取材代行人・日野一穂のひとりごはん

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 その後、北野の洋菓子店を取材してから南京町に回り、西宮女学院大学へ足を伸ばした。
 『白いリラの咲くころ』の作中で、主人公の祖母は料理研究家になる以前、ここで講師として教えていたという設定だ。戦前に建てられた洋風建築の校舎は文化財にもなっており、広いキャンパスの中を歩き回って写真を撮る。

 だがそれで終わりではない。
 ここの付属図書館には神戸や大学の歴史に関する資料が収蔵されているが、中には持ち出し禁止のものもある。それをスキャンしてデータを送ってほしいというのも、今回の依頼だ。
 ただ指定された資料が膨大なうえ、必要なものを間違いなくスキャンできたか、リストを突き合わせて確認するにも時間がかかる。作業を終えて図書館を出た時には、すっかり日が暮れていた。

 そこからまた、地下鉄で三宮へ戻る。
 港にはポートタワーが赤く浮かび上がり、イルミネーションで輝く巨大な観覧車もゆっくり回転していた。南京町の西門が鮮やかな朱色に照らされ、通りには観光客や仕事帰りの会社員が行き交っている。
 午後十九時三十二分。東京行の最終便まで一時間半ほどあった。
 一本早い新幹線で帰るという手もある。だがふとウエイトレスの言葉がよみがえった。

 ――よろしければ気まぐれなお散歩も楽しんでみてください。
 
 まだ日が昇り切らないうちに家を出て、作品の取材で一日中歩き通しだった。この一時間くらいは、仕事を忘れて思うまま過ごしてもいいかもしれない。
 南京町や港は昼間のうちに回ったので、なんとなくそれとは違う場所へ行きたくなり、駅の高架線に添って西へ向かう。

 辿り着いたのは、元町のアーケードだ。
 異人館街の瀟洒な風景や、旧居留地の荘厳さとは打って変わって、庶民的な飲み屋から人々の笑い声が漏れ、気取らない雰囲気だった。人気店らしく行列のできている店もある。
 とはいえ、これから新神戸駅に戻るとなると、残された時間は四十分ほどしかない。神戸名物である鯛めしやたこめしの幟を掲げた店も目に入るが、これから炊いてもらってはとても間に合わないだろう。

 何か手早く食べられるものは、ときょろきょろしながら進んでいく。
 ふと風に乗って甘いソースの匂いが流れてきた。鉄板焼きの店らしく、「お好み焼き」と染め抜かれた暖簾がかかっている。入口には黒板のメニュー表が出ていた。

〈そばめし〉

 確か、中華麺を細かく刻みながらご飯と混ぜ、ソースで味付けした神戸の名物だ。テレビで見た時には麺とご飯を一緒に食べるのかと驚いたけれど、ソースの焦げる香ばしい匂いには逆らえない。引き寄せられるように暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませっ」

 威勢のいい声に迎えられる。
 建物は古いコンクリート造りだが、中に入るときれいに改装されていた。壁紙には染みもなく、よく磨かれて黒光りする鉄板の上で肉がじゅっと音を立てる。
 狭い店の中は先客でいっぱいになっており、わたしはどうにか一番端のカウンター席に滑り込んだ。そのままメニューに目を通す。
 なかなか幅広いラインナップだ。お好み焼きや焼きそばに加え、焼き鳥にホルモン炒め、チヂミまである。そばめしも種類豊富だ。通常のそばめしに、豚そばめし、オムそばめし。

「お決まりですか?」

 ふっくらとした中年女性がカウンターの向こうから尋ねた。

「えっと、このぼっかけそばめし? って……」
「お客さん、神戸には仕事で来たの?」

 わたしが羽織っているジャケットにちらりと視線をやる。

「ぼっかけっていうのは、そうねえ、牛すじとこんにゃくを甘辛く煮込んだ料理。神戸ではよく食べられてるんだけど、それを刻んでそばめしに混ぜ込むの。うちのぼっかけは神戸牛のすじを知り合いの肉屋から卸してもらってるから、うまみが濃くてぷりっとして、そりゃあおいしいよお」

 聞いているだけで唾が湧いてくる。

「じゃあぼっかけそばめしの並をお願いします」

 「はいよっ」と威勢のいい声が帰ってきた。
 飲み物は、これも地元の名産らしいアップルサイダーを頼む。普段は食事にサイダーなんてまず合わせないけれど、百年以上続く老舗のサイダーとかで、興味が湧いた。

 サイダーはすぐに提供された。グラスに注いで飲むと、予想に反して甘ったるくない。炭酸が強くきりっとした飲み口だ。
 後ろのテーブル席では、わたしより少し前に来たらしいグループが注文している。

「山芋のバター焼きに豆腐チーズと、トンテキと……。そうそう、もうぼっかけそばめしも人数分持って来ちゃってください。あ、ふたつは大盛りの肉増量で!」

 隣に座っていたサラリーマン風の男性は焼き鳥とビールで飲んでいたが、店員の女性にお酒のお替りを尋ねられ、「今日はもう〆にしようかな。最後にぼっかけそばめしもらおうか」と答えている。
 どうやら店の看板メニューらしい。

 これも依頼人に提出するレポートに書いておこうか。でも今回、取材先はルートも含めて細かく指定されていた。
 この店はわたしが勝手に寄っただけだから、余計なことをされたと思って気を悪くするかもしれない。

「はい、お待ちどうさま」

 わたしの考えはそんな言葉で断ち切られた。
 目の前にあるのは、何ともレトロな銀の皿に盛られた「そばめし」だ。
 麺は米粒と見分けがつかないほど細かく刻まれ、それに対して牛すじはごろりと大きく、食べ応えがありそうだ。全体が濃い茶色で、その上にねぎが散らしてあった。
 記録用に写真を、と上着のポケットからスマートフォンを取り出そうとして手を止める。

 いや、いい。これは自分の時間だ。
 スマートフォンを取り出す代わりにジャケットを素早く脱ぎ、「いただきます」と手を合わせた。スプーンにたっぷり掬ってから、はっとする。
 口に入れなくてもわかる。ぱらぱらだ。こんなにソースが入ってたらべちゃっとなりそうなのに、全然そんなことはない。
 一口頬張ると、複雑なうまみが一気に弾けた。

 ――おいしい!

 味が濃いのではないかと心配していたけれど、さらりとした口当たりで、いくらでも食べられる。牛すじとこんにゃくはぷりっとした歯ごたえで、またいいアクセントになっていた。ソースの甘さが一日歩き続けて疲れた身体に染み渡る。
 もう一口。あまりのおいしさに、「うーん」と目を閉じる。
 そこからは、もう一気だった。
 じっくり味わいたいのにスプーンを動かす手が止まらない。口の中が脂っぽくなったらサイダーで洗い流し、またそばめしへ。「カレーは飲み物」という言葉があるけれど、このそばめしこそ飲み物だ。

 そうこうしているうち、テーブル席のグループにも料理が運ばれてきた。わたしのそばめしより一.五倍ほど多めに盛られ、その上からごろごろとぼっかけがかけてあった。自分も大盛りにするべきだったか、と後悔が過る。

「おいしそうに食べるねえ」

 ほとんど食べ終えたころ、女性にそう声をかけられた。店員は他にもいるけれど、この人が店主のようだ。

「本当においしいです。ぼっかけのおかげでしょうか、ソース以外にもいろんな味がするというか……」

 元作家としては情けない感想だったが、彼女は笑って答えた。

「そばめしを食べさせる店はたくさんあるけど、うちは一味違うよ。麺をほぐす時に、ただのお湯じゃなくてブイヨンを使ってるの」
「ブイヨン?」
「そう、鶏がらや野菜を煮込んで、お店で一から作ってる。あと隠し味にバターを入れるのよ。ハイカラな味がするでしょ」
「ハイカラですか」

 いったいいつの時代なんだろうと苦笑してしまう。
 だが女性は当然と言いたげに続けた。

「神戸は港町だから。むかしからいろんな人や物が流れ着いては、また旅立っていったでしょう。わたしの父親も船に乗ってたの」
「船員さんですか?」
「いいえ、コックよ。船と言っても客船じゃなく貨物船だけどね。料理しながら世界中を回ったんだって。ただ、母親……わたしのおばあさんが身体を悪くしてからは、家を長く空けられないからって船を降りて、このお店を始めたの。もう四十年くらい前かな。お店は三年前に改装したから、そのころとは変わってるけど」

 そう言って天井に視線をやる。

「父も数年前まで店に立ってたけど……。歳を取ってからも、店を閉めた後まっすぐ家に帰ってこないの。港をぶらついてね。気分転換と思って放っておいたけど、もしかしたらむかし船に乗ってたころ行った、遠くのことを考えてたのかもしれない」

 それからはっとした顔になり、

「ごめんごめん、話し過ぎちゃった。なんだかお姉さんの顔見てるといろんなことを思い出して。もしかして、そういう仕事してるの? 人の話を聞くような」
「そう、ですね。出版関係なので、取材させていただくことは多いです」
「すごいじゃない。じゃあうちの店も、そのうち雑誌や本に載っちゃったりして」

 わたしは残ったそばめしを頬張った。甘辛いぼっかけと深みのあるブイヨン、バターとソース、それに様々な香辛料が口の中でひとつに溶け合う。

「本当ですね。ハイカラな味がする」

 女性店主はにやりと笑ってみせた。