郡山で在来線に乗り換え、一時間と少し。目的地の会津若松で電車を降りると、もあっとした熱風に迎えられた。ネイビーのサマージャケットを脱ぎ、手に持ち替えた。
改札を出ると駅前のタクシー乗り場から、クリニックを目指す。
「北乃クリニックをお願いしたいのですが、場所わかりますか?」
看板を設置したばかりのクリニック。開業前で、タクシードライバーはまだ知らないかもしれない。
「えーっと、新しくできるところかな? 白くて大きい」
「たぶんそうです、お願いします」
運転手はにこりとして、タクシーを発進させた。
「いやあ、昨日まで大雨だったんだけど、今日はすごくいい天気。お客さんはどちらから?」
「東京です」
「それは遠いところを。楽しんでいってくださいねって、お仕事ですかね」
「はい。でも、少しは観光もできたらいいなって。あの、クリニックへ向かう前に、少しこの辺りをぐるっと走っていただけますか? 会津は初めてで、時間にも余裕があるので」
「それならちょうどお城も近いですし、その辺りをぐるりと一周しましょうか」
「ありがとうございます」
運転手がなめらかにアクセルを踏む。晴天の中、タクシーは街の南へ進んでいく。流れる車窓に合わせるように、運転手が街の説明をしてくれる。
「もうすぐ正面に天守閣が見えますよ」
その声から間もなく、青空をバッグにした城が見えてきた。
「うわぁ、立派ですね」
「そうでしょう。もう少し近くまで行きますよ」
タクシーが北出丸の脇を通り過ぎ、スピードを落とした。ゆっくりと石垣のある通りを進んだ先に、お堀が見えてきた。道沿いに見上げるほど背の高い花が、ピンクや黄色の花を咲かせている。
「このお花、きれいですね」
「立葵です。すっとまっすぐ立っているでしょう。二メートルを超えるのも珍しくないんですよ」
「すごい……私よりずっと背が高い」
「梅雨の時期に咲き始めて、これからどんどん咲いていきますよ。みんな太陽の方を向いて育つんですよ」
「へぇ」
そう言われてみると、天に向かって咲いているように見える。
「お客さん、この花ね、花言葉がいいんですよ。『野心』とか『気高き姿』とかね」
「確かに。凛としていますね」
「でも、やっぱり一番は『熱烈な恋』かな」
「熱烈な、ですか。それはずいぶん情熱的ですね」
——熱烈な恋……。
私には、そうだった。
そんなめぐりあわせを経験できたのだから、実らなくても、きっとそれだけで幸せだ……。
この数ヶ月、自分に言い聞かせてきた。
あんまりな最後だと思っても、積み重ねて来た日々に嫌いになることも、忘れることもできないでいる。
タクシーはお城の周りを離れ、青信号を進んでいく。交差点を左折すると運転手のにこやかな声がした。
「そろそろ北乃クリニックの周辺です。他にもリクエストがあれば」
「近くに病院が集まっているエリアがあるはずなんです。その辺りも、ぐるっとお願いできますか?」
「わかりました。たぶんあの辺かな……」
世間話の合間に、それとなく病院の評判を聞いてみる。そうこうしているうちに、北乃クリニックの看板が見えてきた。タクシーが静かに止まった。
「ありがとうございました。おかげで、ちょっとした観光ができました」
「それはよかった。お仕事、がんばってくださいね」
終始穏やかな運転手にお礼を言い、タクシーを降りた。
踏み出すと不意に、あの花言葉が頭をかすめた。キュッと痛んだ胸に、「だめだ」と小さく頭を横に振る。
手に持っていたジャケットを羽織り直し、真新しいクリニックの敷地に足を踏み入れた。
三階建ての白い建物。一階はピロティ構造になっており、左側が小児科、右側が産婦人科の入り口だ。ガラス張りの明るい小児科に対し、産婦人科は木目調で待合室が外から見えないようプライバシーに配慮されている。
——『事務の動線が心配なの。二手に完全に分かれているから』
数日前、副院長である妻が電話で言っていた意味が分かった。患者への配慮は行き届いているが、受付が完全に分断されている。スタッフ間の連携に苦労しそうだ。
まだオープン前のクリニック。
表玄関は開いておらず、職員通用口でチャイムを鳴らした。事務服を着た女性が、すぐにドアを開けてくれた。
「メディカル・コネクトの彩瀬と申します」
「どうぞお入りください」
新築の匂いがする院内は、白基調で統一され清潔感がある。女性の案内で副院長の待つ産婦人科に向かう。まず階段で二階に上がり、産婦人科の病棟を通り抜け、一階に下りると説明された。
「遠くてすみません」
「いえ」
歩く距離がそのまま、副院長の抱いている危惧を実感へと変えていく。産婦人科エリアに到着すると、応接室のドアを女性がノックした。
「どうぞ〜」
中から明るい声がして、ドアが開いた。名乗ろうとする前に、
「無理言って予定を前倒ししていただいて、ありがとうございます」
と、白衣を着たショートカットの女性——副院長の北乃美佳が頭を下げた。
「いえ、この度はお世話になります。初めまして——」
簡単に自己紹介を済ませ、さっそく研修の段取りへ移る。
「ごめんなさいね、夫はまだ総合病院の勤務が残っていて。今日もいるはずが、先ほど呼び出しで……」
「そうなんですね。大丈夫です。まずはレセコンの操作について事務スタッフの皆さんにお話しして、その後は小児科と産婦人科で分かれて進めましょうか」
副院長に集められた事務スタッフは全部で四人。
ローテーションにはせず、二人ずつ小児科と産婦人科の専属にすると言う。全員が実務未経験者で、とりあえず一つに専念した方がいいという副院長の考えだ。
わかりやすさを心がけて資料は作ってきたものの、全員未経験者だと知ると、内心身構えてしまう。
「道野と申します。研修よろしくお願いします」
さっきここまで案内してくれた女性が口を開いた。続くように他の事務スタッフも自己紹介を始めた。
産婦人科を担当するという道野さんは、この春まで銀行の窓口業務を八年経験してきた。受付業務には慣れていても、「医療事務は初めてなので」と不安そうに笑みを浮かべた。
ふと、受付の片隅に、見覚えのあるテキストが積まれてあるのが目に入った。
「そちらの通信講座で資格、お取りになられたんですか?」
「あ、はい。レセプト作成に苦労しましたけど、なんとか」
「私も学生時代、その通信講座で資格を取ったんです。だから、大丈夫です。レセコンの操作さえ慣れれば、点数の付け方も自然と見えてきます」
道野さんの表情が、ぱっと明るくなった。
産婦人科の受付で小児科の二人も合わせて研修を始めた。
カウンターにある二台のレセコンを使って基本操作を説明する。まずは私が基本操作をやって見せ、スタッフがそれに続く。時折メモを取り、交代しながら実際に動かしてみる。
「すみません、彩瀬さん」
「どうしました?」
道野さんの声に歩み寄る。
「妊婦さんの診療で、妊婦健診の公費負担分と、ちょっとした体調不良で診察したときの保険診療分って、同じカルテの中でどうやって会計を切り替えればいいんですか? テキストにはこういうパターンが載っていなくて……」
道野さんは真剣なまなざしで、通信講座のテキストと画面を交互に見つめている。
「そうですよね。テキストにはないと思うんですけど、画面上部のタブを見てください。自費と保険の切り替えがあります。自動で妊婦検診と保険診療分が分けられるようになっているので、別々の会計伝票として処理できるようになっているんです」
「……なるほど」
新築の木の香りが漂う院内に、質問の声と切れ切れのキーボードの音。
それが小気味よく響くようになったころ、副院長の焦ったような声が後ろからした。
「すみません、彩瀬さん。五時までなのに」
時計を見ると五時半を過ぎていた。
「いえ、私も気づきませんでした。こちらこそすみません……」
予定していた内容を終わらせることができなかった。
——明日の段取りをもう一度、今晩考えよう。
職員通用口を出ると、晴れ渡った夕暮れ色の空は、まだ明るかった。
ふっと息を吐いた。
外の道路に出ると緊張の糸が緩むのはいつものこと。新幹線の中で食べたフルーツサンドから何も食べていない空腹は限界で、クリニックから徒歩五分のホテルへ急ぐ。
ホテルへチェックインを済ませ、夕食に出かける。
会津のおいしい物をリサーチすると、トップに出てくるのはソースカツ丼だった。
——ちょっと違うかな……。
揚げ物より、もう少しさっぱりしたものが食べたい。スマートフォンをバッグにしまい、とりあえず歩き始めた。
ホテルを出て裏路地に入ってみると、食堂や居酒屋が立ち並んでいた。その一角に、紺色の地に白字で「寿し」と染め抜かれた暖簾が目に入った。こじんまりとした店構えで、木の格子が入ったガラス戸からは優しい明かりが漏れている。中から聞こえる穏やかな笑い声も、なんとなくいい。
決めた。今晩のひとりごはん。
キュッと胸を高鳴らせ、暖簾をくぐり引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
カウンター内の板前さんの声が響いた。一拍置いて、奥の方からも「いらっしゃいませ~」と女性の明るい声が聞こえた。
「ひとりなんですけど……」
奥の小上がりからエプロン姿の小柄な女性が、「こちらにどうぞ」とにこやかに歩み寄ってきた。
案内されたのは、厨房を囲むカウンター席。大将の斜め前で、ネタが並ぶショーケース越しに寿司を握る手元が見える。
女性が椅子を引いてくれ、大将がふっと目を細めて笑った。
「お飲み物は何にしますか?」
おかみさんから聞かれて、すっと息をのんだ。
「……とりあえず、ビールをください」
声が上擦ってしまった。
「はい。少々お待ちくださいね」
優しくも張りのある声。おかみさんは笑みを残していった。
——緊張した……。
いつも雅哉が応えてくれていたんだな、とこんな時にも、ふと思ってしまう。そんな過去を振り切るように店内を見渡すと、常連客が多いのか、ほとんどメニューを見ずに注文している。
広くはないお店。小上がりのお座敷席と四人掛けのテーブルが二つ。それと五席だけのカウンター。佇まいは決して新しい感じではない。けれど、テーブルもカウンターも、どこもピカピカに磨かれている。
手元のお品書きを見ていると「お待たせしました」と、おかみさんが生ビールとお通しを置いてくれた。
「ありがとうございます」
「どうぞ。ゆっくりしていってくださいね」
きれいな気泡が立っている冷えたグラスを持った。
「いただきます」
ひとたび口をつけると、ごくごくと喉を鳴らす。
——うまっ。
ビールはひと口目が最高においしい。
だから、冷たいビールが喉を通っていく感覚を、ゆっくり味わいたい。
じわ~っとアルコールがしみていく感覚に、体がふわっと軽くなる。この感覚は「おいしい」より、「うまっ」が適切だと思う。
視線を上げると、大将と目が合った。ふっと笑顔を浮かべた大将になんだか恥ずかしくなった。たぶん私の感情はそのまま顔に出ていた。ばつの悪さをごまかすように笑みを返した。
「何にしましょうか?」
「あ、はいっ。甘エビと帆立とイクラ、それから……あ、やっぱり甘エビは二つにしてください」
「はいよっ。甘エビは二つっ!」
こうして寿司屋のカウンターにひとりで座るのは初めてだ。
少し前なら、ためらうこともこの四カ月でずいぶん慣れてきたんだなあと思う。
しばらくして、目の前のカウンターに置かれた木の寿司下駄に、つやつやと輝くネタがきれいに並べられた。
「はいっ。甘エビと帆立。それから……イクラ、それからもう一丁甘エビ、お待ちっ」
大将の言い方に思わず、ふっと笑ってしまった。
心なしか最後の甘エビの言い方には、ためがあったように思う。
まずは主役の甘エビから箸を伸ばした。大きく口を開けて、思い切り頬張った。ねっとりとしたエビの甘みが広がり、ほっぺたが落ちそうで頬に手を当てた。噛むとシャリのおいしさに気づく。ほどよい温かさと酢の香りが鼻を抜けた。
「ああ、おいしいっ」
思わず、口に出してしまった。
にこりとした大将と目が合い、一瞬恥ずかしくなった。けれど、
「最高ですっ」
と、ありのままに感想を伝えた。
「それはどうも。お客さん、こっちの人?」
「いえ、東京です」
後ろで接客をしていたおかみさんが、「あらぁ」と隣に来た。
「それは遠いところを。実はうちの娘もいま東京にいるのよ」
「そうなんですか!」
「大学を出て社会人してるの。こちらには、お仕事でいらしたの?」
「はい、近くにできるクリニックへ」
「ああ、新しくできるあそこの病院ね。医療関係のお仕事?」
かいつまんで仕事の話をしたのをきっかけに、大将もおかみさんも、気さくに話しかけてくれた。
ひととおりの寿司を堪能した頃には、店内のお客もすっかり引いていた。
おいしいごはんとお酒。温かい空気にほっとしたからか……。
おかみさんが聞き上手なのもあって、いつの間にか春に別れた雅哉のことまで話してしまった。
「……そうだったの、お付き合い七年は長かったわね」
「ですよね。彼が春に大阪転勤が決まって、そしたら『結婚はちがう気がするって。璃子から仕事、奪えないよ』って、体よく振られました。どこに行っても働けるように医療事務の資格まで取ってたんですけどね……」
今の仕事に必要だったわけじゃない。就職活動が早めに終わり、いつか来る未来を描いて取った資格。雅哉は仕事のために取ったとしか思ってなかっただろうけど。
こぼれた本音に、静かな沈黙が流れる。大将とおかみさんは、優しく私を見守っている。
「……なんて、すみません。初対面でこんな暗い話しちゃいましたね。こういうお寿司屋さんのカウンターって、少し緊張しちゃって。いつもなら、別れた彼が何でも頼んでくれていたので……自分ひとりでこうして話すのも、実はすごく新鮮でドキドキしてます」
「いやあ、そんな風には見えないけどなぁ。でもその男、まったく、わかってねぇなあ」
大将が「七年もなぁ、しょうがない奴だよ」と息をついた。
「ですよね」
ふふっと小さく笑うと、なんだか少し心が軽くなった気がした。
「またおいで。出張でも旅行でも」
「はい。ごちそうさまでした。また来ますね」
優しい大将とおかみさんのいる店。
外に出ると、暑さは緩んでいた。おかみさんが外まで見送りに来てくれる。
「今日はゆっくり休んでくださいね。ごはんをちゃんと食べて眠れば大丈夫よ」
「はい、必ずまた来ます」
振り返ると、おかみさんは手を振っていた。その姿に、心が温かくなった。
改札を出ると駅前のタクシー乗り場から、クリニックを目指す。
「北乃クリニックをお願いしたいのですが、場所わかりますか?」
看板を設置したばかりのクリニック。開業前で、タクシードライバーはまだ知らないかもしれない。
「えーっと、新しくできるところかな? 白くて大きい」
「たぶんそうです、お願いします」
運転手はにこりとして、タクシーを発進させた。
「いやあ、昨日まで大雨だったんだけど、今日はすごくいい天気。お客さんはどちらから?」
「東京です」
「それは遠いところを。楽しんでいってくださいねって、お仕事ですかね」
「はい。でも、少しは観光もできたらいいなって。あの、クリニックへ向かう前に、少しこの辺りをぐるっと走っていただけますか? 会津は初めてで、時間にも余裕があるので」
「それならちょうどお城も近いですし、その辺りをぐるりと一周しましょうか」
「ありがとうございます」
運転手がなめらかにアクセルを踏む。晴天の中、タクシーは街の南へ進んでいく。流れる車窓に合わせるように、運転手が街の説明をしてくれる。
「もうすぐ正面に天守閣が見えますよ」
その声から間もなく、青空をバッグにした城が見えてきた。
「うわぁ、立派ですね」
「そうでしょう。もう少し近くまで行きますよ」
タクシーが北出丸の脇を通り過ぎ、スピードを落とした。ゆっくりと石垣のある通りを進んだ先に、お堀が見えてきた。道沿いに見上げるほど背の高い花が、ピンクや黄色の花を咲かせている。
「このお花、きれいですね」
「立葵です。すっとまっすぐ立っているでしょう。二メートルを超えるのも珍しくないんですよ」
「すごい……私よりずっと背が高い」
「梅雨の時期に咲き始めて、これからどんどん咲いていきますよ。みんな太陽の方を向いて育つんですよ」
「へぇ」
そう言われてみると、天に向かって咲いているように見える。
「お客さん、この花ね、花言葉がいいんですよ。『野心』とか『気高き姿』とかね」
「確かに。凛としていますね」
「でも、やっぱり一番は『熱烈な恋』かな」
「熱烈な、ですか。それはずいぶん情熱的ですね」
——熱烈な恋……。
私には、そうだった。
そんなめぐりあわせを経験できたのだから、実らなくても、きっとそれだけで幸せだ……。
この数ヶ月、自分に言い聞かせてきた。
あんまりな最後だと思っても、積み重ねて来た日々に嫌いになることも、忘れることもできないでいる。
タクシーはお城の周りを離れ、青信号を進んでいく。交差点を左折すると運転手のにこやかな声がした。
「そろそろ北乃クリニックの周辺です。他にもリクエストがあれば」
「近くに病院が集まっているエリアがあるはずなんです。その辺りも、ぐるっとお願いできますか?」
「わかりました。たぶんあの辺かな……」
世間話の合間に、それとなく病院の評判を聞いてみる。そうこうしているうちに、北乃クリニックの看板が見えてきた。タクシーが静かに止まった。
「ありがとうございました。おかげで、ちょっとした観光ができました」
「それはよかった。お仕事、がんばってくださいね」
終始穏やかな運転手にお礼を言い、タクシーを降りた。
踏み出すと不意に、あの花言葉が頭をかすめた。キュッと痛んだ胸に、「だめだ」と小さく頭を横に振る。
手に持っていたジャケットを羽織り直し、真新しいクリニックの敷地に足を踏み入れた。
三階建ての白い建物。一階はピロティ構造になっており、左側が小児科、右側が産婦人科の入り口だ。ガラス張りの明るい小児科に対し、産婦人科は木目調で待合室が外から見えないようプライバシーに配慮されている。
——『事務の動線が心配なの。二手に完全に分かれているから』
数日前、副院長である妻が電話で言っていた意味が分かった。患者への配慮は行き届いているが、受付が完全に分断されている。スタッフ間の連携に苦労しそうだ。
まだオープン前のクリニック。
表玄関は開いておらず、職員通用口でチャイムを鳴らした。事務服を着た女性が、すぐにドアを開けてくれた。
「メディカル・コネクトの彩瀬と申します」
「どうぞお入りください」
新築の匂いがする院内は、白基調で統一され清潔感がある。女性の案内で副院長の待つ産婦人科に向かう。まず階段で二階に上がり、産婦人科の病棟を通り抜け、一階に下りると説明された。
「遠くてすみません」
「いえ」
歩く距離がそのまま、副院長の抱いている危惧を実感へと変えていく。産婦人科エリアに到着すると、応接室のドアを女性がノックした。
「どうぞ〜」
中から明るい声がして、ドアが開いた。名乗ろうとする前に、
「無理言って予定を前倒ししていただいて、ありがとうございます」
と、白衣を着たショートカットの女性——副院長の北乃美佳が頭を下げた。
「いえ、この度はお世話になります。初めまして——」
簡単に自己紹介を済ませ、さっそく研修の段取りへ移る。
「ごめんなさいね、夫はまだ総合病院の勤務が残っていて。今日もいるはずが、先ほど呼び出しで……」
「そうなんですね。大丈夫です。まずはレセコンの操作について事務スタッフの皆さんにお話しして、その後は小児科と産婦人科で分かれて進めましょうか」
副院長に集められた事務スタッフは全部で四人。
ローテーションにはせず、二人ずつ小児科と産婦人科の専属にすると言う。全員が実務未経験者で、とりあえず一つに専念した方がいいという副院長の考えだ。
わかりやすさを心がけて資料は作ってきたものの、全員未経験者だと知ると、内心身構えてしまう。
「道野と申します。研修よろしくお願いします」
さっきここまで案内してくれた女性が口を開いた。続くように他の事務スタッフも自己紹介を始めた。
産婦人科を担当するという道野さんは、この春まで銀行の窓口業務を八年経験してきた。受付業務には慣れていても、「医療事務は初めてなので」と不安そうに笑みを浮かべた。
ふと、受付の片隅に、見覚えのあるテキストが積まれてあるのが目に入った。
「そちらの通信講座で資格、お取りになられたんですか?」
「あ、はい。レセプト作成に苦労しましたけど、なんとか」
「私も学生時代、その通信講座で資格を取ったんです。だから、大丈夫です。レセコンの操作さえ慣れれば、点数の付け方も自然と見えてきます」
道野さんの表情が、ぱっと明るくなった。
産婦人科の受付で小児科の二人も合わせて研修を始めた。
カウンターにある二台のレセコンを使って基本操作を説明する。まずは私が基本操作をやって見せ、スタッフがそれに続く。時折メモを取り、交代しながら実際に動かしてみる。
「すみません、彩瀬さん」
「どうしました?」
道野さんの声に歩み寄る。
「妊婦さんの診療で、妊婦健診の公費負担分と、ちょっとした体調不良で診察したときの保険診療分って、同じカルテの中でどうやって会計を切り替えればいいんですか? テキストにはこういうパターンが載っていなくて……」
道野さんは真剣なまなざしで、通信講座のテキストと画面を交互に見つめている。
「そうですよね。テキストにはないと思うんですけど、画面上部のタブを見てください。自費と保険の切り替えがあります。自動で妊婦検診と保険診療分が分けられるようになっているので、別々の会計伝票として処理できるようになっているんです」
「……なるほど」
新築の木の香りが漂う院内に、質問の声と切れ切れのキーボードの音。
それが小気味よく響くようになったころ、副院長の焦ったような声が後ろからした。
「すみません、彩瀬さん。五時までなのに」
時計を見ると五時半を過ぎていた。
「いえ、私も気づきませんでした。こちらこそすみません……」
予定していた内容を終わらせることができなかった。
——明日の段取りをもう一度、今晩考えよう。
職員通用口を出ると、晴れ渡った夕暮れ色の空は、まだ明るかった。
ふっと息を吐いた。
外の道路に出ると緊張の糸が緩むのはいつものこと。新幹線の中で食べたフルーツサンドから何も食べていない空腹は限界で、クリニックから徒歩五分のホテルへ急ぐ。
ホテルへチェックインを済ませ、夕食に出かける。
会津のおいしい物をリサーチすると、トップに出てくるのはソースカツ丼だった。
——ちょっと違うかな……。
揚げ物より、もう少しさっぱりしたものが食べたい。スマートフォンをバッグにしまい、とりあえず歩き始めた。
ホテルを出て裏路地に入ってみると、食堂や居酒屋が立ち並んでいた。その一角に、紺色の地に白字で「寿し」と染め抜かれた暖簾が目に入った。こじんまりとした店構えで、木の格子が入ったガラス戸からは優しい明かりが漏れている。中から聞こえる穏やかな笑い声も、なんとなくいい。
決めた。今晩のひとりごはん。
キュッと胸を高鳴らせ、暖簾をくぐり引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
カウンター内の板前さんの声が響いた。一拍置いて、奥の方からも「いらっしゃいませ~」と女性の明るい声が聞こえた。
「ひとりなんですけど……」
奥の小上がりからエプロン姿の小柄な女性が、「こちらにどうぞ」とにこやかに歩み寄ってきた。
案内されたのは、厨房を囲むカウンター席。大将の斜め前で、ネタが並ぶショーケース越しに寿司を握る手元が見える。
女性が椅子を引いてくれ、大将がふっと目を細めて笑った。
「お飲み物は何にしますか?」
おかみさんから聞かれて、すっと息をのんだ。
「……とりあえず、ビールをください」
声が上擦ってしまった。
「はい。少々お待ちくださいね」
優しくも張りのある声。おかみさんは笑みを残していった。
——緊張した……。
いつも雅哉が応えてくれていたんだな、とこんな時にも、ふと思ってしまう。そんな過去を振り切るように店内を見渡すと、常連客が多いのか、ほとんどメニューを見ずに注文している。
広くはないお店。小上がりのお座敷席と四人掛けのテーブルが二つ。それと五席だけのカウンター。佇まいは決して新しい感じではない。けれど、テーブルもカウンターも、どこもピカピカに磨かれている。
手元のお品書きを見ていると「お待たせしました」と、おかみさんが生ビールとお通しを置いてくれた。
「ありがとうございます」
「どうぞ。ゆっくりしていってくださいね」
きれいな気泡が立っている冷えたグラスを持った。
「いただきます」
ひとたび口をつけると、ごくごくと喉を鳴らす。
——うまっ。
ビールはひと口目が最高においしい。
だから、冷たいビールが喉を通っていく感覚を、ゆっくり味わいたい。
じわ~っとアルコールがしみていく感覚に、体がふわっと軽くなる。この感覚は「おいしい」より、「うまっ」が適切だと思う。
視線を上げると、大将と目が合った。ふっと笑顔を浮かべた大将になんだか恥ずかしくなった。たぶん私の感情はそのまま顔に出ていた。ばつの悪さをごまかすように笑みを返した。
「何にしましょうか?」
「あ、はいっ。甘エビと帆立とイクラ、それから……あ、やっぱり甘エビは二つにしてください」
「はいよっ。甘エビは二つっ!」
こうして寿司屋のカウンターにひとりで座るのは初めてだ。
少し前なら、ためらうこともこの四カ月でずいぶん慣れてきたんだなあと思う。
しばらくして、目の前のカウンターに置かれた木の寿司下駄に、つやつやと輝くネタがきれいに並べられた。
「はいっ。甘エビと帆立。それから……イクラ、それからもう一丁甘エビ、お待ちっ」
大将の言い方に思わず、ふっと笑ってしまった。
心なしか最後の甘エビの言い方には、ためがあったように思う。
まずは主役の甘エビから箸を伸ばした。大きく口を開けて、思い切り頬張った。ねっとりとしたエビの甘みが広がり、ほっぺたが落ちそうで頬に手を当てた。噛むとシャリのおいしさに気づく。ほどよい温かさと酢の香りが鼻を抜けた。
「ああ、おいしいっ」
思わず、口に出してしまった。
にこりとした大将と目が合い、一瞬恥ずかしくなった。けれど、
「最高ですっ」
と、ありのままに感想を伝えた。
「それはどうも。お客さん、こっちの人?」
「いえ、東京です」
後ろで接客をしていたおかみさんが、「あらぁ」と隣に来た。
「それは遠いところを。実はうちの娘もいま東京にいるのよ」
「そうなんですか!」
「大学を出て社会人してるの。こちらには、お仕事でいらしたの?」
「はい、近くにできるクリニックへ」
「ああ、新しくできるあそこの病院ね。医療関係のお仕事?」
かいつまんで仕事の話をしたのをきっかけに、大将もおかみさんも、気さくに話しかけてくれた。
ひととおりの寿司を堪能した頃には、店内のお客もすっかり引いていた。
おいしいごはんとお酒。温かい空気にほっとしたからか……。
おかみさんが聞き上手なのもあって、いつの間にか春に別れた雅哉のことまで話してしまった。
「……そうだったの、お付き合い七年は長かったわね」
「ですよね。彼が春に大阪転勤が決まって、そしたら『結婚はちがう気がするって。璃子から仕事、奪えないよ』って、体よく振られました。どこに行っても働けるように医療事務の資格まで取ってたんですけどね……」
今の仕事に必要だったわけじゃない。就職活動が早めに終わり、いつか来る未来を描いて取った資格。雅哉は仕事のために取ったとしか思ってなかっただろうけど。
こぼれた本音に、静かな沈黙が流れる。大将とおかみさんは、優しく私を見守っている。
「……なんて、すみません。初対面でこんな暗い話しちゃいましたね。こういうお寿司屋さんのカウンターって、少し緊張しちゃって。いつもなら、別れた彼が何でも頼んでくれていたので……自分ひとりでこうして話すのも、実はすごく新鮮でドキドキしてます」
「いやあ、そんな風には見えないけどなぁ。でもその男、まったく、わかってねぇなあ」
大将が「七年もなぁ、しょうがない奴だよ」と息をついた。
「ですよね」
ふふっと小さく笑うと、なんだか少し心が軽くなった気がした。
「またおいで。出張でも旅行でも」
「はい。ごちそうさまでした。また来ますね」
優しい大将とおかみさんのいる店。
外に出ると、暑さは緩んでいた。おかみさんが外まで見送りに来てくれる。
「今日はゆっくり休んでくださいね。ごはんをちゃんと食べて眠れば大丈夫よ」
「はい、必ずまた来ます」
振り返ると、おかみさんは手を振っていた。その姿に、心が温かくなった。



