取材代行人・日野一穂のひとりごはん

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 新神戸駅を午後二十時四十八分に出る新幹線は、乗客もまばらで、車内放送以外話し声もなくしんとしていた。
 席に座り、間に合ったことに安堵の息を吐く。ひとまずは日付が変わる前に東京へ着きそうだ。

 記憶が鮮明なうちにレポートの下書きを進めておこうとノートパソコンを開く。
 スマートフォンが鳴ったのは、書き始めてすぐのことだった。画面には犬上の名前が表示されている。
 あわててパソコンをしまうと、デッキへ移動し通話ボタンを押した。

「はい、もしもし」
『日野さん? すまないね。移動中かもと思ったんだけど、今日の出張は遅くなりそうだから、一応確認しておこうと思って。無事に終わったかな』
「旅程表の分はすべて回り終えました。いま新幹線です。犬上さんこそ、こんな時間まで仕事ですか?」
『まさか。もう家で、食事も終わったところだよ。スムーズに終えられたならよかった』

 心配でわざわざ連絡してくれたのか。のんびり夕食を食べていたことを思い出し、申し訳なくなった。

『実は今日になって砂原さんから連絡が入ってね。レポートは約束の期日で構わないけれど、それ以外の部分は執筆を始めたいから、資料だけ先に送ってほしいそうだ。ほら、図書館でスキャンを頼んでたやつ。明日にでも頼めるかな』
「わかりました。データはあるのですぐにでも送れると思います」
『助かるよ。どうだった、神戸は。僕ももう二十年前に行ったきりだけど、おいしそうなものがいろいろあったろう』
「でも予定は全部組んでありますから」

 それはそうか、と犬上が笑った。
 トンネルを抜けると、窓の外は暗い山の景色だった。

『もうひとつ、先方からあちらの事情を話してもらって構わないということでね。これまで自分のことはどうしても必要な場合以外明かさないようにしてたんだけど、取材は一緒に作品を作っているようなものだから伝えてほしいって。もう現地調査は終わっちゃったけど、聞いてくれるかな』
「もちろんです。レポートの助けになるかもしれないし」

 犬上はそこで一拍置いた。

『砂原みずきさんは……。くわしくは言えないけど、日野さんとそう歳の変わらない人でね。本はあまり、というかほとんど読んでいなかったと聞いてる。ただ学生のころ事故に遭ってね。後遺症が残ったんだ』

 デッキの窓から見える外の風景は、相変わらず暗い。それでも、時おり道にぽつんと立つ街灯の明かりが、視界を通り過ぎていった。

『リハビリは続けているけど、いまでも外へ出かけるのは難しいらしい。それもあって、病院にいたころから読書が唯一の楽しみになったんだと言っていた。自分は部屋から出られなくても、本を読んでいる間はこことは違う場所へ行けるから』

 それまでは本なんて宿題でもない限り手に取らなかったそうだが、と笑った。

「そうだったんですか……。でもデビューから三年で、いまでは人気作家ですもんね。すごいです。本当に」
『ああ。それでどんな作家を読んでいたのか聞いたら、いろいろタイトルを挙げてくれた。その中に、〈最果てのユルシュール〉があったんだ。たまたま家族が買ってきてたとかで手に取ったそうだけど、それを読んで自分も物語が書きたいと思ったらしい』

 わたしは返事ができなかった。
 犬上はゆったりとした口調で続ける。

『穂高あかりはペンネームだから、まさか取材代行人がその著者とは気づいてなかったけど。いや、これは余計なことを言ったね。じゃあ資料とレポート、よろしく頼むよ』

 電話を終えてから席に戻った。大阪に近付いているのか、ぽつぽつと明かりが見え始めている。
 そういえば、と思い出した。
 まだ物語を書き始めたばかりだった子どものころ。拙い文章を綴りながら、登場人物とどこか遠くへ旅をするような気持ちでどきどきしたものだ。
 メモ帳を開いて、報告のためではなく、思いついた言葉をただ書き連ねていく。

 そばめし。船のコック。いろいろな人や物が流れ着く場所。

 まるで要点を得ないメモを読み返し、やっぱりこれはレポートには書けないなと苦笑する。かといって捨てることもできない。

 ――物語は逃げないから。

 いつか、自分のための取材ノートを作ることもあるだろうか。いつか、もう一度物語を書きたいと思うことがあるのだろうか。
 いつか。
 わたしはメモをしまうとひとつ伸びをして、再びパソコンを開く。一瞬、暗い画面に映った顔は、自分でも気づかないままちょっとだけ笑っていた。