「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
夜道を走り彼女の家の前に着いたとき、息は完全に上がっていた。
汗がにじみ、シャツが背中に張り付く。
これまでの数ヶ月間、僕はずっと迷い続けてきた。
でももう、迷いはなかった。
川べりから彼女の家まで、何駅分走っただろう。
息が切れ、脇腹が痛んでも、足を止めることはできなかった。
頭の中では、これから何をどう話せばいいのか、何度もシミュレーションを繰り返している。
いざ玄関の前に立つと、用意していたはずの言葉のすべてが、意味を失っているような気がした。
「…………ふぅ」
門の前で立ち止まり、呼吸を整える。
表札横のインターホンを見つめながら、僕は自分がこれからしようとしていることの重さを、改めて実感していた。
全部話してしまえば、これまで彼女と積み上げてきたものもすべて、崩れ去ってしまうかもしれない。
それでももう、後戻りはできなかった。
幸いなことに僕の記憶は、今も鮮明に残っている。
それだけが、唯一の救いだった。
もしかしたら、彼女の記憶はもう……。
僕は意を決して、彼女の自宅のインターホンを押した。
【ピンポーン】
「……」
沈黙……。
『……はい?』
「っ⁉」
しばらくして、インターホン越しから聞き慣れた声。
弥生さんだった。
聞き慣れた声に、少しホッとした。
「あ……弥生さんっ。僕です、春斗です」
『春斗くん? どうしたの、こんな時間に?』
インターホン越しにおどろく弥生さん。
「……今から……外で話せない?」
『え、今から外で? なんで?』
「っ……」
そのニュアンスと声色だけで、僕ははっきりと理解した。
……もう……この前までの、弥生さんじゃない……。
真っ青になった。
急に身体がこわばり、呼吸が浅くなっていく。
「……こんな夜にごめんなさい……でも少しだけ、弥生さんに話したいことあって」
なんとか僕はインターホンの前で姿勢を正し、ていねいにお願いした。
少しの沈黙。
『……わかった。ちょっと待ってて』
「あ、ありがとっ」
弥生さんはそう言ってインターホンを切った。
とりあえず、ホッとした。
でも、何から話せば……。
考える暇もなく、玄関からカチャリと鍵が開く音。
ドアが開くと、そこには驚いた顔でこちらを覗く、弥生さんの姿があった。
「…………」
僕と同じような、Tシャツにハーフパンツのラフな姿。
ひょっこり顔を出し、こちらをうかがっている。
その顔はあきらかに、最近の弥生さんの雰囲気ではなかった。
「っ……」
血の気が引いていく。
家の奥からは、漏れ聞こえてくる妹たちのはしゃぐ声。
「お母さーん、クラスメイト来たからちょっと出てくるー」
「はーい」
弥生さんは家の中にそれだけ伝え、サンダル履きのまま一人、外に出てきた。
「……」
「……」
あきらかに警戒している目。
その顔を見て、僕の不安は確信に変わった。
今の弥生さんにとって僕は、ただのクラスメイト。
もう、僕の知ってるあの弥生さんじゃない。
目を覚ませ。切り替えろ。
そう言い聞かせると、緊張は一気に増した。
「……こ、こんばんは」
「……こんばんは」
高二の初日の会話よりぎこちない、よそよそしい会話。
その会話は、この一学期の間に僕らが育んできた温度感では、決してなかった。
まるで春の初日に逆戻りしてしまったような、そんな感覚。
「……」
「……」
僕たちはほとんど無言のまま、家のそばの川沿いまで歩いた。
川沿いの街灯の下、弥生さんはけげんそうな顔で僕を見つめた。
「……急にどうしたの? 用事?」
「…………」
想像以上に、事務的な声。
最近までの弥生さんとの落差を感じるたび、用意していたはずの言葉は、あっさりと消し飛んでいった。
それはまさしく、四月の最初の放課後までの、素の弥生さんだった。
何から話せばいいのか、どう切り出せばいいのか。
考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になっていく。
「……」
何か、言わなきゃ……。
その思いにかられ、僕はなんとか切り出した。
「……ごめん……」
そんな言葉しか出てこない自分に、失望した。
「え? 何が?」
何に対して僕が謝っているのか、きっと分からないのだろう。
そりゃそうだ。
でもその一言以外、思いつかなかった。
その時、弥生さんのケータイが鳴る。
「あ、お母さん」
弥生さんがそうつぶやき、すぐにメールを返信し始める。
……考えろ。何から話すか。
返信はすぐ終わり、弥生さんのケータイの待ち受けがふと目に入った。
その時だった。
「あっ」
思わず声がもれ、僕は弥生さんのケータイ画面を指差す。
「へ?」
「そ、そのゲームっ!」
そのアイコンはあきらかに、前に僕に合わせて始めたと言ってくれたケータイゲームだった。
「……あれ? 私、こんなゲームいつインストールしたんだろ?」
首をかしげる弥生さん。
僕は思わず頬がゆるんだ。素直にうれしかった。
その僕の顔を見て、弥生さんが続ける。
「そういえば春斗くんって、いっつも教室でケータイゲームしてるよね」
「……そ、そう?」
そうなのか……。自分に失望した。
それでも少しこぼしてくれた弥生さんの笑みに、僕は救われた。
それと同時に、あの日々を全く知らない弥生さんの様子に、また絶望した。
「でも今日の春斗くん、なんかいつもと雰囲気違うかも」
目まぐるしく揺れ動く僕の見て、弥生さんがかすかに目を細める。
僕は思わず息を呑んだ。
「そう……かな」
「うん。だって私たち、クラスでもほとんど話してないし」
「……そうだったね。ごめん」
「全然いいんだけど。てゆうか、なんで私の家わかったの?」
「えっ」
弥生さんはそう言って、僕の顔をまじまじと見てきた。
「そ、それは……そう、せ、先生に聞いてっ」
あまりにも苦しすぎる言い訳。
とっさに出た。
「ふーん、そっか。で、用件は?」
弥生さんの言葉に、僕はおもむろに口を開いた。
「…………信じてもらえないかもだけど、今から話すこと……真剣に聞いてくれますか?」
「……はい」
僕の神妙な空気を察知して、弥生さんはスッと背筋をのばす。
僕らは川を背に、川沿いの手すりに並んでもたれた。
あたたかい夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
僕は鼻から深く息を吸い込み、静かに、ゆっくりと話し始めた。
「四月の初日の放課後。僕が弥生さん誘った時のこと、覚えてる?」
「え? ……あぁ。うん、なんとなく」
「……あの後、僕自宅の近くの川べりふらふら歩いてて。その川べりで、手帳を拾ったんだ」
僕はそれから、これまでの出来事をひとつひとつ、順を追って彼女に話し始めた。
ヒスイ色の手帳のこと。
その夜、思いのままに本音を書き綴ったこと。
僕の独白に、弥生さんは終始驚いた顔を見せながら、黙って聞いてくれた。
数日後、遠足で偶然にしては出来すぎた形で同じ班になったこと。
書いた言葉が、断定形のものだけ、現実になっていくことに気づいたこと。
それからの数ヶ月間、僕がどれだけこの手帳に頼り続けてきたか。
かなり混乱してきたのか、弥生さんが慌てて話を止めた。
「……え、ちょっと待って。なんか私の記憶と、全然違ってるかも。
そもそも私、春斗くんと、ほとんど話してこなかったよね?」
弥生さんはそう言って、けげんそうに僕を見た。
「信じられないよね……。でも一度、ちゃんと聞いて欲しい」
「……う、うん」
僕らは改めて、横並びに戻った。
「……最初は、信じられなかったんだ。手帳に書いた言葉が、本当に現実になるなんて」
「どうゆうこと?」
「遠足のくじ引きも、本屋への誘いも、全部、僕が書いた通りになってた。それが分かってから、僕は少しずつ、その力に頼るようになっていった」
弥生さんは自分が体験してきた記憶と大きく違っていたのか、眉間にしわを寄せる。
少し困惑した様子で、僕の話を聞いていた。
けれど話が進むにつれ、その表情は徐々に強張っていく。
僕は彼女の顔色を見るのが怖くて、うつむいたまま話を続けた。
「本屋に誘ってくれたのも、文化祭の準備で僕との作業を優先してくれたのも、僕が手帳にそう書いたからだと思う。
喫茶店で、弥生さんが『自分がたまに分からなくなる』って言ってくれたときも、僕は本当のことを言えなかった。
花火大会の後の夜、長いメッセージをくれたときも、僕はずっと、真実を隠したまま、弥生さんに向き合ってたんだ」
「…………」
弥生さんは何も言わず、ただ黙って僕の話を聞き続けていた。
重い沈黙。
引いてしまっているのかもしれない。
幻滅しているのかもしれない。
確かめる勇気もなく、うつむいたまま、なんとか続けた。
「そしてさっき、その川べりで、老人に会ったんだ。その人が言った言葉で、僕はやっと、自分がしてきたことの意味に気づいた」
僕は、老人と交わした短い会話のことも、できるだけ正確に伝えようとした。
『気づいた時にはもう、彼女はいなかった』という言葉。
『しあわせだけの人生に、本当のしあわせなんてなかったよ』という言葉。
それを聞いた瞬間、自分の中で何かが決壊したことも全部。
「…………」
「だから、手帳は全部破って、川に流した。
もう二度と、弥生さんの言葉や行動を、僕の願いで書き換えることはしない」
僕は、そこまで一気に話し終えると、深く頭を下げた。
「本当に、ごめん。僕は弥生さんを、身勝手な願いのために、利用してた。
弥生さんが自分が分からなくなるって苦しんでたのも、全部、僕のせいだったんだと思う。
軽蔑されても、仕方ないと思ってる」
僕は夜に、全部吐いた。
彼女は黙って、僕の話を聞いてくれていた。
「……ごめん、意味わからないよね」
「…………」
長い沈黙が、川沿いの夜を覆っていく。
僕はただ、彼女の反応を待った。
「……うん、やっぱり、よくわからない」
「っ……」
全身から、フッと力が抜けた。
…………あたり前だ。
こんな話クラスメイトに突然されて、理解できるわけがない。
「…………そうだよね、ごめん」
僕は謝りながらゆっくりと顔を上げ、恐る恐る、弥生さんを見た。
そして固まった。
「えっ……」
思わず、声が出た。
街灯にうっすら照らされた弥生さんの頬をつたう、ひとすじの涙。
絶句した。
思わずハッとなる弥生さん。
「…………あれ……私、なんで泣いてるんだろ」
弥生さんは頬を拭いながら、驚いた顔で言った。
それは微かに残っている記憶の中の弥生さんの涙なのか、それとも何か別の涙なのか。
僕にはわからなかった。
「……」
弥生さんがとっさに、ポケットからハンカチタオルを取り出す。
その瞬間。
ふいに弥生さんのハンカチタオルの横からこぼれ落ちる、折られた白い紙切れ。
「…………何これ?」
弥生さんが見覚えの無さそうな顔でその折られた紙切れを拾い、首をかしげる。
よく見てみると、その紙の片方には、千切られたような破り跡。
「っ⁉」
僕は言葉を失った。
それはさっき川べりで粉々に破り捨てたあの手帳の破り跡のカタチと、まったく一緒だった。
「そ、それ……たぶん、僕の手帳の最後のページっ……」
その破り取られた跡のカタチを見て、すぐピンときた。
「へっ? 私こんな紙知らない……。それに、なんで私が……?」
たしかに、なんで弥生さんが僕のヒスイ色の手帳の最後のページを……。
いくら考えても、まったく見当がつかない。
老人が持っていた古びた手帳も、同じような破り跡で最後のページだけ欠けていた。
あの時の老人の困惑した表情からしても、老人がなにかウソをついていたとは正直考えにくい。
そもそも僕はいつも手帳を、マンションの自室の机の奥に大切にしまっていた。
なのに、なんで弥生さんが……。
「………………あ」
思い出した。
そうだ、一度だけあった。
確かあれは、五月の始めごろ────
『なーに嬉しそうに見てるのっ』
『へっ⁉』
僕が手帳の力に気づき始めて学校に持っていってた頃、調子に乗って教室で見てたら、彼女に見つかって……。
それから手帳を手に廊下に逃げられて、しばらく持ち去られてた。
『あーわかってるって、文章は見てないから! はいこれ』
『ハァ、ハァ……ちょっと、ホント勘弁してよ』
────たぶん、あの時だ。
あの時に、弥生さんが……。
それしか考えられなかった。
弥生さんがおもむろに、その折られた紙切れを開く。
「……っ⁉」
その中を見た瞬間、目を丸くする弥生さん。
それから慌ててポケットに隠した。
「……その紙に、なんて……」
思わず聞いた。
「っ……」
弥生さんは慌てて首を横に振った。
その、刹那だった。
フーッと、意識が飛んでいく。
「……っ」
「…………春斗くん?」
ぼんやりしていく感覚。
虚ろになっていく世界……────
「…………」
……………………あれ。
僕は、今……。
ここで、なにをしてたんだろう…………。
「……」
「……」
……なにも……思い出せない……。
「っ⁉」
となりにはなぜか、クラスメイトの弥生さん……。
僕は思わず、後ずさった。
…………一体、どうなってんだ?
……落ち着け、思い出せ。
今日は、お盆の八月十五日。
確か、今日僕は一日中自宅でひとりゲームをしていた。
それから気晴らしに散歩してたら、川べりのベンチで、夕陽に見惚れてつい居眠りして……。
そして気づいたらなぜか、僕のとなりにはクラスメイトの弥生さんの姿……。
僕は高校二年の初日、弥生さんに放課後の誘いを断られてから、今までの数か月間。
ずっと弥生さんを避け続けてきた。
今はもう挨拶さえ、ほとんどない。
そんな弥生さんと僕は今、夜の川沿いの手すりに二人並んで、もたれかかっている……。
「……」
さらに弥生さんはなぜか瞳を潤ませ、こちらを見つめている。
これは、一体…………?
「……弥生さん、大丈夫っ?」
「…………」
「僕たち、いったいなんでここに……」
「へっ……」
僕の問いに、弥生さんは真っ青になって固まった。
「……春斗くん、さっき私に話してくれたこと……何も覚えてないの?」
弥生さんが、神妙な面持ちで聞いてくる。
僕には何の事だか、さっぱりわからなかった。
「……うん、ごめん何も……。僕、なんて……」
その瞬間、弥生さんの顔が真っ青になった。
「…………」
「…………」
どうゆうことだ……。
なにがなんだか、全くわからなかった。
しばらくして、弥生さんはゆっくりと顔を上げた。
「……ううん、気にしないで。大丈夫だから」
何が、大丈夫なんだ……。
「…………………………」
「…………………………」
ふいに、夜空を見上げる。
それから、ふぅと、息を吐いた。
僕らの時間は、桜散るあの日から、止まったまま。
思えばずっとこの数か月間、僕は弥生さんから逃げ続けてきた。
……そして、自分からも。
でも、もう、逃げたくない。
「…………弥生さん、」
気がつくと僕はまた、弥生さんに、あの言葉を告げていた。
「……もしよかったら……今度、一緒に下校……しませんか」
「え?」
目を見開く、弥生さん。
それから僕は、グッと拳を握った。
「……いや、一緒に下校しようっ」
「っ……」
とっさに付け加えた。
正しいかなんて、僕にもわからない。
でもそんなこと、関係ない。
僕の止まってしまった時間を再び動かすためには、このセリフしかなかった。
下手でいい。不器用なままでいい。
これが今の、ありのままの僕だ。
「…………」
街灯の淡い光の下、夜風が彼女の髪を、かすかに揺らす。
彼女はゆっくり顔を上げると、涙目のままフッと笑った。
「……まだ、夏休みだよ?」
「……関係ない。ずっと…………待ってる」
僕のその必死の一言に、弥生さんは突然、吹き出した。
その笑顔は、僕が一年のころからずっと見続けていた、弥生さんそのものだった。
僕が初めての恋をした、ありのままの弥生さんだった。
そして弥生さんは僕に向かって、笑って明るくこう言った。
「じゃあ、明日の十六時、制服で校門集合ね」
夜道を走り彼女の家の前に着いたとき、息は完全に上がっていた。
汗がにじみ、シャツが背中に張り付く。
これまでの数ヶ月間、僕はずっと迷い続けてきた。
でももう、迷いはなかった。
川べりから彼女の家まで、何駅分走っただろう。
息が切れ、脇腹が痛んでも、足を止めることはできなかった。
頭の中では、これから何をどう話せばいいのか、何度もシミュレーションを繰り返している。
いざ玄関の前に立つと、用意していたはずの言葉のすべてが、意味を失っているような気がした。
「…………ふぅ」
門の前で立ち止まり、呼吸を整える。
表札横のインターホンを見つめながら、僕は自分がこれからしようとしていることの重さを、改めて実感していた。
全部話してしまえば、これまで彼女と積み上げてきたものもすべて、崩れ去ってしまうかもしれない。
それでももう、後戻りはできなかった。
幸いなことに僕の記憶は、今も鮮明に残っている。
それだけが、唯一の救いだった。
もしかしたら、彼女の記憶はもう……。
僕は意を決して、彼女の自宅のインターホンを押した。
【ピンポーン】
「……」
沈黙……。
『……はい?』
「っ⁉」
しばらくして、インターホン越しから聞き慣れた声。
弥生さんだった。
聞き慣れた声に、少しホッとした。
「あ……弥生さんっ。僕です、春斗です」
『春斗くん? どうしたの、こんな時間に?』
インターホン越しにおどろく弥生さん。
「……今から……外で話せない?」
『え、今から外で? なんで?』
「っ……」
そのニュアンスと声色だけで、僕ははっきりと理解した。
……もう……この前までの、弥生さんじゃない……。
真っ青になった。
急に身体がこわばり、呼吸が浅くなっていく。
「……こんな夜にごめんなさい……でも少しだけ、弥生さんに話したいことあって」
なんとか僕はインターホンの前で姿勢を正し、ていねいにお願いした。
少しの沈黙。
『……わかった。ちょっと待ってて』
「あ、ありがとっ」
弥生さんはそう言ってインターホンを切った。
とりあえず、ホッとした。
でも、何から話せば……。
考える暇もなく、玄関からカチャリと鍵が開く音。
ドアが開くと、そこには驚いた顔でこちらを覗く、弥生さんの姿があった。
「…………」
僕と同じような、Tシャツにハーフパンツのラフな姿。
ひょっこり顔を出し、こちらをうかがっている。
その顔はあきらかに、最近の弥生さんの雰囲気ではなかった。
「っ……」
血の気が引いていく。
家の奥からは、漏れ聞こえてくる妹たちのはしゃぐ声。
「お母さーん、クラスメイト来たからちょっと出てくるー」
「はーい」
弥生さんは家の中にそれだけ伝え、サンダル履きのまま一人、外に出てきた。
「……」
「……」
あきらかに警戒している目。
その顔を見て、僕の不安は確信に変わった。
今の弥生さんにとって僕は、ただのクラスメイト。
もう、僕の知ってるあの弥生さんじゃない。
目を覚ませ。切り替えろ。
そう言い聞かせると、緊張は一気に増した。
「……こ、こんばんは」
「……こんばんは」
高二の初日の会話よりぎこちない、よそよそしい会話。
その会話は、この一学期の間に僕らが育んできた温度感では、決してなかった。
まるで春の初日に逆戻りしてしまったような、そんな感覚。
「……」
「……」
僕たちはほとんど無言のまま、家のそばの川沿いまで歩いた。
川沿いの街灯の下、弥生さんはけげんそうな顔で僕を見つめた。
「……急にどうしたの? 用事?」
「…………」
想像以上に、事務的な声。
最近までの弥生さんとの落差を感じるたび、用意していたはずの言葉は、あっさりと消し飛んでいった。
それはまさしく、四月の最初の放課後までの、素の弥生さんだった。
何から話せばいいのか、どう切り出せばいいのか。
考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になっていく。
「……」
何か、言わなきゃ……。
その思いにかられ、僕はなんとか切り出した。
「……ごめん……」
そんな言葉しか出てこない自分に、失望した。
「え? 何が?」
何に対して僕が謝っているのか、きっと分からないのだろう。
そりゃそうだ。
でもその一言以外、思いつかなかった。
その時、弥生さんのケータイが鳴る。
「あ、お母さん」
弥生さんがそうつぶやき、すぐにメールを返信し始める。
……考えろ。何から話すか。
返信はすぐ終わり、弥生さんのケータイの待ち受けがふと目に入った。
その時だった。
「あっ」
思わず声がもれ、僕は弥生さんのケータイ画面を指差す。
「へ?」
「そ、そのゲームっ!」
そのアイコンはあきらかに、前に僕に合わせて始めたと言ってくれたケータイゲームだった。
「……あれ? 私、こんなゲームいつインストールしたんだろ?」
首をかしげる弥生さん。
僕は思わず頬がゆるんだ。素直にうれしかった。
その僕の顔を見て、弥生さんが続ける。
「そういえば春斗くんって、いっつも教室でケータイゲームしてるよね」
「……そ、そう?」
そうなのか……。自分に失望した。
それでも少しこぼしてくれた弥生さんの笑みに、僕は救われた。
それと同時に、あの日々を全く知らない弥生さんの様子に、また絶望した。
「でも今日の春斗くん、なんかいつもと雰囲気違うかも」
目まぐるしく揺れ動く僕の見て、弥生さんがかすかに目を細める。
僕は思わず息を呑んだ。
「そう……かな」
「うん。だって私たち、クラスでもほとんど話してないし」
「……そうだったね。ごめん」
「全然いいんだけど。てゆうか、なんで私の家わかったの?」
「えっ」
弥生さんはそう言って、僕の顔をまじまじと見てきた。
「そ、それは……そう、せ、先生に聞いてっ」
あまりにも苦しすぎる言い訳。
とっさに出た。
「ふーん、そっか。で、用件は?」
弥生さんの言葉に、僕はおもむろに口を開いた。
「…………信じてもらえないかもだけど、今から話すこと……真剣に聞いてくれますか?」
「……はい」
僕の神妙な空気を察知して、弥生さんはスッと背筋をのばす。
僕らは川を背に、川沿いの手すりに並んでもたれた。
あたたかい夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
僕は鼻から深く息を吸い込み、静かに、ゆっくりと話し始めた。
「四月の初日の放課後。僕が弥生さん誘った時のこと、覚えてる?」
「え? ……あぁ。うん、なんとなく」
「……あの後、僕自宅の近くの川べりふらふら歩いてて。その川べりで、手帳を拾ったんだ」
僕はそれから、これまでの出来事をひとつひとつ、順を追って彼女に話し始めた。
ヒスイ色の手帳のこと。
その夜、思いのままに本音を書き綴ったこと。
僕の独白に、弥生さんは終始驚いた顔を見せながら、黙って聞いてくれた。
数日後、遠足で偶然にしては出来すぎた形で同じ班になったこと。
書いた言葉が、断定形のものだけ、現実になっていくことに気づいたこと。
それからの数ヶ月間、僕がどれだけこの手帳に頼り続けてきたか。
かなり混乱してきたのか、弥生さんが慌てて話を止めた。
「……え、ちょっと待って。なんか私の記憶と、全然違ってるかも。
そもそも私、春斗くんと、ほとんど話してこなかったよね?」
弥生さんはそう言って、けげんそうに僕を見た。
「信じられないよね……。でも一度、ちゃんと聞いて欲しい」
「……う、うん」
僕らは改めて、横並びに戻った。
「……最初は、信じられなかったんだ。手帳に書いた言葉が、本当に現実になるなんて」
「どうゆうこと?」
「遠足のくじ引きも、本屋への誘いも、全部、僕が書いた通りになってた。それが分かってから、僕は少しずつ、その力に頼るようになっていった」
弥生さんは自分が体験してきた記憶と大きく違っていたのか、眉間にしわを寄せる。
少し困惑した様子で、僕の話を聞いていた。
けれど話が進むにつれ、その表情は徐々に強張っていく。
僕は彼女の顔色を見るのが怖くて、うつむいたまま話を続けた。
「本屋に誘ってくれたのも、文化祭の準備で僕との作業を優先してくれたのも、僕が手帳にそう書いたからだと思う。
喫茶店で、弥生さんが『自分がたまに分からなくなる』って言ってくれたときも、僕は本当のことを言えなかった。
花火大会の後の夜、長いメッセージをくれたときも、僕はずっと、真実を隠したまま、弥生さんに向き合ってたんだ」
「…………」
弥生さんは何も言わず、ただ黙って僕の話を聞き続けていた。
重い沈黙。
引いてしまっているのかもしれない。
幻滅しているのかもしれない。
確かめる勇気もなく、うつむいたまま、なんとか続けた。
「そしてさっき、その川べりで、老人に会ったんだ。その人が言った言葉で、僕はやっと、自分がしてきたことの意味に気づいた」
僕は、老人と交わした短い会話のことも、できるだけ正確に伝えようとした。
『気づいた時にはもう、彼女はいなかった』という言葉。
『しあわせだけの人生に、本当のしあわせなんてなかったよ』という言葉。
それを聞いた瞬間、自分の中で何かが決壊したことも全部。
「…………」
「だから、手帳は全部破って、川に流した。
もう二度と、弥生さんの言葉や行動を、僕の願いで書き換えることはしない」
僕は、そこまで一気に話し終えると、深く頭を下げた。
「本当に、ごめん。僕は弥生さんを、身勝手な願いのために、利用してた。
弥生さんが自分が分からなくなるって苦しんでたのも、全部、僕のせいだったんだと思う。
軽蔑されても、仕方ないと思ってる」
僕は夜に、全部吐いた。
彼女は黙って、僕の話を聞いてくれていた。
「……ごめん、意味わからないよね」
「…………」
長い沈黙が、川沿いの夜を覆っていく。
僕はただ、彼女の反応を待った。
「……うん、やっぱり、よくわからない」
「っ……」
全身から、フッと力が抜けた。
…………あたり前だ。
こんな話クラスメイトに突然されて、理解できるわけがない。
「…………そうだよね、ごめん」
僕は謝りながらゆっくりと顔を上げ、恐る恐る、弥生さんを見た。
そして固まった。
「えっ……」
思わず、声が出た。
街灯にうっすら照らされた弥生さんの頬をつたう、ひとすじの涙。
絶句した。
思わずハッとなる弥生さん。
「…………あれ……私、なんで泣いてるんだろ」
弥生さんは頬を拭いながら、驚いた顔で言った。
それは微かに残っている記憶の中の弥生さんの涙なのか、それとも何か別の涙なのか。
僕にはわからなかった。
「……」
弥生さんがとっさに、ポケットからハンカチタオルを取り出す。
その瞬間。
ふいに弥生さんのハンカチタオルの横からこぼれ落ちる、折られた白い紙切れ。
「…………何これ?」
弥生さんが見覚えの無さそうな顔でその折られた紙切れを拾い、首をかしげる。
よく見てみると、その紙の片方には、千切られたような破り跡。
「っ⁉」
僕は言葉を失った。
それはさっき川べりで粉々に破り捨てたあの手帳の破り跡のカタチと、まったく一緒だった。
「そ、それ……たぶん、僕の手帳の最後のページっ……」
その破り取られた跡のカタチを見て、すぐピンときた。
「へっ? 私こんな紙知らない……。それに、なんで私が……?」
たしかに、なんで弥生さんが僕のヒスイ色の手帳の最後のページを……。
いくら考えても、まったく見当がつかない。
老人が持っていた古びた手帳も、同じような破り跡で最後のページだけ欠けていた。
あの時の老人の困惑した表情からしても、老人がなにかウソをついていたとは正直考えにくい。
そもそも僕はいつも手帳を、マンションの自室の机の奥に大切にしまっていた。
なのに、なんで弥生さんが……。
「………………あ」
思い出した。
そうだ、一度だけあった。
確かあれは、五月の始めごろ────
『なーに嬉しそうに見てるのっ』
『へっ⁉』
僕が手帳の力に気づき始めて学校に持っていってた頃、調子に乗って教室で見てたら、彼女に見つかって……。
それから手帳を手に廊下に逃げられて、しばらく持ち去られてた。
『あーわかってるって、文章は見てないから! はいこれ』
『ハァ、ハァ……ちょっと、ホント勘弁してよ』
────たぶん、あの時だ。
あの時に、弥生さんが……。
それしか考えられなかった。
弥生さんがおもむろに、その折られた紙切れを開く。
「……っ⁉」
その中を見た瞬間、目を丸くする弥生さん。
それから慌ててポケットに隠した。
「……その紙に、なんて……」
思わず聞いた。
「っ……」
弥生さんは慌てて首を横に振った。
その、刹那だった。
フーッと、意識が飛んでいく。
「……っ」
「…………春斗くん?」
ぼんやりしていく感覚。
虚ろになっていく世界……────
「…………」
……………………あれ。
僕は、今……。
ここで、なにをしてたんだろう…………。
「……」
「……」
……なにも……思い出せない……。
「っ⁉」
となりにはなぜか、クラスメイトの弥生さん……。
僕は思わず、後ずさった。
…………一体、どうなってんだ?
……落ち着け、思い出せ。
今日は、お盆の八月十五日。
確か、今日僕は一日中自宅でひとりゲームをしていた。
それから気晴らしに散歩してたら、川べりのベンチで、夕陽に見惚れてつい居眠りして……。
そして気づいたらなぜか、僕のとなりにはクラスメイトの弥生さんの姿……。
僕は高校二年の初日、弥生さんに放課後の誘いを断られてから、今までの数か月間。
ずっと弥生さんを避け続けてきた。
今はもう挨拶さえ、ほとんどない。
そんな弥生さんと僕は今、夜の川沿いの手すりに二人並んで、もたれかかっている……。
「……」
さらに弥生さんはなぜか瞳を潤ませ、こちらを見つめている。
これは、一体…………?
「……弥生さん、大丈夫っ?」
「…………」
「僕たち、いったいなんでここに……」
「へっ……」
僕の問いに、弥生さんは真っ青になって固まった。
「……春斗くん、さっき私に話してくれたこと……何も覚えてないの?」
弥生さんが、神妙な面持ちで聞いてくる。
僕には何の事だか、さっぱりわからなかった。
「……うん、ごめん何も……。僕、なんて……」
その瞬間、弥生さんの顔が真っ青になった。
「…………」
「…………」
どうゆうことだ……。
なにがなんだか、全くわからなかった。
しばらくして、弥生さんはゆっくりと顔を上げた。
「……ううん、気にしないで。大丈夫だから」
何が、大丈夫なんだ……。
「…………………………」
「…………………………」
ふいに、夜空を見上げる。
それから、ふぅと、息を吐いた。
僕らの時間は、桜散るあの日から、止まったまま。
思えばずっとこの数か月間、僕は弥生さんから逃げ続けてきた。
……そして、自分からも。
でも、もう、逃げたくない。
「…………弥生さん、」
気がつくと僕はまた、弥生さんに、あの言葉を告げていた。
「……もしよかったら……今度、一緒に下校……しませんか」
「え?」
目を見開く、弥生さん。
それから僕は、グッと拳を握った。
「……いや、一緒に下校しようっ」
「っ……」
とっさに付け加えた。
正しいかなんて、僕にもわからない。
でもそんなこと、関係ない。
僕の止まってしまった時間を再び動かすためには、このセリフしかなかった。
下手でいい。不器用なままでいい。
これが今の、ありのままの僕だ。
「…………」
街灯の淡い光の下、夜風が彼女の髪を、かすかに揺らす。
彼女はゆっくり顔を上げると、涙目のままフッと笑った。
「……まだ、夏休みだよ?」
「……関係ない。ずっと…………待ってる」
僕のその必死の一言に、弥生さんは突然、吹き出した。
その笑顔は、僕が一年のころからずっと見続けていた、弥生さんそのものだった。
僕が初めての恋をした、ありのままの弥生さんだった。
そして弥生さんは僕に向かって、笑って明るくこう言った。
「じゃあ、明日の十六時、制服で校門集合ね」
