五月に入ってからの僕は、もう迷わなかった。
いつも手帳をスクールカバンに入れ、いつでも思いついた時に書けるよう持ち歩いていた。
手帳を開くとき、以前のような疑いやとまどいは、もうほとんど残っていなかった。
『〜したい』という弱い願望の形はやめて、『〜する』という断定形で、僕はペンを走らせるようになっていた。
これがほんとうに効果があるのかは、正直よく分からない。
ただ、そうなっていると思いたかった。
僕は願いをこめるように手帳を書いた。
望んだものが手に入っていく感じが、ゲームみたいで面白くなっていた。
しばらくして気づいたけど、最近は教室での弥生さんの態度も、少しずつ柔らかくなっているような気がする。
そのたびに、僕の手帳への疑いは、徐々に無くなっていっていた。
たまに教室でも、人がいない時を見計らって、こっそり手帳を見ていた。
そんな矢先だった。
「なーに嬉しそうに見てるのっ」
「へっ⁉」
突然、背後から弥生さんの声が飛んできた。完全に浮かれて、油断していた……。
振り向くと、弥生さんがニヤリと笑った。
「なにそれ? 日記?」
「いや、待ってこれは違って!」
思わず混乱して、しどろもどろになる。
「へぇー、そんなに大事なんだ。じゃあちょっと私も……」
「え? あぁーっ⁉」
弥生さんはそう言うとスッと僕の手帳を奪い、スタスタと廊下へ駆けて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
僕は全力で弥生さんを追いかけた。
廊下に出ても、弥生さんの姿はどこにも見えない。
マズイ、もしあの手帳の中身を見られてしまったら、大変なことに……。
僕が必死で探していると、柱の陰からちらちら見える、見慣れた黒髪のポニーテール。
「くっ!」
人生史上最速スピードで追いかけ、なんとか捕まえた。
「あーわかってるって、文章は見てないから! はいこれ」
「ハァ、ハァ……ちょっと、ホント勘弁してよ」
「春斗くんあまりに楽しそうだったから、ちょっと嫉妬しちゃった。ごめんね」
「もう……」
その屈託のない笑顔に、僕はあっさり負けてしまった。
もうしないと約束を交わし、僕らは教室に戻った。
その日はヒスイ色の手帳をカバンの奥にしまい込み、もう出すことはなかった。
もしノボルにでも見つかろうもんなら、なんて冷やかされるか。
……考えただけでも恐ろしい。
もう絶対、外へ持ち歩くのはやめておこう。
僕はそう固く心に誓った。
その夜の自室の机で、その手帳を落ち着いて見返す。
やっぱり、一人が一番だ。
誰にも邪魔されることのない『理想の未来』を想像する、静かな夜のひととき。
それが積み重なるほどに、僕の中には少しずつ自信がみなぎっていった。
『弥生さんが、僕にひどいイタズラをしなくなる』
今日はこれだけ、そっと手帳に書き加えた。
試しに具体的なことを手帳に書いてしばらく経つと、本当にそれに近いことが起こっている。
何度もその現実を確認するうちに、僕の中での疑念は、確かな信念に変わっていた。
最初にあの手帳を拾って何気なく書いていたころの弱気な自分は、もう遠い過去のようになっている。
代わりに残ったのは、これまでの人生で一度も味わったことのない、満たされていく感覚だった。
思い込みの力は、本当に偉大だ。
自分でも意外なほど、僕の中はどんどん希望で満ちていった。
可もなく不可もない自分。誰の記憶にも強く残らない、教室の隅の存在。
そうゆう自分に、いつからか諦めにも似た納得をしていた。
それでも本気で確信すれば手に入るのだという事実を一度体感してしまうと、まるで昔の自分がもう自分じゃないみたいだった。
もっと。もう少しだけ理想的に。
そう思う気持ちを止める術を、もう今の僕は持ち合わせていなかった。
夜、手帳に向かうときの自分は、教室にいるときの自分とはどこか違う顔をしている。
昼間はただ幸運に恵まれているだけの、平凡な高校生。
けれど夜、ペンを握るその瞬間だけ、僕は自分の運命を書き換える力を持った、何か特別な存在になっているような感覚があった。
その感覚は怖ろしくもあり、同時に、これまでの人生で感じたことのない万能感もあった。
教室での僕の立ち位置も、少しずつ変わっていっていた。
これまでは空気のような存在だった僕に、今では休み時間になると、弥生さんが自然に僕の席に寄ってくる。
そのせいでクラスの数人が僕たちのことを冷やかすように話題にすることも増えたけど、以前のような非公認の居心地の悪さを感じることは少なくなっていた。
むしろそういう視線の中に、ほんの少しの優越感すら覚えている自分がいた。
いつも昼休みになると教室のあちこちで机をくっつけて、グループができている。
以前の僕ならそのどこにも属さず、一人でコンビニの昼ごはんを広げイヤホンでゲームに浸るか、あるいは一人廊下へ出て校庭やグラウンドを眺めたり、トイレに行ったりだけで時間を潰すのが常だった。
それが今では、弥生さんのまわりの女子や男子たちとも自然と話せたり、僕にも話しかけてくれるようになっている。
最初のうちは戸惑っていたクラスメイトたちも、弥生さんといつも一緒にいることで、次第に僕の存在を受け入れてくれているようだった。
実はそれすらも僕が手帳に書いた、『弥生さんのまわりの人たちとも仲良くなる』という一文の結果なのかもと思いながら、僕はその居心地の良さを存分に満喫していた。
それでも時折、ふと我に返る瞬間はあった。
廊下ですれ違いざま、他のクラスの誰かが「あの二人、付き合ってるの?」とコソコソ話しているのを耳にした時とか。
あるいは、担任から何気なく最近明るくなったと声をかけられることもあった。
そのたびに僕は、今の自分のどこまでが本物で、どこからがあの手帳の産物なのか、うまく線引きができなくなっている自分に気づかされた。
まぁどんな理由であれ、僕が今、充実した学校生活を満喫しているという事実は、揺るぎようがなかった。
「春斗くん、一緒に食べよ」
「うん、いいよ」
次の日の昼休み、弥生さんはそう言って僕の机に弁当と椅子を持って来た。
「ねぇコレ見て」
弥生さんがフンと鼻を鳴らし、僕の目の前にケータイ画面を見せてくる。
「え、そのケータイゲーム……」
「私も始めてみた。また色々教えて」
「うん、もちろん」
弥生さんが徐々に僕に合わせてくれて、ますます笑ってくれる時間が増えていっている。
その事実が、僕にとっては何よりも誇らしかった。
気がつくと僕らは、僕の机に椅子を寄せて二人で昼ごはんを食べるのが、日課になっていった。
以前の僕ならこんな展開、夢の中でしか有り得ない、そう思っていただろう。
それが今は当たり前の日常として、僕の目の前に現実として広がっている。
その確かな事実が、僕は本当にうれしかった。
【キーンコーンカーンコーン】
五月も半ばに入ると、学校では六月上旬の文化祭に向けた準備が本格的に始まっていた。
僕ら二年三組の文化祭の出し物は、クラス会議の末にお化け屋敷に決まった。
多数決で決まったその企画に、弥生さんは実行委員の一人として立候補していた。
長女気質からくる面倒見の良さがそのまま発揮されたのか、彼女はクラスの中でも自然とまとめ役のような立場になっていた。
「春斗くん、一緒に何か係やらない?」
「どんな係?」
「そうだなぁ。やる人いなくて絶賛大募集中の、大道具係とか」
「うん、いいよ」
はじける笑顔の弥生さんに誘われるまま、僕は大道具係に名乗りを上げた。
聞けばお化け屋敷の備品まで作らないといけないような、けっこう大変な係らしい。
それでも僕は弥生さんと一緒に何かできるということに、密かに心おどらせていた。
これまでの僕なら、こういう学校行事に自分から率先して関わることなんて、まずありえなかった。
文化祭の準備なんて正直めんどくさくて、教室の端で他人事のように眺めているのが、いつもの僕。
ましてやそんな雑用のめんどくさそうな係をやるなんて、絶対ありえなかった。
それでも今の僕は、弥生さんとその係をできることに、よろこびと期待をあふれさせていた。
結局そのあとも大道具係に立候補する生徒は現れず、僕と弥生さんの他に、無理やり任せられていた三人の男子が決まっていた。
けれど彼らは早々に飾り付けの大枠を終えると、部活やら塾やらを理由に、早めに帰っていくことが多くなっていた。
普通なら彼らに文句のひとつでも言いたいところだが、むしろ僕はうれしかった。
作業量が増えて、弥生さんと二人で過ごす時間を増やしてくれた彼らに、僕は心の底から感謝していた。
今日も放課後の教室に残って、段ボールで作った偽物の墓石にペンキを塗る作業を、弥生さんと並んでこなしていく。
その大変な日々が、僕にとっては最高のよろこびだった。
放課後に最後まで残って作業しているのはいつも、僕と弥生さんの二人だけ。
それが偶然なのか、それとも僕があのヒスイ色の手帳へ書き記した何かによる結果なのか。
そんなことはもう、どうでもよくなっていた。
この心地よい二人の時間そのものに、ただ浸っていたかった。
「春斗くんって、絵のセンスあるよね」
「え、そうかな。何も描いたことないけど」
「これとか、すごく雰囲気出てる」
弥生さんがそう言って指差したのは、僕が塗った古びた墓石の表面だった。
わざとバサバサに不均一した筆にアクリル絵の具を乗せて、古い石材のような質感を出したつもりだったけれど、それをちゃんと評価してもらえたことが、純粋にうれしかった。
これまでの人生で、自分の絵のセンスなんて、意識したこともなかった。
でもこうして弥生さんに認めてもらえると、不思議とそれだけで自信が芽生えてくるのを感じた。
窓の外はオレンジ色に染まり、遠くのグラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声や金属音が、小気味よくこだましている。
「……」
「……」
耳元に響く僕たちのかすかな筆の音だけが、放課後の空気を包んでいく。
誰もいない穏やかな教室で、二人だけの時間が静かに流れていった。
何物にも代えられない、今だけの最高にしあわせな青春のひととき。
この黙々と二人で作業する沈黙の時間が、永遠に続けばいいのに。
本気でそう思った。
【キーンコーンカーンコーン】
僕らの放課後の作業は、日を追うごとにスケジュールに追われ、二人で過ごす時間も徐々に増えていった。
他の係のメンバーはそれぞれ用事でほとんど来ることはなり、僕たちは暗くなるまで教室に残って、細かい装飾の仕上げをしていた。
夕陽が徐々に沈み、どんどん闇に落ちてゆく、二年三組の教室。
二人だけで作業をしているその時間は、僕にとって、何にも代えがたい時間になっていた。
「ねえ、春斗くんって、将来何かなりたいものとかあるの?」
ある日の作業中、弥生さんがふとそう尋ねてきた。
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「特にはないかな。強いて言うなら、何か手に職をつけて静かに暮らせたらそれでいいかなって」
「ふーん、なんか地味だね」
弥生さんはチクリと言った。それでも、なぜか悪い気はしなかった。
どこか、懐かしい感覚。
最近の弥生さんは僕に合わせてくれて、よく笑ってくれる。
それは素直にうれしいことだったけど、正直すこしだけ寂しさもあった。
前の弥生さんはもっとサバサバした感じだったし、たまに愚痴なんかも吐いていたような気がする。
だからちょっと懐かしい気持ちになったのかもしれない。
それか、もしかして、彼女が僕のことを少し意識してくれてる証拠なのかも……。
そんな気もしてきて、僕はやっぱりうれしい気持ちになった。
「弥生さんは、何かあるの?」
「私はさ、将来誰かの役に立てるような仕事がしたいかな。妹たちの面倒見てるときとか、なんか自分が誰かの支えになれてる感じがしてうれしくて」
「そっか。弥生さんらしいね」
「そうかな。でも最近、たまに自分が分からなくなるときあるんだよね。自分が本当にそう思ってるのか、それとも何か別のチカラでそう思わなきゃいけない気がしてるだけなのか」
弥生さんのその言葉に、僕は思わず手が止まった。
「……へ、へぇ。それはまた、難解だね」
「ごめんね、変なこと言って。全然気にしないで」
弥生さんはそう言ってすぐ、いつもの明るい調子に戻った。
筆を持ち直し、また墓石の色塗りを再開する。
「……」
僕も合わせて作業に戻ったけど、彼女のつぶやいた『何か別のチカラ』という言葉が、しばらく頭の隅に残って離れなかった。
それは彼女自身の本来の性格からくる悩みなのか、それとも僕があのヒスイ色の手帳に書き連ねてきたことで生まれてしまっている、理想の弥生さんとの間で生じている違和感なのか……。
今の僕には、それを判断する材料も、その気力もなかった。
その日の作業を終え、二人で戸締りを確認しながら暗くなった教室を出るとき、弥生さんはふと足を止めた。
「春斗くんといると、なんか自分がどんどん磨かれていく気がする」
「磨かれる?」
「んー、なんかよくわかんないだけどね。さぁもう遅いし、早く帰ろう」
弥生さんは背伸びをしながらそう言うと、いつもより早い足取りで廊下を歩き出した。
顔にはあまり出さないけど、きっとだいぶ疲れているのだろう。それも無理はなかった。
「……」
僕はその背中を見つめながら、彼女が何を言おうとしてたのか聞き出してみるか迷ったけど、結局しなかった。
ただ彼女の後ろを付いていくことしか、今の僕にはできなかった。
その夜。僕はマンションの自室で手帳を開き、また新たに一文書き足した。
『弥生さんが僕にだけ、本音を話してくれる』
そう書きながら、僕はもう、罪悪感というものをほとんど感じなくなっていた。
むしろ、これは自然な僕の行動による恋の進展であり、この手帳はただそのきっかけを作ってくれているだけなのだと。僕は自分をそう納得させていた。
もしかしたら、手帳がなくても、いずれはこうなっていたのかもしれない。
そんな根拠のない自信すら、いつの間にか僕の中には芽生えていた。
六月上旬の文化祭へ向け、準備も大詰めをむえていた、五月の下旬の放課後。
僕らはいつもの準備の休憩の意味も込めて、早めに学校を出て、久しぶりにゆっくり二人で駅までの道を歩いていた。
夕暮れの住宅街を並んで歩きながら、僕たちはとりとめのない話を続けた。
好きなゲーム、好きなアニメ、好きな音楽に、小さい頃の失敗談まで。
僕らの話題は尽きることがなかった。
「春斗くんは小さいころ、なりたかったものとかある?」
突然弥生さんに聞かれ、僕は少し考えた。
「なんか、忍者になりたいって時期はあった気がする。誰にも見つからずに、こっそり色んな場所に行けたら楽しそうだなって」
弥生さんは「あはは」と笑った。
「春斗くんっぽいかも、それ」
「そうなの? 弥生さんは?」
「私は、絵本に出てくるお姉さんキャラみたいになりたかったかな。しっかり者でみんなをまとめる役、みたいな。今思うと、なんか今の自分そのままかもだけど」
弥生さんは少し照れくさそうに笑いながら、ポニーテールを揺らした。
夕陽に照らされキラキラするその黒髪に、僕は思わず見惚れてしまった。
「なんか、春斗くんとこうやって話してると、すごい落ち着くんだよね」
弥生さんがぽつりと言う。
僕は照れながらも、素直にうれしかった。
「……僕もだよ。弥生さんと話してると、時間があっという間に過ぎる気がする」
「でしょ。なんかノボルくんとかと話してるときとは、全然違う感じ」
その名前を弥生さんから久しぶりに聞いて、なぜか少しだけ胸の奥がざわついた。
ノボルが弥生さんのことをちょっと気にかけているのは知っている。
けれど、今こうして彼女の口から比較として名前が出ることに、僕はなんともいえない複雑な感情が湧き上がってきた。
なんだこの感情は。これが自分の本当の気持ちなのか、それともあの手帳によって思わされている感情なのか。
僕にはもう、その判断もつかなくなっていた。
駅前で別れる直前、弥生さんは少し頬を赤らめ、こう付け加えた。
「また二人で作業、楽しもうね」
「うんもちろん、楽しもう」
弥生さんと別れたあとの帰り道。
僕は自分の足取りが、いつもよりずっと軽いことに気づいた。
どんどん弥生さんと、良い関係になってきている。
手帳に書いたことも、次々と現実になっていってる。
それはまるで、ゲームの世界でどんどん神イベントが発生していくような、そんな楽しくて充実した感覚だった。
疲れているはずなのに、僕は鼻唄まじりに帰路についた。
ある日の放課後。
今日も弥生さんと二人で遅くまで大道具の作業をしていると突然、野球部の練習を終えた汗だくのノボルが、息を切らしながらひょっこり教室に顔を出した。
「おー、お二人さん。まだイチャついてんの?」
「な、なんだよノボル」
「ノボルくん、練習終わったばっかりでしょ。ちょっと離れて」
「なっ⁉」
ノボルの冷やかしへの報復か、近づいてきたノボルに弥生さんが鼻をつまんだようなジェスチャーでからかう。
その仕草に、ノボルは慌てて自分のユニフォームをくんくん嗅ぎだした。
教室に響く二人のやり取りはいつも通り愉快で、僕はそのやりとりを聞きながら、黙々と作業を続けた。
「しょうがねぇな、オレ様が少し手ほどきしてやるか」
「じゃあオレ様、ここの段ボール全部、教室の隅まで持っていってくださいな」
ノボルの申し出に、弥生さんが軽快に指示を出す。
「へいへい、分かりましたよっと」
ノボルも素直に従って、重ねられた段ボールを教室の隅に運んでいった。
そんな二人を眺めながら、僕はふと、以前の自分だったらこういう場面でどんな気持ちになっていただろうかと考えた。
ノボルと弥生さんが楽しそうに話しているのを見るたび、以前は劣等感というか小さな焦りのような感情が胸をよぎっていた気がする。
それが今の僕は、不思議となんとも思わない。
自分の立ち位置が以前とは違う場所に移っているという確信が、いつの間にか僕の中に根付いてきたからだと思って、うれしかった。
「なぁ春斗。なんかお前最近、雰囲気変わったよな」
作業の合間、ノボルが作業しながら顔も見ずにそう言ってきた。
「そう?」
「おう。前はなんつーか教室で一人コソコソゲームしてる感じだったけど、
今はなんか活き活きしてるってゆうか、堂々としてるっていうか」
思いもしなかったノボルのその言葉に、僕はつい頬がゆるんだ。
堂々として見えているのだとしたら、それはきっと、あのヒスイ色の手帳が僕の周りの現実を書き換え続けているからに他ならない。
たぶん、本当の自分は、何も変わってはないのかもしれない。
そう思うと、まるで自分自身が成長したかのように見られていることに、少しだけ罪悪感も覚えた。
「……よし! じゃああとはお前ら任せた!」
「了解。ありがと」
「ノボルありがとな。部活がんばって」
「おう! んじゃお先!」
おしゃべり時間も含めてノボルはトータル十五分くらいで準備作業を終え、さっさと教室を去っていった。
ノボルが帰っていったあとの教室ではまた、僕と弥生さんの二人だけの作業が黙々と続いていた。
「……よーしっ、今日は終わろう! おつかれさま」
「うん、弥生さんもおつかれさま」
片付けをしながら、弥生さんがふと口を開いた。
「でもノボルくんって、ホント裏表ないよね。ちょっと羨ましいくらい」
「羨ましいんだ。弥生さんも裏表ないと思うけど」
「ううん。私ももっと素直に、自分の気持ち出せたらいいのになってたまに思う」
しみじみ漏らしたその声には、すごく感情がこもっていた。
その姿はなぜか、その日の弥生さんの印象として、強く僕の心に残った。
五月最後の休日。
僕たちは文化祭の買い出しという名目で、二人だけで近くの大型雑貨店に出かけることになった。
実際には、お化け屋敷の小道具はほとんど買い揃え終わっていて、その日の外出は口実に近いものだった。
それでも僕たちは、装飾に使えそうな造花や、蜘蛛の巣に見立てる白い糸などを、あれこれ相談しながら選んで回った。
「ねぇ春斗くん見て。これ、絶対怖い雰囲気出るよ」
弥生さんが恐る恐る手に取ったのは、少し安っぽいけど妙にリアルな、黒髪女の幽霊の被り物だった。
暗闇でこれを見たら、たしかにかなり怖いかもしれない。
「わっっ!」
「っ⁉」
突然、彼女の大きい声とともに、僕の目の前にその幽霊の顔がガッと飛んできた。
不覚にも、ビクッとなってしまった。
「…………別に、怖くないし」
「へぇ、春斗くんって、こうゆうの苦手なんだ」
「いや、いきなりはビビるでしょ普通」
弥生さんはケラケラ笑っていた。
その快活な姿に、どこか懐かしさを感じて、僕は少しうれしかった。
そんな他愛のないやり取りを繰り返しながら、僕らは店内を歩き回った。
買い物かごの中身が増えていくたび、弥生さんは楽しそうに次の売り場へと僕を引っ張っていく。
その様子を見ながら僕はふと、これは本当にあの手帳のおかげなのか、少し疑問に思えてきた。
答えは出なかった。出したくなかった、というのが正確なのかもしれない。
買い物を終えたあと、僕たちはフードコートで軽い食事と休憩を取った。
窓の外には夕方の光が差し込み、行き交う人々のシルエットが長く伸びている。
「文化祭の当日、一緒に見て回れたらいいね」
弥生さんがぽつりと言った。
実行委員である彼女は当日もクラスの出し物の運営に忙しいはずだったけれど、それでも僕との時間を作ろうとしてくれていることが、素直にうれしかった。
僕はすぐにうなづいた。
「うん、絶対一緒に回ろう」
「約束ね」
弥生さんはそう言うと、小指をスッと僕に差し出した。
「えっ……」
僕はぎこちなく、その白くか細い小指に、小指を絡めた。
「……」
小さくて、柔らかい感触。
時が止まったようだった。
「……うん、約束」
僕は顔が熱くなるのを感じながら、急いで指切りを済ませた。
はじめて、弥生さんと触れあった気がする。
僕は高鳴る胸をおさえ、なんとか冷静に笑ってみせた。
僕は少しの間、手帳のことも、自分の中にあるはずの罪悪感のことも、すっかり忘れてしまっていた。
ただ目の前にいる弥生さんの笑顔だけが、僕の世界のすべてであるかのようにさえ感じていた。
六月に入る直前。
文化祭の準備はいよいよ佳境を迎えていた。
教室の後方には大道具係の僕らが作った墓石やガイコツのオブジェがおどろおどろしく並び、放課後になると最後の仕上げはクラスのみんなにも協力を求め、徐々に慌ただしくなっていく。
実行委員である弥生さんも、装飾の進行管理から他の係との調整まで、毎日あちこちに飛び回っていた。
そんなある日の放課後。
僕は装飾用の黒い布を切る作業をしながら、弥生さんの姿を目で追っていた。
彼女は今日も忙しそうにいろんなグループに指示を出したり、進捗を確認したりしている。
長女としての面倒見の良さが、ここでも遺憾なく発揮されているのがよく分かった。
教室のあちこちから「弥生、これどうする?」「弥生さん、ちょっと見て」とクラスメイトたち声がかかるたび、彼女はその都度笑顔で応じながら、小走りに移動していた。
その姿は、僕がヒスイ色の手帳を拾うずっと前から知っていた、あの明るくて人望のある弥生さんそのものだった。
「ねぇ弥生、お化け役の衣装まだ決まってないんだけど、どうしよう?」
同じ実行委員の女子が、少し困った様子で弥生さんに声をかける。
弥生さんは一瞬、手元の作業を止めて考え込んだ。
「あ、それはたしか先生が……」
そう言いかけたところで、ふと弥生さんと僕は視線が合った。
僕はちょうど黒い布を切り終え、あたりを見渡したところだった。
「あーごめん、それあとでまた考えとく。今、春斗くんとこっちの作業やらないとだから」
「え? オッケー了解」
弥生さんのその言葉に、声をかけてきた女子は一瞬意外そうな表情を浮かべた。
それも無理はなかった。
実行委員としての弥生さんは、これまでいつも、クラスの誰かに何かを頼まれれば真っ先にそちらを優先するタイプだったから。
妹たちの面倒を見てきた長女気質そのままに、誰かのことよりも周りのことを優先する。
それが僕の知る弥生さんの、いちばん芯にある部分だった。
けれど今の彼女は明らかに僕を意識し、クラス全体の進行よりも僕との作業を選んでいる。
正直それはうれしい反面、弥生さんらしくないという違和感も大きかった。
声をかけてきた女子が別の場所へ移動していったあと、弥生さんは僕と布の端をまとめながら、ふと手を止めた。
その顔に、これまで見たことのない彼女の表情が垣間見える。
それは困惑とも驚きとも取れる、ほんの一瞬の揺らぎだった。
「うーん……」
弥生さんはおもむろに首をかしげた。
その声に、僕もおもわず作業を止めた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。ただ、」
弥生さんはそこで言葉を止め、自分の手元に視線を落とした。
何かを確かめるように、黒い布をじっと見つめている。
「私、さっきなんで、あんなこと言っちゃったんだろうってちょっと思って」
「え?」
「クラスのことより、春斗くんとの作業を優先するとか。自分で言っといてなんだけど。私、こんなキャラだったっけ、って」
その言葉は冗談めかした口調で発せられたけれど、僕には彼女が自分の行動に本当に戸惑っているように見えた。
すぐに弥生さんは「なんてね」と笑って誤魔化し、また作業に戻った。
けれどその笑顔の奥に、僕はほんのわずかな違和感が張り付いているのを感じ取っていた。
「弥生さんらしくないこと、言ったっけ?」
僕はできるだけ軽い調子で尋ねてみた。
弥生さんは布を折りたたみながら、少し考えるように視線を宙に泳がせる。
「うーん……なんていうか、いつもなら、絶対クラスのこと優先してたと思うんだよね。私、わりと全体を見るタイプだし。
なのに今、迷わず春斗くんのこと選んでしまってて。自分でもちょっとびっくりしちゃった」
「そ、そっか。少し、疲れてるんじゃない? 遠慮せず、大変なときはいつでも言って」
僕は、努めてやさしい口調でそう返した。
本当はその言葉の裏にある可能性に、僕自身が誰よりも気づいていた。
あの手帳に書いた言葉。
『弥生さんが僕にだけ、本音を話してくれる』
これは手紙の言葉が効いているのか。
それとも僕が望んだ言葉が、彼女という人間の輪郭そのものを、少しずつ書き換え始めてしまっているのか。
そんな考えが頭をよぎったけど、僕はそれを深く追及することを、無意識のうちに避けていた。
「たしかに考えすぎかもね。うん、ありがと」
弥生さんはそう言って、またいつもの明るい笑顔に戻った。
もう一度教室の後方に積まれた黒い布の束に、手を伸ばしていく。
その手つきはさっきまでの戸惑いなど嘘のように、いつも通りはかどっていた。
けれどその一瞬だけ見せたあの戸惑いの表情は、僕の記憶のなかで、小さなトゲのように残り続けていた。
「私まだ他に準備あるから、春斗くん先帰ってて。おつかれさま」
「うん、弥生さんも無理せず気をつけて。じゃあ、お先に」
その日の作業を先に終えて一人教室を出るとき、僕は最後にもう一度ふり返り、弥生さんの横顔を見た。
夕暮れの光の中で、彼女はいつも通り、忙しそうにクラスメイトたちと他の準備のやりとりを交わしている。
「……」
何も変わっていないように見えるその姿の奥に、僕にはまだ気づけていない何かが静かに芽生え始めているような、そんな予感がしてならなかった。
廊下に出ても、その予感はしばらく僕の胸の中に留まり続け、下駄箱で靴を履き替える間も、なぜか振り払うことができなかった。
家に帰ってからも、僕は弥生さんのあの一言が、頭から離れなかった。
『私、こんなキャラだったっけ』
その言葉は、単なる思い違いや忙しさゆえの一時的な混乱として片付けてしまうには、あまりにも軽率な気がしていた。
冷凍食品で夕食を済ませたあとも、僕はしばらく自室の椅子に座ったまま、ぼんやり天井を見上げていた。
今日の作業のこと。買い出しの日の弥生さんの笑顔。そして、あの一瞬の戸惑いの表情。
いくつもの場面が、順番も脈絡もなく、頭の中を巡っていく。
楽しかったはずの一日の記憶に、小さなトゲが刺さったような、そんな居心地の悪さが残っていた。
僕は机の引き出しから手帳を取り出し、しばらくそのヒスイ色の表紙を見つめた。
開くべきか、開かないべきか。しばらく迷った。
手帳を開くたび、僕は自分の願いが誰かの人格の輪郭を少しずつ削り取っているのではないかという疑念と、向き合わなければならなくなる。
それは決して、心地の良い作業ではなかった。
けれど結局、僕はその夜もペンを手に取ってしまった。
『弥生さんと、文化祭でもっと分かり合う』
そう書きながら、僕の中ではあの一瞬の戸惑いの表情が、何度も繰り返し再生されていた。
彼女の中で、何かが少しずつ、確かにずれ始めている。
その予感を抱えながらも、僕はペンを止めることができなかった。
ペンを置いたあと、僕は自分の書いた文字を、しばらくじっと見つめていた。
断定形で綴られたその一文は、以前よりも力強く、そして同時に、以前よりもずっと危うい響きを帯びているように感じられた。
もし本当に、弥生さんという人間の輪郭そのものが、この手帳によって少しずつ書き換えられているのだとしたら。
僕が今書いているこの一文もまた、彼女から何かを奪っているのかもしれない。
「……」
そこまで考えて、僕はふいにペンを持つ手を止めた。
窓の外では、初夏の夜風が網戸を小さく揺らしている。
カーテンの隙間から微かに差し込む街灯の光が、机の上のヒスイ色の表紙をぼんやりと照らしていた。
誰にも見せられないこの手帳だけが、今の僕にとっての、いちばん正直な自分の姿を映す鏡になっている。
満たされていく感覚と、それに反比例するように、遠くで小さな警鐘が鳴り続けているような感覚。
そのふたつの感覚を抱えたまま、五月は静かに終わりを迎えようとしていた。
六月上旬の文化祭が、もうすぐそこまでやって来ようとしていた。
いつも手帳をスクールカバンに入れ、いつでも思いついた時に書けるよう持ち歩いていた。
手帳を開くとき、以前のような疑いやとまどいは、もうほとんど残っていなかった。
『〜したい』という弱い願望の形はやめて、『〜する』という断定形で、僕はペンを走らせるようになっていた。
これがほんとうに効果があるのかは、正直よく分からない。
ただ、そうなっていると思いたかった。
僕は願いをこめるように手帳を書いた。
望んだものが手に入っていく感じが、ゲームみたいで面白くなっていた。
しばらくして気づいたけど、最近は教室での弥生さんの態度も、少しずつ柔らかくなっているような気がする。
そのたびに、僕の手帳への疑いは、徐々に無くなっていっていた。
たまに教室でも、人がいない時を見計らって、こっそり手帳を見ていた。
そんな矢先だった。
「なーに嬉しそうに見てるのっ」
「へっ⁉」
突然、背後から弥生さんの声が飛んできた。完全に浮かれて、油断していた……。
振り向くと、弥生さんがニヤリと笑った。
「なにそれ? 日記?」
「いや、待ってこれは違って!」
思わず混乱して、しどろもどろになる。
「へぇー、そんなに大事なんだ。じゃあちょっと私も……」
「え? あぁーっ⁉」
弥生さんはそう言うとスッと僕の手帳を奪い、スタスタと廊下へ駆けて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
僕は全力で弥生さんを追いかけた。
廊下に出ても、弥生さんの姿はどこにも見えない。
マズイ、もしあの手帳の中身を見られてしまったら、大変なことに……。
僕が必死で探していると、柱の陰からちらちら見える、見慣れた黒髪のポニーテール。
「くっ!」
人生史上最速スピードで追いかけ、なんとか捕まえた。
「あーわかってるって、文章は見てないから! はいこれ」
「ハァ、ハァ……ちょっと、ホント勘弁してよ」
「春斗くんあまりに楽しそうだったから、ちょっと嫉妬しちゃった。ごめんね」
「もう……」
その屈託のない笑顔に、僕はあっさり負けてしまった。
もうしないと約束を交わし、僕らは教室に戻った。
その日はヒスイ色の手帳をカバンの奥にしまい込み、もう出すことはなかった。
もしノボルにでも見つかろうもんなら、なんて冷やかされるか。
……考えただけでも恐ろしい。
もう絶対、外へ持ち歩くのはやめておこう。
僕はそう固く心に誓った。
その夜の自室の机で、その手帳を落ち着いて見返す。
やっぱり、一人が一番だ。
誰にも邪魔されることのない『理想の未来』を想像する、静かな夜のひととき。
それが積み重なるほどに、僕の中には少しずつ自信がみなぎっていった。
『弥生さんが、僕にひどいイタズラをしなくなる』
今日はこれだけ、そっと手帳に書き加えた。
試しに具体的なことを手帳に書いてしばらく経つと、本当にそれに近いことが起こっている。
何度もその現実を確認するうちに、僕の中での疑念は、確かな信念に変わっていた。
最初にあの手帳を拾って何気なく書いていたころの弱気な自分は、もう遠い過去のようになっている。
代わりに残ったのは、これまでの人生で一度も味わったことのない、満たされていく感覚だった。
思い込みの力は、本当に偉大だ。
自分でも意外なほど、僕の中はどんどん希望で満ちていった。
可もなく不可もない自分。誰の記憶にも強く残らない、教室の隅の存在。
そうゆう自分に、いつからか諦めにも似た納得をしていた。
それでも本気で確信すれば手に入るのだという事実を一度体感してしまうと、まるで昔の自分がもう自分じゃないみたいだった。
もっと。もう少しだけ理想的に。
そう思う気持ちを止める術を、もう今の僕は持ち合わせていなかった。
夜、手帳に向かうときの自分は、教室にいるときの自分とはどこか違う顔をしている。
昼間はただ幸運に恵まれているだけの、平凡な高校生。
けれど夜、ペンを握るその瞬間だけ、僕は自分の運命を書き換える力を持った、何か特別な存在になっているような感覚があった。
その感覚は怖ろしくもあり、同時に、これまでの人生で感じたことのない万能感もあった。
教室での僕の立ち位置も、少しずつ変わっていっていた。
これまでは空気のような存在だった僕に、今では休み時間になると、弥生さんが自然に僕の席に寄ってくる。
そのせいでクラスの数人が僕たちのことを冷やかすように話題にすることも増えたけど、以前のような非公認の居心地の悪さを感じることは少なくなっていた。
むしろそういう視線の中に、ほんの少しの優越感すら覚えている自分がいた。
いつも昼休みになると教室のあちこちで机をくっつけて、グループができている。
以前の僕ならそのどこにも属さず、一人でコンビニの昼ごはんを広げイヤホンでゲームに浸るか、あるいは一人廊下へ出て校庭やグラウンドを眺めたり、トイレに行ったりだけで時間を潰すのが常だった。
それが今では、弥生さんのまわりの女子や男子たちとも自然と話せたり、僕にも話しかけてくれるようになっている。
最初のうちは戸惑っていたクラスメイトたちも、弥生さんといつも一緒にいることで、次第に僕の存在を受け入れてくれているようだった。
実はそれすらも僕が手帳に書いた、『弥生さんのまわりの人たちとも仲良くなる』という一文の結果なのかもと思いながら、僕はその居心地の良さを存分に満喫していた。
それでも時折、ふと我に返る瞬間はあった。
廊下ですれ違いざま、他のクラスの誰かが「あの二人、付き合ってるの?」とコソコソ話しているのを耳にした時とか。
あるいは、担任から何気なく最近明るくなったと声をかけられることもあった。
そのたびに僕は、今の自分のどこまでが本物で、どこからがあの手帳の産物なのか、うまく線引きができなくなっている自分に気づかされた。
まぁどんな理由であれ、僕が今、充実した学校生活を満喫しているという事実は、揺るぎようがなかった。
「春斗くん、一緒に食べよ」
「うん、いいよ」
次の日の昼休み、弥生さんはそう言って僕の机に弁当と椅子を持って来た。
「ねぇコレ見て」
弥生さんがフンと鼻を鳴らし、僕の目の前にケータイ画面を見せてくる。
「え、そのケータイゲーム……」
「私も始めてみた。また色々教えて」
「うん、もちろん」
弥生さんが徐々に僕に合わせてくれて、ますます笑ってくれる時間が増えていっている。
その事実が、僕にとっては何よりも誇らしかった。
気がつくと僕らは、僕の机に椅子を寄せて二人で昼ごはんを食べるのが、日課になっていった。
以前の僕ならこんな展開、夢の中でしか有り得ない、そう思っていただろう。
それが今は当たり前の日常として、僕の目の前に現実として広がっている。
その確かな事実が、僕は本当にうれしかった。
【キーンコーンカーンコーン】
五月も半ばに入ると、学校では六月上旬の文化祭に向けた準備が本格的に始まっていた。
僕ら二年三組の文化祭の出し物は、クラス会議の末にお化け屋敷に決まった。
多数決で決まったその企画に、弥生さんは実行委員の一人として立候補していた。
長女気質からくる面倒見の良さがそのまま発揮されたのか、彼女はクラスの中でも自然とまとめ役のような立場になっていた。
「春斗くん、一緒に何か係やらない?」
「どんな係?」
「そうだなぁ。やる人いなくて絶賛大募集中の、大道具係とか」
「うん、いいよ」
はじける笑顔の弥生さんに誘われるまま、僕は大道具係に名乗りを上げた。
聞けばお化け屋敷の備品まで作らないといけないような、けっこう大変な係らしい。
それでも僕は弥生さんと一緒に何かできるということに、密かに心おどらせていた。
これまでの僕なら、こういう学校行事に自分から率先して関わることなんて、まずありえなかった。
文化祭の準備なんて正直めんどくさくて、教室の端で他人事のように眺めているのが、いつもの僕。
ましてやそんな雑用のめんどくさそうな係をやるなんて、絶対ありえなかった。
それでも今の僕は、弥生さんとその係をできることに、よろこびと期待をあふれさせていた。
結局そのあとも大道具係に立候補する生徒は現れず、僕と弥生さんの他に、無理やり任せられていた三人の男子が決まっていた。
けれど彼らは早々に飾り付けの大枠を終えると、部活やら塾やらを理由に、早めに帰っていくことが多くなっていた。
普通なら彼らに文句のひとつでも言いたいところだが、むしろ僕はうれしかった。
作業量が増えて、弥生さんと二人で過ごす時間を増やしてくれた彼らに、僕は心の底から感謝していた。
今日も放課後の教室に残って、段ボールで作った偽物の墓石にペンキを塗る作業を、弥生さんと並んでこなしていく。
その大変な日々が、僕にとっては最高のよろこびだった。
放課後に最後まで残って作業しているのはいつも、僕と弥生さんの二人だけ。
それが偶然なのか、それとも僕があのヒスイ色の手帳へ書き記した何かによる結果なのか。
そんなことはもう、どうでもよくなっていた。
この心地よい二人の時間そのものに、ただ浸っていたかった。
「春斗くんって、絵のセンスあるよね」
「え、そうかな。何も描いたことないけど」
「これとか、すごく雰囲気出てる」
弥生さんがそう言って指差したのは、僕が塗った古びた墓石の表面だった。
わざとバサバサに不均一した筆にアクリル絵の具を乗せて、古い石材のような質感を出したつもりだったけれど、それをちゃんと評価してもらえたことが、純粋にうれしかった。
これまでの人生で、自分の絵のセンスなんて、意識したこともなかった。
でもこうして弥生さんに認めてもらえると、不思議とそれだけで自信が芽生えてくるのを感じた。
窓の外はオレンジ色に染まり、遠くのグラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声や金属音が、小気味よくこだましている。
「……」
「……」
耳元に響く僕たちのかすかな筆の音だけが、放課後の空気を包んでいく。
誰もいない穏やかな教室で、二人だけの時間が静かに流れていった。
何物にも代えられない、今だけの最高にしあわせな青春のひととき。
この黙々と二人で作業する沈黙の時間が、永遠に続けばいいのに。
本気でそう思った。
【キーンコーンカーンコーン】
僕らの放課後の作業は、日を追うごとにスケジュールに追われ、二人で過ごす時間も徐々に増えていった。
他の係のメンバーはそれぞれ用事でほとんど来ることはなり、僕たちは暗くなるまで教室に残って、細かい装飾の仕上げをしていた。
夕陽が徐々に沈み、どんどん闇に落ちてゆく、二年三組の教室。
二人だけで作業をしているその時間は、僕にとって、何にも代えがたい時間になっていた。
「ねえ、春斗くんって、将来何かなりたいものとかあるの?」
ある日の作業中、弥生さんがふとそう尋ねてきた。
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「特にはないかな。強いて言うなら、何か手に職をつけて静かに暮らせたらそれでいいかなって」
「ふーん、なんか地味だね」
弥生さんはチクリと言った。それでも、なぜか悪い気はしなかった。
どこか、懐かしい感覚。
最近の弥生さんは僕に合わせてくれて、よく笑ってくれる。
それは素直にうれしいことだったけど、正直すこしだけ寂しさもあった。
前の弥生さんはもっとサバサバした感じだったし、たまに愚痴なんかも吐いていたような気がする。
だからちょっと懐かしい気持ちになったのかもしれない。
それか、もしかして、彼女が僕のことを少し意識してくれてる証拠なのかも……。
そんな気もしてきて、僕はやっぱりうれしい気持ちになった。
「弥生さんは、何かあるの?」
「私はさ、将来誰かの役に立てるような仕事がしたいかな。妹たちの面倒見てるときとか、なんか自分が誰かの支えになれてる感じがしてうれしくて」
「そっか。弥生さんらしいね」
「そうかな。でも最近、たまに自分が分からなくなるときあるんだよね。自分が本当にそう思ってるのか、それとも何か別のチカラでそう思わなきゃいけない気がしてるだけなのか」
弥生さんのその言葉に、僕は思わず手が止まった。
「……へ、へぇ。それはまた、難解だね」
「ごめんね、変なこと言って。全然気にしないで」
弥生さんはそう言ってすぐ、いつもの明るい調子に戻った。
筆を持ち直し、また墓石の色塗りを再開する。
「……」
僕も合わせて作業に戻ったけど、彼女のつぶやいた『何か別のチカラ』という言葉が、しばらく頭の隅に残って離れなかった。
それは彼女自身の本来の性格からくる悩みなのか、それとも僕があのヒスイ色の手帳に書き連ねてきたことで生まれてしまっている、理想の弥生さんとの間で生じている違和感なのか……。
今の僕には、それを判断する材料も、その気力もなかった。
その日の作業を終え、二人で戸締りを確認しながら暗くなった教室を出るとき、弥生さんはふと足を止めた。
「春斗くんといると、なんか自分がどんどん磨かれていく気がする」
「磨かれる?」
「んー、なんかよくわかんないだけどね。さぁもう遅いし、早く帰ろう」
弥生さんは背伸びをしながらそう言うと、いつもより早い足取りで廊下を歩き出した。
顔にはあまり出さないけど、きっとだいぶ疲れているのだろう。それも無理はなかった。
「……」
僕はその背中を見つめながら、彼女が何を言おうとしてたのか聞き出してみるか迷ったけど、結局しなかった。
ただ彼女の後ろを付いていくことしか、今の僕にはできなかった。
その夜。僕はマンションの自室で手帳を開き、また新たに一文書き足した。
『弥生さんが僕にだけ、本音を話してくれる』
そう書きながら、僕はもう、罪悪感というものをほとんど感じなくなっていた。
むしろ、これは自然な僕の行動による恋の進展であり、この手帳はただそのきっかけを作ってくれているだけなのだと。僕は自分をそう納得させていた。
もしかしたら、手帳がなくても、いずれはこうなっていたのかもしれない。
そんな根拠のない自信すら、いつの間にか僕の中には芽生えていた。
六月上旬の文化祭へ向け、準備も大詰めをむえていた、五月の下旬の放課後。
僕らはいつもの準備の休憩の意味も込めて、早めに学校を出て、久しぶりにゆっくり二人で駅までの道を歩いていた。
夕暮れの住宅街を並んで歩きながら、僕たちはとりとめのない話を続けた。
好きなゲーム、好きなアニメ、好きな音楽に、小さい頃の失敗談まで。
僕らの話題は尽きることがなかった。
「春斗くんは小さいころ、なりたかったものとかある?」
突然弥生さんに聞かれ、僕は少し考えた。
「なんか、忍者になりたいって時期はあった気がする。誰にも見つからずに、こっそり色んな場所に行けたら楽しそうだなって」
弥生さんは「あはは」と笑った。
「春斗くんっぽいかも、それ」
「そうなの? 弥生さんは?」
「私は、絵本に出てくるお姉さんキャラみたいになりたかったかな。しっかり者でみんなをまとめる役、みたいな。今思うと、なんか今の自分そのままかもだけど」
弥生さんは少し照れくさそうに笑いながら、ポニーテールを揺らした。
夕陽に照らされキラキラするその黒髪に、僕は思わず見惚れてしまった。
「なんか、春斗くんとこうやって話してると、すごい落ち着くんだよね」
弥生さんがぽつりと言う。
僕は照れながらも、素直にうれしかった。
「……僕もだよ。弥生さんと話してると、時間があっという間に過ぎる気がする」
「でしょ。なんかノボルくんとかと話してるときとは、全然違う感じ」
その名前を弥生さんから久しぶりに聞いて、なぜか少しだけ胸の奥がざわついた。
ノボルが弥生さんのことをちょっと気にかけているのは知っている。
けれど、今こうして彼女の口から比較として名前が出ることに、僕はなんともいえない複雑な感情が湧き上がってきた。
なんだこの感情は。これが自分の本当の気持ちなのか、それともあの手帳によって思わされている感情なのか。
僕にはもう、その判断もつかなくなっていた。
駅前で別れる直前、弥生さんは少し頬を赤らめ、こう付け加えた。
「また二人で作業、楽しもうね」
「うんもちろん、楽しもう」
弥生さんと別れたあとの帰り道。
僕は自分の足取りが、いつもよりずっと軽いことに気づいた。
どんどん弥生さんと、良い関係になってきている。
手帳に書いたことも、次々と現実になっていってる。
それはまるで、ゲームの世界でどんどん神イベントが発生していくような、そんな楽しくて充実した感覚だった。
疲れているはずなのに、僕は鼻唄まじりに帰路についた。
ある日の放課後。
今日も弥生さんと二人で遅くまで大道具の作業をしていると突然、野球部の練習を終えた汗だくのノボルが、息を切らしながらひょっこり教室に顔を出した。
「おー、お二人さん。まだイチャついてんの?」
「な、なんだよノボル」
「ノボルくん、練習終わったばっかりでしょ。ちょっと離れて」
「なっ⁉」
ノボルの冷やかしへの報復か、近づいてきたノボルに弥生さんが鼻をつまんだようなジェスチャーでからかう。
その仕草に、ノボルは慌てて自分のユニフォームをくんくん嗅ぎだした。
教室に響く二人のやり取りはいつも通り愉快で、僕はそのやりとりを聞きながら、黙々と作業を続けた。
「しょうがねぇな、オレ様が少し手ほどきしてやるか」
「じゃあオレ様、ここの段ボール全部、教室の隅まで持っていってくださいな」
ノボルの申し出に、弥生さんが軽快に指示を出す。
「へいへい、分かりましたよっと」
ノボルも素直に従って、重ねられた段ボールを教室の隅に運んでいった。
そんな二人を眺めながら、僕はふと、以前の自分だったらこういう場面でどんな気持ちになっていただろうかと考えた。
ノボルと弥生さんが楽しそうに話しているのを見るたび、以前は劣等感というか小さな焦りのような感情が胸をよぎっていた気がする。
それが今の僕は、不思議となんとも思わない。
自分の立ち位置が以前とは違う場所に移っているという確信が、いつの間にか僕の中に根付いてきたからだと思って、うれしかった。
「なぁ春斗。なんかお前最近、雰囲気変わったよな」
作業の合間、ノボルが作業しながら顔も見ずにそう言ってきた。
「そう?」
「おう。前はなんつーか教室で一人コソコソゲームしてる感じだったけど、
今はなんか活き活きしてるってゆうか、堂々としてるっていうか」
思いもしなかったノボルのその言葉に、僕はつい頬がゆるんだ。
堂々として見えているのだとしたら、それはきっと、あのヒスイ色の手帳が僕の周りの現実を書き換え続けているからに他ならない。
たぶん、本当の自分は、何も変わってはないのかもしれない。
そう思うと、まるで自分自身が成長したかのように見られていることに、少しだけ罪悪感も覚えた。
「……よし! じゃああとはお前ら任せた!」
「了解。ありがと」
「ノボルありがとな。部活がんばって」
「おう! んじゃお先!」
おしゃべり時間も含めてノボルはトータル十五分くらいで準備作業を終え、さっさと教室を去っていった。
ノボルが帰っていったあとの教室ではまた、僕と弥生さんの二人だけの作業が黙々と続いていた。
「……よーしっ、今日は終わろう! おつかれさま」
「うん、弥生さんもおつかれさま」
片付けをしながら、弥生さんがふと口を開いた。
「でもノボルくんって、ホント裏表ないよね。ちょっと羨ましいくらい」
「羨ましいんだ。弥生さんも裏表ないと思うけど」
「ううん。私ももっと素直に、自分の気持ち出せたらいいのになってたまに思う」
しみじみ漏らしたその声には、すごく感情がこもっていた。
その姿はなぜか、その日の弥生さんの印象として、強く僕の心に残った。
五月最後の休日。
僕たちは文化祭の買い出しという名目で、二人だけで近くの大型雑貨店に出かけることになった。
実際には、お化け屋敷の小道具はほとんど買い揃え終わっていて、その日の外出は口実に近いものだった。
それでも僕たちは、装飾に使えそうな造花や、蜘蛛の巣に見立てる白い糸などを、あれこれ相談しながら選んで回った。
「ねぇ春斗くん見て。これ、絶対怖い雰囲気出るよ」
弥生さんが恐る恐る手に取ったのは、少し安っぽいけど妙にリアルな、黒髪女の幽霊の被り物だった。
暗闇でこれを見たら、たしかにかなり怖いかもしれない。
「わっっ!」
「っ⁉」
突然、彼女の大きい声とともに、僕の目の前にその幽霊の顔がガッと飛んできた。
不覚にも、ビクッとなってしまった。
「…………別に、怖くないし」
「へぇ、春斗くんって、こうゆうの苦手なんだ」
「いや、いきなりはビビるでしょ普通」
弥生さんはケラケラ笑っていた。
その快活な姿に、どこか懐かしさを感じて、僕は少しうれしかった。
そんな他愛のないやり取りを繰り返しながら、僕らは店内を歩き回った。
買い物かごの中身が増えていくたび、弥生さんは楽しそうに次の売り場へと僕を引っ張っていく。
その様子を見ながら僕はふと、これは本当にあの手帳のおかげなのか、少し疑問に思えてきた。
答えは出なかった。出したくなかった、というのが正確なのかもしれない。
買い物を終えたあと、僕たちはフードコートで軽い食事と休憩を取った。
窓の外には夕方の光が差し込み、行き交う人々のシルエットが長く伸びている。
「文化祭の当日、一緒に見て回れたらいいね」
弥生さんがぽつりと言った。
実行委員である彼女は当日もクラスの出し物の運営に忙しいはずだったけれど、それでも僕との時間を作ろうとしてくれていることが、素直にうれしかった。
僕はすぐにうなづいた。
「うん、絶対一緒に回ろう」
「約束ね」
弥生さんはそう言うと、小指をスッと僕に差し出した。
「えっ……」
僕はぎこちなく、その白くか細い小指に、小指を絡めた。
「……」
小さくて、柔らかい感触。
時が止まったようだった。
「……うん、約束」
僕は顔が熱くなるのを感じながら、急いで指切りを済ませた。
はじめて、弥生さんと触れあった気がする。
僕は高鳴る胸をおさえ、なんとか冷静に笑ってみせた。
僕は少しの間、手帳のことも、自分の中にあるはずの罪悪感のことも、すっかり忘れてしまっていた。
ただ目の前にいる弥生さんの笑顔だけが、僕の世界のすべてであるかのようにさえ感じていた。
六月に入る直前。
文化祭の準備はいよいよ佳境を迎えていた。
教室の後方には大道具係の僕らが作った墓石やガイコツのオブジェがおどろおどろしく並び、放課後になると最後の仕上げはクラスのみんなにも協力を求め、徐々に慌ただしくなっていく。
実行委員である弥生さんも、装飾の進行管理から他の係との調整まで、毎日あちこちに飛び回っていた。
そんなある日の放課後。
僕は装飾用の黒い布を切る作業をしながら、弥生さんの姿を目で追っていた。
彼女は今日も忙しそうにいろんなグループに指示を出したり、進捗を確認したりしている。
長女としての面倒見の良さが、ここでも遺憾なく発揮されているのがよく分かった。
教室のあちこちから「弥生、これどうする?」「弥生さん、ちょっと見て」とクラスメイトたち声がかかるたび、彼女はその都度笑顔で応じながら、小走りに移動していた。
その姿は、僕がヒスイ色の手帳を拾うずっと前から知っていた、あの明るくて人望のある弥生さんそのものだった。
「ねぇ弥生、お化け役の衣装まだ決まってないんだけど、どうしよう?」
同じ実行委員の女子が、少し困った様子で弥生さんに声をかける。
弥生さんは一瞬、手元の作業を止めて考え込んだ。
「あ、それはたしか先生が……」
そう言いかけたところで、ふと弥生さんと僕は視線が合った。
僕はちょうど黒い布を切り終え、あたりを見渡したところだった。
「あーごめん、それあとでまた考えとく。今、春斗くんとこっちの作業やらないとだから」
「え? オッケー了解」
弥生さんのその言葉に、声をかけてきた女子は一瞬意外そうな表情を浮かべた。
それも無理はなかった。
実行委員としての弥生さんは、これまでいつも、クラスの誰かに何かを頼まれれば真っ先にそちらを優先するタイプだったから。
妹たちの面倒を見てきた長女気質そのままに、誰かのことよりも周りのことを優先する。
それが僕の知る弥生さんの、いちばん芯にある部分だった。
けれど今の彼女は明らかに僕を意識し、クラス全体の進行よりも僕との作業を選んでいる。
正直それはうれしい反面、弥生さんらしくないという違和感も大きかった。
声をかけてきた女子が別の場所へ移動していったあと、弥生さんは僕と布の端をまとめながら、ふと手を止めた。
その顔に、これまで見たことのない彼女の表情が垣間見える。
それは困惑とも驚きとも取れる、ほんの一瞬の揺らぎだった。
「うーん……」
弥生さんはおもむろに首をかしげた。
その声に、僕もおもわず作業を止めた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。ただ、」
弥生さんはそこで言葉を止め、自分の手元に視線を落とした。
何かを確かめるように、黒い布をじっと見つめている。
「私、さっきなんで、あんなこと言っちゃったんだろうってちょっと思って」
「え?」
「クラスのことより、春斗くんとの作業を優先するとか。自分で言っといてなんだけど。私、こんなキャラだったっけ、って」
その言葉は冗談めかした口調で発せられたけれど、僕には彼女が自分の行動に本当に戸惑っているように見えた。
すぐに弥生さんは「なんてね」と笑って誤魔化し、また作業に戻った。
けれどその笑顔の奥に、僕はほんのわずかな違和感が張り付いているのを感じ取っていた。
「弥生さんらしくないこと、言ったっけ?」
僕はできるだけ軽い調子で尋ねてみた。
弥生さんは布を折りたたみながら、少し考えるように視線を宙に泳がせる。
「うーん……なんていうか、いつもなら、絶対クラスのこと優先してたと思うんだよね。私、わりと全体を見るタイプだし。
なのに今、迷わず春斗くんのこと選んでしまってて。自分でもちょっとびっくりしちゃった」
「そ、そっか。少し、疲れてるんじゃない? 遠慮せず、大変なときはいつでも言って」
僕は、努めてやさしい口調でそう返した。
本当はその言葉の裏にある可能性に、僕自身が誰よりも気づいていた。
あの手帳に書いた言葉。
『弥生さんが僕にだけ、本音を話してくれる』
これは手紙の言葉が効いているのか。
それとも僕が望んだ言葉が、彼女という人間の輪郭そのものを、少しずつ書き換え始めてしまっているのか。
そんな考えが頭をよぎったけど、僕はそれを深く追及することを、無意識のうちに避けていた。
「たしかに考えすぎかもね。うん、ありがと」
弥生さんはそう言って、またいつもの明るい笑顔に戻った。
もう一度教室の後方に積まれた黒い布の束に、手を伸ばしていく。
その手つきはさっきまでの戸惑いなど嘘のように、いつも通りはかどっていた。
けれどその一瞬だけ見せたあの戸惑いの表情は、僕の記憶のなかで、小さなトゲのように残り続けていた。
「私まだ他に準備あるから、春斗くん先帰ってて。おつかれさま」
「うん、弥生さんも無理せず気をつけて。じゃあ、お先に」
その日の作業を先に終えて一人教室を出るとき、僕は最後にもう一度ふり返り、弥生さんの横顔を見た。
夕暮れの光の中で、彼女はいつも通り、忙しそうにクラスメイトたちと他の準備のやりとりを交わしている。
「……」
何も変わっていないように見えるその姿の奥に、僕にはまだ気づけていない何かが静かに芽生え始めているような、そんな予感がしてならなかった。
廊下に出ても、その予感はしばらく僕の胸の中に留まり続け、下駄箱で靴を履き替える間も、なぜか振り払うことができなかった。
家に帰ってからも、僕は弥生さんのあの一言が、頭から離れなかった。
『私、こんなキャラだったっけ』
その言葉は、単なる思い違いや忙しさゆえの一時的な混乱として片付けてしまうには、あまりにも軽率な気がしていた。
冷凍食品で夕食を済ませたあとも、僕はしばらく自室の椅子に座ったまま、ぼんやり天井を見上げていた。
今日の作業のこと。買い出しの日の弥生さんの笑顔。そして、あの一瞬の戸惑いの表情。
いくつもの場面が、順番も脈絡もなく、頭の中を巡っていく。
楽しかったはずの一日の記憶に、小さなトゲが刺さったような、そんな居心地の悪さが残っていた。
僕は机の引き出しから手帳を取り出し、しばらくそのヒスイ色の表紙を見つめた。
開くべきか、開かないべきか。しばらく迷った。
手帳を開くたび、僕は自分の願いが誰かの人格の輪郭を少しずつ削り取っているのではないかという疑念と、向き合わなければならなくなる。
それは決して、心地の良い作業ではなかった。
けれど結局、僕はその夜もペンを手に取ってしまった。
『弥生さんと、文化祭でもっと分かり合う』
そう書きながら、僕の中ではあの一瞬の戸惑いの表情が、何度も繰り返し再生されていた。
彼女の中で、何かが少しずつ、確かにずれ始めている。
その予感を抱えながらも、僕はペンを止めることができなかった。
ペンを置いたあと、僕は自分の書いた文字を、しばらくじっと見つめていた。
断定形で綴られたその一文は、以前よりも力強く、そして同時に、以前よりもずっと危うい響きを帯びているように感じられた。
もし本当に、弥生さんという人間の輪郭そのものが、この手帳によって少しずつ書き換えられているのだとしたら。
僕が今書いているこの一文もまた、彼女から何かを奪っているのかもしれない。
「……」
そこまで考えて、僕はふいにペンを持つ手を止めた。
窓の外では、初夏の夜風が網戸を小さく揺らしている。
カーテンの隙間から微かに差し込む街灯の光が、机の上のヒスイ色の表紙をぼんやりと照らしていた。
誰にも見せられないこの手帳だけが、今の僕にとっての、いちばん正直な自分の姿を映す鏡になっている。
満たされていく感覚と、それに反比例するように、遠くで小さな警鐘が鳴り続けているような感覚。
そのふたつの感覚を抱えたまま、五月は静かに終わりを迎えようとしていた。
六月上旬の文化祭が、もうすぐそこまでやって来ようとしていた。
