川のせせらぎが遠くまで、静かに、やさしく響いている。

 十数年という歳月は、思っていたよりもずっと早く、過ぎ去っていくものらしい。

 あの頃と何も変わらない夕陽に染まる川べりを、娘の小さな手を引いて歩きながら、ふとそう思った。

 コンクリートで固められた土手も、ゆっくりとおだやかに流れる水流も、夕陽に照らされきらきら光る水面も。
 その見慣れた風景は、昔の記憶の中の風景と、十数年経った今でもほとんど変わってはいなかった。


 高校時代、なぜかよくこの川べりに来ていたことを思い出す。

 疲れた時も、辛くなった時も、答えの出ない問いを抱えた時も。
 この場所はいつも、静かに受け止めてくれた。

 あれから十数年もの月日が流れ、生活も、立場も、すっかり変わってしまった。
 けれどこの川の流れだけは、あの頃と変わらない穏やかさで、今日も静かに続いていた。

「ねぇパパみて! あそこキラキラ!」

 幼い声が、川面を指差しながら弾んだ調子で前へ走っていく。

 娘はもうすぐ、五歳になる。
 太陽の光を反射する水面を見て、心から楽しそうに笑っている。

 その無邪気な笑顔を見ていると、いつも遠い記憶の中の誰かの表情を、重ねずにはいられなかった。

「危ないからあんまり端の方行っちゃダメだよ」

「キャッ⁉」

 ふいに娘の悲鳴。
 走っていった娘が草むらで足をとられ、その場に転んでいた。

「お、おい大丈夫かっ⁉」

 慌てて駆け寄る。

「ぐすん、だいじょぶ……」

 娘は膝を擦りむいたのか、目にたんまりと涙を浮かべていた。
 大した怪我ではなさそうだったけど、痛みと驚きで、涙腺が緩んでしまったのだろう。

「はい、ここ座って」

「……」

 優しく背中をさすりながら娘の手を引き、近くのベンチに座った。
 それから財布に入れてあった絆創膏を取り出し、手当てした。

 娘は徐々に落ち着きを取り戻した。

 安心して財布をしまおうとしたその時。
 ふいに財布の奥にしまっていた、小さな便箋が目に入る。

「……」

 つい懐かしくなり、おもむろにその便箋を開いた。


『……たぶんもう、時効だし』


 結婚する時、妻が照れくさそうにそう言ってプレゼントしてくれた、秘密の小さな便箋。
 その中から姿を現す、少し古びてしまった一枚の紙切れ。

「……」

 ふと高校時代を思い出し、なつかしい気持ちになった。

 高校二年のお盆の夜。
 初めて自分の言葉でアプローチして……。

 あれから始まった。
 なぜあの夜彼女と会えたのかは、正直今でもよく思い出せない。

 そして、それからも色々あった。

 いっぱい笑ったし、いっぱい泣いたし、たまにケンカもした。


「…………」


 おもむろにまた、夕陽を眺めた。

 思えばあのお盆の日、ここで夕陽を見てウトウトしてから、ずっと長い夢をみているような気さえする。

 あの頃から気がつくとよく、このベンチに座ってこの景色を眺めていた。
 理由はわからない。

 でもなぜか、ここに座るとやさしい気持ちになれた。
 そしてゆっくりその古びた紙切れを開き、そこに記されている言葉を見た。



 『春斗くんと、ありのままの二人のまま、ずっとしあわせに生きる』



 結婚する時この言葉を見て、不思議な気持ちになった。

 彼女いわく、いつ書いたかも、そもそもそれを書いた記憶さえ、今はもう曖昧らしい。

 それが照れ隠しの嘘なのか、本当にそうなのかは分からない。
 でもそれでも彼女は、高校時代からこの言葉に、ずっと支えられてきたようだった。

 彼女が高校の時からこんなふうに思っていてくれたことが、ただうれしかった。

 でもやっぱり、何度見てもむずがゆかった。

「ねぇお父さん、それなあに?」

 すっかり落ちついた娘が首をかしげ、一枚の紙切れを指差す。

「……」

 そっと深呼吸し、娘にむかって、笑って返した。


「……これはね、お父さんからお母さんへの、ラブレター」


 とっさに出てしまった大嘘。

 それはあまりにも自然で、まるで誰かに言わされたような気さえした。


 それからその紙切れをそっと便箋にしまい、慌ててポケットに隠した。