一通り工場内を巡り、確認を終えたところで、少し休憩を挟むことになった。
案内されたのは、製造棟の隅にある小さな休憩室だった。
「コーヒーでいいですか。ほかにも紅茶と緑茶と水があります」
給湯器の前に立ち、西村が振り向く。
「では、コーヒーをお願いします」
西村は紙コップにコーヒーを注ぎ、恵美の前に置いた。
自分の分も淹れて向かいの席へ腰を下ろすと、ふと思いついたように目を細めた。
「コーヒーといえば。鈴鹿さん、エッグコーヒーって知ってます?」
「エッグコーヒー?」
「はい」
「たまごのコーヒー、ですか?」
「そうです。ベトナムのコーヒーなんですけど。濃いめのコーヒーの上にたまごがのってるんです」
「たまごが」
「あ、生卵をそのまま落とすわけじゃないですよ」
「それはさすがに分かります」
「ですよね」
西村が笑う。
それにしても、だ。
コーヒーにたまご。
「それ……おいしいんですか?」
恵美が眉をひそめると、西村の目が輝いた。
「そう思うでしょう? でもね、これがなかなかイケるんですよ。たまごをクリームみたいに泡立ててあって、それがふんわりと、というか、ぶわっと? 乗ってるんです。なんていうか、プリンみたいで。おいしいんですよ」
西村の口調が急に早くなる。
工場内で品質管理について説明していたときより、明らかに声が弾んでいる。
身振り手振りを交えながら語る顔は、実に楽しそうだ。
恵美がぽかんと見ていることに気づいたのか、西村は「あ」と口を閉じた。
「すみません。言葉だけで聞くと、そうなりますよね。コーヒーにたまごって、なんだそれって思いますよね」
いや。
驚いているのは、コーヒーにたまごを入れることより、あなたが急にこんなに喋り出したことなのだけれど。
口にしかけた言葉を呑み込み、恵美はひかえめにうなずいた。
「でもね、本当においしいんですよ」
懲りずにもう一度言って、西村は笑った。
その顔を見ながら、恵美は特急の中で昼食を探していたときのことを思い出した。
そういえば、検索結果にベトナム料理の店が混じっていた。
「この辺りって、ベトナム料理のお店が多いんですか?」
「ありますね。けっこう。この辺、ベトナムから働きに来てる人も多いですから」
そう言われて、恵美は工場内で見かけた人たちを思い出した。
「ここから駅に戻る途中にも、一軒ありますよ。僕がよく行く店なんですけど、おすすめです」
そうなのか。
ここに来る時は、迷わずに時間通りにたどり着くことに必死で、どんな店があるかなんて見る余裕がなかった。
「見た目はちょっと入りにくいかもしれないですけど、中はきれいですよ。昼休みとか、仕事帰りとか、よく一人で行くんです」
「へぇ……」
熱のこもった語りを聞きながら、恵美はスマートフォンを取り出した。
「なんていうお店ですか?」
店名を聞いて検索すると、それらしい店はすぐに見つかった。
現在地と近鉄四日市駅の、ちょうど中間あたり。
写真に写った店は古びた建物の一階にあり、日本語よりもベトナム語の看板の方が目立っている。
たしかに、初めて一人で入るには少し勇気がいりそうだ。
「ありました?」
「ありましたけど……」
恵美は画面を見つめた。
「クチコミ、一件もないですよ」
「ふーん。そうなんですか」
西村はきょとんとしている。
「そうなんですか、って」
恵美は思わず顔を上げた。
「クチコミ、気になりませんか?」
「うーん、べつに」
「でも、人に勧めるくらいなんですよね?」
「はい。僕が好きなんで」
西村はなんでもないことのように笑い、紙コップのコーヒーを一口啜った。
***
休憩のあと、残っていた確認事項を済ませて管理棟へ戻った。
西村は、工場内で「確認します」と答えた項目についても、ひとつずつ回答してくれた。
「では、僕からの説明は以上です」
西村が立ち上がる。
「鈴鹿さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。細かいことまでたくさん聞いてしまって」
「いえいえ。それが僕の仕事ですから」
西村が目尻を下げて笑った。
「帰り、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
「あ、エッグコーヒーも、機会があったらぜひ」
最後にそれを言うのか。
恵美は思わず笑った。
「覚えておきます」
「ぜひぜひ」
満足そうにうなずいて、西村は会議室を出ていった。
その後、東京本社の上司ともオンラインでつないで最終確認を行い、東海パッケージとの取引開始に向けて社内手続きを進めることが決まった。
ぶじ任務完了だ。
会議を終えるころには、窓から差し込む日差しも傾いていた。
資料とノートパソコンを片づけていると、営業担当者が声をかけてきた。
「駅までタクシーをお呼びしましょうか」
「ありがとうござい……いえ、大丈夫です」
反射的に答えかけて、恵美は時計を見る。
予約している特急の時間までは、まだ一時間以上ある。
「駅まで歩いてみようかなと思って」
「そんな、遠慮なさらずに。駅までけっこうありますよ」
「でも、ちょっと歩いてみたくて」
営業担当者に礼を言って工場を出る。
西日の照り返す歩道を、恵美は駅に向かって歩き出した。
急ぐ必要はなかった。
案内されたのは、製造棟の隅にある小さな休憩室だった。
「コーヒーでいいですか。ほかにも紅茶と緑茶と水があります」
給湯器の前に立ち、西村が振り向く。
「では、コーヒーをお願いします」
西村は紙コップにコーヒーを注ぎ、恵美の前に置いた。
自分の分も淹れて向かいの席へ腰を下ろすと、ふと思いついたように目を細めた。
「コーヒーといえば。鈴鹿さん、エッグコーヒーって知ってます?」
「エッグコーヒー?」
「はい」
「たまごのコーヒー、ですか?」
「そうです。ベトナムのコーヒーなんですけど。濃いめのコーヒーの上にたまごがのってるんです」
「たまごが」
「あ、生卵をそのまま落とすわけじゃないですよ」
「それはさすがに分かります」
「ですよね」
西村が笑う。
それにしても、だ。
コーヒーにたまご。
「それ……おいしいんですか?」
恵美が眉をひそめると、西村の目が輝いた。
「そう思うでしょう? でもね、これがなかなかイケるんですよ。たまごをクリームみたいに泡立ててあって、それがふんわりと、というか、ぶわっと? 乗ってるんです。なんていうか、プリンみたいで。おいしいんですよ」
西村の口調が急に早くなる。
工場内で品質管理について説明していたときより、明らかに声が弾んでいる。
身振り手振りを交えながら語る顔は、実に楽しそうだ。
恵美がぽかんと見ていることに気づいたのか、西村は「あ」と口を閉じた。
「すみません。言葉だけで聞くと、そうなりますよね。コーヒーにたまごって、なんだそれって思いますよね」
いや。
驚いているのは、コーヒーにたまごを入れることより、あなたが急にこんなに喋り出したことなのだけれど。
口にしかけた言葉を呑み込み、恵美はひかえめにうなずいた。
「でもね、本当においしいんですよ」
懲りずにもう一度言って、西村は笑った。
その顔を見ながら、恵美は特急の中で昼食を探していたときのことを思い出した。
そういえば、検索結果にベトナム料理の店が混じっていた。
「この辺りって、ベトナム料理のお店が多いんですか?」
「ありますね。けっこう。この辺、ベトナムから働きに来てる人も多いですから」
そう言われて、恵美は工場内で見かけた人たちを思い出した。
「ここから駅に戻る途中にも、一軒ありますよ。僕がよく行く店なんですけど、おすすめです」
そうなのか。
ここに来る時は、迷わずに時間通りにたどり着くことに必死で、どんな店があるかなんて見る余裕がなかった。
「見た目はちょっと入りにくいかもしれないですけど、中はきれいですよ。昼休みとか、仕事帰りとか、よく一人で行くんです」
「へぇ……」
熱のこもった語りを聞きながら、恵美はスマートフォンを取り出した。
「なんていうお店ですか?」
店名を聞いて検索すると、それらしい店はすぐに見つかった。
現在地と近鉄四日市駅の、ちょうど中間あたり。
写真に写った店は古びた建物の一階にあり、日本語よりもベトナム語の看板の方が目立っている。
たしかに、初めて一人で入るには少し勇気がいりそうだ。
「ありました?」
「ありましたけど……」
恵美は画面を見つめた。
「クチコミ、一件もないですよ」
「ふーん。そうなんですか」
西村はきょとんとしている。
「そうなんですか、って」
恵美は思わず顔を上げた。
「クチコミ、気になりませんか?」
「うーん、べつに」
「でも、人に勧めるくらいなんですよね?」
「はい。僕が好きなんで」
西村はなんでもないことのように笑い、紙コップのコーヒーを一口啜った。
***
休憩のあと、残っていた確認事項を済ませて管理棟へ戻った。
西村は、工場内で「確認します」と答えた項目についても、ひとつずつ回答してくれた。
「では、僕からの説明は以上です」
西村が立ち上がる。
「鈴鹿さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。細かいことまでたくさん聞いてしまって」
「いえいえ。それが僕の仕事ですから」
西村が目尻を下げて笑った。
「帰り、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
「あ、エッグコーヒーも、機会があったらぜひ」
最後にそれを言うのか。
恵美は思わず笑った。
「覚えておきます」
「ぜひぜひ」
満足そうにうなずいて、西村は会議室を出ていった。
その後、東京本社の上司ともオンラインでつないで最終確認を行い、東海パッケージとの取引開始に向けて社内手続きを進めることが決まった。
ぶじ任務完了だ。
会議を終えるころには、窓から差し込む日差しも傾いていた。
資料とノートパソコンを片づけていると、営業担当者が声をかけてきた。
「駅までタクシーをお呼びしましょうか」
「ありがとうござい……いえ、大丈夫です」
反射的に答えかけて、恵美は時計を見る。
予約している特急の時間までは、まだ一時間以上ある。
「駅まで歩いてみようかなと思って」
「そんな、遠慮なさらずに。駅までけっこうありますよ」
「でも、ちょっと歩いてみたくて」
営業担当者に礼を言って工場を出る。
西日の照り返す歩道を、恵美は駅に向かって歩き出した。
急ぐ必要はなかった。
