勝負は魚で

香津世が日本に戻ってから10年近くになります。残念ながら、その間に、香津世も、矢紗史も配偶者を失いました。オットーは心臓疾患で、志珠香は先天性疾患の影響で亡くなってしまったのです。香津世と矢紗史はお互いに慰め合い、その後も友達として付き合い続けていました。

ある日、矢紗史が香津世に電話をしてきました。
「香っちゃん、少し古い映画なんだけど、見たいのがあって、一緒に行ってくれる?」
「うん。いいよ。なんだか、昔に戻ったみたいだね」

バスを降り、映画館まで歩いている途中、香津世が話し出しました。
「あ~ぁ、矢っちゃん、オットーも志珠香さんも死んでしまったね......。死ぬ時って、どういう感じなんだろう」

「そうだねぇ。あれから、ぼくもそういうことを考えるようになったよ。志珠香の最後は全然苦しそうじゃなかったよね。なんだか、満足しているようにさえに見えなかった? それで、ぼくは、死ぬのがそんなに怖いこととは思わなくなってきたけどね」

「そう? わたしは、まだそこまでは......。それで、わたしが思ったのは、どんなに競争で勝ったって、死ぬときには、何も勝利の証を持っていくことは出来ないってことなんだけど。結局、死ぬときには、何も持っていけない。物も、名誉も、恋人も、友達も、感情も......、何も。それだったら、生きている時には何をしたらいいんだろうね」

「確かに、死んでいく人は何も持っていけない訳だけど......。でも~、ぼくの中には、志珠香の優しさが残っているよ、今でも。だから......、多分......、死んでいくときは、他の人の心の中に何が残っているかが大事なんじゃないかな」

「そうかぁ~。わたしは、死ぬときにでさえ、『自分』が何を持っていけるか、そればかり考えていたんだ。自分勝手で、欲張りだよね! そして......、矢っちゃんの今言ったことは......、生きている時に一番考えなくてはいけないのは......、えーと......、自分の事よりも......、周りの人々の事? でも、どうやって?」

「ん~、そうだなぁ~......。ぼく達だって、いつ死ぬか分からないよね。だから......、いつもいつも、今の瞬間に死ぬことを覚悟していたら......、そして、香っちゃんが言うように、物でも気持ちでも、何も持っていけないんだったら......、他の人に残していくしかないかもね」

「矢っちゃん、それ......、了得の境地だね。矢っちゃん......、凄いね! わたし......、もっと昔にそのことに気が付いていたら、......」

二人は、新海監督の『君の名は。』を見て、それから、一緒に食事をしました。バスで帰ってくる時は、道が混んでいて、少し時間がかかりました。そして、年を取ってきたためか、久々に街中まで出た疲れで、香津世はうとうとし、仕舞には矢紗史に寄りかかって寝入ってしまいました。zzz......。