新星は死ぬまでに

 目が覚めた私がやること。着替え、顔を洗う。
 その後は軽く朝ごはんを作る。そのあと――一番重い仕事が待っている。

「起きてください、ヴァイレート様」
 扉に拳を叩きつけるようなノックを、さらに五回。
 何も返ってこないことを確認しつつ、私はさらに声を張り上げる。
「ヴァイレート様!今日大事な話があるって言ったのは誰ですか!」

 私がヴァイレート様と過ごすようになって、三週間が経った。
 この間に分かったことだけれど、彼はまず起きてこない。それから、料理が壊滅的に下手。
「ノマ、少し待て……」
「また寝る気ですね!」
 どうにかして彼を起こさなければ。朝以外は丁寧に接しているものの、七日目ごろからだんだんと気づくのだ。
 ……放っておくと夕方まで起きてこない、と。

 しょうがない、と呟いた私は、右手にゆっくりと魔力を集め始める。
 指を鳴らすと、扉の向こうから大きな声が聞こえた。
「何故布団が捲れるんだ!ノマ!」
「ただの遠隔魔法です、ヴァイレート様」
「最近の魔術は知らん!」
 駄々をこねている場合ではありません、と口にしつつ、私は人差し指を天に向けた。
 ほどなくして悲鳴が聞こえてくる。
「僕の睡眠を邪魔するな!」
「何時間寝てると思ってるんですか!」
 観念したのか、扉の向こうからごそごそという音が聞こえてくる。
 ため息をついた私は、二人分の食事が用意されている広間まで歩く。
 なんでだろう、まるでスキップみたいなそのテンポに、思わず笑ってしまいそうだ。

「今日、話したいことがあると言ったな」
 食器を洗いながら、ヴァイレート様はふと口にした。
 テーブルを拭く私の手が止まる。
「端的に言うと、お前の最初の仕事についてだ」

 私は小さく頷いた。
 食器洗いを終えた彼は、いつもより少しだけ早く椅子に腰かけた。

「侯爵家のパーティーだ」
「……え?」
 言葉を呑み込むことが上手くできなくて、私の口から出てきたのはたった一つの驚きだけだった。
「侯爵からパーティーに呼ばれている。政治は面倒くさくてな、いつ何があるか分かったものではない」
 そう言うと、ヴァイレート様はいかにも「つまらん」と言わんばかりに腕を組む。
「侯爵って……すごく偉い人じゃないんですか」
「知らん」
 僕を面倒な貴族界に呼ぶ奴は皆阿呆だ、と零した彼は私を見る。
「ノマ、貴族社会のルールはわきまえているか?」
「いえ。ちょっとだけ勉強したくらいです。細かいマナーは全然」
「そうか」
 学院でやったきり、貴族に対する礼儀なんて教わっていない。
 そもそも今回出向くのはノマじゃなくて、ヴァイレート様としての私だから……。
 混乱でぐるぐる回る頭を抱える私は、不意に口に出した。
「そういえばヴァイレート様、爵位がないって本当なんですか」

 伝説みたいなものだった。
 ヴァイレート・アムレアは、貴族でもなんでもない。正義を貫くために、貴族の世界を嫌っている英雄なんだとか。
「ないぞ」
「……本当だったんだ」
 呟いた私に、彼は大きな声でこう添えた。
「手続は煩雑、マナーは全くもって覚えられなかった!」
 だからお前も貴族なんかに頭を下げるな、ヴァイレートは貴族社会のことなど知らん、と口にすると、彼は満足げに口角を上げた。
 思っていたよりも人間臭い理由に、吹き出しそうになる。

「まあ貴族どもの名前だけでも覚えていけば、それで十分だ」
「頑張ります」
 勢いよく席を立った私とは反対に、ヴァイレート様はふいと顔を背けた。
「……どうせ、僕の名前しか必要としていないからな」
 油断していれば聞き逃してしまいそうな、僅かな揺らぎだった。それは空気と、それから私の鼓膜の奥を震わせる。
「……ヴァイレート様」
「さあ、貴族の名前でも暗記するか」
「今ですか」
 ふと目をやると、彼は分厚い手帳のようなものを手にしてにっこりしている。
 嫌な予感がした。
「ああ。パーティーは明日だからな」

 ※

 熱が出るのかと思うくらい、大変な作業のあと。
 羊皮紙に書き取りをした私は、それらを持ったまま机に突っ伏した。
「あはは、さすがに疲れているようだな」
「笑いごとじゃありません」
 これ全部覚えるんですか、と口から不安が零れ落ちる。
「大丈夫だ。こいつは阿呆、それでこいつも阿呆だ」
「覚え方になってません」
 呑気そうなヴァイレート様に、恨みがましい視線を送る。
 彼曰く、出席することそれだけに意味があるらしい。そこらへんに立っていればいいのだと、何度も繰り返して言われた。

 不意に外を見ると、空はもう橙色に染まり始めている。
「命を狙われるとかそういうことって、今回はないんですかね」
 夕暮れに身を任せてしまったから、そんなくだらないものが口をついた。
 彼の横顔を見る。
「今回は何も心配いらない。ただの練習だし、何かあれば僕を呼べ」
 教えてやろう、と彼は手を差し出す。
 握られていたのは、赤い石のついた指輪だった。
 金でできた輪につけられたそれは、簡素なカットをされていた。ずっと前からあるような、王道なもの。
 だからこそ、その美しさが際立っていた。
 吸い込まれそうな赤が燃えていて、でも熱いというよりは冷たい火みたいだった。
「――ヴァイレート様みたい」
 呟いた私の右手に指輪が渡される。
「綺麗だろう」
 はい、とゆっくり声にする。声にしないと、その炎に呑まれてしまいそうだった。
「これを右手の中指にはめると、変装ができる」
「そんな簡単なものなんですか」
「ああ。僕の発明だからな」
 指輪をじっと見つめる私に、ヴァイレート様は笑った。
「簡単だろう。隠されているもの、誰も知らないもの――その真実は意外に簡単だ」

 ※

 朝になっていた。
 なんてことないみたいな顔をして、いつもと変わらない日が昇っていた。
「……寝れなかった」
 空が明るくなるまで目が冴えていて、ひたすら寝返りを打っていた記憶しかない。
 珍しくこの時間に広間にいたヴァイレート様は、私の顔を見るなり声を出した。
「お前、さては寝ていないな。クマがひどいぞ」
「さすがに緊張しますよ」
 机の上に置いてあるのは、昨日必死に書き記したメモだ。
 それを手に取って、頭の中で復唱する。

「さて。変身の時間だ、ノマ」
 数枚の紙切れに目を奪われていた私の真上から、彼の声が降ってきた。
 ヴァイレート様は、指輪をつまんでこっちに渡してくる。
 恐る恐る、両手でそれを受け取る。
「――行ってきます」
「ああ。いってらっしゃい」
 私の部屋。ヴァイレート様がいつも身に着けている黒いシャツやローブを、ゆっくりと身に纏う。
 そして、最後にそれを手に取った。
 指輪はその大きさの割には重くて、どことなく手に馴染む。

「……よし」
 深呼吸をひとつ添えて、私は中指にそれを通した。
 刹那――視界がぐらりと歪む。
 でも、その違和感はたった一瞬。私の周りに広がっていたのは、今までよりもちょっとだけちっぽけな世界だった。
「視線が高い……足が長い」
 自分の体ではない入れ物に、意識だけが放り込まれたみたいだ。でも感覚も思考もちゃんとしていて、私はその楽しさに部屋を歩き回った。

 覚悟を決めてついに辿り着いたのは、部屋の姿見の前だった。
 ゆっくりと開いた瞳を縁取っている睫毛が、とても長い。瞬きするだけで、それはまるで羽みたいに動く。
 真っ白で光沢のある髪は背中まであって、指を絡めるとさらさらと解けた。
「……すごい」
 人間じゃない、と声にした。
 彼の美貌はどう考えても、人の持つそれではなかった。
 そして、それを被る私もまた、今はノマから解放されているんだ。
「すごい、綺麗」
 繰り返すと、形のいい唇から低い声が零れる。

 私は、しばらくそのまま鏡と睨めっこしていた。
「おいノマ!馬車が来ている」
「今行きます!」
 普段より大きな一歩で部屋をあとにする。振り返った私の目に映る姿見の中に立っていたのは、まぎれもなくヴァイレート様そのひとだった。

「いい感じだな。さすが僕の完璧な魔術だ」
 玄関先まで出ていった私に、ヴァイレート様は目を細める。
「もっと堂々と胸を張れれば完璧だ。僕の美貌が際立つ」
「そうですね。……自分で言わなければもっとかっこいいんですけど」
「なんと言った、今」
 軽口をたたいていると、心臓の鼓動が落ち着いてくる気がする。

「無事に帰ってくることだ。行ってこい、ノマ」
「いってきます、ヴァイレート様!」
 部屋に引っ込んでいくヴァイレート様は、去り際に不器用なウィンクを残していく。
 それができないことが私と同じで、ちょっとだけ励まされた。

 ほぼ籠りきりだった屋敷の敷地には、至る所に草花が生い茂っている。
 なんだか、童話に出てきそうな建物。
 門の外には馬車が控えていて、こちらを見るなり馭者は深く頭を下げた。

「レーチェ侯爵の屋敷まで、頼む」
 馬車なんてのは初めて乗ったけれど、意外と揺れるものみたいだ。かたかたというそのリズムは心臓まで揺らしてきて、上手くできるかなんて不安になる。
 ――朝まで何度もイメージしてきたんだ、大丈夫。
 ヴァイレート様だったらこうするだろうと思ったから、私は彼みたいに足を組んでみた。頬杖をついて、無理やり口角を上げてみる。

 そんなことをしていたら、かなりの時間が経っていたみたいだ。
「到着いたしました」
「ご苦労」
 地面をゆっくりと踏んだ私の目には、視界に収まりきらない宮殿が飛び込んでくる。
 思わず立ち止まったそのとき、門番がこちらに礼をした。
「ヴァイレート・アムレア様ですね。こちらへどうぞ」
「ああ。よろしく頼む」

 宮殿の中は、外よりももっと、おとぎ話のお城みたいだった。
 天井にも壁にも絵が描かれているし、階段の手すりは金色。ヴァイレート様の屋敷なんて、平民の私にとってはまだ優しいほうだったんだ。
 なるべく周囲をきょろきょろしないように、なるべく一歩を大きく。
 心の中で何度も唱えながら、ひたすら前を見て真っすぐに歩く。
 先が見えないと思ってしまうくらい長かった廊下の先には、どこまでも広がるような空間があった。
 磨き上げられた床は光を反射して眩しく、荘厳な柱がいくつも立っている。
 煌びやかな衣装を身に着けた客たちを、穏やかな曲が包み込んでいく。
 私がそこに足を踏み入れると、入り口に立っていた従者が声を張り上げた。

「――赤の塔より、ヴァイレート卿」
 その場にいた貴族たちの視線が、一瞬でこちらへと集中する。
 尊敬か畏怖か、それとも陰謀か。私には判別がつかない様々な表情、そしてざわめきが会場を覆った。

 数分が経った。
 歓談を始めている貴族たちは、一切こちらに話しかけてこない。
 百年生きている魔法使いという響き、それから爵位を断る態度。そういうものが、ヴァイレート様をこの空間からはじいているような気がした。
 彼は「絶対にこちらからは話しかけるな」と、私に教えてくれていた。
 私の覚えた名簿は意味をなさない。ただ、空白の時間が流れていく。

 貴族の服は面白い。
 私が今着ている服も装飾は多いけれど、ヴァイレート様は簡素なものの方が好きみたいで、周囲を見渡すともう目が眩みそうになる。
 大きな宝石とかひらひらとした布とか、そんなもので彼ら自身を飾っている。
 私は、きっとそうだ。
 こうやって綺麗な世界で生きる人々のことが、少しだけ怖いんだ。

「お集まりいただきありがとうございます」
 はっと正面を向くと、壇上には一人の男性が立っていた。
 ここにいる誰よりも鮮やかな、青の燕尾服を身に纏っている。
「本日の主催をいたします、ルーク・レーチェです――皆さま、よい時間をお過ごしください」
 男は丁寧に一礼をし、ゆっくりと段を下っていく。
 その黒い髪を靡かせる姿は、どこか上品ででも強そうだと思った。
 最後の段に足をかけた、その瞬間。
 レーチェ侯爵が一度だけこちらを見た気がして、私は瞬きする。
 それが気のせいだったというように、目を開けたら彼は横を向いていた。

 レーチェ侯爵がステージから降りたのを確認し、貴族たちはまたグラスを手にする。
 宴が始まることを告げるように、ヴァイオリンの音色が響く。

 曲とともに彼らは中心を向いて、そのまま歩きはじめた。
 貴族たちが「舞踏会」とかいうものをやる、と聞いたことはあったけれど、私が実際に見るのはもちろん初めて。
 私はワイングラスを手にしたまま、それをじっと見つめた。
 踊り自体はそんなに複雑なものではなさそうだけれど、やっぱり上手い下手は分かるなあ。そんなことを考えることにして、必死に紛らわせる。

 宮殿に入った時から、私の心臓は締め付けられていた。
 夜が近づくなんて考えないようにする。
 貴族服を着た男性が、その手を女性の腰に添える。たったそれだけのことが視界に入るたび、私の目の前はちかちかしていた。
 押し殺していたものが、だんだんと影を大きくしていく。
 ――私は大丈夫。もうあの時の私じゃない。
 もう無力じゃない、もうノマじゃない。

 ……限界だった。
 もし、私が偽物だとばれてしまったら?
 その発想が頭をよぎった瞬間、手が汗で濡れていく。

 こちらに向かってくる人がいないこと、それだけが救いだ。
 音楽に、そしてそこで繰り広げられるもの全てに背を向ける。
 そして、次の瞬間だった。

 パッ、という音と共に、暗闇が目を覆い隠した。
 何も見えない中、貴族たちの困惑の声だけが届いてくる。
「お楽しみいただいているようですね、皆さま」
 さっきの声だ、と思った。さっき壇上で聞いた、あの鋭い声。
「このパーティーにはいくつか目的があります。一つ目は、皆さまの親睦を深めてもらうこと。そしてもう一つは――」
 今度は盛大な音がして視界が明るくなる。

「私を殺そうとしている者を突き止めること、だ」
 ざわめきが走った。
 明るくなった大広間には、数人の兵士が控えている。扉を固めるように彼らが立っていることを確認したレーチェ侯爵は、「さて」と声を出した。
「今日私を殺すために参加している者がいる、それは知っている。ただ、名前までは聞いていないのでね」
 その発言に、ますますどよめきだけが広がっていく。

「すぐ名乗り出てもらえるように、皆さんには言っていなかったね。びっくりしただろう?あのヴァイレート卿が来るなんて」
 どういうことなのか、全く分からない。
 ヴァイレート様が侯爵から疑われているのか、それとも……。

「ヴァイレート卿の力は皆ご存じだろうからね。正義に溢れた彼に殺されるか、それともここで名乗り出るか。選ぶ権利をあげようと思ったんだ」
「――は」
 小さく声が漏れた。
 この人は、ヴァイレート様を利用している。
「……だから私たちも知らなかったのね」
「……どういうことなんだ」
 小さな混乱は、やがて会場全体へと広がっていく。

 なんで、そんなことができるのか分からなかった。ヴァイレート様がこれを知らなかったことは間違いない。
 なんで、なんでこんな騙すような真似を。
 周囲の視線は、私の方に集まっていた。
「ヴァイレート卿は大変強くてね。こんな建物くらいならすぐ吹き飛ばせる」
 その声は必要以上に大きくて、低い。

 大広間に流れるのは、困惑と恐怖の声――そしてそのあとは沈黙ばかり。
 私は、私のそれより大きな足で踏ん張っていた。

 ぞっとするような静寂の後、右端の方から嗚咽とともに叫び声が聞こえてくる。
「許して、ください……っ!侯爵……!」
「ああ、名乗り出てくれてありがとう。お前だったんだね」
 泣き崩れた男に、侯爵は声をかける。近くにいた兵士たちが彼を取り囲み、そのまま外へと引き出されていった。
「さて、宴の続きをしましょうか。反逆者を捕まえるのに協力してくれてありがとう――ヴァイレート卿」
 ぽつぽつとした拍手が会場を包んでいく。
 貴族たちはまた踊り出す。何事もなかったかのように、それでいて、決してこちらには視線を送らないように。

 私は、ただ黙っていた。
 泣いちゃだめだ。
私は知っている、ヴァイレート様は強くて優しいってこと。
最強の魔法使い、不死身の天才。
そんな言葉を利用するなんて、と言いたくても、誰もヴァイレート様の本当を知らないから。
――誰も知らないから、ヴァイレート様はずっと孤独なんだ。

 泣かないように、ぐっと拳を握りしめる。
 何事もなかったかのように流れてくる音楽と、安心したような貴族たちの声が混ざり合って反響した。
 更けていく夜に、私はただ小さく震えていた。