勝負は魚で

香津世と都喜夫が矢紗史の家に滞在している間、都喜夫の不貞腐れた態度で、みんなどうしても爽やかな気分になることが出来ませんでした。香津世はとても悲しい気持ちがしました。矢紗史は二人を呼び戻したことが良かったかどうか疑問にさえ思いました。

ところが、数日後に都喜夫の気分が変わる切っ掛けがありました。それを作ったのは、都喜夫より二歳年下の安美香でした。
「都喜夫、私、学校の英語の問題で分からないことがあるんだけど、教えてくれる? 私の部屋に教科書があるから」
都喜夫は少しびっくりしたようですが、年下の女性に頼まれて断る訳にもいかず、安美香の後をついて行きました。

後に残った三人は、顔を見合わせてため息をつきました。安美香の部屋の中からは、確かに都喜夫が安美香に英語を教えている様子が聞こえてきました。香津世は、矢紗史と志珠香に囁くような声で言いました。
「矢っちゃん、志珠香さん、ほんとにどうもありがとう。安美香ちゃんは二人の良い所を受け継いだ天使のような人だね。都喜夫にとって、安美香ちゃんが唯一の救いのような気がする」
矢紗史がすぐに答えました。
「都喜夫が少しでも落ち着いてくれれば嬉しいよ。安美香は、都喜夫が来るのを心から待ち望んでいたんだよ。『会ったことはないのに、なんだかよく知っているような気がする』って言っていたんだ」

平日の昼間は、矢紗史と志珠香は今や小さなスーパーを兼ねた魚屋に、安美香は高校にと行ってしまうので、香津世と都喜夫だけが残されます。ある時、めったに話をしていなかった都喜夫が香津世に話しかけました。
「マミー、安美香に頼まれて英語を教えてる訳だけど、あの子、凄くいい子だね」
「そう?」
香津世は、ほんとは、「当たり前じゃない。矢っちゃんと志珠香さんの子供だよ!」と言いたかったのですが、すこしとぼけてみました。
「それで?」

「ちょっと考えたんだけど、僕、安美香に日本語教えてもらえるかなぁ? その~、読む事と書く事なんだけど。これから日本で暮らすのにそれが出来ないとまずいよね」
「それはそうよ。だから、わたしが、あなたを日本語補習校に入れたんじゃない。それを辞めちゃってさ」
「あの時と今は違うよ。マミーだって仕事辞めちゃったじゃない」
「好きで辞めた訳じゃないでしょ。それに、もうすぐ、何か始めるわよ。ところで、安美香ちゃんに日本語の読み書きを教えてもらいたいんだったら、自分で頼んでみたら?」
それで、都喜夫と安美香はお互いに苦手なところを教え合うという事になりました。

帰国当初、香津世は近くにアパートを探そうとしていました。ところが、都喜夫と安美香が言葉の教え合いを続けたいというので、当面、都喜夫を矢紗史の家の客間に滞在させてもらうことにしました。そして、香津世は自分の両親の所に滞在することにしました。香津世の両親は、以前住んでいた家は売り払い、今は、年長者を対象にした小さなマンションに住んでいます。

日本に戻ってくる時、香津世は、そこに都喜夫と二人で滞在するのは現実的ではないと思っていました。それで、矢紗史の所に滞在させてもらったのです。ただ、自分一人だったら、両親の所に滞在するのは良いかもしれないと思い始めたのです。そして、都喜夫に言ったように、何かしら仕事を探さないと、と思っていました。