となりびと と、

「夜猫ちゃん」と呼ばれていた。
血の繋がった母なのに、まるで近所の野良猫でも可愛がるかのようなその扱いが、私はどうも好きになれなかった。
「そういえば夜猫ちゃん、大学。進学するの?」
「……うん、そう考えてはいるけど。行っても良い?」
「良いんじゃない? ただ奨学金は使ってね。足りない分は出そうって譲二(じょうじ)くんと話してはいるけど、私立医大みたいな高いところはやめてよ」
「うん」
今はここを考えている、と幾つかの大学の名前と大方の学費を挙げると、「良いんじゃない」と他人事のように言われた。学部すら、問われなかった。
別にショックは受けない。もう慣れているから。
酷いとも思わない。暴力を振るわず暴言も吐かない、干渉もしない代わりに、娘に身内としての興味を持てない両親なのだ。こういう人たちなのだ。むしろ、ほとんど口を聞かない父はまだしも、他人のようであってもひとまず話をしてくれる母は、ありがたいと思うべき存在なのかもしれない。
何より、私にとっての「家族」は、これが普通だった。
でも、たまに思う。
世話をして、可愛がって、癒されるだけなら。
猫でも飼えば良かったんじゃないかと。

「鈴森さん、ごめんねぇ。急な話になっちゃって」
大家さんが申し訳なさそうに眉を下げるのを見て、安心させるように笑って見せる。
「いいえ。すみません、今新居を探しているところなので、もう少し待ってていただけますか」
「もちろんよ。むしろこっちが突然お願いしたんだもの。それにしても鈴森さん、大学入ってまだ半年とかでしょう? 本当に不甲斐ない話なのだけど」
「ご病気は仕方ないですよ。普段も、万が一何かあった時にも、近くに頼れる人がいる方が良いでしょうし」
80代になったばかりだという大家さんが1人で管理している古びたアパート。設備の性能は我慢と工夫でどうにでもなるけど、家賃が高くてはどうしようもない。相場に比べてかなり安い額で部屋を貸してくれるこの人は、私にとっては大変にありがたい存在だった。
でも元々の持病があって、娘さんが住む街に越すことになったらしい。アパートを畳まざるを得なくなっちゃったのよ、と言われたのは、1ヶ月ほど前の話だ。
「苦労かけるわね。ありがとう」
「此方こそ。あと少しになりますけど、これからもよろしくお願いしますね」
「えぇ。行ってらっしゃい」
大家さんが柔らかく笑って、ゆったりと手を振ってくれる。「行ってきます」と答えて、会釈をした。
あの矍鑠(かくしゃく)とした大家さんがゆっくりと病に冒されているというのを、私は未だに信じ切れずにいる。

「鈴森ちゃん、どったの? 難しい顔して」
肩越しに真っ直ぐな声が飛んできて、思わずばっと顔を上げた。
「……なんだ、コタロー先輩ですか」
「なんだとはなんだ。ひっどいなぁ」
コタロー先輩が明るく笑った。この人の周りは、いつもお日様の光が満ちているような心地がする。
「今住んでるアパートが畳まれることになって、また一人暮らしできる場所を探しているんですが……家賃の壁が高くて」
「え、そんなことあるんだ。ま、家探すのも大変だよね。俺実家暮らしだけど」
先輩に愚痴を零したのが間違いでしたと言うと、「待って待って待って」と大袈裟な仕草で引き留められた。
「てかさ、鈴森ちゃん。一人暮らしが絶対条件なの? そうじゃないなら、シェアハウスとかもありじゃん」
「……赤の他人と過ごすの苦手なんですよ」
「そうじゃなくても……例えば知り合いの家に転がり込むとか。家賃折半できるなら、鈴森ちゃんにも相手にも得あるじゃん」
そんなに都合良く事が運ぶわけがないと思いつつ、一応の筋は通っている。家探しがどうせ半ば詰んでいるのだから、気まぐれに賭けに出てみるのも一興だった。
「じゃあ、コタロー先輩の人脈の広さをアテにして訊きますけど。例えば誰ですか」
うーん、と彼が首を傾げる。コタロー先輩の警戒心の無さから、まさか彼氏さんの家とか言わないよなと思ったけど、流石にそれは杞憂だったようだ。
「あ、あれは? 杉田(すぎた)
「誰ですか」
「じゃあ茉莉(まり)ちゃん」
「あの人苦手です」
「良い子なんだけどなー。あ、暁は?」
知っている名前が出てきて、顔を上げる。
「理央先輩ですか」
「そ、理央センパイ。鈴森ちゃん仲良かったよね? 新歓の時もけっこう喋ってたし」
仲が良いというほどでもないけど、確かにコタロー先輩とほぼ同じくらい話す人は彼くらいのものだ。
「まぁ、仲悪くはないですけど」
「見た感じ相性良さそうだし、意外と良いんじゃない? それにほら、彼奴(あいつ)1人だと生活どんどん雑になるから。碌なもの食べないし」
食事が嫌いなわけじゃないらしいんだけどね、と呟くコタロー先輩は、意外と人をよく見ていると思う。社交性にこれだけの観察眼を併せ持つ人はなかなかに貴重だ。
「確かに、お昼ご飯を固形の栄養食で済ませてるのよく見かけますけど」
「あれなー。止めろって言ってるんだけど、栄養バランスと値段の釣り合いが1番取れてるんだと」
人間らしい生活という側面は理央先輩の感覚の中から抜け落ちているのかなと思いながら、「ふぅん」と口の中で呟く。
「ありがとうございます。理央先輩に訊いてみます」
「応。健闘を祈る」
立ち上がった私にひらりと手を振るコタロー先輩は、やっぱりお日様みたいに明るくて、暖かかった。

日本文学科の教授室がある階をふらふらと歩いていると、空き教室の中に理央先輩の姿を見つけた。今日も人間らしい食事とは無縁そうな先輩に、「おつかれさまです」と声を掛ける。
「あ、夜猫。おつかれさま」
「またお昼ご飯それですか」
「うん。夜猫は真似しないでね」
真似はしませんけど、とぼそりと呟くと、理央先輩が微かに笑った。
「ところで先輩。私、今住んでるアパートを出て行かなくちゃいけなくなってですね」
「何かやらかしたの?」
そんなわけないと分かっているような口調で、彼が笑う。
「まさか。アパートが畳まれるんです」
「入学して半年でか。災難だね」
「はい。そういえば、先輩が住んでるアパートって家賃幾らなんですか?」
先輩が「空きあるか分かんないけど」と言いつつ教えてくれた額は、私が今住んでいるアパートのそれの1.4倍ほどだった。大方相場よりも少し安いというところだろうか。
「でしたら先輩。災難の渦中にある可哀想な後輩を、理央先輩のお家に住まわせてはいただけませんか。もちろん、家賃の折半その他諸々、先輩が一方的に損をしないような条件は付けます」
理央先輩の黒く透き通った双眸が、数度瞬かれる。
「……は?」
まぁそうなるよな、と思いながら、思わず笑ってしまった。