手のひらの中で、薄く加工された玉を転がす。
「つまり、お前たちはまったく記憶がないのだな」
「は、はい」
暴室である。収容された女官ふたりは、青い顔で冥焔にひれ伏すように額ずいていた。
まるで憑き物が落ちたようだ、と冥焔は心の中でひとりごちる。
先ほどまで恐慌状態にあったとは思えないほど、女官たちの目には正気が戻っていた。体は傷だらけで流れた血の痕も痛々しい。本来ならば手当が必要な傷であるが、塞がるのを待っていられるほどの刻はない。
一刻も早く事情を聞き出さねばと心中の焦りをなんとか抑え込み、努めて平坦な声を出す。
「もう一度、順序だてて話してもらおうか」
冥焔の問いに、女官が話した内容はこうである。
「あの日はわたくしたち、奉納の儀の準備をしておりました」
奉納の儀は尚儀局の女官たちが主導で準備を行う。しかし、大掛かりな儀式なのでとても手が足りない。それで、応援のために彼女たちが駆り出されたのだという。その帰りに、後宮の門近くに差しかかったという話であった。
「けれど、その途中で急にこの子が」
女官のひとりが、もうひとりに視線を送る。
「倒れてしまって」
「倒れた?」
冥焔の眉が跳ね上がった。
「はい。わたくし、どなたかに助けを呼ぼうとしたところまでは覚えているのですが、そこから先は記憶が曖昧で。そして、気づいたときには、あの文字が壁に書かれておりました」
冥焔は転がしていた玉を握りしめ、反対の手でこめかみを押さえた。
「つまり、お前たちが書いたわけではないと、そう言いたいのだな」
女官たちは途方に暮れた顔をする。
「書いた記憶はございません。そもそも、あの文字が何を意味するのかも、わたくしにはわかりかねます」
壁の血文字は、明らかにあの尚儀局に伝わる言い伝えだった。そして、皇帝及び皇帝に近しい者だけが読める書に記載された詩の一節だ。当然、いち女官が知るはずもない。知らないものは、当然書けない。当たり前である。
(……どういうことだ)
冥焔は玉を握りしめながら、再度口を開いた。
「では、お前たちがあの文字を書いたのではないと仮定して。なぜ、突然不吉なことを言い、自死をしようとしたのだ」
「そ、それは……」
「瑛琳妃、黎蘭妃があの場にいらっしゃったからよかったものの、下手したらお前たちは命を落としていた。大家の物であるその命を勝手に散らすとは不届き千万。自身の一族の命をも危うくしたのだぞ」
女官や妃の命は皇帝の所有物だ。よほどのことがない限り、自死は許されていない。下手したら連座の対象である。
その言葉を聞いた女官たちは、不安と絶望の表情を顔に張り付け、がくがくと震え始めた。
「お、お許しください」
「それではわからん」
「わたくしにも、わからないのでございます!」
叩きつけるような叫び声に、冥焔は今度こそ目を見開いた。
「わからないだと?」
「はい!」
「おっしゃる通りでございます……!」
青を通り越して白くなった顔を床にこすりつけるようにして、女官たちは必死に頭を下げる。
「あの文字を見た瞬間、わたくしは死なねばならないと強く感じたのでございます。理由はわかりません。そうせざるを得なかったとしか言えません」
女官が自らの体を強く抱きしめ、滂沱する。もうひとりの女官も目を見開き、落ちる涙をぬぐいもせずに訴えた。
「わたくしもでございます。この口が勝手に開き、『伝えねば、そして死なねば』としか考えられなくて……!」
冥焔は沈黙する。
(……まさか)
ちらりとよぎる雑念のようなものが、形を伴っていく。あの壁の文字を見たときに、瞬時に脳裏に浮かんだ懸念。そしてここ最近、後宮を騒がせているあの方。
冥焔の手の中で、玉が転がる。
あのいけすかない生意気な女官が、物の見方を冥焔に教えてくれた。そのときの玉が冥焔にひとつの可能性を示唆している。
点と点が繋がっていく。
手の中の玉を再度転がしながら冥焔は一度目を伏せ、口を開いた。
「お前たちは、もしや──」
冥焔が告げた名を聞いた女官たちは口をあんぐりと開け、ややあって激しくうなずいた。
「え、ええ。確かに、親しくさせていただいております」
「なぜ、おわかりになったのですか」
肯定の言葉を聞いて、冥焔はおもむろに踵を返した。
(……やはりか)
心が急速に冷える。闇が膨れ、自らの心に泥がたまっていく。
「あの、冥焔様……?」
冥焔の思考をかき乱すように女官が声をあげた。『黙れ』と怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、冥焔は舌打ちをし言葉を放った。
「お前たちのしたことは許されない。しばらくこの房で、自らの行いを反省するように」
覚えず、鋭い声になる。
背後で、女官たちが身を震わせたのを感じた。ひどい傷を負っている状態で放置されたら、間違いなく悪い病にかかり、生きて暴室を出るのは難しい。その事実をわかっているからこそ、女官たちは絶望に打ち震えているのだ。
しかし、律は律だ。往来で不穏な言葉を口走り、混乱を招いた罪は決して消えはしない。
(自業自得だ)
燃えさかる暗い炎が、冥焔の心を焼いている。そのときである。
『冥焔様! あんまりですよ!』
ふと、あの女官の声が聞こえたような気がした。
なぜだかはわからない。だが、無視することもできない。あの憎らしい女官の言いそうな言葉が、次々に冥焔の心の中に飛来する。
『鬼! 人の気持ちを考えろっつってんですよ!』
(うるさいぞ)
『女官たちが悪いって、まだ決まったわけじゃないでしょう!』
(ええい、黙れ!)
冥焔は強く玉を握りしめ、再度口を開いた。
「後ほど薬を届ける。しかるべき手当を受けるように」
「えっ……!」
冥焔の言葉に女官たちは一瞬口をつぐみ、ややあって泣き崩れた。安堵の涙を見せ、何度も礼を告げる彼女たちに背を向け、冥焔は暴室をあとにする。
(我ながら、どうかしている)
どうにも最近、甘さが目立つ。それは間違いなく、あの生意気な女官の影響であると自覚している。
外に出ると、すでに夕闇が迫っていた。見上げれば冬特有の澄んだ空に、星がいくつかまたたき始めている。
(俺は、未熟だ)
私怨を押さえるのが難しい。かっとなり、周囲が見えなくなる。心を燃やし尽くすような炎が噴き上がり、炎に引きずられるまま行動を起こしてしまうところがある。
しかし、そんな自分を叱咤し、現実に戻してくれる者がいる。
ひとりは、血を分けた弟弟。そしてもうひとりは。
(……ガリレオの信念か)
本来であれば、後宮の管理という責務上、あの女官たちに恩赦を与えないほうがよかったのかもしれない。
だが、もし此度の件が冥焔の考えている通りなのだとしたら、女官たちは被害者である。闇雲に処罰を与えるのではなく、事実を確認してからでも遅くはない。
そう思い直すことができたのは、あの女官がしきりに口に出していた〝ガリレオの信念〟とやらのおかげである。
外は、身を切るような寒さである。こんな寒空の下、夜が近い刻限にうろうろする者はほとんどいない。たっぷりとした袖の中に自らの腕を入れ、冥焔は人けがない道をさくさくと歩いていく。そのときである。
「冥焔」
軽やかな声が、背後からかかる。冥焔は足を止め、手の中でもてあそんでいた玉を一度握る。
(やはり来たか)
思いのほか早い接触に驚いたものの、むしろ都合がいいと考え直した。
『この世ならざる者が焱に紛れている』と女官たちは言った。そして、書かれていた文字は『妖しい気配が理の外より現れ、国が衰えていく』の一節。
あの文字を書かせたのはおそらく、甜甜妃。しかし彼女は伝承を知らないはずだ。
では、誰があの妃に伝承を吹き込んだのか。
冥焔は確信する。
やはりあの蛇は、霜にいるのだ。
なんらかの狙いがあって、甜甜妃を送りこみ彼女に騒ぎを起こさせているに違いない。
(後宮を混乱させるためか。しかし……)
朝貢や妃の献上など簡単にできることではないし、甜甜妃を奉納の儀に出させるようにと言ってきた事実もある。ただ単に後宮を混乱させるためだけにしては、やり口が大掛かりすぎる。
(もう少し、調べたほうがいい。……それには)
冥焔は、意図的に口角をゆっくりと引き上げた。
(覚悟を決めろ)
そして、息を整えて振り返った。
「どうされました、甜甜妃」
甜甜妃はひとりきりである。かの妃は魅惑的に微笑みながら、するりと冥焔に近寄ると袖をくいっと引っ張った。
「お散歩していたら、夜になってしまったの。ひとりで歩くのは怖くって。ねえ、宮に連れていってくれない?」
冥焔は柔和に微笑んでみせる。
「仰せのままに」
甜甜妃の瞳が揺れた。驚きに大きく見開かれた双眸がまっすぐ冥焔を見つめ、頬に朱が上る。
そして甜甜妃は狐の笑みを浮かべた。するりとなよやかな腕が冥焔の腕に絡まる。
冥焔は決して振りほどかない。手のひらの中で玉が次第にぬるくなるのを感じながら、ひたすらに己の心と戦っていた。
「つまり、お前たちはまったく記憶がないのだな」
「は、はい」
暴室である。収容された女官ふたりは、青い顔で冥焔にひれ伏すように額ずいていた。
まるで憑き物が落ちたようだ、と冥焔は心の中でひとりごちる。
先ほどまで恐慌状態にあったとは思えないほど、女官たちの目には正気が戻っていた。体は傷だらけで流れた血の痕も痛々しい。本来ならば手当が必要な傷であるが、塞がるのを待っていられるほどの刻はない。
一刻も早く事情を聞き出さねばと心中の焦りをなんとか抑え込み、努めて平坦な声を出す。
「もう一度、順序だてて話してもらおうか」
冥焔の問いに、女官が話した内容はこうである。
「あの日はわたくしたち、奉納の儀の準備をしておりました」
奉納の儀は尚儀局の女官たちが主導で準備を行う。しかし、大掛かりな儀式なのでとても手が足りない。それで、応援のために彼女たちが駆り出されたのだという。その帰りに、後宮の門近くに差しかかったという話であった。
「けれど、その途中で急にこの子が」
女官のひとりが、もうひとりに視線を送る。
「倒れてしまって」
「倒れた?」
冥焔の眉が跳ね上がった。
「はい。わたくし、どなたかに助けを呼ぼうとしたところまでは覚えているのですが、そこから先は記憶が曖昧で。そして、気づいたときには、あの文字が壁に書かれておりました」
冥焔は転がしていた玉を握りしめ、反対の手でこめかみを押さえた。
「つまり、お前たちが書いたわけではないと、そう言いたいのだな」
女官たちは途方に暮れた顔をする。
「書いた記憶はございません。そもそも、あの文字が何を意味するのかも、わたくしにはわかりかねます」
壁の血文字は、明らかにあの尚儀局に伝わる言い伝えだった。そして、皇帝及び皇帝に近しい者だけが読める書に記載された詩の一節だ。当然、いち女官が知るはずもない。知らないものは、当然書けない。当たり前である。
(……どういうことだ)
冥焔は玉を握りしめながら、再度口を開いた。
「では、お前たちがあの文字を書いたのではないと仮定して。なぜ、突然不吉なことを言い、自死をしようとしたのだ」
「そ、それは……」
「瑛琳妃、黎蘭妃があの場にいらっしゃったからよかったものの、下手したらお前たちは命を落としていた。大家の物であるその命を勝手に散らすとは不届き千万。自身の一族の命をも危うくしたのだぞ」
女官や妃の命は皇帝の所有物だ。よほどのことがない限り、自死は許されていない。下手したら連座の対象である。
その言葉を聞いた女官たちは、不安と絶望の表情を顔に張り付け、がくがくと震え始めた。
「お、お許しください」
「それではわからん」
「わたくしにも、わからないのでございます!」
叩きつけるような叫び声に、冥焔は今度こそ目を見開いた。
「わからないだと?」
「はい!」
「おっしゃる通りでございます……!」
青を通り越して白くなった顔を床にこすりつけるようにして、女官たちは必死に頭を下げる。
「あの文字を見た瞬間、わたくしは死なねばならないと強く感じたのでございます。理由はわかりません。そうせざるを得なかったとしか言えません」
女官が自らの体を強く抱きしめ、滂沱する。もうひとりの女官も目を見開き、落ちる涙をぬぐいもせずに訴えた。
「わたくしもでございます。この口が勝手に開き、『伝えねば、そして死なねば』としか考えられなくて……!」
冥焔は沈黙する。
(……まさか)
ちらりとよぎる雑念のようなものが、形を伴っていく。あの壁の文字を見たときに、瞬時に脳裏に浮かんだ懸念。そしてここ最近、後宮を騒がせているあの方。
冥焔の手の中で、玉が転がる。
あのいけすかない生意気な女官が、物の見方を冥焔に教えてくれた。そのときの玉が冥焔にひとつの可能性を示唆している。
点と点が繋がっていく。
手の中の玉を再度転がしながら冥焔は一度目を伏せ、口を開いた。
「お前たちは、もしや──」
冥焔が告げた名を聞いた女官たちは口をあんぐりと開け、ややあって激しくうなずいた。
「え、ええ。確かに、親しくさせていただいております」
「なぜ、おわかりになったのですか」
肯定の言葉を聞いて、冥焔はおもむろに踵を返した。
(……やはりか)
心が急速に冷える。闇が膨れ、自らの心に泥がたまっていく。
「あの、冥焔様……?」
冥焔の思考をかき乱すように女官が声をあげた。『黙れ』と怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、冥焔は舌打ちをし言葉を放った。
「お前たちのしたことは許されない。しばらくこの房で、自らの行いを反省するように」
覚えず、鋭い声になる。
背後で、女官たちが身を震わせたのを感じた。ひどい傷を負っている状態で放置されたら、間違いなく悪い病にかかり、生きて暴室を出るのは難しい。その事実をわかっているからこそ、女官たちは絶望に打ち震えているのだ。
しかし、律は律だ。往来で不穏な言葉を口走り、混乱を招いた罪は決して消えはしない。
(自業自得だ)
燃えさかる暗い炎が、冥焔の心を焼いている。そのときである。
『冥焔様! あんまりですよ!』
ふと、あの女官の声が聞こえたような気がした。
なぜだかはわからない。だが、無視することもできない。あの憎らしい女官の言いそうな言葉が、次々に冥焔の心の中に飛来する。
『鬼! 人の気持ちを考えろっつってんですよ!』
(うるさいぞ)
『女官たちが悪いって、まだ決まったわけじゃないでしょう!』
(ええい、黙れ!)
冥焔は強く玉を握りしめ、再度口を開いた。
「後ほど薬を届ける。しかるべき手当を受けるように」
「えっ……!」
冥焔の言葉に女官たちは一瞬口をつぐみ、ややあって泣き崩れた。安堵の涙を見せ、何度も礼を告げる彼女たちに背を向け、冥焔は暴室をあとにする。
(我ながら、どうかしている)
どうにも最近、甘さが目立つ。それは間違いなく、あの生意気な女官の影響であると自覚している。
外に出ると、すでに夕闇が迫っていた。見上げれば冬特有の澄んだ空に、星がいくつかまたたき始めている。
(俺は、未熟だ)
私怨を押さえるのが難しい。かっとなり、周囲が見えなくなる。心を燃やし尽くすような炎が噴き上がり、炎に引きずられるまま行動を起こしてしまうところがある。
しかし、そんな自分を叱咤し、現実に戻してくれる者がいる。
ひとりは、血を分けた弟弟。そしてもうひとりは。
(……ガリレオの信念か)
本来であれば、後宮の管理という責務上、あの女官たちに恩赦を与えないほうがよかったのかもしれない。
だが、もし此度の件が冥焔の考えている通りなのだとしたら、女官たちは被害者である。闇雲に処罰を与えるのではなく、事実を確認してからでも遅くはない。
そう思い直すことができたのは、あの女官がしきりに口に出していた〝ガリレオの信念〟とやらのおかげである。
外は、身を切るような寒さである。こんな寒空の下、夜が近い刻限にうろうろする者はほとんどいない。たっぷりとした袖の中に自らの腕を入れ、冥焔は人けがない道をさくさくと歩いていく。そのときである。
「冥焔」
軽やかな声が、背後からかかる。冥焔は足を止め、手の中でもてあそんでいた玉を一度握る。
(やはり来たか)
思いのほか早い接触に驚いたものの、むしろ都合がいいと考え直した。
『この世ならざる者が焱に紛れている』と女官たちは言った。そして、書かれていた文字は『妖しい気配が理の外より現れ、国が衰えていく』の一節。
あの文字を書かせたのはおそらく、甜甜妃。しかし彼女は伝承を知らないはずだ。
では、誰があの妃に伝承を吹き込んだのか。
冥焔は確信する。
やはりあの蛇は、霜にいるのだ。
なんらかの狙いがあって、甜甜妃を送りこみ彼女に騒ぎを起こさせているに違いない。
(後宮を混乱させるためか。しかし……)
朝貢や妃の献上など簡単にできることではないし、甜甜妃を奉納の儀に出させるようにと言ってきた事実もある。ただ単に後宮を混乱させるためだけにしては、やり口が大掛かりすぎる。
(もう少し、調べたほうがいい。……それには)
冥焔は、意図的に口角をゆっくりと引き上げた。
(覚悟を決めろ)
そして、息を整えて振り返った。
「どうされました、甜甜妃」
甜甜妃はひとりきりである。かの妃は魅惑的に微笑みながら、するりと冥焔に近寄ると袖をくいっと引っ張った。
「お散歩していたら、夜になってしまったの。ひとりで歩くのは怖くって。ねえ、宮に連れていってくれない?」
冥焔は柔和に微笑んでみせる。
「仰せのままに」
甜甜妃の瞳が揺れた。驚きに大きく見開かれた双眸がまっすぐ冥焔を見つめ、頬に朱が上る。
そして甜甜妃は狐の笑みを浮かべた。するりとなよやかな腕が冥焔の腕に絡まる。
冥焔は決して振りほどかない。手のひらの中で玉が次第にぬるくなるのを感じながら、ひたすらに己の心と戦っていた。



