東京駅発、出張癒しごはん

 訪問二日目の朝。
 ホテルの無料朝食で簡単に済ませ、ラウンジにあるコーヒーを飲みながら、昨晩考えた段取りの復習をする。今日は小児科の院長先生と初めてお会いする。
 クリニックまで徒歩五分。すでに強い日差しの下、ジャケットを手にして向かう。
 時刻は九時。
 事務スタッフは小児科と産婦人科に分かれて研修をスタートさせた。まずは、産婦人科で昨日予定していたことから始める。
「先生、昨日お話しさせていただいた入院の保険外の料金は決まってますか?」
 副院長の美佳先生が、「あっ」という顔をした。
「……決めないと、とは思っていたんだけど、つい後回しになってしまって。差額ベッド代と他にはどんなものがあるのかよくわかってなくて」
「一般的なものでしたら、こちらになります」
 用意していたファイルから一枚ペーパーを抜いて差し出した。
「……なるほど。こんなにあるのね」
「あとは地域柄など考慮した方がいい項目もあるかもしれません。自費の部分が他院よりも高く設定し過ぎるのも良くないと思いますので……そのあたりは看護師さんも詳しいと思います」
「いま詰所にいるから聞いてみるわ。みんな前の病院で一緒に勤めていた人たちなの」
「それは心強いですね」
 看護師は全員、副院長先生が引き抜いたという。事務はなぜ未経験者なのかと、ふと思った。
「産科の入院会計は保険と自費の切り分けが難しいところなので、自費になるもの、例えばお産セットなどはあらかじめマスタ登録しておくと後がスムーズです」
 事務スタッフにマスタ登録の手順を説明しつつ、ドクターの要望もヒアリングしていく。幸い、事務スタッフは昨日の復習をしていたみたいで思っていたよりもずっとスムーズに進んでいく。
「実際に仮の患者さんで動かしてみると安心かと思います。サンプルを持ってきましたので、やってみますか?」
「ありがとうございます、やってみます」
「じゃあ、患者登録から」
 道野さんに外来用と入院用の2枚のレセプトを手渡し、産婦人科のエリアを離れて小児科の方へ移動する。
 昨日のように、二階の病棟に上がる。ガラス越しのナースステーションで、副院長先生と看護師さんが話し合っている。手前に並ぶベビーコット。新生児が並ぶ様子を想像して、ふと笑みがこぼれた。
 ——この病院、いいな……。
 しっかりした副院長先生に赤ちゃんを、具合が悪くなった子供は院長先生に。
 近くにあったら、いつかこんな病院に子どもを連れてこれたらいいな……としみじみ思った。
 階段を下りたところで、白衣を着た男性——院長の北乃先生と会った。
「あ、メディカル・コネクトの彩瀬さん?」
「はい、お世話になっております。いま伺おうかと」
「それはよかった。僕も産科の方へ行こうかと思った所でした」
 微笑むと頬のあたりに笑いじわが浮かんだ。目元が優しそうな印象の先生だ。
 子どもを緊張させない穏やかな声。
 小児科の診察室で早速打ち合わせを始める。
「昨日の段階で、事務スタッフの皆さんもしっかり操作に慣れてきました。さらにスムーズに会計ができるよう、よく使う検査や薬のセットがあれば、マスタ登録の練習も兼ねてスタッフの方に組んでもらおうと思うのですが……」
 院長先生の要望は、大方予想していたものと同じだった。一通りの打ち合わせを終えて小児科の受付に戻り、事務スタッフたちに新しく必要になったマスタ登録の手順を説明する。
 産婦人科と同じように用意して来た仮の患者さんの診療記録をもとに、実際に算定してもらう。
 スタッフが作業を進める様子を見守っていると、廊下の時計からふわりとトトロの音楽が流れた。お昼の十二時を告げるメロディだ。
「彩瀬さん、お昼、どこかに食べに行きますか?」
 院長先生の優しい声に振り返る。
「朝、来る途中で買って来ました。あまり時間もありませんので、パパッと済ませます」
「そうですか。すみません。では談話室でどうぞゆっくり休んでください」
 院長先生に促されて、談話室でお昼休憩を頂くことになった。
 
 クリニック二階にある談話室は窓が二方向にあり、レース越しからの太陽光で十分に明るい部屋だった。よくカフェにある大きな楕円形のテーブルが中央に置かれ、その周りにもいくつか椅子が並んでいる。出産を今かと待つ人たちのためなのかもしれない。
 朝来る途中で買ったコンビニのおにぎりをバッグから出すと、ゆっくり談話室のスライドドアが開いた。
「コーヒーだけでも、どうですか?」
「あ、ありがとうございます! いただきます」
 院長先生は両手に紙製のカップを持っていた。
「少し、話してもいいですか?」
 遠慮気味に言って院長先生が前に座った。カップから立ち上る湯気にコーヒーのいい香りが漂う。
「そこの待合室にある自動販売機のコーヒーです。直接淹れるやつ、どうしても僕がほしくて」
「いいですね。ここで出産を待つご家族がたくさん利用すると思います」
「ですよね」
 にこりと院長が笑う。
 ありがたくカップに口をつけ、熱いコーヒーに、ほっと息をついた。
「研修、やはり時間がかかりますよね。普通だと一日ぐらいで終わるんですよね?」
「それはご要望にもよりますが、一日で組むことが多いですね」
 院長は少しの苦笑いを浮かべてコーヒーをすすった。
「ありがたいことに事務職にはたくさん応募があったんです。それで面接を一次と二次をやることになり、二次の時に妻は呼び出し対応で、結局僕一人で面接したわけなんですが」
 院長の話すスピードの邪魔にならないように、ゆっくりコーヒーに口をつけた。
「なんだか一生懸命働いてくれそうだな、と思う人を選んだら、全員実務経験がなかったというオチです。妻に叱られました」
 思わずふっと笑いがこぼれそうになり、口を開いた。
「事務のみなさん、熱心に研修されてますし明るい雰囲気なので安心して患者さんが来られると思います」
「そう言ってもらえると、少し安心しました。彩瀬さんは、たくさん病院を見てらっしゃるでしょうから」
「産婦人科の道野さんは、通信でしっかり資格を取られていますし、もともと銀行にお勤めだったということもあり安心感があります。操作にさえ慣れれば、すぐに頼れる存在になると思います」
 それからリアルな声も伝える。
「ただ、実際に開院して動き始めると、入院の複雑な会計などで『どうすればいいか』と戸惑うスタッフの方も多いんです。質問をいただいて、後日再訪問することもよくありますので……。でも、いつでもご相談いただければその都度対応させていただきますから、安心してくださいね」
 病院の経営に会計は欠かせない。
 安心してクリニックを運営していただく少しでもお手伝いができれば、うれしい。
 院長が「ごめんなさい、僕がいたら食べられないですよね」と、うっすら笑いじわを浮かべながら、飲みかけのコーヒーを手に席を立った。

 小児科から戻ると、カウンター内でレセコンの画面を見つめている道野さんが「あ、彩瀬さん!」と慌てた様子で私を呼んだ。
「どうしました?」
「さっき、新しく導入されたマイナ保険証の読み取り機を通したんですけど、画面にうまく資格情報が反映されなくて……。オープン初日にこれが起きたらどうしようって焦っちゃって」
 道野さんが不安げに私を見る。
「ちょっと待ってくださいね」
 画面とカードリーダーの接続ランプを確認すると特に問題はなさそうだ。
「新しい機械だと、たまに最初の同期や読み取りのタイミングで一瞬つまずくことがあるんです。一度このボタンで再取得をかけて、ここにチェックを入れれば大丈夫です。やってみてください」
 道野さんがもう一度操作すると、画面には無事に正しい保険情報がパッと表示された。
「わぁ、よかった~!  一瞬どうなることかと冷や汗が出ました」
 道野さんの顔がパッと明るくなった。
「大丈夫です、オープン当初はこういうエラーもよく起きますから。その都度、お手伝いしますから」
 私の言葉に、道野さんは「心強いです!」と深く頷いた。
 
 午後五時の少し前。
「彩瀬さん、またよろしくお願いします」
 昨日延長してしまったから、と副院長から少し早く研修が終了することになった。
「はい、何かありましたら何なりとお申し付けください」
 二日間の研修を無事に終え、クリニックを後にする。
「今日は開きますよ」
 小児科の玄関。院長が笑いながら言うと、自動ドアが音を立てた。外からは、まだ冷めない夏の風が入って来た。
 
 疲れてはいるけれど歩き出す足取りは軽い。
 明日はお休み。いつもなら東京へ帰る夜も延長してゆっくり過ごす。
 軽いものしか食べてない今、お腹が減っている。これならたくさんおいしいものを食べられそうだ。
 今晩行く店は決めている。
 目印の赤い看板が見えてきた。昨日リサーチした中華店。おひとりさまでも居心地がいいというレビューに、ここにしようと決めた。
 クリニックから直接その店へと向かう。迷うことなく通りに面したお店が見えてきた。
 白地に赤文字の暖簾をくぐり店内に入ると、テーブルを拭いていた女性が振り返った。四人席が標準のようで、その一角を案内された。テーブルに置かれたメニュー表をじっくり見た。
 辛み二倍、三倍……どうやら一番人気は辛いラーメンらしい。十倍を三十分で完食できたら無料になるらしく、壁には達成した人たちの写真が並んでいた。
 餃子の種類も豊富で、焼き餃子、水餃子……ここでも辛みを変えられるらしい。たくさんあるメニューの中でも惹かれたのはチャーハンだ。五目、高菜、カニ、キムチ……大好きな海老など全部で八種類あった。
 これは迷う。
 少し考えてから、近くのテーブルを拭いていた女性に声をかけた。
「焼き餃子、半チャーハンを二種類、五目と海老で。それからレモンサワーをください」
 女性が厨房へ声をかけると「あいよ」と男性の威勢のいい声が聞こえた。
 
 店内をぐるりと見渡すと、金曜の夜らしくサラリーマンの姿が目立つ。
 向こうの席から響く歓談の声。うちの会社もよく連れだって夕食や飲み会をするけれど、風通しのいい職場に就職できて本当に良かったと思う。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
 焼き上がった餃子と二種類のチャーハン。
 こんがりいい色に焼かれた餃子にはパリパリの羽がついていた。
 お行儀よく羽で繋がっている餃子の間に箸を入れる。サクッと小さな音を立て、すぐに独立した。自分で作った餃子はこうはならない。くっついたものをはがそうとすると中身が出てしまう。
「いただきます」
 タレにはつけずに頬張ると、口の中で熱々の餡と肉汁がじゅわっと溶けだした。思わず「う~んっ」と唸りながらジョッキを持ち上げ、キンキンに冷えたレモンサワーを流し込む。ごくごくと喉を爽やかに潤していく。
「最高っ」
 たまらずに声が漏れた。
 ——これは、餃子を二皿にした方が正解だったかも……。
 少し後悔をしながら、五目の半チャーハンをレンゲで掬い口に運んだ。噛むと口の中で、チャーシューのうまみが小さな欠片から抜群のおいしさを主張してくる。これはきっとラーメンにのせても絶品に違いない。パラパラしたお米にも一粒一粒に味がしっかりコーティングされている。
 冷えたレモンサワーで口の中をリセットして、今度は海老チャーハンへとレンゲを伸ばした。ぷりっとした大ぶりの海老を噛みしめると、海老の塩気と優しい卵の甘みが絶妙にマッチしている。
「あぁ、おいしい」
 やっぱり、二つとも頼んで良かった。
 誰かに気兼ねすることなく、食べたいものを、食べたい順番で頬張る。ひとりだからこそ味わえるこの贅沢な満腹感に、身体も心も満ちていく。

 帰り道。
 いっぱいになったお腹を少し緩めたくて街を歩く。
 大正ロマンの面影を残す古い蔵や建物が並ぶ通りは、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。街灯が優しく照らす石畳の道を歩くと、煌々と光るコンビニの看板が見えた。
 ご当地ものが売っている棚はないかと店に入った。奥にあるその棚の前には、若いカップルがいた。そっと近くに行くと異国の言葉が楽し気に飛び交っている。
 時間がかかりそうだと、ゆっくりと店内を見て回り、地域限定のお菓子をいくつかカゴに入れた。さっきのカップルが赤いマスコットを手にしてレジへ向かうのが見え、私もその棚に移動した。手のひらサイズの赤べこのキーホルダーに目を細めつつ、ふと隣の冷蔵ケースに視線をやる。ずらりと並んだ日本酒の瓶の中に、おしゃれなラベルのカップ酒を見つけた。
 ——そういえば沢村さん、日本酒が好きだったな……。
 ラベルにある文言を頼りにいくつか選んで、自分用に地域限定の酎ハイをひとつカゴに入れた。これは今晩、ホテルで過ごす夜のお供に。
 私の静かな時間がゆっくりと更けていく。