土手の草むらの隙間、コンクリートの継ぎ目のあたりに、小さな四角い物体が半分埋もれるようにして落ちていた。

 最初はゴミか何かだと思って気にも留めなかった。けれど目を離そうとした瞬間、その色が妙にきれいな青緑であることに気づいた。ヒスイ色の、深く澄んだ緑色。

「なんだ、あれ」

 僕はふいに立ち上がり、芝生をかき分けながらそれに近づいた。
 手に取ってみると、それは一冊のきれいな手帳だった。表紙は硬質な布張りのような質感で、角がわずかに擦り切れている。

 誰かが長く使い込んだのか、それとも最初からそういう作りなのかは分からない。留め具もしおり紐もついていない、ごくシンプルな造りの手帳だった。

 持ち主の名前や連絡先が書かれていないか、僕は表紙をめくってみる。中は真っ白だった。一ページ目から最後のページまで、文字はおろか、罫線以外の印刷すらされていない、まっさらな中身の手帳。

 不思議だった。これだけ丁寧な作りの手帳が、中身は一文字も使われないまま、こんな人けのない川べりに落ちている。
 誰かが落としたにしては不自然だし、捨てたにしては、こんな場所にわざわざ持ってくる理由が思い浮かばない。

 第一ここは人通りも少ないし。僕はしばらくその手帳を手の中でひっくり返しながら、意味もなく考え込んでいた。

 交番に届けるべきだろうか。いや、中身が白紙では、届けたところで誰の持ち物かも分からないだろう。だとすれば、これはもう、落とし物というより──ただそこに、置かれていたもの、と言った方が近いのかもしれない。

 僕は結局、そのヒスイ色の手帳をそのまま自分のカバンに入れた。
 とくに深い理由なんてなかった。

 強いて言うなら、あの瞬間の自分には、何か手を動かして書きとめておく場所が必要だったのかもしれない。
 誰にも読まれない場所に、誰にも言えない気持ちを吐き出せる場所が。


【カチャン】

 マンションのカギを開けて家に入ると、いつも通り部屋には誰もいなかった。
 あたり前だ。

 暗くなってから家に帰って来るのなんていつぶりだろう。そう思いながら、暗い廊下の電気をつける。
 この一人の時間には慣れているはずなのに、今日は暗いということもあり、妙にその静けさが重たく感じられた。

 夜ごはんは冷蔵庫に残っていた冷凍食品で適当に済ませ、僕はそそくさと自室に戻り、ベッドに腰を下ろした。

「……はぁ」

 カバンからさっき拾った手帳を取り出し、机の上に置く。
 蛍光灯の白い光の下で見ると、ヒスイ色の表紙は夕方の川べりで見たときよりも、いくらか深く、落ち着いた色合いに見えた。

 しばらく、僕はただその表紙を見つめていた。何か書くつもりなんてなかった。
 ただ、手に取って眺めているだけのつもりだった。けれど気づけば、僕は引き出しからペンを取り出していた。

「……」

 最初の真っ白なページを開く。
 ペン先を紙に近づけたまま、僕はしばらく固まる。
 何を書けばいいか、自分でも分からなかった。

 日記をつける習慣もなければ、思ったことを文字にするような趣味もない。
 それでも今日は、何かを書き出しておかずにはいられなかった。

 今日という日にあったことを、どこかに残しておかなければ、この感情に押しつぶされてしまいそうな気がした。

 僕はまず、今日の出来事を淡々と書き始めた。
 クラス替えで隣の席になったこと。勇気を出して誘ったこと。
 そして、あっさりと断られたこと。

 文字にしてみると、改めてその軽さが胸に刺さった。
 断られたことそのものより、断られ方の軽さの方が、僕を傷つけていたのかもしれない。

 ペンを持つ手が、少しずつ速くなっていく。書いても書いても、言葉が尽きなかった。

 ずっと弥生さんが気になっていたこと。
 一年の間、遠くから見ているだけで満足しようとしていたこと。

 今日、少しだけ勇気を出したこと。
 それでも、届かなかったこと。

 やがて僕のペンは、事実を記録することから、少しずつ後悔や願望を書き記すことへと移っていった。

『本当は、弥生さんと付き合いたかった』

 そう書いたとき、僕は自分の手の動きに少し驚いた。
 声に出すことすらためらうようなその言葉が、思いのほか簡単に紙の上に並んでいた。

 誰にも見せるつもりのない、誰の目にも触れない秘密の手帳。
 だからこそ、僕は普段なら口にできない本音を、そのまま書き連ねることができたのだと思う。

『隣の席のまま、もっと話したかった。もっと知りたかった。もっと近づきたかった』

 一度書き始めると、止まらなかった。
 断られた惨めさも、それでも諦めきれない未練も、全部この白いページの上に吐き出してしまいたかった。

 まるでこの手帳だけが、僕の本音を受け止めてくれる唯一の存在であるかのようだった。

『もっと、弥生さんと仲良くなる』

 その前向きな言葉があふれた瞬間、とっさにペンを止めた。

 あまりにも今の現状とはかけ離れた言葉。
 もう叶うことはない、むなしい言葉。

 スッと我に返る。
 自分の書き連ねた言葉を見返し、思わず鳥肌が立った。

「……何やってんだよ」

 慌ててヒスイ色の手帳を閉じ、机の奥のほうに仕舞いこんだ。

「……」

 言うのは簡単だ。
 我ながら、馬鹿げていると思った。

 拾った手帳に後悔を吐いたところで、現実なんて変わらない。
 そんなことは、自分でも分かっていた。

 それでも少しだけ、胸の中の重たいものが軽くなる気がした。
 気休めでしかないことは自分でも分かってる。

 それでも手帳に吐き出せて少し楽になったような気がしたことは、確かだった。

 窓の外はすっかり真っ暗になっていた。
 時計を見ると、もう夜九時を過ぎ。
 いつものゲームは起動せずにスッと立ち上がり、風呂に向かった。

 その夜は珍しく、すんなりと眠りについた。



【ガヤガヤ……ガヤガヤ……】

 時は過ぎ、四月下旬。

 となりの席なのに、あれから意識してほとんど話すこともできないまま、ただただ月日だけが過ぎ去っていた。

 そんななか今日は、学年全体で近隣の古墳遺跡を巡る、親睦遠足の日。
 バスで一時間ほどの距離にある、小高い丘に点在する古墳群を歩いて回るという、正直なところ地味な行事。

 それでも新しいクラスに慣れるための恒例行事らしく、僕たちは先生たちの号令のもと、朝早くから学校の校庭に集合させられていた。

「はぁ……寒っ……」

 朝の校庭は、まだ肌寒さの残る空気に包まれていた。
 四月の終わりとはいえ、朝の七時台はまだコートが欲しくなるくらいの気温。

 僕は集合時間より少し早めに家を出た。
 理由は自分でもよくわからなかったけど、なんとなくは分かっていた。

 あれから三週間。
 となりの席の弥生さんとはたまに軽く挨拶するくらいで、話なんてまったくできなかった。

 ノボルは相変わらず僕のところに来て、弥生さんと談笑することはあった。
 でもあの日以来、僕は二人の会話に入る自信なんて、まったくなかった。

 彼女が何か変わったわけではない。
 ただ僕は、一方的に彼女を避けていた。

「……」

 ボーッとした頭のまま、クラスの列に並ぶ。
 隣に並んだクラスの女子が、誰かと「集合早すぎない?」と笑い合っている声が聞こえる。

 こういう集団行動の朝は、いつも少しだけ居心地が悪い。
 誰かと群れることに慣れていない自分を、こんな瞬間にいつも思い知らされる。

 昨夜に親睦遠足の準備をしていた時、僕は引き出しの奥にしまったままだった、あのヒスイ色の手帳の存在をふと思い出した。

 あの日から僕は、机の引き出しを開けることなんてなかった。
 触れなかったというより、触れる勇気が出なかったというのが正しいかもしれない。

 あの日手帳に想いを吐き出していたことなんて忘れて、僕はまた、ひとりでゲームに没頭する日々に戻っていた。

 だれにも壊される心配のない、穏やかな日々。
 自分だけの癒し時間が、やっぱり僕には居心地がよかった。

「ふぁぁ」

 あくびが止まらない。
 昨夜はまたあの苦い記憶が蘇って眠れず、深夜までゲームに没頭してしまった。

 けだるくバスに乗り込み、いつも通りひとり席につく。
 バスの座席はクラスごと、出席番号順に近い形で決められていた。

 僕の席は窓側で、通路を挟んだ列には弥生さんの姿。

「あ、おはよう春斗くん」

「……えっ」

 突然、彼女は僕と目が合うと、僕に向かって軽く手を振ってきた。

「……お、おはよう」

 思わずたじろいだ。
 たったそれだけのやり取りなのに……。

 僕の中ではまだ、あの日の放課後の彼女の言葉が小さな棘のように残ってて、自然な対応なんてできなかった。

 慌てて両耳にイヤホンをし、窓の外に救いを求めた。

 弥生さんの態度は、あの初日の放課後から全く何も変わっていないように見えた。
 目が合えば挨拶もしてくれたけど、僕はすぐにゲームし始めたり机に顔をうずめたりして、彼女を避けていた。

 きっとあの日のこと、弥生さんは何とも思ってないんだろうな。
 それが僕にとっては少し救いでもあった。

 たぶんよくいる勘違い男子の、よくあるお誘いのひとつ。
 人気者の弥生さんからすれば、日常のワンシーン。

「……」

 当たり前のように明るく変わらず挨拶してくれるその自然さが、少しつらくもあった。

 傷ついているのは自分だけ。あの日の記憶すら、残っていないのかもしれない。
 考えるほど、やっぱり寂しい気持ちになった。

 バスが動き出すと、車内は一気に賑やかになった。
 前後の席で友達同士が談笑し、菓子を交換し合ったり、ケータイの画面を見せ合ったりしている。

「……」

 僕はあいかわらず何も音の出てないイヤホンをつけ、ひとり窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。

 となりの通路を挟んだ席から、弥生さんの笑い声が時折聞こえてくる。
 誰かと話して笑っているその声を聞くたび、僕はまた、自分が外側の別の世界にいることを痛感させられた。

 窓に反射する自分の顔を、ぼんやり見つめる。

「…………」

 特に整っているわけでも、崩れているわけでもない、これといって特徴のない顔。

 この容姿も、性格も、成績も、何もかもが平均の少し内側に収まっている。
 それが自分という人間の輪郭なのだと、物心つくころから何となく理解していた。

 一時間ほどバスに揺られ、僕らは古墳群のある丘の麓に到着した。
 バスを降りると、木々の匂いや、少し湿った土の匂いが鼻をくすぐる。

 先生からコースと班分けの説明があり、僕たちはそれぞれ配られたくじを開いた。

 班分けはくじ引きで、一班五人グループみたいだった。
 僕は正直、弥生さんとは違う班になることを願っていた。

 四十人近いクラス。ランダムに分ければ、同じ班になる確率は高くない。
 せいぜい八分の一というところだろう。
 大丈夫。もう一緒になることは、

「…………えっ」

 引いたくじの番号を見た瞬間、思わず声が出た。
 同じ、三班……。

 近くで自分のくじを確認していた弥生さんが、こちらを覗き込んできた。

「あ、春斗くん一緒だ」

 弥生さんは特に気にした様子もなく、屈託のない笑顔でそう僕に言った。

「そ……そうだね」

 僕は引きつった笑顔でそう返しながら、内心では小さな驚きを覚えていた。
 また……。

 偶然というには少し出来すぎている気もしたが、僕は前向きに捉えることにした。
 昔の僕なら、きっと舞い上がっていたことだろう。

 でも今の僕にとっては、あまりにも荷の重い幸運だった。

「おー、春斗また一緒じゃん」

「え?」

 突然、横から能天気な声。

「……ノボルもかよ」

「まぁ、腐れ縁ってやつだな」

 ノボルはそう言って僕の肩を軽く叩きながら、いつもの明るい調子でニヤリと笑った。

 彼女がいるはずなのに、なぜか弥生さんと話してる時は、いつもに増して活き活きしてて馴れ馴れしくなるノボル。
 そうゆう抜け目ないところが嫌いでもあり、そのしたたかさは少し羨ましくもあった。

 他にも同じ班にはあまり喋ったことのない女子が二人いて、同じ班の僕ら五人は、それぞれ微妙な距離感を保ちながらガイドマップを覗き込んでいた。

 古墳群を巡るコースは、思っていたよりも起伏があった。
 舗装されていない山道もあり、みんな息を切らしながら登っていく。
 木々に囲まれた小道を歩きながら、班のメンバーでガイド資料を読み合わせ、それぞれの古墳の由来を確認していった。

 最初の古墳では、案内板に書かれた年代や副葬品の説明を、満場一致で班長に決まった弥生さんが代表して読み上げる。
 僕はその説明を聞きながら、ただノートにメモを取るふりをしながらやり過ごした。

 二つ目の古墳へ向かう途中道が細くなり、班のメンバーは自然と縦一列になった。

 他の班員たちが少し先を歩いているあいだ、僕はふと、隣を歩く弥生さんと二人きりのような形になった。

「春斗くんってさ、こういう古代の歴史、好きなの?」

「えっ」

「なんかすごいちゃんとノートにも書いてたから」

 弥生さんが唐突に尋ねてきた。
 僕は少し戸惑いながらも、正直に答えた。

「……そんなに詳しくはないけど、こういう古い場所に来ると、なんとなく落ち着く気はするかな」

「あー分かる。なんか、時間の流れ方が違う感じするよね。実は私の名前も、弥生時代から名付けたんだって」

 意外な事実だった。

「へぇ、そうなんだ。古墳って弥生時代だっけ?」

「ううん、主には古墳時代。お父さんが土偶とか古代が好きで、私が生まれたとき私が土偶に似てたから、何とか名前にできそうだった弥生にしたって。ひどくない? そもそも土偶って縄文だし」

 弥生さんはそう言って眉間にしわを寄せ、口を尖らせた。

「確かにちょっとひどいかも」

 僕は思わず笑った。
 いつもの、明るく快活な弥生さん。
 そんなクラスの人気者の彼女でも、僕と似たような愚痴や不満を感じていることが、なんかうれしかった。

 人は見た目や普段の振る舞いだけでは分からないものなのかもしれないと、当たり前のことを改めて思い知らされた気がした。

「弥生さん、家族でこういうところよく来るの?」

「ううん、全然。でも小さい頃、家族でお城とか神社とか、そういう場所にはよく連れて行かれたんだ。妹たちがまだ小さいから、今もたまに家族で出かけたりするし」

「弥生さん、妹いるんだね」

「うん、二人も。もう、毎日賑やかで大変」

 困り眉になりながらも、弥生さんはどこか充実している感じがして嬉しそうだった。

 長女として幼い頃から妹たちの面倒を見てきたという話は、以前クラスの誰かと話しているのを聞いたことがあった。
 その口ぶりから彼女が自分の役割に、ちゃんとした誇りを持っていることが伝わってくる気がした。

「休みの日も、妹さんたちの世話?」

「うん、まあね。でも別に嫌じゃないよ。むしろ、私がしっかりしなきゃって思うし。お姉ちゃんだからね」

 弥生さんはそう言って少し誇らしげに微笑んだ。
 その言葉にはわずかな気負いと、それ以上の自負が滲んでいるようにみえた。

 僕はそのとき、弥生さんという人間の輪郭が、少しだけはっきりと見えたような気がした。
 表面的な明るさの奥に、家族を支える長女としての責任感が、しっかりと根を張っている。
 それは、教室で見せる彼女の姿からは想像しにくい一面だった。

 それから僕たちは、古墳の上に立つ石碑を眺めながら、しばらく他愛のない会話を続けた。

 好きな教科、苦手な先生、弥生さんが自宅で飼っている犬の話。
 弥生さんが話す言葉のひとつひとつを、僕はどこか信じられない気持ちで聞いていた。

 少し前まで、僕にとって弥生さんは、遠い場所にいる憧れの人だった。
 それが今は彼女のとなりを並んで歩き、たわいのない話で笑い合っている。
 その事実がうれしかった。

 この時間がいつまでも続けばいいのに。そう思ってしまうほど、僕の心は満たされていった。

 昼食の時間になると、班ごとに芝生の広場に集まり、男女で別れて弁当を広げた。
 僕とノボルは二人並んで座り、少し離れた場所では弥生さんが他の女子二人と楽しそうにごはんを食べていた。

「おい春斗、お前なんか弥生さんとめっちゃ仲良くなってね?」

 突然ノボルが箸を止めて、からかうような口調で言ってくる。
 僕は慌てて否定したけど、内心ではノボルの言う通りかもしれないと思っている自分がいた。

「べ、別にそんなんじゃ。たまたま歩くとき一緒になっただけで」

「ふーん、たまたまね〜。まあいいけど。でもちょっとジェラシー感じたわ。ま、オレ彼女いんだけど」

「な、なんだよそれっ」

 ノボルは悪びれもせず、笑いながらおにぎりを頬張っている。
 その感覚が、自分には全く理解できなかった。

「春斗はさ、弥生さんのこと好きなの?」

「ヴッ⁉ ゲホッ! ゲホゲホッ……」

 ふいに聞かれ、思わず僕はむせた。
 中学の頃からそれほど深い付き合いではなかったはずのノボルに、そんなことを言われるとは思ってなかった。

「……べ、別にそういうんじゃないし」

「照れんなって、オレそういうの意外と鋭いから」

 ノボルは白い歯を見せそう言ったけど、その目はいつもよりわずかに真剣だった。
 僕は、曖昧に誤魔化すことしかできなかった。

 この気持ちを誰かに見透かされることが、こんなに恥ずかしいものだとは思ってなかった。

「まあでも良かったじゃん。ちょっと前まで、お前なんか元気なかったし」

 そのノボルの一言に、僕は少し驚いた。
 高二の初日、あの放課後で弥生さんに断られたことは、当然ノボルにも話してない。

 それでも教室での僕の様子から、ノボルなりに何かを感じ取っていたのかもしれない。
 案外こういうところは勘が鋭く、人のことをよく見ていると思った。

「別に、元気なかったわけじゃ」

「だから隠すなって。大丈夫、弥生さんにしか言わねぇし」

「お、おいっ!」

 とっさの僕のツッコミにノボルはケラケラ笑いながら、残りの弁当を頬張った。
 なんなんだよこいつは……。

 その強引さに救われるときもあれば、本当に憎たらしいときもある。
 僕とノボルとでは、人としての性質がまるで違う気がした。

 遠足はそのまま大きな問題もなく終わり、僕らは夕方前にはバスで学校へと戻った。

 解散前のホームルームで、担任が「みんな今日はお疲れ様」と締めくくると、教室は一気に賑やかな帰り支度の音で満ちた。
 僕はカバンを肩にかけながら、今日一日の出来事を、頭の中で何度もリピートしていた。

「じゃあ春斗くん、おつかれ」

「うん、おつかれ」

 今日は初めて、弥生さんとまともにしゃべれたような気がする。

 知らなかったことや以外な一面も見れて、僕は少しだけ、弥生さんと仲良くなれた気がしてうれしかった。


【カチャン】

 鼻唄まじりにマンションのカギを開け、電気をつける。
 心が満たされ、気を抜くと思わずニヤけてしまう自分がいた。

 完全にあきらめて枯れきっていた僕の心に、またキラキラした水が注がれた気がした。
 僕はなぜかゲームをする気にもならず、気づくとまた鼻唄まじりに、バスルームへと向かった。


 翌週の月曜日。

「あ、春斗くんおはよう」

「弥生さん、おはよう」

 教室に入ると、クラスの数人が僕と弥生さんの席の方をちらちらと見ているのに気づいた。
 誰かが小さな声で「あの二人、遠足のとき仲良さそうだったよね」と話しているのが、断片的に耳に入ってくる。

「……」

 僕は聞こえないふりをしながら、机に着いた。
 弥生さんは誰もが憧れる人気の女子。こういう噂は、良くも悪くも一瞬で教室中に広まる。

 弥生さんはというと、特に何も気にすることなく、いたっていつも通りの様子。
 悪い気はしなかったけれど、同時に、これまでの自分には縁のなかった注目のされ方に、少し落ち着かない気持ちにもなった。


 その週の水曜日。
 家庭科の授業で、調理実習のペアを決めることになった。

 くじではなく、出席番号順に機械的に組まれるはずのペアだった。

 はずなのに……。

 名簿を確認していた家庭科の先生が、急に「今日は出席番号が一人休みだから、繰り上げでペアを組み直します」と言い出した。

 そしてその結果、僕のとなりに立っていたのは、弥生さんだった。

「…………」

 こんな偶然、あっていいのか……。

「あ、春斗くん。また一緒だね」

「……だ、だね」

 弥生さんは笑いながらそう言ってくれたけれど、僕は内心、どこかざわつくものを感じていた。

 くじ引きでもない、機械的に決まるはずの組み合わせが、たった一人の欠席という些細な事情で、また弥生さんとの組み合わせに変わっている……。

 それ自体は、ただの偶然だと言われればそうなのだろう。
 けれどこの数週間で積み重なってきた出来すぎた偶然の数を思うと、僕は単純に喜ぶことができなくなっていた。

 何かにとり憑かれているのか、それとも本当に、僕に運が巡ってきているのか。

 調理実習の間、弥生さんは慣れた手つきで野菜を切りながら、ときどき僕に手順を教えてくれた。
 妹たちのために家でもよく料理をするのだと言う彼女の横顔は、教室で見せる明るさとはまた違う、落ち着いた雰囲気をまとっていた。

 僕はその横顔を見ながら、素直に嬉しいと思う自分と、この状況そのものへの薄気味悪さを覚える自分との間で、心が引き裂かれるような感覚を味わっていた。


 それからしばらく経った、五月に入る直前のことだった。

 僕は帰りのホームルームが終わったあと、なんとなく机の中を整理していた。
 すると横からガーッと椅子がこすれる音とともに、弥生さんが僕の席の方にグッと身を乗り出してきた。

「ねえ、春斗くんって、本屋とか好き?」

「えっ? ……うん、まぁ、好きだけど」

 ゲームの本やマンガ、ライトノベルだって数冊はむかし途中までは読んだことある。
 これは本好きと豪語しても、なにも問題はないだろう。

「そっか。ちなみに、今度の日曜、暇だったりする?」

「へ……」

 僕は一瞬、聞き間違えたかと思った。

「……まぁ、日曜はちょうど暇だけど」

 毎週土日は家でゲームをしているし、『ちょうど暇』という言いまわしも別に嘘じゃないはず。『ちょうど』ってゆうのは、ちょっと盛ったけど。

「ホント? じゃあ日曜の昼過ぎ、駅前の本屋行かない? 探してる本あって」

「えっ⁉」

 あまりにも自然な誘い方だった。
 少し前の僕なら、絶対に有り得ないような展開。

「ダメ?」
 
 あの日は、あんなにあっさりと断られたのに。まさか今度は弥生さんからこんな誘いがあるなんて、夢にも思わなかった。
 何が変わったのか、僕にはまったく見当もつかなかった。

「ううん、もちろんいいよ」

 なんとか平静を装いながら、僕は当然そう答えた。
 こんなこと、ホントにあっていいのだろうか……。

 僕はふわふわした感覚のまま、その夢のような誘いをあっさりと承諾した。


 次の日曜日の昼過ぎ。
 僕たちは本当に二人で学校近くの駅で待ち合わせた。

「あ、春斗くん! ごめん、待った?」

「ううん、僕もさっき来たとこ」

「そっか。じゃあ、行こっか」

「うん」

 それから僕らは二人、駅前の本屋に向かって並んで歩き出した。

 慌ててネットで調べて買った、シンプルな紺色と黒のコーデ。
 似合っているかは不安だったけど、弥生さんの私服姿は新鮮だった。

 シンプルな白のカットソーに、ジーパンを合わせたパンツスタイル。
 いつもの黒髪ポニーテールとあわせて健康的で、すごく弥生さんの雰囲気に合っていた。

「弥生さんの私服、雰囲気に合ってていいね」

「そう? でも私、妹たちの面倒みること多いからラフな服ばっかなんだよね」

「そうなんだ。でもすごい似合ってる」

「ホント? うれしいありがと。春斗くんもシンプルで似合ってるよ」

「えっ……あ、ありがと」

 僕は思わず真っ赤になって、弥生さんの顔を見れなかった。

 これは完全に、まわりから見ればただの高校生カップルの休日デートにしか見えない……。
 学校近くの駅ということもあり、同じ制服の高校生が歩く姿もちらほら見える。

「……」

 ちょっと誇らしくもあるけどやっぱりまだ慣れなくて、僕はつい速足で本屋へ向かった。

 目的の本屋にはわりとすぐに着いた。
 その本屋は何度か行ったことはあったけど、ふだん本を読まない僕にとってはそわそわする空間だった。

 当然「普段どんな本読むの?」なんて質問はあったけど、「インターネット系の本が多いかな」なんて言ってごまかした。
 パソコンでゲームすることはあるし、何も問題はないはずだ。
 弥生さんは探していた本を見つけると、ご満悦そうに喜んでいた。

 一時間以上本屋をうろついたその帰り道。僕らはその流れで駅前のカフェに入った。

「今日はなんで僕を誘ってくれたの?」

「なんでだろ? なんか春斗くん話しやすいし」

 何気ない会話の中で、弥生さんが僕の好きなゲームの話に興味を示したり、逆に僕が彼女の家族の話を聞いたりした。

 時間はあっという間に過ぎていった。

 カフェの窓から差し込む夕方の光の中で弥生さんが笑うたび、僕はどうしようもなく胸の奥が温かくなるのを感じていた。
 カフェでの会話の途中、弥生さんがふと真顔になって口を開いた。

「そういえば私、春斗くんと初めて話したときの事あんまり覚えてないんだよね。私たち、いつから話すようになったんだっけ?」

「高一の時の、体育のバレー対決の時だと思うけど」

「そっか、そうだったね。なんかいつからだったか分からなくなって。変だよね」
 
 たぶん弥生さんにとっては僕と話したことなんて、その他大勢の生徒の、ほんのささいな出来事に過ぎないはず。
 当然なんの興味もない僕なんかのこと、いちいち覚えてるはずない。

 弥生さんの中で、僕という存在の輪郭が少しずれた形で記憶されているのも、全然不思議じゃなかった。

「今日はありがと、楽しかった。また誘ってもいい?」

「も、もちろんっ」

「やった」

 別れ際に弥生さんはそう言って笑い、僕らは駅の改札で解散した。

「……」

 電車の席に座り、僕はひとり、ふぅと息をはいた。
 僕は「もちろん」と答えた自分の言動や今日の夢のような出来事に、どこかで現実感の無さのようなものを感じていた。

 こんな展開、あまりにも都合が良すぎる……。

 まるで自分の願いがそのまま形になっていくような、そんなご都合主義の気持ち悪さがあった。

 家に帰る道すがら、僕はずっと不思議な感覚に包まれていた。
 嬉しいはずなのに、どこかリアリティがない。
 都合の良い夢を見ているような、まるでゲームの世界にいるような、そんな感覚。

 夢なら、いつか覚める。
 覚めたとき、僕はまたあの可もなく不可もない、誰にも見向きもされない自分に戻っているのではないか。

 弥生さんは、僕に振り向いてくれないんじゃないか。
 そんな漠然とした不安が、このあまりにも出来過ぎの喜びの裏側にいつも張り付いていた。


 その日の夜。

 僕は自室の机に向かいながら、ふと引き出しの奥にしまってあった、あのヒスイ色の手帳のことを思い出した。

 数週間前、あの川べりで拾って、思いのままに本音を書き綴っていたあのヒスイ色の手帳。
 あれから色々ありすぎて、存在すら忘れていた。

 僕は久々に引き出しを開け、奥にあったあの手帳を取り出す。
 恐る恐るページを開くと、あの日の自分の筆跡が、鮮明に目の前に飛び込んできた。

『本当は、弥生さんと付き合いたかった』

『隣の席のまま、もっと話したかった。もっと知りたかった。もっと近づきたかった』

「…………」

 ほんの数週間前に自分で書いたことなのに、なぜか体中がかゆくなる。

『もっと、弥生さんと仲良くなる』

 その僕が書いた文字を見た瞬間、思わずくぎ付けになった。

 弥生さんと、仲良くなる……。

 僕の気のせいかもしれないが、たしかとなりの席では仲良く話すことはまだできてなかったけど、遠足とか教室の外では弥生さんとよく話すようになっていて、確実に仲良くはなっている。

 よくよく改めて読み返してみると、そこに書いていた文章には二種類の書き方が混在しているような気がした。

『〜したかった』という後悔で書かれた一文と、最後の『弥生さんと仲良くなる』という、断定に近い言い切った一文。

 そしてたしかに、弥生さんとは仲良くなっている。

「これは……。いや、気のせいか」

 僕はここ数週間で起きた出来事を、あらためて順を追って思い返してみた。

 古墳での親睦遠足のくじ引きで同じ班になって仲良くなったこと。
 調理実習でまさかのペアになったこと。
 誘っていないのに、弥生さんの方から本屋に誘ってくれたこと。

 どれも単体で見れば、偶然で片付けられる出来事かもしれない。
 けれどこうして並べてみると、あまりにも都合が良すぎる気がしてならなかった。

「……」

 僕はふいに、手帳の表紙を見返した。
 深いヒスイ色でよく見ると、どこか悠久の時を感じさせる、普遍性を帯びた佇まい。
 よくよく見ると神秘的で、神々しさのようなものさえ感じた。

 たしかに思い込みで、ただの偶然かもしれない。
 でもそれでも、それを信じてみたい心が、僕のどこかにたしかに存在していた。

 手帳に書いたことが現実になるなんて、そんな馬鹿げた話、あるはずがない。
 高校二年にもなってれば、そんなことくらい分かってる。

 でも、そう信じたかった。
 そう思えば思うほど、頭の中では別の可能性が膨らんでいくのを止められなかった。

「……」

 僕は書いたページをもう一度最初から丁寧に読み返し、そしてひとつの規則性を仮定してみる。

『〜したい』『〜だったらいいな』という願望の形で書かれた言葉は、何も起きていない気がする。
 それはただ、僕の弱い本音が書かれているだけのページ。

 けれど、『〜する』『〜になる』という断定形で、まるで既にそうなっていることを確認するかのような書き方をした言葉だけ、そのまま現実の出来事として僕の日常の中に姿を現しているような気がした。

 くじ引きの結果。
 調理実習でのまさかのペア。
 本屋への誘い。会話の端々の噛み合い方。

 すべてが、僕が断定形で書き記した言葉と、恐ろしいほど一致していた。

「…………」

 僕は手帳を持つ手が、じわりと汗ばんでいくのを感じた。
 信じたくなかった。信じられるはずがなかった。

 でもそれでも、目の前に並んだ自分の筆跡が、それを裏付けているように見えてならなかった。

 僕はベッドに横になり、天井を見上げながら今日のことをもう一度思い返す。
 弥生さんの笑った顔。カフェで交わした何気ない会話。

 あの時間が、本当にただの偶然の積み重ねだったのか、それとも、僕がこの手帳に書いた言葉によって、無理やり歪められた結果なのか。

 考えれば考えるほど、境界線が分からなくなっていく。

 もし、これが本当だとしたら。僕がこの手帳に断定形で言葉を書き記すだけで、現実がそれに沿って書き換わっていくのだとしたら……。


「……はぁ、ばかばかしい」

 僕はヒスイ色の手帳を無造作に机に投げ、ひとりベッドにダイブした。

 得体の知れない恐怖とともに、徐々に未来への期待が全身を包んでいく。

 人の心も、人との関係も、こんな風に紙の上の言葉ひとつで動くはずはない。それは分かっているつもり。

 でも、もし、これが本当なら……。
 もう一度、この手帳に、弥生さんのことを書いたら。

 これまでの人生、僕は何かを強く望んでそれが叶った経験なんて、ほとんどなかった。

 可もなく不可もない自分。目立った長所もなく、これといった欠点もない。
 そんな人間には、何かを望む資格すらないのだと、どこかで思い込んでいた節がある。

 それなのに今、目の前には、望めば望んだ通りになるかもしれない、そんな可能性が広がっている。

「……はぁ」

 僕は起き上がり、机の上の手帳をそっと、スクールカバンにしまった。
 しまいながら、自分の中で何かがゆっくりと、天秤にかけられているのを感じていた。

 片方には、これまで通りの、可もなく不可もないありきたりな未来。
 そしてもう片方は、この手帳と共に、望むものを手に入れていく、輝かしい未来。

「……」

 窓の外にはかすかに光る星空と三日月。
 遠くでは誰かの家の犬が吠える声も聞こえる。

 僕はしばらく手帳を入れたカバンを見つめたまま、その問いへの答えを出せずにいた。

 手帳を閉じることも、開き直してさらに書き足すことも、どちらもできないまま、時間だけが静かに過ぎていった。


 結局その夜、僕は再びペンを握ることはなかった。
 それでも頭の中には、手帳の存在が常にチラついていた。

 まるであのページの向こう側に、まだ見ぬ自分の未来が透けて見えるような、そんな気がしてならなかった。
 眠りにつく直前、僕はふと、遠足のときノボルに投げかけられた言葉を思い出す。

『照れんなって、オレそういうの意外と鋭いから』

 あの言葉に、僕はあのとき曖昧に笑うことしかできなかった。

 そして、カフェで弥生さんが漏らした『私、春斗くんと初めて話したときのこと、あんまり覚えてないんだよね』という一言。

 それらの言葉が、僕の中で何度も反響していた。
 
 あれは単なる社交辞令や、その場の思いつきの言葉だったのかもしれない。
 けれど、もしあの一言にも、この手帳に書いた何かが関わっているのだとしたら……。

 ……いや、考えすぎか。

 僕は暗い天井を見上げながら、自分がこれから、この手帳とどう向き合っていくべきなのか、答えの出ない問いをいつまでも抱え続けていた。

「……疲れた。もう寝よう」

 結局その夜は、いつの間にか眠りに落ちていた。


 翌朝の月曜日。

 目を覚ましてまず目に入ったのは、ヒスイ色の手帳が入ったカバンだった。

「……」

 カーテンの隙間から差し込む朝の光の中で、昨夜より明るく輝くスクールカバン。
 まるで僕の輝かしい未来を、静かに待っているかのように。

 僕はしばらくそのカバンを見つめたまま、ベッドから起き上がることができなかった。
 学校へ行けば、また弥生さんに会う。

 今日という一日もまた、僕がこれまでに書いた言葉の延長線上にあるのかもしれない。
 今日からもまた、素晴らしい一日が続いていく。

「…………よし」

 僕はふぅと息を吐き、カバンから手帳を取り出す。
 机に座ってペンを手に、その手帳に書き始めた。

 それからまたカバンに手帳をしまい、僕は学校へ向かった。