「本日はお忙しい中、二度目の会合にお越しくださりありがとうございます」
レーチェ侯爵の挨拶から始まった会は、今回も十数人の貴族で構成されている。
いつになっても慣れることのない部屋の温度に、背中や顔の筋肉が攣りそうになる。ヴァイレート様だったらもっと自然に座っていられるはずだ、と思って、私のものじゃない手を握りしめた。
美しい装飾の円卓にはいくつか空席があって、それがなんだかすごく不気味だ。レーチェ侯爵もそちらを一瞥して、私にも分かる作り笑顔を浮かべる。
「今回出席を頼んだのに、一部の方はいらっしゃらないようですね。ああ、残念」
心なしか最後の音が下がっている。彼は形のいい唇に人差し指を当てると、順番に参加者たちを見回した。
「今回お伝えしたいのは、反逆者の候補についてです。ルートはお話しできませんが、こちらで炙り出しましてね」
席を立ったレーチェ侯爵は、テーブルを一周して笑う。
「こんな風に暴かれるなんて、悲しい話ですね」
どうしてだろう、声が踊っているように聞こえる。
私は息を呑んで、貴族たちと同じように、少しだけ中央に顔を寄せた。
レーチェ侯爵が口を開く。
「――について」
その瞬間、息が、止まった。
気温が三度くらい上がったみたいで、首元を冷や汗が伝っていく。周りの音が聞こえない。テーブルにあった装飾の模様が、急に怪物になって襲い掛かってくる。
苦しい、痛い、熱い。
広がる不快感を嚙み殺して、指輪が喰いこむくらいに手を握る。
……侯爵が読み上げたのは、私を苦しめた貴族の名前だった。
「ヴァイレート殿、何かございますか?」
「いや」
声帯から否定を押し出す。その響きが私のものより低いことが、唯一縋っていられる希望だった。
「――卿は、最近他の領地に積極的に出向いているようですね。警戒して損はないでしょう」
レーチェ侯爵は淡々と会議を進めていく。周囲の貴族もそれに呼応して、対策を話し合っているように見えた。
「証拠は、あるのか?」
ヴァイレート様のものとは思えない声を出してしまって、しまったと思った。レーチェ侯爵は首を振る。
「いえ。大抵揃えてはいますが、決定打には欠けるかと。不審な取引、危険物の運び入れなどは押さえています。……この辺りを侵略しようという気なのでしょう」
私が証拠を集めましょう、という声に、軍備ならお任せを、という声。机の中心が遠のいたように感じる。
今の私はノマではない、そのはずなのに。それでも尚、あの男一人を獄中に入れることすら叶わない。
会合は終わった。終わったというより、気が付いたら終わっていた。
ヴァイレート様に伝えることだけはと思い、急いで手帳にメモを取る。羽ペンを握る手には上手く握力が込められなくて、殴るように字を綴った。
「ヴァイレート卿」
私が振り返った先に立っていたのは、レーチェ侯爵だった。
「前回私が言ったこと、覚えていらっしゃいますでしょうか」
「ああ。僕を楽しませてくれる何かがあるらしいな」
もうそんなものはどうでも良かった。帰りたい、ただただヴァイレート様に会いたい。
「こちらにお越しください」
侯爵は歩き出す。どんな罠があるかも分からないから、一歩一歩床を確かめるように後を追った。
「こちらですよ、懐かしいでしょう?これは確か四十年前の部屋ですね」
「ああ、そうだな」
屋敷の隅の方にある、こじんまりとした部屋だった。家具や照明のデザインは古風なものだが、手入れはされているようで綺麗だ。全体的に赤で統一された色調が美しい。
「覚えていますか、祖父とここでよく語り合っていたということで。この部屋は大切に保存してあるのですよ」
聞いたことがなかった。
「その代にヴァイレート卿が、うちの領地を救ってくれたと伺っています。本当に毎回のことながら、ありがとうございます」
侯爵は丁寧に一礼する。私も思わず頭を下げたくなったが、慌てて止めた。
「……困っている奴がいたら、そうするだろう」
「昔からお人好しですね。まあそういうことです、こちらで少しお待ちいただけますか。紅茶と、これからの作戦について文書をご用意します」
「ああ。頼んだ」
魔導書でも持ってくるのだろうか、いつもよりも早足の彼を見送る。私の前に広がるのは、書類や魔道具の塊だった。
興味を抑えきることもできず、部屋を二周、三周とまわる。引き出しや棚を見漁ると、いつのものか分からない手紙なんかが山ほど出てきた。
「……綺麗な字」
手紙を書かないとかなんとか言われていたけれど、さすがはヴァイレート様。水が流れるような洗練された字を見て、私は口角が持ち上がるのを抑えきれなかった。
ふと、視界に違和感が走る。その端に赤い光を捉えた私は、指輪をちらりと見た。
――光っている。
ちかちかと、何かに反応するかのように点滅する光は、右方向に手を翳すとさらに強まった。ルビーのような赤が指す方向に、ゆっくりと手を差し出す。
そこにあったのは、赤いインクで書かれた手紙だった。
「――古い、なにこれ」
さっき見た手紙よりもさらに古びて破れている紙に、もはや読むこともできない字。唯一読み取れた一文字に、私は息を吸い込んだ。
さっきの動悸がぶり返して、肺が収縮する。
筆跡が、違う。
※
夜になっていた。レーチェ侯爵との話をつけた私は、屋敷に足を踏み入れた。
嫌な予感だけが脳内を過り続けて、確かめずにはいられない。
「どうだった、会議は?何か変なことに巻き込まれてはいないだろうな?」
「おかえりなさいませ。少し顔色が悪いのでは?」
出迎えてくれた二人の顔を見るなり、涙が出そうになる。熱くなった目頭を察されまいと、手を振って一目散に部屋へと向かった。
「大丈夫です!ちょっと今日は休みますね」
ヴァイレート様とミレネさんに挨拶を済ませ、一番に戸棚の影を確認する。
「確か、ここに……」
ない。数日前にはあったはずの、赤い石の欠片が消えていた。
「――っどういうこと」
何もない床を叩く、その指先が震える。
広間に向かった。
深夜の屋敷はほの暗くて、でも怖いとは思わなかった。例の部屋から取ってきた手紙を右手に、足音を殺して歩き回る。
手紙に反応した指輪についている石は、そもそもあの魔力の塊だ。最初にヴァイレート様に見せられた、あの石。
引き出しをゆっくりと開けると、赤いそれは煌々と光を放っていた。
「……やっぱり」
右手の紙を近づけると、ますます石は明るさを増す。美しいと同時に毒々しいと思って、私は目を細めることしかできなかった。
「何か隠された屋敷、かぁ」
呟いたら、その響きが遠くに転がっていった。
ヴァイレート様に聞けばいいだけなんだけどな。
ふと掠めた思考に瞼を閉じる。信頼していないとか、そういう話じゃない。きっと明日になったら教えてくれるはずだし、あのひとなら絶対に嘘なんてつかない。
でも、彼から悲しい話を聞いてしまったら、私はあのひとの前でまた泣いてしまう。そうしたらきっとまた、あんな寂しい顔をさせてしまうのだろう。
数十秒経ったような気がしたけれど、実際はきっとそんなに長くはなかったんだろう。私はゆっくりと目を開けた。
「――やっぱり、信じよう」
自分で謎を解こうなんて、探偵でもないのに。そう言い聞かせるようにして、開いた引き出しを恐る恐る閉じようとした、その時だった。
「……っ!」
あまりの光に目が眩む。石の周囲には文字が浮かび上がり、円を描くようにして漂っていた。
「次……世代の……?」
一文字読み上げるたびに、それは眩さを増していく。やめないと、と思うのに、体が言うことを聞かない。いつの間にかそれに目を吸い寄せられていて、視線を逸らそうとしてもできない。
「ヴァイレート……」
このままじゃ、何かきっとよくないことが起こる。止めないと、止めないと。
――呑まれる。
「この、馬鹿者!」
背中をぐいと引っ張られ、そのまま後ろに倒れこむ。
衝撃はない。代わりに低い呻き声が聞こえて、私は慌てて上体を起こした。
「ミレネさんっ」
「俺は大丈夫です。怪我は」
「……ありません、けど」
少し肘を摩りながら立ち上がった彼を見て、唇を噛む。
「馬鹿ですみません、上手くできなくて、ごめんなさい」
「……は?」
涙は出なかった。私のものとは思えないくらい、淡々と声が響く。
「私の宿敵だそうです、反逆者って。それから、私は、秘密を知って上手くできるとは思えません。ヴァイレート様の姿を借りても、私は弱いままで、きっと、ミレネさんの言う通りで」
「聞いてくれますか、ノマさん」
「それから、今みたいに勝手に行動して、ごめんなさい。私にできることとか、多分もう何もなくて。そもそも今までだって上手くできてないし、きっと、人間をやめたいとかそんなバカみたいな――」
ミレネさんは、私の横に位置を変えた。しゃがみこむような形になっている私からは、彼の顔が見えない。
「厄介ですね」
今までで一番、穏やかな声だと思った。
「俺から何も言うことはできません。ノマさんの苦しかった人生は、俺の想像でどうにかなるものではありませんし。でもいいですか」
敬語が崩れているな、とか妙に冷静に思いながら、目を開けて動かなくなっている私に「いいですよね」と今度は厳しめの声が飛ぶ。数回首を縦に振ると、彼はこちらの顔を覗き込んだ。
「よく頑張りました」
「……どういうことですか」
上ずった私の声に、ミレネさんのため息が被る。
「俺たちが隠していることは、貴方にとって苦しいものでしょう。だから、俺と約束です。苦しくなったら逃げなさい」
「逃げるって、そんなこと」
彼は睫毛を伏せた。
「よく頑張りました。貴方はよく勉強して、ヴァイレート様を助けている。きっとその前だって、辛いことがたくさんあったでしょう。我慢するとか私じゃダメとか、そういう話ではありません」
「……」
立ち上がったミレネさんにつられるように、私も体を持ち上げる。
「人生は、苦しくあってはならない。俺はそう思っています、そしてそれを――あの方にも言いたい」
「こちらへお越しください。ヴァイレート様がお待ちです」
レーチェ侯爵の挨拶から始まった会は、今回も十数人の貴族で構成されている。
いつになっても慣れることのない部屋の温度に、背中や顔の筋肉が攣りそうになる。ヴァイレート様だったらもっと自然に座っていられるはずだ、と思って、私のものじゃない手を握りしめた。
美しい装飾の円卓にはいくつか空席があって、それがなんだかすごく不気味だ。レーチェ侯爵もそちらを一瞥して、私にも分かる作り笑顔を浮かべる。
「今回出席を頼んだのに、一部の方はいらっしゃらないようですね。ああ、残念」
心なしか最後の音が下がっている。彼は形のいい唇に人差し指を当てると、順番に参加者たちを見回した。
「今回お伝えしたいのは、反逆者の候補についてです。ルートはお話しできませんが、こちらで炙り出しましてね」
席を立ったレーチェ侯爵は、テーブルを一周して笑う。
「こんな風に暴かれるなんて、悲しい話ですね」
どうしてだろう、声が踊っているように聞こえる。
私は息を呑んで、貴族たちと同じように、少しだけ中央に顔を寄せた。
レーチェ侯爵が口を開く。
「――について」
その瞬間、息が、止まった。
気温が三度くらい上がったみたいで、首元を冷や汗が伝っていく。周りの音が聞こえない。テーブルにあった装飾の模様が、急に怪物になって襲い掛かってくる。
苦しい、痛い、熱い。
広がる不快感を嚙み殺して、指輪が喰いこむくらいに手を握る。
……侯爵が読み上げたのは、私を苦しめた貴族の名前だった。
「ヴァイレート殿、何かございますか?」
「いや」
声帯から否定を押し出す。その響きが私のものより低いことが、唯一縋っていられる希望だった。
「――卿は、最近他の領地に積極的に出向いているようですね。警戒して損はないでしょう」
レーチェ侯爵は淡々と会議を進めていく。周囲の貴族もそれに呼応して、対策を話し合っているように見えた。
「証拠は、あるのか?」
ヴァイレート様のものとは思えない声を出してしまって、しまったと思った。レーチェ侯爵は首を振る。
「いえ。大抵揃えてはいますが、決定打には欠けるかと。不審な取引、危険物の運び入れなどは押さえています。……この辺りを侵略しようという気なのでしょう」
私が証拠を集めましょう、という声に、軍備ならお任せを、という声。机の中心が遠のいたように感じる。
今の私はノマではない、そのはずなのに。それでも尚、あの男一人を獄中に入れることすら叶わない。
会合は終わった。終わったというより、気が付いたら終わっていた。
ヴァイレート様に伝えることだけはと思い、急いで手帳にメモを取る。羽ペンを握る手には上手く握力が込められなくて、殴るように字を綴った。
「ヴァイレート卿」
私が振り返った先に立っていたのは、レーチェ侯爵だった。
「前回私が言ったこと、覚えていらっしゃいますでしょうか」
「ああ。僕を楽しませてくれる何かがあるらしいな」
もうそんなものはどうでも良かった。帰りたい、ただただヴァイレート様に会いたい。
「こちらにお越しください」
侯爵は歩き出す。どんな罠があるかも分からないから、一歩一歩床を確かめるように後を追った。
「こちらですよ、懐かしいでしょう?これは確か四十年前の部屋ですね」
「ああ、そうだな」
屋敷の隅の方にある、こじんまりとした部屋だった。家具や照明のデザインは古風なものだが、手入れはされているようで綺麗だ。全体的に赤で統一された色調が美しい。
「覚えていますか、祖父とここでよく語り合っていたということで。この部屋は大切に保存してあるのですよ」
聞いたことがなかった。
「その代にヴァイレート卿が、うちの領地を救ってくれたと伺っています。本当に毎回のことながら、ありがとうございます」
侯爵は丁寧に一礼する。私も思わず頭を下げたくなったが、慌てて止めた。
「……困っている奴がいたら、そうするだろう」
「昔からお人好しですね。まあそういうことです、こちらで少しお待ちいただけますか。紅茶と、これからの作戦について文書をご用意します」
「ああ。頼んだ」
魔導書でも持ってくるのだろうか、いつもよりも早足の彼を見送る。私の前に広がるのは、書類や魔道具の塊だった。
興味を抑えきることもできず、部屋を二周、三周とまわる。引き出しや棚を見漁ると、いつのものか分からない手紙なんかが山ほど出てきた。
「……綺麗な字」
手紙を書かないとかなんとか言われていたけれど、さすがはヴァイレート様。水が流れるような洗練された字を見て、私は口角が持ち上がるのを抑えきれなかった。
ふと、視界に違和感が走る。その端に赤い光を捉えた私は、指輪をちらりと見た。
――光っている。
ちかちかと、何かに反応するかのように点滅する光は、右方向に手を翳すとさらに強まった。ルビーのような赤が指す方向に、ゆっくりと手を差し出す。
そこにあったのは、赤いインクで書かれた手紙だった。
「――古い、なにこれ」
さっき見た手紙よりもさらに古びて破れている紙に、もはや読むこともできない字。唯一読み取れた一文字に、私は息を吸い込んだ。
さっきの動悸がぶり返して、肺が収縮する。
筆跡が、違う。
※
夜になっていた。レーチェ侯爵との話をつけた私は、屋敷に足を踏み入れた。
嫌な予感だけが脳内を過り続けて、確かめずにはいられない。
「どうだった、会議は?何か変なことに巻き込まれてはいないだろうな?」
「おかえりなさいませ。少し顔色が悪いのでは?」
出迎えてくれた二人の顔を見るなり、涙が出そうになる。熱くなった目頭を察されまいと、手を振って一目散に部屋へと向かった。
「大丈夫です!ちょっと今日は休みますね」
ヴァイレート様とミレネさんに挨拶を済ませ、一番に戸棚の影を確認する。
「確か、ここに……」
ない。数日前にはあったはずの、赤い石の欠片が消えていた。
「――っどういうこと」
何もない床を叩く、その指先が震える。
広間に向かった。
深夜の屋敷はほの暗くて、でも怖いとは思わなかった。例の部屋から取ってきた手紙を右手に、足音を殺して歩き回る。
手紙に反応した指輪についている石は、そもそもあの魔力の塊だ。最初にヴァイレート様に見せられた、あの石。
引き出しをゆっくりと開けると、赤いそれは煌々と光を放っていた。
「……やっぱり」
右手の紙を近づけると、ますます石は明るさを増す。美しいと同時に毒々しいと思って、私は目を細めることしかできなかった。
「何か隠された屋敷、かぁ」
呟いたら、その響きが遠くに転がっていった。
ヴァイレート様に聞けばいいだけなんだけどな。
ふと掠めた思考に瞼を閉じる。信頼していないとか、そういう話じゃない。きっと明日になったら教えてくれるはずだし、あのひとなら絶対に嘘なんてつかない。
でも、彼から悲しい話を聞いてしまったら、私はあのひとの前でまた泣いてしまう。そうしたらきっとまた、あんな寂しい顔をさせてしまうのだろう。
数十秒経ったような気がしたけれど、実際はきっとそんなに長くはなかったんだろう。私はゆっくりと目を開けた。
「――やっぱり、信じよう」
自分で謎を解こうなんて、探偵でもないのに。そう言い聞かせるようにして、開いた引き出しを恐る恐る閉じようとした、その時だった。
「……っ!」
あまりの光に目が眩む。石の周囲には文字が浮かび上がり、円を描くようにして漂っていた。
「次……世代の……?」
一文字読み上げるたびに、それは眩さを増していく。やめないと、と思うのに、体が言うことを聞かない。いつの間にかそれに目を吸い寄せられていて、視線を逸らそうとしてもできない。
「ヴァイレート……」
このままじゃ、何かきっとよくないことが起こる。止めないと、止めないと。
――呑まれる。
「この、馬鹿者!」
背中をぐいと引っ張られ、そのまま後ろに倒れこむ。
衝撃はない。代わりに低い呻き声が聞こえて、私は慌てて上体を起こした。
「ミレネさんっ」
「俺は大丈夫です。怪我は」
「……ありません、けど」
少し肘を摩りながら立ち上がった彼を見て、唇を噛む。
「馬鹿ですみません、上手くできなくて、ごめんなさい」
「……は?」
涙は出なかった。私のものとは思えないくらい、淡々と声が響く。
「私の宿敵だそうです、反逆者って。それから、私は、秘密を知って上手くできるとは思えません。ヴァイレート様の姿を借りても、私は弱いままで、きっと、ミレネさんの言う通りで」
「聞いてくれますか、ノマさん」
「それから、今みたいに勝手に行動して、ごめんなさい。私にできることとか、多分もう何もなくて。そもそも今までだって上手くできてないし、きっと、人間をやめたいとかそんなバカみたいな――」
ミレネさんは、私の横に位置を変えた。しゃがみこむような形になっている私からは、彼の顔が見えない。
「厄介ですね」
今までで一番、穏やかな声だと思った。
「俺から何も言うことはできません。ノマさんの苦しかった人生は、俺の想像でどうにかなるものではありませんし。でもいいですか」
敬語が崩れているな、とか妙に冷静に思いながら、目を開けて動かなくなっている私に「いいですよね」と今度は厳しめの声が飛ぶ。数回首を縦に振ると、彼はこちらの顔を覗き込んだ。
「よく頑張りました」
「……どういうことですか」
上ずった私の声に、ミレネさんのため息が被る。
「俺たちが隠していることは、貴方にとって苦しいものでしょう。だから、俺と約束です。苦しくなったら逃げなさい」
「逃げるって、そんなこと」
彼は睫毛を伏せた。
「よく頑張りました。貴方はよく勉強して、ヴァイレート様を助けている。きっとその前だって、辛いことがたくさんあったでしょう。我慢するとか私じゃダメとか、そういう話ではありません」
「……」
立ち上がったミレネさんにつられるように、私も体を持ち上げる。
「人生は、苦しくあってはならない。俺はそう思っています、そしてそれを――あの方にも言いたい」
「こちらへお越しください。ヴァイレート様がお待ちです」
