七月に入るとじめじめしていた梅雨はすっかりと明け、セミの鳴き声と暑い日が続くようになっていた。
期末テストも終わり、学校全体が夏休み前のどこか浮ついた空気に包まれる中、僕らの町では毎年恒例の夏祭りが近づいていた。
神社の境内を中心に屋台が立ち並び、夜には近くの河川敷で花火大会が催される。
この辺りでは、規模の大きな有名なお祭りだった。
教室の窓から見える空も、いつの間にか夏らしい濃い青色に変わっている。
梅雨の間ジメついた空気の中でくすぶっていた僕たちの日常も、季節が変わるとともに、少しずつ違う色合いを帯び始めているような気がしていた。
もっとも、それが良い方向への変化なのか、そうでないのか。
それは僕にもまだ、判断がつかずにいた。
「今年は、二人でお祭り行こうね」
弥生さんがそう言い出したのは、七月最初の週のことだった。
去年までは、弥生さんは家族のみんなと一緒にその夏祭りへ行くのが恒例だったらしい。
それが今年は、僕を誘ってくれるという。
正直、うれしかった。
でも当たり前のように差し出されたその誘いにうれしさを覚えながらも、僕は心のどこかで、これもまた自分が積み重ねてきた願いの延長線上にあるのではないかという、いつもの疑念を拭いきれずにいた。
「弥生さん、家族で行かなくていいの?」
「今年はいいの。妹たちも友達と行きたいみたいだし、お父さんとお母さんも、たまには夫婦水入らずで行きたいんだって。だから私は、春斗くんと」
その説明はあまりにも自然で、僕がとやかく口をはさむ余地のないものだった。
それでも僕はふとした瞬間に、自分がこの状況をどこまで純粋に喜んでいいのか、分からなくなることがあった。
以前の彼女なら、たとえ両親がそう言ったとしても、妹たちのことを気にかけて、結局は家族と一緒に行くことを選んでいたのではないか。
そんな考えが頭の隅をよぎるたび、僕は自分でそれを打ち消すようにしていた。
七月中旬。
期末テストの結果が返却された週に、僕たちはお互いの成績を見せ合った。
僕はいつも通りの平凡な点数だったけれど、弥生さんは以前よりも成績が下がっていることに、少し戸惑っているようだった。
「なんか今回、思ったより悪かった。ちゃんと勉強したはずなんだけどな」
「そっか。文化祭の準備とか色々あったし、少し疲れてたんじゃない?」
「うん……。なんか最近、集中力続かないことが多くて。夜勉強してても、すぐ考えごとしちゃうし」
その『考えごと』が何なのか、僕は聞くのが怖かった。
もし彼女が自分自身の異変について、深く考え込んでいるのだとしたら……。
僕はその話題をあえて深掘りしないまま、そのままやり過ごした。
こうして僕は何度も、弥生さんの抱えているものと正面から向き合う機会を、自分から遠ざけていた。
その放課後、教室に残って進路希望調査の用紙を書いていたときのことだった。
弥生さんがとなりの席でシャーペンを持ったまま、しばらく手を止めているのに気づいた。
「どうしたの? 進路?」
「んー、なんて書けばいいのか分かんなくなっちゃって。前は看護系に進みたいって、はっきり決めてたはずなんだけど」
「気持ち、変わってきたの?」
「うん。誰かの役に立ちたいって気持ちは今も変わらずあるんだけど、いざ書こうとすると、なんかその気持ちが自分のものなのか、それともそう書いたほうがいいと思ってるだけなのか、よく分からなくなるんだよね」
「……なるほどね」
その言葉に、僕は小さく息を呑んだ。
彼女の将来の夢、誰かの役に立ちたいという願いは、僕があの手帳に書いた覚えのないことだった。
それなのに、その根幹の部分にまで、彼女は自分自身への疑いを抱き始めている。
もはや、僕が意図的に書いた言葉かどうかという区別自体が、彼女の中では意味をなさなくなっているのかもしれない。
手帳が及ぼす影響は、僕の想像していたよりもずっと広く、深いところにまで浸透しているのではないか。
そんな不安が、僕の胸の中でじわじわと重さを増していった。
弥生さんは結局、白紙のままだった進路希望の欄に、以前と同じ「看護系」という文字を書き込んでいた。
けれどその手つきには、これまでのような迷いのない力強さは感じられなかった。
まるで正しい答えを暗記してただ書き写しているだけのような、そんな頼りなさが、シャーペンの動きの端々に滲んでいるように見えた。
夏休み目前の、花火大会前日の夜。
僕は久しぶりにまた、ヒスイ色の手帳を開いた。
何かを書くつもりはなかった。
ただ、これまで書き連ねてきた言葉の数々を、もう一度確認しておきたかった。
ページをめくるたび、自分の筆跡でつづられた願いの数々が、目の前に飛び込んでくる。
最初の頃の、震えるような小さな文字。
今の、迷いのない断定形の文字。
同じ自分の手で書かれたはずなのに、その筆致はまるで別人のもののように違って見えた。
数ヶ月前の自分と、今の自分。
同じ人間のはずなのに、その間には思っていた以上に大きな隔たりができてしまっているように感じた。
僕はつい、ページの余白に一文書き足したくなった。
『明日の花火大会は、』
そう書き始めたところで、ふいに手が止まった。
なんて書けばいいのか、僕にはもう分からなくなっていた。
具体的に僕は、本当は何を望んでいるのか。どう書けば、みんながしあわせになれるのか。
自分の気持ちさえ整理がつかず、よく分からなかった。
ただ明日という日が、これ以上僕の願いによって誰かを苦しめてしまわないよう願いながら、僕はその書き始めてしまった文字の上からグチャグチャと線で書き消した。
ふぅと息をはいて引き出しに手帳をしまいながら、僕はふと、この選択が果たして本当に正しいのか、自分でも自信が持てずにいた。
書かないという選択もまた、ある種の意志の表明だ。
もし書かなかったことによって、明日が思ったような一日にならなかったとしたら、僕はきっとまた、手帳に頼りたくなるのだろう。
そんな自分の弱さを、僕は薄々自覚していた。
でもそれでも、今はとりあえずこの手帳に頼ることはしないと、そう固く心に誓った。
それが今の僕にとっては、最善の選択だと思った。
花火大会の当日の夕方。
僕らはお祭り近くの公園で待ち合わせた。
なんとか弥生さんを見つけた瞬間、僕はおもわず顔が熱くなり、言葉を失った。
「あ、春斗くんこっちだよ」
「あ……ご、ごめん待った?」
「ううん、大丈夫だよ」
淡い水色の生地に白い花柄があしらわれた、清楚な浴衣姿で、静かに微笑む弥生さん。
長い黒髪ポニーテール姿ではなく、いつもと雰囲気の違う編み込みで髪がまとめられていて、妙に大人びて見えた。
「……浴衣、すごく似合ってる」
顔が火照ったまま僕がそう答えると、弥生さんは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。ありがとう」
「う……うん」
そんな気恥ずかしい初々しさのまま、僕らはお祭りのある会場へと歩き出す。
僕だけいつもの洋服姿で来てしまったことが、すこし申し訳なかった。
「……実は僕、お祭り来るの初めてなんだよね」
「そうなんだね。花火大会も?」
「花火は毎年自宅のマンションのベランダから観てる。でも、お祭りで観るのは初めて」
僕が恥ずかしくなりながらそう告げると、弥生さんは少し目を丸くした。
それからまた微笑んだ。
「そうなんだ。じゃあ、今日はお互い初めて同士だね」
「え? 弥生さんは初めてじゃないでしょ?」
「私も、家族以外の人と花火大会来るの初めてだよ。もちろん、二人きりで来るのもね」
弥生さんはそう言ってまた微笑んだ。
恥ずかしげもなく嬉しそうに話す彼女の言動に、思わず戸惑った。
「……じゃあ、初めて同士だ」
「そうだよ」
そんなぎこちないやりとりをしながら、僕らは二人並んで、祭りの神社に歩いていった。
境内に着くと、すでに大勢の人たちで賑わっていた。
提灯の明かりが夕闇に浮かび、あたりには焼きそばやりんご飴などの熱気を帯びた匂いが、辺り一帯に漂っている。
僕たちは屋台を巡りながら、金魚すくいや射的といった、いかにも夏祭りらしい遊びに興じた。
参道の両脇に並ぶ屋台の光と、あちこちから聞こえてくる呼び込みの声、そして子供たちのはしゃぐ声。
そのすべてが混ざり合い、お祭りらしい独特な高揚感を作り出していた。
僕は普段こういう賑やかな場所が正直苦手だったけれど、となりに弥生さんがいるというだけで、その苦手意識もいくらか和らいでいるように感じられた。
「春斗くん、射的上手だね」
「たまたまだよ」
僕は照れ隠しにそう言いながらも、内心では少し誇らしい気持ちになっていた。
ゲームで培った能力が初めて人の役にたったような気がして、すごくうれしかった。
狙った的に当てて、小さな可愛いクマのキーホルダーを景品にもらう。
それを弥生さんに手渡すと、彼女は嬉しそうに受け取って、その場でさっそく手に持っていた巾着袋に結びつけていた。
「ありがとう。大事にするね」
弥生さんはそう言ってうれしそうに微笑んだ。
最近、僕の前での弥生さんは、よく幸せそうに笑ってくれる。
それはまさに、僕が望み続けていた、理想の弥生さんの姿そのものだった。
その満足感と同時にふと、この前の電話のことや、こんな理想の瞬間にさえあの手帳のしわざではないかという疑念が、つい頭のどこかをかすめる。
最高の時間の中でもこんな風に考えてしまう自分に、僕はほとほと嫌気が差していた。
金魚すくいの屋台では、弥生さんが微笑んだまま、静かにポイを構えていた。
何度か破れかけながら文句も言わず淡々とチャレンジし続け、最終的に小さな金魚を一匹すくい上げた。
「すごい……粘り勝ちだね」
「よかった、ありがとう」
弥生さんはそう言って静かに笑った。
この瞬間だけは間違いなく、本当の弥生さんなんだと、そう信じて疑わなかった。
その時だった。
「おぅ、にいちゃんっ! こんな美女連れて羨ましいねぇっ!」
「えっ?」
突然、後ろからやさぐれた男の声。
それから男は僕の後ろからガッと肩を組んできた。
「っ⁉」
恐る恐る、振り返る。
そこには笑いをこらえる、ノボルとノボルの彼女の姿があった。
「な、なんだノボルかよ……」
安堵した僕を見て、ケラケラ笑うノボル。
二人とも浴衣姿で、すっかりお祭りの雰囲気に馴染んでいた。
「リカちゃんたちも来てたんだ」
ノボルのドッキリにも微動だにせず、二人に微笑み返す弥生さん。
「久しぶり、弥生」
弥生さんは笑って元クラスメイトのノボルの彼女に手を振ると、彼女も笑って弥生さんに手を振った。
それからしばらく、四人で立ち話した。
僕はふと、この今の状況を考えてみた。
昔の僕なら、こんな場所でしかもこのメンバーで話してるなんて、絶対ありえない。
でも現実の今、僕のとなりで弥生さんはしあわせそうに笑っている。
「……」
その理想的な状況を実感し、僕はこの上ない達成感を感じた。
突然、ノボルが僕と弥生さんを見ながらニヤリと笑う。
「聞いたぜ。この前の文化祭の最後、オレらのお化け屋敷でお前らが堂々と手つなぎデートしてたってこと」
「なっ⁉」
思わず声が出た。
「あの日は楽しかったよね」
ノボルの発言に驚く様子もなく、ただ微笑みながらそう返す弥生さん。
「っ……」
その一言に、思わず固まった。
「……お、おう」
予想外の弥生さんの返しに、同じく面くらった顔のノボル。
調子を狂わされたのか、ノボルはそれからすこし大人しくなった。
「……」
その弥生さんの反応は、僕にとってもまさかだった。
このあからさまなノボルの挑発に、弥生さんは応戦するでもなく、ただ微笑んで返しただけ。
以前の弥生さんなら、おそらく倍にして反撃する場面。
でもその様子はあきらかに、僕が知っている弥生さんの姿ではなかった。
「んじゃな、バカップル!」
「はぁ⁉ うるせっ」
「二人も花火楽しんでねっ」
ノボルが別れ際に放った最後の攻撃にも、弥生さんは笑って二人に手を振っていた。
ノボルはなんともいえない顔で首をかしげながら、彼女とふたり、人混みの中へ消えていった。
その背中を見送りながら、弥生さんがおもむろに目を細めた。
「ノボルくんたちも楽しそうだったね」
「……う、うん。そうだね」
「なんかいいよね。みんなそれぞれ、お祭り楽しんでるんだなって」
「……うん」
その変わらない微笑みに、僕はすこし違和感を覚えた。
それは純粋に喜んでいる微笑みなのか、それとも羨望のような微笑みか。
あるいはそのどちらとも違う、別の感情なのか。
「…………」
この前の母親との電話も考えると、今の僕には何も分からなくなっていた。
僕らは境内をひと通り回った後、花火大会のある河川敷へと移動した。
花火が始まる時間が近づくにつれ、辺りにはどんどん人が増えていく。
僕たちはひらけた河川敷の奥の芝生の上にレジャーシートを敷いて、その開始を待った。
「今年の花火、去年より大きいらしいよ」
弥生さんが嬉しそうに、となりのシートの上にゆっくりと腰を下ろす。
夕闇の中で彼女の横顔が、祭りや屋台の明かりに照らされて、ほのかに浮かび上がっていた。
僕はその横顔に見惚れながら、これまでの数ヶ月間の出来事を、ぼんやりと思い返した。
始まりは、あの惨めな誘いからだった。
あっさり断られた、高二初日の放課後の、あの絶望。
それが今はこうして、弥生さんと二人で花火を楽しみに待っている。
理想的な関係。
「……」
それなのに……。
望んできた最高の状況のはずなのに、僕の胸の中にはなぜか喜びとともに、言葉にできない寂しさが募っていた。
最初の花火が、夜空にキラキラと打ち上がる。
乾いた破裂音とともに、大輪の光が闇を切り裂いていた。
周囲から歓声が上がり、弥生さんも「わあ」と声を漏らし、その光を見上げている。
僕も夜空を見上げた。
色とりどりの光が次々と広がり、消えていく。
美しい光景だった。
それは間違いない。
けれど僕の胸の中にはその美しさと反比例するように、奇妙な虚しさが広がりだしていた。
目指していた理想の願望。
弥生さんと、しあわせになること。
その願望は、あのヒスイ色の手帳の不思議な力によって、達成された。
その理想の世界の中で、僕は今、生きている。
「……」
でも僕は、次に何を望めばいいのか、これからどこへ向かえばいいのか、もう何も分からなくなっていた。
思い返せば、あの惨めな告白の日からずっと、僕は望むことだけを目標にしてきた。
弥生さんに振り向いてほしい。
もっと近づきたい。
もっと大切に思われたい。
そのひとつひとつを、あの手帳の力を借りながら、確かに実現させてきた。
けれど、望みがすべて叶ったあとに残るのは、次に何を望めばいいのか分からないという、虚しい空白だった。
「始まったよ、すごいきれいっ」
「…………」
それはゲームで例えれば、攻略サイトを見てあっさりラスボスまで倒してしまったエンディングを見ているような、そんな感覚。
そして平和になってしまった世界をただ目標もなく旅し続けているような、そんな虚しさだった。
ゲームであればまた最初からプレイできたり、エンディングの後には次の物語が待っているかもしれない。
けれどこれは現実の日々で、明日も、一か月後も、変わらずしあわせなまま、ずっと続いていく。
終わりのない日々の中で、これから僕らは、どこへ向かって歩いていけばいいのだろう……。
「わぁ春斗くん見て、あの色きれいっ」
弥生さんが夜空を指差す。
青と金色が入り混じった大きな花火が、破裂音とともに、ゆっくりと闇の中に広がっていく。
僕はその光を見つめながら、乾いた笑みを浮かべた。
「…………うん……すごいね」
その声は、自分でも驚くほど平坦だった。
そんな僕のことなどお構いなしに、弥生さんは嬉しそうに花火に目を奪われている。
「…………」
その横顔を見ながら、僕は静かに自問した。
この幸福は、本当に僕が望んだものなのだろうか。
それともこの感情は、僕のぜいたくな悩みなのだろうか……。
隣に座る弥生さんの肩が、花火の音に合わせて時折びくりと揺れる。
その反応は間違いなく、生身の彼女のもの。
それなのに僕はどこか彼女の反応一つ一つに、自分の書いた言葉の影をちらつかせてしてしまっていた。
信じたいのに、信じきれない。
その矛盾が、花火の美しさをまっすぐに受け止めることを、僕から奪っていた。
「わぁ、すごいっ!」
「…………」
フィナーレに差し掛かるころ。
連続して打ち上がる大玉が、夜空を埋め尽くすように咲き誇る。
周囲の歓声もひときわ大きくなった。
僕はその光景を目に焼き付けようとしながらも、心のどこかで、ずっと冷めた自分がいた。
思い描いていた、理想的な瞬間。
それをただ純粋に喜べばいいだけのに、なぜか満たされない感覚。
ただ楽しめばいいだけのに、楽しみきれない感覚。
その矛盾こそが、ここしばらく僕がずっと抱え続けてきた、正直な感覚だった。
花火大会は、一時間ほど続いた。
最後の大玉が夜空に咲き、余韻を残しながら消えていくと、周囲の人々は一斉に拍手を送った。
弥生さんも満足そうな表情で、横で拍手をしている。
僕もそれに合わせて手を叩きながら、自分の心の中にある空洞に、気づかないふりをし続けていた。
祭りの帰り道。
僕たちは人混みを避けながら、ゆっくりと駅までの夜道を歩いた。
「今日、楽しかったね」
「……うん、そうだね」
僕はそう返しながらも、その言葉が自分の実感と、どこかずれているのを感じた。
楽しくなかったわけではない。
むしろ、これ以上ないくらい満たされた時間。
それなのに、僕の胸の中心には埋まらない空白のようなものが、ずっと居座り続けていた。
「じゃあまたね」
「うん、気をつけて」
最寄り駅で弥生さんと別れ、一人、帰路を歩く。
夜風が町を吹き抜ける。
僕はふとふり返り、さっきの夜空を見上げた。
「……」
遠くの花火の煙はすっかり消え去り、そこにはいつも通りの、星のまばらな夜空が広がっているだけ。
夢のようだったあの空間と時間は、もうそこには存在していなかった。
家に帰り着替えとシャワーを済ませたあと、僕は机の前に座り、ぼんやり今日一日を振り返っていた。
楽しかった記憶のひとつひとつは、確かに本物だったはず。
それなのに、なぜこんなにも心が満たされないのだろう。
その理由を、僕はまだ、はっきりと言葉にすることができずにいた。
【ブルルルルルッ】
その時、ケータイが震える。
弥生さんからのメッセージ。
開いてみると、それはいつもの短い挨拶ではなく、珍しく長いメッセージだった。
『春斗くん、今日はありがとう。すごく楽しかった。花火、綺麗だったね。
でも花火見てるとき、春斗くん楽しんでくれてないのかなって、ちょっと心配してました。
すこし変なこと言うけど、聞いてくれる?
私ホントはね、自分がいま本当に楽しいのか、それとも春斗くんが喜んでくれるように楽しんでるだけなのか、分からなくなる瞬間あったの。
春斗くんのとなりにいることは間違いなくうれしいはずなのに、なんか自分自身の中に別の自分がいるみたいな、そんな感覚。
こんなこと言うの、変だよね。ごめんね。今日楽しかったってゆうのはホント。
ただ最近は春斗くんといると自分がよく分からなくなること増えたってゆうのもホント。
それだけはちゃんと伝えておきたくて。
春斗くんには、正直に話したかったから。いつもありがとね。おやすみなさい』
「…………」
僕はそのメッセージを、何度も読み返した。
それは今日の夏祭りでの弥生さんが送ったメッセージとは、まったく思えない内容だった。
そしてそのメッセージには確かに、僕の知っている弥生さんの気配を感じた。
彼女の『別の自分』という言葉が、僕の胸に重くのしかかる。
本当は、理想的に振舞っていた弥生さんの中で、いろんな自分と戦っていたのかもしれない。
それはたぶん、僕のせいだと思った。その事実がただつらくて、申し訳なかった。
僕らは同じ夜空の下で、それぞれ別の虚無感を、抱えてしまっていたのかもしれない。
やはり、僕がこの手帳に書き記してきた言葉の数々が、彼女の中に空虚さを植え付けてしまったのか。
そう実感して僕は初めて、はっきりと恐怖を覚えた。
これまでの僕は、自分の願いが彼女の行動や言動を変えていることだけに気を取られていた。
けれど、もしこの手帳の影響が、弥生さんの行動だけではなく、彼女の内側にある感情そのものにまで及んでいるのだとしたら……。
彼女が今感じている、楽しいふりをしているだけなのかもしれないという違和感も、全部、僕のせいかもしれない。
「…………」
僕はしばらくの間、返信の言葉を打っては消し、打っては消しを繰り返した。
彼女が抱えている不安にどう応えればいいのか、まったく分からなかった。
手帳のことを全部話すべきなんじゃないかという考えさえ、つい頭をよぎる。
けれどそれを打ち明けることで、彼女が僕をどう思うのか。
それを想像するだけで、僕は指が動かなくなった。
打っては消した文章の中には、『実は、』と切り出しかけたものもあった。
すべてを正直に話してしまえたら、どんなに楽だろう。
そう思う瞬間も、確かにあった。
けれど、その先に待っているかもしれない拒絶や軽蔑を想像すると、僕の指は決まって止まってしまう。
結局、いろいろ思い巡らせて僕が送ったのは、当たり障りのない短い言葉だった。
『全然変なことじゃないよ。誰でもそういう時あると思う。今日は本当にありがとう。ゆっくりおやすみ』
送信ボタンを押したあと、僕は自分の薄っぺらさに、ひどく落胆した。
彼女が勇気を出して打ち明けてくれた本音に対して、僕はまた真実を隠したまま、うわべだけの言葉で応えてしまった。
弥生さんからの返信は、すぐには来なかった。
それから寝る頃になって届いたのは、ただ一言。
『うん、ありがとう。おやすみ』
ただそれだけだった。
その短さの中に、僕はなんとも言えない寂しさを感じ取った。
ベッドに横になりながら、彼女が送ってくれた長いメッセージを、何度も読み返す。
彼女は僕が思っていたよりもずっと、自分自身の内側で起きている異変と、真剣に向き合おうとしている。
誰かに頼るのではなく、自分の言葉で、自分の違和感をなんとか言語化しようとしている。
その姿勢は僕がこれまで想像していた、僕の願いによって書き換えられていく受け身な存在としての弥生さんとは、まったく違う弥生さんだった。
画面の光だけが照らす暗い部屋の中で、僕はその文章を、まるで暗号を解読するように繰り返し読み込んでいた。
彼女は、ただ僕の願いのままに変わっていく人形のような存在ではなく、その変化を敏感に察知し、抗おうとし、自分の言葉でそれを表現しようとする、一人の女性だった。
その事実に、僕は今さらながら、はっきりと気づかされていた。
彼女は僕の理想を一方的になぞるのではなく、自分自身の輪郭を守ろうと、静かに、けれど確かにもがき続けている、一人の女性なのだと。
今になって僕はようやく、彼女をはっきりと見つめ直し始めていた。
賑やかだった一日が嘘のように、いつもの静けさをまとう夜。
窓の外では一匹のセミが、夜遅くまで狂ったように鳴き続けている。
僕は暗い天井を見上げながら、彼女の言葉を、何度も心の中で繰り返していた。
もし、彼女が抱えているその違和感の正体が、僕がこの手帳に書き記してきた言葉の積み重ねなのだとしたら。
これから先、僕らの関係は、いったいどうなっていくのだろう。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていくようだった。
このまま何もせずにいれば、彼女の中の葛藤は、これからも静かに、しかし確実に、彼女自身を傷つけ続けるのかもしれない。
「…………」
答えの出ない問いを抱えたまま、僕はいつまでも眠りにつくことができなかった。
花火の余韻も、祭りの賑わいも、もうすでに遠い記憶のように感じる。
そんな静かで、長い夜だった。
翌日。
学校で顔を合わせた弥生さんは、また夏祭りの時と同じ微笑みに戻っていた。
「おはよう、春斗くん」
「お、おはよう」
その声には、昨夜のメッセージに滲んでいた不安の色は、まったく感じられなかった。
まるで、あの長い文章を送ったこと自体、なかったことのように。
「昨日は変なメッセージ送ってごめんね」
弥生さんは、少し申し訳なさそうに僕に言った。
「全然変なことじゃない。ちゃんと読んだよ」
僕はちゃんとその事実を伝えた。
「ありがとう。なんか夜中につい、いろんな感情わいてきちゃって。でももう大丈夫」
「……そっか。そういうときもあるよね。気にすることないよ」
「うん、ありがとう」
弥生さんはまた穏やかな笑みを浮かべた。
答えの出ないいろんな感情に、彼女なりにちゃんと向き合おうとしてるのかもしれない。
そんな感じもした。
その姿勢を見ながら僕は改めて、彼女の中に確かに存在している葛藤の重さを感じ取っていた。
それは、僕があの手帳に書いた言葉によって一方的に与えられた変化ではなく、彼女自身が自分の内側で懸命に抗い続けている証だった。
夏休みは、もう目前に迫っている。
僕はふと、この夏の間に自分が何をすべきなのかを真剣に考え始めていた。
これまでのように、ただ願いを叶えることだけを目的に向き合うのではなく、彼女という一人の人間の中で、実際に何が起きているのかを、もっと正面から見つめなければならない。
そんな予感が、僕の胸に静かに芽生え始めていた。
終業式の日。
僕はノボルと弥生さんの三人で、夏休みの過ごし方について他愛のない会話をしていた。
ノボルが「夏予選終わっても毎日休みなし終わった……」と嘆く横で、弥生さんは「私は家族旅行と、あと春斗くんともいっぱい遊ばないと」と嬉しそう微笑んでいる。
最近の弥生さんの対応にはもうお手上げと言わんばかりに、ノボルは大きく肩をすくめた。
その微笑みは確かに理想的なものだったけど、僕にはもう、その微笑みを素直に喜べなくなってしまっていた。
担任が一学期最後のホームルームで、夏休み中の生活態度についての注意事項を淡々と読み上げていく。
しかし教室の空気はフライング気味にもうすでに浮ついていて、クラスメイトの誰も、その話を真剣に聞く者はいなかった。
僕も担任の話を軽く聞き流しながら、窓の外に広がる夏らしい入道雲をぼんやり眺めていた。
もうすぐ、色々あった一学期が終わる。
四月にとなりの席になったときから数えれば、わずか四ヶ月ほどの、濃厚でかけがえのない日々。
その短いようで長い時間の中で、僕という高二男子の日常は、これ以上ないくらい大きく変わってしまっていた。
おもわず、ふぅと息がもれた。
教室を出るとき、弥生さんが僕のとなりに並び、笑って話しかけてくる。
「夏休みもまた、いっぱい遊ぼうね」
「……うん、そうだね」
「花火もまた来年、一緒に行きたいな」
その言葉に頷きながらも僕は心のどこかで、来年の夏、僕たちが今と同じ関係でいられるのかどうか、確信が持てずにいた。
来年の夏も、僕たちはまだこうして、笑い合っていられるのだろうか。
彼女は、しあわせなままだろうか。
その問いに僕はまだ、確かな確信を持てなかった。
そして僕は心の中で、静かに一つの決意を固めつつあった。
これからは自分のためだけじゃなく、二人のために生きる。
彼女のためにも、そして、自分自身のためにも。
方法なんて分からない。
けれど、これ以上自分の理想だけを押し付け続けることはできないという確信だけが、僕の胸に静かに根を張り始めていた。
昇降口の手前でふと、後ろの廊下を振り返る。
夏休みを迎えたばかりの廊下は、いつも以上に賑やかで、開放的な空気に満ちていた。
その光景を目に焼き付けながら、僕は自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
この夏は、これまでとは違う夏にする。
何をどうすればいいのかなんて、何も分からない。
それでもその決意だけは、僕の中でもう揺らぐことはなかった。
期末テストも終わり、学校全体が夏休み前のどこか浮ついた空気に包まれる中、僕らの町では毎年恒例の夏祭りが近づいていた。
神社の境内を中心に屋台が立ち並び、夜には近くの河川敷で花火大会が催される。
この辺りでは、規模の大きな有名なお祭りだった。
教室の窓から見える空も、いつの間にか夏らしい濃い青色に変わっている。
梅雨の間ジメついた空気の中でくすぶっていた僕たちの日常も、季節が変わるとともに、少しずつ違う色合いを帯び始めているような気がしていた。
もっとも、それが良い方向への変化なのか、そうでないのか。
それは僕にもまだ、判断がつかずにいた。
「今年は、二人でお祭り行こうね」
弥生さんがそう言い出したのは、七月最初の週のことだった。
去年までは、弥生さんは家族のみんなと一緒にその夏祭りへ行くのが恒例だったらしい。
それが今年は、僕を誘ってくれるという。
正直、うれしかった。
でも当たり前のように差し出されたその誘いにうれしさを覚えながらも、僕は心のどこかで、これもまた自分が積み重ねてきた願いの延長線上にあるのではないかという、いつもの疑念を拭いきれずにいた。
「弥生さん、家族で行かなくていいの?」
「今年はいいの。妹たちも友達と行きたいみたいだし、お父さんとお母さんも、たまには夫婦水入らずで行きたいんだって。だから私は、春斗くんと」
その説明はあまりにも自然で、僕がとやかく口をはさむ余地のないものだった。
それでも僕はふとした瞬間に、自分がこの状況をどこまで純粋に喜んでいいのか、分からなくなることがあった。
以前の彼女なら、たとえ両親がそう言ったとしても、妹たちのことを気にかけて、結局は家族と一緒に行くことを選んでいたのではないか。
そんな考えが頭の隅をよぎるたび、僕は自分でそれを打ち消すようにしていた。
七月中旬。
期末テストの結果が返却された週に、僕たちはお互いの成績を見せ合った。
僕はいつも通りの平凡な点数だったけれど、弥生さんは以前よりも成績が下がっていることに、少し戸惑っているようだった。
「なんか今回、思ったより悪かった。ちゃんと勉強したはずなんだけどな」
「そっか。文化祭の準備とか色々あったし、少し疲れてたんじゃない?」
「うん……。なんか最近、集中力続かないことが多くて。夜勉強してても、すぐ考えごとしちゃうし」
その『考えごと』が何なのか、僕は聞くのが怖かった。
もし彼女が自分自身の異変について、深く考え込んでいるのだとしたら……。
僕はその話題をあえて深掘りしないまま、そのままやり過ごした。
こうして僕は何度も、弥生さんの抱えているものと正面から向き合う機会を、自分から遠ざけていた。
その放課後、教室に残って進路希望調査の用紙を書いていたときのことだった。
弥生さんがとなりの席でシャーペンを持ったまま、しばらく手を止めているのに気づいた。
「どうしたの? 進路?」
「んー、なんて書けばいいのか分かんなくなっちゃって。前は看護系に進みたいって、はっきり決めてたはずなんだけど」
「気持ち、変わってきたの?」
「うん。誰かの役に立ちたいって気持ちは今も変わらずあるんだけど、いざ書こうとすると、なんかその気持ちが自分のものなのか、それともそう書いたほうがいいと思ってるだけなのか、よく分からなくなるんだよね」
「……なるほどね」
その言葉に、僕は小さく息を呑んだ。
彼女の将来の夢、誰かの役に立ちたいという願いは、僕があの手帳に書いた覚えのないことだった。
それなのに、その根幹の部分にまで、彼女は自分自身への疑いを抱き始めている。
もはや、僕が意図的に書いた言葉かどうかという区別自体が、彼女の中では意味をなさなくなっているのかもしれない。
手帳が及ぼす影響は、僕の想像していたよりもずっと広く、深いところにまで浸透しているのではないか。
そんな不安が、僕の胸の中でじわじわと重さを増していった。
弥生さんは結局、白紙のままだった進路希望の欄に、以前と同じ「看護系」という文字を書き込んでいた。
けれどその手つきには、これまでのような迷いのない力強さは感じられなかった。
まるで正しい答えを暗記してただ書き写しているだけのような、そんな頼りなさが、シャーペンの動きの端々に滲んでいるように見えた。
夏休み目前の、花火大会前日の夜。
僕は久しぶりにまた、ヒスイ色の手帳を開いた。
何かを書くつもりはなかった。
ただ、これまで書き連ねてきた言葉の数々を、もう一度確認しておきたかった。
ページをめくるたび、自分の筆跡でつづられた願いの数々が、目の前に飛び込んでくる。
最初の頃の、震えるような小さな文字。
今の、迷いのない断定形の文字。
同じ自分の手で書かれたはずなのに、その筆致はまるで別人のもののように違って見えた。
数ヶ月前の自分と、今の自分。
同じ人間のはずなのに、その間には思っていた以上に大きな隔たりができてしまっているように感じた。
僕はつい、ページの余白に一文書き足したくなった。
『明日の花火大会は、』
そう書き始めたところで、ふいに手が止まった。
なんて書けばいいのか、僕にはもう分からなくなっていた。
具体的に僕は、本当は何を望んでいるのか。どう書けば、みんながしあわせになれるのか。
自分の気持ちさえ整理がつかず、よく分からなかった。
ただ明日という日が、これ以上僕の願いによって誰かを苦しめてしまわないよう願いながら、僕はその書き始めてしまった文字の上からグチャグチャと線で書き消した。
ふぅと息をはいて引き出しに手帳をしまいながら、僕はふと、この選択が果たして本当に正しいのか、自分でも自信が持てずにいた。
書かないという選択もまた、ある種の意志の表明だ。
もし書かなかったことによって、明日が思ったような一日にならなかったとしたら、僕はきっとまた、手帳に頼りたくなるのだろう。
そんな自分の弱さを、僕は薄々自覚していた。
でもそれでも、今はとりあえずこの手帳に頼ることはしないと、そう固く心に誓った。
それが今の僕にとっては、最善の選択だと思った。
花火大会の当日の夕方。
僕らはお祭り近くの公園で待ち合わせた。
なんとか弥生さんを見つけた瞬間、僕はおもわず顔が熱くなり、言葉を失った。
「あ、春斗くんこっちだよ」
「あ……ご、ごめん待った?」
「ううん、大丈夫だよ」
淡い水色の生地に白い花柄があしらわれた、清楚な浴衣姿で、静かに微笑む弥生さん。
長い黒髪ポニーテール姿ではなく、いつもと雰囲気の違う編み込みで髪がまとめられていて、妙に大人びて見えた。
「……浴衣、すごく似合ってる」
顔が火照ったまま僕がそう答えると、弥生さんは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。ありがとう」
「う……うん」
そんな気恥ずかしい初々しさのまま、僕らはお祭りのある会場へと歩き出す。
僕だけいつもの洋服姿で来てしまったことが、すこし申し訳なかった。
「……実は僕、お祭り来るの初めてなんだよね」
「そうなんだね。花火大会も?」
「花火は毎年自宅のマンションのベランダから観てる。でも、お祭りで観るのは初めて」
僕が恥ずかしくなりながらそう告げると、弥生さんは少し目を丸くした。
それからまた微笑んだ。
「そうなんだ。じゃあ、今日はお互い初めて同士だね」
「え? 弥生さんは初めてじゃないでしょ?」
「私も、家族以外の人と花火大会来るの初めてだよ。もちろん、二人きりで来るのもね」
弥生さんはそう言ってまた微笑んだ。
恥ずかしげもなく嬉しそうに話す彼女の言動に、思わず戸惑った。
「……じゃあ、初めて同士だ」
「そうだよ」
そんなぎこちないやりとりをしながら、僕らは二人並んで、祭りの神社に歩いていった。
境内に着くと、すでに大勢の人たちで賑わっていた。
提灯の明かりが夕闇に浮かび、あたりには焼きそばやりんご飴などの熱気を帯びた匂いが、辺り一帯に漂っている。
僕たちは屋台を巡りながら、金魚すくいや射的といった、いかにも夏祭りらしい遊びに興じた。
参道の両脇に並ぶ屋台の光と、あちこちから聞こえてくる呼び込みの声、そして子供たちのはしゃぐ声。
そのすべてが混ざり合い、お祭りらしい独特な高揚感を作り出していた。
僕は普段こういう賑やかな場所が正直苦手だったけれど、となりに弥生さんがいるというだけで、その苦手意識もいくらか和らいでいるように感じられた。
「春斗くん、射的上手だね」
「たまたまだよ」
僕は照れ隠しにそう言いながらも、内心では少し誇らしい気持ちになっていた。
ゲームで培った能力が初めて人の役にたったような気がして、すごくうれしかった。
狙った的に当てて、小さな可愛いクマのキーホルダーを景品にもらう。
それを弥生さんに手渡すと、彼女は嬉しそうに受け取って、その場でさっそく手に持っていた巾着袋に結びつけていた。
「ありがとう。大事にするね」
弥生さんはそう言ってうれしそうに微笑んだ。
最近、僕の前での弥生さんは、よく幸せそうに笑ってくれる。
それはまさに、僕が望み続けていた、理想の弥生さんの姿そのものだった。
その満足感と同時にふと、この前の電話のことや、こんな理想の瞬間にさえあの手帳のしわざではないかという疑念が、つい頭のどこかをかすめる。
最高の時間の中でもこんな風に考えてしまう自分に、僕はほとほと嫌気が差していた。
金魚すくいの屋台では、弥生さんが微笑んだまま、静かにポイを構えていた。
何度か破れかけながら文句も言わず淡々とチャレンジし続け、最終的に小さな金魚を一匹すくい上げた。
「すごい……粘り勝ちだね」
「よかった、ありがとう」
弥生さんはそう言って静かに笑った。
この瞬間だけは間違いなく、本当の弥生さんなんだと、そう信じて疑わなかった。
その時だった。
「おぅ、にいちゃんっ! こんな美女連れて羨ましいねぇっ!」
「えっ?」
突然、後ろからやさぐれた男の声。
それから男は僕の後ろからガッと肩を組んできた。
「っ⁉」
恐る恐る、振り返る。
そこには笑いをこらえる、ノボルとノボルの彼女の姿があった。
「な、なんだノボルかよ……」
安堵した僕を見て、ケラケラ笑うノボル。
二人とも浴衣姿で、すっかりお祭りの雰囲気に馴染んでいた。
「リカちゃんたちも来てたんだ」
ノボルのドッキリにも微動だにせず、二人に微笑み返す弥生さん。
「久しぶり、弥生」
弥生さんは笑って元クラスメイトのノボルの彼女に手を振ると、彼女も笑って弥生さんに手を振った。
それからしばらく、四人で立ち話した。
僕はふと、この今の状況を考えてみた。
昔の僕なら、こんな場所でしかもこのメンバーで話してるなんて、絶対ありえない。
でも現実の今、僕のとなりで弥生さんはしあわせそうに笑っている。
「……」
その理想的な状況を実感し、僕はこの上ない達成感を感じた。
突然、ノボルが僕と弥生さんを見ながらニヤリと笑う。
「聞いたぜ。この前の文化祭の最後、オレらのお化け屋敷でお前らが堂々と手つなぎデートしてたってこと」
「なっ⁉」
思わず声が出た。
「あの日は楽しかったよね」
ノボルの発言に驚く様子もなく、ただ微笑みながらそう返す弥生さん。
「っ……」
その一言に、思わず固まった。
「……お、おう」
予想外の弥生さんの返しに、同じく面くらった顔のノボル。
調子を狂わされたのか、ノボルはそれからすこし大人しくなった。
「……」
その弥生さんの反応は、僕にとってもまさかだった。
このあからさまなノボルの挑発に、弥生さんは応戦するでもなく、ただ微笑んで返しただけ。
以前の弥生さんなら、おそらく倍にして反撃する場面。
でもその様子はあきらかに、僕が知っている弥生さんの姿ではなかった。
「んじゃな、バカップル!」
「はぁ⁉ うるせっ」
「二人も花火楽しんでねっ」
ノボルが別れ際に放った最後の攻撃にも、弥生さんは笑って二人に手を振っていた。
ノボルはなんともいえない顔で首をかしげながら、彼女とふたり、人混みの中へ消えていった。
その背中を見送りながら、弥生さんがおもむろに目を細めた。
「ノボルくんたちも楽しそうだったね」
「……う、うん。そうだね」
「なんかいいよね。みんなそれぞれ、お祭り楽しんでるんだなって」
「……うん」
その変わらない微笑みに、僕はすこし違和感を覚えた。
それは純粋に喜んでいる微笑みなのか、それとも羨望のような微笑みか。
あるいはそのどちらとも違う、別の感情なのか。
「…………」
この前の母親との電話も考えると、今の僕には何も分からなくなっていた。
僕らは境内をひと通り回った後、花火大会のある河川敷へと移動した。
花火が始まる時間が近づくにつれ、辺りにはどんどん人が増えていく。
僕たちはひらけた河川敷の奥の芝生の上にレジャーシートを敷いて、その開始を待った。
「今年の花火、去年より大きいらしいよ」
弥生さんが嬉しそうに、となりのシートの上にゆっくりと腰を下ろす。
夕闇の中で彼女の横顔が、祭りや屋台の明かりに照らされて、ほのかに浮かび上がっていた。
僕はその横顔に見惚れながら、これまでの数ヶ月間の出来事を、ぼんやりと思い返した。
始まりは、あの惨めな誘いからだった。
あっさり断られた、高二初日の放課後の、あの絶望。
それが今はこうして、弥生さんと二人で花火を楽しみに待っている。
理想的な関係。
「……」
それなのに……。
望んできた最高の状況のはずなのに、僕の胸の中にはなぜか喜びとともに、言葉にできない寂しさが募っていた。
最初の花火が、夜空にキラキラと打ち上がる。
乾いた破裂音とともに、大輪の光が闇を切り裂いていた。
周囲から歓声が上がり、弥生さんも「わあ」と声を漏らし、その光を見上げている。
僕も夜空を見上げた。
色とりどりの光が次々と広がり、消えていく。
美しい光景だった。
それは間違いない。
けれど僕の胸の中にはその美しさと反比例するように、奇妙な虚しさが広がりだしていた。
目指していた理想の願望。
弥生さんと、しあわせになること。
その願望は、あのヒスイ色の手帳の不思議な力によって、達成された。
その理想の世界の中で、僕は今、生きている。
「……」
でも僕は、次に何を望めばいいのか、これからどこへ向かえばいいのか、もう何も分からなくなっていた。
思い返せば、あの惨めな告白の日からずっと、僕は望むことだけを目標にしてきた。
弥生さんに振り向いてほしい。
もっと近づきたい。
もっと大切に思われたい。
そのひとつひとつを、あの手帳の力を借りながら、確かに実現させてきた。
けれど、望みがすべて叶ったあとに残るのは、次に何を望めばいいのか分からないという、虚しい空白だった。
「始まったよ、すごいきれいっ」
「…………」
それはゲームで例えれば、攻略サイトを見てあっさりラスボスまで倒してしまったエンディングを見ているような、そんな感覚。
そして平和になってしまった世界をただ目標もなく旅し続けているような、そんな虚しさだった。
ゲームであればまた最初からプレイできたり、エンディングの後には次の物語が待っているかもしれない。
けれどこれは現実の日々で、明日も、一か月後も、変わらずしあわせなまま、ずっと続いていく。
終わりのない日々の中で、これから僕らは、どこへ向かって歩いていけばいいのだろう……。
「わぁ春斗くん見て、あの色きれいっ」
弥生さんが夜空を指差す。
青と金色が入り混じった大きな花火が、破裂音とともに、ゆっくりと闇の中に広がっていく。
僕はその光を見つめながら、乾いた笑みを浮かべた。
「…………うん……すごいね」
その声は、自分でも驚くほど平坦だった。
そんな僕のことなどお構いなしに、弥生さんは嬉しそうに花火に目を奪われている。
「…………」
その横顔を見ながら、僕は静かに自問した。
この幸福は、本当に僕が望んだものなのだろうか。
それともこの感情は、僕のぜいたくな悩みなのだろうか……。
隣に座る弥生さんの肩が、花火の音に合わせて時折びくりと揺れる。
その反応は間違いなく、生身の彼女のもの。
それなのに僕はどこか彼女の反応一つ一つに、自分の書いた言葉の影をちらつかせてしてしまっていた。
信じたいのに、信じきれない。
その矛盾が、花火の美しさをまっすぐに受け止めることを、僕から奪っていた。
「わぁ、すごいっ!」
「…………」
フィナーレに差し掛かるころ。
連続して打ち上がる大玉が、夜空を埋め尽くすように咲き誇る。
周囲の歓声もひときわ大きくなった。
僕はその光景を目に焼き付けようとしながらも、心のどこかで、ずっと冷めた自分がいた。
思い描いていた、理想的な瞬間。
それをただ純粋に喜べばいいだけのに、なぜか満たされない感覚。
ただ楽しめばいいだけのに、楽しみきれない感覚。
その矛盾こそが、ここしばらく僕がずっと抱え続けてきた、正直な感覚だった。
花火大会は、一時間ほど続いた。
最後の大玉が夜空に咲き、余韻を残しながら消えていくと、周囲の人々は一斉に拍手を送った。
弥生さんも満足そうな表情で、横で拍手をしている。
僕もそれに合わせて手を叩きながら、自分の心の中にある空洞に、気づかないふりをし続けていた。
祭りの帰り道。
僕たちは人混みを避けながら、ゆっくりと駅までの夜道を歩いた。
「今日、楽しかったね」
「……うん、そうだね」
僕はそう返しながらも、その言葉が自分の実感と、どこかずれているのを感じた。
楽しくなかったわけではない。
むしろ、これ以上ないくらい満たされた時間。
それなのに、僕の胸の中心には埋まらない空白のようなものが、ずっと居座り続けていた。
「じゃあまたね」
「うん、気をつけて」
最寄り駅で弥生さんと別れ、一人、帰路を歩く。
夜風が町を吹き抜ける。
僕はふとふり返り、さっきの夜空を見上げた。
「……」
遠くの花火の煙はすっかり消え去り、そこにはいつも通りの、星のまばらな夜空が広がっているだけ。
夢のようだったあの空間と時間は、もうそこには存在していなかった。
家に帰り着替えとシャワーを済ませたあと、僕は机の前に座り、ぼんやり今日一日を振り返っていた。
楽しかった記憶のひとつひとつは、確かに本物だったはず。
それなのに、なぜこんなにも心が満たされないのだろう。
その理由を、僕はまだ、はっきりと言葉にすることができずにいた。
【ブルルルルルッ】
その時、ケータイが震える。
弥生さんからのメッセージ。
開いてみると、それはいつもの短い挨拶ではなく、珍しく長いメッセージだった。
『春斗くん、今日はありがとう。すごく楽しかった。花火、綺麗だったね。
でも花火見てるとき、春斗くん楽しんでくれてないのかなって、ちょっと心配してました。
すこし変なこと言うけど、聞いてくれる?
私ホントはね、自分がいま本当に楽しいのか、それとも春斗くんが喜んでくれるように楽しんでるだけなのか、分からなくなる瞬間あったの。
春斗くんのとなりにいることは間違いなくうれしいはずなのに、なんか自分自身の中に別の自分がいるみたいな、そんな感覚。
こんなこと言うの、変だよね。ごめんね。今日楽しかったってゆうのはホント。
ただ最近は春斗くんといると自分がよく分からなくなること増えたってゆうのもホント。
それだけはちゃんと伝えておきたくて。
春斗くんには、正直に話したかったから。いつもありがとね。おやすみなさい』
「…………」
僕はそのメッセージを、何度も読み返した。
それは今日の夏祭りでの弥生さんが送ったメッセージとは、まったく思えない内容だった。
そしてそのメッセージには確かに、僕の知っている弥生さんの気配を感じた。
彼女の『別の自分』という言葉が、僕の胸に重くのしかかる。
本当は、理想的に振舞っていた弥生さんの中で、いろんな自分と戦っていたのかもしれない。
それはたぶん、僕のせいだと思った。その事実がただつらくて、申し訳なかった。
僕らは同じ夜空の下で、それぞれ別の虚無感を、抱えてしまっていたのかもしれない。
やはり、僕がこの手帳に書き記してきた言葉の数々が、彼女の中に空虚さを植え付けてしまったのか。
そう実感して僕は初めて、はっきりと恐怖を覚えた。
これまでの僕は、自分の願いが彼女の行動や言動を変えていることだけに気を取られていた。
けれど、もしこの手帳の影響が、弥生さんの行動だけではなく、彼女の内側にある感情そのものにまで及んでいるのだとしたら……。
彼女が今感じている、楽しいふりをしているだけなのかもしれないという違和感も、全部、僕のせいかもしれない。
「…………」
僕はしばらくの間、返信の言葉を打っては消し、打っては消しを繰り返した。
彼女が抱えている不安にどう応えればいいのか、まったく分からなかった。
手帳のことを全部話すべきなんじゃないかという考えさえ、つい頭をよぎる。
けれどそれを打ち明けることで、彼女が僕をどう思うのか。
それを想像するだけで、僕は指が動かなくなった。
打っては消した文章の中には、『実は、』と切り出しかけたものもあった。
すべてを正直に話してしまえたら、どんなに楽だろう。
そう思う瞬間も、確かにあった。
けれど、その先に待っているかもしれない拒絶や軽蔑を想像すると、僕の指は決まって止まってしまう。
結局、いろいろ思い巡らせて僕が送ったのは、当たり障りのない短い言葉だった。
『全然変なことじゃないよ。誰でもそういう時あると思う。今日は本当にありがとう。ゆっくりおやすみ』
送信ボタンを押したあと、僕は自分の薄っぺらさに、ひどく落胆した。
彼女が勇気を出して打ち明けてくれた本音に対して、僕はまた真実を隠したまま、うわべだけの言葉で応えてしまった。
弥生さんからの返信は、すぐには来なかった。
それから寝る頃になって届いたのは、ただ一言。
『うん、ありがとう。おやすみ』
ただそれだけだった。
その短さの中に、僕はなんとも言えない寂しさを感じ取った。
ベッドに横になりながら、彼女が送ってくれた長いメッセージを、何度も読み返す。
彼女は僕が思っていたよりもずっと、自分自身の内側で起きている異変と、真剣に向き合おうとしている。
誰かに頼るのではなく、自分の言葉で、自分の違和感をなんとか言語化しようとしている。
その姿勢は僕がこれまで想像していた、僕の願いによって書き換えられていく受け身な存在としての弥生さんとは、まったく違う弥生さんだった。
画面の光だけが照らす暗い部屋の中で、僕はその文章を、まるで暗号を解読するように繰り返し読み込んでいた。
彼女は、ただ僕の願いのままに変わっていく人形のような存在ではなく、その変化を敏感に察知し、抗おうとし、自分の言葉でそれを表現しようとする、一人の女性だった。
その事実に、僕は今さらながら、はっきりと気づかされていた。
彼女は僕の理想を一方的になぞるのではなく、自分自身の輪郭を守ろうと、静かに、けれど確かにもがき続けている、一人の女性なのだと。
今になって僕はようやく、彼女をはっきりと見つめ直し始めていた。
賑やかだった一日が嘘のように、いつもの静けさをまとう夜。
窓の外では一匹のセミが、夜遅くまで狂ったように鳴き続けている。
僕は暗い天井を見上げながら、彼女の言葉を、何度も心の中で繰り返していた。
もし、彼女が抱えているその違和感の正体が、僕がこの手帳に書き記してきた言葉の積み重ねなのだとしたら。
これから先、僕らの関係は、いったいどうなっていくのだろう。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていくようだった。
このまま何もせずにいれば、彼女の中の葛藤は、これからも静かに、しかし確実に、彼女自身を傷つけ続けるのかもしれない。
「…………」
答えの出ない問いを抱えたまま、僕はいつまでも眠りにつくことができなかった。
花火の余韻も、祭りの賑わいも、もうすでに遠い記憶のように感じる。
そんな静かで、長い夜だった。
翌日。
学校で顔を合わせた弥生さんは、また夏祭りの時と同じ微笑みに戻っていた。
「おはよう、春斗くん」
「お、おはよう」
その声には、昨夜のメッセージに滲んでいた不安の色は、まったく感じられなかった。
まるで、あの長い文章を送ったこと自体、なかったことのように。
「昨日は変なメッセージ送ってごめんね」
弥生さんは、少し申し訳なさそうに僕に言った。
「全然変なことじゃない。ちゃんと読んだよ」
僕はちゃんとその事実を伝えた。
「ありがとう。なんか夜中につい、いろんな感情わいてきちゃって。でももう大丈夫」
「……そっか。そういうときもあるよね。気にすることないよ」
「うん、ありがとう」
弥生さんはまた穏やかな笑みを浮かべた。
答えの出ないいろんな感情に、彼女なりにちゃんと向き合おうとしてるのかもしれない。
そんな感じもした。
その姿勢を見ながら僕は改めて、彼女の中に確かに存在している葛藤の重さを感じ取っていた。
それは、僕があの手帳に書いた言葉によって一方的に与えられた変化ではなく、彼女自身が自分の内側で懸命に抗い続けている証だった。
夏休みは、もう目前に迫っている。
僕はふと、この夏の間に自分が何をすべきなのかを真剣に考え始めていた。
これまでのように、ただ願いを叶えることだけを目的に向き合うのではなく、彼女という一人の人間の中で、実際に何が起きているのかを、もっと正面から見つめなければならない。
そんな予感が、僕の胸に静かに芽生え始めていた。
終業式の日。
僕はノボルと弥生さんの三人で、夏休みの過ごし方について他愛のない会話をしていた。
ノボルが「夏予選終わっても毎日休みなし終わった……」と嘆く横で、弥生さんは「私は家族旅行と、あと春斗くんともいっぱい遊ばないと」と嬉しそう微笑んでいる。
最近の弥生さんの対応にはもうお手上げと言わんばかりに、ノボルは大きく肩をすくめた。
その微笑みは確かに理想的なものだったけど、僕にはもう、その微笑みを素直に喜べなくなってしまっていた。
担任が一学期最後のホームルームで、夏休み中の生活態度についての注意事項を淡々と読み上げていく。
しかし教室の空気はフライング気味にもうすでに浮ついていて、クラスメイトの誰も、その話を真剣に聞く者はいなかった。
僕も担任の話を軽く聞き流しながら、窓の外に広がる夏らしい入道雲をぼんやり眺めていた。
もうすぐ、色々あった一学期が終わる。
四月にとなりの席になったときから数えれば、わずか四ヶ月ほどの、濃厚でかけがえのない日々。
その短いようで長い時間の中で、僕という高二男子の日常は、これ以上ないくらい大きく変わってしまっていた。
おもわず、ふぅと息がもれた。
教室を出るとき、弥生さんが僕のとなりに並び、笑って話しかけてくる。
「夏休みもまた、いっぱい遊ぼうね」
「……うん、そうだね」
「花火もまた来年、一緒に行きたいな」
その言葉に頷きながらも僕は心のどこかで、来年の夏、僕たちが今と同じ関係でいられるのかどうか、確信が持てずにいた。
来年の夏も、僕たちはまだこうして、笑い合っていられるのだろうか。
彼女は、しあわせなままだろうか。
その問いに僕はまだ、確かな確信を持てなかった。
そして僕は心の中で、静かに一つの決意を固めつつあった。
これからは自分のためだけじゃなく、二人のために生きる。
彼女のためにも、そして、自分自身のためにも。
方法なんて分からない。
けれど、これ以上自分の理想だけを押し付け続けることはできないという確信だけが、僕の胸に静かに根を張り始めていた。
昇降口の手前でふと、後ろの廊下を振り返る。
夏休みを迎えたばかりの廊下は、いつも以上に賑やかで、開放的な空気に満ちていた。
その光景を目に焼き付けながら、僕は自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
この夏は、これまでとは違う夏にする。
何をどうすればいいのかなんて、何も分からない。
それでもその決意だけは、僕の中でもう揺らぐことはなかった。
