新星は死ぬまでに

 屋敷の壁は破壊され、そこから少しだけ青空が覗いていた。
 じりじりと距離を詰めてくる兵士たちに、ヴァイレート様は右手を掲げる。円形に隊列を組んでいる彼らはかなり訓練されているようで、一挙手一投足が機械的に統一されていた。
 ヴァイレート様の背中だけを食い入るように見つめながら、私は必死で思考を巡らせる。本来は彼の方が圧倒的に強いはずで、その伝説や噂を耳にすれば、これが無謀なことだと分かるだろう。でもこの貴族がけしかけてきたのだから、何かしらの狙いがあるに違いない。
「下がれ!」
「……はい!」
 足手まといになってしまったらしょうがないと気づき、私は素早く振り返る。あの貴族を見なくてもいいように、ヴァイレート様のことを信じるために。
 今一番にすべきことは、私の部屋にある指輪を回収することだ。
 そう頭では分かるのに、体が動かない。代わりに浮かんできたのは、たった一つの仮説だった。
「ヴァイレート様!誰も殺したらいけません、濡れ衣を着せられます」
「……分かった。礼を言う、ノマ」
 最悪の発想だった。
 あの貴族が「殺されない」という前提で動いているのは、自身が死んだらヴァイレート様を悪役に仕立て上げる伝手があるからだ。確かに証人が死んでしまえば、ノマという少女の失踪事件がどうして起こったのか、その真実までも分からなくなってしまう。向こうの部下がたくさん死ねば、ヴァイレート・アムレアは虐殺を行ったとか適当なことが言えるのだろう。……もしくは、その部下たちを捨て駒だと判断しているか、だ。
 ヴァイレート様は、右手に集めきった魔力の形を変えていく。攻撃を繰り出すことなく、今にも動き出そうとしている隊列を見回した。
「一つ問おう。どうしてお前はノマに執着する?この娘の苦労を、お前のせいで味わった苦痛を、如何して無視できる」
 奴は目を閉じて微笑んだ。
「レーチェ侯爵がこちらに目をつけているでしょう。でも証拠はありませんよね」
「さあ、どうだか」
「そこにいる女が、唯一悪事の『証拠』なのですよ。平民とはいえ、虐げたのは事実ですから。お分かりいただけましたか?」
 反吐が出る、とヴァイレート様は吐き捨てた。
 指輪を取りに行かなければいけなかった。でもその声を聞くたびに、がくがくという足の震えが大きくなってくる。
 ノマという少女はやっぱり無力なままなのかもしれない、と思った。もっと早くこいつの狙いに気づいていたら。そもそも私が屋敷に逃げてこなければ。存在しないもしもが増えるたび、私は立ち上がれなくなっていく。

「ノマ」
 その時に響いたのは、澄んだ水のような声だった。初めて会ったときと同じような響きだ。
 美しく吸い込まれてしまいそうなそれに、自分の名前はこんなに綺麗だったのかと思った。
「僕は、お前の神様になろう」
 彼は振り返った。

「今だけは人間を辞めてやる。最強の魔法使いとして、お前の最高の神様になってやる」
 返事なんてできなかった。
 金縛りが解けたように、私の足は急に動きはじめる。
「……っ」
 走り出した私の前に、数人の兵士が立ちふさがる。潜り抜けようとしたはいいものの出口を塞がれてしまい、私は硬直した。
「ノマ!」
 ヴァイレート様がこっちに手を伸ばすけれど、その瞬間貴族が彼に声をかける。
「そちらに構っている場合ですか?私と戦っていただきたいのですが」
 同時に黒い刃が数個現れ、彼の胸元めがけて飛んでいった。
 ヴァイレート様が指を弾くと、それらの刃は一瞬で粉々になる。それは術を発動した貴族にも効いたようで、奴は胸を抑えて蹲った。
 きっとヴァイレート様にとって、彼を倒すことはあまりにも簡単なのだろう。でもそれは、数十人を傷つけずに捕らえるのとは別の話だ。
「――!」
 一瞬ではあるがよそ見をしていた私に、男の一人が殴りかかってくる。思ったよりも数倍速いその動きに、避けるのが少し遅れてしまった。
 男の持っていた剣が、私の肩を引き裂こうとする。
「行きなさい、ノマさん!」
 音もなく右から現れた影は、ミレネさんだった。
 彼は男の剣を杖で弾き返し、そのまま魔術で拘束する。
「ミレネさん!」
「こちらは俺たちに任せてください、貴方は逃げることです!貴方が会場に着くころには、この方々は全員倒しています」
「どうか、気を付けて!」

 ミレネさんが扉の前にいる兵士をもう一人蹴り飛ばし、私は自室まで駆け出す。
 屋敷の廊下には割れたガラスが散乱していて、いくつかが足に刺さってくる。でも、そんな痛みに気をとられている暇はない。
 部屋に足を踏み入れ、引き出しを迷いなく開ける。
 指輪と手帳は何の変化もなくそこにあって、私は小さく息をついた。
 ワンピースの胸ポケットに指輪をしまい、手帳を左手に掴んで裏口へと向かう。

 息が弾む。
 存在を気づかれなかったのだろう、裏口には兵士など誰もいなかった。空っぽな空間の中で、私はふと後ろを振り返る。
 ……ヴァイレート様は、ミレネさんは大丈夫だろうか。私がこうやって屋敷を出て、二人は少しでも戦いやすくなるだろうか。
 扉を開けた瞬間だった。門の前に一人、男が立っていることに気づく。見覚えのある姿勢と、その右手に光る腕時計が私を刺してくる。
「どうして逃げるんですか?ねえ」
「……は」
 目が回るような感覚に襲われる。どうして、どうして、お前が。ヴァイレート様は?ミレネさんは。
「逃げる?私は、私にはやらないといけないことが」
「研究はしなくていいんですか?お母様もお父様も、悲しんでいましたよ」
 奴の眼光が心臓を切り裂いていく。
「殺そうとしていたくせに。あなたの屋敷にいて私が死んだら」
「ノマさんが逃げたから、みんな死にましたよ」

 視界が真っ暗になった。脳が冷えていく。
「……なんて」
「お母様もお父様も、執事も魔法使いも死にましたよ」
 そんなはずはない、と思った。それと同時に、嫌な想像が頭を駆け巡っていく。もしこれが本当だとしたら。
「嘘でしょう」
「あなたを庇ったばかりに、あなたが逃げたばかりにね。さっきの死体までご案内しましょうか」
 足が動かなかった。こいつを躱したら、あとは走るだけなのに。
「ねえ、ノマ」
 首筋にナイフを突きつけられたように、頭の中が真っ白になる。やっぱり気持ち悪い、と思った。
 私のせいで、みんないなくなったのだとしたら、私は。

 ヴァイレート様とミレネさんと、それからお父さんとお母さんと。
 大切で大好きな人たちと過ごした記憶が、くる、くると頭を巡る。
 溢れてくる涙を止められなかった。

「雑魚め」
 その一瞬、足元がふわりと浮いた。涙の粒が宙を舞っていく。
 浮いたんじゃない、地面が揺れたんだ。
 転びそうになるのを必死で堪え、前を向く。
「勝手に殺すな」
 私の目の前にあったのは、二人の背中だった。華奢だけど、私のものよりずっと大きな背中。
「早めに片付けますよ、ヴァイレート様。ノマさん、走れますか」
「ああ、あとはこの糞だけだからな。ノマ――」

 はい、と声を出す。
 足の震えは収まっていて、私は今度こそ彼らに背を向けた。
 ヴァイレート様の声がする。

「愛している」

 私はスタートを切った。