「では、やはり凶兆ではなかったということだね」
「はい。ご説明差し上げた通りです。人為的な理由ではあったものの、凶兆との因果関係はないものと判断いたしました」
冥焔の説明を聞いて、皇帝・恩雲は「ふむ」と軽くあごを撫でた。
「赤い蝋をわざわざねえ。そんな仕掛けをするくらいだ。思うところがあったんだろうなあ、その像を作った仏師は」
例の仏堂に納められている仏像の作者はわかっていない。かなり昔から──それこそ、制作背景が失われるほど昔からあの場所に安置されているということだから、おそらく焱建国の時代になにかしら関わっている人物なのだろうが。
「にしても、『国に対する怒りの表明』『天罰が下るのではないかと思わせるための手段』ねえ。相変わらず、我が国のガリレオはおもしろいことを考える」
妙にひやりとした口調である。
その意味深な言葉の響きに、冥焔の瞳がすっと細まった。
「それは……麗麗を警戒していらっしゃるということでしょうか」
冥焔の言葉に、皇帝はより笑みを深くする。
「そうだよ。わたしはあの女官をかなり危険だと思っている。先日行動を共にしてからよりいっそう、危ないと感じるようになった。ああいう者は、国を支えることもできるし、崩すこともできる。怪異を疑いながらも、同時に怪異を〝使える〟人間だからね」
(やはりか)
冥焔の眉間に深いしわが刻まれる。
冥焔とて、とっくに気づいている。それこそ出会った当初から、麗麗はかなり危うかったのだ。
そもそも常人なら、怪異を恐れ、そこに意味を見出そうとする。不可思議な出来事が起これば、呪いだ、天の怒りだと語る。あるいは逆に、そんなものはあり得ない、まやかしに違いないと切り捨てる。だが、麗麗はそのどちらでもない。怪異を解体するだけではなく、どう利用できるかまで考えるのだ。
それは、支配する側の人間の思考だった。
不可思議な現象を語る者には、人が集まる。それが真実かどうかなど関係ない。民は、理解できぬものを恐れるからだ。だからこそ歴代の皇帝は祭祀を手放さなかった。
あの女官はその仕組みを理屈として理解しているのだ。
玲沙妃の父であり、皇帝の叔父である男──玄策がまさにそうであったように。
(だが、その思考は一朝一夕で身につくものではない。王朝の歴、祭祀、政争、他国の在り方……。国というものを内側から見ていなければ、怪異をあそこまで冷静に〝道具〟としては語れまい。麗麗は辺境の出だというが、ならば、なぜ……)
いくら養家で教育を受けたとて、それはあくまでも女官の域に留まっているはずだ。
「麗麗は異端だ。いずれ、なにかしらの対処を行う必要があるかもしれない」
考え込んでいた冥焔は、恩雲の言葉に弾かれたように顔を上げた。
「大家!? それは、どういうことですか」
「口にしなければわからない?」
ぞっとするような口調である。
麗麗の立場は危うい。皇帝や冥焔、瑛琳妃、黎蘭妃など多くの有力者が彼女を肯定しているからこそ周囲に受け入れられているだけであり、本来であれば排除されても仕方のない存在なのだ。
しかし、冥焔は知っている。
(麗麗は、玄策のようにはならない。怪異を利用し、国を傾けるはずがない)
理屈ではない、心のもっと深いところで、彼女は違うのだと確信している。
あの女官は一見冷静に見えがちだが、他者に涙し、義憤に駆られ、己の信念を貫く。その信念に、冥焔は何度も救われてきた。恩がある、情もある。
ゆえに、皇帝の彼女への言葉は冥焔にとってかなり不本意なものであった。もっとはっきり言うと、不快とすら感じた。
冥焔の眉間に深いしわが刻まれていく。
(そもそも、危険性を承知のうえで、俺たちはあの女官を重用したのではないか)
引っ張り出したのは自分たちだ。にもかかわらず。今になって『異端だ』『危険だ』と主張し、排除を考えるという。それはあまりな仕打ちではないか。
不愉快だ。
恐れ多くも皇帝に、このような感情を抱く日が来るとは思わなかった。自分の中から噴き上がる感情を持て余し、冥焔は深く息を吸った。『落ち着け』と言い聞かせながら、慎重に口を開く。
「麗麗は決して悪意の持ち主ではございません。あの者は盲信いたしませんし、人を操ろうとする者でもないのです。警戒するのはご自由ですが、徒労になります、と、はっきりこの冥焔が申し上げます!」
恩雲は一瞬目を見開いた。そして、呵呵大笑。
膝を打って大笑いしたのである。椅子の上で体をくの字に折り、目尻に涙を浮かばせながら爆笑している。
「冥焔はやはりとてもわかりやすいな」
「なんのことでしょう」
先ほどまでの不穏な空気をかなぐり捨てて笑う皇帝を前に、冥焔は本気で首をかしげる。皇帝はそんな冥焔の顔を見て、目尻の涙を指でぬぐった。
「いや……うん、そうだな。お前はまだ気づいていないのだろうから、わたしも黙っておこう。すまなかった。もちろん、麗麗が脅威になると決めつけているわけではないのだ。あくまでも可能性の話をしているんだよ」
「可能性ですか」
「そう。実際問題、我が国はその〝怪異〟に振り回されてきているだろう。今はあの女官を味方だと思っているが、いつか牙を向く日が来るやもしれない。そう考えておくのは悪いことではないでしょう」
「それは……確かに、そうでしょうけれど」
どうにも釈然としない冥焔である。しかし、恩雲の発言はもっともなので、渋々といった風情でうなずいた。
「いえ、なんでもございません。口が過ぎました、お許しください」
そう言いながら揖礼を捧げた冥焔に、皇帝は穏やかな笑みを向け言葉を重ねた。
「こちらこそ悪かった。まずは礼を言うべきだったな。仏像の件は助かった、感謝する。今は、霜の存在があるからな。わたしも少し気を張りすぎていたようだ」
その言葉に多少の含みを感じて、冥焔は顔を上げた。
「霜の件、なにか、あったのですか」
「あったあった。いやあ、まいった。これがねえ、困ってるんだよ冥焔」
皇帝はうすら寒い笑みを浮かべながら、わざとらしい口調で大げさに嘆いてみせる。
「霜が朝貢に来るという話は周知の事実だろう? 先んじて、先日書簡が届いてね。いろいろと珍しいものを持ってきてくれるっていうのはありがたいんだが……なんと、【妃をご用意しました】と書かれていてね」
「……妃を? ですが、それは……」
別段、おかしな提案ではない。朝貢の際に女性を妃として献上するのはよくある事例だ。それのいったいどこが、『いやあ、まいった』なのだろう。ましてや、そこに怪異などが起こるわけでもない。あの女官の出る幕などないはずなのに……と、そこまで考え、冥焔ははっと息を呑んだ。
「もしや、問題ありなのですか、その妃は」
「うん。仙術師なんだって」
あまりにあっけらかんと言われてしまい、冥焔は一瞬自分がなにを聞いたのかわからなかった。視線で問い返すと、恩雲は腕を組み、うんうんとうなずいている。
「なんでも、霜の当代きっての仙術師なんだそうだ。とても愛らしいだけではない、妖しくも美しい技を使う。お気に召していただけると存じます、だそうなんだ」
仙術師とは、名の通り仙術――天の御業を使う者たちのことである。常識では考えられないような不可思議な術を会得し、披露することができると言われている。
「それは危険です」
咄嗟に答えた冥焔である。
「霜は、ただでさえあまりいい噂は聞きません。過去の因縁もありますし、その国から、そんな怪しげな女性を妃になど……。断ったほうがよろしいかと思います」
「そうなんだけどね」
恩雲はため息をつき、特大の爆弾を落とした。
「『和平のために』と言われたら断れないだろう」
「なんですって」
思わぬ言葉に、冥焔は目を見開いた。
「和平のために、ということは……その、つまり」
「受け入れなかったら戦を仕掛ける、という意味だろうね」
霜と焱の因縁については、冥焔も気にはかけていた。先々代の皇帝である羅帝の御代で傘下に下り、今までずっと従属国としておとなしくしていた国である。しかし、それ以前は頻繁に小競り合いが続いていたと聞いている。
「なぜ今になって、急に不穏なことを言い始めたのかは気になるが、それは考えてもしょうがないからね。挨拶にというのなら断る理由はないし、そのうえで妃を連れてくるとなるなら、『かたじけない、いただきます』とありがたく受け取るのが皇帝というものだ」
恩雲は苦い笑いを浮かべながら、なおも言葉を重ねる。
「なにはともあれ、まずは朝貢だ。霜の使節団を迎え入れる必要がある」
「ええ。いつ頃来るのかはもうわかっているのですか」
「ああ。それが、すでに出立しているらしい。それこそあと数十日もすれば、先方の一団が到着するだろうな」
その言葉を聞いて、冥焔は目を細めた。
霜は北国。冬は氷と雪に閉ざされ、かなり厳しい環境だと聞いている。そんな中で大がかりな朝貢に来るという。支度も大変であるに違いないにもかかわらず、真冬に出立するとは、やはりただごとではなさそうだ。
冥焔がより警戒の色を深くしたのに気づいたのだろう、恩雲もうなずき、真剣な口調でこう述べた。
「くれぐれも不手際があってはならないからね、この件は冥焔に一任しようと考えている。滞在場所や宴の準備など、いろいろあると思うが、頼むよ」
「是」
「そして」
一度言葉を区切り、恩雲は揖礼を捧げる冥焔の頭を見下ろす。
「使節団歓迎の宴には、麗麗にも同席させる」
「はっ?」
冥焔は驚きのあまり、揖礼を解いて顔を上げた。
「宴は後宮の外で行うはずでは?」
朝貢の際は、使節団たちを招いて大がかりな宴を催すのがしきたりだ。しかし、他国の者を後宮に入れることはできない。宴は外廷に付随した遊興用の場所で行われるのが常であった。
そんなことは皇帝もわかっているはずなのに、と冥焔は混乱する。しかし、皇帝はこともなげに言い放った。
「麗麗を後宮の外に連れ出せばいいだろう」
「外に!? し、しかし」
基本的に女官は後宮から出てはいけない。そんな簡単に言われても困ってしまう。だが、皇帝は若无其事に混ぜっ返した。
「有事だからな。変装でもなんでもさせてこっそり連れ出せばいい。できるだろう?」
もちろんできるが、心理的抵抗感が強い。
冥焔の動揺をよそに、皇帝は満足そうに顎を撫でた。
「我が国のガリレオが霜の仙術師をどのように評価するか、わたしも楽しみだ。では頼んだよ、冥焔」
「……是」
こうなったら仕方がない。なんとかあの女官を無事に連れ出し、そして戻すための方法を考えなくては。
口の中の苦いものを飲む下すように、冥焔は礼を取った。
「はい。ご説明差し上げた通りです。人為的な理由ではあったものの、凶兆との因果関係はないものと判断いたしました」
冥焔の説明を聞いて、皇帝・恩雲は「ふむ」と軽くあごを撫でた。
「赤い蝋をわざわざねえ。そんな仕掛けをするくらいだ。思うところがあったんだろうなあ、その像を作った仏師は」
例の仏堂に納められている仏像の作者はわかっていない。かなり昔から──それこそ、制作背景が失われるほど昔からあの場所に安置されているということだから、おそらく焱建国の時代になにかしら関わっている人物なのだろうが。
「にしても、『国に対する怒りの表明』『天罰が下るのではないかと思わせるための手段』ねえ。相変わらず、我が国のガリレオはおもしろいことを考える」
妙にひやりとした口調である。
その意味深な言葉の響きに、冥焔の瞳がすっと細まった。
「それは……麗麗を警戒していらっしゃるということでしょうか」
冥焔の言葉に、皇帝はより笑みを深くする。
「そうだよ。わたしはあの女官をかなり危険だと思っている。先日行動を共にしてからよりいっそう、危ないと感じるようになった。ああいう者は、国を支えることもできるし、崩すこともできる。怪異を疑いながらも、同時に怪異を〝使える〟人間だからね」
(やはりか)
冥焔の眉間に深いしわが刻まれる。
冥焔とて、とっくに気づいている。それこそ出会った当初から、麗麗はかなり危うかったのだ。
そもそも常人なら、怪異を恐れ、そこに意味を見出そうとする。不可思議な出来事が起これば、呪いだ、天の怒りだと語る。あるいは逆に、そんなものはあり得ない、まやかしに違いないと切り捨てる。だが、麗麗はそのどちらでもない。怪異を解体するだけではなく、どう利用できるかまで考えるのだ。
それは、支配する側の人間の思考だった。
不可思議な現象を語る者には、人が集まる。それが真実かどうかなど関係ない。民は、理解できぬものを恐れるからだ。だからこそ歴代の皇帝は祭祀を手放さなかった。
あの女官はその仕組みを理屈として理解しているのだ。
玲沙妃の父であり、皇帝の叔父である男──玄策がまさにそうであったように。
(だが、その思考は一朝一夕で身につくものではない。王朝の歴、祭祀、政争、他国の在り方……。国というものを内側から見ていなければ、怪異をあそこまで冷静に〝道具〟としては語れまい。麗麗は辺境の出だというが、ならば、なぜ……)
いくら養家で教育を受けたとて、それはあくまでも女官の域に留まっているはずだ。
「麗麗は異端だ。いずれ、なにかしらの対処を行う必要があるかもしれない」
考え込んでいた冥焔は、恩雲の言葉に弾かれたように顔を上げた。
「大家!? それは、どういうことですか」
「口にしなければわからない?」
ぞっとするような口調である。
麗麗の立場は危うい。皇帝や冥焔、瑛琳妃、黎蘭妃など多くの有力者が彼女を肯定しているからこそ周囲に受け入れられているだけであり、本来であれば排除されても仕方のない存在なのだ。
しかし、冥焔は知っている。
(麗麗は、玄策のようにはならない。怪異を利用し、国を傾けるはずがない)
理屈ではない、心のもっと深いところで、彼女は違うのだと確信している。
あの女官は一見冷静に見えがちだが、他者に涙し、義憤に駆られ、己の信念を貫く。その信念に、冥焔は何度も救われてきた。恩がある、情もある。
ゆえに、皇帝の彼女への言葉は冥焔にとってかなり不本意なものであった。もっとはっきり言うと、不快とすら感じた。
冥焔の眉間に深いしわが刻まれていく。
(そもそも、危険性を承知のうえで、俺たちはあの女官を重用したのではないか)
引っ張り出したのは自分たちだ。にもかかわらず。今になって『異端だ』『危険だ』と主張し、排除を考えるという。それはあまりな仕打ちではないか。
不愉快だ。
恐れ多くも皇帝に、このような感情を抱く日が来るとは思わなかった。自分の中から噴き上がる感情を持て余し、冥焔は深く息を吸った。『落ち着け』と言い聞かせながら、慎重に口を開く。
「麗麗は決して悪意の持ち主ではございません。あの者は盲信いたしませんし、人を操ろうとする者でもないのです。警戒するのはご自由ですが、徒労になります、と、はっきりこの冥焔が申し上げます!」
恩雲は一瞬目を見開いた。そして、呵呵大笑。
膝を打って大笑いしたのである。椅子の上で体をくの字に折り、目尻に涙を浮かばせながら爆笑している。
「冥焔はやはりとてもわかりやすいな」
「なんのことでしょう」
先ほどまでの不穏な空気をかなぐり捨てて笑う皇帝を前に、冥焔は本気で首をかしげる。皇帝はそんな冥焔の顔を見て、目尻の涙を指でぬぐった。
「いや……うん、そうだな。お前はまだ気づいていないのだろうから、わたしも黙っておこう。すまなかった。もちろん、麗麗が脅威になると決めつけているわけではないのだ。あくまでも可能性の話をしているんだよ」
「可能性ですか」
「そう。実際問題、我が国はその〝怪異〟に振り回されてきているだろう。今はあの女官を味方だと思っているが、いつか牙を向く日が来るやもしれない。そう考えておくのは悪いことではないでしょう」
「それは……確かに、そうでしょうけれど」
どうにも釈然としない冥焔である。しかし、恩雲の発言はもっともなので、渋々といった風情でうなずいた。
「いえ、なんでもございません。口が過ぎました、お許しください」
そう言いながら揖礼を捧げた冥焔に、皇帝は穏やかな笑みを向け言葉を重ねた。
「こちらこそ悪かった。まずは礼を言うべきだったな。仏像の件は助かった、感謝する。今は、霜の存在があるからな。わたしも少し気を張りすぎていたようだ」
その言葉に多少の含みを感じて、冥焔は顔を上げた。
「霜の件、なにか、あったのですか」
「あったあった。いやあ、まいった。これがねえ、困ってるんだよ冥焔」
皇帝はうすら寒い笑みを浮かべながら、わざとらしい口調で大げさに嘆いてみせる。
「霜が朝貢に来るという話は周知の事実だろう? 先んじて、先日書簡が届いてね。いろいろと珍しいものを持ってきてくれるっていうのはありがたいんだが……なんと、【妃をご用意しました】と書かれていてね」
「……妃を? ですが、それは……」
別段、おかしな提案ではない。朝貢の際に女性を妃として献上するのはよくある事例だ。それのいったいどこが、『いやあ、まいった』なのだろう。ましてや、そこに怪異などが起こるわけでもない。あの女官の出る幕などないはずなのに……と、そこまで考え、冥焔ははっと息を呑んだ。
「もしや、問題ありなのですか、その妃は」
「うん。仙術師なんだって」
あまりにあっけらかんと言われてしまい、冥焔は一瞬自分がなにを聞いたのかわからなかった。視線で問い返すと、恩雲は腕を組み、うんうんとうなずいている。
「なんでも、霜の当代きっての仙術師なんだそうだ。とても愛らしいだけではない、妖しくも美しい技を使う。お気に召していただけると存じます、だそうなんだ」
仙術師とは、名の通り仙術――天の御業を使う者たちのことである。常識では考えられないような不可思議な術を会得し、披露することができると言われている。
「それは危険です」
咄嗟に答えた冥焔である。
「霜は、ただでさえあまりいい噂は聞きません。過去の因縁もありますし、その国から、そんな怪しげな女性を妃になど……。断ったほうがよろしいかと思います」
「そうなんだけどね」
恩雲はため息をつき、特大の爆弾を落とした。
「『和平のために』と言われたら断れないだろう」
「なんですって」
思わぬ言葉に、冥焔は目を見開いた。
「和平のために、ということは……その、つまり」
「受け入れなかったら戦を仕掛ける、という意味だろうね」
霜と焱の因縁については、冥焔も気にはかけていた。先々代の皇帝である羅帝の御代で傘下に下り、今までずっと従属国としておとなしくしていた国である。しかし、それ以前は頻繁に小競り合いが続いていたと聞いている。
「なぜ今になって、急に不穏なことを言い始めたのかは気になるが、それは考えてもしょうがないからね。挨拶にというのなら断る理由はないし、そのうえで妃を連れてくるとなるなら、『かたじけない、いただきます』とありがたく受け取るのが皇帝というものだ」
恩雲は苦い笑いを浮かべながら、なおも言葉を重ねる。
「なにはともあれ、まずは朝貢だ。霜の使節団を迎え入れる必要がある」
「ええ。いつ頃来るのかはもうわかっているのですか」
「ああ。それが、すでに出立しているらしい。それこそあと数十日もすれば、先方の一団が到着するだろうな」
その言葉を聞いて、冥焔は目を細めた。
霜は北国。冬は氷と雪に閉ざされ、かなり厳しい環境だと聞いている。そんな中で大がかりな朝貢に来るという。支度も大変であるに違いないにもかかわらず、真冬に出立するとは、やはりただごとではなさそうだ。
冥焔がより警戒の色を深くしたのに気づいたのだろう、恩雲もうなずき、真剣な口調でこう述べた。
「くれぐれも不手際があってはならないからね、この件は冥焔に一任しようと考えている。滞在場所や宴の準備など、いろいろあると思うが、頼むよ」
「是」
「そして」
一度言葉を区切り、恩雲は揖礼を捧げる冥焔の頭を見下ろす。
「使節団歓迎の宴には、麗麗にも同席させる」
「はっ?」
冥焔は驚きのあまり、揖礼を解いて顔を上げた。
「宴は後宮の外で行うはずでは?」
朝貢の際は、使節団たちを招いて大がかりな宴を催すのがしきたりだ。しかし、他国の者を後宮に入れることはできない。宴は外廷に付随した遊興用の場所で行われるのが常であった。
そんなことは皇帝もわかっているはずなのに、と冥焔は混乱する。しかし、皇帝はこともなげに言い放った。
「麗麗を後宮の外に連れ出せばいいだろう」
「外に!? し、しかし」
基本的に女官は後宮から出てはいけない。そんな簡単に言われても困ってしまう。だが、皇帝は若无其事に混ぜっ返した。
「有事だからな。変装でもなんでもさせてこっそり連れ出せばいい。できるだろう?」
もちろんできるが、心理的抵抗感が強い。
冥焔の動揺をよそに、皇帝は満足そうに顎を撫でた。
「我が国のガリレオが霜の仙術師をどのように評価するか、わたしも楽しみだ。では頼んだよ、冥焔」
「……是」
こうなったら仕方がない。なんとかあの女官を無事に連れ出し、そして戻すための方法を考えなくては。
口の中の苦いものを飲む下すように、冥焔は礼を取った。



