文化祭前日の教室の後ろからは、ほのかに段ボールとガムテープの匂いが漂っていた。
さすがに文化祭の前日にもなると、今まで参加してなかったクラスメイトたちもみんなで協力し合い、放課後の教室は黒い模造紙や発泡スチロールの棺桶もどき、段ボールや油性ペンなどの準備品であたりは溢れかえっていた。
「おい春斗! そこの黒い布、もっとちゃんと貼ってくれ!」
最後になってがぜんやる気を出すノボルの声に僕は渋々うなづきながら、脚立の上でガムテープを伸ばしていく。
窓の外はあいにくの小雨模様で、明日の天気予報も雨らしいというどんよりした噂も漂っていた。
そんな天気のことなどお構いなしに、弥生さんはいつも調子で教室の隅で太いマジックペンを握り、装飾品とかに熱心に色を重ねていっていた。
集中してくると、無意識に舌先が覗く。
それはこの準備期間で発見した、何度も見ていた弥生さんのクセだった。
そういう僕の知らない弥生さんの一面を見るたび、そこにありのままの彼女を垣間見たような気がして、僕はどこかほっとしてうれしくなった。
この文化祭の準備期間中、弥生さんとは自然と話す機会が増えた。
彼女はいつもクラスの中心だったから、放っておいても人が集まってくる。
僕はその輪の外側から、彼女が誰かに指示を出したり誰かの失敗を励ましたりするのを、ただ眺めていることが多かった。
それでもふとした瞬間に僕と目が合うと、彼女は決まって小さく笑いかけてくれた。
「春斗くん、やっぱセンスあるじゃん」
そう言われたのは、看板の文字を書いていたときだった。
太めの筆で『恐怖の館』と書いた文字を見て、弥生さんがとなりにしゃがみ込んできた。
ふいにシャンプーかリンスの良い匂いがただよい、思わず固まった。
「……そ、そうかな」
「うん。今度やる時は、看板全部お願いしようかな」
軽い調子でそう言われ、僕は頷くことしかできなかった。
昔はこんな些細なひとつひとつに動揺してたはず。これでもだいぶ成長した、はず。
「あ。そういえば明日の当日、私たちそれぞれ出し物の当番あるから、たぶんあんまり一緒に見て回れないかも」
最後の準備を終え片付けをしながら、弥生さんが悲しい顔で言った。
「え、そうなんだ」
「でもたぶん最後の一時間くらいなら回れるかも。春斗くんは?」
自分の出番と自由時間を確認する。
どうやら僕も、ちょうど最後の二時間くらいは予定がないみたいだった。
「うん、僕も大丈夫そう」
「よし、じゃあ決まりね。明日の最後、一緒に文化祭楽しもう」
弥生さんがそう言って、嬉しそうに白い歯を見せた。
明日、弥生さんと二人で文化祭を楽しめる。
そしてそのことを、弥生さんが心から喜んでくれている。
その事実が、僕は何よりもうれしかった。
そして迎えた文化祭当日。
昨日教室中で飛び交っていた雨予想はなんとか外れ、どんよりくもり空のまま、なんとか持ちこたえてくれていた。
校舎中には焼きそばやたこ焼きのソースの匂いや熱気であふれ、生徒たちの活気のある声が、そこらじゅうで満ち満ちている。
僕らの二年三組の教室前も、開場と同時にぽつぽつと生徒が来場し、ノボルらクライメイトたちが張り切って呼び込みをする声が廊下中に響いていた。
「いらっしゃーせーっ! お化け屋敷いかがっすかーっ!」
「けっこうガチっすよーっ!」
ノボルたちのその威勢のいい声を聞きながら、僕は受付で整理券を配る係を淡々とこなしていた。
いざ文化祭本番が始まると、近隣や保護者の方や他校の生徒などいろいろな人が次々と校舎に訪れていた。
僕らのクラスメイトらもお化け係だったり案内係だったり、みんな休むヒマもないくらいそれぞれの仕事に奔走した。
時間は思っていたよりも早く、流れていった。
僕の大道具係は当日までは大変だったけど、当日は受付と軽い案内くらいの割と楽な仕事だけ任されていて、無事なんとか自分の仕事を全うし終えていた。
そして、約束していた最後の一時間が近づいて来た。
すでに当番を終えていた僕が、時間を潰していた控室代わりの空き教室から顔を出して廊下に見ると、そこには弥生さんがもうすでに廊下の窓辺に寄りかかり、誰かを待つようにソワソワと外を眺めている。
僕は慌てて準備を整え、弥生さんのもとへと急いだ。
「ごめん弥生さん、お待たせっ」
「ううん、私も今来たとこ。意外に早く終わって」
弥生さんは照れくさそうに笑って、軽く伸びをした。
下は制服のスカートに、上はクラスお揃いの大きめの黒Tシャツ姿。
黒髪のポニーテールとも相性ばっちりだった。
「……あ。リカちゃんとノボルくん発見」
「え?」
弥生さんがそう言って、遠くの廊下を指差す。
その先には仕事を終えたノボルと彼女さんが、楽しそうに並んで歩いていた。
「さっき彼女さんと回るって嬉しそうに言ってた。あいつ、ホントちゃっかりしてるよね」
「……まぁ、私たちもだけどね」
弥生さんが笑う。
「あ……」
まさにブーメラン。僕は思わず頭をかいた。
「じゃあ、行こっか」
「うん、行こう」
校舎をあとにして外に出ると、校舎回りの通路やグラウンドにも模擬店の屋台がずらりと並んでいて、香ばしいソースの匂いや揚げ物の匂いと、活気のある声がそこら中から溢れていた。
「私今日まだ食べれてないし、お腹すいたかも。何か食べよっかなぁ」
「え、お昼食べてないの?」
僕は思わずとなりで歩く弥生さんに聞く。
「夕方春斗くんと回ると思ったから、ちょっとガマンしてた」
「……え、それって、僕のため?」
「それは内緒。さ、早く行こっ」
「……」
思わず頬がゆるんだ。
弥生さんが、僕との時間を何より楽しみにしてくれている。
その事実が、僕にとっては他の何ものにも代えがたいよろこびだった。
弥生さんの提案で、僕たちは屋台を回ることにした。
最初に買ったのは焼きそばだった。
三年生のクラスが出しているお店で、割り箸を渡してくれた先輩の男子が弥生さんの顔を見た瞬間、喜んでサービスしてくれた。
そのデレデレした先輩男子の姿を見て、やっぱり弥生さんは全校生徒の中でも人気があるんだと、改めて再確認させられた。
「あれ、春斗くんは焼きそば食べないの?」
「さっきお昼食べたから、甘いものだけにしとこうかな」
「そっか」
弥生さんはパックの焼きそばを嬉しそうに抱え、二人で空いてるベンチを探して歩いていく。
「さっきの先輩、たぶん弥生さんのこと気になってると思う」
「え、そうかな?」
弥生さんは全く気にしてない様子。
その無自覚さが、なんだか彼女らしいと僕は思った。
天気はあいかわらず雲っていたけど、なんとか雨は降らないで保ってくれていた。
空いていた中庭のベンチに、僕らは並んで腰かけた。
となりから香るソースの匂いが、やけに食欲をそそる。
「ん、うまっ」
弥生さんはおいしそうに食べはじめた。
頬張った瞬間、弥生さんの頬に付くソース。
指摘するべきか迷っているうちに、彼女は慌ててサッと手で拭いた。
そして僕と目が合った。
「……見た?」
「……ちょっとだけ」
「もーっ!」
突然身体を押され、僕は思わず笑ってしまった。
こんな他愛のないやり取りが、たまらなく愛おしかった。
焼きそばを食べ終えても、次はたこ焼き、ヨーヨーすくいと、彼女の興味が衰えることはなかった。
ヨーヨーすくいの屋台では、弥生さんが張り切って何個もすくおうとして、あっという間にこよりを破いてしまった。
「あー、もーっ」
「僕、やろうか?」
「いい、もう一回やる」
ムキになる弥生さんを横目に、僕は自分の分のこよりで、弥生さんが格闘していた青いヨーヨーをすくい上げた。
それを差し出すと、彼女は一瞬悔しそうな顔をしてから、素直に受け取った。
「……ありがと」
その少しふて腐れたような顔に、僕はまた心を奪われた。
屋台の合間を縫うように、僕らは賑やかな校内を並んで歩いていく。
たわいもない話を続けながら僕らが次に向かったのは、体育館だった。
なにやら軽音部のライブが行われているらしく、外にまで盛り上がっている音が聞こえてくる。
扉を開けると、爆音のギターと歓声が一気に押し寄せた。
中は熱気で少しムッとしていて、生徒たちが体を揺らしながら、ステージ前に群がり盛り上がっている。
僕たちは後方の壁際に落ち着いた。
「軽音部、レベル高いねっ!」
「っ」
弥生さんが僕の耳元で叫ぶように言った。
思わずドキッとした。
爆音のせいで、それくらい近づかないと声が届かなかった。
「うん。でも耳、やられそうっ!」
僕も弥生さんの耳元に、大声で返した。
笑って何回かうなづいたその瞬間、彼女の髪からシャンプーの匂いがふわりと香る。
慌てて僕はステージに目をやった。
ステージの上では、三年生のバンドが誰もが知っているヒット曲をカバーしていた。
周りの生徒たちが歌詞を口ずさみ、手を挙げて揺れている。
弥生さんも、いつの間にかリズムに合わせて体を揺らしていた。
僕は音楽よりも、隣で楽しそうに笑う弥生さんの横顔の方を、横目で見てしまっていた。
ステージの照明を受け、きらきらと動く瞳。楽しげに揺れるポニーテール。
彼女のすべてが、眩しかった。
曲が終わり拍手と歓声が体育館中に響いたとき、弥生さんがふとこちらを向いた。
「楽しいね、文化祭」
その一言に、僕は素直にうなづいた。
「うん、楽しい」
嘘偽りのない、心からの言葉だった。
手帳に書いた一文なんて、もう頭の隅に追いやられていた。
ただこの瞬間が、ずっと続けばいいと思った。
次の曲が始まる直前、少しだけ静かになった体育館の中で、弥生さんが小さく呟いた。
「今日、一緒に回れてよかった」
その声は、周りの喧騒に紛れて消えてしまいそうなくらい小さかったけれど、僕の耳には、はっきりと届いた。
僕は、何も答えられなかった。
ただ、頬が熱くなるのを感じながら、もう一度、彼女の横顔を見つめていた。
最後に行きたい所あると言って僕が弥生さんを連れやって来たのは、我らが二年三組のクラスの前だった。
「やっぱ、最後はここでしょ」
弥生さんは思わず目を丸くした。
「えー……、でも私全部知ってるし、たぶん驚かないよ?」
「でも僕らのお化け屋敷、けっこうクオリティ高いって評判らしいよ」
「そう? よし、じゃあ試しに行ってみますか」
そうして僕らは、僕らが作ったお化け屋敷へと入っていった。
本格的なお化け屋敷をうたっているものの、僕らはその中心的な作り手側の人間。
どこでどんな演出があるかも、当然全部分かっている。
噂では、泣いてしまった人もちらほらいたらしい。
「……私、実はこういうの結構苦手なんだよね」
教室を前に、弥生さんが耳元で言った。
「前に休日の買い出しの時、僕に生首突き付けて驚かせてきたのに?」
「やられるのはムリ」
入口の暗幕の前で、弥生さんが小さく笑いながら言った。
表向きは平気そうな口調だったけれど、その声のトーンには、明らかに緊張が滲んでいた。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ぜんぶ分かってるし」
強がっているのが、丸わかりだった。
僕は何も言わずに、先に行く彼女に付いて暗幕をくぐった。
中は本当に暗くて、目が慣れるまで数秒かかった。冷房が効きすぎているのか、外よりも肌寒い。
どこかでスピーカーから流れる、耳障りな低い音。
足元には、わざと不揃いに敷かれた布が、歩くたびにかさりと音を立てた。
狭い通路を、一列になって進んでいく。
前を歩く弥生さんの背中が、少しずつ強張っていくのが分かった。
出口もかすかに見え、最後の角を曲がったその瞬間だった。
白い着物を着た誰かが、すぐ横の暗闇からぬっと現れて、金切り声をあげた。
「ひゃぁぁっ!」
「なっ⁉」
弥生さんが思わず悲鳴をあげて、反射的に一歩下がる。
その拍子に、彼女の手が僕の腕に触れた。
「大丈夫、こっちっ!」
考えるより先に、僕は弥生さんの手を握り、夢中で引っ張っていた。
自分でも驚くくらい、自然だった。
手帳にだってこんなこと書いていないのに、体が勝手に動いた。
弥生さんは一瞬だけびくりと肩を震わせたけれど、すぐに、僕の手を握り返してきた。
「あ……ごめん」
「ううん」
それ以上、何も言えなかった。
ただ、心臓の音が、耳の奥でうるさいくらいに響いていた。
その後も、暗闇の中で何度か脅かされるたびに、弥生さんは僕の手をぎゅっと握った。
そのたびに、僕は彼女を導くように、半歩前を歩いた。
自然と、そうしていた。
出口の光が見えたとき、弥生さんは詰めていた息をふうっと吐き出した。
「はぁ……ホント無理。全然リハーサルよりレベル上がってるし」
「そうだったんだ。予想外だったぶん、余計怖かったかもね」
「ホントそれ。まぁクオリティ上げてくれるのはありがたいことなんだけど。春斗くんは平気だった?」
「……うん、全然平気」
「うそだあ。ちょっと声出てたじゃん」
「なっ⁉」
僕らはようやく手を離し、ケラケラ笑い合った。
手のひらには、彼女の温もりの余韻だけが、ほのかに残っていた。
こうして僕らの文化祭は、最高潮のまま幕を閉じていった。
文化祭が終わり、下校時刻を告げる放送が校内に響く。
僕らは片づけをして、校舎を出た。
弥生さんは「じゃ、また明日」と手を振って、いつもの駅で別れた。
その後ろ姿を見送りながら、僕は自分の手のひらを見つめていた。
今日一日、あんなにも自然に、あんなにも楽しそうに笑っていた弥生さん。
あの笑顔のどこまでが、本当の彼女で、どこからが、僕の書いた言葉によるものなのか。
考えても、答えは出なかった。
そのまま僕はどこへも寄らず、長かった一日の帰路についた。
六月に入ってからというもの、梅雨特有のじめついた空気が僕らを日々包むようになっていた。
教室の窓には雨粒がつたい、廊下にはいくつもの傘立てが並ぶようになる。
そんな季節の変わり目の中でも、僕と弥生さんの関係は、相変わらず穏やかに、しかし確実に深まり続けていた。
あいにくのくもり空のもと、文化祭はなんとか無事に終わりを迎えた。
お化け屋敷の出し物は学校内でもかなり評判を呼び、弥生さんは実行委員として、最後まで忙しく立ち回っていた。
そして最後は約束通り、二人で校内を見て回る時間もあった。
他のクラスの模擬店や、さまざまな催しを観ながら歩いたこと。
体育館で爆音のなか、軽音部のライブを聴いたこと。
そして、お化け屋敷で弥生さんと初めて、手をつないだこと……。
あの時間は手帳のことなんて一切考えず、ただ純粋に楽しんでいた。
文化祭が終わってからも、僕らの距離はさらに縮まったような気がしていた。
文化祭という共通の目標を一緒にやり遂げたことで、二人で過ごす時間の質そのものが、以前よりも深いものに変わっていったように思う。
放課後も一緒に帰ることが当たり前になり、休日に会うことはもう僕らにとって、特別な出来事ではなくなっていた。
教室でも、僕らが二人で話している光景は、すっかりクラスの日常の一部として溶け込み、認知されているようだった。
梅雨に入った六月の教室は、湿気と気温のせいかムッとしていて、どこか重苦しい空気に包まれていた。
窓を開けても風は生あたたかくてほとんど通らず、クーラーを待ちわびる声がちらほらと教室中からあがり始めていた。
そんな中でも弥生さんは変わらず明るく、クラスの中心的な存在であり続けていた。
友人たちに囲まれて笑う姿、係の仕事を率先して引き受ける姿、そのどれもが、僕が初めて彼女に惹かれたころと変わらない魅力を放っている。
だからこそ僕はときどきふと、自分があの手帳の不思議な力を使っている実感を、うまく持てなくなることがあった。
表面的には、そんなに変わってないように見えたからだ。
あのヒスイ色の手帳に書いていくことに、本当に意味があるんだろうか。
僕は少し、自分が夜な夜なやっていた行動にどこか虚しさというか、少し徒労感を覚えはじめていた。
それからは僕が手帳に向かう回数は、以前よりも徐々に減っていった。
減ったというより、書く必要をあまり感じなくなった、というのが正確かもしれない。
日常そのものが、もうじゅうぶん僕の望む形に近づいていたからだ。
それでもふとした瞬間に不安がよぎると、僕はまた夜な夜な手帳を開いて、小さな確認のような一文を書き足すことはあった。
『弥生さんが、僕のことを大切に思ってくれる』
僕はその一文を書いたあとの自分のこの心境を、あまく言葉で表現することができなかった。
満たされているはずなのに、どこかでまだ、この幸福が本物ではないかもしれないという不安を拭いきれずにいた。
だからこそそれを確認するように、僕はまた同じような言葉を重ねてしまう。
まるで、砂の上にもうじゅうぶん丁寧に積み上げお城の輪郭を、何度も何度も指でなぞり直すように。
触りすぎて、せっかく出来てたものを壊してしまわないか、僕は少し不安だった。
書き足すたび、僕は自分に言い聞かせていた。
これくらいなら、大きな変化じゃない。
もう十分に幸せなのだから、これ以上大きく望みを膨らませることはしない。
そんな小さな自制心を保っているつもりでいたけれど、実際には、その「これくらい」の積み重ねこそが、徐々に彼女という人間の輪郭を、僕の望む形へと変えてしまってないか心配だった。
その夜、僕はふと引き出しを開け、これまで手帳に書いてきた彼女への言葉を、冷静に数えてみた。
似ている言葉もあり正確な数は分からなかったけど、少なくとも二十や三十では収まってない実感があった。
後悔や願望から始まった言葉が断定形に変わり、ひとつひとつが彼女の日常のどこかに、たしかに小さな爪痕を残しはじめている。
そのことに気づいたとき、僕は初めて自分が積み重ねてきたものの重さに、うっすらとめまいがした。
すぐ数えることをやめて、また手帳を引き出しの奥にしまい込んでも、そのめまいが消えることはなかった。
六月半ばのある日。
僕たちは学校帰りにいつものように、駅までの道を歩いていた。
弥生さんはその日、いつも通り笑ってくれてはいたけど、どこか少し疲れた様子だった。
「どうしたの、元気ないね?」
「あー梅雨の低気圧のせいかな? ちょっと頭痛するかも」
「文化祭も忙しかったしね……大丈夫? ドラッグストア寄る?」
「大丈夫ありがと。……あとちょっとだけ、妹たちの世話で寝不足かも」
聞けば下の妹さんが体調を崩し、看病でここ数日あまり眠れていないのだという。
それでも弥生さんは僕の前ではいつも通り、明るい笑顔を絶やさないでいてくれた。
僕は思わず、唇を噛んだ。
「そっか大変だったんね。今日は早く帰って休んだほうがいいよ」
「うん、そうしようかな。でも、春斗くんと話す時間は削りたくないんだよね」
そう言って笑う弥生さんを見て、僕はふいに彼女を抱きしめたくなった。
胸の奥が温かくなるのを感じた。
でもそれと同時に、彼女がどこか無理をしているのではないかという懸念も抱いていた。
長女として家族を支えることに誇りを持っている彼女が、体調を崩した妹の看病で疲弊しながらも、それでも僕との時間を優先しようとしてくれている。
その健気さがうれしさと同時に、申し訳なさを、僕の心の中に残していた。
「ありがとう。妹さんは大丈夫そう?」
「うん、熱はだいぶ下がってきたし、もう大丈夫だと思う。でも妹が寝つくまでずっとそばにいてあげなきゃいけなくて。それが正直けっこう体力使うんだよね」
「大変なんだね……色々。弥生さんって、いつもそうやって妹さんたちの面倒見てるんだね」
「まあね。物心ついたときにはもう当たり前になってたから、特に大変とも思ってなかったんだけどね。……でも最近はちょっとだけ、疲れることもあるかも」
その『ちょっとだけ』という言葉の中に、僕はほんのわずかな本音の重みを感じ取った。
それでも僕は、そのことを深く掘り下げることはできなかった。
彼女がこれまで積み重ねてきた家族を支える役割への誇りを僕は尊敬していたし、彼女のそうゆうところも好きだった。
「お大事に」と言って、僕らは駅で別れた。
その週末の土曜日。
すっかり元気を取り戻した弥生さんと二人で学校近くの駅前を歩いていると、偶然、部活帰りのノボルに遭遇した。
なんでこんな休日の真昼間の駅に、ノボルが……。
そういえば、この前ノボルが「夏予選近いから最近練習めちゃラク」と笑ってたことを思い出し、僕は一人納得した。
僕らに気づくと、制服姿のノボルがニヤニヤ笑いながら、肩にかけた野球部のカバンを揺らしやってきった。
「よお、お似合いのカップルさん。今日はデートかい?」
「べ、別にデートってわけじゃ」
「デートだよっ!」
「っ……」
とっさに否定していると、弥生さんがポニーテールをくりんと揺らし、声高に割り込んだ。
僕は言葉を失った。
たしかに僕らの行動は、デートと言われてもだれも否定しないものなのかもしれない。
でもあらためてそれを言葉にすると、身体中が熱くなった。
ノボルは「お、ついに認めたか」とからかってきた。
「認めたっていうか、もう周りもそう思ってるでしょ、いい加減」
弥生さんはあっさりと言った。
その堂々とした態度に、僕はどこか救われるような気持ちと同時に、小さな戸惑いも覚えていた。
僕はあの手帳に弥生さんと付き合う、なんて直接的なことは書いてない。
そんな大胆なことを書く勇気、あいにく持ちあわせてなかった。
それでも彼女はこんなにはっきりと、僕との関係を言葉にしてくれている。
そういえば、こんなに彼女が好意的になってきたのは、いつからだっただろう。
少なくとも、出会ったばかりのころの彼女なら、こんなことを周囲の目も気にせず言い切ることなんてなかった思う。
ノボルと別れたあと、弥生さんは少し得意げな顔で僕をのぞき込んだ。
「言っちゃった。良かった?」
「うん……。ちょっと、びっくりしたけど」
「なんかもう、隠す理由もないかなって。最近そう思うんだよね」
「……そっか」
その言葉を聞きながら、僕は素直に喜べばいいはずなのに、心のどこかで小さな違和感を拭えずにいた。
彼女の変化のひとつひとつが、本当に自然な心の成長なのか、それとも僕が知らないうちにあの手帳へ書き込んだ何かの結果なのか……。
その境界線が、僕にはもうほとんど分からなくなっていた。
六月下旬の、梅雨らしい雨の降りつづく放課後。
僕たちは駅前の純喫茶と書かれたレトロな喫茶店で、雨宿りを兼ねて時間を潰していた。
窓の外には、傘を差した人々が忙しなく行き交っている。
店内には静かなジャズが流れ、かすかな雨音と混じり合い、どこか情緒的な雰囲気を醸し出していた。
弥生さんは温かい紅茶のティーカップを両手で包みながら、しばらく黙って、少し物憂げに窓の外を眺めている。
いつもの快活な彼女らしくないその静かな横顔に、僕は少し戸惑いを覚えた。
「弥生さん、大丈夫?」
「うん……あのさ、春斗くん」
弥生さんは外の雨を眺めながら、ぽつりと口を開いた。
「何?」
「最近、私、自分がたまに分からなくなるんだよね」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
以前、文化祭の準備中に見せたあの一瞬の戸惑いの表情が、ふと脳裏によみがえる。
「……分からなくなるって、どういうこと?」
「なんて言えばいいのかな。気づいたら自分でも予想してなかった言葉を口にしてたり、予想してなかった選択をしてたりすることがたまにあるの。それも、一回や二回じゃなくて」
弥生さんはそこで一度言葉を切り、紅茶を一口飲んでから、また話を続けた。
「たとえば、こないだの文化祭の準備のとき。クラスのことより春斗くんとの作業を優先しちゃったこと、覚えてる?」
「……うん、覚えてる」
「あのときね、自分でもびっくりしたの。私、こんな風に誰かを優先するタイプじゃなかったはずなのに、って。それに最近他にも似たようなこと、ちょこちょこあって」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
彼女の言葉ひとつひとつが、僕の中である一つの疑念を、確信へと近づけていくのを感じていた。
あの手帳に書いた僕の願いが、彼女という人間の輪郭を、少しずつ、しかし確実に歪めてしまっているのかもしれない。
そのことを、当の本人が、はっきりと自覚し始めているのでは……。
「なんてゆうか、自分の中にもう一人自分がいるみたいな感覚っていうかさ。今の私が本当の私なのかが、たまに分からなくなる瞬間あるんだよね」
「…………」
その言葉はあまりにも核心を突いていて、僕は返す言葉が出てこなかった。
心臓の音が、自分でもはっきり分かるくらい速くなる。
彼女は僕の顔を見て、弱々しく「あはは」と笑った。
「変なこと言ってごめんね。ただの気のせいだとは思うんだけど」
「……そ、そんなことないよ。誰だって、たまに自分が分からなくなること、あると思う」
僕はなんとか当たり障りのない言葉を選んで、彼女を安心させようとした。
本当は、彼女の抱えている違和感の正体を、僕がいちばん理解しているはずだった。
それなのに、僕はその真実を打ち明けることができなかった。
打ち明けてしまえば、この弥生さんとの心地よい日々が、すべて崩れ去ってしまうかもしれない。
僕のこと、嫌いになってしまうかもしれない。
その恐怖の方が、彼女への誠実さよりも、僕には圧倒的に勝っていた。
「実はね、」
ティーカップを受け皿にカチャンと置き、弥生さんが続ける。
「こないだ、お母さんに強く言い返しちゃったことがあって。自分でもびっくりするくらい、きつい言い方で。あとになってなんであんなこと言っちゃったんだろうって、すごく後悔したの」
「え、弥生さんがお母さんに?」
「うん……信じられないよね。私、家族の前ではいつも、みんなが揉め事とか起こさないようにって気をつけてたはずなのに」
僕はその話を聞きながら、背筋が冷たくなるのを感じた。
彼女が語る『自分らしくない自分』の輪郭が、僕の中であのヒスイ色の手帳に書き記してきた言葉の数々と、少しずつ重なり合っていく。
「……弥生さんは悪くないと思う。誰だってそういう日はあるし」
「そうなのかな……。でも最近それが、ちょっと多い気がして。だからちゃんと自分の気持ちを整理したくて、つい春斗くんに話しちゃった」
弥生さんはそこで一度言葉を切り、また窓の外の雨を見つめた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく息を吐き、またティーカップに手を伸ばした。
「そっか……。大丈夫。弥生さんは、弥生さんだよ」
僕が弥生さんを見つめそう言うと、弥生さんは少しだけ安心したように微笑んだ。
「そう、かな。春斗くんが言うなら、そうかもね」
その屈託のない笑顔を見て、僕は自分がどれだけ卑怯な人間なのかを、改めて思い知らされた気がした。
彼女が抱えている不安の根本原因を知っているかもしれないのに、それを隠したまま、うわべだけの言葉で彼女を慰めている。
「……うん」
そんな自分を、僕はどうしても正当化することができなかった。
雨は少し弱まってきたので、僕らは喫茶店を出た。
二人並んで傘を差しながら、駅までの短い道のりを歩く。
僕はさっきの会話のことを、頭の中で何度も考えていた。
雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を鈍く反射している。
水たまりを避けながら歩く弥生さんの横顔は、店を出る前の重たい表情から、いくらか和らいでいるように見えた。
話すことで、少しは気持ちが軽くなったのかもしれない。
そう思うと、僕は自分の卑怯さを差し引いても、彼女の話を聞けたことだけは良かったのだと、そう自分に言い聞かせた。
「今日は話聞いてくれてありがと」
駅で別れる直前、弥生さんはそう言って少し照れくさそうに笑った。
「話聞くくらい、いつでも」
「うん。春斗くんがいると、なんか安心する」
その言葉を聞きながら僕の胸には、喜びと罪悪感が入り混じった、複雑な感情が渦巻いていた。
彼女が僕に安心感を覚えてくれるのは、素直にうれしい。
けれどその安心感すら、僕があの手帳に書いた言葉の産物なのかもしれないと思うと、素直に喜ぶことができなかった。
喜びと罪悪感。
そのどちらも本物であるはずなのに、二つが同時に胸の中にあると、どちらの感情もどこか偽物のように感じられた。
家に帰ってからも、僕は喫茶店での会話が頭から離れなかった。
弥生さんの言葉を思い返すたび、僕の中で、ある一つの決意が固まりつつあった。
もうこれ以上、手帳に頼るのはやめよう……。
そう思いながら、僕は机の引き出しを開け、奥のヒスイ色の手帳に手が伸ばす。
「……」
僕の手の中で、手帳はいつもと変わらぬ姿でここにある。
少し角の擦り切れた表紙、わずかに歪んだ背表紙。
拾ったころと比べてその姿はほとんど変わってないのに、僕にとっての重みは、まるで別物のように増していた。
最初はただの落とし物だったものが、今では自分の日常を支える主柱のようになっている。
その事実を、僕は素直に喜ぶべきなのか、それとも忌まわしむべきなのか、もう自分でも判断がつかなくなっていた。
僕はそのまま何も書かずに、手帳を閉じた。小さな抵抗のつもりだった。
もうちゃんと、僕の理想の世界は完成された。もうじゅうぶんだ。
その抵抗がどれほどの意味を持つのかは、僕には全然分からなかった。
すでに書き込まれた言葉たちが弥生さんの日常に及ぼしている影響も、今さら手を止めたところで何も影響はないような気がしていた。
僕はヒスイ色の手帳に静かな感謝の気持ちを込め、そっとまた、引き出しの奥にしまい込んだ。
六月最後の週。
梅雨の合間の、蒸し暑い放課後だった。
僕は図書室で調べ物があるからと、少し疲れ気味だった弥生さんに教室で別れを告げ、一人学校の図書室で調べ物をしていた。
外のグラウンドの方からは、夏予選がせまり意気込む野球部員たちの掛け声が、かすかに聞こえる。
雲間から差し込む淡い光を横目で感じながら、僕は調べ物をしていた。
ふと時計を見ると、いつの間にか閉館時刻が近づいていた。
慌てて受付で本を借り、昇降口へと急ぐ。
本を片手に、少し急ぎ足で階段を上りてゆく。
僕はふと、最近弥生さんと過ごす時間が当たり前になりすぎて、彼女の些細な変化に鈍感になっているのではないかと考えはじめていた。
喫茶店で聞いた『自分がたまに分からなくなる』という、あの言葉。
あの日以来、僕は意識して彼女の様子を冷静に注意深く見るようにしていたつもりだった。
けれどいざ彼女と話していると、そんな冷静さを保てるわけもなく、さらに日常の忙しさに紛れて、その意識もいつの間にか薄れつつあった。
階段を降りきって一階の廊下を歩いていると、職員室の奥の廊下のから弥生さんらしき声がかすかに聞こえた。
「あれ? 弥生さん? まだ学校いたのか」
足取り軽く彼女に駆け寄ろうとしたその時。
どこかいつもと違う彼女の雰囲気を察知し、僕は思わずピタリと足を止めた。
よく見ると、弥生さんはケータイで誰かと通話しているようだった。
「え、今日、私が迎えに行かなきゃいけないの? ……いや、別に嫌ってわけじゃないけど、今日ちょっと疲れてて」
誰もいない廊下で反響し、声がよく響いて聞こえてくる。
なぜか雲行きのあやしい、彼女の声のトーン。
僕はとっさに、サッと柱のかげにかくれた。
彼女はなにやら、妹の保育園か何か、迎えの話をしているようだった。
いつもは頼まれれば、明るく二つ返事で引き受けるはずの弥生さんが、今、明らかに面倒くさそうな声色で応じている。
僕は固唾をのんで、ひっそり様子をうかがった。
「うん……分かった、行くけど。……ねえ、たまには他の人に頼んでもいいんじゃない? 私だって毎回都合つくわけじゃないし」
電話の向こうにいるのは、恐らく母親だろう。
その声に、ほんの少しの苛立ちが滲んでいるのを確信した。
きっと弥生さん、疲れてるんだ……。
今日はこのまま声はかけず、一人で帰ろう。
そう思った。
それはこれまでの僕が知っている弥生さんなら、絶対に口にしなかったような言葉だった。
長女としての責任感をまるで誇りのように語っていた彼女が、今、家族の頼みごとを面倒だと感じている。
最近の僕の前での明るさや雰囲気からのギャップのせいか、声のトーンひとつでこれほどまで印象が変わってみえるものかと、僕は少し驚いた。
「分かってるって。行くから、もう」
弥生さんは少し強い口調でそう言うと、通話を切った。
ケータイをしまいながらため息をつき、しばらくの間、廊下に視線を落として動かない。
廊下には人影もなく静まり返っていて、誰も弥生さんには気づいていない。
ただ僕だけが、廊下の柱のかげから、こっそりその一部始終を見届けていた。
「……私なんで今、あんなこと言っちゃったんだろ」
弥生さんがぽつりつぶやく。
それは誰に向けたものでもなく、ただただ自分自身に問いかける言葉だった。
妹の面倒を見るのを煩わしく思うなんて、これまでの弥生さんには考えられないことだったのだろう。
長女としてのプライド、家族の中で果たしてきた役割、そのすべてが、彼女自身の輪郭を形作る大切な柱だったはず。
その柱に今、小さいけれど確かなヒビが入り始めている……。
僕はそっと後ずさり、気づかれないように一人先に帰ろうとした。
その時だった。
【バサッ!】
「あっ⁉」
「へっ⁉」
僕は手に持ったままだったさっき借りた本を、うっかり滑らし床に落としてしまった。
やってしまった……。
弥生さんは目を丸くしこっちを見て、僕の存在に気づいてしまった。
「春斗くん? もう用事済んだの?」
「う……うん。帰ろうとしてたら、ホント今たまたま見かけて」
僕は必死に今来たことを伝え、何も聞いてなかった素振りを強調し、なんとか笑ってみせた。
「そっか、そうだったんだ」
「そ、そう。弥生さん、まだ帰ってなかったんだね」
「うん……ちょっとね」
僕はそれ以上、深く追及することができなかった。
彼女がさっき見せたあの戸惑いの表情の意味を、僕は誰よりもよく理解している。
それでも、そのことを聞く勇気なんて、今の僕にはまったくなかった。
「……はい、これ」
「え?」
弥生さんは何事もなかったかのように、僕が拾いそびれていた床の本を拾って、サッときれいにはたいて僕に手渡してくれた。
その様子はあまりにも自然で、さっきまでの苛立ちや戸惑いなど、まるで最初からなかったかのようにさえ見えた。
「ご、ごめん、ありがと」
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
「……うん」
弥生さんはいつも通りの明るい調子でそう言って、昇降口の方へと歩き出す。
僕はその彼女の背中に、これまでとは違う色が混じり始めていることを、はっきりと感じていた。
その帰り道。
弥生さんはさっきの電話のことを僕に話すこともなく、いつも通り明るく振る舞っていた。
だから余計その明るさの奥に、僕には見えない何かがくすぶっているような気がしてならなかった。
妹の迎えを面倒に感じてしまっている彼女。それに気づいて戸惑っている彼女。
そのどちらもが、弥生さんの中で静かに存在感を増しながら戦っていることを、僕は肌で感じ取っていた。
駅までの道すがら、僕はあえていつものように、他愛のない話をした。
梅雨明けの予報のこと、期末テストのこと、ノボルの夏予選が近いこと、そしてこれからの夏休みのことも。
話題はいくつも移り変わったけれど、僕はその会話のどこかでは、さっき見た光景のことを尋ねるべきかどうか、ずっと迷い続けていた。
結局、そのまま僕は何も聞けないまま、笑顔で彼女と別れた。
「…………」
家に帰ってから、僕は自室のベッドに横になり、今日見た光景を何度も思い返していた。
弥生さんが電話越しに見せた苛立ち。その後の、自分自身への戸惑いや呟き。
それらはすべて、僕の願いとは無関係なところで誰にも望まれずに生まれていた、彼女自身の変化だった。
手帳に書いた覚えのない言葉が、彼女の中に、確かな亀裂を生んでいる。
僕は起き上がり、机の引き出しの奥から、あの手帳を取り出した。
ページを一枚一枚めくりながら、彼女の家族に関する記述がどこかにないか、確認せずにはいられなかった。
でもどれだけ探しても、弥生さんの家族関係について、僕が具体的に書いた覚えのある一文は見つからなかった。
『弥生さんが、僕を優先してくれる』
『僕にだけ本音を話してくれる』
そういった、僕と弥生さんとの関係性についての言葉ならいくつもある。
けれど、彼女が家族に対してどう振る舞うかについては、僕は一度も書いた記憶がなかった。
だとすれば、もしかしたらこの予期せぬ彼女の変化は、僕のせいではないのかもしれない。
それでも僕は、この変化と手帳との関わりを、完全には否定できずにいた。
もしかしたら、僕と過ごす時間を増やしたいという願いそのものが、彼女の中の優先順位を、目に見えない形で書き換えているのかもしれない。
家族よりも僕を優先する時間が増えれば増えるほど、彼女の中で『家族を最優先する自分』という輪郭は、少しずつ薄れていっているのかも。
それは僕が直接望んだことではなくても、僕が積み重ねてきた願いの、いわば副作用のようなものなのではないか。
「……」
その事実は、これまでの僕の考え方を、根底から揺さぶるものだった。
もしかしたら僕が意図して書いた言葉だけでなく、この手帳がもたらす影響そのものが、彼女という人間の存在の土台を、じわじわと蝕んでいるのではないか。
長女としてのプライドという、彼女がずっと大切に守ってきたものにまで、ヒビが入り始めている。
そんなことは僕が望んだことでは決してなかった。
窓の外では、梅雨の湿った夜風が、カーテンをかすかに揺らす。
僕は暗い天井を見上げながら、初めてはっきりとした、恐怖を感じていた。
これまでの恐怖は、どこか自分の行為に対する、漠然とした罪悪感に近いものだった。
けれど今感じているものは、もっと間接的で、もっと切実な、リアルな予期せぬ恐怖だった。
このまま何もせずにいれば、弥生さんという人間そのものが、少しずつ僕の知らないところで壊れていってしまうのではないか。
僕は手帳を閉じ、もう一度引き出しの奥にしまった。
僕はまた、この手帳を最初に拾った日のことを、はっきりと思い出していた。
あの川べりの静けさ。ヒスイ色の表紙の、何も書かれていない真っ白なページの手帳。
あのときの僕は、ただ自分の惨めさや後悔を、何かに吐き出したかっただけだった。
それが今では、弥生さんの人生の輪郭そのものを、知らず知らずのうちに変えてしまっているのかも。
手帳を拾ったあの日、僕はこんなに素晴らしい未来が来るなんて、まったく想像もしてなかった。
そして、この手帳が持っている、不思議な力ゆえの重さも。
それはある意味で、無知ゆえの無邪気さだったのかもしれない。
それはまるで無邪気な子供が、とつぜん銃を手にしてしまったような。
そんな危うさをはらんでいるような気がした。
今の僕はもう、その無邪気さの中には戻れない。
知ってしまった以上、この不思議な力とどう向き合うかを、いつか自分で決めなければならない。
そのことだけは、はっきりと分かっていた。
決断を先延ばしにしているという自覚だけが、日を追うごとに、僕の中で重みを増してゆく。
その予感は、六月の終わりの湿った夜の中で、僕の胸に、重く沈み込んでいった。
手帳を拾ったあの日から、僕はずっと、自分の願いが叶っていくことばかりに気を取られていた。
けれどその純粋な願いの向こう側で、一人の人間の心が静かにひずみ始めているという現実を、僕は今ようやくリアルに感じ始めていた。
「おはよう春斗くん」
「おはよう」
翌朝の教室。
顔を合わせた弥生さんは、いつも通りの笑顔で、僕に挨拶してきた。
その声には昨日の苛立ちも、戸惑いも、何も感じさせない、いつも通りの明るさがあった。
僕はその笑顔に安堵しながらも同時に、その彼女の平静さの裏側に隠れているかもしれない何かを思うと、素直に笑い返すことはできなかった。
窓の外は久しぶりに、雲の切れ間から朝日が差し込んでいる。
教室のざわめきも、いつもと変わらない。
けれど僕の目には、そのいつも通りのしあわせな風景が、以前よりもずっと危うい均衡の上に成り立っているもののように映っていた。
廊下の向こうから聞こえる誰かの笑い声さえ、今の僕にはどこか作り物めいて聞こえた。
梅雨明けまでは、まだしばらくの時間が必要だった。
それと同じように、僕たちの間に生まれ始めていた歪みも、まだ誰の目にもはっきりとは見えていなかった。
さすがに文化祭の前日にもなると、今まで参加してなかったクラスメイトたちもみんなで協力し合い、放課後の教室は黒い模造紙や発泡スチロールの棺桶もどき、段ボールや油性ペンなどの準備品であたりは溢れかえっていた。
「おい春斗! そこの黒い布、もっとちゃんと貼ってくれ!」
最後になってがぜんやる気を出すノボルの声に僕は渋々うなづきながら、脚立の上でガムテープを伸ばしていく。
窓の外はあいにくの小雨模様で、明日の天気予報も雨らしいというどんよりした噂も漂っていた。
そんな天気のことなどお構いなしに、弥生さんはいつも調子で教室の隅で太いマジックペンを握り、装飾品とかに熱心に色を重ねていっていた。
集中してくると、無意識に舌先が覗く。
それはこの準備期間で発見した、何度も見ていた弥生さんのクセだった。
そういう僕の知らない弥生さんの一面を見るたび、そこにありのままの彼女を垣間見たような気がして、僕はどこかほっとしてうれしくなった。
この文化祭の準備期間中、弥生さんとは自然と話す機会が増えた。
彼女はいつもクラスの中心だったから、放っておいても人が集まってくる。
僕はその輪の外側から、彼女が誰かに指示を出したり誰かの失敗を励ましたりするのを、ただ眺めていることが多かった。
それでもふとした瞬間に僕と目が合うと、彼女は決まって小さく笑いかけてくれた。
「春斗くん、やっぱセンスあるじゃん」
そう言われたのは、看板の文字を書いていたときだった。
太めの筆で『恐怖の館』と書いた文字を見て、弥生さんがとなりにしゃがみ込んできた。
ふいにシャンプーかリンスの良い匂いがただよい、思わず固まった。
「……そ、そうかな」
「うん。今度やる時は、看板全部お願いしようかな」
軽い調子でそう言われ、僕は頷くことしかできなかった。
昔はこんな些細なひとつひとつに動揺してたはず。これでもだいぶ成長した、はず。
「あ。そういえば明日の当日、私たちそれぞれ出し物の当番あるから、たぶんあんまり一緒に見て回れないかも」
最後の準備を終え片付けをしながら、弥生さんが悲しい顔で言った。
「え、そうなんだ」
「でもたぶん最後の一時間くらいなら回れるかも。春斗くんは?」
自分の出番と自由時間を確認する。
どうやら僕も、ちょうど最後の二時間くらいは予定がないみたいだった。
「うん、僕も大丈夫そう」
「よし、じゃあ決まりね。明日の最後、一緒に文化祭楽しもう」
弥生さんがそう言って、嬉しそうに白い歯を見せた。
明日、弥生さんと二人で文化祭を楽しめる。
そしてそのことを、弥生さんが心から喜んでくれている。
その事実が、僕は何よりもうれしかった。
そして迎えた文化祭当日。
昨日教室中で飛び交っていた雨予想はなんとか外れ、どんよりくもり空のまま、なんとか持ちこたえてくれていた。
校舎中には焼きそばやたこ焼きのソースの匂いや熱気であふれ、生徒たちの活気のある声が、そこらじゅうで満ち満ちている。
僕らの二年三組の教室前も、開場と同時にぽつぽつと生徒が来場し、ノボルらクライメイトたちが張り切って呼び込みをする声が廊下中に響いていた。
「いらっしゃーせーっ! お化け屋敷いかがっすかーっ!」
「けっこうガチっすよーっ!」
ノボルたちのその威勢のいい声を聞きながら、僕は受付で整理券を配る係を淡々とこなしていた。
いざ文化祭本番が始まると、近隣や保護者の方や他校の生徒などいろいろな人が次々と校舎に訪れていた。
僕らのクラスメイトらもお化け係だったり案内係だったり、みんな休むヒマもないくらいそれぞれの仕事に奔走した。
時間は思っていたよりも早く、流れていった。
僕の大道具係は当日までは大変だったけど、当日は受付と軽い案内くらいの割と楽な仕事だけ任されていて、無事なんとか自分の仕事を全うし終えていた。
そして、約束していた最後の一時間が近づいて来た。
すでに当番を終えていた僕が、時間を潰していた控室代わりの空き教室から顔を出して廊下に見ると、そこには弥生さんがもうすでに廊下の窓辺に寄りかかり、誰かを待つようにソワソワと外を眺めている。
僕は慌てて準備を整え、弥生さんのもとへと急いだ。
「ごめん弥生さん、お待たせっ」
「ううん、私も今来たとこ。意外に早く終わって」
弥生さんは照れくさそうに笑って、軽く伸びをした。
下は制服のスカートに、上はクラスお揃いの大きめの黒Tシャツ姿。
黒髪のポニーテールとも相性ばっちりだった。
「……あ。リカちゃんとノボルくん発見」
「え?」
弥生さんがそう言って、遠くの廊下を指差す。
その先には仕事を終えたノボルと彼女さんが、楽しそうに並んで歩いていた。
「さっき彼女さんと回るって嬉しそうに言ってた。あいつ、ホントちゃっかりしてるよね」
「……まぁ、私たちもだけどね」
弥生さんが笑う。
「あ……」
まさにブーメラン。僕は思わず頭をかいた。
「じゃあ、行こっか」
「うん、行こう」
校舎をあとにして外に出ると、校舎回りの通路やグラウンドにも模擬店の屋台がずらりと並んでいて、香ばしいソースの匂いや揚げ物の匂いと、活気のある声がそこら中から溢れていた。
「私今日まだ食べれてないし、お腹すいたかも。何か食べよっかなぁ」
「え、お昼食べてないの?」
僕は思わずとなりで歩く弥生さんに聞く。
「夕方春斗くんと回ると思ったから、ちょっとガマンしてた」
「……え、それって、僕のため?」
「それは内緒。さ、早く行こっ」
「……」
思わず頬がゆるんだ。
弥生さんが、僕との時間を何より楽しみにしてくれている。
その事実が、僕にとっては他の何ものにも代えがたいよろこびだった。
弥生さんの提案で、僕たちは屋台を回ることにした。
最初に買ったのは焼きそばだった。
三年生のクラスが出しているお店で、割り箸を渡してくれた先輩の男子が弥生さんの顔を見た瞬間、喜んでサービスしてくれた。
そのデレデレした先輩男子の姿を見て、やっぱり弥生さんは全校生徒の中でも人気があるんだと、改めて再確認させられた。
「あれ、春斗くんは焼きそば食べないの?」
「さっきお昼食べたから、甘いものだけにしとこうかな」
「そっか」
弥生さんはパックの焼きそばを嬉しそうに抱え、二人で空いてるベンチを探して歩いていく。
「さっきの先輩、たぶん弥生さんのこと気になってると思う」
「え、そうかな?」
弥生さんは全く気にしてない様子。
その無自覚さが、なんだか彼女らしいと僕は思った。
天気はあいかわらず雲っていたけど、なんとか雨は降らないで保ってくれていた。
空いていた中庭のベンチに、僕らは並んで腰かけた。
となりから香るソースの匂いが、やけに食欲をそそる。
「ん、うまっ」
弥生さんはおいしそうに食べはじめた。
頬張った瞬間、弥生さんの頬に付くソース。
指摘するべきか迷っているうちに、彼女は慌ててサッと手で拭いた。
そして僕と目が合った。
「……見た?」
「……ちょっとだけ」
「もーっ!」
突然身体を押され、僕は思わず笑ってしまった。
こんな他愛のないやり取りが、たまらなく愛おしかった。
焼きそばを食べ終えても、次はたこ焼き、ヨーヨーすくいと、彼女の興味が衰えることはなかった。
ヨーヨーすくいの屋台では、弥生さんが張り切って何個もすくおうとして、あっという間にこよりを破いてしまった。
「あー、もーっ」
「僕、やろうか?」
「いい、もう一回やる」
ムキになる弥生さんを横目に、僕は自分の分のこよりで、弥生さんが格闘していた青いヨーヨーをすくい上げた。
それを差し出すと、彼女は一瞬悔しそうな顔をしてから、素直に受け取った。
「……ありがと」
その少しふて腐れたような顔に、僕はまた心を奪われた。
屋台の合間を縫うように、僕らは賑やかな校内を並んで歩いていく。
たわいもない話を続けながら僕らが次に向かったのは、体育館だった。
なにやら軽音部のライブが行われているらしく、外にまで盛り上がっている音が聞こえてくる。
扉を開けると、爆音のギターと歓声が一気に押し寄せた。
中は熱気で少しムッとしていて、生徒たちが体を揺らしながら、ステージ前に群がり盛り上がっている。
僕たちは後方の壁際に落ち着いた。
「軽音部、レベル高いねっ!」
「っ」
弥生さんが僕の耳元で叫ぶように言った。
思わずドキッとした。
爆音のせいで、それくらい近づかないと声が届かなかった。
「うん。でも耳、やられそうっ!」
僕も弥生さんの耳元に、大声で返した。
笑って何回かうなづいたその瞬間、彼女の髪からシャンプーの匂いがふわりと香る。
慌てて僕はステージに目をやった。
ステージの上では、三年生のバンドが誰もが知っているヒット曲をカバーしていた。
周りの生徒たちが歌詞を口ずさみ、手を挙げて揺れている。
弥生さんも、いつの間にかリズムに合わせて体を揺らしていた。
僕は音楽よりも、隣で楽しそうに笑う弥生さんの横顔の方を、横目で見てしまっていた。
ステージの照明を受け、きらきらと動く瞳。楽しげに揺れるポニーテール。
彼女のすべてが、眩しかった。
曲が終わり拍手と歓声が体育館中に響いたとき、弥生さんがふとこちらを向いた。
「楽しいね、文化祭」
その一言に、僕は素直にうなづいた。
「うん、楽しい」
嘘偽りのない、心からの言葉だった。
手帳に書いた一文なんて、もう頭の隅に追いやられていた。
ただこの瞬間が、ずっと続けばいいと思った。
次の曲が始まる直前、少しだけ静かになった体育館の中で、弥生さんが小さく呟いた。
「今日、一緒に回れてよかった」
その声は、周りの喧騒に紛れて消えてしまいそうなくらい小さかったけれど、僕の耳には、はっきりと届いた。
僕は、何も答えられなかった。
ただ、頬が熱くなるのを感じながら、もう一度、彼女の横顔を見つめていた。
最後に行きたい所あると言って僕が弥生さんを連れやって来たのは、我らが二年三組のクラスの前だった。
「やっぱ、最後はここでしょ」
弥生さんは思わず目を丸くした。
「えー……、でも私全部知ってるし、たぶん驚かないよ?」
「でも僕らのお化け屋敷、けっこうクオリティ高いって評判らしいよ」
「そう? よし、じゃあ試しに行ってみますか」
そうして僕らは、僕らが作ったお化け屋敷へと入っていった。
本格的なお化け屋敷をうたっているものの、僕らはその中心的な作り手側の人間。
どこでどんな演出があるかも、当然全部分かっている。
噂では、泣いてしまった人もちらほらいたらしい。
「……私、実はこういうの結構苦手なんだよね」
教室を前に、弥生さんが耳元で言った。
「前に休日の買い出しの時、僕に生首突き付けて驚かせてきたのに?」
「やられるのはムリ」
入口の暗幕の前で、弥生さんが小さく笑いながら言った。
表向きは平気そうな口調だったけれど、その声のトーンには、明らかに緊張が滲んでいた。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ぜんぶ分かってるし」
強がっているのが、丸わかりだった。
僕は何も言わずに、先に行く彼女に付いて暗幕をくぐった。
中は本当に暗くて、目が慣れるまで数秒かかった。冷房が効きすぎているのか、外よりも肌寒い。
どこかでスピーカーから流れる、耳障りな低い音。
足元には、わざと不揃いに敷かれた布が、歩くたびにかさりと音を立てた。
狭い通路を、一列になって進んでいく。
前を歩く弥生さんの背中が、少しずつ強張っていくのが分かった。
出口もかすかに見え、最後の角を曲がったその瞬間だった。
白い着物を着た誰かが、すぐ横の暗闇からぬっと現れて、金切り声をあげた。
「ひゃぁぁっ!」
「なっ⁉」
弥生さんが思わず悲鳴をあげて、反射的に一歩下がる。
その拍子に、彼女の手が僕の腕に触れた。
「大丈夫、こっちっ!」
考えるより先に、僕は弥生さんの手を握り、夢中で引っ張っていた。
自分でも驚くくらい、自然だった。
手帳にだってこんなこと書いていないのに、体が勝手に動いた。
弥生さんは一瞬だけびくりと肩を震わせたけれど、すぐに、僕の手を握り返してきた。
「あ……ごめん」
「ううん」
それ以上、何も言えなかった。
ただ、心臓の音が、耳の奥でうるさいくらいに響いていた。
その後も、暗闇の中で何度か脅かされるたびに、弥生さんは僕の手をぎゅっと握った。
そのたびに、僕は彼女を導くように、半歩前を歩いた。
自然と、そうしていた。
出口の光が見えたとき、弥生さんは詰めていた息をふうっと吐き出した。
「はぁ……ホント無理。全然リハーサルよりレベル上がってるし」
「そうだったんだ。予想外だったぶん、余計怖かったかもね」
「ホントそれ。まぁクオリティ上げてくれるのはありがたいことなんだけど。春斗くんは平気だった?」
「……うん、全然平気」
「うそだあ。ちょっと声出てたじゃん」
「なっ⁉」
僕らはようやく手を離し、ケラケラ笑い合った。
手のひらには、彼女の温もりの余韻だけが、ほのかに残っていた。
こうして僕らの文化祭は、最高潮のまま幕を閉じていった。
文化祭が終わり、下校時刻を告げる放送が校内に響く。
僕らは片づけをして、校舎を出た。
弥生さんは「じゃ、また明日」と手を振って、いつもの駅で別れた。
その後ろ姿を見送りながら、僕は自分の手のひらを見つめていた。
今日一日、あんなにも自然に、あんなにも楽しそうに笑っていた弥生さん。
あの笑顔のどこまでが、本当の彼女で、どこからが、僕の書いた言葉によるものなのか。
考えても、答えは出なかった。
そのまま僕はどこへも寄らず、長かった一日の帰路についた。
六月に入ってからというもの、梅雨特有のじめついた空気が僕らを日々包むようになっていた。
教室の窓には雨粒がつたい、廊下にはいくつもの傘立てが並ぶようになる。
そんな季節の変わり目の中でも、僕と弥生さんの関係は、相変わらず穏やかに、しかし確実に深まり続けていた。
あいにくのくもり空のもと、文化祭はなんとか無事に終わりを迎えた。
お化け屋敷の出し物は学校内でもかなり評判を呼び、弥生さんは実行委員として、最後まで忙しく立ち回っていた。
そして最後は約束通り、二人で校内を見て回る時間もあった。
他のクラスの模擬店や、さまざまな催しを観ながら歩いたこと。
体育館で爆音のなか、軽音部のライブを聴いたこと。
そして、お化け屋敷で弥生さんと初めて、手をつないだこと……。
あの時間は手帳のことなんて一切考えず、ただ純粋に楽しんでいた。
文化祭が終わってからも、僕らの距離はさらに縮まったような気がしていた。
文化祭という共通の目標を一緒にやり遂げたことで、二人で過ごす時間の質そのものが、以前よりも深いものに変わっていったように思う。
放課後も一緒に帰ることが当たり前になり、休日に会うことはもう僕らにとって、特別な出来事ではなくなっていた。
教室でも、僕らが二人で話している光景は、すっかりクラスの日常の一部として溶け込み、認知されているようだった。
梅雨に入った六月の教室は、湿気と気温のせいかムッとしていて、どこか重苦しい空気に包まれていた。
窓を開けても風は生あたたかくてほとんど通らず、クーラーを待ちわびる声がちらほらと教室中からあがり始めていた。
そんな中でも弥生さんは変わらず明るく、クラスの中心的な存在であり続けていた。
友人たちに囲まれて笑う姿、係の仕事を率先して引き受ける姿、そのどれもが、僕が初めて彼女に惹かれたころと変わらない魅力を放っている。
だからこそ僕はときどきふと、自分があの手帳の不思議な力を使っている実感を、うまく持てなくなることがあった。
表面的には、そんなに変わってないように見えたからだ。
あのヒスイ色の手帳に書いていくことに、本当に意味があるんだろうか。
僕は少し、自分が夜な夜なやっていた行動にどこか虚しさというか、少し徒労感を覚えはじめていた。
それからは僕が手帳に向かう回数は、以前よりも徐々に減っていった。
減ったというより、書く必要をあまり感じなくなった、というのが正確かもしれない。
日常そのものが、もうじゅうぶん僕の望む形に近づいていたからだ。
それでもふとした瞬間に不安がよぎると、僕はまた夜な夜な手帳を開いて、小さな確認のような一文を書き足すことはあった。
『弥生さんが、僕のことを大切に思ってくれる』
僕はその一文を書いたあとの自分のこの心境を、あまく言葉で表現することができなかった。
満たされているはずなのに、どこかでまだ、この幸福が本物ではないかもしれないという不安を拭いきれずにいた。
だからこそそれを確認するように、僕はまた同じような言葉を重ねてしまう。
まるで、砂の上にもうじゅうぶん丁寧に積み上げお城の輪郭を、何度も何度も指でなぞり直すように。
触りすぎて、せっかく出来てたものを壊してしまわないか、僕は少し不安だった。
書き足すたび、僕は自分に言い聞かせていた。
これくらいなら、大きな変化じゃない。
もう十分に幸せなのだから、これ以上大きく望みを膨らませることはしない。
そんな小さな自制心を保っているつもりでいたけれど、実際には、その「これくらい」の積み重ねこそが、徐々に彼女という人間の輪郭を、僕の望む形へと変えてしまってないか心配だった。
その夜、僕はふと引き出しを開け、これまで手帳に書いてきた彼女への言葉を、冷静に数えてみた。
似ている言葉もあり正確な数は分からなかったけど、少なくとも二十や三十では収まってない実感があった。
後悔や願望から始まった言葉が断定形に変わり、ひとつひとつが彼女の日常のどこかに、たしかに小さな爪痕を残しはじめている。
そのことに気づいたとき、僕は初めて自分が積み重ねてきたものの重さに、うっすらとめまいがした。
すぐ数えることをやめて、また手帳を引き出しの奥にしまい込んでも、そのめまいが消えることはなかった。
六月半ばのある日。
僕たちは学校帰りにいつものように、駅までの道を歩いていた。
弥生さんはその日、いつも通り笑ってくれてはいたけど、どこか少し疲れた様子だった。
「どうしたの、元気ないね?」
「あー梅雨の低気圧のせいかな? ちょっと頭痛するかも」
「文化祭も忙しかったしね……大丈夫? ドラッグストア寄る?」
「大丈夫ありがと。……あとちょっとだけ、妹たちの世話で寝不足かも」
聞けば下の妹さんが体調を崩し、看病でここ数日あまり眠れていないのだという。
それでも弥生さんは僕の前ではいつも通り、明るい笑顔を絶やさないでいてくれた。
僕は思わず、唇を噛んだ。
「そっか大変だったんね。今日は早く帰って休んだほうがいいよ」
「うん、そうしようかな。でも、春斗くんと話す時間は削りたくないんだよね」
そう言って笑う弥生さんを見て、僕はふいに彼女を抱きしめたくなった。
胸の奥が温かくなるのを感じた。
でもそれと同時に、彼女がどこか無理をしているのではないかという懸念も抱いていた。
長女として家族を支えることに誇りを持っている彼女が、体調を崩した妹の看病で疲弊しながらも、それでも僕との時間を優先しようとしてくれている。
その健気さがうれしさと同時に、申し訳なさを、僕の心の中に残していた。
「ありがとう。妹さんは大丈夫そう?」
「うん、熱はだいぶ下がってきたし、もう大丈夫だと思う。でも妹が寝つくまでずっとそばにいてあげなきゃいけなくて。それが正直けっこう体力使うんだよね」
「大変なんだね……色々。弥生さんって、いつもそうやって妹さんたちの面倒見てるんだね」
「まあね。物心ついたときにはもう当たり前になってたから、特に大変とも思ってなかったんだけどね。……でも最近はちょっとだけ、疲れることもあるかも」
その『ちょっとだけ』という言葉の中に、僕はほんのわずかな本音の重みを感じ取った。
それでも僕は、そのことを深く掘り下げることはできなかった。
彼女がこれまで積み重ねてきた家族を支える役割への誇りを僕は尊敬していたし、彼女のそうゆうところも好きだった。
「お大事に」と言って、僕らは駅で別れた。
その週末の土曜日。
すっかり元気を取り戻した弥生さんと二人で学校近くの駅前を歩いていると、偶然、部活帰りのノボルに遭遇した。
なんでこんな休日の真昼間の駅に、ノボルが……。
そういえば、この前ノボルが「夏予選近いから最近練習めちゃラク」と笑ってたことを思い出し、僕は一人納得した。
僕らに気づくと、制服姿のノボルがニヤニヤ笑いながら、肩にかけた野球部のカバンを揺らしやってきった。
「よお、お似合いのカップルさん。今日はデートかい?」
「べ、別にデートってわけじゃ」
「デートだよっ!」
「っ……」
とっさに否定していると、弥生さんがポニーテールをくりんと揺らし、声高に割り込んだ。
僕は言葉を失った。
たしかに僕らの行動は、デートと言われてもだれも否定しないものなのかもしれない。
でもあらためてそれを言葉にすると、身体中が熱くなった。
ノボルは「お、ついに認めたか」とからかってきた。
「認めたっていうか、もう周りもそう思ってるでしょ、いい加減」
弥生さんはあっさりと言った。
その堂々とした態度に、僕はどこか救われるような気持ちと同時に、小さな戸惑いも覚えていた。
僕はあの手帳に弥生さんと付き合う、なんて直接的なことは書いてない。
そんな大胆なことを書く勇気、あいにく持ちあわせてなかった。
それでも彼女はこんなにはっきりと、僕との関係を言葉にしてくれている。
そういえば、こんなに彼女が好意的になってきたのは、いつからだっただろう。
少なくとも、出会ったばかりのころの彼女なら、こんなことを周囲の目も気にせず言い切ることなんてなかった思う。
ノボルと別れたあと、弥生さんは少し得意げな顔で僕をのぞき込んだ。
「言っちゃった。良かった?」
「うん……。ちょっと、びっくりしたけど」
「なんかもう、隠す理由もないかなって。最近そう思うんだよね」
「……そっか」
その言葉を聞きながら、僕は素直に喜べばいいはずなのに、心のどこかで小さな違和感を拭えずにいた。
彼女の変化のひとつひとつが、本当に自然な心の成長なのか、それとも僕が知らないうちにあの手帳へ書き込んだ何かの結果なのか……。
その境界線が、僕にはもうほとんど分からなくなっていた。
六月下旬の、梅雨らしい雨の降りつづく放課後。
僕たちは駅前の純喫茶と書かれたレトロな喫茶店で、雨宿りを兼ねて時間を潰していた。
窓の外には、傘を差した人々が忙しなく行き交っている。
店内には静かなジャズが流れ、かすかな雨音と混じり合い、どこか情緒的な雰囲気を醸し出していた。
弥生さんは温かい紅茶のティーカップを両手で包みながら、しばらく黙って、少し物憂げに窓の外を眺めている。
いつもの快活な彼女らしくないその静かな横顔に、僕は少し戸惑いを覚えた。
「弥生さん、大丈夫?」
「うん……あのさ、春斗くん」
弥生さんは外の雨を眺めながら、ぽつりと口を開いた。
「何?」
「最近、私、自分がたまに分からなくなるんだよね」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
以前、文化祭の準備中に見せたあの一瞬の戸惑いの表情が、ふと脳裏によみがえる。
「……分からなくなるって、どういうこと?」
「なんて言えばいいのかな。気づいたら自分でも予想してなかった言葉を口にしてたり、予想してなかった選択をしてたりすることがたまにあるの。それも、一回や二回じゃなくて」
弥生さんはそこで一度言葉を切り、紅茶を一口飲んでから、また話を続けた。
「たとえば、こないだの文化祭の準備のとき。クラスのことより春斗くんとの作業を優先しちゃったこと、覚えてる?」
「……うん、覚えてる」
「あのときね、自分でもびっくりしたの。私、こんな風に誰かを優先するタイプじゃなかったはずなのに、って。それに最近他にも似たようなこと、ちょこちょこあって」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
彼女の言葉ひとつひとつが、僕の中である一つの疑念を、確信へと近づけていくのを感じていた。
あの手帳に書いた僕の願いが、彼女という人間の輪郭を、少しずつ、しかし確実に歪めてしまっているのかもしれない。
そのことを、当の本人が、はっきりと自覚し始めているのでは……。
「なんてゆうか、自分の中にもう一人自分がいるみたいな感覚っていうかさ。今の私が本当の私なのかが、たまに分からなくなる瞬間あるんだよね」
「…………」
その言葉はあまりにも核心を突いていて、僕は返す言葉が出てこなかった。
心臓の音が、自分でもはっきり分かるくらい速くなる。
彼女は僕の顔を見て、弱々しく「あはは」と笑った。
「変なこと言ってごめんね。ただの気のせいだとは思うんだけど」
「……そ、そんなことないよ。誰だって、たまに自分が分からなくなること、あると思う」
僕はなんとか当たり障りのない言葉を選んで、彼女を安心させようとした。
本当は、彼女の抱えている違和感の正体を、僕がいちばん理解しているはずだった。
それなのに、僕はその真実を打ち明けることができなかった。
打ち明けてしまえば、この弥生さんとの心地よい日々が、すべて崩れ去ってしまうかもしれない。
僕のこと、嫌いになってしまうかもしれない。
その恐怖の方が、彼女への誠実さよりも、僕には圧倒的に勝っていた。
「実はね、」
ティーカップを受け皿にカチャンと置き、弥生さんが続ける。
「こないだ、お母さんに強く言い返しちゃったことがあって。自分でもびっくりするくらい、きつい言い方で。あとになってなんであんなこと言っちゃったんだろうって、すごく後悔したの」
「え、弥生さんがお母さんに?」
「うん……信じられないよね。私、家族の前ではいつも、みんなが揉め事とか起こさないようにって気をつけてたはずなのに」
僕はその話を聞きながら、背筋が冷たくなるのを感じた。
彼女が語る『自分らしくない自分』の輪郭が、僕の中であのヒスイ色の手帳に書き記してきた言葉の数々と、少しずつ重なり合っていく。
「……弥生さんは悪くないと思う。誰だってそういう日はあるし」
「そうなのかな……。でも最近それが、ちょっと多い気がして。だからちゃんと自分の気持ちを整理したくて、つい春斗くんに話しちゃった」
弥生さんはそこで一度言葉を切り、また窓の外の雨を見つめた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく息を吐き、またティーカップに手を伸ばした。
「そっか……。大丈夫。弥生さんは、弥生さんだよ」
僕が弥生さんを見つめそう言うと、弥生さんは少しだけ安心したように微笑んだ。
「そう、かな。春斗くんが言うなら、そうかもね」
その屈託のない笑顔を見て、僕は自分がどれだけ卑怯な人間なのかを、改めて思い知らされた気がした。
彼女が抱えている不安の根本原因を知っているかもしれないのに、それを隠したまま、うわべだけの言葉で彼女を慰めている。
「……うん」
そんな自分を、僕はどうしても正当化することができなかった。
雨は少し弱まってきたので、僕らは喫茶店を出た。
二人並んで傘を差しながら、駅までの短い道のりを歩く。
僕はさっきの会話のことを、頭の中で何度も考えていた。
雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を鈍く反射している。
水たまりを避けながら歩く弥生さんの横顔は、店を出る前の重たい表情から、いくらか和らいでいるように見えた。
話すことで、少しは気持ちが軽くなったのかもしれない。
そう思うと、僕は自分の卑怯さを差し引いても、彼女の話を聞けたことだけは良かったのだと、そう自分に言い聞かせた。
「今日は話聞いてくれてありがと」
駅で別れる直前、弥生さんはそう言って少し照れくさそうに笑った。
「話聞くくらい、いつでも」
「うん。春斗くんがいると、なんか安心する」
その言葉を聞きながら僕の胸には、喜びと罪悪感が入り混じった、複雑な感情が渦巻いていた。
彼女が僕に安心感を覚えてくれるのは、素直にうれしい。
けれどその安心感すら、僕があの手帳に書いた言葉の産物なのかもしれないと思うと、素直に喜ぶことができなかった。
喜びと罪悪感。
そのどちらも本物であるはずなのに、二つが同時に胸の中にあると、どちらの感情もどこか偽物のように感じられた。
家に帰ってからも、僕は喫茶店での会話が頭から離れなかった。
弥生さんの言葉を思い返すたび、僕の中で、ある一つの決意が固まりつつあった。
もうこれ以上、手帳に頼るのはやめよう……。
そう思いながら、僕は机の引き出しを開け、奥のヒスイ色の手帳に手が伸ばす。
「……」
僕の手の中で、手帳はいつもと変わらぬ姿でここにある。
少し角の擦り切れた表紙、わずかに歪んだ背表紙。
拾ったころと比べてその姿はほとんど変わってないのに、僕にとっての重みは、まるで別物のように増していた。
最初はただの落とし物だったものが、今では自分の日常を支える主柱のようになっている。
その事実を、僕は素直に喜ぶべきなのか、それとも忌まわしむべきなのか、もう自分でも判断がつかなくなっていた。
僕はそのまま何も書かずに、手帳を閉じた。小さな抵抗のつもりだった。
もうちゃんと、僕の理想の世界は完成された。もうじゅうぶんだ。
その抵抗がどれほどの意味を持つのかは、僕には全然分からなかった。
すでに書き込まれた言葉たちが弥生さんの日常に及ぼしている影響も、今さら手を止めたところで何も影響はないような気がしていた。
僕はヒスイ色の手帳に静かな感謝の気持ちを込め、そっとまた、引き出しの奥にしまい込んだ。
六月最後の週。
梅雨の合間の、蒸し暑い放課後だった。
僕は図書室で調べ物があるからと、少し疲れ気味だった弥生さんに教室で別れを告げ、一人学校の図書室で調べ物をしていた。
外のグラウンドの方からは、夏予選がせまり意気込む野球部員たちの掛け声が、かすかに聞こえる。
雲間から差し込む淡い光を横目で感じながら、僕は調べ物をしていた。
ふと時計を見ると、いつの間にか閉館時刻が近づいていた。
慌てて受付で本を借り、昇降口へと急ぐ。
本を片手に、少し急ぎ足で階段を上りてゆく。
僕はふと、最近弥生さんと過ごす時間が当たり前になりすぎて、彼女の些細な変化に鈍感になっているのではないかと考えはじめていた。
喫茶店で聞いた『自分がたまに分からなくなる』という、あの言葉。
あの日以来、僕は意識して彼女の様子を冷静に注意深く見るようにしていたつもりだった。
けれどいざ彼女と話していると、そんな冷静さを保てるわけもなく、さらに日常の忙しさに紛れて、その意識もいつの間にか薄れつつあった。
階段を降りきって一階の廊下を歩いていると、職員室の奥の廊下のから弥生さんらしき声がかすかに聞こえた。
「あれ? 弥生さん? まだ学校いたのか」
足取り軽く彼女に駆け寄ろうとしたその時。
どこかいつもと違う彼女の雰囲気を察知し、僕は思わずピタリと足を止めた。
よく見ると、弥生さんはケータイで誰かと通話しているようだった。
「え、今日、私が迎えに行かなきゃいけないの? ……いや、別に嫌ってわけじゃないけど、今日ちょっと疲れてて」
誰もいない廊下で反響し、声がよく響いて聞こえてくる。
なぜか雲行きのあやしい、彼女の声のトーン。
僕はとっさに、サッと柱のかげにかくれた。
彼女はなにやら、妹の保育園か何か、迎えの話をしているようだった。
いつもは頼まれれば、明るく二つ返事で引き受けるはずの弥生さんが、今、明らかに面倒くさそうな声色で応じている。
僕は固唾をのんで、ひっそり様子をうかがった。
「うん……分かった、行くけど。……ねえ、たまには他の人に頼んでもいいんじゃない? 私だって毎回都合つくわけじゃないし」
電話の向こうにいるのは、恐らく母親だろう。
その声に、ほんの少しの苛立ちが滲んでいるのを確信した。
きっと弥生さん、疲れてるんだ……。
今日はこのまま声はかけず、一人で帰ろう。
そう思った。
それはこれまでの僕が知っている弥生さんなら、絶対に口にしなかったような言葉だった。
長女としての責任感をまるで誇りのように語っていた彼女が、今、家族の頼みごとを面倒だと感じている。
最近の僕の前での明るさや雰囲気からのギャップのせいか、声のトーンひとつでこれほどまで印象が変わってみえるものかと、僕は少し驚いた。
「分かってるって。行くから、もう」
弥生さんは少し強い口調でそう言うと、通話を切った。
ケータイをしまいながらため息をつき、しばらくの間、廊下に視線を落として動かない。
廊下には人影もなく静まり返っていて、誰も弥生さんには気づいていない。
ただ僕だけが、廊下の柱のかげから、こっそりその一部始終を見届けていた。
「……私なんで今、あんなこと言っちゃったんだろ」
弥生さんがぽつりつぶやく。
それは誰に向けたものでもなく、ただただ自分自身に問いかける言葉だった。
妹の面倒を見るのを煩わしく思うなんて、これまでの弥生さんには考えられないことだったのだろう。
長女としてのプライド、家族の中で果たしてきた役割、そのすべてが、彼女自身の輪郭を形作る大切な柱だったはず。
その柱に今、小さいけれど確かなヒビが入り始めている……。
僕はそっと後ずさり、気づかれないように一人先に帰ろうとした。
その時だった。
【バサッ!】
「あっ⁉」
「へっ⁉」
僕は手に持ったままだったさっき借りた本を、うっかり滑らし床に落としてしまった。
やってしまった……。
弥生さんは目を丸くしこっちを見て、僕の存在に気づいてしまった。
「春斗くん? もう用事済んだの?」
「う……うん。帰ろうとしてたら、ホント今たまたま見かけて」
僕は必死に今来たことを伝え、何も聞いてなかった素振りを強調し、なんとか笑ってみせた。
「そっか、そうだったんだ」
「そ、そう。弥生さん、まだ帰ってなかったんだね」
「うん……ちょっとね」
僕はそれ以上、深く追及することができなかった。
彼女がさっき見せたあの戸惑いの表情の意味を、僕は誰よりもよく理解している。
それでも、そのことを聞く勇気なんて、今の僕にはまったくなかった。
「……はい、これ」
「え?」
弥生さんは何事もなかったかのように、僕が拾いそびれていた床の本を拾って、サッときれいにはたいて僕に手渡してくれた。
その様子はあまりにも自然で、さっきまでの苛立ちや戸惑いなど、まるで最初からなかったかのようにさえ見えた。
「ご、ごめん、ありがと」
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
「……うん」
弥生さんはいつも通りの明るい調子でそう言って、昇降口の方へと歩き出す。
僕はその彼女の背中に、これまでとは違う色が混じり始めていることを、はっきりと感じていた。
その帰り道。
弥生さんはさっきの電話のことを僕に話すこともなく、いつも通り明るく振る舞っていた。
だから余計その明るさの奥に、僕には見えない何かがくすぶっているような気がしてならなかった。
妹の迎えを面倒に感じてしまっている彼女。それに気づいて戸惑っている彼女。
そのどちらもが、弥生さんの中で静かに存在感を増しながら戦っていることを、僕は肌で感じ取っていた。
駅までの道すがら、僕はあえていつものように、他愛のない話をした。
梅雨明けの予報のこと、期末テストのこと、ノボルの夏予選が近いこと、そしてこれからの夏休みのことも。
話題はいくつも移り変わったけれど、僕はその会話のどこかでは、さっき見た光景のことを尋ねるべきかどうか、ずっと迷い続けていた。
結局、そのまま僕は何も聞けないまま、笑顔で彼女と別れた。
「…………」
家に帰ってから、僕は自室のベッドに横になり、今日見た光景を何度も思い返していた。
弥生さんが電話越しに見せた苛立ち。その後の、自分自身への戸惑いや呟き。
それらはすべて、僕の願いとは無関係なところで誰にも望まれずに生まれていた、彼女自身の変化だった。
手帳に書いた覚えのない言葉が、彼女の中に、確かな亀裂を生んでいる。
僕は起き上がり、机の引き出しの奥から、あの手帳を取り出した。
ページを一枚一枚めくりながら、彼女の家族に関する記述がどこかにないか、確認せずにはいられなかった。
でもどれだけ探しても、弥生さんの家族関係について、僕が具体的に書いた覚えのある一文は見つからなかった。
『弥生さんが、僕を優先してくれる』
『僕にだけ本音を話してくれる』
そういった、僕と弥生さんとの関係性についての言葉ならいくつもある。
けれど、彼女が家族に対してどう振る舞うかについては、僕は一度も書いた記憶がなかった。
だとすれば、もしかしたらこの予期せぬ彼女の変化は、僕のせいではないのかもしれない。
それでも僕は、この変化と手帳との関わりを、完全には否定できずにいた。
もしかしたら、僕と過ごす時間を増やしたいという願いそのものが、彼女の中の優先順位を、目に見えない形で書き換えているのかもしれない。
家族よりも僕を優先する時間が増えれば増えるほど、彼女の中で『家族を最優先する自分』という輪郭は、少しずつ薄れていっているのかも。
それは僕が直接望んだことではなくても、僕が積み重ねてきた願いの、いわば副作用のようなものなのではないか。
「……」
その事実は、これまでの僕の考え方を、根底から揺さぶるものだった。
もしかしたら僕が意図して書いた言葉だけでなく、この手帳がもたらす影響そのものが、彼女という人間の存在の土台を、じわじわと蝕んでいるのではないか。
長女としてのプライドという、彼女がずっと大切に守ってきたものにまで、ヒビが入り始めている。
そんなことは僕が望んだことでは決してなかった。
窓の外では、梅雨の湿った夜風が、カーテンをかすかに揺らす。
僕は暗い天井を見上げながら、初めてはっきりとした、恐怖を感じていた。
これまでの恐怖は、どこか自分の行為に対する、漠然とした罪悪感に近いものだった。
けれど今感じているものは、もっと間接的で、もっと切実な、リアルな予期せぬ恐怖だった。
このまま何もせずにいれば、弥生さんという人間そのものが、少しずつ僕の知らないところで壊れていってしまうのではないか。
僕は手帳を閉じ、もう一度引き出しの奥にしまった。
僕はまた、この手帳を最初に拾った日のことを、はっきりと思い出していた。
あの川べりの静けさ。ヒスイ色の表紙の、何も書かれていない真っ白なページの手帳。
あのときの僕は、ただ自分の惨めさや後悔を、何かに吐き出したかっただけだった。
それが今では、弥生さんの人生の輪郭そのものを、知らず知らずのうちに変えてしまっているのかも。
手帳を拾ったあの日、僕はこんなに素晴らしい未来が来るなんて、まったく想像もしてなかった。
そして、この手帳が持っている、不思議な力ゆえの重さも。
それはある意味で、無知ゆえの無邪気さだったのかもしれない。
それはまるで無邪気な子供が、とつぜん銃を手にしてしまったような。
そんな危うさをはらんでいるような気がした。
今の僕はもう、その無邪気さの中には戻れない。
知ってしまった以上、この不思議な力とどう向き合うかを、いつか自分で決めなければならない。
そのことだけは、はっきりと分かっていた。
決断を先延ばしにしているという自覚だけが、日を追うごとに、僕の中で重みを増してゆく。
その予感は、六月の終わりの湿った夜の中で、僕の胸に、重く沈み込んでいった。
手帳を拾ったあの日から、僕はずっと、自分の願いが叶っていくことばかりに気を取られていた。
けれどその純粋な願いの向こう側で、一人の人間の心が静かにひずみ始めているという現実を、僕は今ようやくリアルに感じ始めていた。
「おはよう春斗くん」
「おはよう」
翌朝の教室。
顔を合わせた弥生さんは、いつも通りの笑顔で、僕に挨拶してきた。
その声には昨日の苛立ちも、戸惑いも、何も感じさせない、いつも通りの明るさがあった。
僕はその笑顔に安堵しながらも同時に、その彼女の平静さの裏側に隠れているかもしれない何かを思うと、素直に笑い返すことはできなかった。
窓の外は久しぶりに、雲の切れ間から朝日が差し込んでいる。
教室のざわめきも、いつもと変わらない。
けれど僕の目には、そのいつも通りのしあわせな風景が、以前よりもずっと危うい均衡の上に成り立っているもののように映っていた。
廊下の向こうから聞こえる誰かの笑い声さえ、今の僕にはどこか作り物めいて聞こえた。
梅雨明けまでは、まだしばらくの時間が必要だった。
それと同じように、僕たちの間に生まれ始めていた歪みも、まだ誰の目にもはっきりとは見えていなかった。
