テーブルに置きっぱなしのスマホが、微かに震えた。
母のスマホであることを無視して、画面を覗く。「理央」という文字に、思わずそれを取り上げて通話ボタンを押した。
「お兄ちゃん?」
『うわびっくりした。あれ? これ母さんの携帯だよね』
「そうだよ」
『なんで真緒が出るの……?』
「何か不都合でも? どうせ実家に電話してる感覚なんだから、妹が出ても別に良いでしょ」
『それはそうだけど』
聞こえてきた足音に振り返ると、母がリビングに戻ってきていた。「理央?」と母の口が動いて、こくりと頷く。
「ところでお兄ちゃん、どうしたの?」
電話の向こうで、兄が一瞬言い淀むような気配があった。
『今度の連休さ、そっちに帰ろうと思うんだけど』
「ふぅん? そっか、年末そっちだったんだもんね」
『うん。それでさ、同居人も一緒でも良い? って話。あ、同居人の話は母さんは知ってると思うんだけど』
初耳だった。気立ても顔立ちも派手ではないけど決して悪くはないのに、今までそういったことに縁がなさそうだった兄だ。少なからず驚いてしまう。
「え、彼女?」
『違う、大学の後輩』
なぁんだ、と呟く私に、電話口で小さく笑った声が聞こえた。
「良いんじゃない? 別にうち、排他的気質なんて持ってないし」
『まぁね。でも一応、母さんか父さんかに訊いてみて』
分かったと返すと、「よろしく」と短い言葉が返ってくる。
「そういえば、その人は自分ちに帰ったりしなくて良いの?」
『事情はよく知らないけど、あんまり帰りたくないみたい。僕が実家帰るって言ったら微妙に暇そうな顔してたから、もし良ければと思って』
「なるほど、了解。訊いてみるね」
『うん、ありがとう』
その後二言三言会話をして、電話は切れた。
「お母さん、お兄ちゃんがね」
兄の話をかいつまんで話すと、母はどこか嬉しそうに笑った。
「そう。連絡ありがとうって言っておかないとね」
「ところでお母さん。お兄ちゃんの同居人ってなに? 初めて聞いたんだけど」
「話してないもの」
「なんでよ……」
忘れてたのよ、と嘯く母に、思わず苦笑いしてしまう。
「どんな人なの?」
「夜猫ちゃん? よく知らないわ。電話で少し話したことがあるくらいだから」
その割には随分親しげに話すんだなと思う。そして女の人だったのか。「彼女」を否定されて「大学の後輩」と言っていたから、勝手に男の人だと思っていた。
「まぁ、理央は猫みたいな人だって言ってたわよ」
「大丈夫なの? お兄ちゃん騙されてない?」
「さぁ。でもあの子危機管理能力は割とあるから、大丈夫なんじゃないかしら」
母のふわふわした答えに、少し呆れる。掴みどころがないというのも考えものだ。
「で? その……ヨネコさん? 来て良いよって言うの?」
「良いよも何も、断る理由がないじゃない。理央と上手くやる子、見てみたいし。真緒理もそう思うでしょう?」
兄がなかなかのひねくれ者であることを、母はきちんと分かっているようだ。
「それは……そうだけど。お父さんは大丈夫かな」
「あの人なら大丈夫よ。こういうことになったからって言えば」
「既成事実にしてるじゃん」
笑ってそう言うと、母も釣られたようにまた笑った。
ピンポン、という音がした。
「はぁい」という母の声の後に、インターホン越しの劣化した音声が聞こえてくる。兄の声だ。
「真緒理、出てくれる?」
「はーい」
母の声を背中越しに聞きながら、ぱたぱたと玄関に向かう。リビングから廊下に繋がるドアを開けると、ちょうど入ってくるところだった父とぶつかりそうになった。
「理央か?」
「それ以外ある? お兄ちゃんと、あと夜猫さんね」
そう返して父の横をすり抜けた私を、父の呆れたような、でもどこか愉快そうな目が眺めているのが分かる。
ガシャンと音を立てて玄関ドアを開けると、驚いたように後退った兄と目が合った。
「……いや、勢い」
「そんなに近くに立ってるからだよ。おかえりお兄ちゃん」
「……ただいま」
相変わらずだとも言いたげに、兄がふっと溜息を吐く。
「あ、そうだ。妹の真緒理です」
私を手で示しながら、兄が僅かに横に動く。兄の後ろから、見慣れない女の人が顔を出した。
「……真緒理さん。初めまして、鈴森です。鈴森夜猫といいます。大学2年です」
お世辞にも表情豊かとは言えないけど、緊張しているんだろうというのが見て取れる。派手ではないながらも整った顔立ちをした、可愛らしい人だった。
「暁真緒理、高3です。兄がいつもお世話になっています」
お兄ちゃんがいっそのこと彼女だとでも言えば、いくらでも茶化しようがあったのだけど。
「夜猫さん、って呼んでも良いですか?」
「……はい」
少し戸惑ったように、彼女の双眸が揺れた。
「あ、母から夜猫さんのことを少し聞いていまして。兄と珍しく上手くやって頂いてるみたいなので、どんな人なんだろうと」
「先輩がひねくれ者なのって、ご家族の中でも周知の事実なんですか」
ちょっと笑ってそう言った夜猫さんの言葉に、兄が困ったように目を逸らすのが少し可笑しい。
「負けず劣らずのひねくれ者に言われたくないな」
「何のことでしょうか」
彼女が笑った顔が想像よりも幼気で、ふっと肩の力が抜けるのが分かった。
「ちょっと、いつまで玄関に立ってるのよ」
母の声に振り返ると、少し呆れたような母と目が合った。
「初めまして、夜猫さん。理央と真緒理の母です」
「鈴森です。初めまして」
声を聞いたことがあったからなのか、夜猫さんの表情がふっと緩む。
「ほらほら、いつまでもこんなところに突っ立ってないで。あぁ、おかえり理央」
「あぁって酷くない?」
呆れたように言う兄に、思わず笑ってしまった。兄の呆れ顔は、母とよく似ている。
こっちこっち、と手招きされて、夜猫さんが恐る恐るといったように家の中に入っていく。
「ね、夜猫さんめっちゃ可愛いね」
彼女には聞こえないように兄にそう囁くと、兄が少し困ったように眉を顰めた。
「……そう? まぁ、綺麗な顔してるとは思うけど」
「本当に何にもないの?」
「ないよ」
「えぇーほんとにー?」
「……真緒理」
ちょっと笑っている兄の目の奥が、少しだけ冷たい。
「あぁごめんて、そんなに怒んないで」
「……いや、イラッとはしたけど」
怒ってはないよと言う兄に、信用ならないなと思いながら「ふぅん」と口の中で呟く。
「お兄ちゃん怒るとめんどくさいからなー」
「怒らせる真緒が悪いよ」
知らない知らない、と言いながら、私も家の中に入る。兄とのどうでも良いような会話が何だかいつもより楽しいことに、少し遅れて気が付いた。
人前でご飯を食べることが怖いと感じ始めたのは、いつ頃からだっただろうか。
別に家族の前とか、1対1とかの少人数なら、そこまでの恐怖は覚えない。ただいつもよりも食卓に並ぶ人数が多いと、仲良くしたい、楽しく過ごしたいという思いとは裏腹に、息が詰まる。
幼い頃からご飯を食べるのが遅くて、少食だったから、周りの刺すような視線を身体が覚えてしまったのかもしれない。
人は好きだ。
でも人と食卓を囲むことが、私は好きになり切れない。
「真緒理、もう良いの?」
箸を置いた私に、母が声を掛けてきた。
「……うん、お腹いっぱいで」
昔なら叱られたり諭されたりしたのかもしれないけど、私の質を否応なしに分かっているのは他でもない母だ。
「そう。じゃ、明日にでも食べなさい。冷蔵庫入れておいてね」
「うん」
するりと空気の隙間をすり抜けるように、椅子から降りる。台所に行って戻ってきて、足早に残りものを冷蔵庫に仕舞った。
「夜猫さん、すみません。お先に失礼します」
努めて明るくそう言うと、「大丈夫です。お気になさらず」というフラットな声が返ってきた。その言葉に最大限に甘えて、ぱたぱたと廊下に出る。
「ごめんなさいね。あの子昔から、少食でちょっと緊張しいなの。夜猫さんが悪いわけじゃないから」
母の声を聞きながら、罪悪感で胸がきゅっと痛む。リビングから廊下に出るドアの後ろに私が立っていることに、兄はきっと気付いているんだろう。それから、夜猫さんも。
「お気になさらず」。その最低限の言葉に、無用な気遣いも微かな棘も含まれていなかったことを思い出す。
優しい人だ。自覚はなさそうだけど。
いつもなら冷たく感じる廊下が、いつもよりも少しだけ穏やかだった。
コンコン、という音に、顔を上げた。
「…はい」
兄だろうか。そう思って返事をすると、思っていたよりも遠慮がちな声が聞こえてきた。
「真緒理さん、失礼します。鈴森です」
「え、夜猫さん? どうしたの?」
こういう時は、いつも兄が私を呼びに来るのが常だった。どうしたんだろう。
「理央先輩が…あ、お兄さんが。真緒理さんに渡しておいてと」
小さめのおにぎりが載っている皿を扉の隙間から手渡されて、ふっと笑ってしまう。
「別に、無理にお兄ちゃんの呼び方変えなくても良いよ。私もお兄ちゃんって言うし」
「そうですか。…ありがとうございます」
「ねぇ夜猫さん、もし良かったら入って。一緒に食べようよ」
二つ載っているおにぎりを指差しながら言うと、彼女の双眸が少し戸惑ったように揺れた。
「それは真緒理さんの分なので、真緒理さんが食べてください。ただ……もしご迷惑じゃなければ、少しだけお邪魔しても良いですか」
少し考えて、頷く。この人なら、私の恐怖心を煽らないような気がした。
「ありがとうございます」
猫みたいな兄の同居人が、ふっと優しげに笑ったのが見えた。
「ねぇ、夜猫さん。お兄ちゃんって、普段どんな感じなの? ちゃんと生活してる?」
おにぎりを一口齧って問うと、私と人1人分の距離を開けて座っていた夜猫さんが振り返って笑った。
「真緒理さんと先輩って、たまにどっちが年上か分からないですね。兄妹ってそんな感じなんですか」
「私はお兄ちゃんよりもしっかりしていると思っているけど」
彼女がまた可笑しそうに笑って、少し考える素振りを見せる。
「普段の、先輩ですか。あんまり変わりませんよ。淡々としてるけど、やるべきことはやってちゃんと生活してるし、あの人なりに楽しんでいるんじゃないかと」
「ふぅん。ご飯食べてる? お兄ちゃん、人の世話焼く癖によくご飯食べるの忘れるから」
「あぁ、稀に忘れてます。叱りますけど」
今度は私が笑ってしまう番だった。兄が夜猫さんに叱られている画を想像すると、何だか可笑しい。
「そかそか。それなら安心」
ふふっと笑うと、緩やかに口角を上げた夜猫さんが穏やかに言った。
「真緒理さん、お兄さん思いですね」
「別に? 突然倒れられたら困るだけ」
「ごちそうさまでした」と手を合わせると、「もう一つありますよ」と彼女が言う。
「お腹いっぱいだから良いや。夜猫さんにあげる」
「……私も割とお腹いっぱいなのですが」
「じゃあ、半分こしよ」
そう返すと、「半分こって久しぶりに聞きました」と夜猫さんが笑った。
母のスマホであることを無視して、画面を覗く。「理央」という文字に、思わずそれを取り上げて通話ボタンを押した。
「お兄ちゃん?」
『うわびっくりした。あれ? これ母さんの携帯だよね』
「そうだよ」
『なんで真緒が出るの……?』
「何か不都合でも? どうせ実家に電話してる感覚なんだから、妹が出ても別に良いでしょ」
『それはそうだけど』
聞こえてきた足音に振り返ると、母がリビングに戻ってきていた。「理央?」と母の口が動いて、こくりと頷く。
「ところでお兄ちゃん、どうしたの?」
電話の向こうで、兄が一瞬言い淀むような気配があった。
『今度の連休さ、そっちに帰ろうと思うんだけど』
「ふぅん? そっか、年末そっちだったんだもんね」
『うん。それでさ、同居人も一緒でも良い? って話。あ、同居人の話は母さんは知ってると思うんだけど』
初耳だった。気立ても顔立ちも派手ではないけど決して悪くはないのに、今までそういったことに縁がなさそうだった兄だ。少なからず驚いてしまう。
「え、彼女?」
『違う、大学の後輩』
なぁんだ、と呟く私に、電話口で小さく笑った声が聞こえた。
「良いんじゃない? 別にうち、排他的気質なんて持ってないし」
『まぁね。でも一応、母さんか父さんかに訊いてみて』
分かったと返すと、「よろしく」と短い言葉が返ってくる。
「そういえば、その人は自分ちに帰ったりしなくて良いの?」
『事情はよく知らないけど、あんまり帰りたくないみたい。僕が実家帰るって言ったら微妙に暇そうな顔してたから、もし良ければと思って』
「なるほど、了解。訊いてみるね」
『うん、ありがとう』
その後二言三言会話をして、電話は切れた。
「お母さん、お兄ちゃんがね」
兄の話をかいつまんで話すと、母はどこか嬉しそうに笑った。
「そう。連絡ありがとうって言っておかないとね」
「ところでお母さん。お兄ちゃんの同居人ってなに? 初めて聞いたんだけど」
「話してないもの」
「なんでよ……」
忘れてたのよ、と嘯く母に、思わず苦笑いしてしまう。
「どんな人なの?」
「夜猫ちゃん? よく知らないわ。電話で少し話したことがあるくらいだから」
その割には随分親しげに話すんだなと思う。そして女の人だったのか。「彼女」を否定されて「大学の後輩」と言っていたから、勝手に男の人だと思っていた。
「まぁ、理央は猫みたいな人だって言ってたわよ」
「大丈夫なの? お兄ちゃん騙されてない?」
「さぁ。でもあの子危機管理能力は割とあるから、大丈夫なんじゃないかしら」
母のふわふわした答えに、少し呆れる。掴みどころがないというのも考えものだ。
「で? その……ヨネコさん? 来て良いよって言うの?」
「良いよも何も、断る理由がないじゃない。理央と上手くやる子、見てみたいし。真緒理もそう思うでしょう?」
兄がなかなかのひねくれ者であることを、母はきちんと分かっているようだ。
「それは……そうだけど。お父さんは大丈夫かな」
「あの人なら大丈夫よ。こういうことになったからって言えば」
「既成事実にしてるじゃん」
笑ってそう言うと、母も釣られたようにまた笑った。
ピンポン、という音がした。
「はぁい」という母の声の後に、インターホン越しの劣化した音声が聞こえてくる。兄の声だ。
「真緒理、出てくれる?」
「はーい」
母の声を背中越しに聞きながら、ぱたぱたと玄関に向かう。リビングから廊下に繋がるドアを開けると、ちょうど入ってくるところだった父とぶつかりそうになった。
「理央か?」
「それ以外ある? お兄ちゃんと、あと夜猫さんね」
そう返して父の横をすり抜けた私を、父の呆れたような、でもどこか愉快そうな目が眺めているのが分かる。
ガシャンと音を立てて玄関ドアを開けると、驚いたように後退った兄と目が合った。
「……いや、勢い」
「そんなに近くに立ってるからだよ。おかえりお兄ちゃん」
「……ただいま」
相変わらずだとも言いたげに、兄がふっと溜息を吐く。
「あ、そうだ。妹の真緒理です」
私を手で示しながら、兄が僅かに横に動く。兄の後ろから、見慣れない女の人が顔を出した。
「……真緒理さん。初めまして、鈴森です。鈴森夜猫といいます。大学2年です」
お世辞にも表情豊かとは言えないけど、緊張しているんだろうというのが見て取れる。派手ではないながらも整った顔立ちをした、可愛らしい人だった。
「暁真緒理、高3です。兄がいつもお世話になっています」
お兄ちゃんがいっそのこと彼女だとでも言えば、いくらでも茶化しようがあったのだけど。
「夜猫さん、って呼んでも良いですか?」
「……はい」
少し戸惑ったように、彼女の双眸が揺れた。
「あ、母から夜猫さんのことを少し聞いていまして。兄と珍しく上手くやって頂いてるみたいなので、どんな人なんだろうと」
「先輩がひねくれ者なのって、ご家族の中でも周知の事実なんですか」
ちょっと笑ってそう言った夜猫さんの言葉に、兄が困ったように目を逸らすのが少し可笑しい。
「負けず劣らずのひねくれ者に言われたくないな」
「何のことでしょうか」
彼女が笑った顔が想像よりも幼気で、ふっと肩の力が抜けるのが分かった。
「ちょっと、いつまで玄関に立ってるのよ」
母の声に振り返ると、少し呆れたような母と目が合った。
「初めまして、夜猫さん。理央と真緒理の母です」
「鈴森です。初めまして」
声を聞いたことがあったからなのか、夜猫さんの表情がふっと緩む。
「ほらほら、いつまでもこんなところに突っ立ってないで。あぁ、おかえり理央」
「あぁって酷くない?」
呆れたように言う兄に、思わず笑ってしまった。兄の呆れ顔は、母とよく似ている。
こっちこっち、と手招きされて、夜猫さんが恐る恐るといったように家の中に入っていく。
「ね、夜猫さんめっちゃ可愛いね」
彼女には聞こえないように兄にそう囁くと、兄が少し困ったように眉を顰めた。
「……そう? まぁ、綺麗な顔してるとは思うけど」
「本当に何にもないの?」
「ないよ」
「えぇーほんとにー?」
「……真緒理」
ちょっと笑っている兄の目の奥が、少しだけ冷たい。
「あぁごめんて、そんなに怒んないで」
「……いや、イラッとはしたけど」
怒ってはないよと言う兄に、信用ならないなと思いながら「ふぅん」と口の中で呟く。
「お兄ちゃん怒るとめんどくさいからなー」
「怒らせる真緒が悪いよ」
知らない知らない、と言いながら、私も家の中に入る。兄とのどうでも良いような会話が何だかいつもより楽しいことに、少し遅れて気が付いた。
人前でご飯を食べることが怖いと感じ始めたのは、いつ頃からだっただろうか。
別に家族の前とか、1対1とかの少人数なら、そこまでの恐怖は覚えない。ただいつもよりも食卓に並ぶ人数が多いと、仲良くしたい、楽しく過ごしたいという思いとは裏腹に、息が詰まる。
幼い頃からご飯を食べるのが遅くて、少食だったから、周りの刺すような視線を身体が覚えてしまったのかもしれない。
人は好きだ。
でも人と食卓を囲むことが、私は好きになり切れない。
「真緒理、もう良いの?」
箸を置いた私に、母が声を掛けてきた。
「……うん、お腹いっぱいで」
昔なら叱られたり諭されたりしたのかもしれないけど、私の質を否応なしに分かっているのは他でもない母だ。
「そう。じゃ、明日にでも食べなさい。冷蔵庫入れておいてね」
「うん」
するりと空気の隙間をすり抜けるように、椅子から降りる。台所に行って戻ってきて、足早に残りものを冷蔵庫に仕舞った。
「夜猫さん、すみません。お先に失礼します」
努めて明るくそう言うと、「大丈夫です。お気になさらず」というフラットな声が返ってきた。その言葉に最大限に甘えて、ぱたぱたと廊下に出る。
「ごめんなさいね。あの子昔から、少食でちょっと緊張しいなの。夜猫さんが悪いわけじゃないから」
母の声を聞きながら、罪悪感で胸がきゅっと痛む。リビングから廊下に出るドアの後ろに私が立っていることに、兄はきっと気付いているんだろう。それから、夜猫さんも。
「お気になさらず」。その最低限の言葉に、無用な気遣いも微かな棘も含まれていなかったことを思い出す。
優しい人だ。自覚はなさそうだけど。
いつもなら冷たく感じる廊下が、いつもよりも少しだけ穏やかだった。
コンコン、という音に、顔を上げた。
「…はい」
兄だろうか。そう思って返事をすると、思っていたよりも遠慮がちな声が聞こえてきた。
「真緒理さん、失礼します。鈴森です」
「え、夜猫さん? どうしたの?」
こういう時は、いつも兄が私を呼びに来るのが常だった。どうしたんだろう。
「理央先輩が…あ、お兄さんが。真緒理さんに渡しておいてと」
小さめのおにぎりが載っている皿を扉の隙間から手渡されて、ふっと笑ってしまう。
「別に、無理にお兄ちゃんの呼び方変えなくても良いよ。私もお兄ちゃんって言うし」
「そうですか。…ありがとうございます」
「ねぇ夜猫さん、もし良かったら入って。一緒に食べようよ」
二つ載っているおにぎりを指差しながら言うと、彼女の双眸が少し戸惑ったように揺れた。
「それは真緒理さんの分なので、真緒理さんが食べてください。ただ……もしご迷惑じゃなければ、少しだけお邪魔しても良いですか」
少し考えて、頷く。この人なら、私の恐怖心を煽らないような気がした。
「ありがとうございます」
猫みたいな兄の同居人が、ふっと優しげに笑ったのが見えた。
「ねぇ、夜猫さん。お兄ちゃんって、普段どんな感じなの? ちゃんと生活してる?」
おにぎりを一口齧って問うと、私と人1人分の距離を開けて座っていた夜猫さんが振り返って笑った。
「真緒理さんと先輩って、たまにどっちが年上か分からないですね。兄妹ってそんな感じなんですか」
「私はお兄ちゃんよりもしっかりしていると思っているけど」
彼女がまた可笑しそうに笑って、少し考える素振りを見せる。
「普段の、先輩ですか。あんまり変わりませんよ。淡々としてるけど、やるべきことはやってちゃんと生活してるし、あの人なりに楽しんでいるんじゃないかと」
「ふぅん。ご飯食べてる? お兄ちゃん、人の世話焼く癖によくご飯食べるの忘れるから」
「あぁ、稀に忘れてます。叱りますけど」
今度は私が笑ってしまう番だった。兄が夜猫さんに叱られている画を想像すると、何だか可笑しい。
「そかそか。それなら安心」
ふふっと笑うと、緩やかに口角を上げた夜猫さんが穏やかに言った。
「真緒理さん、お兄さん思いですね」
「別に? 突然倒れられたら困るだけ」
「ごちそうさまでした」と手を合わせると、「もう一つありますよ」と彼女が言う。
「お腹いっぱいだから良いや。夜猫さんにあげる」
「……私も割とお腹いっぱいなのですが」
「じゃあ、半分こしよ」
そう返すと、「半分こって久しぶりに聞きました」と夜猫さんが笑った。



