勝負は魚で

香津世の働く魚屋には、もう一人同時期に弟子入りした、中学卒の男子がいます。矢紗史という名前で、どうやら、中学時代さっぱり勉強が出来なかったし、運動神経も鈍いようでした。矢紗史は、一生懸命働くのですが、どうしても、間違いや失敗が多く、店主や先輩に注意されることが多いのです。

香津世は、初めは、自分が矢紗史よりもよく仕事が出来る事を誇らしく思っていました。ところが、あまりにいつもいつも、自分の方が良く出来ると、もう競争する気は消え失せてしまいました。そして、矢紗史が気の毒にさえなってきたのです。この人はどうして、ここまで抜けているのだろう? と思いました。

魚屋には共同作業がたくさんあります。それで、矢紗史がのろのろしていると香津世の作業にも影響が出てくることがあります。それでは自分も困るので、香津世は少しずつ、矢紗史を手伝うようになりました。それに、作業を早く、的確にするコツを教えたりすることもありました。矢紗史はいつも香津世に感謝し、申し訳なさそうにするのでした。そして、魚屋での二人だけの同期ということもあり、二人はそれなりに仲良くなっていきました。

仕事を初めて何か月か経った頃、矢紗史が香津世に照れ臭そうに話しかけてきました。
「香っちゃん、実は頼みがあるんだけど」
「何?」
「見たい映画があるんだけど、なんだか一人で映画に行くのって恥ずかしくて~。嫌だったらいいんだけど~、一緒に行ってくれるかな~?」
「えー! それって、デートのお誘い?」
「ううん、そうじゃないよ。ただ、一緒に行ってくれればいいんだ。お金は、ちゃんと出すよ」
「分かったよ。いいよ。いつ?」

映画の日、二人は魚屋の前で待ち合わせてバスに乗って街中まで出かけました。途中、矢紗史がホッとしたという感じで話し始めました。
「香っちゃんは優秀だから、ぼくみたいなろくでなしとは出歩いてくれないと思ったよ」
「わたし、もう中学時代の友達と付き合わなくなっちゃって、寂しかったんだ。矢っちゃんが誘ってくれて、嬉しかったよ。矢っちゃんは、いつも一生懸命だし、いい人だから。でも、確かに仕事は大変そうだよね。それで、ちょっと手伝ってあげないと、と思ってしまう。それに、背が低いし、言っちゃ悪いけど、なんだか弟みたいな感じがしちゃって、可愛い。でも、いい友達と思っているよ」
「分かっているよ。ぼくは......、香っちゃんのこと......。でも、友達でいてくれるだけで嬉しいよ。邪険にされないだけで、嬉しいんだよ」

映画の後、二人でその辺をぶらぶらと歩いている時のことです。
「ね~、矢っちゃん。これはデートじゃないし、わたし達、恋人でもない訳だけど、手ぐらい繋いでもいいよ」
「えっ?! ん~、それは~、嬉しいんだけど......。もし、手を繋いだら、肩を組んだり、もっと近づきたくなっちゃうと困るから、しない方がいいと思う。香っちゃんは女だから分からないかもしれないけど、男は体の一部だけ言うことを聞かなくなることがあるから」

「そうなの? じゃ、手はつながないし、体には触らないっていうことにしようか」
「それでいいよ。そのほうが、いいよ。それでも......、ぼく達、友達だよね?」
「当り前じゃない。二人だけの『魚屋高校』同期生だし」
「良かった。そして~、一生友達でいてくれる?」
「うん。一生友達でいようね。ねぇ、そこの喫茶店で休んでいこうよ」

その後、バスで帰ってくる時、道が混んでいて、少し時間がかかりました。週六日、比較的長時間働いている二人には少し疲れがでて、眠気が襲いました。初め、コクコクしていた香津世はすっかり寝入ってしまい、いつの間にか横に座っていた矢紗史の方に寄りかかっていました。zzz......。

「香っちゃん、着いたよ」
香津世は、バス停に着く少し前に矢紗史に起こされました。そして、まだ眠そうな香津世を、矢紗史が家まで送ってくれました。それからは、毎週ではありませんでしたが、二人は、よく日曜に出かけることがありました。おそらく、他の人が見たら、デートだと思ったに違いありません。

さて、香津世がその魚屋で三年と少し働いた頃、店主から声を掛けられました。知り合いの準一流寿司店の店長が住み込みの職人見習いを探しているとのことです。香津世の働きぶりを見て、推薦したいと言うのです。香津世はその場で了解し、店主に厚くお礼を言いました。香津世が魚屋を去る日、店主は香津世の送別会をしてくれました。