──玲沙妃の事件から、数ヶ月が経った。
季節はふたつ進み、後宮には本格的な冬が到来している。
この時期の雑用は、一に寒さ、二に寒さでとにもかくにも手がかじかむ。朝に干した洗濯物を取り込むにもひと苦労なのだ。
ぶるぶる震えながらなんとか宮まで戻ってきた麗麗は、洗濯を取り込んだ籠を置くとすぐさま厨へと向かった。深藍宮の小主である瑛琳妃の房は別として、宮は常に冷え冷えとしている。暖を取るなら、常に火を使う厨が一番いい。そしてもくろみ通りぬくぬくしながら軽食を取っているときに、とっ捕まったというわけである。
最近、というよりも、厳密にはあの玲沙妃の一件以来か。
深藍宮の女官たちから繰り出されるこの手の問いが、急激に増えた。曰く、どうやら冥焔の態度が麗麗にだけやたら柔らかい、というのである。
「こないだだって、なんか差し入れをもらってきてたでしょ?」
「ああ、乾果ですよね」
今、後宮はかなり落ち着いている。大きな事件も起こっていないし、これといって目立った催しもなく、比較的穏やかな日々が続いているといってもいい。
だが、やはりそんな中でもちょくちょくと怪異は起こるものだ。
先日もそうだった。とある怪異を解決した折、冥焔が『深藍宮の皆で食べるように』と乾果をどっさりくれたのである。
「しょっちゅう呼び出してるからって言ってましたよ。申し訳ないから、みんなで食べてくれって」
「だから! それがもうおかしいでしょう。どう考えたって特別扱いじゃない!」
「そうでしょうか」
というか、麗麗の感覚的には『ようやくこの人、こういう気遣いをするようになったんだな』といったところなのだが。
「そうよ! 冥焔様っていったら、見た目の麗しさに反して、堅物でとっつきにくいお方だったのに。最近のあの方、あんたを見てるときの顔がっ……話し方も……っ、もう、そりゃっ……もうっ……」
そう言いながら、雪梅の頬がどんどん赤らんでいく。
「あーもう! こっぱずかしいわね! あんた、ほんっとーに気づいてないの!?」
「……ええと、気づいてない、とは?」
これにはがっくりと肩を落とした雪梅である。期待しても無駄なのになあ、と麗麗は再び茶をすすった。
(気づいてないっていうか、わかんないからなあ)
麗麗とて、以前の人生では立派な大人だったわけである。二十うん年生きていれば、このような問いがどういう意図を指すものなのかくらいは、さすがに察するというものだ。
つまるところ、『冥焔と麗麗が恋愛関係であるのではないか』と雪梅は言いたいのだろう。
ではカマトトぶっているというのかというと、そうではない。
おそらく性分だったのだろう。佐々木愛子として生きた人生では、惚れた腫れたは無縁であった。
恋愛感情、なんだそれ。どこそこで誰それが好きだの嫌いだの告っただのふられただの、ようやるわと思いながら生きていたものだから、なにをもってして〝恋愛感情〟というのか。信頼や友情とどう違うのか。本当に、まったくもってわからない。お願いだから理論的に説明してほしいとまで思ったほどである。
自分の気持ちですらこうなのだ。況んや、冥焔の真意においてをや。
確かに、冥焔の態度が和らいでいることには気づいている。
知り合った当初よりも打ち解けていると自負しているし、なんなら玲沙妃の一件で、自身の秘密──すでに一度死んでいるという秘密──すら打ち明けたくらいには、信頼していると言ってもいい。そして、おそらく冥焔も同じくらいの信頼を自分に寄せてくれているのだと思っている。
だが、それだけのことと言えば、それだけなのだ。上司と部下という関係性が変わるわけでなし。
(ってか、そもそも変わったら大問題じゃんね)
目を輝かせて身を乗り出す雪梅を横目で一瞥し、麗麗はもうひとつ、麻花をつまんで口に入れた。
もぐもぐと咀嚼し、なおも考える。
後宮は基本的に皇帝のために存在する個人空間である。しかし、人が集まればそこに情が生まれるのは、人である以上仕方がない。
女官と女官、宦官と宦官、女官と宦官がよろしくなることは大いにあるし、おおっぴらにしなければ黙認される傾向にある。だからといって、自分たちをその枠に収めるのはやめていただきたい。
(多分ねえ、冥焔様は仲間ができて嬉しいだけなんだと思うよ)
今まで表情が硬かったのも、他人を寄せつけなかったのも、おそらくあの宦官の環境が物を言っていただけなのだろうと麗麗は考えている。
玲沙妃の事件で、冥焔の正体にほとんど気づいた麗麗である。
皇帝・恩雲の腹違いの兄であり、皇帝として登極し、わずか一年で身罷られた龍帝──それが、冥焔だ。
どんな事情で冥焔が生還したのかは知らないが、史実上で亡くなっているのは確かなのだろう。おそらく秘密を知っているのは、現皇帝の恩雲と、官吏や妃の一部だけなのではなかろうか。
状況が状況だけに、かなり気を張っていたに違いない。そんな折、自身の秘密を知り、かつ同じ経験を持つ者が現れた。冥焔はどれほど安堵したことだろう。
冥焔と麗麗は上司と部下であり、互いの秘密を打ち明け合った〝同胞〟でもある。ただそれだけだ。だからこそ、おそらく〝よい関係〟を期待している皆さんには申し訳ないが、進展するわけがないし、しようがないのである。
「まあまあ、雪梅。そんなに焦らなくてもいいじゃない」
夕餉の支度のために流し場で芋を洗っていた花里がふふっと笑いながら声をあげた。
「こういうものは、周囲がどうこうするものじゃないわよ」
「でも花里、見てるこっちがじれったいわよ!」
「そのじれったさを楽しむのも、また一興じゃない」
笑みをこぼす花里は、まるで鼻歌でも歌い出しそうなくらいご機嫌である。大変楽しそうで結構なのだが、噂をされているのが当の自分であるというところがなんとも言えない。
なんにしても、この場にいると二の矢三の矢が飛んできかねない。さっさとお暇したほうがよさそうである。
まだ口の中に残っていた麻花をむぐむぐと咀嚼し終えて、茶と共に胃袋へ流し込む。
「ごちそうさまでした。では、私はこれで……」
麗麗がそう言って、立ち上がったときである。
「麗麗! 麗麗、いる~?」
ゆるっとふわっとした声とともに、深藍宮のおしゃれ番長こと香鈴が厨へと飛び込んできた。
「はい。どうしたんですか?」
「ふふっ、麗麗にお客さんだよ!」
(あっ、この流れは)
香鈴は栗鼠のように愛くるしい瞳を、そりゃもうきらっきらに輝かせ、弾んだ声で告げた。
「冥焔様が! おっ呼びっだよ~!」
(やっぱり!)
季節はふたつ進み、後宮には本格的な冬が到来している。
この時期の雑用は、一に寒さ、二に寒さでとにもかくにも手がかじかむ。朝に干した洗濯物を取り込むにもひと苦労なのだ。
ぶるぶる震えながらなんとか宮まで戻ってきた麗麗は、洗濯を取り込んだ籠を置くとすぐさま厨へと向かった。深藍宮の小主である瑛琳妃の房は別として、宮は常に冷え冷えとしている。暖を取るなら、常に火を使う厨が一番いい。そしてもくろみ通りぬくぬくしながら軽食を取っているときに、とっ捕まったというわけである。
最近、というよりも、厳密にはあの玲沙妃の一件以来か。
深藍宮の女官たちから繰り出されるこの手の問いが、急激に増えた。曰く、どうやら冥焔の態度が麗麗にだけやたら柔らかい、というのである。
「こないだだって、なんか差し入れをもらってきてたでしょ?」
「ああ、乾果ですよね」
今、後宮はかなり落ち着いている。大きな事件も起こっていないし、これといって目立った催しもなく、比較的穏やかな日々が続いているといってもいい。
だが、やはりそんな中でもちょくちょくと怪異は起こるものだ。
先日もそうだった。とある怪異を解決した折、冥焔が『深藍宮の皆で食べるように』と乾果をどっさりくれたのである。
「しょっちゅう呼び出してるからって言ってましたよ。申し訳ないから、みんなで食べてくれって」
「だから! それがもうおかしいでしょう。どう考えたって特別扱いじゃない!」
「そうでしょうか」
というか、麗麗の感覚的には『ようやくこの人、こういう気遣いをするようになったんだな』といったところなのだが。
「そうよ! 冥焔様っていったら、見た目の麗しさに反して、堅物でとっつきにくいお方だったのに。最近のあの方、あんたを見てるときの顔がっ……話し方も……っ、もう、そりゃっ……もうっ……」
そう言いながら、雪梅の頬がどんどん赤らんでいく。
「あーもう! こっぱずかしいわね! あんた、ほんっとーに気づいてないの!?」
「……ええと、気づいてない、とは?」
これにはがっくりと肩を落とした雪梅である。期待しても無駄なのになあ、と麗麗は再び茶をすすった。
(気づいてないっていうか、わかんないからなあ)
麗麗とて、以前の人生では立派な大人だったわけである。二十うん年生きていれば、このような問いがどういう意図を指すものなのかくらいは、さすがに察するというものだ。
つまるところ、『冥焔と麗麗が恋愛関係であるのではないか』と雪梅は言いたいのだろう。
ではカマトトぶっているというのかというと、そうではない。
おそらく性分だったのだろう。佐々木愛子として生きた人生では、惚れた腫れたは無縁であった。
恋愛感情、なんだそれ。どこそこで誰それが好きだの嫌いだの告っただのふられただの、ようやるわと思いながら生きていたものだから、なにをもってして〝恋愛感情〟というのか。信頼や友情とどう違うのか。本当に、まったくもってわからない。お願いだから理論的に説明してほしいとまで思ったほどである。
自分の気持ちですらこうなのだ。況んや、冥焔の真意においてをや。
確かに、冥焔の態度が和らいでいることには気づいている。
知り合った当初よりも打ち解けていると自負しているし、なんなら玲沙妃の一件で、自身の秘密──すでに一度死んでいるという秘密──すら打ち明けたくらいには、信頼していると言ってもいい。そして、おそらく冥焔も同じくらいの信頼を自分に寄せてくれているのだと思っている。
だが、それだけのことと言えば、それだけなのだ。上司と部下という関係性が変わるわけでなし。
(ってか、そもそも変わったら大問題じゃんね)
目を輝かせて身を乗り出す雪梅を横目で一瞥し、麗麗はもうひとつ、麻花をつまんで口に入れた。
もぐもぐと咀嚼し、なおも考える。
後宮は基本的に皇帝のために存在する個人空間である。しかし、人が集まればそこに情が生まれるのは、人である以上仕方がない。
女官と女官、宦官と宦官、女官と宦官がよろしくなることは大いにあるし、おおっぴらにしなければ黙認される傾向にある。だからといって、自分たちをその枠に収めるのはやめていただきたい。
(多分ねえ、冥焔様は仲間ができて嬉しいだけなんだと思うよ)
今まで表情が硬かったのも、他人を寄せつけなかったのも、おそらくあの宦官の環境が物を言っていただけなのだろうと麗麗は考えている。
玲沙妃の事件で、冥焔の正体にほとんど気づいた麗麗である。
皇帝・恩雲の腹違いの兄であり、皇帝として登極し、わずか一年で身罷られた龍帝──それが、冥焔だ。
どんな事情で冥焔が生還したのかは知らないが、史実上で亡くなっているのは確かなのだろう。おそらく秘密を知っているのは、現皇帝の恩雲と、官吏や妃の一部だけなのではなかろうか。
状況が状況だけに、かなり気を張っていたに違いない。そんな折、自身の秘密を知り、かつ同じ経験を持つ者が現れた。冥焔はどれほど安堵したことだろう。
冥焔と麗麗は上司と部下であり、互いの秘密を打ち明け合った〝同胞〟でもある。ただそれだけだ。だからこそ、おそらく〝よい関係〟を期待している皆さんには申し訳ないが、進展するわけがないし、しようがないのである。
「まあまあ、雪梅。そんなに焦らなくてもいいじゃない」
夕餉の支度のために流し場で芋を洗っていた花里がふふっと笑いながら声をあげた。
「こういうものは、周囲がどうこうするものじゃないわよ」
「でも花里、見てるこっちがじれったいわよ!」
「そのじれったさを楽しむのも、また一興じゃない」
笑みをこぼす花里は、まるで鼻歌でも歌い出しそうなくらいご機嫌である。大変楽しそうで結構なのだが、噂をされているのが当の自分であるというところがなんとも言えない。
なんにしても、この場にいると二の矢三の矢が飛んできかねない。さっさとお暇したほうがよさそうである。
まだ口の中に残っていた麻花をむぐむぐと咀嚼し終えて、茶と共に胃袋へ流し込む。
「ごちそうさまでした。では、私はこれで……」
麗麗がそう言って、立ち上がったときである。
「麗麗! 麗麗、いる~?」
ゆるっとふわっとした声とともに、深藍宮のおしゃれ番長こと香鈴が厨へと飛び込んできた。
「はい。どうしたんですか?」
「ふふっ、麗麗にお客さんだよ!」
(あっ、この流れは)
香鈴は栗鼠のように愛くるしい瞳を、そりゃもうきらっきらに輝かせ、弾んだ声で告げた。
「冥焔様が! おっ呼びっだよ~!」
(やっぱり!)



