星のないエッグコーヒー

店に一歩足を踏み入れた途端、いくつもの香りがふわりと鼻先をかすめた。
香ばしく焼けた肉。甘辛いタレ。それに、名前の分からない香辛料や香草の匂い。

「いらっしゃいマセ」

奥から、少し訛りのある女性の声がした。

恵美が後ろ手に扉を閉める。
からん、と背後でもう一度ベルが鳴った。

外から見た印象とは違い、店内は明るく、きれいだった。

木目のテーブルがゆったりと並び、奥では若い女性二人が恵美には聞き取れない言葉で話している。

その手前では、年配の男性が一人で麺をすすっていた。

恵美は店内を見渡した。

西村の姿は、ない。

『昼休みとか、仕事帰りとか、よく一人で行くんです』

――べつに、今日も来るとは一言も言っていなかったしね。

それなのに。

なんで探した、私。

「お好きな席へ、ドーゾ」
「あ、はい」

店員に声をかけられ、恵美は慌てて窓際の席へ向かった。

テーブルの上に置かれたメニューを手に取る。

探すまでもなかった。

一枚目の、一番上。
大きな写真と一緒に、【エッグコーヒー】の文字が載っている。

透明なグラスの下半分には、濃い茶色のコーヒー。
その上には、淡い黄色のクリームのようなものが、ぽってりとのっていた。

クリームと言われれば、そう見える。
けれど、たまごだと知って見ると、なんとも不思議だ。

「……これ、本当においしいのかな」

気づけば、バッグからスマートフォンを取り出していた。

検索窓を開き、いつものように文字を打つ。

『エッグコーヒー 味』

そこまで入力して、指が止まった。

『おいしいんですよ』

楽しそうに話していた西村の顔が浮かぶ。

恵美はもう一度、画面を見た。

『エッグコーヒー 味』

まだ、検索はしていない。

知らないまま飲んでみるのも、悪くないのかもしれない。

恵美は入力した文字を消した。

「すみません」

声をかけると、店員がすぐにやってきた。

「エッグコーヒーを一つ、お願いします」
「はい。エッグコーヒーですね」

スマートフォンをバッグへ戻し、恵美はファスナーをしっかり閉めた。

   ***

「お待たせしました。エッグコーヒーね」

恵美の前に、小さなガラスのカップが置かれた。

「ありがとうございます」

思っていたより、ずっと小さい。

厚みのある透明なカップの下半分には、光をほとんど通さないほど濃い焦げ茶色のコーヒー。
その上には、淡い黄色のクリームが、縁ぎりぎりまでぽってりとのっている。

メニューの写真でも見た。
西村からも聞いていた。

それでも、実物を目の前にすると妙な迫力があった。

顔を近づけてみる。

深く煎ったコーヒーの香ばしい匂い。
その奥から、ミルクや砂糖を思わせる甘い香りがふわりと漂った。

「……いい匂い」

さて。

問題は、これをどう飲むのか、だ。

上のクリームを先に食べるのか。
そのままカップに口をつけるのか。
それとも、全部混ぜるのか。

メニューには何も書かれていない。

検索すれば、一瞬で分かる。

恵美はバッグへ目をやった。

けれど、スマートフォンを取り出すのはやめた。

まあ、いいか。
飲み方くらい、自分で試してみよう。

とりあえず、これを使ってみよう。

恵美はカップに添えられたスプーンを手に取った。

銀色の先端を、淡い黄色の表面へそっと差し入れる。

思っていたより重い。

泡のように消えるでもなく、プリンのように固くもない。
ひとすくいすると、淡い黄色のクリームが丸みを保ったまま、ぽってりとスプーンにのった。

「へぇ……」

口へ運ぶ。

「ん……」

まず、しっかりとした甘さが広がった。

練乳の濃厚な甘みに、卵黄のまろやかなコク。
見た目よりずっと濃密で、舌の上でとろりとほどけていく。

西村の言った通り、たしかにプリンに少し似ている。

これだけでも、じゅうぶんおいしい。

けれど、主役はコーヒーのはずだ。

今度はスプーンをカップの底まで差し込み、濃いコーヒーごとすくい上げる。

黄色いクリームに、焦げ茶色のコーヒーが絡んだ。

そっと口へ運ぶ。

「わぁ……おいしい……」

思わず声が漏れた。

クリームだけでは少し強かった甘さが、濃いコーヒーと合わさるとちょうどいい。

強い苦みも、たまごと練乳のまろやかさに包まれて、やわらぐ。

コーヒーなのに、デザートみたいで。
デザートみたいなのに、ちゃんとコーヒーだ。

もう一口。

やっぱり、おいしい。

次はカップに直接口をつけてみた。

ぽってりとしたクリームが唇に触れ、その隙間から熱いコーヒーが流れ込んでくる。

これもいい。

その次は、スプーンで底から大きく混ぜてみる。

淡い黄色のクリームと焦げ茶色のコーヒーが渦を描き、少しずつ柔らかな褐色へ変わっていった。

「うん。イケる」

どう飲むのが正解なのかは、結局分からない。

けれど、もう気にならなかった。

上のクリームだけをすくっても。
コーヒーと一緒に味わっても。
混ぜて飲んでも。

それぞれ少しずつ違って、それぞれおいしい。

恵美はカップの中をのぞいた。

最初はくっきりと分かれていた二つの色が、今ではすっかり混じり合っている。

「……これ、好きかも」

カップに口をつけ、ゆっくりとすすった。

『おいしいんですよ』

そう言って笑った西村の顔が浮かんだ。