春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 昼休みの終わり際。
 もらった小さな箱と手紙の入ったクラフト紙の袋を提げて、春希は教室へ戻った。
 春希の席の向かいで、雪がひとりで弁当を食べていた。

「おかえり。先に、頂いてる」
 振り返った雪は、戻ってきた春希の顔を見てから、その手にある紙袋へ目をやった。そして何も聞かず、静かに視線を手元の弁当箱へ戻した。

「あ、ああ。俺も食う」
 春希は手にした紙袋を自席の引き出しの奥へ差し入れ、急いで自分の弁当を広げた。

 予鈴が鳴るまで、二人は黙々と昼食を進めた。
 呼び出しの相手が誰だったのか、結果がどうだったのかについて、雪が春希に問いかけてくることはなかった。

 午後の授業が始まる。
 暖房の効いた教室に教師の単調な声が響く中、春希は教科書の陰で、引き出しの奥からそっと手紙を引っ張り出した。

 便箋の七割ほどが、大人びた文字で埋められていた。
 そこには、春希に対する好意が、誤解のしようもなく綴られていた。

 普段の静かな雰囲気や、友達のために一生懸命になれる優しいところに惹かれていること。そして、もし嫌でなければ、お付き合いできたら嬉しいということ。

 まるで国語の教科書に出てくるような、真っ直ぐで清廉な文章だった。

「……あ」
 読み終えた瞬間、記憶の糸が、不意にある場面へと繋がった。

 図書室のパーテーション越しに立ち聞きしてしまった、女子たちのバレンタイン話。春希の名前を挙げて「安心できる」と控えめに笑っていた、あの女子生徒の声――。

「っ」
 春希は思わず手で口元を覆い、喉までせり上がったものを飲み込んだ。
 この手紙を読む瞬間まで、図書室での一件を完全に忘れていた。

 以前の自分なら、女子の口に自分の名前が挙がることなど、天変地異に等しい大事件だったはずだ。

 それなのに――あの日から今日まで、頭の中には、ただ雪しか存在していなかった。

「……」
 春希はゆっくりと便箋を閉じ、開いていたノートのページに挟んで隠した。

 ちらりと黒板の方へ顔を上げると、その延長線上にいた三田と、一瞬だけ目が合った。彼女は恥ずかしそうに小さくはにかんでから、慌てて教壇の方へ顔を向け直した。

 横を見れば、雪は廊下側へ顔をそらしたまま、俯いて動かなかった。



「バレンタインもいいけど、あまり遅くならないようにな」
 教壇に立つ青木先生の言葉に、クラスのあちこちから小さな笑い声が漏れた。
 ほぼ同時に、放課後の始まりを告げるチャイムが校舎に鳴り響く。

 途端に、朝から落ち着きのない様子だった何人かの女子や男子たちが、いそいそと鞄を掴んで教室を出ていった。数人の女子グループが「先輩んとこ、いこっ」と浮かれた声で連れ立ち、廊下へ飛び出していく。

 賑やかな教室の後方で、雪はロッカーを開けた。
 三つの大判エコバッグが詰め込まれている。
 どれも色とりどりのチョコレートの包みでパンパンに膨れ上がっており、少し整理しなければ持ち帰ることが難しそうだ。

 春希は鞄を机に残したまま、ロッカーの前で立ち尽くす雪の後ろを通り過ぎる。
「すぐ戻る」
「――え、う、うん」
 戸惑う声を背中で聴きながら、春希は振り返ることなく教室の扉を抜けた。

 昼休みにも訪れた、特別教室棟一階の奥にある空き教室。
 春希が足を踏み入れると、夕暮れに傾いた光の中に、三田が立っていた。

「牧野君」
 足音に気づいて振り向いた三田の小さな手には、破いたノートを折りたたんだメモが握られていた。

「遠回りなのに、ごめん」
「ううん」

 春希は、窓際で待つ三田のもとへ歩を進めた。
 今度は逃げずに目を見て。

 子犬のような三田の双眸が二回瞬く間に、春希は椅子二つ分の距離をあけて立ち止まった。

「チョコと手紙、ありがとう。……授業中に、こっそり読んだ」
 言葉を切って、春希はメガネのフレームの内側で、目を伏せた。

 ひんやりとした沈黙が落ちる。
 短く息を吸い込み、春希は再び口を開いた。

「嬉しかった、けど……俺、好きな人がいる」
 春希は深く頭を下げた。

 視界が薄暗い床板だけになる。
 幹線道路から響く車の走行音と、下校していく生徒たちの声が頭上を流れた。

 数秒の後に頭を戻すと、微かに潤んだ双眸が春希を見つめていた。
 唇をきゅっと噛み締め、無理に口角を引き上げて微笑みを作って。

「お返事、ありがとう。……あ、お返しとかは、いらないから」
 胸元で、手にしたメモがぎゅっと握り込まれ、くしゃりとよれた。

「――じゃあ、またね」
 小さく会釈して、三田は小走りで春希の脇を通り抜けた。

「……」
 廊下を遠ざかっていく上履きの音が消えるまで、春希は振り返らなかった。



 生徒たちの気配が消えた薄暗い廊下を歩き、春希は一年B組の教室へと戻った。
 後ろの扉を開けると、そこには雪だけが残っていた。
 オレンジ色の光の中で、雪の色素の薄い肌が淡く輝いている。

「おかえり、春希」
 扉の音に振り向いた雪が、微かに目を細める。

 雪の机の上には、中身が詰まった大判のエコバッグが三袋、どっしりと並んでいた。
「ちょうど、整理が終わったところ」

 春希は教室の入り口に立ったまま、無言で雪を見つめ続けた。

「……えっと、春希の方は……その、用事はもう、いいの?」
 間を持て余し、雪がわずかに目を泳がせる。

 春希はゆっくりと教室の中へ足を踏み入れ、雪の方へ。
 手を伸ばせば届く距離で、立ち止まる。
 一度だけ目を伏せてから、まっすぐに雪の揺れる瞳を見つめた。

「俺、雪が好きだ」

「え?」
 あまりに唐突な告白に、雪の声がひっくり返った。

 また、数秒の沈黙。

「え、でも、その、呼び出しのあった子は?」
「断った」
「なんで!?」

 春希はわずかに首を傾げる。
「なんでって……俺は、雪のことが好きだから」

 そのまま返された言葉に、雪は慌てて首を振った。
「男からの告白なんて嫌だって」
「俺は嫌だって言ってない」
「あれ……そう……だっけ?」
「あと一ヶ月だけってのも、了解してない」
「で、でも、春希は何も言わなかった!」

 戸惑いが、雪を後ずさりさせる。
 脚が机にぶつかり、エコバッグの山から溢れ出たチョコレートの小箱が、一箱、二箱と床へ転がり落ちた。

「言ったよね、僕、春希に同情されたくないって――」
「違う」

 春希は一歩踏み込み、逃げ場を失って強張る雪を、背中ごと覆うように抱きしめた。

「好きだ」
 乾いた喉を通った声が掠れる。

 しばらく、春希は腕の中に雪の体温を閉じ込めた。
 川から助け上げたとき以来だ。ブレザー越しの痩せた体が、小刻みに震えている。

「本当……?」
 雪の両手が、春希のブレザーの背中を頼りなげに握りしめた。

「本当」
「でも、春希は、優しいからな〜……」

 強張っていた力が少しずつ抜け、春希の腕の中で照れくさそうに雪がもぞりと動いた。

「……」
 春希はいったん腕の力を緩め、雪の体からゆっくりと離れた。

「春希……?」
 不安げに見上げてくる雪の目の前で、春希はメガネを外し、傍らの机の上へ無造作に置いた。

 境界のなくなった春希の顔を、雪がじっと見上げる。
 遮るもののない距離を、どちらからともなく、埋めていく。
 少しだけ顔を傾けて――唇が触れ合った。

「……っ」
 雪の喉からひび割れた小さな呼気が漏れた。
 春希は指先を、柔らかい頬に添える。
 雪は逃げなかった。
 押し当てた唇は柔らかく、少し乾燥していた。

 やがて、静かに唇が離れた。

「春希……」
「同情じゃない」

 冬の夕日を浴びて琥珀色に染まる瞳が、お互いのぎこちない顔を映し合う。

「同情でこんなん……できないし」
 空気に耐えきれなくなり、春希は机の上のメガネを探り当てて、かけ直した。

「はる、き……」
「――うん?」

 どん、と胸元に軽い衝撃が当たる。
 雪の両腕が春希の首元へ、もつれるように巻きついた。
 机の上に積まれていたチョコレートの山が雪崩れ落ちていく。

「はるき……、はるき、はるき……」
 耳元で、縋るように何度も自分の名前が繰り返される。

「うん」
 春希は短く息を吸い込み、雪を強く抱きしめ返した。

「雪」
 緊張で固くなっていた雪の体が、一瞬のあと、腕の中でゆっくりと熱を持っていく。

 誰もいない放課後の教室。
 夕日の赤が少しずつ濃さを増していく中で、床に散らばった無数のチョコレートの甘い匂いが、重なり合う影を包んだ。