第一章 君のため息が聞こえた
五月の風が、教室の窓から吹き込んでいた。
カーテンがふわりと揺れて、美春の髪をさらっていく。窓際の席に座っている美春は、その風を頬に受けながら、ぼんやりと外を眺めていた。グラウンドでは体育の授業が行われていて、男子たちの元気な声が遠く聞こえる。でも、美春の耳にはほとんど届いていなかった。
――どうしよう。
心の中で、また同じ言葉がぐるぐると回り始める。昨日の夜から、ずっとそうだった。布団に入っても眠れなくて、天井を見つめたまま朝を迎えてしまった。今朝は目の下にうっすらとクマができていて、洗面台の鏡を見てため息をついた。
ため息、またついてしまった。
意識しているわけじゃないのに、体が勝手に空気を押し出してしまう。気持ちが重たい時は、いつもそうだ。
「大丈夫、美春」
声をかけられて、美春は顔を上げた。
魁仁がいた。
隣の席から、少し身を乗り出すようにして、美春の顔を覗き込んでいる。心配そうな目をしていた。いつもまっすぐで、少しだけ眉が下がっている時の魁仁の顔。美春はその顔を見ると、どうしてだろう、胸のあたりがじわっと温かくなる。
「え」
思わずそれだけ言った。
「ため息ついたり、今日は元気ないみたいに見えるからさ」
魁仁は真剣な顔で言う。冗談を言っているわけじゃない、ということは、その声のトーンでわかった。魁仁はいつもそうだ。美春のことになると、真剣になる。
「大丈夫。ちょっと考えごとしてたの」
美春は少し微笑んで答えた。心配をかけたくなかった。それに、うまく言葉にできるほど、自分でも整理できていなかった。
「そっか。俺でできることがあったら、相談してくれよな」
魁仁はそう言って、ふっと笑った。押しつけがましくない、でもちゃんとそこにいてくれる、という感じの笑い方。
「うん。ありがとう、魁仁」
美春はそう答えながら、また窓の外に目を向けた。さっきまでと同じグラウンド、同じ青い空。でも、なんだか少しだけ、明るく見えた気がした。
いつもそう。
魁仁は私のことを気にかけてくれる。
誰かに見ていてもらえる、という感覚は、言葉にするのが難しい。別に何かをしてもらわなくていい。ただ、気にかけてもらえる、気づいてもらえる、それだけで十分だった。魁仁といると、安心する。空気みたいに、自然に、深く。
私が魁仁のことを特別だと思い始めたのは、いつからだろう。はっきりとした瞬間があったわけじゃない。でも思い返せば、小学校の頃からずっと、魁仁は私の隣にいてくれた。
小学校の登下校。私はよく男の子にからかわれた。
今にして思えば、私が真っ直ぐに反応しすぎるからかもしれない。嫌だと思ったことはそのまま顔に出てしまうし、怖いと思えば逃げてしまうし、逃げれば追いかけてくることも、当時の私にはわからなかった。反応が面白いから、もっとからかいたくなる。子どもの悪意というのは、時として底なしだ。
あの頃、私は長い髪の毛をツインテールにしていた。母がいつもそうしてくれていた。朝、椅子に座って、鏡の前で母に髪をとかしてもらう時間が好きだった。ゴムで二つに結んでもらう時、少しだけ引っ張られる感覚も、子どもながらに好きだった。
でもその髪が、男の子たちのターゲットになった。
触って、引っ張ろうとする男の子がいた。名前は覚えていない。顔も、もうぼんやりとしか思い出せない。ただ、嫌だった。すごく嫌だった。逃げ回った。でも逃げると、余計に楽しそうに追いかけてくる。泣きそうになりながら、でも泣いたらもっとからかわれると思って、唇をきゅっと噛んで走った。
もう、男の子なんて嫌い。
本当にそう思っていた。
魁仁を除いては。
ある日の下校時のことだった。また髪を引っ張られそうになって、私は逃げていた。息が上がって、もう限界、というところで。
「やめろよ、美春が嫌がってるじゃん」
低い声がした。
男の子にしては落ち着いた声で、でもちゃんと怒っている声だった。
魁仁だった。
ランドセルを背負って、腕を組んで、からかってきた男の子たちの前に立っていた。体は別に大きくなかった。でも、その立ち姿には、なんだか圧があった。
「わぁー、魁仁が来た。逃げろー」
男の子たちは笑いながら、でも本当に逃げていった。あっという間だった。
私は息を切らしながら、魁仁を見た。
涙が、出てきた。
怖かったわけじゃなくて、悔しかったわけでもなくて、ただほっとしたから。体の中にずっと張り詰めていたものが、すっと抜けていく感じ。その瞬間に涙が一粒、頬を伝った。
くすん、と私は鼻を鳴らした。
魁仁は何も言わなかった。ただ、親指をそっと私の頬に当てて、涙を拭ってくれた。
それだけだった。
それだけで、全部が許されてしまう気がした。
男の子たちへの怒りも、みっともなく逃げ回っていた恥ずかしさも、うまく助けを求められなかった情けなさも、全部。魁仁の親指一本で、消えてしまった。
本当に心から安心できる男の子なのだった。あの頃から、ずっと。
家の方角が同じだから、小学校も中学校も、よく通学路を一緒に歩いた。
魁仁の話はいつも面白かった。どうしてそんなことを考えるんだろう、という角度から物事を見ていて、私が気づかなかったことを教えてくれる。授業の話、先生の癖の話、帰り道で見つけた野良猫の話。どれも大した話じゃないのかもしれないけど、魁仁が話すと、なんだかとても豊かな時間に感じられた。
私はよく笑った。お腹が痛くなるくらい笑ったこともある。魁仁はそういう時、少し照れくさそうに笑う。その顔がまた好きで、もっと笑ってしまう。
中学三年生になって、進路を考え始めた頃、私は魁仁と別の高校に進むんだろうな、と何となく思っていた。別に確認したわけじゃない。ただ、なんとなく。魁仁は成績が良くて、私は普通で、行くところが違うのが自然なような気がしていた。
別れを惜しむほどの関係じゃない、と思っていた。
友達として、ずっと仲良しでいられたらいい。それで十分だ、と。
そう思っていたはずなのに。 高校入学初日の朝、駅のホームで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
背が高くて、少し癖のある黒髪。ランドセルじゃなくてリュックになっても、そのシルエットは変わらなかった。
魁仁。
思わず声に出しそうになった。でもその前に、満員電車の波に押されて、体がふらついた。朝のラッシュは怖かった。押されて、知らない人の体が近くなって、どこにも逃げ場がない感じ。息が浅くなって、視界が少し狭くなった。
その時、魁仁が振り返った。
目が合った。
魁仁はすぐに人をかき分けてこちらに来て、美春の周りを囲うようにして立った。大きな体で、さりげなく、でもしっかりと守ってくれる形に。
美春はほっとして、深く息を吐いた。
「同じ制服……」
気づいてしまったら、声に出さずにいられなかった。
「魁仁、この制服って」
「ああ、同じ学校らしいな。今日からよろしくな」
魁仁はさらっと言った。まるで当然のことみたいに。
「わぁ〜、すごい偶然だなぁ」
美春はまた笑った。心から嬉しくて、満面の笑みで。
でも、魁仁はその時、少しだけ目を逸らした。
美春は気づかなかった。その横顔が、かすかに赤くなっていたことに。
魁仁は、ずっと片想いしていた。
美春を初めて見た時のことは、今でも鮮明に覚えている。小学一年生の春、入学式の日だった。体育館に並んだ新一年生の中に、長い髪をツインテールにした女の子がいた。
きょろきょろしていた。
知らない場所、知らない人、知らない空気。その中で、小さな体が少し緊張しながら、それでも一生懸命に周りを見ていた。
魁仁はその子を見た瞬間、思った。
この子は俺が守ると。
言葉にすれば単純だけど、その時の感覚は言葉より先にあった。胸がぎゅっとなって、目が離せなくて、気づいたら隣に近づいていた。 お姫様みたいだと思った。
髪の毛が長くて綺麗で、ぽわんとした顔をしていた。丸い目が、愛犬みたいで、見ているだけで心がほぐれる。ただの一年生の女の子なのに、魁仁の目にはそう映った。
どうしよう、なんかぎゅうってしたくなるんだけど、愛犬とは違う生き物だからさ。
そんなことを、小学生の頃からずっと考えていた。変な話だと自分でもわかっていたけど、美春を見るたびにそう思ってしまう。触ったら壊れてしまうんじゃないかという気がして、でもそっとしておくのも違う気がして、いつも少し不思議な気持ちになった。
喧嘩は強かった。
別に喧嘩が好きなわけじゃない。でも、美春を守る場面になると、体が勝手に動いた。守る気持ちが、魁仁を強くしていた気がする。誰かのために怒れる時、人は強くなれるんだと、子どもながらに知っていた。
からかいに来る男の子たちは、魁仁の顔を見ると逃げた。理由はよくわからなかったけど、たぶん目の色が違ったんだと思う。冗談じゃなくて本気だ、ということが伝わっていたんだろう。
小中とずっと、美春の近くにいた。
通学路が一緒だから、という理由で自然にそうなっていたけど、本当は、それだけじゃなかった。
中学三年生の秋。進路を考える時期になった。
魁仁の頭の中に、一番最初に浮かんだのは自分の将来じゃなくて、美春のことだった。美春はどの高校に行くんだろう。同じ高校に行けたら。でも、どこに行くかなんて、聞けるわけがない。なんで聞くんだ、という話になる。好きだから、とは言えない。
悩んだ末に、魁仁は職員室に行った。
進路指導の河野先生の机の前に立って、単刀直入に言った。
「三組の美春の進学先、教えてもらえませんか」
河野先生は眼鏡の奥の目を細めた。
「個人の情報だからな。魁仁がどんなに信頼できる人間だからって、こればっかりはなあ。なんで本人に聞かないんだ」
もっともな話だった。ぐうの音も出ない。でも説明するのは難しい。好きな子の進学先を知りたいから、なんて言えるわけがない。
みるみるうちに、魁仁の顔が真っ赤になった。
河野先生はそれを見て、すぐに察した。長年教師をやっていれば、これくらいはすぐにわかる。
「そうか、なるほどな」
「何がなるほどなんですか」
魁仁は首を傾げた。まさか胸の内を読まれたとは思っていない。
「河野先生、お願いします。俺の進路先にするから」
河野先生は少しの間、魁仁の顔を見てから、ゆっくりと引き出しを開けた。束になったプリントを取り出して、ペラペラとめくり始める。
「うーんと、三組の進路調査はこれだったかな。あれ、一枚足りない気がするぞ。美春の後ろの席の生徒は誰だったかな。ちょっと見てくるか」
河野先生はそう言って、席を立った。
「魁仁、ここ守っててくれ。すぐ戻るから」
魁仁は一人、職員室に残された。
机の上に置かれたプリントの束。魁仁はゆっくりと覗き込んだ。
見慣れた字が目に飛び込んできた。
丸くて、少し右に傾いた字。小学校の頃から変わらない、美春の字だった。
進学先の高校名が書いてある。
美春の名前。美春の字。美春の進学先。
魁仁の心臓が、大きく跳ねた。
この高校なら、入れる。自分の成績なら、十分届く。というか、本来もっと上を狙えるくらいだったけど、そんなことはどうでもよかった。美春と同じ高校に行ける。それだけが、全てだった。
舞い上がる気持ちを抑えられなくて、今にも空を飛んでしまいそうだった。職員室の天井が、やけに高く見えた。
扉が開いて、河野先生が戻って来た。
魁仁はパァっと笑顔になって、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
そのまま、職員室の外へ飛び出して行く。廊下を走っていいのは小学校までだと知っていたけど、足が止まらなかった。
河野先生は去っていく魁仁の背中を見送りながら、一人で苦笑した。
青春小僧め。
そう心の中で呟いて、また手元のプリントに目を戻した。窓の外では、今日もどこかで誰かが、誰かのことを一生懸命に想っているのだろう。教師という仕事をしていると、そういうものをたくさん見てきた。でも、これほど真っ直ぐなのは、久しぶりに見た気がした。
魁仁は廊下の角を曲がって、もう見えなくなっていた。
たぶんまだ、笑いながら走っているんだろうと、河野先生は思った。
第二章 夕焼けのホームで、君に追いついた
放課後の教室は、少しずつ人が減っていく。
残っているのは、部活の準備をしている生徒や、友達とだらだらと話し込んでいる生徒、それから黒板の前で明日の予定を書き直している日直くらいのものだ。窓の外は、少しだけオレンジ色に染まり始めていた。まだ夕焼けというには早くて、でも昼間の白さはもうない。そういう、一日の中でいちばん曖昧な色。
美春は鞄に教科書を詰めながら、なるべく何も考えないようにしていた。
でも、うまくいかなかった。
「美春、今日一緒に帰る?」
いつも通りの声だった。
隣の席から、いつも通りの距離で。いつも通りの、少し低くて穏やかな声で。魁仁はそう言った。
なのに。
「ごめん、今日はちょっと……先に帰るね」
自分でも驚くくらい、そっけない声が出た。
言ってしまってから、しまった、と思った。別に怒っているわけじゃない。魁仁が悪いわけでも、何かあったわけでもない。ただ、今日は一人でいたかった。一人で考えたかった。でも、こんな言い方をしたら、魁仁が傷つくかもしれない。
「え、ああ……そっか」
魁仁は少しだけ目を丸くして、それからすぐにいつもの表情に戻った。何かを察したのか、それとも気にしていないのか、美春にはわからなかった。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
それだけ言って、美春は教室を出た。
扉を閉めた瞬間、どっと疲れが来た気がした。廊下はもう薄暗くなっていて、窓から差し込むオレンジの光が床に長く伸びている。美春はその光を踏みながら、階段へと向かった。
――どうして、あんな言い方したんだろう。
階段を一段ずつ降りながら、胸の奥がきゅっと痛む。
意地悪なつもりはなかった。冷たくしたいわけでもなかった。ただ、うまく笑えなかった。いつも通りに「うん、帰ろう」と言えなかった。それだけのことなのに、なぜか言えなかった。
昼休みのことが、頭から離れなかった。
廊下を歩いていた時だった。何気なく前を向いたら、魁仁がいた。クラスの女の子と話していた。名前は知っている。明るくて、話しやすそうな子だ。魁仁は笑っていた。楽しそうで、やさしそうで、自分が知っている"魁仁"と同じ顔で。
それなのに。
どうしてか、少しだけ遠く感じた。
景色の中に馴染みのある人がいるのに、自分だけガラスの向こうから見ているみたいな、奇妙な感覚だった。魁仁はすごく自然に笑っていて、自分は廊下の端で足を止めて、それを見ていた。
声をかけることができなかった。なぜかはわからなかった。ただ、足が動かなかった。
ああ、そっか。
階段の途中で、美春は立ち止まった。
ずっとそばにいた理由に、やっと気づいた。
安心できたから、そばにいたいと思っていた。守ってもらえたから、隣にいると嬉しかった。でもそれだけじゃなかった。魁仁のことが好きだった。たぶんずっと前から、ずっと好きだったのに、それを「安心」という言葉に包んで、気づかないふりをしていた。
あの優しさは、誰にでも向けられるものじゃないはずだと、どこかで思っていた。私のためのものだと、勝手に信じていた。
だから今日、魁仁がほかの誰かに向けているのと同じ顔を見て、胸が痛くなった。
守られていたのは、私のほうだったのかもしれない。
そして私はずっと、守られることに慣れすぎていた。魁仁の優しさを当たり前みたいに受け取って、それが自分だけのものだと勘違いしていた。
だから――こんなに、胸が苦しくなるんだ。
この気持ちは、いつから"好き"になっていたんだろう。
ツインテールを引っ張られた日に、魁仁が助けてくれた時から?
帰り道、並んで歩きながら笑った時から?
満員電車の中で、体を囲うように守ってくれた時から?
全部だったのかもしれない。全部の積み重ねが、今日ここで溢れ出した。
美春は下唇をそっと噛んで、また歩き始めた。
その頃、教室では。
「……なんか、変だったな」
魁仁は窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。 美春の後ろ姿が、頭から離れない。扉が閉まる瞬間まで見ていた。普通の後ろ姿だった。でも、何かが違った。美春はいつも、少しだけ振り返って笑う。行ってきますみたいな顔で。今日はそれがなかった。
いつもなら、少しでも一緒に帰ろうとするのに。
今日は、どこか避けられた気がした。
魁仁はそのまま椅子に座って、机に肘をついた。自分が何かしたのか、必死に思い返す。
朝も普通だった。電車の中でも、一言二言話した。授業中も特に変わったことはなかった。
――昼。
「あー……あれか?」
声に出してしまってから、魁仁は苦笑した。
昼休み、廊下でクラスの女子に話しかけられた。文化祭の実行委員のことで、少し確認したいことがあると言われて、立ち話をした。ただそれだけだった。用件が済んだら終わり、という感じで、他意は何もなかった。
でも、もし。
もし美春が、それを見ていたなら。
魁仁はゆっくりと立ち上がって、窓の外を見た。空はもうオレンジ色になっていた。雲が少しだけ赤くなっている。
「はは……俺、分かりやすすぎだろ」
頭をかきながら、小さく笑った。
ずっと、守ることばかり考えてきた。美春が困っていたら助ける、悲しそうなら声をかける、怖そうなら隣に立つ。それが自分の役割だと思っていたし、それだけでいいと思っていた。
でも。
それじゃ、足りないのかもしれない。
守るだけじゃなくて、ちゃんと伝えないと。美春が悲しい顔をした理由を、魁仁は正確にはわからない。でも、何かが刺さったのなら、それをそのままにしておきたくなかった。
好きだ、と思い続けてきた。小学一年生の時から、ずっと。言葉にしたことは一度もなかった。言えるわけがないと思っていた。でも今日みたいに、美春が一人で抱えて帰ってしまうくらいなら。
「……逃げてる場合じゃねえな」
鞄を掴んで、教室を飛び出した。
廊下を走った。階段を駆け下りた。昇降口で靴を引っかけるように履き替えて、そのまま学校の門を出た。美春が先に出たのは数分前だ。急げば追いつけるかもしれない。
夕方の通学路は、帰宅する生徒たちでにぎやかだった。魁仁はその中を、人をかき分けるようにして走った。美春は歩いて帰る時、いつも少し下を向いて歩く癖がある。人混みが苦手だから、なるべく端を歩く。魁仁はそれを知っていた。
でも、通学路には見当たらなかった。
駅だ、と思った。
もう電車に乗ろうとしているかもしれない。魁仁は駅の入口まで走った。
夕焼けと、帰宅ラッシュのざわめき。
駅のホームは、帰宅する人々でごった返していた。スーツ姿の大人たち、買い物袋を持った人、制服姿の学生たち。美春はその人混みの中で、少しだけ小さくなっていた。
端の方に立って、ぼんやりと線路を見ていた。電車はまだ来ていない。ホームのアナウンスが遠く聞こえる。こういう場所は苦手だった。でも今は、あまり気にならなかった。頭の中が、別のことでいっぱいだったから。
「美春!」
聞き慣れた声に、びくっと肩が揺れた。
振り向くと、息を切らした魁仁が立っていた。前髪が少し乱れていて、呼吸が整っていなかった。走ってきたのだと、すぐにわかった。 「なんで……」
「なんでじゃねえよ。探した」
少しだけ乱れた呼吸のまま、まっすぐにこちらを見る。怒っているわけじゃない。ただ、真剣だった。魁仁はいつもこういう時、真剣な顔をする。冗談じゃない、という顔。
その目に、昔から変わらない色を見つけて、胸がぎゅっとなった。
「今日さ、なんか変だったから」
「……別に」
「別にじゃねえだろ」
一歩、近づいてくる。満員電車の中で守ってくれた時と同じ距離になった。でも今は、少し違う。あの時は人混みから守ってくれていた。今は、美春の顔を見ようとしている。
「俺、なんかしたなら言えよ」
「してないよ」
「じゃあなんで避けた」
美春は言葉に詰まった。
言えない。こんな理由。昼休みに魁仁が女の子と話しているのを見て、胸が苦しくなった、なんて。そんなことを言ったら、みっともない。自分でもまだ整理できていないのに。
でも、沈黙はそれ自体が答えになってしまう。
「……見たの」
気がついたら、口が動いていた。
「何を」
「昼休み……魁仁が、女の子と話してるとこ」
一瞬、沈黙が落ちた。
ホームのざわめきが、やけに大きく聞こえた。それからアナウンスが流れて、また静かになった。
「……ああ」
魁仁は少しだけ、困ったように笑った。
「それでか」
「別に、いいんだよ。誰と話してても」
言いながら、自分でもわかった。これは強がりだ。全然よくない。よくないから、教室を早く出たし、一人で帰ろうとしたんだ。
「よくねえよ」
即答だった。
驚いて顔を上げた。魁仁はまっすぐにこちらを見ていた。困ったように笑っていたのに、目は笑っていなかった。真剣な目だった。
「よくねえ。美春がそんな顔するくらいなら」
その言葉に、胸が揺れた。
そんな顔、とはどんな顔だったんだろう。自分では気づいていなかった。でも魁仁には見えていた。美春が感じていた苦しさを、言葉にもなっていないうちから、魁仁は見ていた。
「俺はさ」
魁仁は少しだけ、言葉を探すように視線を逸らした。線路の方を見て、それからもう一度、美春の目を見た。逃げずに、戻ってきた。
「ずっと、お前だけ見てきたんだよ」
時間が、止まったみたいだった。
ざわめきも、電車の音も、アナウンスの声も、全部が遠くなった。魁仁の声だけが、はっきりと聞こえた。
「守りたいって思ってたし、それは今も変わらないけど」
一歩、また近づいてくる。
「それだけじゃねえんだよ、もう」
目が、合う。
逃げられない。逃げたくない。
「好きなんだよ。美春のこと」
世界が、静かになった。
胸の奥で、何かがほどけていくのがわかった。ずっと固く結んでいたものが、一本一本ほぐれていく。ああ、やっぱり。私は。この人が、好きなんだ。ずっと前から。ずっとずっと、前から。
ぽろり、と涙が落ちた。
自分でも驚いた。泣くつもりはなかった。でも止まらなかった。嬉しいのに涙が出るというのは、本当にあるんだ、と思った。
「なんで泣くんだよ……」
魁仁が困ったように笑った。でも、その目はやさしかった。あの日、親指で涙を拭ってくれた時と同じ目をしていた。
美春は少しだけ笑って、鼻声で言った。 「……うれしいから」
魁仁は何も言わなかった。ただ、美春の頭にそっと手を乗せた。昔みたいに、ただ守るというよりも、もっと近くに引き寄せるみたいに。 夕焼けの中、ふたりの距離はもう、昔みたいに"守るだけ"じゃなくなっていた。
ホームに電車が入ってきた。がたんという音がして、風が吹いた。美春の髪が揺れた。魁仁は隣に立っていた。いつも通りの場所に。でも、いつもとは違う意味で。
電車の扉が開いて、人が降りてくる。乗り込む人々の流れの中で、ふたりは並んで乗り込んだ。
つり革を掴んだ魁仁の隣で、美春は窓の外を見た。駅が離れていく。オレンジ色の空が流れていく。
胸の中は、まだ少しじんとしていた。
でも、もうさっきみたいな重さはなかった。
隣に、魁仁がいる。それだけで、世界が少し明るく見えた。昔からずっとそうだったけど、今日からは、その理由をちゃんと知っている。
第三章 約束になるまでの、七日間
電車を降りると、辺りはもうすっかり夕暮れだった。
空の色が、オレンジから紫へと変わりかけている時間。美春と魁仁は、駅の改札を出て、いつもの帰り道を歩き始めた。手はもう、繋いだままだった。
どちらからともなく、そうなっていた。
改札を出る瞬間、離すのが自然な流れだったはずなのに、どちらも手を離さなかった。美春は少しだけそれを意識して、頬が熱くなるのを感じた。魁仁も同じだったのか、少しだけ歩調が乱れていた。
商店街の明かりが、少しずつ灯り始めている。魚屋のおじさんが看板をしまい始めていて、花屋の店先には、売れ残った花が桶に生けられたままになっていた。美春はその花を横目で見ながら、ふと、魁仁の手のひらの感触に意識を戻した。
温かかった。
それだけのことなのに、心臓がずっとどきどきしていた。
「……あのさ」
沈黙を破ったのは、魁仁だった。
「ん?」
「これから、どうする?」
美春は一瞬、言われている意味がわからなかった。首を傾げると、魁仁は少し慌てたように続けた。
「いや、その、明日からとか……学校でどう接すればいいのかなって」
ああ、そういうことか、と美春は思った。確かに、明日からどうすればいいのか、美春にもわからなかった。今日、魁仁は好きだと言ってくれた。美春もうれしいと答えた。でもそれは、付き合うという意味なのか、まだ確認していない。
「……付き合う、ってこと、なのかな」
美春が恐る恐る聞くと、魁仁は足を止めた。
「え、それは……美春が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ」
即答だった。自分でも驚くくらい、早く言葉が出た。
「じゃあ」
魁仁が少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。
「よかった」
それだけだった。特別な儀式も、大げさな言葉もなかった。ただ、繋いだ手をもう一度、少し強く握り直しただけ。でもそれで、ふたりの間に何かが確かに変わったことが、美春にはわかった。
付き合うことになったからといって、何かが劇的に変わるわけではなかった。
次の日の朝、美春はいつも通りに電車に乗った。魁仁もいつも通りにホームにいた。でも、目が合った瞬間、どちらも少しだけぎこちなく笑ってしまった。
「おはよう」
「お、おはよう」
声が少しだけ上ずった。魁仁も同じように、少し緊張した顔をしていた。付き合う前と、何が違うんだろう、と美春は思った。関係性は変わったはずなのに、今までと同じように挨拶をして、同じ電車に乗って、同じ学校に向かう。それなのに、隣に立つだけで、心臓の音が違う。
教室に着いても、それは同じだった。
いつもの席に座って、いつも通りに授業を受ける。でも、休み時間に魁仁がこちらを見るたびに、美春は目を逸らしてしまった。魁仁も同じように、目が合うと少し照れたように視線を外す。
「なんか、変な感じだな」
昼休み、魁仁がぽつりと言った。
「うん……なんでだろう」
「昨日までと同じはずなのに」
言われて、美春は思わず笑ってしまった。
「私も同じこと思ってた」
「だよな」
魁仁も笑った。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。ふたりとも、同じようにぎこちなくて、同じように戸惑っている。それがわかっただけで、なんだか安心した。
それから数日、少しずつ、少しずつ、距離は変わっていった。
一気に何かが変わるわけじゃなかった。でも、確実に何かが変わっていくのが、美春にもわかった。
例えば、帰り道。前は少し離れて歩いていたのが、いつの間にか肩が触れるくらいの距離になっていた。誰かが意識して縮めたわけじゃない。ただ、自然と、そうなっていった。
例えば、教室での会話。前は当たり障りのない話が多かったのに、少しずつ、魁仁が美春の些細な変化に気づくようになった。
「今日、髪型変えた?」
「え、わかる?」
「わかるよ。似合ってる」
さらっと言われて、美春は顔が赤くなるのを感じた。前の魁仁なら、こんな風には言わなかった気がする。気づいても、言葉にするのを照れくさがっていたはずだ。
例えば、放課後。魁仁が用事もないのに、美春の教室の前で待っていることが増えた。
「今日も待っててくれたの?」
「いや、たまたま通りかかっただけだし」
嘘だとすぐにわかる言い訳をして、魁仁は少し赤くなった。美春はそれがおかしくて、くすっと笑ってしまう。
小さな変化の積み重ねだった。ひとつひとつは些細なことなのに、それが毎日少しずつ重なっていくと、確かに何かが違っていく。ふたりの間にあった透明な壁が、少しずつ薄くなっていくような感覚だった。
でも、まだ完全にはなくなっていない。
手を繋ぐことはあっても、それ以上の距離の縮め方が、まだよくわからない。付き合っているというのは、具体的に何をすればいいんだろう。美春はそんなことを考えながら、毎日を過ごしていた。
金曜日の放課後だった。
教室に残っているのは、美春と魁仁だけになっていた。窓の外は、今日もオレンジ色に染まり始めている。美春は鞄に教科書をしまいながら、隣の席の魁仁をちらりと見た。
魁仁は何か言いたそうな顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや……その」
魁仁は珍しく、言葉に詰まっていた。喧嘩の時も、告白の時も、いつもまっすぐに言葉を出してきた魁仁が、今日は違った。何度か口を開きかけては、また閉じる。
美春は黙って待った。急かすことはしたくなかった。
「あのさ」
ようやく、魁仁が口を開いた。
「今度の休み、空いてる?」
思いがけない質問に、美春は少し瞬きをした。
「うん、空いてるけど……」
「その、よかったら」
魁仁は頬を少しだけ赤くしながら、視線を窓の外に逃がした。
「一緒に、どこか行かないか」
美春は、心臓が跳ねるのを感じた。
「それって……」
「デート、みたいな」
最後の一言は、消え入りそうな声だった。魁仁がこんなに照れているのを見るのは、久しぶりだった。いや、もしかしたら初めてかもしれない。喧嘩の時も堂々としていた魁仁が、こんな些細なことでこんなに緊張している。
それがなんだか、可笑しくて、愛おしかった。
美春は思わず笑ってしまった。
「な、なんで笑うんだよ」
「ごめん、ごめん」
美春は口元を押さえながら、それでも笑いが止まらなかった。
「魁仁が、こんなに照れてるの、なんか新鮮で」
「……悪いか」
少し拗ねたような声。それがまたおかしくて、美春はもう一度笑った。
「ううん、嬉しい」
笑いを収めて、美春は魁仁をまっすぐに見た。
「行きたい。一緒に」
魁仁の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、どこ行きたいとかある?」
美春は少し考えた。特にこれといった行きたい場所は思い浮かばなかった。魁仁と一緒なら、どこでもいい、というのが本音だった。
「魁仁は、行きたいところある?」
「俺は……その、モールとか、どうかなって。映画とか見て」
「いいね。行こう」
あっさりと決まってしまった約束だったけど、その軽さが、なんだかふたりらしいと思った。特別な計画も、気の利いた提案もいらない。ただ、一緒にいたいという気持ちだけで、十分だった。
「じゃあ、日曜日な」
「うん、楽しみにしてる」
美春はそう言って、微笑んだ。
窓の外の夕焼けが、教室の中まで橙色に染めていた。魁仁の顔も、美春の顔も、同じ色に染まっている。ふたりの影が、床の上で少しだけ重なっていた。
その夜、美春は自分の部屋のベッドに寝転がりながら、今日のことを何度も思い返していた。
魁仁がデートに誘ってくれた。あの、いつも堂々としていて、まっすぐで、強い魁仁が、あんなに照れながら誘ってくれた。それがなんだか、たまらなく愛おしかった。
スマホを手に取って、明日着ていく服のことを考える。何を着ていけばいいんだろう。特別におしゃれをしすぎるのも変な気がするし、かといって普段着すぎるのも、なんだか味気ない気がする。
鏡の前に立って、クローゼットを開けてみたけれど、なかなか決まらなかった。結局、いくつかの候補を並べて、明日もう一度考えることにした。
布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。目を閉じると、魁仁の照れた顔が浮かんでくる。手を繋いだ時の温かさも、まだ手のひらに残っているような気がした。
守られていたはずの自分が、いつの間にか、魁仁を見て胸をときめかせている。
――付き合うって、こういうことなんだ。
美春は布団の中で、小さく笑った。
明日からの日々が、少しだけ楽しみで、少しだけ怖くて、でもそれ以上に、待ち遠しかった。
窓の外には、細い三日月が浮かんでいた。
この町のどこかで、魁仁も同じ月を見ているだろうか。美春はそんなことを考えながら、いつの間にか眠りについていた。
第四章 触れるか、触れないかの距離で
休日の駅前は、平日とは少し違う顔をしている。
急ぎ足のサラリーマンも、通学する学生もいない。代わりに、買い物袋を持った家族連れや、友人同士でおしゃべりしながら歩くグループが、のんびりとした空気を作り出していた。五月の陽気は穏やかで、風は少しだけ甘い匂いがした。どこかの花壇に花が咲いているのかもしれない。
美春は駅前の広場の端に立って、自分の指先を見つめていた。
「……早すぎたかも」
小さく息を吐く。待ち合わせの時間まで、まだ十分以上ある。家を出る時、ちょうどいい時間を計算したつもりだったのに、気持ちが先走ってしまった。早く来すぎた理由は、自分でもわかっていた。落ち着かなかったのだ。家にいると、金曜日の教室でのことばかり思い出してしまって、じっとしていられなかった。
魁仁が誘ってくれた時の、あの照れた顔。 何度も何度も、頭の中で繰り返される。付き合い始めてからの一週間、少しずつ距離が縮まっていくのを感じながら、それでもまだどこか実感が持てずにいた。今日、初めての「デート」で、それが本当のことなんだと、確かめられる気がした。
「……どうしよう」
誰に言うわけでもなく、呟いた。
どんな顔で会えばいいんだろう。何を話せばいいんだろう。付き合ってからの一週間は、学校という慣れた場所での出来事だった。でも今日は違う。ふたりだけで、休日に、どこかへ出かける。それだけで、なんだか特別なことのように感じられた。
顔が熱くなるのを感じて、美春は両手でそっと頬を押さえた。
そのとき。
「美春」
呼ばれて、びくっと肩が揺れた。
振り向くと、魁仁が立っていた。少し息が上がっているわけでもなく、かといって余裕たっぷりというわけでもなく、ただそこに立っていた。いつもの私服で、いつものリュックで、いつもの魁仁なのに。
「……おはよう」
「お、おはよう」
一瞬、目が合って、すぐに逸らした。
沈黙が落ちた。
五秒か、十秒か。どちらも何も言わない。広場のざわめきが、やけにはっきりと聞こえた。子どもの笑い声、鳩が羽を打つ音、どこかで流れている店の音楽。
……気まずい。
金曜日まで、あんなに自然だったのに。朝の電車でも、教室でも、帰り道でも、特に何も考えずにいられたのに。今は魁仁の存在が、全部の感覚に引っかかってくる。呼吸の仕方まで、なんとなくわからなくなる。
「その……待った?」
魁仁が先に口を開いた。
「ううん、今来たとこ」
嘘だと分かるくらい、声がぎこちなかった。十分以上待っていた。でも正直に言ったら、早く来すぎた理由を説明しなければならない気がして、それはもっと恥ずかしかった。
魁仁も、それに気づいているのか、少しだけ苦笑した。本当に今来たばかりなら、もう少し自然に言えるはずだと、たぶんわかっている。 「そっか」
また沈黙。
美春は視線の置き場所に困って、広場の鳩を見た。鳩はのんきにコンコンと歩いている。羨ましいような気持ちになった。何も考えず、ただ歩けたらいいのに。
――どうしよう、何話せばいいの。
付き合う前は話題に困ったことなんてなかった。魁仁が何かを言えば美春が笑って、美春が何かを言えば魁仁が笑って、それだけで十分だった。なのに今は、最初の一言が出てこない。 「……行くか」
魁仁が、少し照れくさそうに言った。目が合いそうになって、少しだけ視線を外しながら。 「うん」
並んで歩き出した。
でも、いつもより少しだけ距離がある。肩が触れそうで、触れない距離。前まではそんな距離を意識したことなんてなかった。でも今日は、そのわずかなすき間が、やけに意識される。どれくらい近ければいいのか、どれくらい離れるべきなのか、全然わからない。
触れそうで、触れない。そのもどかしさが、一歩歩くたびに積み重なっていった。
ショッピングモールの中は、休日らしい賑わいだった。
エントランスを入ると、甘い匂いがした。一階にベーカリーがあって、焼きたてのパンの香りが漂っている。週末の昼前、家族連れやカップルが思い思いのペースで歩いている。美春と魁仁もその流れに乗るように歩いたけれど、どこへ向かうともなく、ただ並んでいた。
「どこ行く?」
「えっと……」
美春は少し考えた。いつもなら、魁仁が自然にリードしてくれる。あっちに面白そうな店があるとか、腹減ったから何か食おうとか、そういう感じで歩き始めて、美春はそれについていく。でも今日は、魁仁もどこか遠慮しているみたいで、様子を見ているような感じだった。
「……映画、とか?」
美春が提案した。金曜日に約束していたことだった。
「お、いいな。何見る?」
「えっと……」
館内の案内板を見て、映画館の方向を確認して、エスカレーターに乗った。映画館のフロアに着くと、ポスターがいくつか並んでいた。アクション、ホラー、アニメーション、恋愛映画。美春はそれを眺めたけれど、内容が全然頭に入らなかった。
隣にいるだけで、意識が全部そっちにいってしまう。
魁仁が少し前に出て、ポスターを見ている。横顔を見ていた。見てしまっていた。付き合う前、何とも思わずに見ていたはずの顔なのに、今日は全然違う。魁仁が何かを見るたびに、魁仁が少し動くたびに、目が勝手についていってしまう。
「あ、これとかどう?」
魁仁が一枚のポスターを指さした。
「うん、いいと思う」
美春は即座に頷いた。
ほんとは、何でもよかった。どんな映画でも、どこに行っても。一緒にいられれば、それでよかった。でもそれを言えるわけがないので、うん、いいと思う、と言った。
チケットを買って、上映時間まで少し時間があったので、カフェで飲み物を買った。魁仁はアイスコーヒー、美春はカフェラテ。それを持って、ロビーのソファに並んで座った。
会話は、断続的だった。
天気の話、学校の話、他愛もない話。でも、いつもより言葉の数が少なかった。沈黙が来るたびに、どちらかが何かを言おうとして、少し間が空いて、ようやく言葉が出てくる。前はそんなことなかった。沈黙でも苦じゃなかった。ただ黙って並んでいることが、自然だった。
でも今は、沈黙が少しだけ重い。
それでも不思議と、嫌ではなかった。
映画館の暗闇は、独特の静けさを持っていた。
スクリーンの光だけが揺れていて、客席は薄暗い。美春と魁仁は隣同士の席に座った。肘掛けを挟んで、ほんの数十センチの距離。映画が始まると、場内がさらに暗くなった。
こんなに近いのに、触れられない。
腕が少し動くだけで、ぶつかりそうになる距離だった。美春は腕の置き場所を気にしながら、なるべく肘掛けの端の方に寄せていた。でも上映中、気を抜くと少しずつ戻ってきてしまう。そのたびに、びくっとしてしまう。
――こんなだったっけ。
前に映画を見たのはいつだっただろう。確か、中学の頃にクラスの何人かで見に行ったことがあって、その時も魁仁と隣の席だった気がする。その時は何も気にしなかった。ただスクリーンを見ていた。
今は、スクリーンよりも、隣の存在の方が大きい。
映画の内容は、アクションと恋愛が混ざったような話だった。主人公が誰かを守るシーンで、美春は少しだけ息を飲んだ。同じタイミングで、魁仁の体も少し動いた。
同じところで、同じように感じている。
それがわかるだけで、胸が温かくなった。ふたりでスクリーンを見ているのに、なんだか繋がっているような感じがする。感動的なシーンでは、魁仁が静かに息を吐くのがわかった。美春も同じように、息を吐いていた。
全部が、愛おしかった。
同じタイミングで息を飲むこと。同じシーンで少しだけ体が動くこと。暗闇の中で、隣にいること。どれも特別なことじゃないのに、今日の美春にはどれもが特別に感じられた。
でも、どうしていいかわからなくて。
美春はただ、前を向いていた。
映画が終わって、外に出た。
モールの中はさっきより人が増えていた。昼時に近い時間で、飲食店のフロアから、いい匂いが漂ってきていた。美春と魁仁は、人の流れに乗るように歩いた。
「……面白かったな」
魁仁が言った。
「う、うん」
またぎこちない。映画の感想を話せばいいのに、うまく言葉が続かない。少しだけ目が合って、ふたり同時に視線を外した。それからなんとなく笑い合ったけど、すぐに沈黙が戻った。
エスカレーターで下の階に降りながら、美春はぼんやりと考えていた。付き合う前は、もっと自然だったのに。何がそんなに変わったんだろう。魁仁は魁仁で、私は私で、場所だって同じモールで。
そのとき。
「……なあ」
魁仁が、ぽつりと言った。
エスカレーターを降りたところで、立ち止まる。美春も並んで立った。
「俺たちさ」
心臓が跳ねた。
「付き合う前と、何が違うんだろうな」
まっすぐな言葉だった。
考えてみれば、魁仁らしかった。気になることは、遠回しにしないで聞く。かといって、責めているわけじゃない。ただ、純粋に疑問に思っている、という感じの言い方。
美春は少しだけ考えた。
何が違うんだろう。ふたりの間に起きた出来事を考えれば、金曜日、魁仁が言葉にしてくれたこと。デートに誘ってくれたこと。それだけ。
それだけなのに、全部が違って見える。
美春は少しだけ考えてから、魁仁の方を向いて、小さく笑った。
「……たぶん」
「"好き"って分かっちゃったこと、かな」
言葉にすると、少しだけ恥ずかしかった。でも、不思議と逃げたくはなかった。言えてよかった、という気持ちの方が大きかった。
「前は、無意識だったけど」
「今は、全部意識しちゃう」
魁仁が、少しだけ目を見開いた。それからふっと笑った。照れているのか、安心しているのか、美春にはよくわからなかったけど、たぶん両方だった。
「……だよな」
同じ気持ちなんだ、とわかった。
魁仁も同じように、今日一日、全部を意識していたんだ。それだけで、少し安心する。自分だけじゃなかった、ということが。
「じゃあさ」
魁仁が、少しだけ照れながら言った。
「慣れてくしかねえな」
そう言って。
ほんの少しだけ、手を伸ばしてきた。
触れるか、触れないかの距離で止まる。美春の手の近くで、でも掴まずに、待っているみたいに。
どうしよう。
心臓の音がうるさい。モールのざわめきも、BGMも、何も聞こえないくらい、心臓の音だけがはっきりしている。
でも。
逃げたくない。
美春は、そっと自分の手を動かした。
指先が、触れた。
びくっと、ふたり同時に震えた。美春も、魁仁も。思わず笑いが出そうになるくらい、同じタイミングで。でも今度は、離さなかった。魁仁の手が、そっと美春の手を包んだ。
ぎこちなくて、少しだけ不格好な手のつなぎ方だった。どちらも、こういうことに慣れていなかった。でも、それがふたりにはちょうどよかった。完璧じゃなくていい。うまくなくていい。今のふたりには、これがちょうどよかった。
「……あったかいな」
魁仁が、ぽつりと言った。
独り言みたいな、小さな声。でも、ちゃんと聞こえた。
「うん」
美春も、小さく頷いた。
手のひらから、魁仁の温かさが伝わってくる。体温というのは、こんなにも違うのか、と美春は思った。自分の手よりも、少し高い温度。それがじわじわと、指先から肩まで伝わってくるみたいだった。
守られていたのは、私のほうだったのかもしれない。
でも、これからは。
同じ歩幅で、隣にいたい。
ふたりはまた歩き始めた。さっきよりも、すき間がなくなっていた。人混みの中で、つないだ手が揺れる。魁仁の歩幅に合わせながら、美春は前を向いていた。
夕方の光がモールの窓から差し込んで、床に長い影を作っていた。ふたりの影が、少しだけ近づいて、重なって、また離れた。
歩くたびに、揺れる。
それがなんだか、おかしくて、愛しかった。
美春は小さく笑った。魁仁も気づいて、同じように笑った。理由を言わなくても、同じものが可笑しかった。それだけで、金曜日からずっと続いていた気まずさが、するりとほどけていった。
慣れていくしかない。
魁仁が言った通りだった。
うまくなくていい。ぎこちなくていい。ふたりで少しずつ、慣れていけばいい。
第五章 守られていたのは、私だけじゃなかった
六月に入って、空気が少しだけ湿り気を帯び始めていた。
梅雨の走りなのか、朝から雲が厚い日が続いている。今日もそうだった。放課後、教室の窓から見える空は、灰色がかった水色で、今にも雨が降り出しそうな気配があった。
美春は鞄を持って、いつものように教室を出る準備をしていた。魁仁は既に席を立って、窓の外を見ていた。心なしか、その背中がいつもより小さく見えた。
「魁仁、帰ろっか」
美春が声をかけると、魁仁は少し遅れて振り向いた。
「あ、ああ」
いつもと違う、間延びした返事だった。美春はそれに気づいたけれど、あえて何も言わずに、鞄を持って歩き出した。魁仁も隣に並んだ。
昇降口を出て、通学路を歩き始める。今日はいつもより、魁仁の口数が少なかった。美春が何か話しかけても、うん、とか、そうだな、とか、短い相槌ばかりが返ってくる。
商店街を抜けて、いつもの分かれ道の少し手前まで来た時だった。
「……なあ、美春」
魁仁が、ぽつりと言った。
「ん?」
「進路のこと、考えてるか?」
唐突な質問だった。美春は少し戸惑いながら、頷いた。
「うん、少しずつ。まだちゃんとは決めてないけど」
「そっか」
魁仁はそれだけ言って、また黙り込んだ。美春は横目でその様子を見た。いつもの魁仁なら、こういう話題でも、もっと軽い調子で話すはずだった。冗談を交えたり、美春の意見を聞いてきたり。でも今日は違う。何かを抱え込んでいるような、そんな表情だった。
「魁仁は、どうなの?」
美春が聞くと、魁仁は少し間を置いてから、口を開いた。
「俺さ……正直、まだ全然決まってないんだよ」
珍しい言葉だった。魁仁はいつも、何事にも迷いがないように見える人だった。喧嘩をする時も、美春を守る時も、まっすぐに突き進んでいく。その魁仁が、こんな風に弱音をこぼすのは初めてかもしれなかった。
「三者面談も近いし、先生にも、そろそろ具体的に決めろって言われてて」
魁仁は歩きながら、視線を地面に落としていた。
「周りはさ、もう決まってる奴も多いんだよ。医者になりたいとか、公務員になりたいとか、はっきり言えてる奴らがいて。それに比べて、俺は……何がしたいのか、正直よくわかんねえんだ」
声のトーンが、いつもより低かった。
「頭がいいわけでもないし、これといって得意なこともないし。強いて言えば、喧嘩が強いくらいで。それも別に、将来の役に立つわけじゃないしな」
自嘲するような笑い方だった。美春はその横顔を見ながら、胸の奥が少しきゅっとなるのを感じた。
「なんか、情けねえよな。ずっと美春のこと守るとか言っておいて、自分の将来もろくに決められてないんだから」
魁仁は苦笑した。でも、その笑い方には、いつもの余裕がなかった。
美春は少しの間、黙って考えた。
今までなら、こういう時、魁仁が先に言うはずだった。美春が不安な顔をしていたら、魁仁が「大丈夫」と言ってくれた。小学校の頃からずっと、そうだった。困った時、悲しい時、不安な時、魁仁が隣にいて、その一言で全部が軽くなった。
でも今回は、違う。
美春は足を止めた。魁仁も合わせて立ち止まる。
美春は魁仁の顔を見て、少しだけ笑った。
「大丈夫だよ」
魁仁が、驚いたように目を見開いた。
その一言だけだった。特別に気の利いた言葉でも、慰めの理屈でもない。ただ、大丈夫だよ、というだけ。でも、その言葉には、美春の中にある確かな気持ちが込められていた。
「……ありがとう」
魁仁は少しの間、何も言えないでいた。それから、ゆっくりと頷いた。
美春は少し照れながら、続けた。
「私だって、魁仁の力になりたいもん」
その言葉に、魁仁はまた、はっとしたような顔をした。
美春は続けた。
「魁仁がどんな道を選んでも、私は応援するよ。何になりたいか、まだわかんなくても、それでいいと思う。ゆっくり考えればいいよ」
自分の言葉が、うまく伝わっているのか、美春にはわからなかった。でも、心の中にあることを、そのまま口にしただけだった。魁仁がいつも自分にしてくれていたことを、今度は自分がしたいと思った。それだけだった。
「私、魁仁がいつも私を守ってくれてるの、ずっと感謝してる。でも、それって、魁仁一人が頑張ることじゃないと思うんだ」
美春は少し言葉を探しながら、続けた。
「私も、魁仁の隣にいたいから。だから、魁仁が不安な時は、私にも支えさせてよ」
魁仁は、しばらく黙っていた。
通学路の脇に立つ街路樹の葉が、風に揺れる音がした。遠くで、誰かの自転車のベルが鳴った。それだけの静かな時間が、ふたりの間に流れた。
やがて、魁仁が口を開いた。
「……今まで、俺が美春を守るって思ってた」
その声は、いつもより低く、でも柔らかかった。
「ずっとそう思って生きてきた。小学校の時からずっと。美春を守ることが、俺の役目みたいな気がしてた」
少し間が空いた。
美春は黙って、続きを待った。
「でも違った」
魁仁は、まっすぐに美春を見た。
「俺も、ずっと美春に支えられてた」
美春は、少し首をかしげた。意味がすぐには飲み込めなかった。自分が、魁仁を支えていた?
いつも守られてばかりだったのは、自分の方だと思っていたのに。
「美春がさ、笑ってくれるだけで、俺、なんか頑張れる気がしてたんだよ」
魁仁は、少しずつ言葉を紡いでいった。
「喧嘩する時も、美春を守るためって思ってたけど、本当は、美春が俺を見てくれてるから、頑張れてたのかもしれない。美春が隣にいてくれるだけで、俺、強くなれた気がしてたんだ」
美春は、何も言えなかった。ただ、魁仁の言葉を、じっと聞いていた。
「進路のことだって、正直まだ迷ってるけど。でも、美春が今、大丈夫って言ってくれただけで、なんか、少し楽になった」
魁仁は少し笑った。今度は、さっきの自嘲するような笑い方じゃなくて、もっと素直な笑顔だった。
「俺、美春のこと守りたいって、ずっと思ってきたけど。美春だって、俺のこと守ってくれてたんだな。今、初めて気づいた」
美春の胸の中で、何かが温かく満ちていくのを感じた。
守られる存在だと、ずっと思っていた。小学校の頃、涙を拭ってくれた魁仁の手。満員電車で囲ってくれた広い背中。夕焼けのホームで、まっすぐに好きだと言ってくれた声。全部、魁仁が与えてくれるものだと思っていた。
でも、魁仁は今、違う、と言った。
美春も、魁仁に何かを与えていたんだ。気づかないうちに、それがずっと続いていたんだ。
「……嬉しい」
美春はやっと、そう言葉にした。
「私が魁仁の力になれてたなら、嬉しい」
魁仁は頷いた。
「なれてたよ、ずっと」
ふたりはまた歩き出した。さっきまでの重い空気は、いつの間にか消えていた。代わりに、何か新しい確信のようなものが、ふたりの間に生まれていた。
「進路のこと、まだわかんないけど」
魁仁が、少し明るい声で言った。
「美春が応援してくれるなら、ちゃんと考えてみるよ。焦らず、自分に何ができるか」
「うん。私も一緒に考えるから」
「ああ」
魁仁は、美春の手をそっと握った。前よりも、少しだけ自然な握り方だった。ぎこちなさは、まだ少し残っていたけれど、それでも確かに、ふたりの手は寄り添っていた。
空はまだ灰色がかっていたけれど、雨は降っていなかった。むしろ、雲の切れ間から、少しだけ光が差し込んでいるように見えた。
美春はふと、思った。
ずっと、魁仁が守ってくれる人で、自分は守られる人だと思っていた。でも、魁仁はずっと、美春に守られてもいたのかもしれない。誰かの隣にそっと寄り添うことも、ちゃんと誰かを守る形のひとつなんだと、そんな気がした。
守る人と、寄り添う人。
でもそれは、一方通行の役割じゃなかった。魁仁が美春を守り、美春が魁仁に寄り添う。そしてまた、美春が魁仁を守り、魁仁が美春に寄り添う。
その優しさは、一方向だと思っていた。
でも本当は、ずっと前から、お互いの心を行き来していた。
どちらかが強くて、どちらかが弱いわけじゃない。どちらも、時に強く、時に弱い。だからこそ、支え合える。
「なあ、美春」
魁仁が、ふと言った。
「ん?」
「ありがとうな、今日」
美春は笑った。
「どういたしまして」
ふたりは、繋いだ手を少し揺らしながら、いつもの分かれ道まで歩いていった。空にはまだ雲が残っていたけれど、ふたりの間には、確かな晴れ間があった。
これからも、きっと。
魁仁が弱音をこぼす日もあれば、美春が不安になる日もあるだろう。でもそのたびに、どちらかが、大丈夫、と言ってあげられる。そういう関係に、ふたりはなっていた。
守る人と、守られる人。
その境界線は、もうどこにもなかった。
五月の風が、教室の窓から吹き込んでいた。
カーテンがふわりと揺れて、美春の髪をさらっていく。窓際の席に座っている美春は、その風を頬に受けながら、ぼんやりと外を眺めていた。グラウンドでは体育の授業が行われていて、男子たちの元気な声が遠く聞こえる。でも、美春の耳にはほとんど届いていなかった。
――どうしよう。
心の中で、また同じ言葉がぐるぐると回り始める。昨日の夜から、ずっとそうだった。布団に入っても眠れなくて、天井を見つめたまま朝を迎えてしまった。今朝は目の下にうっすらとクマができていて、洗面台の鏡を見てため息をついた。
ため息、またついてしまった。
意識しているわけじゃないのに、体が勝手に空気を押し出してしまう。気持ちが重たい時は、いつもそうだ。
「大丈夫、美春」
声をかけられて、美春は顔を上げた。
魁仁がいた。
隣の席から、少し身を乗り出すようにして、美春の顔を覗き込んでいる。心配そうな目をしていた。いつもまっすぐで、少しだけ眉が下がっている時の魁仁の顔。美春はその顔を見ると、どうしてだろう、胸のあたりがじわっと温かくなる。
「え」
思わずそれだけ言った。
「ため息ついたり、今日は元気ないみたいに見えるからさ」
魁仁は真剣な顔で言う。冗談を言っているわけじゃない、ということは、その声のトーンでわかった。魁仁はいつもそうだ。美春のことになると、真剣になる。
「大丈夫。ちょっと考えごとしてたの」
美春は少し微笑んで答えた。心配をかけたくなかった。それに、うまく言葉にできるほど、自分でも整理できていなかった。
「そっか。俺でできることがあったら、相談してくれよな」
魁仁はそう言って、ふっと笑った。押しつけがましくない、でもちゃんとそこにいてくれる、という感じの笑い方。
「うん。ありがとう、魁仁」
美春はそう答えながら、また窓の外に目を向けた。さっきまでと同じグラウンド、同じ青い空。でも、なんだか少しだけ、明るく見えた気がした。
いつもそう。
魁仁は私のことを気にかけてくれる。
誰かに見ていてもらえる、という感覚は、言葉にするのが難しい。別に何かをしてもらわなくていい。ただ、気にかけてもらえる、気づいてもらえる、それだけで十分だった。魁仁といると、安心する。空気みたいに、自然に、深く。
私が魁仁のことを特別だと思い始めたのは、いつからだろう。はっきりとした瞬間があったわけじゃない。でも思い返せば、小学校の頃からずっと、魁仁は私の隣にいてくれた。
小学校の登下校。私はよく男の子にからかわれた。
今にして思えば、私が真っ直ぐに反応しすぎるからかもしれない。嫌だと思ったことはそのまま顔に出てしまうし、怖いと思えば逃げてしまうし、逃げれば追いかけてくることも、当時の私にはわからなかった。反応が面白いから、もっとからかいたくなる。子どもの悪意というのは、時として底なしだ。
あの頃、私は長い髪の毛をツインテールにしていた。母がいつもそうしてくれていた。朝、椅子に座って、鏡の前で母に髪をとかしてもらう時間が好きだった。ゴムで二つに結んでもらう時、少しだけ引っ張られる感覚も、子どもながらに好きだった。
でもその髪が、男の子たちのターゲットになった。
触って、引っ張ろうとする男の子がいた。名前は覚えていない。顔も、もうぼんやりとしか思い出せない。ただ、嫌だった。すごく嫌だった。逃げ回った。でも逃げると、余計に楽しそうに追いかけてくる。泣きそうになりながら、でも泣いたらもっとからかわれると思って、唇をきゅっと噛んで走った。
もう、男の子なんて嫌い。
本当にそう思っていた。
魁仁を除いては。
ある日の下校時のことだった。また髪を引っ張られそうになって、私は逃げていた。息が上がって、もう限界、というところで。
「やめろよ、美春が嫌がってるじゃん」
低い声がした。
男の子にしては落ち着いた声で、でもちゃんと怒っている声だった。
魁仁だった。
ランドセルを背負って、腕を組んで、からかってきた男の子たちの前に立っていた。体は別に大きくなかった。でも、その立ち姿には、なんだか圧があった。
「わぁー、魁仁が来た。逃げろー」
男の子たちは笑いながら、でも本当に逃げていった。あっという間だった。
私は息を切らしながら、魁仁を見た。
涙が、出てきた。
怖かったわけじゃなくて、悔しかったわけでもなくて、ただほっとしたから。体の中にずっと張り詰めていたものが、すっと抜けていく感じ。その瞬間に涙が一粒、頬を伝った。
くすん、と私は鼻を鳴らした。
魁仁は何も言わなかった。ただ、親指をそっと私の頬に当てて、涙を拭ってくれた。
それだけだった。
それだけで、全部が許されてしまう気がした。
男の子たちへの怒りも、みっともなく逃げ回っていた恥ずかしさも、うまく助けを求められなかった情けなさも、全部。魁仁の親指一本で、消えてしまった。
本当に心から安心できる男の子なのだった。あの頃から、ずっと。
家の方角が同じだから、小学校も中学校も、よく通学路を一緒に歩いた。
魁仁の話はいつも面白かった。どうしてそんなことを考えるんだろう、という角度から物事を見ていて、私が気づかなかったことを教えてくれる。授業の話、先生の癖の話、帰り道で見つけた野良猫の話。どれも大した話じゃないのかもしれないけど、魁仁が話すと、なんだかとても豊かな時間に感じられた。
私はよく笑った。お腹が痛くなるくらい笑ったこともある。魁仁はそういう時、少し照れくさそうに笑う。その顔がまた好きで、もっと笑ってしまう。
中学三年生になって、進路を考え始めた頃、私は魁仁と別の高校に進むんだろうな、と何となく思っていた。別に確認したわけじゃない。ただ、なんとなく。魁仁は成績が良くて、私は普通で、行くところが違うのが自然なような気がしていた。
別れを惜しむほどの関係じゃない、と思っていた。
友達として、ずっと仲良しでいられたらいい。それで十分だ、と。
そう思っていたはずなのに。 高校入学初日の朝、駅のホームで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
背が高くて、少し癖のある黒髪。ランドセルじゃなくてリュックになっても、そのシルエットは変わらなかった。
魁仁。
思わず声に出しそうになった。でもその前に、満員電車の波に押されて、体がふらついた。朝のラッシュは怖かった。押されて、知らない人の体が近くなって、どこにも逃げ場がない感じ。息が浅くなって、視界が少し狭くなった。
その時、魁仁が振り返った。
目が合った。
魁仁はすぐに人をかき分けてこちらに来て、美春の周りを囲うようにして立った。大きな体で、さりげなく、でもしっかりと守ってくれる形に。
美春はほっとして、深く息を吐いた。
「同じ制服……」
気づいてしまったら、声に出さずにいられなかった。
「魁仁、この制服って」
「ああ、同じ学校らしいな。今日からよろしくな」
魁仁はさらっと言った。まるで当然のことみたいに。
「わぁ〜、すごい偶然だなぁ」
美春はまた笑った。心から嬉しくて、満面の笑みで。
でも、魁仁はその時、少しだけ目を逸らした。
美春は気づかなかった。その横顔が、かすかに赤くなっていたことに。
魁仁は、ずっと片想いしていた。
美春を初めて見た時のことは、今でも鮮明に覚えている。小学一年生の春、入学式の日だった。体育館に並んだ新一年生の中に、長い髪をツインテールにした女の子がいた。
きょろきょろしていた。
知らない場所、知らない人、知らない空気。その中で、小さな体が少し緊張しながら、それでも一生懸命に周りを見ていた。
魁仁はその子を見た瞬間、思った。
この子は俺が守ると。
言葉にすれば単純だけど、その時の感覚は言葉より先にあった。胸がぎゅっとなって、目が離せなくて、気づいたら隣に近づいていた。 お姫様みたいだと思った。
髪の毛が長くて綺麗で、ぽわんとした顔をしていた。丸い目が、愛犬みたいで、見ているだけで心がほぐれる。ただの一年生の女の子なのに、魁仁の目にはそう映った。
どうしよう、なんかぎゅうってしたくなるんだけど、愛犬とは違う生き物だからさ。
そんなことを、小学生の頃からずっと考えていた。変な話だと自分でもわかっていたけど、美春を見るたびにそう思ってしまう。触ったら壊れてしまうんじゃないかという気がして、でもそっとしておくのも違う気がして、いつも少し不思議な気持ちになった。
喧嘩は強かった。
別に喧嘩が好きなわけじゃない。でも、美春を守る場面になると、体が勝手に動いた。守る気持ちが、魁仁を強くしていた気がする。誰かのために怒れる時、人は強くなれるんだと、子どもながらに知っていた。
からかいに来る男の子たちは、魁仁の顔を見ると逃げた。理由はよくわからなかったけど、たぶん目の色が違ったんだと思う。冗談じゃなくて本気だ、ということが伝わっていたんだろう。
小中とずっと、美春の近くにいた。
通学路が一緒だから、という理由で自然にそうなっていたけど、本当は、それだけじゃなかった。
中学三年生の秋。進路を考える時期になった。
魁仁の頭の中に、一番最初に浮かんだのは自分の将来じゃなくて、美春のことだった。美春はどの高校に行くんだろう。同じ高校に行けたら。でも、どこに行くかなんて、聞けるわけがない。なんで聞くんだ、という話になる。好きだから、とは言えない。
悩んだ末に、魁仁は職員室に行った。
進路指導の河野先生の机の前に立って、単刀直入に言った。
「三組の美春の進学先、教えてもらえませんか」
河野先生は眼鏡の奥の目を細めた。
「個人の情報だからな。魁仁がどんなに信頼できる人間だからって、こればっかりはなあ。なんで本人に聞かないんだ」
もっともな話だった。ぐうの音も出ない。でも説明するのは難しい。好きな子の進学先を知りたいから、なんて言えるわけがない。
みるみるうちに、魁仁の顔が真っ赤になった。
河野先生はそれを見て、すぐに察した。長年教師をやっていれば、これくらいはすぐにわかる。
「そうか、なるほどな」
「何がなるほどなんですか」
魁仁は首を傾げた。まさか胸の内を読まれたとは思っていない。
「河野先生、お願いします。俺の進路先にするから」
河野先生は少しの間、魁仁の顔を見てから、ゆっくりと引き出しを開けた。束になったプリントを取り出して、ペラペラとめくり始める。
「うーんと、三組の進路調査はこれだったかな。あれ、一枚足りない気がするぞ。美春の後ろの席の生徒は誰だったかな。ちょっと見てくるか」
河野先生はそう言って、席を立った。
「魁仁、ここ守っててくれ。すぐ戻るから」
魁仁は一人、職員室に残された。
机の上に置かれたプリントの束。魁仁はゆっくりと覗き込んだ。
見慣れた字が目に飛び込んできた。
丸くて、少し右に傾いた字。小学校の頃から変わらない、美春の字だった。
進学先の高校名が書いてある。
美春の名前。美春の字。美春の進学先。
魁仁の心臓が、大きく跳ねた。
この高校なら、入れる。自分の成績なら、十分届く。というか、本来もっと上を狙えるくらいだったけど、そんなことはどうでもよかった。美春と同じ高校に行ける。それだけが、全てだった。
舞い上がる気持ちを抑えられなくて、今にも空を飛んでしまいそうだった。職員室の天井が、やけに高く見えた。
扉が開いて、河野先生が戻って来た。
魁仁はパァっと笑顔になって、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
そのまま、職員室の外へ飛び出して行く。廊下を走っていいのは小学校までだと知っていたけど、足が止まらなかった。
河野先生は去っていく魁仁の背中を見送りながら、一人で苦笑した。
青春小僧め。
そう心の中で呟いて、また手元のプリントに目を戻した。窓の外では、今日もどこかで誰かが、誰かのことを一生懸命に想っているのだろう。教師という仕事をしていると、そういうものをたくさん見てきた。でも、これほど真っ直ぐなのは、久しぶりに見た気がした。
魁仁は廊下の角を曲がって、もう見えなくなっていた。
たぶんまだ、笑いながら走っているんだろうと、河野先生は思った。
第二章 夕焼けのホームで、君に追いついた
放課後の教室は、少しずつ人が減っていく。
残っているのは、部活の準備をしている生徒や、友達とだらだらと話し込んでいる生徒、それから黒板の前で明日の予定を書き直している日直くらいのものだ。窓の外は、少しだけオレンジ色に染まり始めていた。まだ夕焼けというには早くて、でも昼間の白さはもうない。そういう、一日の中でいちばん曖昧な色。
美春は鞄に教科書を詰めながら、なるべく何も考えないようにしていた。
でも、うまくいかなかった。
「美春、今日一緒に帰る?」
いつも通りの声だった。
隣の席から、いつも通りの距離で。いつも通りの、少し低くて穏やかな声で。魁仁はそう言った。
なのに。
「ごめん、今日はちょっと……先に帰るね」
自分でも驚くくらい、そっけない声が出た。
言ってしまってから、しまった、と思った。別に怒っているわけじゃない。魁仁が悪いわけでも、何かあったわけでもない。ただ、今日は一人でいたかった。一人で考えたかった。でも、こんな言い方をしたら、魁仁が傷つくかもしれない。
「え、ああ……そっか」
魁仁は少しだけ目を丸くして、それからすぐにいつもの表情に戻った。何かを察したのか、それとも気にしていないのか、美春にはわからなかった。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
それだけ言って、美春は教室を出た。
扉を閉めた瞬間、どっと疲れが来た気がした。廊下はもう薄暗くなっていて、窓から差し込むオレンジの光が床に長く伸びている。美春はその光を踏みながら、階段へと向かった。
――どうして、あんな言い方したんだろう。
階段を一段ずつ降りながら、胸の奥がきゅっと痛む。
意地悪なつもりはなかった。冷たくしたいわけでもなかった。ただ、うまく笑えなかった。いつも通りに「うん、帰ろう」と言えなかった。それだけのことなのに、なぜか言えなかった。
昼休みのことが、頭から離れなかった。
廊下を歩いていた時だった。何気なく前を向いたら、魁仁がいた。クラスの女の子と話していた。名前は知っている。明るくて、話しやすそうな子だ。魁仁は笑っていた。楽しそうで、やさしそうで、自分が知っている"魁仁"と同じ顔で。
それなのに。
どうしてか、少しだけ遠く感じた。
景色の中に馴染みのある人がいるのに、自分だけガラスの向こうから見ているみたいな、奇妙な感覚だった。魁仁はすごく自然に笑っていて、自分は廊下の端で足を止めて、それを見ていた。
声をかけることができなかった。なぜかはわからなかった。ただ、足が動かなかった。
ああ、そっか。
階段の途中で、美春は立ち止まった。
ずっとそばにいた理由に、やっと気づいた。
安心できたから、そばにいたいと思っていた。守ってもらえたから、隣にいると嬉しかった。でもそれだけじゃなかった。魁仁のことが好きだった。たぶんずっと前から、ずっと好きだったのに、それを「安心」という言葉に包んで、気づかないふりをしていた。
あの優しさは、誰にでも向けられるものじゃないはずだと、どこかで思っていた。私のためのものだと、勝手に信じていた。
だから今日、魁仁がほかの誰かに向けているのと同じ顔を見て、胸が痛くなった。
守られていたのは、私のほうだったのかもしれない。
そして私はずっと、守られることに慣れすぎていた。魁仁の優しさを当たり前みたいに受け取って、それが自分だけのものだと勘違いしていた。
だから――こんなに、胸が苦しくなるんだ。
この気持ちは、いつから"好き"になっていたんだろう。
ツインテールを引っ張られた日に、魁仁が助けてくれた時から?
帰り道、並んで歩きながら笑った時から?
満員電車の中で、体を囲うように守ってくれた時から?
全部だったのかもしれない。全部の積み重ねが、今日ここで溢れ出した。
美春は下唇をそっと噛んで、また歩き始めた。
その頃、教室では。
「……なんか、変だったな」
魁仁は窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。 美春の後ろ姿が、頭から離れない。扉が閉まる瞬間まで見ていた。普通の後ろ姿だった。でも、何かが違った。美春はいつも、少しだけ振り返って笑う。行ってきますみたいな顔で。今日はそれがなかった。
いつもなら、少しでも一緒に帰ろうとするのに。
今日は、どこか避けられた気がした。
魁仁はそのまま椅子に座って、机に肘をついた。自分が何かしたのか、必死に思い返す。
朝も普通だった。電車の中でも、一言二言話した。授業中も特に変わったことはなかった。
――昼。
「あー……あれか?」
声に出してしまってから、魁仁は苦笑した。
昼休み、廊下でクラスの女子に話しかけられた。文化祭の実行委員のことで、少し確認したいことがあると言われて、立ち話をした。ただそれだけだった。用件が済んだら終わり、という感じで、他意は何もなかった。
でも、もし。
もし美春が、それを見ていたなら。
魁仁はゆっくりと立ち上がって、窓の外を見た。空はもうオレンジ色になっていた。雲が少しだけ赤くなっている。
「はは……俺、分かりやすすぎだろ」
頭をかきながら、小さく笑った。
ずっと、守ることばかり考えてきた。美春が困っていたら助ける、悲しそうなら声をかける、怖そうなら隣に立つ。それが自分の役割だと思っていたし、それだけでいいと思っていた。
でも。
それじゃ、足りないのかもしれない。
守るだけじゃなくて、ちゃんと伝えないと。美春が悲しい顔をした理由を、魁仁は正確にはわからない。でも、何かが刺さったのなら、それをそのままにしておきたくなかった。
好きだ、と思い続けてきた。小学一年生の時から、ずっと。言葉にしたことは一度もなかった。言えるわけがないと思っていた。でも今日みたいに、美春が一人で抱えて帰ってしまうくらいなら。
「……逃げてる場合じゃねえな」
鞄を掴んで、教室を飛び出した。
廊下を走った。階段を駆け下りた。昇降口で靴を引っかけるように履き替えて、そのまま学校の門を出た。美春が先に出たのは数分前だ。急げば追いつけるかもしれない。
夕方の通学路は、帰宅する生徒たちでにぎやかだった。魁仁はその中を、人をかき分けるようにして走った。美春は歩いて帰る時、いつも少し下を向いて歩く癖がある。人混みが苦手だから、なるべく端を歩く。魁仁はそれを知っていた。
でも、通学路には見当たらなかった。
駅だ、と思った。
もう電車に乗ろうとしているかもしれない。魁仁は駅の入口まで走った。
夕焼けと、帰宅ラッシュのざわめき。
駅のホームは、帰宅する人々でごった返していた。スーツ姿の大人たち、買い物袋を持った人、制服姿の学生たち。美春はその人混みの中で、少しだけ小さくなっていた。
端の方に立って、ぼんやりと線路を見ていた。電車はまだ来ていない。ホームのアナウンスが遠く聞こえる。こういう場所は苦手だった。でも今は、あまり気にならなかった。頭の中が、別のことでいっぱいだったから。
「美春!」
聞き慣れた声に、びくっと肩が揺れた。
振り向くと、息を切らした魁仁が立っていた。前髪が少し乱れていて、呼吸が整っていなかった。走ってきたのだと、すぐにわかった。 「なんで……」
「なんでじゃねえよ。探した」
少しだけ乱れた呼吸のまま、まっすぐにこちらを見る。怒っているわけじゃない。ただ、真剣だった。魁仁はいつもこういう時、真剣な顔をする。冗談じゃない、という顔。
その目に、昔から変わらない色を見つけて、胸がぎゅっとなった。
「今日さ、なんか変だったから」
「……別に」
「別にじゃねえだろ」
一歩、近づいてくる。満員電車の中で守ってくれた時と同じ距離になった。でも今は、少し違う。あの時は人混みから守ってくれていた。今は、美春の顔を見ようとしている。
「俺、なんかしたなら言えよ」
「してないよ」
「じゃあなんで避けた」
美春は言葉に詰まった。
言えない。こんな理由。昼休みに魁仁が女の子と話しているのを見て、胸が苦しくなった、なんて。そんなことを言ったら、みっともない。自分でもまだ整理できていないのに。
でも、沈黙はそれ自体が答えになってしまう。
「……見たの」
気がついたら、口が動いていた。
「何を」
「昼休み……魁仁が、女の子と話してるとこ」
一瞬、沈黙が落ちた。
ホームのざわめきが、やけに大きく聞こえた。それからアナウンスが流れて、また静かになった。
「……ああ」
魁仁は少しだけ、困ったように笑った。
「それでか」
「別に、いいんだよ。誰と話してても」
言いながら、自分でもわかった。これは強がりだ。全然よくない。よくないから、教室を早く出たし、一人で帰ろうとしたんだ。
「よくねえよ」
即答だった。
驚いて顔を上げた。魁仁はまっすぐにこちらを見ていた。困ったように笑っていたのに、目は笑っていなかった。真剣な目だった。
「よくねえ。美春がそんな顔するくらいなら」
その言葉に、胸が揺れた。
そんな顔、とはどんな顔だったんだろう。自分では気づいていなかった。でも魁仁には見えていた。美春が感じていた苦しさを、言葉にもなっていないうちから、魁仁は見ていた。
「俺はさ」
魁仁は少しだけ、言葉を探すように視線を逸らした。線路の方を見て、それからもう一度、美春の目を見た。逃げずに、戻ってきた。
「ずっと、お前だけ見てきたんだよ」
時間が、止まったみたいだった。
ざわめきも、電車の音も、アナウンスの声も、全部が遠くなった。魁仁の声だけが、はっきりと聞こえた。
「守りたいって思ってたし、それは今も変わらないけど」
一歩、また近づいてくる。
「それだけじゃねえんだよ、もう」
目が、合う。
逃げられない。逃げたくない。
「好きなんだよ。美春のこと」
世界が、静かになった。
胸の奥で、何かがほどけていくのがわかった。ずっと固く結んでいたものが、一本一本ほぐれていく。ああ、やっぱり。私は。この人が、好きなんだ。ずっと前から。ずっとずっと、前から。
ぽろり、と涙が落ちた。
自分でも驚いた。泣くつもりはなかった。でも止まらなかった。嬉しいのに涙が出るというのは、本当にあるんだ、と思った。
「なんで泣くんだよ……」
魁仁が困ったように笑った。でも、その目はやさしかった。あの日、親指で涙を拭ってくれた時と同じ目をしていた。
美春は少しだけ笑って、鼻声で言った。 「……うれしいから」
魁仁は何も言わなかった。ただ、美春の頭にそっと手を乗せた。昔みたいに、ただ守るというよりも、もっと近くに引き寄せるみたいに。 夕焼けの中、ふたりの距離はもう、昔みたいに"守るだけ"じゃなくなっていた。
ホームに電車が入ってきた。がたんという音がして、風が吹いた。美春の髪が揺れた。魁仁は隣に立っていた。いつも通りの場所に。でも、いつもとは違う意味で。
電車の扉が開いて、人が降りてくる。乗り込む人々の流れの中で、ふたりは並んで乗り込んだ。
つり革を掴んだ魁仁の隣で、美春は窓の外を見た。駅が離れていく。オレンジ色の空が流れていく。
胸の中は、まだ少しじんとしていた。
でも、もうさっきみたいな重さはなかった。
隣に、魁仁がいる。それだけで、世界が少し明るく見えた。昔からずっとそうだったけど、今日からは、その理由をちゃんと知っている。
第三章 約束になるまでの、七日間
電車を降りると、辺りはもうすっかり夕暮れだった。
空の色が、オレンジから紫へと変わりかけている時間。美春と魁仁は、駅の改札を出て、いつもの帰り道を歩き始めた。手はもう、繋いだままだった。
どちらからともなく、そうなっていた。
改札を出る瞬間、離すのが自然な流れだったはずなのに、どちらも手を離さなかった。美春は少しだけそれを意識して、頬が熱くなるのを感じた。魁仁も同じだったのか、少しだけ歩調が乱れていた。
商店街の明かりが、少しずつ灯り始めている。魚屋のおじさんが看板をしまい始めていて、花屋の店先には、売れ残った花が桶に生けられたままになっていた。美春はその花を横目で見ながら、ふと、魁仁の手のひらの感触に意識を戻した。
温かかった。
それだけのことなのに、心臓がずっとどきどきしていた。
「……あのさ」
沈黙を破ったのは、魁仁だった。
「ん?」
「これから、どうする?」
美春は一瞬、言われている意味がわからなかった。首を傾げると、魁仁は少し慌てたように続けた。
「いや、その、明日からとか……学校でどう接すればいいのかなって」
ああ、そういうことか、と美春は思った。確かに、明日からどうすればいいのか、美春にもわからなかった。今日、魁仁は好きだと言ってくれた。美春もうれしいと答えた。でもそれは、付き合うという意味なのか、まだ確認していない。
「……付き合う、ってこと、なのかな」
美春が恐る恐る聞くと、魁仁は足を止めた。
「え、それは……美春が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ」
即答だった。自分でも驚くくらい、早く言葉が出た。
「じゃあ」
魁仁が少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った。
「よかった」
それだけだった。特別な儀式も、大げさな言葉もなかった。ただ、繋いだ手をもう一度、少し強く握り直しただけ。でもそれで、ふたりの間に何かが確かに変わったことが、美春にはわかった。
付き合うことになったからといって、何かが劇的に変わるわけではなかった。
次の日の朝、美春はいつも通りに電車に乗った。魁仁もいつも通りにホームにいた。でも、目が合った瞬間、どちらも少しだけぎこちなく笑ってしまった。
「おはよう」
「お、おはよう」
声が少しだけ上ずった。魁仁も同じように、少し緊張した顔をしていた。付き合う前と、何が違うんだろう、と美春は思った。関係性は変わったはずなのに、今までと同じように挨拶をして、同じ電車に乗って、同じ学校に向かう。それなのに、隣に立つだけで、心臓の音が違う。
教室に着いても、それは同じだった。
いつもの席に座って、いつも通りに授業を受ける。でも、休み時間に魁仁がこちらを見るたびに、美春は目を逸らしてしまった。魁仁も同じように、目が合うと少し照れたように視線を外す。
「なんか、変な感じだな」
昼休み、魁仁がぽつりと言った。
「うん……なんでだろう」
「昨日までと同じはずなのに」
言われて、美春は思わず笑ってしまった。
「私も同じこと思ってた」
「だよな」
魁仁も笑った。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。ふたりとも、同じようにぎこちなくて、同じように戸惑っている。それがわかっただけで、なんだか安心した。
それから数日、少しずつ、少しずつ、距離は変わっていった。
一気に何かが変わるわけじゃなかった。でも、確実に何かが変わっていくのが、美春にもわかった。
例えば、帰り道。前は少し離れて歩いていたのが、いつの間にか肩が触れるくらいの距離になっていた。誰かが意識して縮めたわけじゃない。ただ、自然と、そうなっていった。
例えば、教室での会話。前は当たり障りのない話が多かったのに、少しずつ、魁仁が美春の些細な変化に気づくようになった。
「今日、髪型変えた?」
「え、わかる?」
「わかるよ。似合ってる」
さらっと言われて、美春は顔が赤くなるのを感じた。前の魁仁なら、こんな風には言わなかった気がする。気づいても、言葉にするのを照れくさがっていたはずだ。
例えば、放課後。魁仁が用事もないのに、美春の教室の前で待っていることが増えた。
「今日も待っててくれたの?」
「いや、たまたま通りかかっただけだし」
嘘だとすぐにわかる言い訳をして、魁仁は少し赤くなった。美春はそれがおかしくて、くすっと笑ってしまう。
小さな変化の積み重ねだった。ひとつひとつは些細なことなのに、それが毎日少しずつ重なっていくと、確かに何かが違っていく。ふたりの間にあった透明な壁が、少しずつ薄くなっていくような感覚だった。
でも、まだ完全にはなくなっていない。
手を繋ぐことはあっても、それ以上の距離の縮め方が、まだよくわからない。付き合っているというのは、具体的に何をすればいいんだろう。美春はそんなことを考えながら、毎日を過ごしていた。
金曜日の放課後だった。
教室に残っているのは、美春と魁仁だけになっていた。窓の外は、今日もオレンジ色に染まり始めている。美春は鞄に教科書をしまいながら、隣の席の魁仁をちらりと見た。
魁仁は何か言いたそうな顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや……その」
魁仁は珍しく、言葉に詰まっていた。喧嘩の時も、告白の時も、いつもまっすぐに言葉を出してきた魁仁が、今日は違った。何度か口を開きかけては、また閉じる。
美春は黙って待った。急かすことはしたくなかった。
「あのさ」
ようやく、魁仁が口を開いた。
「今度の休み、空いてる?」
思いがけない質問に、美春は少し瞬きをした。
「うん、空いてるけど……」
「その、よかったら」
魁仁は頬を少しだけ赤くしながら、視線を窓の外に逃がした。
「一緒に、どこか行かないか」
美春は、心臓が跳ねるのを感じた。
「それって……」
「デート、みたいな」
最後の一言は、消え入りそうな声だった。魁仁がこんなに照れているのを見るのは、久しぶりだった。いや、もしかしたら初めてかもしれない。喧嘩の時も堂々としていた魁仁が、こんな些細なことでこんなに緊張している。
それがなんだか、可笑しくて、愛おしかった。
美春は思わず笑ってしまった。
「な、なんで笑うんだよ」
「ごめん、ごめん」
美春は口元を押さえながら、それでも笑いが止まらなかった。
「魁仁が、こんなに照れてるの、なんか新鮮で」
「……悪いか」
少し拗ねたような声。それがまたおかしくて、美春はもう一度笑った。
「ううん、嬉しい」
笑いを収めて、美春は魁仁をまっすぐに見た。
「行きたい。一緒に」
魁仁の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、どこ行きたいとかある?」
美春は少し考えた。特にこれといった行きたい場所は思い浮かばなかった。魁仁と一緒なら、どこでもいい、というのが本音だった。
「魁仁は、行きたいところある?」
「俺は……その、モールとか、どうかなって。映画とか見て」
「いいね。行こう」
あっさりと決まってしまった約束だったけど、その軽さが、なんだかふたりらしいと思った。特別な計画も、気の利いた提案もいらない。ただ、一緒にいたいという気持ちだけで、十分だった。
「じゃあ、日曜日な」
「うん、楽しみにしてる」
美春はそう言って、微笑んだ。
窓の外の夕焼けが、教室の中まで橙色に染めていた。魁仁の顔も、美春の顔も、同じ色に染まっている。ふたりの影が、床の上で少しだけ重なっていた。
その夜、美春は自分の部屋のベッドに寝転がりながら、今日のことを何度も思い返していた。
魁仁がデートに誘ってくれた。あの、いつも堂々としていて、まっすぐで、強い魁仁が、あんなに照れながら誘ってくれた。それがなんだか、たまらなく愛おしかった。
スマホを手に取って、明日着ていく服のことを考える。何を着ていけばいいんだろう。特別におしゃれをしすぎるのも変な気がするし、かといって普段着すぎるのも、なんだか味気ない気がする。
鏡の前に立って、クローゼットを開けてみたけれど、なかなか決まらなかった。結局、いくつかの候補を並べて、明日もう一度考えることにした。
布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。目を閉じると、魁仁の照れた顔が浮かんでくる。手を繋いだ時の温かさも、まだ手のひらに残っているような気がした。
守られていたはずの自分が、いつの間にか、魁仁を見て胸をときめかせている。
――付き合うって、こういうことなんだ。
美春は布団の中で、小さく笑った。
明日からの日々が、少しだけ楽しみで、少しだけ怖くて、でもそれ以上に、待ち遠しかった。
窓の外には、細い三日月が浮かんでいた。
この町のどこかで、魁仁も同じ月を見ているだろうか。美春はそんなことを考えながら、いつの間にか眠りについていた。
第四章 触れるか、触れないかの距離で
休日の駅前は、平日とは少し違う顔をしている。
急ぎ足のサラリーマンも、通学する学生もいない。代わりに、買い物袋を持った家族連れや、友人同士でおしゃべりしながら歩くグループが、のんびりとした空気を作り出していた。五月の陽気は穏やかで、風は少しだけ甘い匂いがした。どこかの花壇に花が咲いているのかもしれない。
美春は駅前の広場の端に立って、自分の指先を見つめていた。
「……早すぎたかも」
小さく息を吐く。待ち合わせの時間まで、まだ十分以上ある。家を出る時、ちょうどいい時間を計算したつもりだったのに、気持ちが先走ってしまった。早く来すぎた理由は、自分でもわかっていた。落ち着かなかったのだ。家にいると、金曜日の教室でのことばかり思い出してしまって、じっとしていられなかった。
魁仁が誘ってくれた時の、あの照れた顔。 何度も何度も、頭の中で繰り返される。付き合い始めてからの一週間、少しずつ距離が縮まっていくのを感じながら、それでもまだどこか実感が持てずにいた。今日、初めての「デート」で、それが本当のことなんだと、確かめられる気がした。
「……どうしよう」
誰に言うわけでもなく、呟いた。
どんな顔で会えばいいんだろう。何を話せばいいんだろう。付き合ってからの一週間は、学校という慣れた場所での出来事だった。でも今日は違う。ふたりだけで、休日に、どこかへ出かける。それだけで、なんだか特別なことのように感じられた。
顔が熱くなるのを感じて、美春は両手でそっと頬を押さえた。
そのとき。
「美春」
呼ばれて、びくっと肩が揺れた。
振り向くと、魁仁が立っていた。少し息が上がっているわけでもなく、かといって余裕たっぷりというわけでもなく、ただそこに立っていた。いつもの私服で、いつものリュックで、いつもの魁仁なのに。
「……おはよう」
「お、おはよう」
一瞬、目が合って、すぐに逸らした。
沈黙が落ちた。
五秒か、十秒か。どちらも何も言わない。広場のざわめきが、やけにはっきりと聞こえた。子どもの笑い声、鳩が羽を打つ音、どこかで流れている店の音楽。
……気まずい。
金曜日まで、あんなに自然だったのに。朝の電車でも、教室でも、帰り道でも、特に何も考えずにいられたのに。今は魁仁の存在が、全部の感覚に引っかかってくる。呼吸の仕方まで、なんとなくわからなくなる。
「その……待った?」
魁仁が先に口を開いた。
「ううん、今来たとこ」
嘘だと分かるくらい、声がぎこちなかった。十分以上待っていた。でも正直に言ったら、早く来すぎた理由を説明しなければならない気がして、それはもっと恥ずかしかった。
魁仁も、それに気づいているのか、少しだけ苦笑した。本当に今来たばかりなら、もう少し自然に言えるはずだと、たぶんわかっている。 「そっか」
また沈黙。
美春は視線の置き場所に困って、広場の鳩を見た。鳩はのんきにコンコンと歩いている。羨ましいような気持ちになった。何も考えず、ただ歩けたらいいのに。
――どうしよう、何話せばいいの。
付き合う前は話題に困ったことなんてなかった。魁仁が何かを言えば美春が笑って、美春が何かを言えば魁仁が笑って、それだけで十分だった。なのに今は、最初の一言が出てこない。 「……行くか」
魁仁が、少し照れくさそうに言った。目が合いそうになって、少しだけ視線を外しながら。 「うん」
並んで歩き出した。
でも、いつもより少しだけ距離がある。肩が触れそうで、触れない距離。前まではそんな距離を意識したことなんてなかった。でも今日は、そのわずかなすき間が、やけに意識される。どれくらい近ければいいのか、どれくらい離れるべきなのか、全然わからない。
触れそうで、触れない。そのもどかしさが、一歩歩くたびに積み重なっていった。
ショッピングモールの中は、休日らしい賑わいだった。
エントランスを入ると、甘い匂いがした。一階にベーカリーがあって、焼きたてのパンの香りが漂っている。週末の昼前、家族連れやカップルが思い思いのペースで歩いている。美春と魁仁もその流れに乗るように歩いたけれど、どこへ向かうともなく、ただ並んでいた。
「どこ行く?」
「えっと……」
美春は少し考えた。いつもなら、魁仁が自然にリードしてくれる。あっちに面白そうな店があるとか、腹減ったから何か食おうとか、そういう感じで歩き始めて、美春はそれについていく。でも今日は、魁仁もどこか遠慮しているみたいで、様子を見ているような感じだった。
「……映画、とか?」
美春が提案した。金曜日に約束していたことだった。
「お、いいな。何見る?」
「えっと……」
館内の案内板を見て、映画館の方向を確認して、エスカレーターに乗った。映画館のフロアに着くと、ポスターがいくつか並んでいた。アクション、ホラー、アニメーション、恋愛映画。美春はそれを眺めたけれど、内容が全然頭に入らなかった。
隣にいるだけで、意識が全部そっちにいってしまう。
魁仁が少し前に出て、ポスターを見ている。横顔を見ていた。見てしまっていた。付き合う前、何とも思わずに見ていたはずの顔なのに、今日は全然違う。魁仁が何かを見るたびに、魁仁が少し動くたびに、目が勝手についていってしまう。
「あ、これとかどう?」
魁仁が一枚のポスターを指さした。
「うん、いいと思う」
美春は即座に頷いた。
ほんとは、何でもよかった。どんな映画でも、どこに行っても。一緒にいられれば、それでよかった。でもそれを言えるわけがないので、うん、いいと思う、と言った。
チケットを買って、上映時間まで少し時間があったので、カフェで飲み物を買った。魁仁はアイスコーヒー、美春はカフェラテ。それを持って、ロビーのソファに並んで座った。
会話は、断続的だった。
天気の話、学校の話、他愛もない話。でも、いつもより言葉の数が少なかった。沈黙が来るたびに、どちらかが何かを言おうとして、少し間が空いて、ようやく言葉が出てくる。前はそんなことなかった。沈黙でも苦じゃなかった。ただ黙って並んでいることが、自然だった。
でも今は、沈黙が少しだけ重い。
それでも不思議と、嫌ではなかった。
映画館の暗闇は、独特の静けさを持っていた。
スクリーンの光だけが揺れていて、客席は薄暗い。美春と魁仁は隣同士の席に座った。肘掛けを挟んで、ほんの数十センチの距離。映画が始まると、場内がさらに暗くなった。
こんなに近いのに、触れられない。
腕が少し動くだけで、ぶつかりそうになる距離だった。美春は腕の置き場所を気にしながら、なるべく肘掛けの端の方に寄せていた。でも上映中、気を抜くと少しずつ戻ってきてしまう。そのたびに、びくっとしてしまう。
――こんなだったっけ。
前に映画を見たのはいつだっただろう。確か、中学の頃にクラスの何人かで見に行ったことがあって、その時も魁仁と隣の席だった気がする。その時は何も気にしなかった。ただスクリーンを見ていた。
今は、スクリーンよりも、隣の存在の方が大きい。
映画の内容は、アクションと恋愛が混ざったような話だった。主人公が誰かを守るシーンで、美春は少しだけ息を飲んだ。同じタイミングで、魁仁の体も少し動いた。
同じところで、同じように感じている。
それがわかるだけで、胸が温かくなった。ふたりでスクリーンを見ているのに、なんだか繋がっているような感じがする。感動的なシーンでは、魁仁が静かに息を吐くのがわかった。美春も同じように、息を吐いていた。
全部が、愛おしかった。
同じタイミングで息を飲むこと。同じシーンで少しだけ体が動くこと。暗闇の中で、隣にいること。どれも特別なことじゃないのに、今日の美春にはどれもが特別に感じられた。
でも、どうしていいかわからなくて。
美春はただ、前を向いていた。
映画が終わって、外に出た。
モールの中はさっきより人が増えていた。昼時に近い時間で、飲食店のフロアから、いい匂いが漂ってきていた。美春と魁仁は、人の流れに乗るように歩いた。
「……面白かったな」
魁仁が言った。
「う、うん」
またぎこちない。映画の感想を話せばいいのに、うまく言葉が続かない。少しだけ目が合って、ふたり同時に視線を外した。それからなんとなく笑い合ったけど、すぐに沈黙が戻った。
エスカレーターで下の階に降りながら、美春はぼんやりと考えていた。付き合う前は、もっと自然だったのに。何がそんなに変わったんだろう。魁仁は魁仁で、私は私で、場所だって同じモールで。
そのとき。
「……なあ」
魁仁が、ぽつりと言った。
エスカレーターを降りたところで、立ち止まる。美春も並んで立った。
「俺たちさ」
心臓が跳ねた。
「付き合う前と、何が違うんだろうな」
まっすぐな言葉だった。
考えてみれば、魁仁らしかった。気になることは、遠回しにしないで聞く。かといって、責めているわけじゃない。ただ、純粋に疑問に思っている、という感じの言い方。
美春は少しだけ考えた。
何が違うんだろう。ふたりの間に起きた出来事を考えれば、金曜日、魁仁が言葉にしてくれたこと。デートに誘ってくれたこと。それだけ。
それだけなのに、全部が違って見える。
美春は少しだけ考えてから、魁仁の方を向いて、小さく笑った。
「……たぶん」
「"好き"って分かっちゃったこと、かな」
言葉にすると、少しだけ恥ずかしかった。でも、不思議と逃げたくはなかった。言えてよかった、という気持ちの方が大きかった。
「前は、無意識だったけど」
「今は、全部意識しちゃう」
魁仁が、少しだけ目を見開いた。それからふっと笑った。照れているのか、安心しているのか、美春にはよくわからなかったけど、たぶん両方だった。
「……だよな」
同じ気持ちなんだ、とわかった。
魁仁も同じように、今日一日、全部を意識していたんだ。それだけで、少し安心する。自分だけじゃなかった、ということが。
「じゃあさ」
魁仁が、少しだけ照れながら言った。
「慣れてくしかねえな」
そう言って。
ほんの少しだけ、手を伸ばしてきた。
触れるか、触れないかの距離で止まる。美春の手の近くで、でも掴まずに、待っているみたいに。
どうしよう。
心臓の音がうるさい。モールのざわめきも、BGMも、何も聞こえないくらい、心臓の音だけがはっきりしている。
でも。
逃げたくない。
美春は、そっと自分の手を動かした。
指先が、触れた。
びくっと、ふたり同時に震えた。美春も、魁仁も。思わず笑いが出そうになるくらい、同じタイミングで。でも今度は、離さなかった。魁仁の手が、そっと美春の手を包んだ。
ぎこちなくて、少しだけ不格好な手のつなぎ方だった。どちらも、こういうことに慣れていなかった。でも、それがふたりにはちょうどよかった。完璧じゃなくていい。うまくなくていい。今のふたりには、これがちょうどよかった。
「……あったかいな」
魁仁が、ぽつりと言った。
独り言みたいな、小さな声。でも、ちゃんと聞こえた。
「うん」
美春も、小さく頷いた。
手のひらから、魁仁の温かさが伝わってくる。体温というのは、こんなにも違うのか、と美春は思った。自分の手よりも、少し高い温度。それがじわじわと、指先から肩まで伝わってくるみたいだった。
守られていたのは、私のほうだったのかもしれない。
でも、これからは。
同じ歩幅で、隣にいたい。
ふたりはまた歩き始めた。さっきよりも、すき間がなくなっていた。人混みの中で、つないだ手が揺れる。魁仁の歩幅に合わせながら、美春は前を向いていた。
夕方の光がモールの窓から差し込んで、床に長い影を作っていた。ふたりの影が、少しだけ近づいて、重なって、また離れた。
歩くたびに、揺れる。
それがなんだか、おかしくて、愛しかった。
美春は小さく笑った。魁仁も気づいて、同じように笑った。理由を言わなくても、同じものが可笑しかった。それだけで、金曜日からずっと続いていた気まずさが、するりとほどけていった。
慣れていくしかない。
魁仁が言った通りだった。
うまくなくていい。ぎこちなくていい。ふたりで少しずつ、慣れていけばいい。
第五章 守られていたのは、私だけじゃなかった
六月に入って、空気が少しだけ湿り気を帯び始めていた。
梅雨の走りなのか、朝から雲が厚い日が続いている。今日もそうだった。放課後、教室の窓から見える空は、灰色がかった水色で、今にも雨が降り出しそうな気配があった。
美春は鞄を持って、いつものように教室を出る準備をしていた。魁仁は既に席を立って、窓の外を見ていた。心なしか、その背中がいつもより小さく見えた。
「魁仁、帰ろっか」
美春が声をかけると、魁仁は少し遅れて振り向いた。
「あ、ああ」
いつもと違う、間延びした返事だった。美春はそれに気づいたけれど、あえて何も言わずに、鞄を持って歩き出した。魁仁も隣に並んだ。
昇降口を出て、通学路を歩き始める。今日はいつもより、魁仁の口数が少なかった。美春が何か話しかけても、うん、とか、そうだな、とか、短い相槌ばかりが返ってくる。
商店街を抜けて、いつもの分かれ道の少し手前まで来た時だった。
「……なあ、美春」
魁仁が、ぽつりと言った。
「ん?」
「進路のこと、考えてるか?」
唐突な質問だった。美春は少し戸惑いながら、頷いた。
「うん、少しずつ。まだちゃんとは決めてないけど」
「そっか」
魁仁はそれだけ言って、また黙り込んだ。美春は横目でその様子を見た。いつもの魁仁なら、こういう話題でも、もっと軽い調子で話すはずだった。冗談を交えたり、美春の意見を聞いてきたり。でも今日は違う。何かを抱え込んでいるような、そんな表情だった。
「魁仁は、どうなの?」
美春が聞くと、魁仁は少し間を置いてから、口を開いた。
「俺さ……正直、まだ全然決まってないんだよ」
珍しい言葉だった。魁仁はいつも、何事にも迷いがないように見える人だった。喧嘩をする時も、美春を守る時も、まっすぐに突き進んでいく。その魁仁が、こんな風に弱音をこぼすのは初めてかもしれなかった。
「三者面談も近いし、先生にも、そろそろ具体的に決めろって言われてて」
魁仁は歩きながら、視線を地面に落としていた。
「周りはさ、もう決まってる奴も多いんだよ。医者になりたいとか、公務員になりたいとか、はっきり言えてる奴らがいて。それに比べて、俺は……何がしたいのか、正直よくわかんねえんだ」
声のトーンが、いつもより低かった。
「頭がいいわけでもないし、これといって得意なこともないし。強いて言えば、喧嘩が強いくらいで。それも別に、将来の役に立つわけじゃないしな」
自嘲するような笑い方だった。美春はその横顔を見ながら、胸の奥が少しきゅっとなるのを感じた。
「なんか、情けねえよな。ずっと美春のこと守るとか言っておいて、自分の将来もろくに決められてないんだから」
魁仁は苦笑した。でも、その笑い方には、いつもの余裕がなかった。
美春は少しの間、黙って考えた。
今までなら、こういう時、魁仁が先に言うはずだった。美春が不安な顔をしていたら、魁仁が「大丈夫」と言ってくれた。小学校の頃からずっと、そうだった。困った時、悲しい時、不安な時、魁仁が隣にいて、その一言で全部が軽くなった。
でも今回は、違う。
美春は足を止めた。魁仁も合わせて立ち止まる。
美春は魁仁の顔を見て、少しだけ笑った。
「大丈夫だよ」
魁仁が、驚いたように目を見開いた。
その一言だけだった。特別に気の利いた言葉でも、慰めの理屈でもない。ただ、大丈夫だよ、というだけ。でも、その言葉には、美春の中にある確かな気持ちが込められていた。
「……ありがとう」
魁仁は少しの間、何も言えないでいた。それから、ゆっくりと頷いた。
美春は少し照れながら、続けた。
「私だって、魁仁の力になりたいもん」
その言葉に、魁仁はまた、はっとしたような顔をした。
美春は続けた。
「魁仁がどんな道を選んでも、私は応援するよ。何になりたいか、まだわかんなくても、それでいいと思う。ゆっくり考えればいいよ」
自分の言葉が、うまく伝わっているのか、美春にはわからなかった。でも、心の中にあることを、そのまま口にしただけだった。魁仁がいつも自分にしてくれていたことを、今度は自分がしたいと思った。それだけだった。
「私、魁仁がいつも私を守ってくれてるの、ずっと感謝してる。でも、それって、魁仁一人が頑張ることじゃないと思うんだ」
美春は少し言葉を探しながら、続けた。
「私も、魁仁の隣にいたいから。だから、魁仁が不安な時は、私にも支えさせてよ」
魁仁は、しばらく黙っていた。
通学路の脇に立つ街路樹の葉が、風に揺れる音がした。遠くで、誰かの自転車のベルが鳴った。それだけの静かな時間が、ふたりの間に流れた。
やがて、魁仁が口を開いた。
「……今まで、俺が美春を守るって思ってた」
その声は、いつもより低く、でも柔らかかった。
「ずっとそう思って生きてきた。小学校の時からずっと。美春を守ることが、俺の役目みたいな気がしてた」
少し間が空いた。
美春は黙って、続きを待った。
「でも違った」
魁仁は、まっすぐに美春を見た。
「俺も、ずっと美春に支えられてた」
美春は、少し首をかしげた。意味がすぐには飲み込めなかった。自分が、魁仁を支えていた?
いつも守られてばかりだったのは、自分の方だと思っていたのに。
「美春がさ、笑ってくれるだけで、俺、なんか頑張れる気がしてたんだよ」
魁仁は、少しずつ言葉を紡いでいった。
「喧嘩する時も、美春を守るためって思ってたけど、本当は、美春が俺を見てくれてるから、頑張れてたのかもしれない。美春が隣にいてくれるだけで、俺、強くなれた気がしてたんだ」
美春は、何も言えなかった。ただ、魁仁の言葉を、じっと聞いていた。
「進路のことだって、正直まだ迷ってるけど。でも、美春が今、大丈夫って言ってくれただけで、なんか、少し楽になった」
魁仁は少し笑った。今度は、さっきの自嘲するような笑い方じゃなくて、もっと素直な笑顔だった。
「俺、美春のこと守りたいって、ずっと思ってきたけど。美春だって、俺のこと守ってくれてたんだな。今、初めて気づいた」
美春の胸の中で、何かが温かく満ちていくのを感じた。
守られる存在だと、ずっと思っていた。小学校の頃、涙を拭ってくれた魁仁の手。満員電車で囲ってくれた広い背中。夕焼けのホームで、まっすぐに好きだと言ってくれた声。全部、魁仁が与えてくれるものだと思っていた。
でも、魁仁は今、違う、と言った。
美春も、魁仁に何かを与えていたんだ。気づかないうちに、それがずっと続いていたんだ。
「……嬉しい」
美春はやっと、そう言葉にした。
「私が魁仁の力になれてたなら、嬉しい」
魁仁は頷いた。
「なれてたよ、ずっと」
ふたりはまた歩き出した。さっきまでの重い空気は、いつの間にか消えていた。代わりに、何か新しい確信のようなものが、ふたりの間に生まれていた。
「進路のこと、まだわかんないけど」
魁仁が、少し明るい声で言った。
「美春が応援してくれるなら、ちゃんと考えてみるよ。焦らず、自分に何ができるか」
「うん。私も一緒に考えるから」
「ああ」
魁仁は、美春の手をそっと握った。前よりも、少しだけ自然な握り方だった。ぎこちなさは、まだ少し残っていたけれど、それでも確かに、ふたりの手は寄り添っていた。
空はまだ灰色がかっていたけれど、雨は降っていなかった。むしろ、雲の切れ間から、少しだけ光が差し込んでいるように見えた。
美春はふと、思った。
ずっと、魁仁が守ってくれる人で、自分は守られる人だと思っていた。でも、魁仁はずっと、美春に守られてもいたのかもしれない。誰かの隣にそっと寄り添うことも、ちゃんと誰かを守る形のひとつなんだと、そんな気がした。
守る人と、寄り添う人。
でもそれは、一方通行の役割じゃなかった。魁仁が美春を守り、美春が魁仁に寄り添う。そしてまた、美春が魁仁を守り、魁仁が美春に寄り添う。
その優しさは、一方向だと思っていた。
でも本当は、ずっと前から、お互いの心を行き来していた。
どちらかが強くて、どちらかが弱いわけじゃない。どちらも、時に強く、時に弱い。だからこそ、支え合える。
「なあ、美春」
魁仁が、ふと言った。
「ん?」
「ありがとうな、今日」
美春は笑った。
「どういたしまして」
ふたりは、繋いだ手を少し揺らしながら、いつもの分かれ道まで歩いていった。空にはまだ雲が残っていたけれど、ふたりの間には、確かな晴れ間があった。
これからも、きっと。
魁仁が弱音をこぼす日もあれば、美春が不安になる日もあるだろう。でもそのたびに、どちらかが、大丈夫、と言ってあげられる。そういう関係に、ふたりはなっていた。
守る人と、守られる人。
その境界線は、もうどこにもなかった。

