人間には個体差があるという話


・【05 善し悪し】


 母親がいなさそうなタイミングで、タオルを持って洗面台へ行き、タオルを濡らしたらすぐに自分の部屋に戻って、それで顔も身体も拭きまくった。
 スイッチがオフ状態のスマホの黒い画面を見て、俺はふとイケメンなのかと思い始める。
 もしかすると今まで人間関係が上手くいっていたのは俺がイケメンだったから? 思考を巡らせるオーラが出ていたんじゃないのか? 八方美人の坂井も俺に利用価値があったから、俺にいつもペコペコしていたのか? イケメンだから、そのおこぼれがあるかもと思って。一緒に合コンとか確かにしたし。
 まさか男にも顔って要素が存在するのか? 女子だけじゃないのか? 待て待て、そんな善し悪しが自分事になったら、いろいろ分かってきたかも。
 じゃあもしかしたら能力にも善し悪しがあるのか? 俺が高校生でJリーガーになっていないのは、俺が単純に努力をしていないだけだと思っていたが、もしかしたら才能の善し悪しというものが存在するのか?
 努力だけじゃどうにもならない部分というものがあるのか? 俺がイケメンなら、男にも顔の善し悪しという概念が存在するなら、そういう見た目の部分は努力じゃどうにもならないんじゃないか?
そういう見た目の要素ってのは全部女子だけだと思ったけども、いや本当に、自分にも善し悪しがあると思ったら、急に脳が開けてきた。濡らしたタオルのせいで床はビチャビチャ。ただし、それ以上に今は思考が濡れている。脳汁とは違う、思考の汁が飛び散っているというか。
 え? もしかしたら顔だけじゃない? 能力全般にも善し悪しがあるとか? 俺はずっと思考を巡らせているから、普通の連中よりも努力しているから、頭が良いと思ったけども、俺は元々頭が良いのか? 物覚えが良いというか、テストで点が獲れる的な頭の良さというか。いや全般的に俺は本当に頭が良いと思っているが。
 運動神経もそうだ。全速力で走れば届くパスとか花田にして、花田が追い付かなかったら手を抜いたと思っていたけども、もしかしたら花田の全力と俺の全力って違うのか? しかも花田が努力していないせいとかじゃなくて、生まれ持って違うみたいなことがあるのか?
 俺の顔のように。俺の顔のように生まれ持って違うみたいなことが何でもあるのか? これすごい発見だ。これ気付いているヤツ、まだ高校生の段階では全然いないんじゃないか?
 SNSで愚痴る人間って後を絶たないけども、自分と相手は個体差があるということに気付いていない人、結構いるんじゃないか?
 全部自分の客観視というか主観というか、そういうヤツで見てしまうけども、人によって全然、何もかも違うんじゃないか。
 じゃあ。
 で、また思考停止した。
 同時に良くないことが脳内に広がっていった。
 さっき高校生の段階でこれに気付いているヤツいないんじゃないかとか考えたけども、これ、本当は、気付いているヤツも別にいるんじゃないか……。
 俺ってもしかすると、そんな賢くないんじゃないか……思考を巡らせて常に努力しているって考えていたけども、これくらい、みんな考えているんじゃないか……?
 自分の言動を改めて掘り下げる。
 自分が気持ち良くなることだけを考えて行動するって、ちょっと、ほんの少し、獣みたいだな、って……獣ってバカの象徴だからなぁ……。
 したい。
 話がしたい。
 万引きして、あんなことされてしまった話もしたい。
 でもSNSはもうダメだ。あそこに常人はいない。このことに気付いていない人間が山ほどいる。会話レベルが合わないだろう。
 そうだ、莉愛に、小山莉愛に喋りたい。
 校舎裏でタバコを吸っていた学級委員長だ。きっといろいろあったはずだ。そんな人間に話すことが一番良いのかもしれない。
 俺が万引きした話をすれば、向こうも俺の弱みを握ることになる。そうなることにより、向こうも安心するんじゃないか、って何か思った。
 俺は大切な話があるとLIMEで送信した。明日は早く登校してもらって、空き教室で話すことになった。
 小山莉愛は俺のメッセージ通りに空き教室へやって来た。何だか戦々恐々としている感じだ。何故だろう。まあいいか。
 俺は万引きした話、おばさん店員に犯された話、そして 人間には善し悪しがあるという話を全部喋った。
 すると小山莉愛はこう言った。
「あー、まず一つ、私も万引きしたことあるよ。でも合わなくて辞めたんだよね」
「そんな、せっかく俺の弱みを一個握ったのに、自分から弱みをもう一個追加しなくてもいいんじゃないか」
「佐野、自分で気付いている? 喋り方が本当に大人しくなっているよ」
「喋り方……?」
「そう、何だか大人しいというか、でも理路整然としていて聞きやすい。今までの所々キンキンとした不快な高い声でガナルだけじゃなくなっているよ」
 え、まず俺ってそんなんだったの……? そういう嫌な高い声に俺ってなっていたのかよ。全然気付かなかった。俺が一番嫌いな声じゃん、それ。
 小山莉愛は続ける。
「それに善し悪しの話。やっと気付いたんだね、でもそうだよね、同じ高校生でも気付いていない子いっぱいいるよね」
「小山莉愛も気付いていたのかっ!」
「それは勿論。だからみんな違う高校に通うんじゃん」
「いやでもさ! 努力の差というか!」
 つい大きな声が出てしまい、口をつぐむ。
 小山莉愛は溜息交じりに、
「この高校に学力の余裕を持って、近いから選んだ子もいれば、本当に努力して努力して努力してギリギリで入った子もいるんだよ。そういうもんなんだよ」
「そういうもんなのか」
「佐野って要領良いみたいな顔して実はバカなのかもね」
「何でだよ!」
「万引きしているから。だから私もバカ」
 確かにその通り過ぎて声が出なかった。
 小山莉愛は続けて、
「なんなら私はタバコも吸っていたし。優等生でいなさいって親から圧力がかかってて」
「親ってウザいよな」
「まあね。うちは心配というかもはや過干渉だし、毒親かも」
「どくおやって何?」
「そういうネットスラングはあんまり知らん感じ?」
 そう小首を傾げた小山莉愛。
 まあ、
「陰キャの文化はあんま入れないようにしている。何かたまに獣後輩とか単語で出てくるじゃん。でも俺は調べないようにしている」
「それは賢いと思うよ。毒親というのは、教育を通り越して、過干渉してきたり、逆に一切干渉せず放任して育てようとしない親のこと。毒の親で毒親ね」
「じゃああれか。顔がやつれてきたら、食べたほうがいいとか言うのは毒親か?」
「……それは別に普通。普通の親だと思うよ」
「そっか、じゃあ違うのか」
 少し呆れるような顔をした小山莉愛は、
「ハッキリ言って、佐野はいわゆる不幸じゃないからね。あんま何もしないで勉強も運動神経も良いなら、ラッキーだし、何よりも顔が整ってんだから、その時点で勝ち確だよ」
「いやでも俺は思考を常に巡らせていたから賢いって感覚だったんだけども」
「思考を巡らせている人間は一郎……花田のこと罵倒したりしないからね。基準が浅いよ」
「じゃあやっぱ俺ってあんま賢くなかったのか……」
「勉強が出来ると、そういう気遣いが出来る賢さって別だからね。私も勉強だけは出来るほうだからさ。高校からだけどね。中学時代はそれこそイジメで頭が回らなくて、だからまあこれくらいの高校に通ってんの」
 俺は目を丸くしながら、
「何で小山莉愛がイジメられんの? 美人じゃん」
 小山莉愛は鼻で笑う感じで吹き出してから、
「女子の世界は見た目が良いと叩かれたりすんの。別に自分のこと美人とも思わないけども、まあなんというか」
 と言い淀んだんだけども、深い溜息のあとに「胸が大きくてね。だからさらし巻いてんだけども、こういう何か、胸デカいと女子の世界は叩かれるもんなの」と。
 やっぱ巨乳ではあったんだ。でもそれがまさか悪いほうに作用するなんて男の世界からは考えられない話だ。
 小山莉愛は窓から遠くを見る感じで、
「佐野も私が巨乳だということを見抜いて、抱かせろとか書いたんでしょ? まあその時はもう私は一郎……花田に告白していたけどもさ」
 俺は正直恥ずかしくなりながら、
「ま、まあ……」
 と返事をすると、小山莉愛はかすれ笑いをしてから、
「まあ慣れているけどね。そういう扱い」
 何だか自分がすごく情けなく感じてきた。というかちょっと前までの自分のことを思い返すと、かなりヤバイかもしれない。
 小山莉愛のことを性的に見ていたことさえ、今現在からしたら申し訳無い。本人の弁を聞くと、こんなに感覚が違うんだ。
 やっぱ自分の中だけで考えていた世界ってすごく狭いんだ。人にはそれぞれ思考があって、能力も違って、俺は何をこんな盛大に勘違いしていたんだ。
 小山莉愛は俺のほうをじっと見てから、
「じゃあ花田に謝罪でもするの? 人の能力には善し悪しがあって、つまりは個体差があるって知ったということは」
 そう言われると、俺は一体どうしたいのか悩んでしまった。というか一切そんなことは考えていなかった。そういうとこだぞ、というネットの声が聞こえてきそうだ。こういうミームはさすがに調べなくても分かる。普通の日本語だからだ。
 小山莉愛はハンと笑ってから、
「まあ確かに気付けたことと謝罪したい気持ちは別だもんね」
 でも、
「俺だって、謝罪したい気持ちはあるよ。気付いてしまったんだから。でも今までのプライドもあってさ」
 すると小山莉愛から矢継ぎ早に、
「今こんなにクラスメイト全員から嫌われていて、まだプライドなんてあるの? 自己評価ホント高いね。相当周りを努力していないって見下していたんだね」
「そんなハッキリ言うなよ」
「言うよ、だって佐野の弱みも握ったし。まあ私は握り返されてもいるけども、もうそこは一蓮托生でしょ」
 本音は、怒る元気も無いってところだ。
 本当に食欲が無くなってしまって、これ以上声が出ないって感じだ。思考もさすがに回っていない感じがする。
 小山莉愛は少し同情する目で、
「親からも言われてるみたいだけども、ご飯食べてる?」
「食べてない」
「じゃあ一緒に食べに行こうよ」
「ファミレス?」
「違うよ、花田の定食屋だよ。花田のお店は朝から開店しているから食べること出来るし」
「今からってこと?」
「そうだよ。高校なんてサボればいいだけだし。今の佐野に花田のことよりも大切なことなんてないでしょ」
 そう言われるとそうな気がしてきた。ちゃんと思考が出来ていないから分かんないけども。
 でも確かに”人間には個体差があることに気付いた→賢くなりました”で終えるのも何か筋が通っていないような気がする。賢くなったのなら行動で示さないといけないと思う。ちゃんと人間らしい行動が出来るようになって初めて人間になれるような気がする。
「分かった。行く」
 とは言ったけども、半分は自暴自棄だ。もうどうにでもなれという気持ちだ。仮に謝罪を”ヤル”なら、小山莉愛が間に入ってくれている時しか出来ないと思う。これを今チャンスだと思ってしまっているところもある。本当は謝罪なんてしなくてもいいのかもしれないけども、俺の話を聞いてくれた小山莉愛がそう言っているんだから、そうしたほうがいいのかもしれない。
 小山莉愛はLIMEで花田に、今から俺を連れて定食屋に行くと連絡を入れて、高校を飛び出した。