後宮のガリレオ3

 女官が詩の意味を述べると、冥焔は軽く目を見張って口を開いた。

 「その詩は知っているぞ。書で読んだことがある。大家もご存じのはずだ」

 「はい。主上、または主上に近しい方であれば、ご存じでございましょう」

 女官はひたすら目を伏せ、言葉を重ねる。

 「古くから焱に伝わる詩でございます。『神語り』……古い物語の一節として知られておりますが、我が局ではこう伝わっております。この詩は物語ではなく、先に起こる災厄を記した予言である、と。そして現在、詩に記された兆候と酷似する事象が起こっている。ゆえに、ご報告をいたしました」

 冥焔は麗麗に視線を向けた。

 「どう思う、麗麗」

 話を振られるまでもない。麗麗はすでに仏像に(くぎ)付けになっている。先ほど入ってきた扉と仏像とを交互に見て、爛々と目を輝かせた。

 (はっはあ、なるほど、なるほどね!?)

 「すみません、あの! もっと近くで見ても!?」

 と言いながらも足はすでに仏像へと向けている。心なしかはらはらとした視線を感じるが、いったん無視だ。麗麗は台座に落ちている血のような痕をひとまず確認する。

 (うーん、見えん!)

 もっと近寄ればわかりそうなのだが、台座の周りはぐるりと柵に囲われている。のぞき込むことはできても、くぐり抜けるには難がある。仕方がないので柵からえいやと身を乗り出せば、女官たちがぎょっとした顔をする。麗麗が柵を乗り越えやしないかと警戒しているに違いない。

 目を凝らして確認したところ、それはもちろん、血などではない。

 (やっぱりね)

 麗麗は柵に乗り上げていた体をぽんっと地面に着地させるとくるりと振り返り、冥焔を見上げた。

 「冥焔様。この仏堂って北側ですよね? 今入ってきた扉は南側です?」

 「そうだ」

 冥焔はうなずき、指先で扉を示した。

 「太陽の光は焱の力の源である。その光を受けて、悪鬼を封じ、厄災を(はら)う。ゆえにこの仏像は北に安置され、扉は南につけられているはずだ」

 (ってことは……)

 麗麗はその場で成り行きを見守っている女官たちに視線を向けた。

 「このお堂って、建て直されてますよね?」

 「は、はい」

 「それっていつ頃です?」

 麗麗の問いに、女官たちは顔を見合わせた。

 「今年の春ですわ」

 「そのとき、内装とか、扉の高さとか、仏像を置く位置とか……そのあたりって手を入れましたか?」

 「はい」

 女官たちは戸惑ったように麗麗を見つめている。

 麗麗はうなずき、親指を唇に添えた。

 「この扉は?」

 「扉、ですか?」

 麗麗は入り口の扉に視線を向けた。まだ若々しい木の色をした扉は、厚みといい、大きさといい、いかにも重そうである。

 「ずいぶん重厚ですけど、普段は閉まっているのですか?」

 麗麗の問いに、女官たちは顔を見合わせおずおずと答えた。

 「いえ、普段から開けております。閉めてしまっては意味がございません。先ほど冥焔様も仰せになりましたが、陽光は焱の力の源。その光を閉ざしてしまうなど言語道断でございます。こうして扉を開いておき、皆さまの祈りが神仙に通じるように、天下泰平の世になるようにせよ、と。そう仰せつかまつっております」

 (ほほーう)

 麗麗の頭の中に方程式が組み上がっていく。

 「わかりました。ならば、これは凶兆ではありません。自然現象で説明がつきます」

 麗麗の言葉に、女官たちが不安そうに眉をしかめる。

 「自然現象?」

 黙っていた冥焔が、口を開く。

 「どういうことか説明を」

 「はい、冥焔様」

 麗麗は仏像を取り囲む柵の真下に立ち、すっとそのご尊顔を指さした。

 「あれは、(ろう)です」

 「なに?」

 冥焔が眉を跳ね上げた。

 「蝋とは、蝋か? 蝋燭(ろうそく)と同じ?」

 「はい、そうです。蝋には保湿とつや出しの効果がありますから、おそらく仏像の保護のために塗られていたのでしょう。その蝋が日光に溶け、涙のように流れ出した。それが、この血涙の原因だと思います」

 麗麗の種明かしに女官たちがざわついた。意を決したように、ひとりの女官が顔を上げて発言を求める。

 「申し上げます。おっしゃることは理解できますが、ならばなぜ今なのでしょう。日の光で溶け出したとおっしゃいましたが、今までこの仏像が落涙されたことはございません。本当に太陽の光が原因なのであれば、もっと前からお泣きになっているはずではございませんか」

 冥焔も同じく、怪訝そうな表情で腕を組んだ。

 「それに、色が違う。蝋とはこのように、生成色をしているのが常だろう。お前の言う通り、仏像の保護のために蝋を塗ることがあるのは知っているが、仮に赤い蝋を塗ったとしたら、仏像全体が赤く染まるのではないか? そもそも、赤い蝋など聞いたこともないしな」

 焱で使われている蝋燭は大きくふたつ。蜂の巣を原料とした蜜蝋と、特定の木の実の皮を原材料とした白蝋である。そのどちらも茶色からやや濃い乳白色をしているのが特徴だ。今回のように赤い色に発色することはまずないと言っていい。それをわかっていたので、麗麗もうなずいた。

 「赤の蝋は、染色したんでしょうね。砕いた塗料を蝋に混ぜ込めば簡単に作れるはずです。そして、仏像全体に塗り込める蝋とは別に、瞳の部分にだけ染色した蝋を多く塗ったんだと思います」

 麗麗は仏像の瞳の部分を見上げて、言葉を重ねた。

 「よく見てください。あの瞳、かなり黒光りしていますよね。もちろん、歴史を重ねた像であるという事実はその通りなのでしょうが。それにしても他の体の部位と比べると、明らかに色が濃い。不敬に当たるかもしれないので、試す試さないは判断をお任せしますが、目の表面を削っていただければ真偽がわかるでしょう。赤い蝋が採れれば当たりです」

 その言葉に、女官たちはぎょっとしたように目をむいた。その雄弁な表情は、『なんていうことを言い出すんだ、この女官は!』と叫び声をあげているように見える。

 苦笑いしながら、麗麗は女官たちに向き直った。

 「先ほどの『なぜ今』というご質問なのですが。最近仏堂を建て直したことが原因なのではないかと考えています」

 「建て直したことが原因……?」

 首をかしげた女官たちに、麗麗は周囲をぐるりと見回しながら言葉を重ねる。

 「はい。先ほど皆様は、建て直した際に内装や扉の高さ、仏像を置く位置を変えたとおっしゃいました。そして、扉は普段から開けっぱなしになっている、と。仏像を置く位置や扉の高さが変化した関係で、扉から入る太陽光の当たる位置がずれたんだと思います」

 麗麗は一度言葉を区切り、舌で唇を湿らせた。

 「建て直されたのが春。そして今年が初めての冬……。冬は日の登る角度が低くなります。そしてその分、鋭角に扉から太陽光が入る。普段は届かない場所にまで日光が届くようになります。その太陽光に温められて、目の部分の蝋が溶け出したのではないでしょうか」

 冥焔はうなずきつつも、まだ納得のいっていない顔である。眉の間にしわを寄せながら、再び質問をした。

 「しかし、そんなに簡単に蝋が溶けるものなのか。太陽光ごときで? それに、他の部位は溶けていないのに、赤の蝋だけが溶けた理由にはならないだろう」

 「溶けますよ。混ぜ物をしていれば融点──っと、つまり、物が溶けるときの条件が変わるんです。おそらく、赤の蝋だけ溶けやすくなっているんじゃないですかね」

 女官たちはほっとしたように顔を見合わせ、大きく息を吐いた。

 (まあ、実はまだひとつ、なぜそんな蝋を使ったのかって説明が残ってるんだけど)

 それは今ここで話さなくてもいいだろうと判断する。おびえている女官の前で言う内容ではないし、麗麗の胸ひとつに納めておいたほうがよさそうだ。

 「では、仏堂を建て替えたのが原因ということでしょうか」

 「はい。おっしゃる通りです」

 女官の言葉に、麗麗は大きくうなずいた。

 「なので、これは凶兆ではありません。太陽の光が届かない位置に仏像を安置し直すか、入り口になにか布などを垂らしておくかすれば、もう血の涙を流すこともなくなると思いますよ」

 女官たちは眉の間に寄っていたしわをゆるやかにほどき、安心したように微笑した。

 「……ありがとうございます。わたくしたち、大騒ぎしてしまいまして、本当に申し訳ございませんでした」

 謝礼を述べる女官の隣で、別の女官が口を開く。

 「私たち、てっきり凶兆かと……。今冬は『奉納の儀』もございますし、あんな話があったすぐのことでしたから」

 「ちょっと!」

 その女官を、別の女官が肘でつつく。

 (んっ?)

 奉納の儀? それに、あんな話とは、なんぞや。そして女官たちの反応。さては、まだなにかあるのか、この件は。

 気になって冥焔を見るが、ふいっと視線を逸らされてしまった。今は説明する気がないらしい。

 「なにはともあれ」

 冥焔はしかめっ面をしたまま、女官たちをぐるりと見回す。

 「何度も言うが、お前たちが謝罪する必要はない。むしろ、この件を隠さず、他に漏らさず、すぐに報告をしたという点は賞賛に値する。大家もお喜びであるだろう。これからも職務を全うし、なにか異変があれば必ず報告するように。くれぐれも、流言飛語を吹聴してはならぬ。賢い尚儀局の者ならば、当然わきまえていることだろうが」

 (明確な脅し!)

 どうしたどうした、急に不穏だ。

 麗麗が心の中で突っ込んでいる間に、女官たちは身を縮め、再び揖礼を捧げた。

 (なんかあるんだろうなあ)

 女官たちが凶兆だと騒いでしまうような、なにかが。

 (聞いたほうがいいのかどうか。悩むところだね)

 以前の麗麗なら『触らぬ神に(たた)りなし』の精神で、すんっとシャッターを下ろすところだが、ここ最近の事件で考え方が少し変化してきた。

 知らないよりは知っていたほうがいいこともある。ましてやその内容が凶兆に関わることなのであれば、麗麗が巻き込まれるのは必至。ならば、情報は多いほうがいいのだ。

 (よし、聞こうっと)

 ちゃんと話せよ、の意を込めて冥焔を見上げれば、かの宦官は涼しい顔をして、平伏する女官たちの横をするりと抜けた。すれ違いざまに麗麗にちらりと目配せをして扉の外へと足を向け、すたすたと歩いていってしまう。

 その物言いたげな視線を受けて、麗麗は肩をすくめた。

 (ここじゃ話せないってことね)

 麗麗も女官たちに一礼をする。辞去の挨拶を簡単にすませると、すでに外に出ている宦官のあとを追った。

 そのまま歩き、仏堂の外に出る。もう人けはほとんどなく、しんっと静まり返った空気が麗麗の肌に突き刺さるようである。

 冥焔はしばらく歩き、十分に仏堂から距離を取った。そして、ぴたりと足を止める。

 「こちらの事情を話す前に、お前に聞きたいことがある」

 「はい」

 「さっきの仏像のことだ。隠していることがあるな?」

 ぎくっと麗麗は肩を揺らした。

 冥焔はくるりと振り返ると、麗麗の目を真正面から見つめる。

 「言え」

 「……なんでわかったんですか」

 「なんでわからないと思ったのだ」

 冥焔は眉間のしわを深くする。

 「お前の考えていることなど、すぐにわかるぞ。全部顔に出るからな」

 そう言いながら、冥焔は口の端をゆがめて笑った。

 (おーお、皮肉げな笑顔ですこと!)

 変わったかと思いきや、こういう傲岸不遜な態度は相変わらずである。三つ子の魂百までというやつか。

 麗麗はふうっと息を吐く。天に昇る白い息を追うように視線を上げると、冥焔の瞳を見返した。

 「齟齬(そご)があると申し訳ないので先に確認させてください。冥焔様が気にされているのは、〝仏像の目の部分だけ、赤い蝋を塗っていたのはなぜか〟ということでしょうか」

 「その通りだ」

 冥焔はうなずき、言葉を重ねた。

 「お前は仏像の保護のために蝋を塗ったと言っていたが、それならわざわざ蝋を赤くする必要はないはずだ。その分手間もかかるだろうし、丈夫になるならいざ知らず、太陽光ですぐに溶けてしまうならなおさら意味がない。保護の役割を果たしていないことになるからな」

 「おっしゃる通りです」

 麗麗は唇を引き上げ、にやりと笑った。

 「あの仏像はおそらく、わざと落涙するように作られているのだと思います」

 「わざと、だと?」

 「はい」

 麗麗は唇を一度舐()める。

 「赤い蝋は、冥焔様のおっしゃる通り、明確な意図を持って塗られたのです。もちろん、ここ最近のことではありません。もっと昔……それこそ、あの像が造られたとき」

 麗麗の言葉にうなずいた冥焔は、視線で話の先を促した。

 「そもそも、あの仏像が太陽光の下にさらされる事態って、どういう事態を想定していると思いますか。基本的に管理は厳重のはずですし、どこかに移すとしても一時的で、ずっと外には置かないでしょう」

 この仏像は妃たちの祈りを支えている。そして後宮にあるということは皇帝の所有物でもあるのだ。儀礼祭典を司る者が、雑に扱うことはあり得ない。

 「今回のように仏堂を建て直すなどすれば、条件がそろいやすくなるのかもしれませんが、私は別の仮説を推します。尚儀局に伝わるお話は、こうでしたよね。『妖しい気配が理の外より現れて、国が衰えていく。神像は慟哭を抑えて泣き、広々とした原野に赤い色が光り輝いている……』」

 「ああ」

 麗麗は親指を唇に当てた。

 「〝妖しい気配が理の外より現れて、国が衰えていく〟。これは、よそ者が外から現れて、焱国が衰えるということですよね。しかもその後には“広々とした原野”に“赤い色”が現れる。つまりそれって……」

 冥焔が、はっと目を見開いた。

 「もしや……戦か?」

 「その通りです」

 麗麗はうなずき、眉間にしわを寄せた。

 「この場合の理とは、焱国のことを指すのではないですか。であれば、理の外というのは、すなわち侵略者のこと。赤い色というのは戦火でしょう。戦はつまり、破壊の象徴です。なにもかも破壊され、仏像は野ざらしになる。打ち捨てられた仏像は太陽の下にさらされる。そんな事態になれば、当然主上の治世は揺らいでいるでしょうし、国だって衰えるに決まってますね」

 冥焔はその黒々とした瞳を細め、難しい顔つきで麗麗を見つめている。

 麗麗は咳払(せきばら)いをした。

 「あの血涙は、凶兆ではありません。この像を作った者……仏師の祈りと嘆きなのだと私は考えます」

 「祈りと、嘆き……か」

 「はい。戦が起これば仏堂は壊される。そんな事態を引き起こした国に対する怒りの表明か。あるいは、人々の信ずるものを不当に汚した者へ心理的瑕疵(かし)……っと、ええと、つまり、天罰が下るのではないかと思わせるための手段か。おそらく、この仏像を作った方は、天下太平の世になるようにと祈りを込められたのでしょう。決してこの像に涙を流させるなと、そのような事態を引き起こしてはならないと」

 「……なるほどな」

 冥焔の瞳がゆっくりと閉じられる。なにか考え事をしているのだろう。邪魔しちゃいけないと麗麗も口をつぐんだ。

 やがて冥焔は瞳を開けると(きびす)を返した。そのままゆるりと歩き始めた後ろを、麗麗が追う。宮まで送ってくれるのだろう。

 (ってことは、事情は話してくれないのかねえ)

 それはどうかと思う。麗麗には『言え』と命じておきながら、自分はだんまりなのはずるいではないか。

 (こっちから聞いてもいいもんか)

 目の前で左右に揺れる黒絹の髪を見ながら、ええいままよと麗麗が口を開きかけたときである。

 「お前の判断は正しかったな」

 「へっ」

 「あの場で戦の話をしなかったことだ」

 冥焔は歩を止めない。麗麗は小走りになって、長身の宦官の横についた。

 「焱の北に、『(シュアン)』という国がある」

 「霜、ですか」

 「そうだ。もともとは敵対していた国なのだが、先々代の皇帝──()帝のとき、王に封じられ焱の傘下に入った」

 王に封じられるというのは、焱の従属国になったということだ。

 「つい先日その国から使いが来た。名目は(ちょう)(こう)であるが、王に封じられて以来、初となる」

 「ええと、すみません」

 麗麗は声をあげた。

 「朝貢っていうのは、あれですよね。貢ぎ物を持ってきて、主上に捧げて、今後ともよろしく、という感じの」

 冥焔はじとっとした視線を麗麗に向ける。

 「合ってはいる。いるが、もう少し言葉をなんとかしろ」

 「すみません」

 いい表現が浮かばなかったのだから、許してもらいたい。

 (そうかあ、朝貢ってのがあるんだなあ)

 もうおぼろげな記憶だが、佐々木愛子の知識がうっすら引っかかっている。

 (ええとほら、あれだよ。金印みたいなやつをもらってきたとかあったよね。歴史の。なんだっけ、漢委奴(かんのなのわの)……、みたいな。ああいうやりとりがこの世界でも行われてるってことなんだよね)

 もっと歴史を勉強しておけばよかったなあと反省するが、おそらくそんなことを学生時代の佐々木愛子に言っても無駄だろう。大人になってから必要になる知識の、なんと多いことか。

 とかなんとか、麗麗がぽやぽや考えていると、冥焔がこほんと咳払いをする。

 おっといけない、思考が逸れた。

 「それで、その霜国がどうしたんですか」

 「端的に言おう。警戒している」

 「……警戒」

 急に不穏な言葉が出てきた。

 冥焔は厳しい表情を浮かべながら、うなずいた。

 「他国の者を受け入れる際には儀礼祭典も関わってくるからな。尚儀局の女官たちも当然、霜国からの使者のことや、焱との過去の関係性を知っている。だからこそ、仏像の血涙にあそこまでおびえたのだろう」

 「じゃあ、奉納の儀というのは?」

 「この冬に行われる儀礼祭典のことだ」

 冥焔の話は簡潔である。

 「妃や女官が神仙のために歌舞(かぶ)(おん)(ぎょく)を奉納し、祈りを捧げる。焱の古くからある大切な儀式のひとつだ。数ある儀の中でもかなり重要であるがゆえ、大がかりでな。尚儀局の者もその準備でかなりの緊張を強いられているようだ」

 ははあ、なるほど。これで合点がいった。

 焱に一家言ある国が来るうえに、大切な儀式が控えている。ピリピリしているところに、凶兆と同じ事象が現れた。だからこそ彼女たちはおびえたし、冥焔に話を上げる前に皇帝に正規の方法で報告をしたのだ。そして皇帝もそのことをわかっていたから、即座に動いた。

 理由は、不穏な噂を流さないようにするためだ。

 しかもその噂の内容が、『妖しい気配が理の外より現れて、国が衰えていく』だなんて最悪すぎる。

 そこまで考えて、麗麗は冷や汗をぬぐった。

 (危なかった……)

 戦の〝い〟の字すら出したら、ただでさえ疑心暗鬼の女官たちに火に油。最悪、大混乱に陥っていたに違いない。

 あの場で女官たちが納得してくれてよかった。

 「言わなくてもわかるだろうが、あの仏像のことは他言無用だ。……いいな」

 「もちろんです」

 そんなことを話しているうちに、気づけば、もう宮まですぐそこである。

 暗闇に浮かび上がる深藍宮には温かな明かりが灯り、食欲をそそるいい匂いが流れていた。

 (早めに帰れてよかったぁ)

 あの様子ならまだ夕餉には間に合うはず。そわそわしながら麗麗は冥焔を振り仰ぐ。

 「では冥焔様、私はこれで──っ」

 ぐーぎゅるぎゅるぎゅる、ぐう。静かな後宮の夜に、麗麗の腹の虫が鳴く。

 (なんでだよ……!)

 冥焔は口元を押さえ、顔を逸らしている。笑いをこらえているのか。それならいっそ、思いきり笑ってくれ。

 この空気を仕切り直そうと、麗麗が咳払いをしたとき。

 冥焔の顔の前に、ひらりと白いものが落ちた。天を仰いだ冥焔につられて、麗麗も上を見上げる。

 重苦しい空から、ひとひら、ふたひら。白い物が落ちてくる。

 「……雪だ」

 「雪だな」

 冥焔はふっと口元をゆるめた。

 「その斗蓬はくれてやる。風邪を引く前に早く戻れ」

 そう言い残し踵を返した冥焔の背を見送って、麗麗はもう一度天を仰いだ。

 細かな雪の粒がさらさらと舞う。

 (積もりそうだなあ)

 ぶるっと一度体を震わせ、麗麗は足早に宮へと戻った。