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「神戸……、ですか」
「そう。主な取材先は神戸グランドホテルと、西宮女学院大学の栄養学部。むかしの家政学部だね。ちょっと忙しくなるかもしれないけど、日帰りで行けないことはないだろう」
三鷹の駅に近いカフェチェーンで、犬上は眼鏡を押し上げながらそう言った。
犬上草一。はっきりした年齢は聞いたことがないけれど、六十五歳を超えていることは確かだ。初めて会ったのはまだわたしが十九歳のころだから、八年前になる。
髪の毛はすっかり白くなって、少し垂れた目がいつも笑っているようだ。それでいて眉はきりりと締まり、細身だが背は高く、若いころはさぞ女性を泣かせてきたのだろうなと思わせる容姿だった。
わたしは彼から『白いリラの咲くころ(仮)』と書かれた資料を受け取り、表紙をめくった。
戦後間もない時期に料理研究家として活躍した祖母の足跡を、現代の東京に生きる彼女の孫が辿り直すというストーリーだ。そのうち第三章はほぼ全編で神戸が舞台となっている。
「日野さん、神戸へ行ったことは?」
「学生のころに一度だけ。それも乗り換えでちょっと降りただけなので、南京町も異人館も行ったことはありません」
彼に〈日野一穂〉と呼ばれるのは、いまだに違和感がある。この名前で付き合っている期間の方が長いのに、出会ったころ別の名前で呼ばれた印象が強すぎるのだろうか。
さらにページをめくると、著者の砂原みずきについても簡単な経歴が記されていた。
三年前に一般文芸とミステリの新人賞をダブル受賞してデビュー。以来、年に二冊から三冊のペースで作品を発表している。既刊にはシリーズ化された人気タイトルや、書店大賞の候補に選ばれ話題になった作品もあったが、この新作『白いリラの咲くころ』は少し毛色が違うようだ。
「この小説、うまく言えないけれど、これまでの作品と比べて時間的なスケールが大きくなってますね。主人公が生きている現在と、祖母が生きた昭和、ふたつの時間軸で物語が進んでいくところとか。登場人物の感情についても、深いところまで手を入れようとしている気がします」
言ってから頬が熱くなった。単なる代行の身で、何を偉そうにしているのだろう。
だが犬上は気にした様子もなくうなずいた。
「あちらの編集さんとしては、この作品で今度こそ書店大賞を獲りたいとのことだ」
「責任重大ですね……」
「なあに、作品の内容について判断するのは代行人の仕事じゃない。材料を提供して、どう調理するかは作家の手にかかってるんだから」
犬上はブラックのコーヒーを一口飲み、いたずらっぽく笑った。
この笑顔もまた、「女性を泣かせていそう」と思ってしまう所以だ。
「新作は書き下ろしじゃなく、文芸誌へ掲載されるらしい。来年の一月から、半年くらいの連載になる予定だ」
「じゃあ少しは余裕がありますね。どういった理由で依頼してきたんでしょうか」
取材代行を依頼する理由として、最も多いのは「多忙」だ。人気作家の場合、現地に足を運ぶ数時間で原稿一枚でも書いてほしいという編集者は多い。
また最近は、外国に暮らしている小説家も増えた。リモート会議が一般化し、原稿もデータで送れるようになって、著者が一度も出版社へ足を運ばないまま本を出すこともめずらしくない。その場合、日本を舞台に書くにしてもなかなか現地を訪れるのは難しく、取材代行人の出番となる。
犬上は微笑んだだけでわたしの質問には答えず、「行ってくれるかな」と尋ねた。
断る理由はない。特別なスキルも才能もない自分が東京でひとり暮らしを続けていられるのも、小説にかかわる仕事を続けられているのも、犬上のおかげだ。
「わかりました。今週末までに下調べはしておきます」
「助かるよ」
そんなやり取りをしたのが二週間前。
わたしは星沢に案内されながらホテルのバックヤードを回り終え、一度ロビーへ戻った。そこからエレベーターで二階のレストランへ向かう。広々としたメインダイニングには、白いクロスをかけられたテーブルが並んでいる。
「それでは自分はここで。後のことはレストランの者に伝えておりますので」
そう言って一礼し、星沢はレストランを後にした。
代わって三十代ほどのウエイトレスがテーブルにやって来る。黒く艶のある髪をお団子にして、背筋はぴしりと伸び、ホテル・レストランの給仕にふさわしい出で立ちだ。
「日野一穂さまですね。本日はご予約でいただいております」
この食事も単なる観光ではなく、取材の一環だ。
『白いリラの咲くころ』にはホテルを訪れた主人公が祖母の遺したレシピを発見し、再現するというシーンがある。そこで登場する料理を実際に食べて感想を聞かせてほしいとのことだった。
数十年前のレシピなのでメニューには載っていないが、問い合わせたところ数日前に予約すれば対応できるらしく、無理を言ってお願いした。
「お待たせいたしました。こちら、舌平目のピラフです。一九六九年のレシピで仕上げております」
そんな言葉とともに差し出された皿は、見た目からインパクトが強かった。
ヒラメは火を通した姿のままくるりと丸まって棒状になり、ピラフに混ぜ込まれている。そのピラフも現在のメニューに載っている白く上品なものではなく、ライスはうっすらと茶色がかって、その上からパセリが散らしてあった。盛り付けは丁寧だが、豪快な見た目はいかにもクラシカルだ。
ウエイトレスは丁寧に料理の説明をしてくれた。
「新しいレシピではライスを魚の出汁で炊いてるんですが、当時はチキンブイヨンを使っていました。ヒラメもただ火を通して丸まったように見えますが、小麦粉の打ち方にコツがあって、ここまできれいな棒状にするには技術が必要だそうです」
「なるほど……。今日は予約時間に合わせていただきましたけど、そうでない場合、提供までどのくらいかかりますか」
「四十分ちょっとでしょうか。お米を炊く時間もありますので、少しお待ちいただくことになるかと思います」
いくつか質問しながら、料理に向けてスマホカメラのシャッターを切る。
そして冷めない間に一口。今の人にはくど過ぎると感じられるような味だけど、パセリがうまいこと清涼感を与えている。ウエイトレスの話によると、むかしは時期によってパセリが手に入らないこともあり、そんな時はシソを使っていたらしい。
おいしい。だが食べることに夢中になっては本末転倒だ。
この食事も、あくまで現地に来られない著者の〈代行〉なのだから。
味はもちろん香りや触感、スタッフの対応についても細かく記録しながら、時間をかけて食べ終えた。
「取材で来られたとうかがっておりますが」
皿を下げに来たウエイトレスに声を掛けられた。
「ええ。今回みたいに事情をわかってくださっている所ならいいんですけど、そうじゃないとスパイみたいですよね。スマートフォンで打ち込む方がまだ怪しくないんだろうけど、メモは手書きじゃないとやりにくくて」
わたしの答えに、彼女は小さく笑った。
「日野さま、この後はどちらへ?」
「北野の〈洋菓子本舗シャン・テリー〉と、南京町にも回ります。それから女学院大学の栄養科でお話を伺う予定です」
「〈シャン・テリー〉と言いますと、マロンクリームケーキですか」
うなずいてみせた。クリームに裏漉しした栗をたっぷり合わせた、今でいうモンブランだ。〈シャン・テリー〉はそれを神戸で初めて提供した店らしく、小説に洋菓子のエピソードも入れたいということで取材先に加えた。
「南京町でも大正時代からの豚饅頭があるそうなので、それを。食べてばっかりですね」
「でも全部お仕事なんでしょう」
「ええ。旅程表は細かく決まってますから」
「もしお時間があれば、気まぐれなお散歩も楽しんでみてください。神戸はただ歩くだけでも、気持ちのいい場所ですよ。そしてよろしければ、またプライベートでもいらっしゃってください」
大変なこともあるだろうけれど、この街のホテルで働いている自分に誇りを持っているのが感じられた。
「ありがとうございます。またぜひ」
「神戸……、ですか」
「そう。主な取材先は神戸グランドホテルと、西宮女学院大学の栄養学部。むかしの家政学部だね。ちょっと忙しくなるかもしれないけど、日帰りで行けないことはないだろう」
三鷹の駅に近いカフェチェーンで、犬上は眼鏡を押し上げながらそう言った。
犬上草一。はっきりした年齢は聞いたことがないけれど、六十五歳を超えていることは確かだ。初めて会ったのはまだわたしが十九歳のころだから、八年前になる。
髪の毛はすっかり白くなって、少し垂れた目がいつも笑っているようだ。それでいて眉はきりりと締まり、細身だが背は高く、若いころはさぞ女性を泣かせてきたのだろうなと思わせる容姿だった。
わたしは彼から『白いリラの咲くころ(仮)』と書かれた資料を受け取り、表紙をめくった。
戦後間もない時期に料理研究家として活躍した祖母の足跡を、現代の東京に生きる彼女の孫が辿り直すというストーリーだ。そのうち第三章はほぼ全編で神戸が舞台となっている。
「日野さん、神戸へ行ったことは?」
「学生のころに一度だけ。それも乗り換えでちょっと降りただけなので、南京町も異人館も行ったことはありません」
彼に〈日野一穂〉と呼ばれるのは、いまだに違和感がある。この名前で付き合っている期間の方が長いのに、出会ったころ別の名前で呼ばれた印象が強すぎるのだろうか。
さらにページをめくると、著者の砂原みずきについても簡単な経歴が記されていた。
三年前に一般文芸とミステリの新人賞をダブル受賞してデビュー。以来、年に二冊から三冊のペースで作品を発表している。既刊にはシリーズ化された人気タイトルや、書店大賞の候補に選ばれ話題になった作品もあったが、この新作『白いリラの咲くころ』は少し毛色が違うようだ。
「この小説、うまく言えないけれど、これまでの作品と比べて時間的なスケールが大きくなってますね。主人公が生きている現在と、祖母が生きた昭和、ふたつの時間軸で物語が進んでいくところとか。登場人物の感情についても、深いところまで手を入れようとしている気がします」
言ってから頬が熱くなった。単なる代行の身で、何を偉そうにしているのだろう。
だが犬上は気にした様子もなくうなずいた。
「あちらの編集さんとしては、この作品で今度こそ書店大賞を獲りたいとのことだ」
「責任重大ですね……」
「なあに、作品の内容について判断するのは代行人の仕事じゃない。材料を提供して、どう調理するかは作家の手にかかってるんだから」
犬上はブラックのコーヒーを一口飲み、いたずらっぽく笑った。
この笑顔もまた、「女性を泣かせていそう」と思ってしまう所以だ。
「新作は書き下ろしじゃなく、文芸誌へ掲載されるらしい。来年の一月から、半年くらいの連載になる予定だ」
「じゃあ少しは余裕がありますね。どういった理由で依頼してきたんでしょうか」
取材代行を依頼する理由として、最も多いのは「多忙」だ。人気作家の場合、現地に足を運ぶ数時間で原稿一枚でも書いてほしいという編集者は多い。
また最近は、外国に暮らしている小説家も増えた。リモート会議が一般化し、原稿もデータで送れるようになって、著者が一度も出版社へ足を運ばないまま本を出すこともめずらしくない。その場合、日本を舞台に書くにしてもなかなか現地を訪れるのは難しく、取材代行人の出番となる。
犬上は微笑んだだけでわたしの質問には答えず、「行ってくれるかな」と尋ねた。
断る理由はない。特別なスキルも才能もない自分が東京でひとり暮らしを続けていられるのも、小説にかかわる仕事を続けられているのも、犬上のおかげだ。
「わかりました。今週末までに下調べはしておきます」
「助かるよ」
そんなやり取りをしたのが二週間前。
わたしは星沢に案内されながらホテルのバックヤードを回り終え、一度ロビーへ戻った。そこからエレベーターで二階のレストランへ向かう。広々としたメインダイニングには、白いクロスをかけられたテーブルが並んでいる。
「それでは自分はここで。後のことはレストランの者に伝えておりますので」
そう言って一礼し、星沢はレストランを後にした。
代わって三十代ほどのウエイトレスがテーブルにやって来る。黒く艶のある髪をお団子にして、背筋はぴしりと伸び、ホテル・レストランの給仕にふさわしい出で立ちだ。
「日野一穂さまですね。本日はご予約でいただいております」
この食事も単なる観光ではなく、取材の一環だ。
『白いリラの咲くころ』にはホテルを訪れた主人公が祖母の遺したレシピを発見し、再現するというシーンがある。そこで登場する料理を実際に食べて感想を聞かせてほしいとのことだった。
数十年前のレシピなのでメニューには載っていないが、問い合わせたところ数日前に予約すれば対応できるらしく、無理を言ってお願いした。
「お待たせいたしました。こちら、舌平目のピラフです。一九六九年のレシピで仕上げております」
そんな言葉とともに差し出された皿は、見た目からインパクトが強かった。
ヒラメは火を通した姿のままくるりと丸まって棒状になり、ピラフに混ぜ込まれている。そのピラフも現在のメニューに載っている白く上品なものではなく、ライスはうっすらと茶色がかって、その上からパセリが散らしてあった。盛り付けは丁寧だが、豪快な見た目はいかにもクラシカルだ。
ウエイトレスは丁寧に料理の説明をしてくれた。
「新しいレシピではライスを魚の出汁で炊いてるんですが、当時はチキンブイヨンを使っていました。ヒラメもただ火を通して丸まったように見えますが、小麦粉の打ち方にコツがあって、ここまできれいな棒状にするには技術が必要だそうです」
「なるほど……。今日は予約時間に合わせていただきましたけど、そうでない場合、提供までどのくらいかかりますか」
「四十分ちょっとでしょうか。お米を炊く時間もありますので、少しお待ちいただくことになるかと思います」
いくつか質問しながら、料理に向けてスマホカメラのシャッターを切る。
そして冷めない間に一口。今の人にはくど過ぎると感じられるような味だけど、パセリがうまいこと清涼感を与えている。ウエイトレスの話によると、むかしは時期によってパセリが手に入らないこともあり、そんな時はシソを使っていたらしい。
おいしい。だが食べることに夢中になっては本末転倒だ。
この食事も、あくまで現地に来られない著者の〈代行〉なのだから。
味はもちろん香りや触感、スタッフの対応についても細かく記録しながら、時間をかけて食べ終えた。
「取材で来られたとうかがっておりますが」
皿を下げに来たウエイトレスに声を掛けられた。
「ええ。今回みたいに事情をわかってくださっている所ならいいんですけど、そうじゃないとスパイみたいですよね。スマートフォンで打ち込む方がまだ怪しくないんだろうけど、メモは手書きじゃないとやりにくくて」
わたしの答えに、彼女は小さく笑った。
「日野さま、この後はどちらへ?」
「北野の〈洋菓子本舗シャン・テリー〉と、南京町にも回ります。それから女学院大学の栄養科でお話を伺う予定です」
「〈シャン・テリー〉と言いますと、マロンクリームケーキですか」
うなずいてみせた。クリームに裏漉しした栗をたっぷり合わせた、今でいうモンブランだ。〈シャン・テリー〉はそれを神戸で初めて提供した店らしく、小説に洋菓子のエピソードも入れたいということで取材先に加えた。
「南京町でも大正時代からの豚饅頭があるそうなので、それを。食べてばっかりですね」
「でも全部お仕事なんでしょう」
「ええ。旅程表は細かく決まってますから」
「もしお時間があれば、気まぐれなお散歩も楽しんでみてください。神戸はただ歩くだけでも、気持ちのいい場所ですよ。そしてよろしければ、またプライベートでもいらっしゃってください」
大変なこともあるだろうけれど、この街のホテルで働いている自分に誇りを持っているのが感じられた。
「ありがとうございます。またぜひ」
