勝負は魚で

都立高校の入学試験日の朝、香津世は38.9度の高熱を出してしまいました。両親が車で試験会場まで送ってくれ、何とか試験を受けたことは受けました。ところが、熱で頭はもうろうとし、悪寒で体はぞくぞくして、とても試験問題どころではありませんでした。それで、試験が終わった時には、もう覚悟が出来ていました。

それは1970年代中盤でした。香津世はその学区で一番難関の都立高校を志望していたのです。中学の内申書は最高レベル、模試の結果もいつも最高点近くだったので、誰もが合格は間違いないと思っていました。そして、香津世はその高校にしか行くつもりはなかったので、滑り止め校はひとつも受けていませんでした。

それで、試験の後、学校側と両親は、急きょ、どこかの私立高校に特別に入れないかということを考え始めました。ところが、香津世は志望校以外には絶対に行かないと言い張ります。仕方がないので、両親は浪人という可能性も聞いてみました。香津世はこれにも応じませでした。

香津世は、今まで、成績も抜群、運動もよくでき、中学校には珍しい少林寺拳法部でも活躍してきました。これからは、一流の高校に入り、一流の大学に入り、一流の企業に就職することを当たり前と思っていました。当然、これは両親の希望でもありました。両親の名前は成一と一美と言い、二人とも何でも一番でなければいけないと思っているような人たちでした。

そんな香津世にとって、高校入試の失敗がすでに人生の失敗として映ったのは当然のことです。そのような場合、人によっては心の病を患ってしまったり、自殺を考えたりしてしまうかもしれません。しかし、香津世はそうではありませんでした。

香津世は思いました。わたしは、人生の最初の関門で負けてしまった。もう、考えていたような人生を送ることは出来ない。それでも、わたしはまだ死にたくないし、どん底まで落ち込みたくもない。強く生きて行かなくてはならない。それに、わたしには能力がある。それを使って、違う人生を考えよう。それは、土俵外には違いないが、それでも、まだ勝負所はいくらでもあるはずだ。そこで、勝つ事が出来るはずだ。わたしは絶対に勝ち抜くんだ!

そう心に決めてからは、自分でいろいろと調べ始めました。そして、この時点で、もう両親には相談しないことにしました。それは、両親には普通のエリートコースの事しか頭にないし、理解できないと察していたからです。

当然、中学卒業で出来る仕事には限りがあります。また、そのような仕事が高給な訳もありません。その上、残念ながら、当時は、女性にとって今よりさらに不公平な時代でもありました。それで、いずれにしても、理想的な職業が見つかる訳はありません。出来る範囲で、納得のいく仕事を探さなければならなかったのです。香津世は誰にも理由を言いませんでしたが、自分なりの決断をし、両親に告げました。両親は驚きましたが、他に名案がある訳でもなく、反対は出来ませんでした。こうして、香津世は近所の魚屋に弟子入りしたのです。