春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 二月に入ると、年末年始にかけて受けた模試の結果が次々と返却され始めた。
 第三志望の私立大学はEからD判定に上がったものの、第一志望である国立の工科大学は変わらずE判定のまま。それが、春希の現在地だった。

「秋はEEEのゾロ目だったんだから、進歩よ進歩!」
 食卓で母の秋子が両手を叩いて明るく言ったが、その声は乾いた冬風のごとく、春希の耳を素通りしていった。

「今後、一歩でも後退したら終わりだと思え」
 そう低く言い捨てた父・冬人は相変わらずシビアだったが、今の春希には、その厳しい響きの方がよほど腹に落ちた。

 腹の底に重いものを抱えた春希とは裏腹に、二月の教室の空気は、近づくバレンタインデーの話題でどこか浮ついていた。
 休み時間の中央の島では、数人の女子グループが机を囲み、誰に聞かれるともなく声を弾ませている。

「今年、誰が一番チョコもらうかなー」
「えー、遠野君でしょ。絶対めっちゃ来るって」
「でも上級生票が少ないんじゃない?」
「ねえねえ、ミサは誰にあげたいとかあるの?」

 無遠慮に広がる声に、外周にいた男子の一部が「そういう話は俺らがいないところでやれよ」と茶化した。

「あんたたちは対象外だから安心して」
 女子の一人が手を振ってあっさりと切り返し、どっと笑い声が起こる。

 春希はその騒がしい空間に背を向け、窓の桟に肘をついて冬の空を眺めていた。
「雪、人気ランキングの候補に入ってるみたいだぞ」
 隣に並んで一緒に外を眺めていた雪へ、春希は首だけを動かして耳打ちした。

「僕そんなモテるタイプじゃないってば」
 雪が少しだけ首をすくめて、小さな声で返す。

「火力のある謙遜だな」
「ほんとだってば。春希こそ――心当たり、ない?」

 冗談めかして笑いかけてきた雪の口元から、ふっと笑みが消えた。

「俺? そんなのあるわけないだろ」
 春希は短い苦笑いを漏らした。周りが色気付き始めた頃から、その手の話題とは無縁だった

「――なら、いいけど」
 雪が視線を外し、窓の外へ顔を向ける。

「ん?」
 春希が問い返そうと口を開きかけた時、午後一番の授業を知らせる予鈴が、喧騒を断ち切るように高く鳴り響いた。



 四限が終わり、昼休みに入る。
 弁当を広げる者や購買へ走り出す者で教室が騒がしくなる中、春希は鞄から数冊の参考書を取り出して、雪へ声をかけた。

「俺、本返してから行くから、先いってて。空き教室んとこ」
 雨や冬の間、昼食は中庭が見える空き室を使っていた。

 かつては普通の教室として使われていたが、今は予備の机や椅子が並べられているだけの空間だ。灯りもエアコンも使えないが、他の生徒が寄り付かず、二人にとっては居心地の良い場所だった。

「分かった」
 教室を出て、二人は廊下を左右に分かれる。塾の予習復習に使った資料を小脇に抱え、春希は図書室へと足を踏み入れた。

 図書室の一画には、リーディングスペースが設けられている。返却カウンターへ向かう通路とスペースを区切るパーテーションの向こう側から、数人の女子のひそやかな話し声が漏れ聞こえてきた。

「――で、誰?」
「んー……同じクラスの牧野君……かな」

 不意に自分の名前が呼ばれ、春希は思わず歩く速度を緩めた。
 春希の耳に、別の女子の声が続く。

「あ〜、あのメガネくんか。ああいうのがタイプなんだ。ちょっと地味じゃない?」
「私は安心できる……かな」

 控えめな語尾が、照れ笑いに揺れた。ここでも、女子同士でバレンタイン絡みの話題で盛り上がっているようだ。

「……」
 春希は首の後ろを無意識に掻いた。

 申し訳なさと気恥ずかしさが混ざって落ち着かない。聞かなかったことにしようと決め、春希は足音を忍ばせて返却カウンターへと急いだ。

 用事を済ませて図書室を出て、雪が待つ空き教室へ向かう。
 いつもの中庭が見える窓際に二つの机をつきあわせて、その片方の席に雪が腰掛けていた。春希の足音に気づいて振り向き、小さく手を振る。

 机の上には、大判の雑誌が広げられていた。

「何読んでたんだ?」
 春希は雪の向かいに腰を下ろす。
 雪は少し得意げに、雑誌を春希の方へ向けた。

「これね、新しいお仕事のやつ。春希に見てもらいたくて」
 覗き込んだ春希の目に、見覚えのある表紙ロゴが映る。
 成人女性向けの、ハイファッション誌だ。

「それ、姉ちゃんも読んでた。この本でスタイリングやメイクを担当するのが目標だって言ってたやつ……すごいな、雪」

 開かれた特集ページのタイトルには、『甘さを抑えた、冬のクラシック――次世代男子のビターなバレンタイン』と、細いフォントで印字されている。

「ありがとう! まだ何人かの一人だけどね」
 雪は両手の指先を頬に当ててはにかむ。

「載るだけでもやばいって」
 春希は、紙面の左半分に大きく掲載された雪の姿を改めて見つめる。

 雪は透け感のあるダークトーン、ノースリーブのハイネックを纏い、シルバーのネックレスを身につけている。冷たい冬の空気感の中で露わになった二の腕が、雪の中性的な雰囲気を引き立てていた。

「トップス 28,800円」「ネックレス 19,800円」と記載されていた。
 ティーンズアパレルのクリスマス特集の時とは桁が一つ違う価格帯だ。

 モデルそれぞれの写真の脇には、名前と年齢のほか、いくつかのQ&Aが掲載されている。

『Q.惹かれるのはどんな空気感を持った人?』
『Q.理想のバレンタインデートは?』

 といった、バレンタインにちなんだ恋愛系の質問が多い。
 どのモデルも、「頼れるお姉さんタイプ」「夜景の見える場所で」といった、読者である女性たちに向けた甘い恋愛観を語っている。

 その中で雪のQ&Aの欄には、恋愛に関する設問が一つもない。
「冬の休日の過ごし方は?」「得意な教科と苦手な教科は?」といった、日常生活系の質問が占めていた。

「雪のところだけ、恋バナ系の質問がないんだな」
 春希が指摘すると、雪は少しだけ肩を上げた。

「事務所が、そういうのがこないように交渉してくれたんだ」
「恋愛NGみたいな事務所の方針?」
「ううん」

 雪が少し姿勢を正し、春希の顔をまっすぐに見つめてきた。

「僕が、篠宮社長に出した条件」
「社長に?」
 古着屋で隣に立っていた、美人社長を思い浮かべる。

「春希」
「うん?」
 呼ばれて雑誌から顔を上げる。
 雪は膝の上で、両手をきゅっと固く握りしめた。

「僕、好きな人がいますって、社長に言った」
「――え」

 春希の呼吸が、ふっと止まった。

「その人は、クラスメイトの男子です。メガネが似合って、水泳が得意な優しい人です」
「……」

 どこからか入り込んだ隙間風が、二人の足元を撫でていった。

「僕は、嘘をつきたくありません。だから、好きな女性のタイプとか答えられません。小柄でロングヘアな子が好みとか、言えません――って」
「……」

 春希はただ、瞬きも忘れていた。

「あ、公表したいとかじゃなくて。ただ、言わない・書かないことは、嘘じゃないから」
 雪は、少し強張りの残る微笑みを浮かべる。

「僕、春希が好き」
 静かな声だった。

 春希は息を吸うことも吐くこともできず、メガネのフレームの奥から、ただ目の前の顔を凝視した。

「……何で」
 階上から、不器用な管楽器の音が降ってくる。

「俺は、E判定の男だぞ」
 ようやく口をついて出たのは、ひどく情けない自嘲だった。

「関係ないよ」
 雪は首を横に振った。黒い前髪が揺れる。
「そのずっと前から、好きだったんだから」

「……」
 心臓が肋骨を内側から叩く音が、少しずつ大きくなっていく。
 春希は机の上で拳を作った。

 何秒の無音が続いたか。

「――突然ごめん」
 雪の視線が、ふと逸れた。
 膝の上に握りしめられた白い両手が、震えている。

「やっぱり男からの告白なんて……嫌だよね……」
 杏の実のような唇も、今は血の気が引いた色に噛み締められている。

「……っ」
 春希は咄嗟に身を乗り出し、喉の奥からひきつった声を漏らした。
 震えている雪の手へ、無意識に自分の手を伸ばしかけて――止まる。

「ごめん……ごめんね……」
 雪が机の上の雑誌を手繰り寄せ、椅子から立ち上がった。

「あと一ヶ月だけ、いつも通りでも、いい……?」
「え?」
「二年生からは、クラスも分かれるでしょ。それまでで、いいから……」

 春希ははっと顔を上げた。
 雪は手つかずの弁当を机に残し、逃げるように背を向けて空き教室を出ていった。

「……」
 廊下を駆けていく背中を目で追いながら、体が動かなかった。
 春希はひとり、取り残される。

 階上から、ちっとも上達しない音が、無遠慮に降り落ちてきた。