勝負は魚で

実は、ニューヨークの寿司レストランでの仕事は日本とそれほど変わりありませんでした。客の多くは日本人なので、日本語対応です。日本人以外は、当然英語で対応しますが、これも問題ありませんでした。それで、思いのほか早く、ここでの仕事に慣れました。そして、当時のニューヨークのビジネス社会では、すでに日本より女性の地位が上昇している頃でした。それに、寿司レストランの上司や他の男性シェフも、当地での『レディー・ファースト』の習慣を反映してか、香津世に親切な感がありました。

また、海外に出ようという日本人はどこか変わり者が多く、人と同じ路線で競争するより、自分の道を見出そうという姿勢が強いように思えました。それで、東京の寿司店で働いていた時より、女であるという認識をしなくて済むことが多かったのです。

ここで働きだして暫くした頃、アメリカ人の年配の客の一人が、「カッチー、どうして着物を着てないの?」と聞いてきました。ところで、香津世は、英語人に、カッチーと呼ばれています。それで、もうほとんどの日本人は普段着物を着ていないということを説明しなければなりませんでした。ただ、その時に思いついたのです。そうだ、着物はアメリカ人に受けるはずだ。仕事に着れないかな? 店長の浜地に相談してみよう

浜地は少しびっくりしましたが、検討してみようということになりました。当然、香津世は着物など持っている訳はなく、実は、着たことさえなかったので、どこかで仕入れなければなりません。本物の着物は非常に高価だし、ニューヨークで簡単に手に入らないだろうと思い、まずチャイナタウンに行ってみました。そこで、見つかった物は、派手で目立つのですが、どうしても日本的ではなく、すぐに諦めました。

次に、日本人会の紹介で、着物を譲ってくれると言う人を見つけ、尋ねました。その人が持っていたのは本物の着物ですが、色が地味で、アメリカ人には受けないのではと思いました。そして、そこで実際に着させてもらったのですが、とても一人では着れないし、着てしまうと、堅苦しくて、得意の包丁さばきが出来るような代物ではないと察しました。それで、この件は暫くお預けになっていました。

ところが、ある日、客とその事を話していたら、そばで聞いていた日本人の女性が、声を掛けてきました。その人は、裁縫が出来る人で、好みの生地を持って来れば、着物風で、簡単に着れて、尚且つ身動きが十分にとれるものを作ってくれると言うのです。それで、香津世はその人に必要な費用を支払って、一着、特別に着物風の仕事着を作ってもらいました。そして、簡単に付けられる帯と、たすきも作ってもらいました。

着物が出来上がると、まずは店長の浜地に見てもらい、それで仕事も出来ることを伝えました。浜地はたいそう喜んでくれました。最初に着物でカウンターに登場した時は、他のすしシェフや店員はみなかなり驚きました。そして、客の反響は予想以上でした。

これで、器は整いました。香津世の次のステップは、得意の包丁さばきに磨きをかけることでした。これは、東京の寿司店で働いていた時に、土呂が香津世の包丁さばきの事を褒めたことに遡ります。そして、次にヒントを得たのは鉄板焼きです。

その頃までの、米国での日本食といえば、すしか鉄板焼きと相場が決まっていました。ただし、この鉄板焼きというのは、長い鉄の串を刀のように使い、芸をしながら調理すると言ったものです。全く日本的ではありませんが、アメリカではこのようなものが受ける訳です。

香津世は一度そのような鉄板焼きの店に行ったことがあり、そこで、少林寺拳法の技を思い出したりもしました。それで、包丁を使う時にもっと積極的に拳法の技を取り入れて、『見せる』包丁さばきを開拓していきました。カウンターの後ろの狭いスペースで行うので、卓越した時空間感覚と細心の注意が必要な事は勿論です。

こうして、香津世は、いつの間にか、ニューヨークのすし業界で一躍有名なすしシェフになっていました。マンハッタンの日本語新聞紙や現地の新聞にも取り上げられました。働いている寿司レストランの収益も伸び、店長の浜地は香津世の年棒をどんどんと引き上げ、短い時間の間に相当な高給で優遇されるようになったのです。それで、香津世はセントラルパークの近くのやや高級なアパートに移りました。

有名になると、厄介なことも出てきます。客の中には、風俗営業のホステスに対するような按配で執拗に香津世を誘うような人も出てきました。場合によっては、店長の浜地がそんな客に注意しなければならないこともありました。また、客によっては真剣に香津世に惹かれ付き合って欲しいと言うこともありました。ただ、まだ、香津世が真剣になるような相手は現れていませんでした。