気づいた時にはもう、彼女はいなかった────



     1

 散りかけの桜さえ同情するような、短くて、儚い春だった。


 高校二年の始業式の朝、僕はほとんど寝られず、早起きした。

 七階のマンション最上階の、殺風景なリビング。
 しんと静まり返った、いつも通りのひとりの朝。

 ベランダから見えるのは、緑と川と住宅が点在する、青みがかった町並み。
 その見慣れた田舎の町並みをただ、ぼんやり眺めていた。
 
 物心ついた時にはもう、僕の前に母親の姿はなかった。
 交通事故だったらしい。

 そんなわけで僕は幼いころから父と二人、このマンションで育った。

 まわりの人たちはいつも、僕をかわいそうな目で見た。
 でも初めからそれがあたりまえだった僕にとって、とくにつらくもなかった。

 それになにより僕は、一人の時間が好きだった。

 僕が中学に入る頃、父はとなりの県に単身赴任になった。
 いつも忙しく、たまに休みに電話があったりもしたが、このマンションに帰って来るのはお盆と正月くらいだった。

 基本いつもこもって過ごしている、ゲーム部屋と化した自室。
 あと父の部屋と広いリビングのあるこの立派なマンションに、僕は一人で住んでいた。

 生活費は口座から自由に使っていいことになっていた。
 昔から物欲もなくねだる子供でもなかったから、たぶんそうしてくれたんだと思う。

 大好きなゲームや何不自由なく与えて育ててくれた父には、とても感謝していた。

「……ふぁ……」

 あくびが止まらない。さすがに反動がきたようだ。

 昨日の夜はなぜか神経が高ぶって、ほとんど寝られなかった。
 ベッドに入っても眠れずやけになってまたゲームをしてしまったのは、完全に愚行だった。

 自室でつけっぱなしだったゲームのコントローラーをしまい、朝の支度を淡々と済ませる。
 トーストを食べ、ブレザーに袖を通し、鍵を閉めて早々に学校へ向かった。

 マンションを出て、足早に駅への歩道を歩いていく。
 ふと振り返ると、このあたりではポツンと浮いている七階建ての自宅マンション。

 郊外の田舎だが、緑あふれるのどかな地元の風景。
 このアンバランスな風景が、僕は好きだった。

 あくびが止められず、とっさに口をおさえながら駅へ向かう。
 かなりの寝不足でもなんとか持ちこたえられているのは若さゆえの特権か、それとも何か別の理由か。

 ウトウトしながら電車に揺られ、学校近くの駅前のコンビニで昼ごはんを買い、校舎へ向かった。

 ぞろぞろとにぎやかに登校していく、多くの生徒たち。
 その流れにまかせ、ひとりコツコツ革靴を鳴らし、進んでいく。

 校門前の歩道に散らばめられていた薄いピンクの花びらに気づき、ふいに上を見上げた。
 一面に広がる、散りかけの桜。

「……」

 思わずハッとなり、また校舎へ急ぐ。
 そして、校舎内に張り出された紙に群がる生徒たちを、僕は発見した。

 なぜ昨日眠れなかったかという理由は、薄々自分でも分かっていた。
 おそらく、あの張り出されているクラス替えの紙のせいだった。

 高校一年の間、僕には気づくといつも目で追ってしまっていた女子がいた。

 隣のクラスだった、弥生(やよい)さん。
 明るくて快活で、男女みんなに慕われている、学年でも有名な人気女子。

 幼馴染でもないし、会話といえば一年の時に体育のバレー対決の時に少ししゃべったくらい。
 それは本当にありきたりな、ただの一方的な片思いだった。

 たぶん人はこれを、初恋と言うのだろう。

 僕らの学年は四クラスだったから、同じクラスになれる可能性は四分の一。可能性が無いわけでもないが、高いというほどでもない。
 それを分かっていたからなのかは知らないが、昨夜は全然眠れなかった。

「……まぁ、どうでもいいや」

 ぽつり吐きながら、賑わう昇降口をひとり静かにすり抜けていく。
 廊下奥の掲示板に貼られた紙にクラス名簿が並んでいるのを見つけ、上から下へ一文字ずつ確かめた。
 
 二年三組の名簿に、あっさりと『春斗(はると)』の文字を見つけた。

「三組か。……………えっ」

 その時、思わず固まった。

「弥生、さん……」

 僕の名前と同じ列。
 その名前を見つけた瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

 二年三組……。同じクラス……。

「……」

 期待はしていなかったが、まさかだった。
 信じられなくて、もう一度名簿を目で追い直す。

 ……見間違いじゃない。
 確かにそこにある、弥生さんの名前。

「っ」

 僕はフッと息を吐き、こっそり右の拳を握りしめた。

 高校二年にもなってこんなことで浮かれてる自分が少し情けなかったけど、止めれなかった。
 やっと自分にも運が巡って来たのかもかも。

 そう、やっと。

 少しうわついたままふわふわした足どりで教室へ入ると、まだ生徒はまばらで半分ほどの席しか埋まっていなかった。
 弥生さんの姿も、まだない。

 少し安心して黒板の脇に貼られた座席表を確認し、自分の机を探す。
 窓際から数えて三列目、後ろから二番目。

 そしてそのとなりの席に書かれた名前を見た瞬間、頭が真っ白になった。
 僕のちょうどとなりが、弥生さんの席……。

 こんな偶然が、あっていいのだろうか。
 一年のあいだ、僕はとなりのクラスだった弥生さんのことを、いつも遠くから見ているだけだった。

 廊下ですれ違うときなぜかただよう空気の華やかさや、誰かと話しているときの明るくて快活な話し声。
 少し困ったように笑ったり、誰かと冗談を言い合ったりして表情豊かな顔。
 そのどれもが輝いていて、僕にとっては手の届かない存在だった。

 当然いろんな男子からも、女子からも人気がある、華やかな中心人物。
 そんな弥生さんが、僕のとなりの席……。

「……」

 僕は席に座ったまま深呼吸し、カバンからノートを取り出すふりをしながら心を落ち着けようとした。
 落ち着け、落ち着け。
 そう胸の中で何度繰り返しても、指先のかすかな震えが治まることはなかった。

 その時。
 突然、バンと後ろから肩をたたかれた。

「おー、春斗じゃん」

「えっ?」

 思わず後ろを振り向く。

「あぁ、ノボルか」

 そこにいたのは中学時代のクラスメイト。
 一年の時はとなりのクラスの、坊主頭で野球部員のノボルだった。

 二年になってまた同じクラスになったようだ。
 ノボルのことなんか、まったく見てなかった。

 中学のときはそれほど親しくしていたわけではなかったが、みんなと仲良く話すタイプ。
 高校ですれ違った時は軽く挨拶する、僕にとっては唯一会話ができる学校の生徒。
 そんな感じだった。

 ……そうだ、今思い出した。
 そういえば僕が唯一体育の時に弥生さんと話した時も、僕が話してたのはノボルだった。
 一年の時、ノボルも弥生さんと同じクラスだった。

 体育でクラスの男女で組んで、となりのクラスと対決してた時、中央のネット越しに会話したのがはじめての弥生さんとのやりとり。

 会話ってほどじゃなく、横から『負けないよっ』って僕の目を見て笑って言ってくれただけ。
 そして僕もそれに応えて、弥生さんに笑い返した。ただそれだけ。

 たぶん彼女にとっては、なんてことないやりとりに違いない。

 でも僕にとっては、一年間という長い高校生活の中で、最高の出来事だった。

「野球部一人もいねぇわぁ。っつーことで春斗、一年間ヨロシク」

「……おう」

 僕が気だるくそう返した矢先、ノボルはフッと廊下の方を見た。

「あっ」

 ノボルは目を丸くし輝かせ、後ろの誰かに向かって手を挙げた。

「おー弥生さん! また同じクラスじゃん」

「えぇー、ウソでしょ」

「……えっ」

 その聞き慣れた快活な声に、思わず僕も声が出た。
 恐る恐る、振り向く。

 そこには、見慣れた黒髪ポニーテールの弥生さんが立っていた。

「やだなぁ」

 弥生さんは顔をしかめながらそう言って、となりの席に同じ紺色のスクールカバンをポンと置く。
 それからサッと、僕のとなりの席に座った。

「っ」

 ふいに漂ってくる、シャンプーかリンスの良い匂い。
 頭が真っ白になった。

「もう運命じゃん。付き合うしかないじゃん」

 弥生さんの冷たい返しにひるむことなく、ノボルがニヤニヤ言う。
 どうゆうメンタルしてんだよ……。

「最低。絶対リカちゃんにチクる」

 弥生さんはそう言って黒髪のポニーテールを振り乱し、キッっと眼光鋭くノボルを睨みつけた。

「あーっ! それだけはっ⁉」

「ダメ」
 
 …………リカちゃん?
 ノボルの彼女だろうか。

 てゆうかノボル、彼女いたのか……。

 知らない彼女の話やその慣れた二人のやりとりに、僕は全くついていけなかった。

 ノボル、こんなに弥生さんと仲良かったのか。
 しかも僕も知らなかった彼女の存在を、弥生さんも知っている……。

 ノボルの事も、弥生さんのことも、僕は何も知らない。

 僕にはこれといった友達も、気軽に会話する生徒もいない。
 基本は自分の席でずっと一人でケータイゲームをしている、地味な平均男子。

「……」

 なんか一人だけ、場違いな感じがした。
 スクールカースト上位たちの天界でのキラキラしたやりとりは、僕にはあまりにまぶし過ぎた。

 僕もこれくらい気軽に弥生さんといろいろ話せたら、どんなに幸せだろう……。

「あ。弥生さん、コイツ春斗ね。オレの中学からのマブダチ」

「っ⁉」

 坊主頭の野球部員が弥生さんにそう言い放ち、僕の肩を抱き密着してくる。
 うそつけ。
 僕はコイツのこと、一度もマブダチなんて思ったことない。

 彼女がいたことさえ知らなかったし、なんなら高校入ってまだ十回くらいしか絡んでないし。

「あ、昔体育の時話したことあるよね? 春斗くんはじめまして、よろしくね」

「う、うんバレーの対決の時……。よ、よろしく」

 ノボルの時とはうって変わって、弥生さんは僕にいつもの明るい笑顔を見せてくれた。
 僕も弥生さんの目を見て、なんとか微笑んだ。

 ちゃんと笑えていたかは分からない。

 吸い込まれそうな、こげ茶色の瞳。
 白くて張りのある、瑞々しい肌。
 思わず惹き込まれた。

 不意に名前も呼ばれ、弥生さんも一年の時のバレー対決の時のこと、覚えてくれていた。
 それだけのことなのに、僕は天にも昇る気持ちになった。

 僕の高校生活の最高が、大きく更新された瞬間だった。

 弥生さんが今、僕の席のとなりにいて微笑んでくれている。
 夢のようだった。

 それだけの言葉だったのに、僕は一瞬、返事の仕方すら忘れてしまった。
 自分の声が思ったより小さくなっているのが分かり、恥ずかしかった。
 
 弥生さんは特に気にした様子もなくカバンから筆記用具を取り出し、またノボルと談笑していた。
 一年のときのクラスの話、元担任の話、そんな他愛のない会話。

 けれど僕にとっては、その一言一言が羨ましくて、なぜか少し悔しかった。

「まぁ、お互い仲良くやろうぜ」

「はいはい」

「う、うん」

 僕もこれから、もっと、弥生さんと……。
 思わず、期待に胸をはずませた。

 それからノボルは席に戻り、僕らはそれぞれの席に着いて正面を向きなおした。


「……」

 今までとは明らかに何かが違う。

 何かが始まる予感がする。
 そんなキラキラした青春の予感に、僕はひとり酔いしれた。

 窓の外からは、春の匂いがただよっていた。


【キーンコーンカーンコーン】

 そわそわしたままの担任のホームルームや、午前の軽い授業も一通り終わりお昼のチャイムが響いたころ、教室は少しだけ打ち解け合った明るいざわめきに包まれていた。

 ノボルはチャイムが鳴ると早々に、迎えにやってきた野球部の連中とわいわいと食堂に向かっていった。

 となりの弥生さんも、あれからすぐ仲良くなったクラスの女子たちと弁当を抱え、楽しそうに談笑しながら教室を出て行った。

 顔を合わせたクラスメイトたちもそれぞれ席をくっつけ合ったりして、あちこちでもう楽しげに弁当を広げあっている。

「……」

 僕はその輪の中に入っていく勇気もなく、一人机の上に駅前のコンビニで買ったパンやおにぎりを並べ、片手で食べながらケータイを取り出した。

 最初に誰と話すかで、ほぼそのクラスでのグループ分けは終わってしまう。
 そんなこと、今までの学生経験で十分理解していた。

 それでも僕は、一年の時から何も変わってはいなかった。
 いつも一人自分の席でコンビニの昼ごはんをさっさと流し込み、イヤホンをしてゲームの世界に没頭する日々。
 それが僕の、いつものルーティンだった。

 友達ができないんじゃない、作らないだけ。
 一人の時間こそ、僕にとっては最高のしあわせだった。

 それは二年になっても変わらない。
 この時間が、僕の学校生活での、唯一の癒しのひとときだった。

 中学のときから、ずっとこんな感じ。
 正直、昔は友達がいないことが後ろめたくて、つらく感じる時はあった。

 でも今では、誰にも邪魔されずに自分の自由時間を満喫できるという事実に、僕は何物にも代えがたい充足感や幸福感さえ感じていた。

「…………」

 はずなのに…………。
 なんでだろう。

 今日はいつものケータイゲームをしていても、全然集中できない。
 心が癒されない。

 いつもは楽しいゲームの時間が、全然楽しくなかった。

「……ふぅ」

 僕はたまらずケータイをしまって立ち上がり、一人廊下へ出た。
 そして廊下の窓から、外を眺めた。

 校庭ではワイワイキャッキャと、青春を謳歌する生徒たち。

「…………はぁ」

 ふいに、ため息が漏れた。

 その日一日、僕はほとんど上の空だった。

 授業の内容も、休み時間も、記憶に残っているのは弥生さんのことだけだった。
 となりに座っているというだけで、こんなにも世界の色が変わって見えるのかと。
 自分でも驚くくらいだった。

 僕はひとり、考えていた。
 一年間、遠くから見ているだけだった人が、今は同じ教室で、僕のとなりに座っている。

 この距離を、もう一歩、近づけたい。
 臆病な自分にしては珍しく、そう思った。

 珍しくというより、初めてかもしれない。
 誰かに対して、こんなにもはっきり近づきたいなんて思ったこと。

 僕は普段からとくに欲もなく、自分から誰かに強く働きかけることをしない性格。
 目立った長所もなければ、これといった欠点もない。

 可もなく不可もなく、教室の中でも空気のような存在。
 普通の影の薄い男子生徒。それが自分だという自覚はあった。

 だからこそ、この気持ちだけは誰にも譲りたくなかった。
 せめて一度くらい、自分から動いてみたかった。

 こんな気持ちになってるのはノボルのせいだなんて認めたくはなかったが、正直否定はできなかった。


【キーンコーンカーンコーン】

 放課後。
 ノボルは早々に部活に行き、教室にはもう数人しか残っていなかった。

 そして幸いなことにまだ、弥生さんは帰りの支度をしていて、僕のとなりに座っている。

「……」

 ……チャンスだ。

 この関係が固まる前に、この初日のうちに、動かなければ。

 この今を逃したら、僕はたぶんこれからも、ずっと変わらないだろう。
 そんな恐怖感すら感じた。

 これはノボルに感化されたからなのか、クラス初日のうかれた空気にほだされたからなのか。

「……っ」

 僕はカバンをスッと肩にかけ、静かに立ちあがった。

「……」

 ギュッとこぶしを握り締め、弥生さんが荷物をまとめ終わったタイミングを見計らう。

 それから勇気を出して、僕は声をかけた。

「……あ、あの、弥生さんっ」

「……え? あぁ春斗くん。どうしたの?」

 キョトンと隣の僕を振り向く弥生さん。
 その顔はいつも通り無垢で、警戒する感じは少しもなかった。

 なんなら僕がとなりにいたことさえ知らなかったような感じ。

 それが余計に僕の胸を締め付けた。
 これから何を言おうとしているかなんて、まったく想像していない顔。

 僕は勢いにまかせ、口を開いた。


「も、もしよかったら……今度、一緒に下校……しませんかっ?」


 とっさにそう告げた瞬間、サーッと全身から血の気が引いた。
 
 唐突過ぎることは、自分でも分かってる。

 でも今の僕には、この誘い方しか思いつかなかった。

 声が震えていたかは、自分でもよく分からない。

 手のひらにじんわりと汗が滲むのを感じながら、弥生さんの反応を待った。


 そしてすぐ、返事は来た。


「あー……ごめん私、一人がいいかも」


「…………え……」


 あっけなく放たれたその刹那の一言が、僕の鼓膜をスッと通り抜けた。


 それは深刻な拒絶というより、予定を聞かれて予定がないことを告げるときのような、ごく普通の口調。

 サッとほこりをはらうような、そんなあっさりとした一言だった。


「……」


 僕の中で、何かが壊れる音がした。


「……そ、そっか。そうだよね。急に変なこと言ってごめん」

「ごめんね。じゃあ私そろそろ行かないと。おつかれ」

「……お、おつかれ」

 僕はなんとか笑って返した。

 うまく笑えていたかなんて分からない。


 弥生さんは少し気まずそうに僕にむかって手を合わせ、「また明日」と言って颯爽と教室を出ていってしまった。


「…………」


 一人残された静かな教室で、僕はしばらく動けなかった。

 
 窓の外はもう、夕陽の色に染まっている。

 グラウンドからは、野球部の元気な掛け声。


 僕はその音を、ひとりの広い教室で、ただぼう然と聞いていた。


 分かっていたはずだった。

 自分なんかが、彼女にとっての特別な存在になんて、なれるはずないってこと。

 当たりさわりはないが、これといった長所もない。

 可もなく不可もない、ただのとなりの席の平均的なクラスメイト。

 そんな僕に、人気者の彼女がわざわざ心を動かす理由なんてあるはずない。

 それなのに、となりの席というその偶然だけで、完全に舞い上がってた。


「……」


 散りかけの桜さえ同情するような、短くて、儚い春だった。


 一年の頃から密かに温めてきた、一方的な片思い。

 その時間の分だけ、絶望感は計り知れなかった。

「まだ初日だぞ。どうすんだよ、明日から」

 思わず鼻で笑った。

 明日からのこの教室での一年間を想像すると、ゾッとした。


「…………帰ろう」


 肩からずり落ちてしまっていたカバンをかけ直し、僕は一人、誰もいなくなった教室をあとにした。


『あー……ごめん私、一人がいいかも』


 誰もいない廊下をひとり歩きながら、頭の中で何度もあの言葉を再生してしまう。
 あの彼女の一言が、耳の奥にこびりついて離れなかった。

 静まり返った下駄箱で靴を履き替えながら、僕は自分にそっと言い聞かせた。これでよかったんだ、と。
 何も変わらなければ、何も傷つかずに済んだのに。動いたから、こうして傷ついている。

 悪くない、むしろ前進だ。うん、そう思うことにしよう。

「……」

 そう自分に言い聞かせ校門を出ると、夕陽が街並みを赤く染めていた。
 いつもと同じ見慣れた帰り道のはずなのに、今日はやけに赤い。
 僕は誰もいない駅への道を、一人でとぼとぼ歩いた。

 隣の席という奇跡のような偶然も、結局は何も変えられなかった。
 分かっていたことを、改めて突きつけられただけだった。

「はぁ……」

 僕にとって、恋というものは、最初からこういうものだったのかもしれない。
 手を伸ばしても届かない場所にあって、伸ばした分だけ、痛みだけが返ってくる。
 そんな気がしていた。

 自宅の最寄り駅で降りても、僕は家に帰る気になんてなれなかった。

 いつもなら教室を出て電車に揺られ、自宅近くの駅に着いても駅近くのコンビニやスーパーで適当に夜ごはんを買って、誰もいないマンションの自室で大好きなゲームの世界に没頭する、最高にぜいたくな日々。
 それが僕の放課後の、変わらないいつものルーティン。

 それなのに、毎日欠かしてないケータイゲームの日課さえやる気にならない。
 今日だけは、まったくそんな気持ちになれなかった。

 弥生さんの淡白な声が、まだ耳の奥に貼りついている。
 あっさりとした、拒絶ですらない一言。

 だからこそ余計に、僕の中で処理しきれない何かが渦を巻いていた。
 傷ついたと言うには軽すぎる気がして、何でもなかったと言うには重すぎた一言。
 自分の感情に、僕はうまく名前をつけられずにいた。

 この胸のモヤモヤはなんだ、なんのデバフか状態異常だ。
 どうすれば、解消するんだ……。

 駅を出て気づいたら、僕は店にも寄らずに、自宅と反対方向へ歩いていた。

 行くあてなんてなかった。
 ただ、今日のあの教室で味わった空気や感情や後悔を、この胸のモヤモヤを、少しでも取り去りたかった。

 知らない道をただ、とぼとぼ歩いていく。
 知らない住宅街を抜けた先には、見覚えのない川べりへと続いていた。

「……こんな場所、あったっけ」

 この土地に住んでもう十年以上になるのに、このあたりに近づいたことはほとんどなかった。
 特に何があるわけでもない普通の川。

 けれど夕方のこの時間、この人けのない河川敷の川べりは、今の僕には居心地がよかった。
 僕は川の上にあったベンチに腰を下ろした。

 川の水はゆっくりと流れ、心地よい風が吹き抜け、悠久の時をただ静かに、淡々と刻んでいく。
 夕暮れに染まり暗くなってゆく空を眺め、僕はその世界に身をゆだねた。

「…………」

 僕はしばらく何も考えないようにしながら、ただゆれる水面を眺めていた。
 考えないようにしようとすればするほど、頭の中には弥生さんの表情や声が繰り返し浮かんでは消えていく。

 あの一瞬固まった顔。あっさりとした言葉。
 彼女にとって、僕はきっと本当に何でもない存在なのだろう。
 傷つくことすら、相手にとっては想定の外にあるくらいの。

「……可もなく不可もなく、か」

 思わず声がもれた。
 口に出すと少しだけ、胸の中の重さが軽くなる気がした。

 そういえば僕はいつもこうやって、自分を慰めてきたのかもしれない。
 可もなく不可もなく。
 最高の喜びも無ければ、深い絶望も無い。

 長所もない。欠点もない。目立つこともないけど、嫌われることもない。
 教室の中で、僕という人間はきっと空気に近い扱いを受けている。
 それが悪いことだとは、これまであまり思ったことがなかった。

 それがラクだし、僕にとってはホントは心地よかった。
 けれど今日、僕は初めて自分から動いた。はじめて欲を出した。

 でも、その結果がこれ。
 目立たない人間が、目立とうとした結果。

 ……滑稽だ。思わず自分をあざ笑った。

「…………」

 どれくらいそうしていただろう。
 夕陽が少しずつ角度を変え、川面に反射する光の色がオレンジから薄い紫へと移り変わっていくのを、僕はぼんやりと眺めていたその時。

「……ん?」

 視界の端に、何か色のついたものが映った。