【前日譚】乱読派、ミナミの夜に既刊本を棄てる

 湿り気を帯びたミナミの夜。

 ネオンの光を反射する道頓堀の川面は、まるでインクをぶちまけた原稿用紙のようにどろりと濁っている。

 私は、千日前の古書店『源泉堂』の店先に立ち、閉店作業のシャッターを下ろしていた。

「シィカちゃん、お疲れさん。明日からやな、例の『読書旅行』は」

 帳場から源さんの声が飛ぶ。

「ええ。少し、全集を読み解くような、骨の折れる旅をしてこようと思います」

 私は、お決まりの丁寧な標準語で答えた。

「あんたの言う『骨の折れる』は、どうにも別の意味に聞こえるけどな。気ぃつけていきや」

「ふふ、知らんけど」

 シャッターの鍵を閉めると、私は一人、夜の街へと踏み出した。
 今日の装いは、少しだけ「背伸び」をしたネイビーのタイトなワンピース。
背中がV字に開いたデザインは、都会の熱気を直接肌に吸い込ませる。下着は、ワイヤーの締め付けが官能的な、黒の総レース。

 旅立ちの前夜。

 私は、自分という本に「前書き」を記してくれる相手を探していた。

「……あー、暑。やってられへんわ、ほんま」

 標準語の仮面を脱ぎ捨て、私は雑踏の中で小さく毒づいた。
 都会の男たちは、どれもこれもあらすじが透けて見える「既刊本」ばかりだ。

 決まりきった誘い文句、値踏みするような視線、そして浅い教養をひけらかす饒舌さ。

 そんな私に声をかけてきたのは、以前店に立ち寄ったことのある、自称・大学講師の男だった。

「おや、シィカさんじゃないか。こんな夜に、君のような知的な女性が一人で歩いているなんて。……一冊の『禁書』に出会った気分だよ」

 男は、整えられた髭を触りながら、いかにも知的だと言わんばかりの笑みを浮かべた。

 私は、瞬時に「標準語の仮面」を被り直す。

「まあ、先生。……禁書だなんて。私、ただの乱読家ですよ?」

 誘いに乗り、私たちは路地裏にあるジャズバーへと向かった。

 薄暗い店内。重厚なカウンター越しに流れるサックスの音。男は、カントやニーチェを引用しながら、いかに自分が孤独で、そして「深い」人間であるかを語り始めた。

(はいはい、出た出た。典型的な『自分をハードカバーだと思い込んでる文庫本』やな)

 私は心の中で舌を出した。
 彼の言葉は、どこかの新書の帯から持ってきたような借り物ばかり。

 けれど、私は退屈を悟られないよう、グラスを持つ指先をわざと彼の袖に触れさせた。

「先生のお話、とても素敵。……もっと、行間を読ませていただけませんか?」

 男の瞳に、下卑た欲望が灯る。
 場所を変える。ホテルの冷房の効いた室内で、彼は「教養」という名の表紙を剥ぎ取っていった。

 ワンピースのファスナーが下ろされ、背中の肌が夜気に晒される。

「君は、本当に美しい。まるで、手付かずの初版本のようだ」

 男の指が、私の首筋から鎖骨へ、そして黒いレースの縁をなぞる。
 私は、わざとらしく吐息を漏らしながら、彼の耳元で囁いた。

「ねえ、先生。……私を、あなたの文体で染めて」

 けれど、重なり合う身体の感触は、驚くほど平坦だった。
 彼の愛撫は、予定調和なプロットをなぞるだけで、私の身体の奥底に眠る「熱」を呼び覚ますには至らない。

 男の絶頂は、一瞬で訪れた。
 彼は満足げに横たわり、また賢者ぶった言葉を並べようとする。

「どうだった? 私の『解釈』は」

 私は、シーツを引き寄せ、火照った身体を隠しながら、彼を冷ややかな目で見つめた。

 そして、標準語の仮面を、無造作に放り捨てた。

「……しょーもな。アンタ、解釈どころか、誤植だらけやんか」
「え……?」
「その髭も、その引用も。全部、誰かのコピペ。アンタ自身の一文字なんて、どこにもあらへんわ。……もうええわ、帰るわな」

 呆然とする男を置き去りにして、私はワンピースを引っ掴み、部屋を出た。

 ホテルの廊下。鏡に映る自分の姿。
 乱れた髪、少しだけ滲んだリップ。

 都会の夜は、やっぱり読み古された既刊本みたいに退屈だった。

 夜明け。

 私は大阪駅の券売機に向かった。
 財布から取り出したのは、一枚の青いきっぷ。

『青春18きっぷ』。

 このきっぷには、まだ何の一文字も書かれていない。
 ここから先、福知山線を越え、山陰の海を渡り、神々の住まう地へ向かう。

 そこにはきっと、私がまだ見たこともない、生命の熱を感じさせる「生きたテキスト」が待っているはずだ。

「さて……」

 私は、始発列車のホームに立った。
 まだ誰もいない車内。冷房の風が、ドレスの下の、昨夜の男の感触を綺麗に洗い流していく。

 私は、真っ白な一頁目をめくるように、窓を開けた。

「各駅停車。ゆっくり一頁ずつ、味わって読み進めてあげようやないの」
 標準語の仮面をカバンに仕舞い込み、私は「私」として、レールの音に身を任せる。

 鈍行列車という名のアンソロジー。
 その最初の一文字目が、今、朝日と共に刻まれようとしていた。

 ――知らんけど。

(完)