八月十五日。
長い夏休みもすでに折り返しを過ぎ、町全体がお盆の静けさに包まれる、そんな夕方だった。
父もこの時期だけは毎年マンションに帰省し、二人で母方の田舎へ向かいお盆を過ごすのが、いつもの恒例行事だった。
けれど今年は「友達と大事な約束がある」という理由を告げ、僕は母方の実家には泊まらずお参りだけ済ませ、一人マンションに帰ってきていた。
実際、そんな大事な約束があったわけじゃない。
明日の十六日に弥生さんとデートする約束、それだけだった。
でもそれも仕方のないことだった。
彼女と会う前に、僕は一人でゆっくり、気持ちの整理をしたかった。
この夏休み中に、弥生さんとちゃんと向き合わなければならないという焦りからだった。
そのためにも、前日は一人で備えたいという気持ちだった。
いつものがらんとしたマンションのリビングから、眼下に広がる見慣れた町並みをぼんやり眺める。
夕暮れの光が、川面や点在する民家やビルの窓ガラスに反射して、きらきら輝いている。
普段なら気にも留めないその見慣れた町の光景が、今日はやけに胸に沁みるように感じられた。
一人きりのマンションというのは、こんなにも静かなものだったろうか。
久々に父と数日過ごしていたから、ついそう思った。
僕は物心ついたころから、ここに父と二人暮らし。
小さいころから父は仕事で不在なことが多く、ひとりには慣れていた。
父の単身赴任が決まった時も、全然平気だった。
それなのに今日の静けさは、いつもとは質の違うものに感じられた。
まるで見えない何かが、常に僕に何かを問いかけているような、そんな緊迫感があった。
この夏休み中も、僕は結局、あの手帳の開くことは一度もなかった。
何も書かずに閉じたあの日から、僕はまったくあの手帳に書き記してないし見てもいない。
開くこともできず、ただただ机の中で時を重ねていくヒスイ色の手帳。
それはまるで、今の僕の心境を、そのまま表しているかのようだった。
夏休みに入ってからも、弥生さんとは何度か会っていた。
七月末、弥生さんが家族旅行に出かける前に一度。
八月初めには、青春アニメの映画も観に行った。
先日は妹たちの世話の合間を縫って、少しの時間だけ最寄り駅で会ったりもした。
そのどれもがしあわせで、穏やかな時間だった。
まさにあのお祭りの日のままの、僕の理想の弥生さん。
けれど僕は彼女と会うたびに、あの花火大会の夜に届いた長いメッセージのことを、思い出さずにはいられなかった。
映画の帰り道。
弥生さんはいつも通り、映画の感想をうれしそうに話してくれた。
そういえば最近は、愚痴みたいな言葉はまったく聞かなくなった。
いつも変わらず、しあわせそうな弥生さん。
それでも僕は、そんな完璧な彼女の笑顔の裏にひそむ、陰りのようなものも感じずにはいられなかった。
それが本当の彼女の中に存在する影なのか、それとも僕の理想が作り出してしまった影なのか。
自分では判断がつかなかった。
『私ホントはね、自分がいま本当に楽しいのか、それとも春斗くんが喜んでくれるように楽しんでるだけなのか、分からなくなる瞬間あったの』
あの花火のあとのメッセージが、ふいに頭をよぎる。
弥生さんのその感覚が彼女の中でどう変化しているのか、あるいは変化していないのか。
もしくはもうすでに、なくなってしまっているのか。
僕には確かめる術なんてなかった。
会うたびに聞きたい衝動に駆られながら、結局その話題に触れることもできず、ただ、しあわせな時間だけが無常に過ぎていった。
町並みを眺めながら僕はふと、自分がこれから何を望めばいいのか、まったく分からなくなってしまっている自分に気づいた。
最近はずっと、延々とこの感覚に向き合い続けてる気がする。
これまでの数ヶ月間、僕はずっと何かを望み、それを手帳に書き記すことで日常を紡いできた。
でもそれを達成してしまった今。
新たに望むべきものは、もう僕の中に、何も残ってはいなかった。
弥生さんとの関係は、すでに望んだ通りの、しあわせな状態になっている。
これ以上、何を望めばいいというのだろう。
もっと好かれたい? もっと一緒にいたい?
そのどれも、何かがちがう。
これ以上を望むことに、僕はもう明確な意味を見出せなくなっていた。
それはまるで、あの最高の花火を観たあとの儚い夜空のような。
あの一瞬の輝かしい幻のような、空虚な感覚。
「……」
連日の猛暑のせいか、昼食もあまり食べる気にはなれなかった。
ゲームも、今では全然やる気が起きない。
僕はこんなことをずっとぐるぐる考え、テレビもつけずにぼんやり夕方まで過ごしてしまっていた。
「…………はぁ。少し、散歩するか」
時計の針が夜六時を回るころ、僕はやっと重い腰を上げた。
カギとケータイだけ持ち、Tシャツにハーフパンツ姿の軽い格好で、マンションを出た。
外はすでに、夏の深い夕暮れに包まれていた。
まだまだ熱気はあるがお盆の時期特有の、どこか静かな町の空気。
普段なら賑やかな町の商店街も、お盆の今日は多くの店がシャッターを下ろしていて、人通りもいつも以上にまばらだった。
僕は目的もなく、ただ、足の向くまま歩いた。
あんなに連日泣きわめいていたアブラゼミの声もトーンダウンし、ヒグラシの声が聞こえる。
どこかから鈴虫の声も、かすかに聞こえ始めていた。
夏の終わりを感じながら、僕は噛みしめるように、この程よい田舎の町を歩き続けた。
人けのない道を歩いているとふいに、自分がまるでこの世界にたった一人で取り残されたかのような、そんな錯覚に襲われた。
「……」
気がつくと僕の足は、あの川べりへと向かっていた。
四月の新学期最初のあの日。
ヒスイ色の手帳を拾った、あの川べりへ。
特に意識していたわけではなかった。
でも無意識のうちに、身体があの場所を求めていたのかもしれない。
川べりに着いて土手を下りると、そこにはあの日と変わらない、懐かしい景色が広がっていた。
コンクリートで固められた岸辺。ゆっくりと流れる水面。優雅な時を刻み続ける、河川敷。
四月から数ヶ月しか経っていないはずなのに、その光景はまるで、何十年も前の記憶のような郷愁さえ感じさせた。
僕静かに深呼吸した。
それから誰もいない夕暮れの川べりで、あの日手帳を見つけたベンチに腰を下ろした。
夕闇が次第に濃くなり、川面に反射する光も、オレンジから紫、そして深い藍色へと、徐々に移り変わっていく。
どこか懐かしくて、儚くて、不思議な感覚に包まれていった。
「…………ここの景色も、全然変わらんな」
その時だった。
「っ⁉」
突然、後ろからぼそりと男性の声。
思わずビクンとなった。
まさか後ろに人がいたなんて、思いもしなかった。
恐る恐る振り向くと、後ろには老人の男性がひとり、静かに立っていた。
「……」
「……」
白髪で、少し曲がった背中。片手には古びた杖をついている。
着ている服は八月だというのに、長袖の上着だった。
老人は僕の顔も見ず、ただずっと、川べりの夕陽に見惚れてるようだった。
それから老人は静かに、僕の座るベンチにゆっくりと腰かけた。
「いい空気だな、やっぱりここは」
「……そ、そうですか」
動揺していて、うまく返事できない。
よく見ると老人の顔には、深く刻まれたシワが幾重にも重なっていた。
長い年月を生きてきたことを物語る、その顔立ち。目だけが妙に若々しく、どこか懐かしかった。
着古した上着の袖口は少しほつれ、その姿はどこか、浮世離れした雰囲気が漂っていた。
その老人からは季節外れの冷たさのような、どこか達観した冷酷さのようなものがひしひしと感じられた。
それはまるでひとりだけ違う世界からやってきたような、そんな雰囲気だった
「……」
「……」
しばらく僕たち二人は無言のまま、沈んでゆく夕陽と川面を静かに眺めていた。
鈴虫の音が、遠くから重なり合って聞こえる。
しばらくして老人は、独り言のような調子で、ぽつりと声を漏らした。
「……うん、やっぱり素晴らしい」
「…………」
独り言なのか、僕への会話なのかよくわからない一言。
反応に困った。
それでもその老人が感じている余韻が、僕の耳の奥に染み込んでくるような感覚があった。
老人はこちらを見ることもなく、ただ、川と夕陽の景色を見つめ続けている。
その横顔は何かを懐かしんでいるようにも、何かを悔いているようにも見えた。
「……おひとりですか?」
沈黙に耐えかね、僕は恐る恐る、老人にたずねた。
老人は少しのあいだ沈黙を保ったあと、静かに口を開いた。
「……ああ」
穏やかにそう答えると、僕の方に視線を向けた。
深く刻まれたシワの奥にある瞳は、驚くほど穏やかだった。
それはまるで、長い年月によって削られ続けた、川底の角の取れた丸石のような、そんな瞳。
その見透かされたような視線に、僕は思わずスッと姿勢を正した。
「君は今、しあわせかい?」
「え?」
ふいに、老人が僕にたずねてきた。
あまりにも唐突で抽象的な質問に、思わずたじろぐ。
その問いに、僕はすぐに答えることができなかった。
老人は、何を聞いているんだろう……。
ただの世間話なのか、それとも何か深い意味を問う言葉なのか。
僕には判断がつかなかった。
でもその言葉のひとつひとつが僕の心を見透かしているような、そんな感覚がしてならなかった。
「……はい、しあわせです」
とっさに答えたその言葉は、自分でも驚くほど淡白だった。
そこにはまるで感情がこもっていなかった。
その淡白さに、僕自身が一番おどろいた。
「そうかい。よりゃ何よりだ」
老人はそう言って、軽く微笑んだ。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
関節が軋むような、小さな音が聞こえる。
それから老人は、静かに口を開いた。
「……弥生さんは、しあわせそうかい?」
「………………えっ」
背すじが凍った。
心臓が一拍だけ、ドクンと跳ねる。
「…………な……なんで弥生さんのこと……」
気が動転したまま、あわてて聞き返す。
老人はおもむろに懐の方に手を伸ばした。
「っ⁉」
老人の懐から取り出されたものを見た瞬間、血の気が引いた。
その老人の手にあったのは、ヒスイ色の手帳だった。
「………………」
頭が真っ白になった。
わけがわからなかった。
少し色褪せてはいるがそれはあきらかに、あの手帳。
「な、なんで……あなたがその手帳をっ⁉」
老人はその手に持った古びたヒスイ色の手帳を、懐かしむように哀しげに見つめた。
「もう、すっかり古くなったさ」
よく目をこらすと、その表紙のヒスイ色はかなり色褪せている。
長い年月を経てきたことが、その傷み方だけで十分に伝わってきた。
「もう……とっくに、ただの手帳さ」
老人は、虚しい声で続けた。
その言葉を聞いて、僕はいてもたってもいられなかった。
そもそも、この目の前の老人は……。
「…………っ!」
気づくと僕は立ち上がり、走り出していた。
行先は一つしかなかった。
僕は一目散に走った。
何も考えれない。考えたくもなかった。
「ハァ! ハァ!」
今の僕にはただ、全力で走ることしかできなかった。
夕闇の道を駆ける足音が、静まり返った住宅街に、やけに大きく虚しく反響する。
息は上がり、心臓は張り裂けそうなくらい脈を打っていた。
真っ白だった。
とりあえず、あの引き出しの手帳を確かめなければ……。
その一心で、僕は走った。
マンションのエレベーターに飛び乗り、流れるように自室へ駆け込む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
そして机の引き出しを、恐る恐る開けた。
「……っ!」
その奥には、見慣れたヒスイ色の手帳。
前と変わらぬ姿で、そこに存在し続けていた。
「……あ、あった」
思わず吐息がもれ、力が抜けた。
その変わらぬ佇まいに少しほっとしている自分と、不安を感じている自分が、同時に存在していた。
手帳を手に取り、まじまじ確認する。
間違いなく、僕が今まで書いてきた手帳だ。
さっき川べりで見た老人の歳月を感じさせる古びた手帳とは、佇まいの深みがあきらかに違っていた。
僕は少し安堵しながら、パラパラと中のページも確認していく。
何も、変わりない。
「…………ん?」
その時だった。
最後のページをよく見ると、何やら手帳の最後のページだけ、わずかに破られた跡。
「えっ……これ……」
動揺した。
こんなページが破られた跡、前からあっただろうか……。
「……」
まったく思い出せない。
というより、こんな空白の最後のページなんて見てもなかったから、正直確認しようもなかった。
でももしかして、これがあの老人の仕業だったら……。
ふらりと浮かび、膨らんでいく疑念。
「……っ!」
気づくと僕は手帳を手に、またあの川べりへと駆け出していた。
もう、ちゃんと確かめるしかなかった。
あの手帳のことも、この最後の破り跡のことも。
「ハァッ! ハァッ!」
夜の町を、再び疾走する。
息は完全に上がり、ひたいに汗がにじむ。
街灯の光が、等間隔に僕の影を伸ばしては、後ろ闇の中へと次々と吸い込まれていった。
何度も信号無視し、横断歩道を斜めに横切っていく。
まわりから見たら、ヤバい奴。
でもそれでも僕は、この足を止めることはできなかった。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
再び川べりに着いた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
肩で息をしながら、さっき老人といたあのベンチを目指す。
点在する街灯を小気味よく超えてあのベンチに着くと、そこにはもう、老人の姿はなかった。
「ハァ……ハァ……」
僕はあたりをぐるりと見回す。
心臓の脈動がぐいんぐいんと、耳の奥までうるさく響いた。
川面に目をやると、何やら小さな、ふんわりした発光体。
薄暗くなった川べりには、いくつかの灯篭が、水面を流れていた。
オレンジ色の小さな灯篭の灯りが、深い藍色に染まる川面にぽつりぽつりと浮かび、静かに悠々と流れていく。
ひとつ、またひとつと、その数は増えていった。
その光景はどこか厳かで、幻想的だった。
「……今日は、精霊流しか」
「っ⁉」
突然、対岸の闇の先から声。
よく見ると川の対岸には、さっきの老人が立っていた。
オレンジ色の灯りにほんのり照らされたその輪郭は、どこか憂いているようにも見えた。
それはまるで、漆黒の闇に覆われる寸前で、なんとか踏みとどまっているかのようだった。
僕はすぐ、家から持って来たヒスイ色の手帳を取り出す。
最後のページを開き、対岸の老人に向かってその破れた跡を見せた。
「この最後のページの破れた跡は、あなたの仕業ですかっ?」
意を決して、老人にたずねた。
老人は僕の手帳の破れた跡を確認すると目を丸くし、おもむろに首をかしげた。
そしてすぐ、老人は手に持っていた古びた手帳を確認しだす。
老人の手帳に目をこらすと、確かにその古びた手帳にも同じように破られた跡が残っていた。
「はて……? ワタシも今はじめて気づいたよ」
驚きを隠せない様子の老人。
「そ、そうですか……」
その様子から、老人の仕業でないことは明白だった。
信じたくはなかったが、僕は信じざるを得なかった。
それから続けて老人に、恐る恐るたずねた。
「……その手帳の効果が消えたの、いつ頃なんですか?」
僕の問いに、老人は少し顔を曇らせた。
「……ワタシが異変に気づいたのは、たしか高校を卒業したころだったか」
老人は自信なさげに言った。
「…………そうですか」
いつかは消えてしまう。それは覚悟していた。
でも改めて言われると、さすがにたじろいだ。
そして僕は勢いに任せてつい、聞いてしまった。
「…………弥生さんは……しあわせに、生きてますか?」
「……」
その言葉に、老人の目の色が変わる。
それからゆっくりと、口を開いた。
「……ああ、しあわせそうだよ。今も」
遠い目をして、他人事のように言い放つ老人。
誰かに言わされたような、そんな無機質な言葉だった。
その抑揚のない乾いた声に、まるで答えることにさえもう意味を見出していないかのような、そんな虚しさを感じた。
「気づいた時にはもう、彼女はいなかった」
老人はうつむきながら、ぽつりとそう漏らした。
あまりにも無気力なその言葉に、思わず固唾をのんだ。
老人は続ける。
「……もう、彼女は僕を否定することもなければ、僕の嫌がることも絶対しない。本当に、完璧な女性さ」
老人は微笑んでみせた。
こんなかなしい微笑みを、僕は人生ではじめて見た。
「……しあわせだけの人生に、しあわせなんてなかったよ」
消え入る夕陽を見つめながら、老人は諭すように言った。
「……」
僕はしばらく、その場から動くことができなかった。
老人の言葉が、頭の中で何度も、反響しつづける。
『気づいた時にはもう、彼女はいなかった』
「……」
『……しあわせだけの人生に、しあわせなんてなかったよ』
「…………」
その無機質な言葉が、無気力な顔が、僕の胸に、重く、重くのしかかる。
「もう今じゃ何を書いても、ひとつも現実なんて変わらん」
老人は、吐き捨てるように言った。
「……………………」
返す言葉がなかった。
「……なぁ」
ふいに、老人がそう言って僕を見た。
「…………はい」
それから老人は、対岸の僕に向かって頭を下げた。
「……ひとつだけでいい。ワタシの願い、聞いてはくれんか」
思いもよらない老人の提案に、驚いた。
「……願い?」
僕が聞き返すと、老人は僕の目を見て、ゆっくりと、言葉をつむいだ。
「『弥生さんと、ありのままの二人のまま、ずっとしあわせに生きる』。
これだけ。たったこの一文だけでいい。
君の手帳の最後に、この言葉だけ……書き加えてはくれないか」
すがるように、懇願する老人。
「っ……」
その姿に、僕は思わず目をそらした。
つらかった。見てられなかった。
……僕も、いつか……………………。
その瞬間。
頭の中で、何かが弾けた。
「っ!」
気がつくと僕の両手は、自分の手帳を両手で無造作に掴んでいた。
「なっ⁉」
そのまま左右に、ピンと引っ張る。
ビリッと亀裂が入った。
「な、何をしとるっ⁉」
慌てて対岸から制止しようとする老人。
「いいから落ち着けっ。そんなことをしたら……何が起こるかわからんぞっ⁉」
「っ……」
思わずひるんだ。
その僕をみて、老人がたたみかける。
「今までの記憶すべて……消え去るやもしれん。
理想の未来も……もちろんワタシも……。
そして…………彼女の記憶もっ!」
「っ⁉」
この言葉に、全身が凍り付いた。
感覚が消えていった。
全部、すべて…………。
「お、お願いだっ。頼むからそれだけはやめてくれ。頼む。彼女のためにもっ」
「…………」
老人は何度も、さとすように言った。
僕の中で、言葉にできないあらゆる想いが、身体中を駆け巡っていく。
「……」
「……」
老人を見た。
それから、おもむろにたずねた。
「……いいんですか、ホントにそれで」
その問いに、老人は静かにうつむいた。
その老いた肩は、かすかに震えているように見えた。
「……あぁもちろん。それで……かまわん」
断固として言い切る。
「…………」
その老人の顔を確認し、僕は再度、たずねた。
「…………じゃあ、なんで泣いてるんですかっ」
「っ⁉」
老人はただただ、首を横に振った。
闇夜の下、灯篭の灯りが、その頬を伝うひとすじの光の粒をぼんやり照らす。
「…………」
もう、限界だった。
フーッと息を吐く。
それから大きく、息を吸い込んだ。
「っ!」
僕は掴んでいた手帳を、一思いに破った。
「なっ⁉」
ビリビリに破った。
紙片が粉々になるまで。
一気に破った。
一枚、また一枚と、ボロボロになっていく手帳。
「や、やめてくれっ……」
僕は忠告を無視し、一心不乱に破り続けた。
「っ……」
形を変えながら、水面に散り散りに落ちていく紙片。
鮮明になったり、彩度を失う記憶の断片。
弥生さんとのかけがえのないしあわせな日々。
「……っ……」
何度も同じ班になった驚き。
文化祭で見せた驚きと喜び。
喫茶店での彼女の憂い。
夏祭りの花火と、長いメッセージ。
二人のかけがえのない数ヶ月間の記憶が、断片的にきらりとよみがえっては、ひらりと消えていく。
そのすべてが、この川の流れとともに、少しずつ僕の手を離れていった。
「……っ」
最後の一枚が指先を離れた、その瞬間。
老人の輪郭が、灯篭の穏やかな光に照らされ、じわりと溶けはじめる。
まるでそれは、水面に落ちた絵の具が静かに滲んでいくように。
その体を透かして流れていく、灯篭の橙色の灯り。
思わず息をのんだ。
消えていく老人の周りに、川面の灯篭の光が集まってくるようにさえ見えた。
それはまるで、無数の小さな灯りが、迎えに来たかのように。
橙色の光の中に、僕の記憶にはない景色が、一瞬かすかに重なっては、消えていく。
きれいなレストランで嬉しそうに笑う、大人びた弥生さんの記憶────
ウエディングドレス姿で涙する、弥生さんの記憶────
そして、子供を抱えしあわせそうに微笑む、弥生さんの記憶────
「……っ……」
「……っ」
ふいに、感情が込み上げた。
それは、老人の中に眠っていた、遠い日の輝きだったのかもしれない。
二人だけの、かけがえのない記憶。
僕らの、最高の記憶……。
それらが折り重なるように、輝きながら色褪せ、消えていった。
「っ⁉」
どんどん身体が透けて透明になってゆく老人。
「っ……」
……僕は、取返しのつかないことをしてしまった……。
でも、今の僕には……これしかできなかった。
ヒスイ色の破片が、暗い川面に落ち、ゆっくりと流れに乗って、闇の中へと消えていく。
僕はその光景を目に焼き付けるように、じっと見つめ続けた。
溢れそうになる感情を抑えながら、僕は心の中で何度も何度も、謝罪の言葉を繰り返した。
「…………」
「…………」
半透明の老人は、静かに目を閉じた。
皺だらけの顔に初めて、憑き物が落ちたような穏やかさが浮かんでいた。
口元には微かな、本当に微かな笑みが、浮かんでいた。
「……り……が…………と………………」
「っ……」
耳をつたう残響。
目頭が熱くなった。
僕は……。
僕を…………救えなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい…………」
何度も、何度も、ただ謝った。
「……っ…………」
その声はもう、届かない。
光の粒が、灯篭の橙色に溶け込みながら、薄くなっていく。
老人の姿は、輪郭から、記憶から、そして僕の目の前から。
静かに、そして確かに、消えていった。
「…………」
川面には、流れていく灯篭の灯りだけが、残っていた。
それはまるで、最初から誰もそこにいなかったかのように。
紙片のすべてが、川の流れに乗って見えなくなったとき、僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。
手の中にはもう何も、残ってはいなかった。
「…………っ」
指先に残る、破いた紙の匂いとかすかな感触。
夏の夜気が、汗ばんだ肌にひんやりと触れる。
その感触だけが、今の僕にとって、唯一確かな現実だった。
夜風が、川面を無情に撫でていく。
僕は暗くなった空を見上げた。
まばらに瞬く星々。
あの老人は、どこへ消えたのだろう。
あの言葉は、いったい何に向けられたものだったのだろう。
答えの出ない問いだけが、僕の胸の中に、静かに、重く沈んでいった。
いったい、これから僕は、どうすればいいのだろう。
もう、なにも分からない…………。
ごめん、弥生さん……ごめんなさい。
もう、僕の理想の弥生さんには、会えないかもしれない。
僕は弥生さんのこと、本当の意味で愛してなどいなかった。
僕が愛していたのは…………僕だった。
あの手帳を失ったことで、これまで築いてきた弥生さんとの関係は、どうなってしまうのだろう。
「…………」
僕は居てもたってもいられなかった。
僕との記憶はもう、消え去ってしまっているかもしれない。
恐ろしくて、考えたくもなかった。
それでも、僕の記憶は消えずに残っている。
僕の中には、彼女がいる。
会いたい。
いや、会いに行く。
もう彼女の中には、僕との日々は、残ってないかもしれない。
僕のことさえ、覚えてないかもしれない。
あの四月にデートに誘ってあっさり断られたままの、弥生さんかもしれない。
考えるだけで、胸が締め付けられた。
でも僕はもう、逃げるわけにはいかなかった。
これまで隠し続けてきたすべてを、ありのままの僕を、彼女に話さなくちゃ。
どんな結果が待っていようとも、やるしかない。
このまま黙って逃げ続けるなんて、僕には耐えられなかった。
その決意だけが、破り捨てた手帳の代わりに僕の胸の中に、確かな重みを持って残っていた。
僕は振り返り、川べりの階段を駆け上った。
街灯の明かりが照らす道を、一歩ずつ、確かな足取りで歩き出す。
行き先は、決まっていた。
今のうちに。この夜のうちに。
その思いだけが、僕の身体を前へと押し出していた。
夜の住宅街を、後ろを振り返らず、ただ、無我夢中で走った。
長い夏休みもすでに折り返しを過ぎ、町全体がお盆の静けさに包まれる、そんな夕方だった。
父もこの時期だけは毎年マンションに帰省し、二人で母方の田舎へ向かいお盆を過ごすのが、いつもの恒例行事だった。
けれど今年は「友達と大事な約束がある」という理由を告げ、僕は母方の実家には泊まらずお参りだけ済ませ、一人マンションに帰ってきていた。
実際、そんな大事な約束があったわけじゃない。
明日の十六日に弥生さんとデートする約束、それだけだった。
でもそれも仕方のないことだった。
彼女と会う前に、僕は一人でゆっくり、気持ちの整理をしたかった。
この夏休み中に、弥生さんとちゃんと向き合わなければならないという焦りからだった。
そのためにも、前日は一人で備えたいという気持ちだった。
いつものがらんとしたマンションのリビングから、眼下に広がる見慣れた町並みをぼんやり眺める。
夕暮れの光が、川面や点在する民家やビルの窓ガラスに反射して、きらきら輝いている。
普段なら気にも留めないその見慣れた町の光景が、今日はやけに胸に沁みるように感じられた。
一人きりのマンションというのは、こんなにも静かなものだったろうか。
久々に父と数日過ごしていたから、ついそう思った。
僕は物心ついたころから、ここに父と二人暮らし。
小さいころから父は仕事で不在なことが多く、ひとりには慣れていた。
父の単身赴任が決まった時も、全然平気だった。
それなのに今日の静けさは、いつもとは質の違うものに感じられた。
まるで見えない何かが、常に僕に何かを問いかけているような、そんな緊迫感があった。
この夏休み中も、僕は結局、あの手帳の開くことは一度もなかった。
何も書かずに閉じたあの日から、僕はまったくあの手帳に書き記してないし見てもいない。
開くこともできず、ただただ机の中で時を重ねていくヒスイ色の手帳。
それはまるで、今の僕の心境を、そのまま表しているかのようだった。
夏休みに入ってからも、弥生さんとは何度か会っていた。
七月末、弥生さんが家族旅行に出かける前に一度。
八月初めには、青春アニメの映画も観に行った。
先日は妹たちの世話の合間を縫って、少しの時間だけ最寄り駅で会ったりもした。
そのどれもがしあわせで、穏やかな時間だった。
まさにあのお祭りの日のままの、僕の理想の弥生さん。
けれど僕は彼女と会うたびに、あの花火大会の夜に届いた長いメッセージのことを、思い出さずにはいられなかった。
映画の帰り道。
弥生さんはいつも通り、映画の感想をうれしそうに話してくれた。
そういえば最近は、愚痴みたいな言葉はまったく聞かなくなった。
いつも変わらず、しあわせそうな弥生さん。
それでも僕は、そんな完璧な彼女の笑顔の裏にひそむ、陰りのようなものも感じずにはいられなかった。
それが本当の彼女の中に存在する影なのか、それとも僕の理想が作り出してしまった影なのか。
自分では判断がつかなかった。
『私ホントはね、自分がいま本当に楽しいのか、それとも春斗くんが喜んでくれるように楽しんでるだけなのか、分からなくなる瞬間あったの』
あの花火のあとのメッセージが、ふいに頭をよぎる。
弥生さんのその感覚が彼女の中でどう変化しているのか、あるいは変化していないのか。
もしくはもうすでに、なくなってしまっているのか。
僕には確かめる術なんてなかった。
会うたびに聞きたい衝動に駆られながら、結局その話題に触れることもできず、ただ、しあわせな時間だけが無常に過ぎていった。
町並みを眺めながら僕はふと、自分がこれから何を望めばいいのか、まったく分からなくなってしまっている自分に気づいた。
最近はずっと、延々とこの感覚に向き合い続けてる気がする。
これまでの数ヶ月間、僕はずっと何かを望み、それを手帳に書き記すことで日常を紡いできた。
でもそれを達成してしまった今。
新たに望むべきものは、もう僕の中に、何も残ってはいなかった。
弥生さんとの関係は、すでに望んだ通りの、しあわせな状態になっている。
これ以上、何を望めばいいというのだろう。
もっと好かれたい? もっと一緒にいたい?
そのどれも、何かがちがう。
これ以上を望むことに、僕はもう明確な意味を見出せなくなっていた。
それはまるで、あの最高の花火を観たあとの儚い夜空のような。
あの一瞬の輝かしい幻のような、空虚な感覚。
「……」
連日の猛暑のせいか、昼食もあまり食べる気にはなれなかった。
ゲームも、今では全然やる気が起きない。
僕はこんなことをずっとぐるぐる考え、テレビもつけずにぼんやり夕方まで過ごしてしまっていた。
「…………はぁ。少し、散歩するか」
時計の針が夜六時を回るころ、僕はやっと重い腰を上げた。
カギとケータイだけ持ち、Tシャツにハーフパンツ姿の軽い格好で、マンションを出た。
外はすでに、夏の深い夕暮れに包まれていた。
まだまだ熱気はあるがお盆の時期特有の、どこか静かな町の空気。
普段なら賑やかな町の商店街も、お盆の今日は多くの店がシャッターを下ろしていて、人通りもいつも以上にまばらだった。
僕は目的もなく、ただ、足の向くまま歩いた。
あんなに連日泣きわめいていたアブラゼミの声もトーンダウンし、ヒグラシの声が聞こえる。
どこかから鈴虫の声も、かすかに聞こえ始めていた。
夏の終わりを感じながら、僕は噛みしめるように、この程よい田舎の町を歩き続けた。
人けのない道を歩いているとふいに、自分がまるでこの世界にたった一人で取り残されたかのような、そんな錯覚に襲われた。
「……」
気がつくと僕の足は、あの川べりへと向かっていた。
四月の新学期最初のあの日。
ヒスイ色の手帳を拾った、あの川べりへ。
特に意識していたわけではなかった。
でも無意識のうちに、身体があの場所を求めていたのかもしれない。
川べりに着いて土手を下りると、そこにはあの日と変わらない、懐かしい景色が広がっていた。
コンクリートで固められた岸辺。ゆっくりと流れる水面。優雅な時を刻み続ける、河川敷。
四月から数ヶ月しか経っていないはずなのに、その光景はまるで、何十年も前の記憶のような郷愁さえ感じさせた。
僕静かに深呼吸した。
それから誰もいない夕暮れの川べりで、あの日手帳を見つけたベンチに腰を下ろした。
夕闇が次第に濃くなり、川面に反射する光も、オレンジから紫、そして深い藍色へと、徐々に移り変わっていく。
どこか懐かしくて、儚くて、不思議な感覚に包まれていった。
「…………ここの景色も、全然変わらんな」
その時だった。
「っ⁉」
突然、後ろからぼそりと男性の声。
思わずビクンとなった。
まさか後ろに人がいたなんて、思いもしなかった。
恐る恐る振り向くと、後ろには老人の男性がひとり、静かに立っていた。
「……」
「……」
白髪で、少し曲がった背中。片手には古びた杖をついている。
着ている服は八月だというのに、長袖の上着だった。
老人は僕の顔も見ず、ただずっと、川べりの夕陽に見惚れてるようだった。
それから老人は静かに、僕の座るベンチにゆっくりと腰かけた。
「いい空気だな、やっぱりここは」
「……そ、そうですか」
動揺していて、うまく返事できない。
よく見ると老人の顔には、深く刻まれたシワが幾重にも重なっていた。
長い年月を生きてきたことを物語る、その顔立ち。目だけが妙に若々しく、どこか懐かしかった。
着古した上着の袖口は少しほつれ、その姿はどこか、浮世離れした雰囲気が漂っていた。
その老人からは季節外れの冷たさのような、どこか達観した冷酷さのようなものがひしひしと感じられた。
それはまるでひとりだけ違う世界からやってきたような、そんな雰囲気だった
「……」
「……」
しばらく僕たち二人は無言のまま、沈んでゆく夕陽と川面を静かに眺めていた。
鈴虫の音が、遠くから重なり合って聞こえる。
しばらくして老人は、独り言のような調子で、ぽつりと声を漏らした。
「……うん、やっぱり素晴らしい」
「…………」
独り言なのか、僕への会話なのかよくわからない一言。
反応に困った。
それでもその老人が感じている余韻が、僕の耳の奥に染み込んでくるような感覚があった。
老人はこちらを見ることもなく、ただ、川と夕陽の景色を見つめ続けている。
その横顔は何かを懐かしんでいるようにも、何かを悔いているようにも見えた。
「……おひとりですか?」
沈黙に耐えかね、僕は恐る恐る、老人にたずねた。
老人は少しのあいだ沈黙を保ったあと、静かに口を開いた。
「……ああ」
穏やかにそう答えると、僕の方に視線を向けた。
深く刻まれたシワの奥にある瞳は、驚くほど穏やかだった。
それはまるで、長い年月によって削られ続けた、川底の角の取れた丸石のような、そんな瞳。
その見透かされたような視線に、僕は思わずスッと姿勢を正した。
「君は今、しあわせかい?」
「え?」
ふいに、老人が僕にたずねてきた。
あまりにも唐突で抽象的な質問に、思わずたじろぐ。
その問いに、僕はすぐに答えることができなかった。
老人は、何を聞いているんだろう……。
ただの世間話なのか、それとも何か深い意味を問う言葉なのか。
僕には判断がつかなかった。
でもその言葉のひとつひとつが僕の心を見透かしているような、そんな感覚がしてならなかった。
「……はい、しあわせです」
とっさに答えたその言葉は、自分でも驚くほど淡白だった。
そこにはまるで感情がこもっていなかった。
その淡白さに、僕自身が一番おどろいた。
「そうかい。よりゃ何よりだ」
老人はそう言って、軽く微笑んだ。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
関節が軋むような、小さな音が聞こえる。
それから老人は、静かに口を開いた。
「……弥生さんは、しあわせそうかい?」
「………………えっ」
背すじが凍った。
心臓が一拍だけ、ドクンと跳ねる。
「…………な……なんで弥生さんのこと……」
気が動転したまま、あわてて聞き返す。
老人はおもむろに懐の方に手を伸ばした。
「っ⁉」
老人の懐から取り出されたものを見た瞬間、血の気が引いた。
その老人の手にあったのは、ヒスイ色の手帳だった。
「………………」
頭が真っ白になった。
わけがわからなかった。
少し色褪せてはいるがそれはあきらかに、あの手帳。
「な、なんで……あなたがその手帳をっ⁉」
老人はその手に持った古びたヒスイ色の手帳を、懐かしむように哀しげに見つめた。
「もう、すっかり古くなったさ」
よく目をこらすと、その表紙のヒスイ色はかなり色褪せている。
長い年月を経てきたことが、その傷み方だけで十分に伝わってきた。
「もう……とっくに、ただの手帳さ」
老人は、虚しい声で続けた。
その言葉を聞いて、僕はいてもたってもいられなかった。
そもそも、この目の前の老人は……。
「…………っ!」
気づくと僕は立ち上がり、走り出していた。
行先は一つしかなかった。
僕は一目散に走った。
何も考えれない。考えたくもなかった。
「ハァ! ハァ!」
今の僕にはただ、全力で走ることしかできなかった。
夕闇の道を駆ける足音が、静まり返った住宅街に、やけに大きく虚しく反響する。
息は上がり、心臓は張り裂けそうなくらい脈を打っていた。
真っ白だった。
とりあえず、あの引き出しの手帳を確かめなければ……。
その一心で、僕は走った。
マンションのエレベーターに飛び乗り、流れるように自室へ駆け込む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
そして机の引き出しを、恐る恐る開けた。
「……っ!」
その奥には、見慣れたヒスイ色の手帳。
前と変わらぬ姿で、そこに存在し続けていた。
「……あ、あった」
思わず吐息がもれ、力が抜けた。
その変わらぬ佇まいに少しほっとしている自分と、不安を感じている自分が、同時に存在していた。
手帳を手に取り、まじまじ確認する。
間違いなく、僕が今まで書いてきた手帳だ。
さっき川べりで見た老人の歳月を感じさせる古びた手帳とは、佇まいの深みがあきらかに違っていた。
僕は少し安堵しながら、パラパラと中のページも確認していく。
何も、変わりない。
「…………ん?」
その時だった。
最後のページをよく見ると、何やら手帳の最後のページだけ、わずかに破られた跡。
「えっ……これ……」
動揺した。
こんなページが破られた跡、前からあっただろうか……。
「……」
まったく思い出せない。
というより、こんな空白の最後のページなんて見てもなかったから、正直確認しようもなかった。
でももしかして、これがあの老人の仕業だったら……。
ふらりと浮かび、膨らんでいく疑念。
「……っ!」
気づくと僕は手帳を手に、またあの川べりへと駆け出していた。
もう、ちゃんと確かめるしかなかった。
あの手帳のことも、この最後の破り跡のことも。
「ハァッ! ハァッ!」
夜の町を、再び疾走する。
息は完全に上がり、ひたいに汗がにじむ。
街灯の光が、等間隔に僕の影を伸ばしては、後ろ闇の中へと次々と吸い込まれていった。
何度も信号無視し、横断歩道を斜めに横切っていく。
まわりから見たら、ヤバい奴。
でもそれでも僕は、この足を止めることはできなかった。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
再び川べりに着いた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
肩で息をしながら、さっき老人といたあのベンチを目指す。
点在する街灯を小気味よく超えてあのベンチに着くと、そこにはもう、老人の姿はなかった。
「ハァ……ハァ……」
僕はあたりをぐるりと見回す。
心臓の脈動がぐいんぐいんと、耳の奥までうるさく響いた。
川面に目をやると、何やら小さな、ふんわりした発光体。
薄暗くなった川べりには、いくつかの灯篭が、水面を流れていた。
オレンジ色の小さな灯篭の灯りが、深い藍色に染まる川面にぽつりぽつりと浮かび、静かに悠々と流れていく。
ひとつ、またひとつと、その数は増えていった。
その光景はどこか厳かで、幻想的だった。
「……今日は、精霊流しか」
「っ⁉」
突然、対岸の闇の先から声。
よく見ると川の対岸には、さっきの老人が立っていた。
オレンジ色の灯りにほんのり照らされたその輪郭は、どこか憂いているようにも見えた。
それはまるで、漆黒の闇に覆われる寸前で、なんとか踏みとどまっているかのようだった。
僕はすぐ、家から持って来たヒスイ色の手帳を取り出す。
最後のページを開き、対岸の老人に向かってその破れた跡を見せた。
「この最後のページの破れた跡は、あなたの仕業ですかっ?」
意を決して、老人にたずねた。
老人は僕の手帳の破れた跡を確認すると目を丸くし、おもむろに首をかしげた。
そしてすぐ、老人は手に持っていた古びた手帳を確認しだす。
老人の手帳に目をこらすと、確かにその古びた手帳にも同じように破られた跡が残っていた。
「はて……? ワタシも今はじめて気づいたよ」
驚きを隠せない様子の老人。
「そ、そうですか……」
その様子から、老人の仕業でないことは明白だった。
信じたくはなかったが、僕は信じざるを得なかった。
それから続けて老人に、恐る恐るたずねた。
「……その手帳の効果が消えたの、いつ頃なんですか?」
僕の問いに、老人は少し顔を曇らせた。
「……ワタシが異変に気づいたのは、たしか高校を卒業したころだったか」
老人は自信なさげに言った。
「…………そうですか」
いつかは消えてしまう。それは覚悟していた。
でも改めて言われると、さすがにたじろいだ。
そして僕は勢いに任せてつい、聞いてしまった。
「…………弥生さんは……しあわせに、生きてますか?」
「……」
その言葉に、老人の目の色が変わる。
それからゆっくりと、口を開いた。
「……ああ、しあわせそうだよ。今も」
遠い目をして、他人事のように言い放つ老人。
誰かに言わされたような、そんな無機質な言葉だった。
その抑揚のない乾いた声に、まるで答えることにさえもう意味を見出していないかのような、そんな虚しさを感じた。
「気づいた時にはもう、彼女はいなかった」
老人はうつむきながら、ぽつりとそう漏らした。
あまりにも無気力なその言葉に、思わず固唾をのんだ。
老人は続ける。
「……もう、彼女は僕を否定することもなければ、僕の嫌がることも絶対しない。本当に、完璧な女性さ」
老人は微笑んでみせた。
こんなかなしい微笑みを、僕は人生ではじめて見た。
「……しあわせだけの人生に、しあわせなんてなかったよ」
消え入る夕陽を見つめながら、老人は諭すように言った。
「……」
僕はしばらく、その場から動くことができなかった。
老人の言葉が、頭の中で何度も、反響しつづける。
『気づいた時にはもう、彼女はいなかった』
「……」
『……しあわせだけの人生に、しあわせなんてなかったよ』
「…………」
その無機質な言葉が、無気力な顔が、僕の胸に、重く、重くのしかかる。
「もう今じゃ何を書いても、ひとつも現実なんて変わらん」
老人は、吐き捨てるように言った。
「……………………」
返す言葉がなかった。
「……なぁ」
ふいに、老人がそう言って僕を見た。
「…………はい」
それから老人は、対岸の僕に向かって頭を下げた。
「……ひとつだけでいい。ワタシの願い、聞いてはくれんか」
思いもよらない老人の提案に、驚いた。
「……願い?」
僕が聞き返すと、老人は僕の目を見て、ゆっくりと、言葉をつむいだ。
「『弥生さんと、ありのままの二人のまま、ずっとしあわせに生きる』。
これだけ。たったこの一文だけでいい。
君の手帳の最後に、この言葉だけ……書き加えてはくれないか」
すがるように、懇願する老人。
「っ……」
その姿に、僕は思わず目をそらした。
つらかった。見てられなかった。
……僕も、いつか……………………。
その瞬間。
頭の中で、何かが弾けた。
「っ!」
気がつくと僕の両手は、自分の手帳を両手で無造作に掴んでいた。
「なっ⁉」
そのまま左右に、ピンと引っ張る。
ビリッと亀裂が入った。
「な、何をしとるっ⁉」
慌てて対岸から制止しようとする老人。
「いいから落ち着けっ。そんなことをしたら……何が起こるかわからんぞっ⁉」
「っ……」
思わずひるんだ。
その僕をみて、老人がたたみかける。
「今までの記憶すべて……消え去るやもしれん。
理想の未来も……もちろんワタシも……。
そして…………彼女の記憶もっ!」
「っ⁉」
この言葉に、全身が凍り付いた。
感覚が消えていった。
全部、すべて…………。
「お、お願いだっ。頼むからそれだけはやめてくれ。頼む。彼女のためにもっ」
「…………」
老人は何度も、さとすように言った。
僕の中で、言葉にできないあらゆる想いが、身体中を駆け巡っていく。
「……」
「……」
老人を見た。
それから、おもむろにたずねた。
「……いいんですか、ホントにそれで」
その問いに、老人は静かにうつむいた。
その老いた肩は、かすかに震えているように見えた。
「……あぁもちろん。それで……かまわん」
断固として言い切る。
「…………」
その老人の顔を確認し、僕は再度、たずねた。
「…………じゃあ、なんで泣いてるんですかっ」
「っ⁉」
老人はただただ、首を横に振った。
闇夜の下、灯篭の灯りが、その頬を伝うひとすじの光の粒をぼんやり照らす。
「…………」
もう、限界だった。
フーッと息を吐く。
それから大きく、息を吸い込んだ。
「っ!」
僕は掴んでいた手帳を、一思いに破った。
「なっ⁉」
ビリビリに破った。
紙片が粉々になるまで。
一気に破った。
一枚、また一枚と、ボロボロになっていく手帳。
「や、やめてくれっ……」
僕は忠告を無視し、一心不乱に破り続けた。
「っ……」
形を変えながら、水面に散り散りに落ちていく紙片。
鮮明になったり、彩度を失う記憶の断片。
弥生さんとのかけがえのないしあわせな日々。
「……っ……」
何度も同じ班になった驚き。
文化祭で見せた驚きと喜び。
喫茶店での彼女の憂い。
夏祭りの花火と、長いメッセージ。
二人のかけがえのない数ヶ月間の記憶が、断片的にきらりとよみがえっては、ひらりと消えていく。
そのすべてが、この川の流れとともに、少しずつ僕の手を離れていった。
「……っ」
最後の一枚が指先を離れた、その瞬間。
老人の輪郭が、灯篭の穏やかな光に照らされ、じわりと溶けはじめる。
まるでそれは、水面に落ちた絵の具が静かに滲んでいくように。
その体を透かして流れていく、灯篭の橙色の灯り。
思わず息をのんだ。
消えていく老人の周りに、川面の灯篭の光が集まってくるようにさえ見えた。
それはまるで、無数の小さな灯りが、迎えに来たかのように。
橙色の光の中に、僕の記憶にはない景色が、一瞬かすかに重なっては、消えていく。
きれいなレストランで嬉しそうに笑う、大人びた弥生さんの記憶────
ウエディングドレス姿で涙する、弥生さんの記憶────
そして、子供を抱えしあわせそうに微笑む、弥生さんの記憶────
「……っ……」
「……っ」
ふいに、感情が込み上げた。
それは、老人の中に眠っていた、遠い日の輝きだったのかもしれない。
二人だけの、かけがえのない記憶。
僕らの、最高の記憶……。
それらが折り重なるように、輝きながら色褪せ、消えていった。
「っ⁉」
どんどん身体が透けて透明になってゆく老人。
「っ……」
……僕は、取返しのつかないことをしてしまった……。
でも、今の僕には……これしかできなかった。
ヒスイ色の破片が、暗い川面に落ち、ゆっくりと流れに乗って、闇の中へと消えていく。
僕はその光景を目に焼き付けるように、じっと見つめ続けた。
溢れそうになる感情を抑えながら、僕は心の中で何度も何度も、謝罪の言葉を繰り返した。
「…………」
「…………」
半透明の老人は、静かに目を閉じた。
皺だらけの顔に初めて、憑き物が落ちたような穏やかさが浮かんでいた。
口元には微かな、本当に微かな笑みが、浮かんでいた。
「……り……が…………と………………」
「っ……」
耳をつたう残響。
目頭が熱くなった。
僕は……。
僕を…………救えなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい…………」
何度も、何度も、ただ謝った。
「……っ…………」
その声はもう、届かない。
光の粒が、灯篭の橙色に溶け込みながら、薄くなっていく。
老人の姿は、輪郭から、記憶から、そして僕の目の前から。
静かに、そして確かに、消えていった。
「…………」
川面には、流れていく灯篭の灯りだけが、残っていた。
それはまるで、最初から誰もそこにいなかったかのように。
紙片のすべてが、川の流れに乗って見えなくなったとき、僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。
手の中にはもう何も、残ってはいなかった。
「…………っ」
指先に残る、破いた紙の匂いとかすかな感触。
夏の夜気が、汗ばんだ肌にひんやりと触れる。
その感触だけが、今の僕にとって、唯一確かな現実だった。
夜風が、川面を無情に撫でていく。
僕は暗くなった空を見上げた。
まばらに瞬く星々。
あの老人は、どこへ消えたのだろう。
あの言葉は、いったい何に向けられたものだったのだろう。
答えの出ない問いだけが、僕の胸の中に、静かに、重く沈んでいった。
いったい、これから僕は、どうすればいいのだろう。
もう、なにも分からない…………。
ごめん、弥生さん……ごめんなさい。
もう、僕の理想の弥生さんには、会えないかもしれない。
僕は弥生さんのこと、本当の意味で愛してなどいなかった。
僕が愛していたのは…………僕だった。
あの手帳を失ったことで、これまで築いてきた弥生さんとの関係は、どうなってしまうのだろう。
「…………」
僕は居てもたってもいられなかった。
僕との記憶はもう、消え去ってしまっているかもしれない。
恐ろしくて、考えたくもなかった。
それでも、僕の記憶は消えずに残っている。
僕の中には、彼女がいる。
会いたい。
いや、会いに行く。
もう彼女の中には、僕との日々は、残ってないかもしれない。
僕のことさえ、覚えてないかもしれない。
あの四月にデートに誘ってあっさり断られたままの、弥生さんかもしれない。
考えるだけで、胸が締め付けられた。
でも僕はもう、逃げるわけにはいかなかった。
これまで隠し続けてきたすべてを、ありのままの僕を、彼女に話さなくちゃ。
どんな結果が待っていようとも、やるしかない。
このまま黙って逃げ続けるなんて、僕には耐えられなかった。
その決意だけが、破り捨てた手帳の代わりに僕の胸の中に、確かな重みを持って残っていた。
僕は振り返り、川べりの階段を駆け上った。
街灯の明かりが照らす道を、一歩ずつ、確かな足取りで歩き出す。
行き先は、決まっていた。
今のうちに。この夜のうちに。
その思いだけが、僕の身体を前へと押し出していた。
夜の住宅街を、後ろを振り返らず、ただ、無我夢中で走った。
