「何を隠している、この小娘!」
「ヴァイレート様には言いたくありません!」
「は?僕関連のことなら早く言わんか!」
屋敷に帰ったあと。ヴァイレート様は、私の顔を見るなり毛布や果物を持ってきた。
変身を解いたあと、何も言わずにその場で寝た私と、その数歩先で寝たというヴァイレート様。
朝になっても昨日のことは話さない私に、彼はしびれを切らしているみたいだ。
「不快な心持ちになったなら素直に言え!とにかく早く言え!」
そう言いながらパンケーキを頬張るヴァイレート様は、私のそれに向かって杖を構えた。
「言わないなら僕が食うぞ、いいのか!」
「知りません」
「くそ、甘いものの誘惑が通じないとは」
私を一瞥した彼は、不意に視線を上げた。
「お前に何か苦労はかけたくない」
「――すみません」
「……こんな環境に置いておきながら勝手だとは思う。だが、その分僕には責任がある」
僕が原因の苦しみは、僕が責任をもって処理する。
そう添えたヴァイレート様は、こちらに向き直って寂しげに笑った。
「教えてくれ、ノマ」
そして、私が口を割ったそのあと。
「分かった、僕がこの手で制裁してやろう!いいだろういいだろう、あの侯爵家を潰す」
「だから話さなかったんです!冗談でもやめてください」
今にも火の玉でも放ちそうなヴァイレート様に、必死で声をぶつける。
「これだから貴族社会は嫌いなんだ」
ため息をついた彼は、魔力でぱちぱちと鳴っている右手をしまった。
「最初の仕事からこんなもので、すまなかったな。残念ながら、お前にはこの先もこんな思いをさせるだろう」
「私は大丈夫です、でも」
「今日は一日寝ることだな」
「ヴァイレート様!」
こちらに背を向けていた彼の動きが止まる。
なんだ、と振り返ったその顔がいつもより繊細で、悲しい。
「……私は、知っているので」
「なんだノマ、僕は大丈夫だ」
微笑む彼に慎重に投げた言葉は、不意に止まらなくなる。
「あなたが強いだけじゃないって知ってるので。優しいとか不器用とか、猫と遊んでたりとかジャム零してたりとか、そういうものも知ってる」
そんなつもりはなかったのに、なぜか私の目から感情が零れていく。
「そういうのも含めて、あなたは私の神様だから」
ヴァイレート様は静かだった。
真っ直ぐな背筋で、視線で、ただ私の言葉を待っていた。
「私は、あなたに助けられて。そればっかりだけど、力になりたくて」
「ああ」
嗚咽が止まらなくなる。でも、ここで終わったらだめだ。そう思って、私は言葉を繋げ続ける。
「だから、ちょっとは悲しいと思ったっていいんです、ヴァイレート様!」
感情を殺さなくたっていい。苦しいことは苦しいと思っていい。だって、あなたはこんなにも優しいんだから。
しゃくりあげながら、ひたすら零れていく涙を見ていた。
不意に顔を上げる。
「ふふ、あはは」
「……なにか可笑しいですか」
ヴァイレート様は、目元を隠して笑っていた。いつもより小さな声で、彼という器から溢れたものみたいだった。
「お前が尊敬しているのは、強い僕なんじゃなかったのか」
「強くても優しくないと意味ないじゃないですか」
「――はは、変な奴だな。僕よりよほど変だ」
ふふ、と笑うヴァイレート様の目元は見えなかった。次第に小さくなっていく笑い声に、私は一歩近づく。
「ありがとう、ノマ」
手をどけて見えるようになったようになった彼の目は、いつもよりちょっとだけ透き通っているようだった。
※
パーティーが終わって数日。
今日の夜ご飯は、きのこと野菜、鶏肉のシチュー。勿論私が作ったものだ。
「うん、美味いな」
頬をほころばせるヴァイレート様に、私はふと口にする。
「ヴァイレート様って、料理下手ですよね」
「は?」
「いえ。間違えました」
そうか、と返す彼は、何事もなかったような顔をする。
「……どうやって生きてきたんですか、これまで」
「は?」
「いえ。料理とか掃除とか、そういうものをひとりでやるのって、大変じゃないですか」
ああ、と頷いた彼は、ふと窓の外を見た。
「言っていなかったようだな、この屋敷には一人召使がいてな。最近出張に行っていたが、そろそろ帰ってくる」
話を聞くに、ちょうど私が来た時期に忙しくなったらしい。貴族社会のいざこざや魔力管理、それから料理に洗濯。その人が大抵をこなしていると聞いた私は、思わず目を見開いた。
「すごい方なんですね」
「ああ。四代にわたって僕に仕えてくれている」
その時。
屋敷のベルが控えめに四回鳴って、ヴァイレート様は立ち上がった。
「喜べ。このベルはあいつだ」
身だしなみを確認してから、彼の後ろについていく。
扉の向こうに立っていたのは、茶色い髪を一つにまとめた青年だった。
――私と変わらないくらい、若い。
ヴァイレート様に深々と頭を下げたその姿は、どこから見ても丁寧で様になっている。指の先まで綺麗に伸びているその動作に、私は少しの間目を奪われた。
「ただいま戻りました、ヴァイレート様」
「ご苦労だったな、ミレネ」
そう呼ばれた青年はこちらに視線を移し、ヴァイレート様に向き直る。
「この方が、例の」
「そうだ。なかなか変な娘だ」
慌てて姿勢を正した私は、さっきの彼に負けないくらい頭を下げる。
「ノマ・ラフメルです。よろしくお願いいたします」
「ミレネ・ラーデルクと申します。以後お見知りおきを」
私の二回り上をいく挨拶に震えていると、ヴァイレート様は耐えられないといった様子で吹き出す。
「あはは、そんなにかしこまってどうする」
「礼儀ですので」
冷静に言い放ってこちらを見つめるミレネさんは、颯爽とした足取りで屋敷に入っていく。
「……随分散らかっていますね。すぐに俺が掃除します」
「お前は少し休んでからにしろ、ミレネ」
ミレネさんは小さく首を横に振って、「掃除してから休みます」と答えた。
彼の視線がこちらに向かう。
――一瞬だけ、冷や汗が出そうな感じがした。
ミレネさんの目から、何か冷たくて鋭いものが伝わってくる。
「私も手伝います、ミレネさん」
「いえ。貴方はそのままで構いません、ノマさん」
ただの気遣いだと言われれば、そうなのかもしれない。でも、その言葉の奥に何かがある。喉の奥に引っかかった小骨みたいな違和感が、私の周囲にぐるぐるしていた。
ミレネさんは、掃除をしてくると言って姿を消した。
テーブルに戻ってきた私たちは、少しだけ冷めたパンを口にする。
「あれも変な男だぞ、ノマ」
「……小声のつもりかもしれませんが、聞こえますよ」
ヴァイレート様は咳払いをすると、ふいと扉の方を見た。
「まあお前とは仲良くできるだろう。真面目でいい奴だ」
そうですね、と、どこか上ずった音程で返してしまう。さっきの視線が引っかかって、どうにも忘れられない。
シチューは美味しかったけれど、さっきより少ししょっぱいような気がした。
夜になっても、ミレネさんは戻って来ない。
やっぱり、このままじゃいけない気がした。これから一緒に暮らす人なんだから、と顔を上げる。
「……よし」
小さく息をついて、私はベッドから腰を上げた。
屋敷の部屋をいくつか巡ると、どこも整頓されていて塵一つなくなっていた。私とヴァイレート様も整理はしていたつもりだったけれど、こうしてみるとやっぱり格が違う。
最後に向かった庭園から、何か音がしていた。
「ミレネさん」
声に出すと、向こうは私を見て一礼する。小さく微笑んでいるその口元に視線がいって、私の声も少し明るくなった。
「お疲れ様です。なにか手伝えることはありますか」
「こんなに夜更かしをされるのですね。どうしましょう、一緒に雑草でも抜きますか」
「はい!」
大きな声を出すと、「雑草で喜ぶ方がいらっしゃると思いませんでした」と笑われる。その手つきが、心なしか柔らかくなっているみたいに見えた。
庭の手入れというのは、思ったよりも大変だ。
雑草を抜くだけにしても、どこまで抜けばいいのかも分からない。次々発見される新しいやつらに、私は苦戦を強いられていた。
一方のミレネさんは、丁寧に、でもものすごい速度で作業を終えていく。
数年の経験差があるとはいえ、私はだんだんと恥ずかしくなってきた。
「すごいです、掃除もこれも、私とはレベルが違う」
ぼそっと発したそれをゆっくりと拾って、ミレネさんは手を止めた。
「本職ですから」
「失礼ですが、何歳ですか」
「二十歳です。ああ、年上ではありますが遠慮はなさらず」
一つしか変わらないはずの年齢、一年分しか変わらないはずの、日々の積み重ね。
それが、私とミレネさんでは大きく違ったんだと思う。
「ヴァイレート様、優しいひとですよね」
私の台詞に、しゃがんでいる彼の動きが止まる。
「……ええ。私たち一家は、彼に助けられてここにいるのですよ」
ミレネさんは誇らしげだった。
繊細な指先や、それに付く泥をなんともしない強さ。その一つ一つに現れているのは、確かな誇りなんだと気づく。
口が滑った。
「私も、ヴァイレート様に助けられたんです。私が身代わりになれることも嬉しいくらい、感謝していて。神様みたいだけど、人間臭いところもあって」
「……そうですか」
彼の視線がこちらに向けられる。
それは、さっきまでとは別人のものだった。
冷えていて棘のあるもの。
「やはり、貴方が身代わりに選ばれた方なのですね」
「ヴァイレート様、言っていなかったんですか」
はぐらかされていましたから、と呟いた彼は、不意に立ち上がって泥を払った。
「なぜ、貴方はここで暮らすことを決めたのですか」
「なぜって、どういう」
立ち上がった私に、彼は一歩踏み込む。
「お答えください」
「――人を辞めたいから、です」
ミレネさんの顔を、真っ直ぐに見る。
「なぜですか」
「囚われたくないからです」
彼の目は鋭かった。私の中身が全部透けてしまって覗かれる、と思った。
「詭弁ですね」
「……なんでですか」
ミレネさんは数歩向こう側に歩く。
「貴方は、自分が力を得たら何をできるとおっしゃるのですか」
「それは」
「弱者を救う?貴族を倒す?それをできる者はごく僅かしかいません。彼でさえ、貴族からの理不尽に苦しまれています」
彼が何を言いたいのか、それに少しずつ脳が馴染んでいく。
私の理屈すべてが殺されていく。
「神になったところで、全てから逃れることは不可能です。ご存じでしょう?この世界はそんなに単純明快ではない」
彼はもう一度こちらを振り返る。
「貴方のこれまでは知っています。逃げるために神を目指しているのだと、予測もしていました」
言葉にならない。
言いたいことも叫びたい衝動も山ほどあるはずなのに、胸につかえているだけだ。
「歪んでいる」
貴方は歪んでいる、と彼は繰り返す。
まるで呪文みたいだと思った。
「苦しくなくなったら気づくのですよ――そんな願いを抱かずにそのまま生きる方が、よほど幸せだということに」
彼がいなくなったあと、私はそこに立ち尽くしていた。
その言葉に縛られていた。
でも、もし縛っているのが過去だとしたら?と、どこかで声がする。
答えは出なかった。
「ヴァイレート様には言いたくありません!」
「は?僕関連のことなら早く言わんか!」
屋敷に帰ったあと。ヴァイレート様は、私の顔を見るなり毛布や果物を持ってきた。
変身を解いたあと、何も言わずにその場で寝た私と、その数歩先で寝たというヴァイレート様。
朝になっても昨日のことは話さない私に、彼はしびれを切らしているみたいだ。
「不快な心持ちになったなら素直に言え!とにかく早く言え!」
そう言いながらパンケーキを頬張るヴァイレート様は、私のそれに向かって杖を構えた。
「言わないなら僕が食うぞ、いいのか!」
「知りません」
「くそ、甘いものの誘惑が通じないとは」
私を一瞥した彼は、不意に視線を上げた。
「お前に何か苦労はかけたくない」
「――すみません」
「……こんな環境に置いておきながら勝手だとは思う。だが、その分僕には責任がある」
僕が原因の苦しみは、僕が責任をもって処理する。
そう添えたヴァイレート様は、こちらに向き直って寂しげに笑った。
「教えてくれ、ノマ」
そして、私が口を割ったそのあと。
「分かった、僕がこの手で制裁してやろう!いいだろういいだろう、あの侯爵家を潰す」
「だから話さなかったんです!冗談でもやめてください」
今にも火の玉でも放ちそうなヴァイレート様に、必死で声をぶつける。
「これだから貴族社会は嫌いなんだ」
ため息をついた彼は、魔力でぱちぱちと鳴っている右手をしまった。
「最初の仕事からこんなもので、すまなかったな。残念ながら、お前にはこの先もこんな思いをさせるだろう」
「私は大丈夫です、でも」
「今日は一日寝ることだな」
「ヴァイレート様!」
こちらに背を向けていた彼の動きが止まる。
なんだ、と振り返ったその顔がいつもより繊細で、悲しい。
「……私は、知っているので」
「なんだノマ、僕は大丈夫だ」
微笑む彼に慎重に投げた言葉は、不意に止まらなくなる。
「あなたが強いだけじゃないって知ってるので。優しいとか不器用とか、猫と遊んでたりとかジャム零してたりとか、そういうものも知ってる」
そんなつもりはなかったのに、なぜか私の目から感情が零れていく。
「そういうのも含めて、あなたは私の神様だから」
ヴァイレート様は静かだった。
真っ直ぐな背筋で、視線で、ただ私の言葉を待っていた。
「私は、あなたに助けられて。そればっかりだけど、力になりたくて」
「ああ」
嗚咽が止まらなくなる。でも、ここで終わったらだめだ。そう思って、私は言葉を繋げ続ける。
「だから、ちょっとは悲しいと思ったっていいんです、ヴァイレート様!」
感情を殺さなくたっていい。苦しいことは苦しいと思っていい。だって、あなたはこんなにも優しいんだから。
しゃくりあげながら、ひたすら零れていく涙を見ていた。
不意に顔を上げる。
「ふふ、あはは」
「……なにか可笑しいですか」
ヴァイレート様は、目元を隠して笑っていた。いつもより小さな声で、彼という器から溢れたものみたいだった。
「お前が尊敬しているのは、強い僕なんじゃなかったのか」
「強くても優しくないと意味ないじゃないですか」
「――はは、変な奴だな。僕よりよほど変だ」
ふふ、と笑うヴァイレート様の目元は見えなかった。次第に小さくなっていく笑い声に、私は一歩近づく。
「ありがとう、ノマ」
手をどけて見えるようになったようになった彼の目は、いつもよりちょっとだけ透き通っているようだった。
※
パーティーが終わって数日。
今日の夜ご飯は、きのこと野菜、鶏肉のシチュー。勿論私が作ったものだ。
「うん、美味いな」
頬をほころばせるヴァイレート様に、私はふと口にする。
「ヴァイレート様って、料理下手ですよね」
「は?」
「いえ。間違えました」
そうか、と返す彼は、何事もなかったような顔をする。
「……どうやって生きてきたんですか、これまで」
「は?」
「いえ。料理とか掃除とか、そういうものをひとりでやるのって、大変じゃないですか」
ああ、と頷いた彼は、ふと窓の外を見た。
「言っていなかったようだな、この屋敷には一人召使がいてな。最近出張に行っていたが、そろそろ帰ってくる」
話を聞くに、ちょうど私が来た時期に忙しくなったらしい。貴族社会のいざこざや魔力管理、それから料理に洗濯。その人が大抵をこなしていると聞いた私は、思わず目を見開いた。
「すごい方なんですね」
「ああ。四代にわたって僕に仕えてくれている」
その時。
屋敷のベルが控えめに四回鳴って、ヴァイレート様は立ち上がった。
「喜べ。このベルはあいつだ」
身だしなみを確認してから、彼の後ろについていく。
扉の向こうに立っていたのは、茶色い髪を一つにまとめた青年だった。
――私と変わらないくらい、若い。
ヴァイレート様に深々と頭を下げたその姿は、どこから見ても丁寧で様になっている。指の先まで綺麗に伸びているその動作に、私は少しの間目を奪われた。
「ただいま戻りました、ヴァイレート様」
「ご苦労だったな、ミレネ」
そう呼ばれた青年はこちらに視線を移し、ヴァイレート様に向き直る。
「この方が、例の」
「そうだ。なかなか変な娘だ」
慌てて姿勢を正した私は、さっきの彼に負けないくらい頭を下げる。
「ノマ・ラフメルです。よろしくお願いいたします」
「ミレネ・ラーデルクと申します。以後お見知りおきを」
私の二回り上をいく挨拶に震えていると、ヴァイレート様は耐えられないといった様子で吹き出す。
「あはは、そんなにかしこまってどうする」
「礼儀ですので」
冷静に言い放ってこちらを見つめるミレネさんは、颯爽とした足取りで屋敷に入っていく。
「……随分散らかっていますね。すぐに俺が掃除します」
「お前は少し休んでからにしろ、ミレネ」
ミレネさんは小さく首を横に振って、「掃除してから休みます」と答えた。
彼の視線がこちらに向かう。
――一瞬だけ、冷や汗が出そうな感じがした。
ミレネさんの目から、何か冷たくて鋭いものが伝わってくる。
「私も手伝います、ミレネさん」
「いえ。貴方はそのままで構いません、ノマさん」
ただの気遣いだと言われれば、そうなのかもしれない。でも、その言葉の奥に何かがある。喉の奥に引っかかった小骨みたいな違和感が、私の周囲にぐるぐるしていた。
ミレネさんは、掃除をしてくると言って姿を消した。
テーブルに戻ってきた私たちは、少しだけ冷めたパンを口にする。
「あれも変な男だぞ、ノマ」
「……小声のつもりかもしれませんが、聞こえますよ」
ヴァイレート様は咳払いをすると、ふいと扉の方を見た。
「まあお前とは仲良くできるだろう。真面目でいい奴だ」
そうですね、と、どこか上ずった音程で返してしまう。さっきの視線が引っかかって、どうにも忘れられない。
シチューは美味しかったけれど、さっきより少ししょっぱいような気がした。
夜になっても、ミレネさんは戻って来ない。
やっぱり、このままじゃいけない気がした。これから一緒に暮らす人なんだから、と顔を上げる。
「……よし」
小さく息をついて、私はベッドから腰を上げた。
屋敷の部屋をいくつか巡ると、どこも整頓されていて塵一つなくなっていた。私とヴァイレート様も整理はしていたつもりだったけれど、こうしてみるとやっぱり格が違う。
最後に向かった庭園から、何か音がしていた。
「ミレネさん」
声に出すと、向こうは私を見て一礼する。小さく微笑んでいるその口元に視線がいって、私の声も少し明るくなった。
「お疲れ様です。なにか手伝えることはありますか」
「こんなに夜更かしをされるのですね。どうしましょう、一緒に雑草でも抜きますか」
「はい!」
大きな声を出すと、「雑草で喜ぶ方がいらっしゃると思いませんでした」と笑われる。その手つきが、心なしか柔らかくなっているみたいに見えた。
庭の手入れというのは、思ったよりも大変だ。
雑草を抜くだけにしても、どこまで抜けばいいのかも分からない。次々発見される新しいやつらに、私は苦戦を強いられていた。
一方のミレネさんは、丁寧に、でもものすごい速度で作業を終えていく。
数年の経験差があるとはいえ、私はだんだんと恥ずかしくなってきた。
「すごいです、掃除もこれも、私とはレベルが違う」
ぼそっと発したそれをゆっくりと拾って、ミレネさんは手を止めた。
「本職ですから」
「失礼ですが、何歳ですか」
「二十歳です。ああ、年上ではありますが遠慮はなさらず」
一つしか変わらないはずの年齢、一年分しか変わらないはずの、日々の積み重ね。
それが、私とミレネさんでは大きく違ったんだと思う。
「ヴァイレート様、優しいひとですよね」
私の台詞に、しゃがんでいる彼の動きが止まる。
「……ええ。私たち一家は、彼に助けられてここにいるのですよ」
ミレネさんは誇らしげだった。
繊細な指先や、それに付く泥をなんともしない強さ。その一つ一つに現れているのは、確かな誇りなんだと気づく。
口が滑った。
「私も、ヴァイレート様に助けられたんです。私が身代わりになれることも嬉しいくらい、感謝していて。神様みたいだけど、人間臭いところもあって」
「……そうですか」
彼の視線がこちらに向けられる。
それは、さっきまでとは別人のものだった。
冷えていて棘のあるもの。
「やはり、貴方が身代わりに選ばれた方なのですね」
「ヴァイレート様、言っていなかったんですか」
はぐらかされていましたから、と呟いた彼は、不意に立ち上がって泥を払った。
「なぜ、貴方はここで暮らすことを決めたのですか」
「なぜって、どういう」
立ち上がった私に、彼は一歩踏み込む。
「お答えください」
「――人を辞めたいから、です」
ミレネさんの顔を、真っ直ぐに見る。
「なぜですか」
「囚われたくないからです」
彼の目は鋭かった。私の中身が全部透けてしまって覗かれる、と思った。
「詭弁ですね」
「……なんでですか」
ミレネさんは数歩向こう側に歩く。
「貴方は、自分が力を得たら何をできるとおっしゃるのですか」
「それは」
「弱者を救う?貴族を倒す?それをできる者はごく僅かしかいません。彼でさえ、貴族からの理不尽に苦しまれています」
彼が何を言いたいのか、それに少しずつ脳が馴染んでいく。
私の理屈すべてが殺されていく。
「神になったところで、全てから逃れることは不可能です。ご存じでしょう?この世界はそんなに単純明快ではない」
彼はもう一度こちらを振り返る。
「貴方のこれまでは知っています。逃げるために神を目指しているのだと、予測もしていました」
言葉にならない。
言いたいことも叫びたい衝動も山ほどあるはずなのに、胸につかえているだけだ。
「歪んでいる」
貴方は歪んでいる、と彼は繰り返す。
まるで呪文みたいだと思った。
「苦しくなくなったら気づくのですよ――そんな願いを抱かずにそのまま生きる方が、よほど幸せだということに」
彼がいなくなったあと、私はそこに立ち尽くしていた。
その言葉に縛られていた。
でも、もし縛っているのが過去だとしたら?と、どこかで声がする。
答えは出なかった。
