新星は死ぬまでに

 初めて中に入ったのは、普段閉め切られている客間だった。
 私の寝室よりも豪華な空間には、厚い絨毯や赤いカーテンが整えられている。テーブルの上には、レーチェ侯爵の屋敷で見たような手紙が積まれていた。
「もう寝てくれても良かったのだがな」
「……すみません」
 慌てて頭を下げると、ヴァイレート様は低い声で笑った。どうやら嫌味ではなかったらしいとみて、私は胸を撫でおろす。
「ミレネ、苦労をかけたな。ノマが傷つかないで済んだのは、お前のおかげだ」
「いえ。俺に礼は要りませんが、どうしましょう」
「話すしかないようだな」
 息をついたヴァイレート様に、私は内心を悟られまいとして笑いかけた。
 夜風に煽られて、カーテンが揺れる。
「どんな話でも、覚悟はできていますよ」
「それは嘘だろう。お前が怖がっているのは分かるし、僕だって怖い」
 彼が指を鳴らす。
 次の瞬間には――その手元で、例の石が光っていた。
「ノマ、お前が探していたのはこの石で間違いないな?」
「はい。指輪の石と手紙が反応するので、確認したくて」
 ヴァイレート様は、初めて会った時と同じように話をする。彼は少し乱雑に石を持ち上げた。
「ああ。その手紙は僕が預かる」
 もしかして反応するのでは、と思ったけれど、彼に手渡した手紙は光り出したりしなかった。やっぱり不思議なひとだと思う。すべてを操ってしまいそうな、なんでもできてしまいそうな。
 ――だからこそ、それが壊れるのが嫌だ。

「ノマ。僕は――人間だ」
 時が止まった。
 心臓に蓋をされたみたいで、その先の言葉を聞きたくない。
「次世代、だったかな。そんな言葉が出てきただろう。ヴァイレート・アムレアは不死身ではない」
 聞きたくない。
「お前に仕事を頼んだのは、それこそ、次世代のヴァイレートを任せるためだ」

 ずっと、彼を神様だと思っていた。
「ヴァイレート・アムレアは三年で交代する」
 彼の苦しみは、神様だからこそのそれだとも思っていた。
「僕……いや、彼は国家の権力だ。この石は指輪のものと同じだが、これだけの魔力があれば、三年間『変装』ができる。魔力の継承もしてしまえば、権威として動ける」
 頭だけがどこか冷静で、心よりずっと早く動いていた。
「……少し逸れるかもしれないんですが。ヴァイレート様はどうして、これを引き受けたのですか」
「聞いてしまうか?それを」
 ヴァイレート様の手が震えていた。

「忘れてしまった」
 彼は笑っていた。視界の端で、ミレネさんがそっぽを向く。
 清々しいほど、綺麗な笑顔だった。
「ヴァイレート・アムレアは人間じゃない、僕は人間だ。都合のいい仕組みだが、三年すれば記憶は入れ替わってしまう」
 思わず声が出た。指先が冷えていくのに、体の芯は熱い。
「なんで、そんな……そんな酷なことができるんですか」
「彼曰く、世界のためだそうだ。ノマ、お前を見つけて『人間を辞めたい』と言われたとき、僕はやっと出会えたと思った。お前はきっと神になるのだと思ったし、だから連れてきた」
 彼が何を言いたいのか、本当は分かっていた。

「でも、お前が心の底から為りたいのは、ヴァイレートか?神でもなんでもない偽りか。違うだろうと思ったから、僕は」
「――神様じゃあないって言うんですか。でも私が助けられたのは、助けてくれたのはヴァイレート様で」
「ああ、そうだ。だから考えてくれ、ノマ。どんな結論でもいい、お前が正しいと思うものを選ぶんだ」
 私の中で、知らないことばかりが渦を巻く。
 正しいとか間違っているとか、そういうことは何も分からなかった。ヴァイレート・アムレアという人が残したすべてを忘れないように、ただこの目に映るものを記憶に焼き付ける。
「ここでヴァイレート様を引き継げば、人を救えるんですか」
「そうなるな」
 そう発音したものの、私は人を助けたいなんて思わない。それよりヴァイレート様が笑っていることの方が、ずっとずっと大事に映る。
 こんなときばっかり、妙に冷静で困ると思った。
「ヴァイレート様が引き継いでほしいと思うのか、それだけ気になるんですが」
「知らん」
 私がふざけて不満げな顔を作ると、彼はじっとこちらを見つめてきた。身動きが取れなくなるようなそれに、私は横を向くことしかできない。
「お前がしたいようにすればいい。というより、僕はお前をそそのかすことはしたくない」
「……迷っておられるんですよ、この人も」
 いつの間にか真横に立っていたミレネさんが、湯気の立つお茶を置いてくれる。
 口に含むと、屋敷に来て最初に飲んだ紅茶のような、野イチゴの香りが広がった。
「僕の変装魔法が切れるまで、あと一か月ある。ゆっくり考えるようにしてくれ」
「――はい」
 私がずっと望んでいたのは、人を辞めることだった。
 人間に囚われたくなくて、ヴァイレート様という神様に憧れて。でも彼が、神様がいなくなってしまった今、少し空っぽになった。そんな気がする。
 きっと空っぽになったのは、私だけじゃない。ずっとずっと、自分が消えていく感覚に耐えてきたのは、ヴァイレート様なんだ。

 ※

 その日は快晴だった。
「ヴァイレート様は?まだ起きてこないんですか」
「もう一度試してきます」
 一礼して部屋を出ていくミレネさんを見送ると、私は小さくため息をついた。数秒後、動物でもいるのかと思うくらい、どたばたという音が屋敷に響き渡る。
「ミレネさん、大丈夫ですか!」
「ええ。今から少々爆発魔法を使いますので、離れていてください」
「この阿呆ども!」
 本当に魔法を使ったのだろうか、爆発音が小さく聞こえてくる。
 ヴァイレート・アムレアの真実を知ってから、一週間。屋敷での日々は相変わらずだったが、寝ても起きても、どこかに選択が引っかかっていた。
「夜のスープは魚介のものにしましょうか、ノマさん?」
「下ごしらえは任せてください!」
 もう昼だというのに、まだ寝間着姿のヴァイレート様がやってくる。彼は羽織を椅子に掛けると、ゆっくりと席についた。
 私の目の前にいるヴァイレート様は、本当に儚い人だと思う。
 常人では考えられないほどの魔力量や堂々とした振る舞いから、私たち凡人は彼を神だと認識する。でもそんな彼も、記憶を失った一人の人間なのだ。
 それだけは、彼が変えることのできない定めなのだ。

「ヴァイレート様。私も、あなたのあとを継ごうと思います」
 彼にさえ変えることのできない運命に、私が抗うなど馬鹿な話だった。
 まるで時が止まったかのように、静寂が落下してくる。動きを止めたヴァイレート様は、視線だけをこちらに向けた。
「そうか、ありがとう」
 打ち明けてくれた時みたいな綺麗な顔で、彼はまた笑う。それを見た私は、選択を間違えたのかもしれないと思った。
 ありがとうなんて思うだろうか。修羅の道を続けていくヴァイレートに、彼は何を見ているのだろうか。
「そうと決まれば、今回の任務だな!お前がヴァイレートとなるための、最後の試練だ」
「いつのものですか」
「今日だ。これから行こうかと思っていた」
「は⁉」
 一時間で終わると言われたものの、そういう問題ではない。
 ヴァイレート様はミレネさんを呼んで、手にしていた皿を渡す。一瞬それを取り落としそうになった様子を、私は見ていた。
 席を立ったヴァイレート様は、一つの封筒を持って帰ってきた。中に入っていたのは、たった一枚の分厚い紙。
「表彰式」
 小さく読み上げた私に、彼は微笑みながら頷く。
「ああ。最も優れた魔法使いを表彰するための式典だ。そして今年も、最も優秀なのは勿論僕だ!」
「これって、本人が行かなくてもいいんですか」
 彼の功績を私が奪うようで、なんだか申し訳ない。
 ヴァイレート様は悪戯っぽい笑みを浮かべると、堂々と言い放った。
「途中で入れ替わってやってもいいぞ?」
「どんな冗談ですか」
 キッチンの方から、ミレネさんのあからさまなため息が聞こえてくる。
 式典の名簿も渡された。国が主催するものとあってか、出席人数が異様に多い。ミレネさん曰く、ヴァイレート様に助けられたことのある人々が、毎年必ず姿を見せるのだという。
 彼に救われたという人は、三年前からいったい何人いるのだろうか。彼の中の本当に気づいた人は、そのうち何人いただろうか。
 快晴だった。
 窓から差し込む日光が眩しくて、今日が終わったら私は神様になるのだと思った。ずっと辞めたかった非力な少女を辞めて、最強の魔法使いになる。望んでいたはずなのにどこか寂しくて、人間卒業だなあ、と一人で呟いてみる。
 でもヴァイレート様の魔法が解けたら、彼は一体どこに行くのだろう。
 そもそも私は、彼の何を知っているというのだろう。

 ――爆発音が、した。
 ミレネさんが遊んでいたそれとは違うことが、私の耳でも一瞬で分かる。
「伏せろ!」
 ヴァイレート様の低い声がかき消されて、私は唖然としたまま立ち竦んだ。
 数十人の男たちが、音のした玄関の方から現れる。
 その中心に立っていたのは、私のよく知る貴族だった。もう二度と見たくなかったその顔に、めまいがする。
「ヴァイレート卿。私の『協力者』である少女を誘拐するなんて、どういうつもりですか?」
 おぞましいと思った。

 瞬きした私の前に立ちふさがったのは、ヴァイレート様だった。
「ようこそ僕の屋敷へ。……お前を殺す」