東京駅発、出張癒しごはん

「彩瀬さん、資料の進み具合どう?」
 離れた席の沢村さんからの問いに、「あともう少しです」と応え、パソコンの画面に向き直った。
 七月最初の水曜日。十九時。
 来週を予定していた地方出張が、先方の意向で明日からになった。ノー残業デーの静かなオフィスに、私のキーボードを叩く音が響く。
 ——あと少し……。
 目の前で内線が鳴り、受話器を取った。先立って現地入りした開発部の小山さんからで、パソコンの搬入と初期設定を問題なく終わらせたという電話だった。
 私が勤務する「メディカル・コネクト」は、医療系のシステム会社だ。病院の会計で使うコンピューター、通称「レセコン」のシステムを開発から導入、サポートまで一貫して手掛けている。
 新卒で入社して五年目。私はサポート部門で、システムの導入や病院スタッフへの操作指導などを担当している。
 あとはこの資料を仕上げ、明日からの訪問でドクターと事務員さんへレクチャーすれば大丈夫なところまで来た。気づけば、沢村さんは席を離れていて、周りに誰もいなくなっていた。
「終わった~」
 保存マークを押した。椅子にもたれたまま、凝り固まった背中を伸ばすために大きく腕を伸ばした。
「あー、コーヒー飲みたい」
 仕事を終えたあとは、キンと冷えたアイスコーヒーが無性に恋しくなる。ぐぐっと背中を伸ばしているとサポート部のドアが開いた。
「お疲れ~」
 沢村さんが戻って来た。その手には、ビルの一階にあるカフェの紙袋。
「お疲れ様です。資料完了しました。開発部からもクリニックへ設置、終わったそうです」
「バタバタだったよね。はい、これ」
「うわ~、ありがとうございます」
 まさに飲みたかったアイスコーヒーが紙袋から出てきた。ありがたく受け取ると、沢村さんが空いている隣の席に腰を下ろした。
「沢村さん、おみやげ買ってきますね。お酒がいいですかね。福島はお酒が有名みたいですし」
「おお、いいね~。あ、でもそういう意味でこれ買ってきたわけじゃないから」
「わかってます」
 入社した時、私の指導係についた沢村さんとは、何でも話せる気心の知れた先輩だ。「いただきます」と冷えたコーヒーを吸い込むと、口の中にほど良い苦みが広がり、ほっと息を吐いた。
「それにしても急よね、福島のクリニック」
「ですね。初めて事務をするスタッフが多いみたいで、ドクターが不安になったようです。一度の研修では済まないかもしれないから、早めに来てほしいって」
「へえ~、珍しいね。事務が初めての人ばかりって」
「ですよね」
 たいていの訪問先は新規開業でも、医事課の経験者が多い。うちのレセコンの操作方法をレクチャーすれば、スムーズに理解してもらえる。
 けれど今回のクリニックは、初めての人ばかりと聞き、いつも使っているマニュアルとは別に初心者向けに作り替えた。
「福島かぁ。前に出張で行った時、朝ラーしたんだけどすごく美味しくて。また行きたいなぁ」
「朝からラーメンですか?」
「これが結構いいの。あったまるし」
 夏にラーメン……。体を温めるどころか、汗だくになりそうだ。
 でも、もし隣にまだ彼がいたら、行ってみたいと思ったかもしれない。
「朝からラーメン屋にひとりで入るのは、ちょっと勇気がいりますね」
「そう? 出張の時、私はひとりでいろんな店に入ってるわよ。あ、それはいつもか」
 ははっと笑った沢村さんが、ぐぅと背もたれに深く体を預けた。背が高いからその姿は大胆に見え、思わず笑いが溢れてしまった。
「あ、その笑いは彼氏いない歴三年をバカにしてるでしょ~」
「ち、ちがいます! 沢村さんって見た目、クールビューティーじゃないですか。でも、実際は話してると気さくで元気が出ます」
「それって褒めてる?」
「褒めてます」
 深く頷きながら沢村さんに言った。
 仕事があってよかったと思う。こうして沢村さんと話す時間も、寂しさを和らげてくれている。
「じゃあ、それ飲んだら帰って。出張の準備、あるでしょう?」
「大丈夫です。最近、自分の時間がありすぎて、余裕です」
「うわ、それわかる。ふたりからひとりって、急に時間を持て余すのよね」
「残業して帰っても、びっくりするぐらい時間があって。ごはん作らなきゃ、今日は何がいいかなぁとか、買い物行かないと、とか。相手がいれば、それに合わせて動くじゃないですか。でも自分のことだけだと、あっさり終わって。だから今回の出張、金曜日に帰って来ないで土曜日までいることにしました。ちょっとくらい、おいしいもの食べて、楽しんできてもいいですよね」
「いいじゃない! 金曜日にかかる出張ってあまりないから、リフレッシュしてきて」
 沢村さんは、「よっし、やるか」と気合いを入れて腰を上げた。自分のデスクへ戻る凛とした後ろ姿を見送りながら、私はパソコンの電源を落とす。

 知らない街で、知らない美味しいものに出会えたら。
 新しいことをしてみたら、少しは心が軽くなるだろうか。

 ビルを出ると、細い三日月が夜空に浮かんでいた。夏の匂いの夜風が、私の頬を優しく撫でた。
 
 *

 この春から、出張の朝は何も食べずに家を出ることにしている。
 時刻は八時半。
 東京駅の新幹線改札を抜け、コンコースにある店でアイスコーヒーとフルーツサンドを選んだ。ホームへ上がると、眩しい太陽を浴びながら東北新幹線が乗客を待っていた。
 指定で取った窓際の席に腰を下ろし、アイスコーヒーにストローを刺した。
 しばらくして、隣は空席のまま新幹線は動き出した。ゆっくりできそうだとほっと息を吐き、重みのあるフルーツサンドを手にした。
 フィルム越しにも見て取れる大ぶりの桃に、思わず笑みがこぼれる。ひとりになった私のささやかな出張の朝の楽しみ。その日の気分で好きなものを買って食べる。値が張っても、ハイカロリーでも気にしない。
 重みのあるサンドイッチのフィルムを慎重にはがす。今日選んだのは、桃とアールグレイのサンドイッチ。季節限定の大好きな桃と紅茶のクリームの組み合わせに、一目惚れした。
 断面から顔をのぞかせる果肉はみずみずしく、それを包むようにアールグレイのクリームがたっぷりと詰まっている。
「いただきます」
 厚みのあるサンドイッチ、三角の部分を大きな口で頬張った。
 ——んんっ、おいしいっ。
 じゅわっとあふれる桃の果汁に思わず唸った。もともと好きな組み合わせだけど、やっぱりおいしい。桃まるごと使用という文言通り、スライスされた桃では味わえない果肉感。甘いはずのクリームはアールグレイと混じり合い、上品な仕上がりになっている。口いっぱい広がる幸せに、心も身体も軽やかに満たされた。
「さて、やるか」
 自分の充電が完了したところで、カバンからパソコンを取り出した。
 今日訪問する「北乃クリニック」は、福島の会津若松にある。小児科と産婦人科を標榜し、ご夫婦で新しく開業されるクリニック。
 クリニックの概要を確認し、研修計画を練る。途中、受信した会社からのメールに返信を済ませ、視線を窓の外に向けた。車窓は緑色に彩られた景色へと変わっていた。ふっとため息をついて、パソコンを閉じた。
 久しぶりに東北新幹線に揺られていると、学生時代から付き合っていた雅哉を思い出す。彼は仙台の人で、よく一緒に乗った。
 
 数ヶ月前。
 仕事から帰ると、同棲していた雅哉が着替えもせず、スーツ姿のままソファに座っていた。
「四月から大阪に異動になった」
「そうなんだ」
 いい意味で、胸のあたりがそわっとした。
 彼とは学生の頃から付き合いで、同棲期間も長かった。互いの両親にも紹介していたから、
「終わりにしよう」
 と言われた時、事態をのみ込めなかった。
 ずいぶん間が空いてから、やっと私は理由を尋ねた。
「結婚を考えたら、お互い別の選択があるんじゃないかと思って……」
 それが彼の答えだった。
 急に野に放たれた気分だった。
 ほどなくして雅哉は大阪へ行き、私は何も変わらずそのまま同じ部屋に住み続けている。
 もっと会社から近い場所に引っ越した方がいいと思いながらも変化が苦手。だから、ひとりでは広い部屋に今も住み続けている。
 
「まもなく郡山です」
 流れ始めた車内アナウンスにはっとした。残っていたアイスコーヒーを飲み干し、席を立った。