一部になろうと昇っていく。
前を向くと初めて、自分が喫茶店へ足を進めていることに気がついた。大学終わりの習慣が残っていたのだろう。中に緋夏はいないが寒い。暖を取りたい。僕は震えた足で喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
中に入ると、僕の顔を見た店長は目を見開いた。店長は三十代前半の風貌をした中年女性だ。左手の薬指には結婚指輪が付いているので既婚者なのだろう。
店長は何か言いたげだったが、すぐに営業スマイルへと切り替えて席に案内された。一瞬、見えたキッチンでは体格の大きい男性が何かを作っている最中だった。
席に着くなり、僕はミルクティーのホットを頼んだ。店長はかしこまりました、と丁寧に礼をして、キッチンへ戻っていった。
緋夏に接客された訳ではないので、いつもの四人席ではなかった。壁際の二人用席で向かい側にもう一つの椅子がある。荷物を置き、スケッチブックだけを取り出して机に広げた。スケッチのモデルはいないのに習慣だけが残っている。僕は最初のページから一枚、二枚とスケッチをめくっていった。
緋夏が接客しているスケッチ。
緋夏が注文を運んでいるスケッチ。
なぜか犬も一緒に描かれたスケッチ。
途中から恭平と陽平も加わり、スケッチも上手くなっていく。緋夏を近くで見る機会が増え、鮮明に描けるようになったからだろう。
それでも最後のページまで僕は彼女の笑顔を再現することはできなかった。
「もう、お別れ……なのだろうか」
店長がこちらへ向かってきているのを横目に見て、僕はスケッチを閉じた。
「お待たせしました」
店長は机の上にミルクティーを置く。そしてクッキーの乗った皿も一つ。
「あれ、クッキーは頼んで……」
言いかけた時、店長は自身の唇に人差し指を当てた。サービスらしい。
「ありがとうございます」
「緋夏ちゃんの彼氏くんでしょ?」
「そう、です」
まだ付き合っているが歯切れが悪くなる。
「緋夏ちゃんがバイトを辞めて、もう来てくれないと思ってたから」
「……え?」
僕は自分の耳を疑った。
「聞いてなかったの?」
「あ、いや、そうでしたね」
考えてみれば当たり前のことだ。余命三ヶ月と宣告され、長期入院。バイトなど続けられない。
「病気のことも知ってるんでしょ?」
僕は頷く。店長はしばらく机の上のミルクティーを見つめていた。
「本当、やるせないわよね」
「……そう、ですね」
「緋夏ちゃんね、君がただのお客さんだった頃から、君の話をよくしてたの。毎日、勉強してて偉いなって。頑張れる人って羨ましいし、尊敬するなーって」
ふと、緋夏が病室で言い放った言葉を思い出した。夢を追えない人にとっては夢を追えること自体が贅沢なのかもしれない。
「あー、ごめんね、こんな話。ゆっくりしていって」
他の客が店長を呼び、話は終わった。知り合う前から緋夏が僕のことを話していた。その嬉しさよりも心の虚しさが広がっていた。
僕は緋夏に対して失礼だったのかもしれない。夢を追えなかった緋夏が目の前にある夢を手放そうとする僕に怒りを抱いて当然だ。
喫茶店にいた時間は一時間にも満たなかった。英語の勉強をする必要はなく、緋夏もいない。スケッチしようにも手は進まなかった。
落ち込みが顔に出ていたのか、店長は頑張ってと言って僕を送り出した。
外は寒かった。
帰りに公園に立ち寄り、一人でブランコに乗った。目の前では野良犬が寒そうに体を丸めていた。凍え死なないのだろうか。思うだけで、僕は何もできなかった。
家に帰ると、ただいまを言い忘れた僕の耳におかえりと低い声が聞こえた。
「ただいま。帰ってきてたんだ」
父はリビングの椅子に座り、テレビを見ている。
「冷蔵庫にケーキが入ってる」
「夜にでも食べるよ」
「……ああ」
手を洗って、いつもなら自分の部屋へ上がる。けれど僕の足はリビングへと向かっていた。父は相変わらず真顔でテレビを見ている。
「なあ、お父さん」
「……どうした?」
テレビを見たまま、父は耳を傾けてくれた。
一拍置いて、僕は聞いた。
「しなければいけないこと、と、したいこと。どっちを取ればいいと思う?」
好きにしろ、と返ってくるのだろうと思っていた。意外にも父はテレビを消して真剣に悩み始める。
「若い頃、俺はしなければならないことを取った」
「したいこと、じゃなかったのか。なんで?」
「そうしなければいけなかったからだ」
「……お父さんはそれを選んで幸せ?」
「ああ、もちろん。どんな選択をしても時間が経てば後悔はなくなる。けど、選択自体に間違いはなかったと思ってるよ」
長期的に見れば、留学をする方が幸せになれる。数ヶ月付き合った程度の恋人など忘れて、新しい恋人と結婚。側から見れば充実した人生。
ふと、母のことが頭に浮かんだ。無理だ。後悔を引きずる自信しかない。
理屈で人は幸せにはなれない。幸せな環境が手に入るだけで幸せとは限らない。
「世の中には選択の余地がないこともあるものだ」
父が付け足した。緋夏の言う通り、僕の考えは子供じみたものなのだろう。その場の気持ちだけを優先して、後のことを考えていない。
思えば、母が死んだ時もそうだった。絵を描きたいことを優先したからずっと後悔することになった。後悔がない方は、もしかすれば留学することかもしれない。
「若いうちはしっかり悩め」
僕が突っ立っていると、父は一枚の封筒を僕に渡した。十一月末に受けた英語の資格試験の結果だった。中の紙切れに書かれたスコアは充分過ぎるほど良い点だった。
父の肩越しに母の描いた絵を見る。選択の余地は残っていない。せめて綺麗な終わり方が良い。
「……やっぱり留学、行っていい?」
「好きにしろ」
父はそう答え、テレビを付け直した。
緋夏の元へ訪れたのはちょうど一週間後の昼だった。病床に行くと、緋夏はすでに起き上がって、スマホで写真を眺めていた。何の写真だったかまではわからない。僕が声をかけるまでスマホを握っていた。
「……お待たせ」
「結論は出た?」
僕は一息置いてから、答えた。
「留学、行くよ」
「……そっか」
緋夏はやっと笑顔を見せる。本心からの笑顔なのか、作り笑いなのか。どちらにせよ緋夏の笑顔を見て、胸が握りつぶされる感覚を覚えたのは初めてだった。
「それがいいよ。用紙はもう提出したの?」
「まだ提出してない。一週間が経ったから報告に来ただけだ」
「いつまで?」
「イブの日まで」
「提出、忘れないようにね」
緋夏はもう一度、笑顔を浮かべてみせる。表情の輝きと色はカーテンが作る影で覆われていた。
「留学先でも頑張って。応援してるから」
緋夏は布団を被り、横になる。僕はしばらく無言のまま突っ立っていた。
「……何?」
「もう終わりなのか?」
「当たり前じゃん。あなたは留学に行くんだから、私とあなたはこれでお別れ。お見舞いにはもう来なくていいから。私のことなんて忘れてね」
あっさりとしたお別れに僕はやはり立ち尽くしていた。名残惜しいというより、これまでの数ヶ月をたった数分で終わらせたくなかった。
「あなたのことが嫌いですって、面と向かって言った方がいい?」
「……今まで、ありがとう」
僕はそう言い、立ち去る。何か聞こえた気がしたが振り返りはしなかった。
選択の余地は始めからなかったのだ。
病室を出ると、重い何かから解放されたような気がした。心地の良いものでは決してない。不意に自身の右手が視界に入る。絵を描くことしかできない右手を恨んだ。でも右も左も変わらない。僕はこの先も絵を描き続けるのだろう。
「夢を追うって……そういうことなんだろうな」
ポケットに手を突っ込み、早歩きで院内を歩いた。早く帰って、絵を描きたかった。何かに没頭したい気分だった。
歩けば歩くほど、心のキャンバスが荒れていく。無名の作者が真っ白なキャンバスを筆で塗りたくっている。黄色、次は緑色、次は黒色。赤色はなかった。でも赤色が良かった。口内炎が治ったばかりの内唇を強く噛む。鉄の味。
「っ……忘れるなんて無理だろ」
キャンバスから漏れ出た色は喉の奥に熱いものを生み出した。
半ば小走りの状態で、階のエレベーターを視界に捉えた時だった。見慣れた人物が視界の端を横切った。一度、立ち止まり、振り返ってみる。恭平と陽平だ。僕が彼らの前を横切っていた。
「あ、兄ちゃんだ」
二人は自販機前の椅子に座って、机の上にカードを広げている。恭平は僕と目が合うなり、無邪気に手を振った。少し落ち着いた僕は二人に近づいた。
「お姉ちゃんのお見舞いか?」
「うん、寂しがりだから俺らがいないとダメなんだ」
「恭平は偉いな」
僕は恭平の頭を撫でようとして止めた。考えれば、二人に会うのもこれが最後だ。緋夏とは別れたのだから二人と会う機会もなくなる。最後に励ましの言葉くらいはかけた方がいいだろう。
「お姉ちゃんの入院は長いけど、退院したらいっぱい遊んでもらえよ」
僕は不安にさせない笑顔を心がげる。一方で、恭平は手にカードを持ったまま俯いた。
「……姉ちゃん、重い病気なんでしょ?」
「知ってた、のか」
「やっぱり……そうなんだ。母さんと姉ちゃんが話してるの聞いたんだ」
入退院を繰り返していれば、察しがつくものもあるのだろう。話を聞いていなくても知られるのは時間の問題だった。
「どこまで知ってる?」
「姉ちゃんがどんな病気だとかわからないけど……あと三ヶ月くらいしか生きられないって話してた」
「そうだな。姉ちゃんの余命は三ヶ月だ」
「姉ちゃん……死ぬの?」
「わからない」
未来のことなど誰にもわからない。無論、僕は未来になっても緋夏が死んだかどうかなどわからない。今、緋夏の側にいてあげられるのは二人しかいない。
「頑張れよ、二人とも」
僕は背を向けて去ろうとした。すると恭平が呼び止める。
「兄ちゃん」
「……どうした?」
「なんで最近、姉ちゃんの見舞いに来ないの?」
「忙しいんだ。もう、ここにも……」
僕は拳を握りしめる。今の感情を説明するのにぴったりの言葉がやっと見つかったからだった。悔しいのだ。緋夏の側にいるのが自分ではなくて悔しい。側にいることを拒否されたから余計に悔しい。
「もう、あえないの?」
いつの間にか、陽平に服の裾を引っ張られていた。陽平は小さな瞳で僕を捉えている。
「おにーちゃんとおえかきしたい」
「ああ、また今度な」
僕は陽平の頭を撫でる。陽平もきっと姉がもうすぐ死んでしまうことを直感的に理解している。
「なあ、兄ちゃん……忙しくても、姉ちゃんに会ってほしい」
「忙しい僕の代わりに二人がいてあげてくれ」
「それじゃあダメなんだ!」
恭平は声を荒げる。肩は震えていて、手に持ったカードは曲がっている。
「姉ちゃんを笑顔にさせられるのは兄ちゃんしかいないんだよ! 俺たちが姉ちゃんに会ったら……いつも泣いてる。でも俺たちを見たら、わざと笑顔を作ってる」
僕だって緋夏を笑顔にさせられるわけじゃない。だから僕は緋夏の側にいさせてもらえなかった。
恭平もまた、同じだった。
「俺……悔しいんだ……」
恭平は椅子から立ち上がり、僕に近づく。
「せめて最期は……兄ちゃんが、姉ちゃんといてあげてほしい」
陽平と同じ小さな瞳で僕を見上げる。無邪気な子供そのものだった。残酷なことに、緋夏が亡くなれば恭平が一番上になる。
無理な約束だとしても、今は大人が子供に約束してあげたかった。
「……努力するよ。でも、もしも、があるかもしれない。その時に一番近くにいるのは二人だ。だから緋夏を頼んだぞ、長男。頑張れるか?」
恭平はこぼしかけていた涙を拭って、強く頷いた。二人の頭を撫で、僕は病院を後にした。
もう二人に、緋夏に会うことはないだろう。
さようなら。
どこかで生きてくれればそれでいい。
「……いいわけ、ないんだけどな」
吐いた息が色づいたかと思うと、またすぐに消えていった。
緋夏と別れてから一週間。もう二週間は経っているかもしれない。別れた日など記憶しているわけもなく、僕は大学生になったばかりの頃と同じ生活を続けている。
意外にも喪失感はなく、別れてからすんなりと受け入れている自分がいる。課題の絵が講評で褒められて、調子はいい。留学に向けて英語の勉強も再開した。けれどスケッチを捨てることはできず、今も手元に残っている。先延ばしする性格もあるかもしれないが、留学の紙もギリギリまで手元に残っていた。
別れてから、何度か自分に問いた。
このまま留学に行ってしまってもいいのだろうか。
『私は夢を選べなかった……選べる人はいいよね、本当』
問うたびに浮かんだのが緋夏の言葉だった。
『約束……約束だもん!』
過去に言い放った自分の言葉も思い出した。どうして約束をしたのか、いまだに思い出せない。約束は母と僕を繋ぐ唯一のもの。ずっと約束に縋り続けて、画家を目指してきた。
夢は目の前にある。
留学の紙を持ってリビングに行くと、父が赤いトンガリ帽子をかぶっていた。
「歩夢、似合うか?」
「似合わなくはないけど……何してるんだ?」
「会社でクリスマスパーティーと忘年会を開くらしくてな」
「今日?」
「いや、三日後。それでサンタ役になった」
父のことはいまいちよくわからない。鏡を見ながら、真剣にサンタコスの練習をしている姿は変人だとも真面目だとも捉えられる。
「今日はイブだし、夜にサンタでも来てくれるのかと思った」
僕は冗談を飛ばしてみる。父は鼻で笑って、答える。
「プレゼントならある」
「え、本当?」
「物じゃないけどな。なんなら今にでも渡せる……言えるの方が正しいな」
「……帰ってきたら聞かせてほしい」
僕は玄関に行き、座って靴を履く。靴紐が緩い気がしたので結び始める。
「今から留学の紙を出しに行ってくる」
言わなくてもいいことを口に出していた。心のどこかではためらいがあったのかもしれない。外に出れば、もう止まれないから。
靴紐を結び終えた後、何度か踏み付けて立ち上がった。
「行って……きます」
僕は手を伸ばし、玄関扉を開けようとした。
「歩夢」
父が僕を呼び止める。振り返れば、サンタの格好をした父が立っていた。
「お前はデキ婚で産まれた子だ」
「……は?」
急に何、だった。呆気に取られていると、父は続ける。
「お前のお父さんとお母さんはデキ婚なんだよ」
「え、そうなの?」
「これがクリスマスプレゼント」
父は真顔で言い切る。十九年間、生きてきた中で衝撃の事実だった。だからどうというわけでもないが、驚きは大きい。
「前にしたいこと、と、しなければいけないことの話をしただろう?」
「僕が聞いたやつか」
「……俺がしたいことは、愛した女性と二人で暮らすことだった。当時は子供が嫌いだったし、病弱な彼女に子供を産ませたくなかったのもある。でも彼女は妊娠した。彼女は喜んだ。俺も産まなければならないと思った。だから歩夢を産んだ」
僕という存在は父の人生プランには入っていなかったらしい。望まれていなかった子供、とでも言えるだろう。
「……僕を産んだから、お母さんは病気になったのか?」
「いいや、関係ない。いつか病気にはなっていた」
僕は軽く息を吐く。余計に留学へ行く必要性が高まった。母との約束さえも果たせなければ僕の存在に意味はない。
「……行ってくるよ、お父さん」
一粒、履いた靴に水が落ちた。視界が滲む。そこで初めて、自分が震えていることに気がついた。涙というほどでもない、あくびに等しい一粒で僕の腰は抜けた。僕はしゃがみ込む。父も座り、目線を合わせた。
「何に悩んでる。言ってみろ」
「……留学。正直、まだ迷ってる」
「自分の気持ちに従ってみろ。歩夢のしたいことは何なんだ?」
「留学に行くこと……じゃなきゃダメなんだ」
「そんなことはない。なら、歩夢はなんで留学に行くんだ?」
「お母さんとの約束だから。僕はお母さんとの最期に一緒にいられなかった……だからせめて、約束だけはって……!」
顔を上げる。父はいなかった。代わりに温かいものを感じた。サンタコスのザラザラとした感触に僕は包まれていた。
父は僕を抱きしめていた。
「……お父さん?」
「はっきり言う。俺はお前を愛してる。お母さんが産んだ子供だからじゃない。俺の息子だからだ。俺だって愛した女性の最期に付き添えなかった……夫失格だ。でも、そう思うのも俺がお前のお母さんを愛していたからだ」
父の震えた声を聞いたのは母の葬式以来だった。僕は父の大きな肩に顔を埋めた。温かかった。母と似た、けれど少し違う。涙が溢れて、止まらない。
「なんで、歩夢は留学に行くんだ?」
「お母さんが好きだったから……お母さんのことが、大好きだったから……」
「もう一度聞く。歩夢のしたいことはなんだ?」
「……彼女に、会いたい。彼女、病気なんだ。余命三ヶ月なんだ。だから……会いたい。ずっと一緒にいたい。明日にでも最期を迎えるかもしれない。いつ死んでもおかしくない。だからその時まで……一緒にいたいんだ……」
「……どうせそんなことだろうと思ったよ」
一度、溢れ出た涙は容易には止まらなかった。その日、僕は子供のように父の腕の中で泣きじゃくった。馬鹿みたいに泣いた。父は僕が泣き止むまで抱きしめてくれた。
泣き止んで冷静になると、羞恥が押し寄せてきたのは言うまでもない。恥ずかしさで笑えば、父も久々の笑顔で返してくれた。
「詳しいことは聞かない。けど決まったか?」
「決まった。今から彼女のところに行ってくる」
僕は留学の紙を四つ折りにして、ポケットにしまった。
「今度、俺にも紹介しろ」
「わかってる。いつか紹介するから……いってきます」
僕は玄関扉に手をかけ、外に出た。もう、戻れない。
「いってらっしゃい」
父はいつもの低い声で僕を送り出した。
僕は灰色の空の下を走り出す。今日は雪でも降るのだろうか。初雪の中でクリスマスイブを迎えられるなんて、一部の人にとっては幸せこの上ない。一方で、世の中にはイブの日にこんなにも息を切らしながら走っている人もいる。
「……緋夏っ」
カップルだらけの最寄り駅に入って、電車に乗り込んだ。長らく運動していなかったから膝に手をつかないと倒れてしまいそうだった。
悩んで、決めて、悩んで、決めて、馬鹿みたいだ。
もう僕は迷わない。
母は天国でどう思っているかわからないけど、きっと応援してくれている。母にも父にも僕は昔から迷惑をかけてばかりだ。恩の一つも返せていない。二人にはありがとうしか言えない。
でも今は愛した女性の側にいたい。
馬鹿な元彼だ、子供っぽい元彼だ、未練がましい元彼だ。
『姉ちゃんを笑顔にさせられるのは兄ちゃんしかいないんだよ!』
その前に、僕はサンタの格好をした父の息子だ。
病院に着くまで、僕は走った。走る意味はないのかもしれない。けれど今すぐにでも緋夏に会いたかった。
入るなり、面会許可も取らずに病室へ向かった。
「ちょっと! 院内では走らないでください!」
周りの声は聞こえていなかったと思う。落ち着きを取り戻したのは病室の前に着いた時だった。呼吸を整えてから扉を開けた。
緋夏の病床を訪れると、緋夏は布団に包まっているようだった。点滴なのか、液体の入った袋から細い管が腕に部分に伸びていた。
声をかける前、僕の耳に声が届く。
鼻をすすり、小さくうめくような声。
そして、
「……歩夢くん」
彼女はたしかに僕の名前を読んだ。
「結局……未練たらたらかよ」
僕は小さく呟く。
「……お母さん?」
近づくと、緋夏は布団から顔を出す。目があった。緋夏の目は真っ赤で顔はぐちゃぐちゃ。鼻水と涙が可愛い顔を台無しにしている。
視界が潤んで見えないのか、彼女は目をぱちぱちとさせる。
「……え、歩夢くん」
「ああ。歩夢くん、だ」
「な、なんで! だってもうお見舞いには来ないでって……! 私、あなたのこと嫌いだって……!」
「泣きながら僕の名前を呼ばれても、説得力はない」
「っ……」
「とりあえず泣き止んでくれ。話はそれから」
緋夏は掛け布団で顔を拭う。僕は緋夏のベッドに座り、テレビ横にあったティッシュ箱を手渡した。自分の名前が呼ばれた時点で泣いていた理由は察せる。恥ずかしさと安心が混ざり、僕は緋夏に笑いかける。
「なんで……来たの?」
緋夏は僕を睨んだ。覇気はなく、何かに怯えた子犬のようだった。
「心配だったから」
「……留学は?」
「今日締め切り。提出をほったらかして、緋夏のお見舞いにやってきた」
「馬鹿じゃないの!」
緋夏は布団をぎゅっと握りしめる。僕は自身の手をその拳に重ねた。
「大馬鹿だと思うよ。自分でも大馬鹿だと思うくらい、緋夏のことが好きなんだ」
「っ……なんで……なんでよ……」
理屈で考えれば良い選択だったとは言えないのかもしれない。でも理屈で気持ちは測れない。作者が何を思って絵を描いたかなんて、誰にもわからない。
「お母さんとの約束じゃないの?」
「ああ、約束だ」
「なんで……行かないの?」
「それ以上に今は緋夏のことが好きだから」
緋夏は僕の手を押し除け、顔を覆った。
「私だって好き! 大好き! でもせっかく……別れたじゃんか。私、歩夢くんの邪魔にはなりたくなかった。好きな人の邪魔にはなりたくなかった」
「だから一人で死のうってか?」
「一人じゃない。お母さんもいる。弟たちもいる」
けれど緋夏は僕の名前を呼んだ。
「ねえ、お願い。留学に行って。最後くらい、好きな人の邪魔をしたくないの。あなたには私じゃなくて……夢を、選んで……選んで……っ!」
「ほら、詰まってる。それが本音なんだろ」
「……元カノからの最後のお願いです。留学に行って、夢を叶えて。私にいつか、留学先のことを教えて。だって、たった数ヶ月付き合っただけの恋人じゃない。だから……私のことなんて、忘れてよ」
緋夏は僕に縋りつき、また涙を流し始める。僕は緋夏を抱き寄せた。彼女は拒もうとはしなかった。
「喧嘩、二回目だな」
「……え?」
「前にも似たようなことがあったなって思って」
「だって、歩夢くんが言うこと聞いてくれないから……!」
「お互いに似たもの同士なんだよ。意地っ張りで、決めた意見は曲げない。僕も優柔不断だけど心に決めたらもう曲げない。それを緋夏は意地悪だって言ったっけ」
緋夏はいつも怒る時、誰かのためを思っている。一回目は家族のため、二回目は僕のために意見を曲げようとしなかった。自分のために怒ったことなどない。僕はそんな緋夏が好きだから最後まで側にいてあげたいと思った。
腕の中から暖かさが伝わる。今、僕が抱きしめているのは喫茶店で一目惚れした緋夏ではない。僕が恋心を抱く唯一の女性だ。
「正直、緋夏のことは一目惚れだった」
「……そうなの?」
「ああ。一生懸命働く姿を見て、好きが増したのは間違いない。けど一目惚れだったと思う。喫茶店に初めて入った日は最悪の日だったな」
僕は目を瞑る。あの日の光景が暗闇の中に浮かんだ。
「同時に最高の日でもあったんだろうな」
少し前の自分はこんなにも人を好きになるなど、思ってもいなかったから。
「緋夏を初めて見た日、実は僕の誕生日だった。けどよくないことが続いててさ。お父さんが出張だったから祝ってくれる人はいないし、外でスケッチしようとしたら暑いし、お母さんの形見だったボールペンを無くすし……散々だった」
形見を無くしたときは死にたくなった。
昔の僕が生きる理由は過去の母親の存在だけだった。絵を描いているのも、画家を志望しているのも、留学に行こうとしているのも、全て母親の存在があったから。
今は違う。
「散々な気持ちで目に留まった喫茶店に入ったら、君がいた。一目見た瞬間、恋に落ちた。落ち込んだ気分がどうでもよくなった」
「……それは、言い過ぎ」
「誇張もなしに本当だ。一目惚れだった。その日から僕が生きる理由に君が少しずつ入ってきたんだ。名前を聞こうかなって迷ったり、顔を覚えてくれたことに喜んだり……連絡先を聞くのに失敗したり」
緋夏が小さく笑う。
「引かれるかもしれないけど、喫茶店に通うようになった半分は緋夏が理由だ」
「……引かないよ。私も、歩夢くんが来てくれるのを楽しみにしてたから。連絡先を交換したのだって、あなたが気になってたから」
「知ってる。緋夏が今も僕を好きでいてくれているのも知ってる」
好きじゃなかったら泣いていない。いっそ嫌いでいてくれた方が僕の心も多少は楽だったはずだ。好きでいてくれるから、胸の奥がずっと苦しい。
「だったら……私のことなんてほっといてよ。好きな人の邪魔になりたくないの……」
「邪魔じゃない。言っただろ、僕が生きる理由は緋夏だ。母親との約束だけじゃない。同じか、それ以上に僕は緋夏が好きだ」
「っ……そんなの……そんなの……私も好きに決まってるじゃん」
緋夏は声を震わせる。
「一緒にいたい! 私だってずっと一緒にいたいよ!」
「なら、一緒にいればいい」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃない。でも僕は本気で一緒にいたい」
僕は緋夏をより一層、強く抱きしめる。
「一回……振ったのに」
「関係ない」
僕は一息置いて、言葉にした。
「緋夏のことが好きです。もう一度、僕と付き合ってください。緋夏の一番近くにどうか居させてください」
「……本当に、馬鹿。大馬鹿」
緋夏は顔を上げる。罵りながら、口は笑っていた。
「私も、好き。最後まで一緒に……居てください」
「ああ、ずっと一緒だ」
僕は緋夏の頬に手を添える。柔らかで暖かい。口をゆっくりと近づけ、そして、緋夏に口付けをした。何度も、何度も、お互いの存在を確かめるように、キスをした。
外ではクリスマスイブを祝うかのように、初雪が降っていた。
緋夏と仲直りしてからは毎日のように彼女の元へ通った。大学が冬休みに入り、できた時間はほとんど緋夏との日々に費やした。
体調は悪化する一方で、訪れるたびに緋夏の顔はやつれていた。それでも笑顔の輝きは劣らず、彼女への好意は増していくばかり。
「ねえ、歩夢くん。私、どんどんあなたのことが好きになっていくの。もうすぐ死ぬかもしれないのに……なんでだろうね」
緋夏は元気のない顔で輝きのある笑顔を見せる。僕は優しく緋夏を抱きしめる。
「僕もだ、緋夏」
「ふふ、そっか……よかった」
緋夏に会えない日もあった。寝たきりの日もあった。
僕は、いつも彼女の側に居た。手を握り続けた。
体も声もだんだんと弱くなっていく。生命の灯火が目に見えて小さくなっていく。
「歩夢……くん」
それでも目が合うと、彼女は笑いかける。
最近は緋夏の笑顔を見るたびに胸が締め付けられ、彼女の手を握った手が震えそうになる。我慢して、僕は彼女の手を強く握り直していた。
緋夏の次に辛いのは僕ではない。家族だ。
彼女の母親、美菜さんは特に辛そうだった。緋夏の前でこそ泣かないが、病院一階の受付前で一人泣いているところを何度も見た。緋夏の病室から一緒に出ると、すぐに涙を流し始めることもあった。
「大丈夫ですか?」
「ご……ごめんなさい。こんなつもりじゃないのだけれど……」
「いいんです。一旦、どこかに座りましょう」
つられて泣きそうになった。でも僕が泣けば、緋夏はもう笑顔を見せてくれない気がした。
そうしてクリスマスを祝い、一年を振り返り、新年を迎えた。
「歩夢くん、最後に……お出かけできてよかった」
外出許可が出たのは大学が始まる前日のことだった。緋夏の強い希望と前日の検査結果が悪くなかったこともあって、外出を許された。
「最後とか言うなよ」
「……ごめんね」
「謝られても困る」
「ううん。お出かけしよって誘ったけど、デートじゃなかったから。嘘ついたかなって」
僕は緋夏が乗った車椅子を押しながら隣を歩く恭平と陽平を見る。当然、緋夏のことを大切に思うのは僕だけではない。
人のいない歩道を四人でゆっくりと歩いていく。車椅子の車輪が段差にぶつからないように気をつけながら進む。
「姉ちゃん、寒くない?」
「おねーちゃん、げんき?」
二人は心配そうな目で姉を見る。緋夏は取り繕ってもいない様子で明るく答えた。
「大丈夫。誰かさんのおかげで元気だし、あったかいから」
緋夏は自身を覆う茶色のコートに顔を埋めた後、僕を見る。茶色のコートは元々、僕が羽織っていたものだった。『死ぬまでにすることリスト』に彼氏から上着を借りること、が入っていたらしい。どうでもいいことだなと思いつつ、毛布代わりにして匂いまでかがれると、反応に困る。
「治ったらお姉ちゃんといっぱい遊ぼうね。病気くらい、すぐに治しちゃうんだから」
「……うん」
恭平が足を止める。緋夏は二人が病気のことを知っているとは知らない。二人も姉が隠していることを知っているから口に出せない。
僕は車椅子を止め、緋夏が恭平の顔を見えるように角度を曲げる。
そして恭平はしばらく黙り込んだ後、言った。
「……約束?」
過去の自分を見ているようだった。僕ならどう答えるだろうか、考える前に緋夏が即答した。
「約束」
恭平は安心したようにもう一度、歩き出した。
四人で行ったのは病院から電車で一時間圏内にある動物公園だった。緋夏が癒されたかったのと車椅子でも楽しめる場所を考えた結果だった。すっかり体が弱ってしまった緋夏は支えなしに歩くことができない。ピクニックなら車椅子でも四人でも楽しむことができる。
「お母さんもいたらなー。仕事で来られないのはわかってるんだけどね」
美菜さんが作ってくれたハムのサンドウィッチを食べながら、緋夏は呟く。シーツの上に座る僕と緋夏の目の前で恭平と陽平が白い息を吐きながら鬼ごっこをしていた。枯れ木の上では名前も知らない鳥が鳴いている。
緋夏がフリーターではなくなった今、治療費を稼ぎ、家計を支えているのは美菜さんだけだ。家族団欒とはいかない。
四人で過ごすこの時間が貴重に思えた。外が寒かろうと、雲から覗いている日差しと同じくらい暖かで心地が良い時間。
「あーあ、眠たくなってきちゃった」
緋夏はサンドウィッチを食べ終え、僕の膝に寝っ転がった。彼女の綺麗な黒髪がふわりと乱れ、瞳は僕だけを捉える。露わになった額に手を置くと、はにかみ、少しだけ顔を逸らした。
「……綺麗な空だなー」
緋夏は目を瞑った。
「二人のはしゃぎ声に暖かな日差しと寒すぎるくらいの風、なびく音……目を開けたら綺麗な空と歩夢くんがいてさ」
目を瞑りながら、緋夏を口を動かす。
「天国ってこんな感じなのかな」
「……天国に僕もいるのか?」
「ふふ、違うよ。多分……私、一人。愛犬がいたら嬉しいな。そうだ、歩夢くんのお母さんにでも会って来ようかな」
「まだ挨拶はさせたくないな。こんな少女に挨拶されてもって感じだろうし」
「はあー? もう立派なレディーですー」
僕は拗ねた緋夏の頬を引っ張る。指から伝わってくる柔らかな感触で僕は緋夏の存在を確かめた。真面目に答えるのが怖かった。
「私、もう死ぬのは怖くないよ」
「……なんで?」
「天国に行けるかどうかはわからないけど、死後の世界がこんなところだったら怖くない」
ふと、母の死を思い出した。体から生気が抜けてただの物体になる。そこに母がいるのにいない。緋夏もそうなるのだろう。あの時は立ち直れないと思うほど苦しくて、辛くて、体の一部が欠けたような感覚だった。死に近い人を愛することほど残酷なものはないのかもしれない。
「もしも、もしもの話だよ? 私が明日にでもいなくなったら、歩夢くんはどうする?」
「黙秘権はないのか?」
「ないよ。いつ急変してもおかしくないってお医者さんには言われた。明日にでもいなくなっちゃうかもしれない」
「僕は……」
「本音だよ。本音で答えて」
僕の魂胆は緋夏にとって見え透いたものらしい。嘘をつくつもりはなかった。そうあってほしいと僕が願った考えだった。けれど現実的に考えたことを本音だと言うのならば仕方がない。
「緋夏が亡くなったらずっと落ち込む、立ち直れる自信がない、一生忘れない……って、言おうと思ったけど、少ししたら立ち直ってると思う。お母さんの時もそうだったから」
「……そっか」
「思い出も忘れて、新しい恋人も作るかもしれない」
彼女を失って落ち込んだところで、父と母に孫の顔を見せないわけにはいかない。
「でも……頭の片隅には緋夏との楽しかった思い出がずっと残り続けるんだと思うよ。だって一番好きなのは過去も未来も緋夏だけだから」
これ以上に好きな人はいない。断言できるほど、僕は緋夏のことが好きだ。
顔を上げると二人は遠くの遊具で遊んでいた。二人きり。緋夏に口付けしようとした時だった。彼女は、涙を流していた。
「やっぱり……嘘。私、死にたくない。死ぬのが、怖い」
緋夏は声を震わせる。そして、僕に抱きついた。
「歩夢くんが好き、大好き。この世で一番、好き。歩夢くんに忘れられるの、嫌だよ。歩夢くんが新しい恋人を作るのなんて嫌だよ。私だけを見ててほしい。私のことを忘れないでほしい……でもね、それ以上に、今が一番楽しいの……大好きって言い合える今が一番楽しいの」
いつも笑顔の彼女が弱気になっているのが少し意外だった。嬉しかった。同時に、苦しかった。我慢していた涙と苦しみがいつ溢れてもおかしくなかった。
お互いに強く抱きしめ合う。強く、強く、抱きしめ合う。
「今が失われるのが……私は一番、嫌なの」
僕は緋夏が落ち着くまで自身の体温を届け続けた。
「緋夏」
落ち着いた頃、僕は緋夏の名前を呼んだ。真っ赤な目で見つめ返す緋夏から僕は唇を奪う。
「なら、生きればいい。来月の緋夏の誕生日はデートをしよう。生きて、泣き顔も笑顔も見せてほしい」
僕はいつも彼女が笑っているように、笑ってみせる。
「……何それ。本当に歩夢くんは失礼だし、意地悪だと思う」
緋夏は散々、僕を罵った後、言葉にした。
「でも、そんなあなたのことが世界で一番好きです」
今度は緋夏から僕に口付けをした。そして、笑った。
どんな名画よりも、ひまわりよりも、輪郭の見えない微笑みよりも、彼女の笑顔は僕の一番だった。
この先、何があろうと、僕の生涯でこの時に見た笑顔は忘れることがないと思った。
いつまでもこの時間が続きますように。
『授業が終わったから、今から向かう』
大学が始まっても僕は緋夏に会いに行く。十七時まで授業があったせいで遅れたが、面談可能時間まで余裕はある。
急いで荷物を片付けると、僕は大学を後にした。好きな人に今から会えるのだと思うと、自然と早歩きになるものだ。一歩、踏み出すたびに昨日の思い出が頭に蘇る。
このまま治ってくれないだろうか。今度はデートにも行きたい。
「……今日も元気だといいけどな」
病院に入ると、いつものように一階の受付へと向かう。正面から入って、左手に受付は位置している。
僕は初めて見る若い看護師さんに話しかけた。
「すみません。白石緋夏さんの面会に来たのですが」
「緋夏さん……?」
看護師は首を傾げる。やがてパソコンを操作し始めた。新しい人だろうか。いつもならすぐに通してくれるが今回のような場合もあるらしい。
看護師はもう一度、首を傾げた後、後ろにいた中年の女性に話しかける。彼女は見たことのある人だった。僕を一瞥してから看護師と話し込んだ後、近づいてくる。胸騒ぎがした。そして中年の看護師は耳を疑うような言葉を口にした。
「……白石緋夏さんは、もうこの病院にはいません」
時間が、止まった。心臓が止まった感覚がした。
「どういう、ことですか?」
「転院されました。個人情報に加え、本人の意向なので場所までは言えません」
「なんで転院……しかも、本人の意向って……」
呆然と立ち尽くす僕に一枚の紙を手渡す。何も言わず、何も言わせず、彼女は受付の中の扉を開けて、中に入っていった。
僕は渡された紙を開ける。
『さようなら』
四つ折りにされ、ノートを破ったような紙の中にただ一言、そう書かれていた。
それから緋夏に何度、メッセージを送っても既読がつくことはなかった。電話をかけても繋がらない。ブロックされているのだろう。
僕は緋夏に捨てられた。訳がわからなかった。怒りは湧かない。逃げられたとすれば僕に原因があるだろうから。ただ、その理由を知りたかった。
約二時間、受付の前のソファに紙を握ったまま座り込んだ。ため息しか出ない。外は真っ暗。父親から夕飯をどうするのか連絡が来ても返す気にはなれなかった。
失意のまま、僕はゆっくりと立ち上がる。ここにいても緋夏には会えない。同時に、中年の看護師が僕の前を通ろうとした。目が合う。
「……何があったのかは知りません。でもあなたのせいじゃないと思うから」
「緋夏から何か、聞いているんですか?」
看護師はかぶりを振る。
「でも緋夏ちゃんを担当してたの。歩夢くんって、あなたのことでしょう?」
「……はい」
「いつも楽しそうに君の話を聞かせてくれたわ」
看護師は小さく会釈をして立ち去っていった。慰めの言葉は僕を多少なりとも歩ける状態にまでしてくれた。
僕が大学に行かなくなるまではそう時間も掛からなかった。一因は緋夏が僕の元から離れたことにある。とはいえ根本的な原因は自分の弱さだ。僕が何もできなかったせいで去ってしまったのだから、緋夏のせいにはしたくない。
緋夏がいなくなってから今日で一週間。連絡は取れず、居場所もわからない。会いたいとは思えど、居場所を知ったところで会いに行く気にはなれない。最初の数日は大学に通っていた。緋夏がいなくなっても時間は流れる。緋夏に言った言葉と同じような生活をしていた。
今は言葉を訂正したい気分だ。
絵が、全く描けなくなった。ペンは握れる。筆は握れる。絵が描けない。
授業内で教授に絵が描けないと申告する日が来るとは思わなかった。家でも絵は描けなかった。絵だけの人間が絵を描けなくなれば、美大で勉強する意味はない。
必然と引きこもりのような生活になった。
「……どうした? 何かあったのか?」
寡黙な父も一度は心配してくれた。けれど心の傷が深いわけではない。心配された時も明るい表情で返答した。胸が苦しくなることも病院以来、ない。全てがいつも通り。強いて言うなら、自分という存在がわからなくなってしまった。
引きこもっていれば物事に対するやる気も起きなくなって、ベッドに寝転びながら緋夏を描いたスケッチブックを眺める毎日。作業スペースのイーゼルには真っ白のキャンバスが立てかけられている。
キャンバスを眺めていると、世界から色が抜け落ちて自分と世界の境界線が曖昧になっていく感覚がする。白色でも黒色でもなくて、言い表すなら全てが同じ灰色。明暗も何もないから灰色だけがそこに存在している。
イーゼルの前の椅子に座って、筆を握った。葛藤すること数時間。キャンバスが灰色に塗りつぶされただけだった。
疲労だけが溜まった僕は机の上のミルクキャラメルに手を伸ばす。空っぽ。もう何ヶ月も前になくなっていた。
ふと、死にたいと思った。
生きる意味を失った僕がこれ以上、生きる意味はない。
「……外、出るか」
何も持たずに一階へ続く階段を降りる。外の空気を吸いたかった。一階のリビングからは珍しく父の笑い声が聞こえた。覗いてみると、テレビを見ているらしい。目が合い、父に手招きされる。
「この番組、中々に面白いぞ」
「……何これ?」
「バラエティ」
父が見ているのは行き当たりばったりの旅をするバラエティ番組だった。旅をする人は有名人でボケやハプニングがあるから確かに面白い。司会進行役の二人によるツッコミも味になっている。父はこういう番組が好きなのだろうか。
「お前のお母さんはツッコミを入れてるあの二人の芸能人が好きだったんだ」
「そうだったのか。有名だよな」
「……二人で見て、一緒に笑ってた。お母さんが好きだったから俺も好きになった」
母が生きていて、今も父の横で一緒に笑っている光景を想像してみる。僕も加わって笑い、家族揃って思い出を共有する。
――面白いね。お父さん、歩夢。
ここに母はいない。
ぼーっとしていると、父がうっすらと笑みを浮かべた。僕に対してだった。何があったかは聞かず、慰めようとしているのだと悟った。相変わらず、不器用な父だ。
気づけば、泣いていた。一粒だけ、涙が出ていた。僕はあくびでもしたかのように目を拭い、父の前に座った。
「……人生って残酷だよな」
テレビを見ながら、僕は呟く。決して自分に対してだけ向けられた言葉ではない。緋夏の余命が短くなったと知った時、なぜこれからという時期に緋夏が死ななければならないのか、やるせない気持ちでいっぱいだった。
僕に緋夏の死を知る権利はないが、どこかで生きていてほしいと願う。最後まで一緒にいることを許してもらえなかった僕ができる唯一のことだから
『歩夢くんが好き、大好き。世界で一番、好き』
でも、あの言葉が嘘だったとは思えない。
会いたい。
緋夏に、会いたい。
「そうでもない」
「……え?」
「人生が残酷な訳じゃない。人生の中に残酷なことがあるだけだ。楽しいこともあれば、悲しい時もある。悲しさが嬉しさに繋がることもある」
父はテレビを見たまま、話を続ける。
「決めるのは自分自身だ。これからの人生をどうするのか、他人や他の物事に委ねてはいけないよ」
「僕自身……」
父の言葉を聞いて、思い出した。母も似たようなことを言っていた気がする。
『でもね。歩夢、私はね……歩夢に自分の人生を生きてもらえればそれでいいんだよ』
十年以上も前に言われた言葉にも関わらず、頭の片隅にはずっと残っていたらしい。当時も今もよく分からない。
「お母さんも同じようなことを言ってた」
「そうか。俺たちはそうやって結婚したからな」
「……どういうこと?」
「俺も同じことを言われた。だからお互いに自分の人生を生きるようにしていた。その先にお互いの存在があった。結婚の決め手は歩夢がお腹に宿ったことでも、結婚しようと決めたのは生きてきた先にお互いの存在があったからだ。必要だったからじゃない」
「難しいな」
「歩夢にはまだわからないだろう。けど、いつかわかる」
父はテレビを消して立ち上がる。リビングから出て行ったかと思うと、手に一枚の写真を持って戻ってくる。
「俺は……あの人が大好きだ。愛している。今でもそれは変わらない」
父は写真を机の上に置いた。写真の中では、母の実家の玄関前で赤ん坊の僕が母に抱き抱えられていて、父が僕を見ながら母の肩に手を回している。数少ない三人の家族写真。
「お父さんの寝室に置いてる写真だよな?」
「ああ、お気に入りの写真だ」
父は写真の上に乗った小さな埃を僕と母を撫でるように、取り除く。
「一緒に年老いたかった。歩夢の成長を一緒に喜びたかった」
父の声が揺らいだ。僕は写真から目を離さなかった。
「それでも俺と歩夢は二人で生きてきた。生きる理由からあの人がいなくなっても、俺はあの人を愛している。いなくなったからこそ、愛していると断言できる」
「……そっか」
「歩夢も愛しているよ。生きる理由は歩夢だが全部じゃない。だからこそ、愛していると言える。良い父親とは、言えないかもしれないけどな……」
「お父さんは良い父親だと思う。お父さんのことは……慕ってる」
愛してる。口に出せなくても、いつも感謝している。
「そう言ってもらえると、お母さんに報告したくなるな。こんなに立派に育ったんだって。あと五ヶ月か。早く一緒にお酒が飲みたい」
父はそう言って、リビングから去っていった。
静かになったリビングで僕は一人呟く。
「……僕は一体、何をしてるんだろうな」
緋夏と出会うまでは母との約束が僕の生きる理由だった。出会ってから、緋夏の存在が段々と生きる理由になって、迷った時に気付いていたはずだ。にも関わらず、立ち止まって、引きこもり。僕は緋夏のことが好きだった。でも愛していたとは言えないのかもしれない。
ふと、僕は顔を上げた。一枚の絵に焦点が当たった。母が描いた絵だった。額縁の中に収まった状態で壁にかけられている。
僕は近づき、額縁の下部を開ける。中から慎重に絵を取り出した。この絵は前の家でもリビングに飾っていた。額縁を開けるのはいつぶりだろうか。絵に直接、触れたい気分だった。いつ見ても綺麗で温かな絵だ。
細部まで見ながら絵を堪能していると、裏面に何か書かれていることに気が付く。裏返してみると、文字やイラスト、写真が印刷されている。ウェブサイトか何かを印刷したのだろう。
『家族旅行におすすめ 将来行くべき海外の観光スポット』
タイトルは黒文字でそう書かれている。
「旅行か、懐かしい」
治ったら旅行に行きたい、と母はよく病院のベッドで口にしていた。どこかに行くのが好きな人で海外にも行ってみたいと父にお願いするくらいだ。昔は金銭的に厳しかったからか、父が渋い顔をしていたのを覚えている。
「……ああ、そっか。僕は本当に何をしていたんだか」
昔のことを思い出して、僕は吹き出した。リビングで一人笑うおかしさも相まって、笑いは止まらなかった。
緋夏の言う通り、僕は本当に大馬鹿ものだ。母との約束という形だけのものに縋って生きてきたのだから。約束した理由にすら目を向けようとしなかった。
洗面台から物音がしたかと思うと、父が戻ってくる。
「……どうした?」
真顔の父が声色に戸惑いを含ませて聞く。息子がリビングで一人、母の描いた絵を手に笑っているのだ。僕は父に質問で返す。
「お父さんの好きな食べ物は?」
唐揚げ、と父は答えた。
僕は笑って、自分の部屋に戻る。
明日から前に進まなければ、今度会ったときに緋夏に怒られてしまうだろう。しかし今日くらいは立ち止まらせて欲しかった。
僕は部屋のカーテンを閉めて、机に置いてあった留学の案内用紙を取る。読み通した後、膝から崩れ落ちた。熱いものが込み上げてきて止まらなかった。
泣いた。
子供のように泣きじゃくった。
生きる理由から緋夏を抜いて、残った気持ちは会いたいの一心だった。
緋夏の声が好きだった。優しい柔らかな声で名前を呼んでもらうのが好きだった。あの声で好意を初めて伝えられた時は生きていて良かったと本気で思えた。
緋夏の笑顔が好きだった。からかう時の悪戯っぽく笑った顔も、犬に触れ合ったときに見せる無邪気な笑顔も、照れた時に見せるはにかんだ笑顔も、何より、いつものなんてことのない笑顔が僕は好きだった。
緋夏が、大好きだった。真面目で不器用で、頑張り屋さんで小学生二人の姉で、よくからかってくる。でもからかわれるのには慣れてなくて、可愛くて、優しくて、どこまでも他人思いの緋夏が世界で一番好きだった。
「……緋夏に、会いたい」
声をあげて泣き続けた。緋夏との思い出が蘇っては過去のものだとして消えていった。
ようやく泣き止んだ頃に僕はカーテンも窓も開ける。身を乗り出すと、冷えた風が熱を帯びた体に吹きかける。
冬の無機質な匂いに包まれながら、緋色に染まった夕方の空を日が暮れるまで眺めていた。
