「抱き合ってたって、ほんとなの!?」
結局ほとんど眠れずに大房に戻った麗麗が、夜明けに眠い目をこすりながら井戸で身支度をしていたときである。
抱きつかんばかりにやってきたのは雪梅だ。しかも、ものすごく興奮している。
「雪梅!? 朝餉の支度は大丈夫なんですか?」
この同僚とはすでに勤務時間が違う。厨担当の雪梅はもう働き始めている時間帯なのに、こんなところで油を売っていて大丈夫なんだろうか。
「そんなの、抜け出してきたに決まってんでしょ! それよりも、質問に答えなさいよ!」
雪梅にぐいぐいと袖を引っ張られ、院子の隅に連れていかれる。そして、ひそひそと耳打ちをされた。
「昨日の夜、あんたが冥焔様と抱き合ってたって聞いたのよ!」
「へっ」
さーっと麗麗の顔から血の気が引いた。
「ものすごく噂になってるわ。冥焔様が女官を抱きしめていたって話で今、厨はもちきりなのよ。しかもそれが、麗麗だって話で!」
(やられた!)
あまりのことに、一気に目が覚めた。甜甜妃だ。やはり、あの妃は麗麗だと気づいていたのだ。
「雪梅、それは、その、あのですね」
「いいの、わかってるわ」
てっきりいつもみたいに黄色い悲鳴をあげて、それはそれはからかってくるかと思いきや、雪梅は真剣な顔である。
「あんたと冥焔様が、いろいろ主上の御命令で動いているのは知ってるわ。ふたりで抜け出して云々(うんぬん)ってのも、なんかやってんのねって。私はね、わかってんのよ」
ははあ。では、今までの『きゃーっ』という黄色い悲鳴はなんだったんだ。と、さすがにこの場では口にできない。いったん話を聞こう。
雪梅は気遣わしげに周囲に目を配りながら、鋭くささやく。
「今までだってあんたたち、散々噂になってたけど。でも……今回の噂は、単にふたりが恋人だ、とか、そういう感じじゃないの。すっごく嫌な感じよ」
院子には、もちろん他の女官たちもいる。彼女たちはちらっとこちらに目を向けると、数人で固まって耳打ちし合い、あからさまに麗麗をにらみつけている。
間違いない。麗麗の噂を聞いているのだ。今までとは比較にならないほど嫌悪感に満ちた視線である。
雪梅はさらに声をひそめた。
「こっちで聞いた噂はね。甜甜様が道に迷われていてお困りだったのに、麗麗が冥焔様をつかんで離さなかった。本当は甜甜様をお助けしたかったはずの冥焔様を、麗麗が色仕掛けで引き留めていたって話になっているのよ」
「なんっ!?」
なんじゃそりゃ! なにがどうしたらそんな噂になる。真実とまったく違うではないか。
「さすがにこの噂は看過できないと思って、急いで会いに来たんだけど……その様子じゃ、やっぱり聞いてなかったみたいね」
聞くもなにもない。こちとら今起きたばかりなのだ。昨夜の出来事が、こんな早朝にこれほどまでに広まっている事実も意味がわからない。
雪梅は周囲を警戒しながら、再度口を開いた。
「麗麗、本当に気をつけて。あんた、今……めちゃくちゃ危険よ」
「危険?」
「宦官にお妃様をないがしろにさせた、だなんて噂、最低最悪よ! 下手したらあんた、死ぬわよ」
ひゅっと心臓が冷える。それはそうだ。宦官は、皇帝ならびに妃に仕える者。いち女官がその宦官を、しかも冥焔を無理やり引き留めていたなんて、処罰されて当然だ。
「ところで麗麗。あんた、まさか飲んでいないでしょうね」
「はっ? なにをです?」
突然の言葉に、思わず反射で質問を返してしまう。しかし雪梅はほっとしたような顔をして、そのまま麗麗の肩をとんっと叩いた。
「その反応で十分にわかったわ。こっちの話。それよりも噂よ。私もなんとか否定できないかやってみるけど……いいわね。本当に、くれぐれも、気をつけて!」
鋭くささやくと、雪梅は踵を返した。さすがにこれ以上、持ち場を離れるわけにはいかないと判断したのだろう。
(気をつけてったって)
なにをどう気をつければいいんだ。雪梅の後ろ姿を見送り、途方に暮れてしまう。
だがしかし、雪梅が『気をつけて』と忠告した意味を、麗麗はその後すぐ知ることになった。
まず起こったのは、朝の食事がもらえなかったことである。
「あんたなんかにあげる飯はないよ」
冷たく言われて、麗麗は一瞬耳を疑う。
ここは甜甜妃の殿舎で、食堂だ。中級妃でありながら離宮に住む甜甜妃は、女官たちも全員が住み込みである。当然、共同の食堂まで向かうわけにもいかないので、ひと房を食堂代わりに使っていた。
いつも通り麗麗は朝の食事のために列に並んでいたのだが。自分の番になった途端、膳を担当する女官に吐き捨てるように前述の言葉を告げられたのである。
年嵩の女官は、麗麗を見て憎々しげに鼻を鳴らした。
「あんただろ? 冥焔様に媚びを売って、甜甜様を泣かせたのは」
「はあっ?」
「そんなやつにあげる飯はないって言ってんだよ。さっさと持ち場に戻りな」
周囲から、くすくすという笑い声が聞こえてきた。「いい気味ね」だとか、「罰が当たったのよ」だとか、まあ聞こえる聞こえる悪口雑言の数々よ。
「そうですか。では、失礼いたします」
麗麗は内心でぶち切れそうになりながらもその場をあとにする。
こういうのは、相手にすればするほど付け上がる。麗麗が困り、怒り、泣き始めるのを期待しているのだ。
(誰が期待通りにしてやるもんか)
肉体労働に朝飯抜きはまあまあきついが、こんなやつらに頭を下げるなんてまっぴらごめんだ。
そうして麗麗は食事抜きで持ち場へ向かった。内心で呪詛の言葉を吐きながら回廊を磨いていたときである。
どん、と背中を押された。あっと思う間もなく、麗麗は回廊から転落する。したたか腰を打ちつけて顔を上げると、女官たちが数人走って逃げていくのが目に入った。
(くっそ……!)
ゆっくりと体を起こすと、麗麗は砂利をはたき落とした。
(集団いじめとか、いい度胸ですねえ!)
噂ひとつで、なぜここまでされなければならないんだ。それでもとにかく掃除をすませてしまおうと、えいやと回廊に足をかけ、体を引き上げようとした。すると。
「甜甜様、おかわいそうに」
「本当に。あの女官、前からずっと調子に乗ってて。でもまさか、そんなひどいことをするなんて思いませんでした。許せませんわ!」
回廊の曲がり角。その向こうから、わやわやと声が聞こえる。甜甜妃ご一行である。
(こっちに来る!)
麗麗は咄嗟に体を引き戻し、回廊の柱に張り付くようにして身をひそめた。この場所なら上を歩く甜甜妃たちからは麗麗の姿は見えないはずだ。
甜甜妃は、どうやら十数人の女官たちに囲まれながら移動しているらしい。すんすんと聞こえるのは泣き声だろうか。
「みんな、麗麗のことを悪く言うのはやめて」
(うわ)
甜甜妃である。鼻をすすり、可憐な涙声で甜甜妃は言葉を重ねる。
「私がいけなかったの。そんなつもりはなかったのに、相思相愛のふたりの仲を邪魔してしまったのね。冷たくされるのも仕方ないわ」
「そんな! 相思相愛だなんて!」
「そうです! あんな女官よりも、甜甜様のほうがずっと冥焔様とお似合いです」
(待て待て待て!)
女官が、宦官と妃をお似合いと言っている。その危うさになぜ誰も気づかない。
「泣かないで」
「泣かないで甜甜様ぁ!」
女官たちが口々に甜甜妃を慰める。その口調の強烈な違和感に、麗麗は一瞬息を呑んだ。
(なんか変だ……)
なにかがおかしい。無視してはいけないと麗麗の勘が訴えている。だが、なにがそんなにおかしいのか、気になっているのか、麗麗自身もまだつかみきれていない。
女官たちや甜甜妃の声が遠ざかっていくのを確認して、麗麗はそろそろと回廊の下から体を離した。
(とにかく、掃除を終わらせよう。考えながらでも掃除はできる)
そうして、再び雑巾を握りしめたとき。
「いた! 麗麗!」
「香鈴!?」
見知った顔が、前門の向こうから声をかけてくる。顔が真っ青だ。これはただごとではないと麗麗は雑巾を放り出し、一気に院子を駆け抜け門へと向かう。
「どうしたんですか、こんなところまで来て!」
挙動が尋常ではない。香鈴は息を整えるのもままならぬ様子で声をあげた。
「よかった! 来て! 早くっ……!」
「えっ!? でも……!」
女官が勝手に持ち場を離れるのは律で禁止されている。特に、今麗麗は非常に危うい立場にあるのだ。あまり勝手なことをして隙を作りたくない。
しかし、香鈴は首を大きく縦に振った。
「瑛琳様に許可は取ってる! 四夫人のお呼びだよ、問題ないでしょ!?」
瑛琳様のご用事なら、確かに中級妃である甜甜妃は止められない。麗麗は心の中で安堵の息を吐くが、香鈴は一刻も早く麗麗を連れ出したいらしい。目いっぱい焦った顔で、ぐいっと麗麗の手をつかんだ。
「早く! 今、みんな混乱してるの! すごい大騒ぎで……!」
「ちょっと待って、ちゃんと説明してください」
手を引っ張られるままに駆け出しながら、麗麗は尋ねた。しかし、香鈴はそれどころではないといったように首を振る。
「私も、わかんないの! でもこのままだとあの子たちが死んじゃう!」
「はあっ!?」
手を引かれ、駆けて駆けて、ようやくたどり着いたのは後宮の入り口、前門だった。
周囲には人だかりができていた。女官、宦官が入り乱れて、皆おびえたような顔をしている。
門から離れた場所には妃たちの輿が寄せられている。その中に瑛琳妃の輿もあったが、もぬけの殻である。
「瑛琳様は!?」
香鈴が悲鳴をあげた。麗麗も周囲を見回す。
「いた! あそこ!」
瑛琳妃は人だかりの先頭にいた。姿勢を正し、厳しい表情を浮かべたその麗人は、門前の広場を凝視したまま声を放つ。
「すぐに、その手を下ろせ!」
今まで聞いたことのないほど鋭い声である。隣に花里を従え、瑛琳妃はしきりに誰かを牽制しているようである。
急いで駆け寄ると、こちらに気づいた花里がほっとした顔をする。
「麗麗!」
「花里、なにがあったんですか!?」
花里は混乱した表情のまま、すっと前を見る。その視線につられて麗麗も改めて目の前の光景を確認し、そして、ぎょっと目をむいた。
門前の広場で、女官たちが泣きながら向かい合っている。
それぞれの手に鋭い刃を握りしめ、血まみれで泣き叫んでいるのである。
(なに!? なにが起こってんの!?)
瑛琳妃は血まみれの女官をまっすぐ見据えている。張り詰めた空気を裂くように、凛とした声が響く。
「お前たちのその命は大家のものだ。勝手に散らすこと、まかりならぬぞ!」
その言葉で、ようやく麗麗にも状況がつかめた。
あのふたりは、自ら命を絶とうとしているのだ。
「え……瑛琳様のお言葉です! すぐにその刃を捨てなさい!」
近くにいた数人の宦官が、女官たちを取り押さえようと一斉に踏み込む。
だが女官たちは、意味の通らぬ叫び声をあげながら刃を振りかざし、宦官たちを威嚇した。誰かが悲鳴をあげる。その悲鳴が次の悲鳴を呼び、人だかりは瞬く間に膨れ上がる。恐怖に呑み込まれた尚儀局の女官たちは、その悲鳴によりますます錯乱した。
「嫌あああああっ!」
涙を散らし、虚ろな目で刃を闇雲に振り回す。完全な恐慌状態である。
「娘娘! お願いです、下がってくださいまし……!」
花里が小主をかばうように前へ進み出る。麗麗、香鈴も瑛琳妃の前に進み出た。だがしかし、瑛琳妃はその場を動こうとしない。
ばたばたと足音が聞こえてきた。冥焔と、他の宦官たちが駆けつけてきたのだ。
「お前たち! そこでなにをしている!」
冥焔が鋭い声をあげた。女官たちの視線が動き、冥焔を認めると急速に焦点を結んだ。
「お許しください!」
絶叫である。
「お許しください! 冥焔様!」
「刃を下ろせ!」
冥焔の言葉に、しかし女官たちは首を激しく横に振った。
「いけません! わたくしたちは死ななければなりません! その前に、この真実を皆にお伝えしなければならないのです!」
滂沱しながら、女官は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「我が焱国は呪われました! この世ならざる者が、呪いをかけているのです!」
成り行きを見ていた者たちが、目をむいた。
「仏様は血の涙を流されました。焱に、この世ならざる者が紛れ込んでおります!」
(……はっ!?)
女官たちは声を限りに叫ぶと、再び刃物を握りしめ、そして──自身に向けて刃を振りかざした。
悲鳴があちこちからあがる。
「やめろ!」
冥焔の足が地を蹴った。
女官の手首をつかみ上げ、力を込める。女官の手からぽろりと刃が落ちた。ひとりは間に合った。だが、もうひとりいる……!
そこにすかさず走り出した者がいた。
(黎蘭様!?)
貴妃・黎蘭の金の髪が翻り一瞬で距離を詰めると、女官の腹に一打。呻いたところを羽交い絞めにし、鋭く宦官に指示を出す。
「なにを呆けているんです!」
鋭い叱責に、宦官たちははっと目を瞬かせると女官の手から刃を奪い取った。
すぐに別の宦官が女官たちに縄をかける。刃を奪われた女官たちは、まるで生気の抜けた人形のように立ち尽くしていた。
「連れていきなさい」
冥焔の指示で、ふたりの女官は宦官に引っ立てられていく。おそらく、このまま暴室──問題のある貴人や女官を収容する房である──へと連れていかれるのだろう。
瑛琳妃はそこでようやく緊張の糸を解いたようである。麗麗を認めてまなじりをゆるめると、黎蘭妃に声をかけた。
「ありがとうございます」
「あなたもよく引き留めてくださいました」
無表情のまま、黎蘭妃も軽く頭を下げた。
「お前たち、なにをしている。持ち場へ戻れ!」
驚愕とおびえの表情を張り付けた女官、宦官たちに、冥焔が鋭い視線を飛ばした。
「わかっているだろうが、ここで見聞きしたことは口外禁止だ。破った者にはそれ相応の処罰を受けてもらう。いいな、わかったら、すぐに戻れ!」
ぎくしゃくと動き始めた周囲の者たちの、どれほどが冥焔の言葉を守るだろうか。口さがないのが後宮だ。おそらく、今日、明日中には後宮内のすべてにこの話が広まってしまうに違いない。
それでもなんとか人払いをし、その場には黎蘭妃と瑛琳妃、その妃に仕える女官たち、そして麗麗と冥焔、その配下のみが残った。
「此度の件、まずは深く御礼申し上げます。駆けつけるのが遅れましたこと、誠に申し訳ございません」
冥焔が揖礼を捧げ、ふたりの妃に頭を垂れる。
「いったい、なにがあったのでしょう。お聞きしてもよろしいですか」
冥焔の言葉に、ふたりの妃は視線を交わす。そして、瑛琳妃が口を開いた。
「見てもらったほうが早いな」
瑛琳妃はそう言うと、すっと視線を前方横へずらした。
広場の奥には、外廷と後宮を隔てる巨大な門がある。大人数人がかりでようやく手を回せるような太い柱に、鋲の打たれた堅牢な門扉。丹塗りの屋根に龍の彫り物も麗しく、華々しい印象の門である。
その門から横に続くのは、後宮を取り囲む漆喰の壁だ。その壁に、なにやら赤い文字が書きつけられていた。
(なんだ、あれ……)
麗麗は目を凝らし、そして、息を呑んだ。
妖氛生理外 妖氛理の外より生じ
自爾漸陵夷 これより漸く陵夷す
血文字である。
麗麗の喉がごくりと鳴った。
(仏像の……涙を流すっていう、あの伝承……!)
なぜ、その一節がこんな場所に書かれているのだ。しかも、血文字で!
冥焔もこれにはかなり動揺したらしい。目を見開き、瑛琳妃に問いかけの視線を向けた。瑛琳妃は眉間にしわを寄せながら、再度口を開く。
「今日は『珊瑚宮』で茶会の予定だったんだが」
瑛琳妃、黎蘭妃の話を要約すると、こうである。
今日は四夫人とその他有志での茶会が、珊瑚宮──賢妃・玉璇の宮で行われる予定なのだそうだ。黎蘭妃、瑛琳妃の宮から玉璇妃の宮に行くにはこの門前を通る必要がある。それで、輿で通りかかったところ、なにやら騒ぎが起きていた。
女官に見に行かせたところ、女官ふたりが門前で突然刃を抜き払い、自身を傷つけながら泣き叫んでいたという。
「壁の文字は、その女官が書いたのですか」
冥焔の質問に、瑛琳妃は首を横に振った。
「どうやら、最初はあの文字が突然現れたと騒ぎになっていたようなのだ」
(突然現れた?)
「そして、その文字を見た女官たちが取り乱して……」
自らを傷つけ始めたのだ、と、そういう話のようである。
(あの文字が先に現れて、それから女官たちが取り乱した……)
これはいったい、どういうことなのだろう。
「自らに刃を向けたと聞いて、止めねばと判断した。あとは、見ての通りだ」
瑛琳妃はそこで麗麗に目を向ける。
「これはただごとではないと思ったのでな、麗麗を呼ぶようにとうちの子に頼んだのだが、よかっただろうか」
冥焔は軽く目を伏せ、ちらりと麗麗に視線を移した。だがしかし、その視線はすぐに外され、そのまま瑛琳妃に深く揖礼を捧げる。
「……ありがとう存じます」
(おや?)
冥焔の表情と口調に、麗麗は軽く違和を覚える。普段の堂々とした態度はなりをひそめ、奥歯に物が挟まったかのような口ぶりである。
同じことを瑛琳妃も感じ取ったらしい。かの妃は一瞬眉を寄せ、怪訝そうな表情をするも、ここで問いただすことではないと思ったようである。心配そうな視線を一度麗麗に向けただけで口を閉じた。
黎蘭妃は目を細め、なにか言いたげに麗麗に視線を飛ばす。だがしかし、口を開くことなく瑛琳妃に向き直る。
「瑛琳妃。そろそろ刻限です。珊瑚宮の小主が癇癪を起す前に向かいましょう」
「そうですね。では、冥焔、麗麗、あとは頼んだぞ」
ふたりの妃と女官たちが去り、その場には冥焔と彼の配下、麗麗だけが残った。
妃たちがその場を辞したからだろう、冥焔の表情がすっと消えた。まるで作り物めいたような、面を張り付けたような無表情で、じっと壁の血文字を眺めている。
「冥焔様?」
声をかけても、無反応である。
「あの、冥焔様……!」
冥焔は麗麗の声かけをまるっと無視した。そして配下に向き直ると、厳しい声ですばやく命じた。
「お前たちはその文字を消せ。すぐにだ」
「は、はいっ」
(おいおいまじかよっ!)
「ちょっと、冥焔様!」
麗麗はすかさず冥焔に食ってかかる。
「消す前に、調べないとだめじゃないですか!」
突然文字が現れたのなら、それは怪異である。怪異が起きている以上、調べるのが麗麗たちの仕事のはずだ。だから瑛琳妃は麗麗をここに呼んだのだろうに、なに勝手なことしてくれてんだ!
だがしかし、麗麗の声が聞こえているはずの冥焔は面のような表情をぴくりとも動かさず、別の配下たちに指示を出す。
「お前たちはこの場に残れ。文字を消すまで誰も近づけるな。いいな」
「承知いたしました」
あたふたと掃除用具を取りに走る配下と、命令を遂行せんと壁の前で目を光らせる配下の姿を確認すると、冥焔はくるりと踵を返してしまう。
(おい! 私は無視かよっ!)
なんだなんだ。急に虫の居所が悪くなりすぎではなかろうか。
さすがに腹が立ち、もう一度声をかけようとしたときである。
「麗麗」
冥焔の妙に平坦な声が、薄い唇から発せられた。
「この件は俺が預かる。お前は戻れ」
「はあっ!?」
予想外の言葉に、思わず声が漏れる。だが冥焔は知らぬ存ぜぬで再び歩を進めようとする。
「ちょっと、冥焔様、なに言ってんですか」
「聞こえなかったのか。一度戻れ」
「んなわけにはいかないでしょうが。なんで文字が急に現れたかの調査が──」
「黙れ」
思わぬ冷酷な声に、麗麗は咄嗟に口をつぐんだ。まるで切りつけるような刃のごとき鋭い声である。
体が強張った。驚きを顔に張り付けたまま、麗麗は呆然と冥焔を見る。冥焔ははっとしたように片手で口を押さえた。そのまま目を伏せ、絞り出すような声で呟く。
「必ずお前を呼びに行く。それまで待て」
そう言い残すと、冥焔は今度こそその場を去った。
(冥焔様が、なんか、変だ)
残された麗麗は、仕方なく足を風雅宮へと向ける。
(なんか……すごく、変だった)
今までだって冷たい態度を取られたことはあったし、それこそ毒の歩揺を実験するため獄へ行こうとする冥焔に『お供させてほしい』と頼んだときも同じように厳しく叱られた。
けれど、今はあのときとは状況が違う。
なにかがおかしい。けれど、問いただすべき相手はもういない。
こうなっては、冥焔のほうから訪ねてくるのを待つしかなさそうだ。
重い足取りで風雅宮へと戻る。前門にも院子にも、依然として女官の姿は見えなかった。
結局ほとんど眠れずに大房に戻った麗麗が、夜明けに眠い目をこすりながら井戸で身支度をしていたときである。
抱きつかんばかりにやってきたのは雪梅だ。しかも、ものすごく興奮している。
「雪梅!? 朝餉の支度は大丈夫なんですか?」
この同僚とはすでに勤務時間が違う。厨担当の雪梅はもう働き始めている時間帯なのに、こんなところで油を売っていて大丈夫なんだろうか。
「そんなの、抜け出してきたに決まってんでしょ! それよりも、質問に答えなさいよ!」
雪梅にぐいぐいと袖を引っ張られ、院子の隅に連れていかれる。そして、ひそひそと耳打ちをされた。
「昨日の夜、あんたが冥焔様と抱き合ってたって聞いたのよ!」
「へっ」
さーっと麗麗の顔から血の気が引いた。
「ものすごく噂になってるわ。冥焔様が女官を抱きしめていたって話で今、厨はもちきりなのよ。しかもそれが、麗麗だって話で!」
(やられた!)
あまりのことに、一気に目が覚めた。甜甜妃だ。やはり、あの妃は麗麗だと気づいていたのだ。
「雪梅、それは、その、あのですね」
「いいの、わかってるわ」
てっきりいつもみたいに黄色い悲鳴をあげて、それはそれはからかってくるかと思いきや、雪梅は真剣な顔である。
「あんたと冥焔様が、いろいろ主上の御命令で動いているのは知ってるわ。ふたりで抜け出して云々(うんぬん)ってのも、なんかやってんのねって。私はね、わかってんのよ」
ははあ。では、今までの『きゃーっ』という黄色い悲鳴はなんだったんだ。と、さすがにこの場では口にできない。いったん話を聞こう。
雪梅は気遣わしげに周囲に目を配りながら、鋭くささやく。
「今までだってあんたたち、散々噂になってたけど。でも……今回の噂は、単にふたりが恋人だ、とか、そういう感じじゃないの。すっごく嫌な感じよ」
院子には、もちろん他の女官たちもいる。彼女たちはちらっとこちらに目を向けると、数人で固まって耳打ちし合い、あからさまに麗麗をにらみつけている。
間違いない。麗麗の噂を聞いているのだ。今までとは比較にならないほど嫌悪感に満ちた視線である。
雪梅はさらに声をひそめた。
「こっちで聞いた噂はね。甜甜様が道に迷われていてお困りだったのに、麗麗が冥焔様をつかんで離さなかった。本当は甜甜様をお助けしたかったはずの冥焔様を、麗麗が色仕掛けで引き留めていたって話になっているのよ」
「なんっ!?」
なんじゃそりゃ! なにがどうしたらそんな噂になる。真実とまったく違うではないか。
「さすがにこの噂は看過できないと思って、急いで会いに来たんだけど……その様子じゃ、やっぱり聞いてなかったみたいね」
聞くもなにもない。こちとら今起きたばかりなのだ。昨夜の出来事が、こんな早朝にこれほどまでに広まっている事実も意味がわからない。
雪梅は周囲を警戒しながら、再度口を開いた。
「麗麗、本当に気をつけて。あんた、今……めちゃくちゃ危険よ」
「危険?」
「宦官にお妃様をないがしろにさせた、だなんて噂、最低最悪よ! 下手したらあんた、死ぬわよ」
ひゅっと心臓が冷える。それはそうだ。宦官は、皇帝ならびに妃に仕える者。いち女官がその宦官を、しかも冥焔を無理やり引き留めていたなんて、処罰されて当然だ。
「ところで麗麗。あんた、まさか飲んでいないでしょうね」
「はっ? なにをです?」
突然の言葉に、思わず反射で質問を返してしまう。しかし雪梅はほっとしたような顔をして、そのまま麗麗の肩をとんっと叩いた。
「その反応で十分にわかったわ。こっちの話。それよりも噂よ。私もなんとか否定できないかやってみるけど……いいわね。本当に、くれぐれも、気をつけて!」
鋭くささやくと、雪梅は踵を返した。さすがにこれ以上、持ち場を離れるわけにはいかないと判断したのだろう。
(気をつけてったって)
なにをどう気をつければいいんだ。雪梅の後ろ姿を見送り、途方に暮れてしまう。
だがしかし、雪梅が『気をつけて』と忠告した意味を、麗麗はその後すぐ知ることになった。
まず起こったのは、朝の食事がもらえなかったことである。
「あんたなんかにあげる飯はないよ」
冷たく言われて、麗麗は一瞬耳を疑う。
ここは甜甜妃の殿舎で、食堂だ。中級妃でありながら離宮に住む甜甜妃は、女官たちも全員が住み込みである。当然、共同の食堂まで向かうわけにもいかないので、ひと房を食堂代わりに使っていた。
いつも通り麗麗は朝の食事のために列に並んでいたのだが。自分の番になった途端、膳を担当する女官に吐き捨てるように前述の言葉を告げられたのである。
年嵩の女官は、麗麗を見て憎々しげに鼻を鳴らした。
「あんただろ? 冥焔様に媚びを売って、甜甜様を泣かせたのは」
「はあっ?」
「そんなやつにあげる飯はないって言ってんだよ。さっさと持ち場に戻りな」
周囲から、くすくすという笑い声が聞こえてきた。「いい気味ね」だとか、「罰が当たったのよ」だとか、まあ聞こえる聞こえる悪口雑言の数々よ。
「そうですか。では、失礼いたします」
麗麗は内心でぶち切れそうになりながらもその場をあとにする。
こういうのは、相手にすればするほど付け上がる。麗麗が困り、怒り、泣き始めるのを期待しているのだ。
(誰が期待通りにしてやるもんか)
肉体労働に朝飯抜きはまあまあきついが、こんなやつらに頭を下げるなんてまっぴらごめんだ。
そうして麗麗は食事抜きで持ち場へ向かった。内心で呪詛の言葉を吐きながら回廊を磨いていたときである。
どん、と背中を押された。あっと思う間もなく、麗麗は回廊から転落する。したたか腰を打ちつけて顔を上げると、女官たちが数人走って逃げていくのが目に入った。
(くっそ……!)
ゆっくりと体を起こすと、麗麗は砂利をはたき落とした。
(集団いじめとか、いい度胸ですねえ!)
噂ひとつで、なぜここまでされなければならないんだ。それでもとにかく掃除をすませてしまおうと、えいやと回廊に足をかけ、体を引き上げようとした。すると。
「甜甜様、おかわいそうに」
「本当に。あの女官、前からずっと調子に乗ってて。でもまさか、そんなひどいことをするなんて思いませんでした。許せませんわ!」
回廊の曲がり角。その向こうから、わやわやと声が聞こえる。甜甜妃ご一行である。
(こっちに来る!)
麗麗は咄嗟に体を引き戻し、回廊の柱に張り付くようにして身をひそめた。この場所なら上を歩く甜甜妃たちからは麗麗の姿は見えないはずだ。
甜甜妃は、どうやら十数人の女官たちに囲まれながら移動しているらしい。すんすんと聞こえるのは泣き声だろうか。
「みんな、麗麗のことを悪く言うのはやめて」
(うわ)
甜甜妃である。鼻をすすり、可憐な涙声で甜甜妃は言葉を重ねる。
「私がいけなかったの。そんなつもりはなかったのに、相思相愛のふたりの仲を邪魔してしまったのね。冷たくされるのも仕方ないわ」
「そんな! 相思相愛だなんて!」
「そうです! あんな女官よりも、甜甜様のほうがずっと冥焔様とお似合いです」
(待て待て待て!)
女官が、宦官と妃をお似合いと言っている。その危うさになぜ誰も気づかない。
「泣かないで」
「泣かないで甜甜様ぁ!」
女官たちが口々に甜甜妃を慰める。その口調の強烈な違和感に、麗麗は一瞬息を呑んだ。
(なんか変だ……)
なにかがおかしい。無視してはいけないと麗麗の勘が訴えている。だが、なにがそんなにおかしいのか、気になっているのか、麗麗自身もまだつかみきれていない。
女官たちや甜甜妃の声が遠ざかっていくのを確認して、麗麗はそろそろと回廊の下から体を離した。
(とにかく、掃除を終わらせよう。考えながらでも掃除はできる)
そうして、再び雑巾を握りしめたとき。
「いた! 麗麗!」
「香鈴!?」
見知った顔が、前門の向こうから声をかけてくる。顔が真っ青だ。これはただごとではないと麗麗は雑巾を放り出し、一気に院子を駆け抜け門へと向かう。
「どうしたんですか、こんなところまで来て!」
挙動が尋常ではない。香鈴は息を整えるのもままならぬ様子で声をあげた。
「よかった! 来て! 早くっ……!」
「えっ!? でも……!」
女官が勝手に持ち場を離れるのは律で禁止されている。特に、今麗麗は非常に危うい立場にあるのだ。あまり勝手なことをして隙を作りたくない。
しかし、香鈴は首を大きく縦に振った。
「瑛琳様に許可は取ってる! 四夫人のお呼びだよ、問題ないでしょ!?」
瑛琳様のご用事なら、確かに中級妃である甜甜妃は止められない。麗麗は心の中で安堵の息を吐くが、香鈴は一刻も早く麗麗を連れ出したいらしい。目いっぱい焦った顔で、ぐいっと麗麗の手をつかんだ。
「早く! 今、みんな混乱してるの! すごい大騒ぎで……!」
「ちょっと待って、ちゃんと説明してください」
手を引っ張られるままに駆け出しながら、麗麗は尋ねた。しかし、香鈴はそれどころではないといったように首を振る。
「私も、わかんないの! でもこのままだとあの子たちが死んじゃう!」
「はあっ!?」
手を引かれ、駆けて駆けて、ようやくたどり着いたのは後宮の入り口、前門だった。
周囲には人だかりができていた。女官、宦官が入り乱れて、皆おびえたような顔をしている。
門から離れた場所には妃たちの輿が寄せられている。その中に瑛琳妃の輿もあったが、もぬけの殻である。
「瑛琳様は!?」
香鈴が悲鳴をあげた。麗麗も周囲を見回す。
「いた! あそこ!」
瑛琳妃は人だかりの先頭にいた。姿勢を正し、厳しい表情を浮かべたその麗人は、門前の広場を凝視したまま声を放つ。
「すぐに、その手を下ろせ!」
今まで聞いたことのないほど鋭い声である。隣に花里を従え、瑛琳妃はしきりに誰かを牽制しているようである。
急いで駆け寄ると、こちらに気づいた花里がほっとした顔をする。
「麗麗!」
「花里、なにがあったんですか!?」
花里は混乱した表情のまま、すっと前を見る。その視線につられて麗麗も改めて目の前の光景を確認し、そして、ぎょっと目をむいた。
門前の広場で、女官たちが泣きながら向かい合っている。
それぞれの手に鋭い刃を握りしめ、血まみれで泣き叫んでいるのである。
(なに!? なにが起こってんの!?)
瑛琳妃は血まみれの女官をまっすぐ見据えている。張り詰めた空気を裂くように、凛とした声が響く。
「お前たちのその命は大家のものだ。勝手に散らすこと、まかりならぬぞ!」
その言葉で、ようやく麗麗にも状況がつかめた。
あのふたりは、自ら命を絶とうとしているのだ。
「え……瑛琳様のお言葉です! すぐにその刃を捨てなさい!」
近くにいた数人の宦官が、女官たちを取り押さえようと一斉に踏み込む。
だが女官たちは、意味の通らぬ叫び声をあげながら刃を振りかざし、宦官たちを威嚇した。誰かが悲鳴をあげる。その悲鳴が次の悲鳴を呼び、人だかりは瞬く間に膨れ上がる。恐怖に呑み込まれた尚儀局の女官たちは、その悲鳴によりますます錯乱した。
「嫌あああああっ!」
涙を散らし、虚ろな目で刃を闇雲に振り回す。完全な恐慌状態である。
「娘娘! お願いです、下がってくださいまし……!」
花里が小主をかばうように前へ進み出る。麗麗、香鈴も瑛琳妃の前に進み出た。だがしかし、瑛琳妃はその場を動こうとしない。
ばたばたと足音が聞こえてきた。冥焔と、他の宦官たちが駆けつけてきたのだ。
「お前たち! そこでなにをしている!」
冥焔が鋭い声をあげた。女官たちの視線が動き、冥焔を認めると急速に焦点を結んだ。
「お許しください!」
絶叫である。
「お許しください! 冥焔様!」
「刃を下ろせ!」
冥焔の言葉に、しかし女官たちは首を激しく横に振った。
「いけません! わたくしたちは死ななければなりません! その前に、この真実を皆にお伝えしなければならないのです!」
滂沱しながら、女官は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「我が焱国は呪われました! この世ならざる者が、呪いをかけているのです!」
成り行きを見ていた者たちが、目をむいた。
「仏様は血の涙を流されました。焱に、この世ならざる者が紛れ込んでおります!」
(……はっ!?)
女官たちは声を限りに叫ぶと、再び刃物を握りしめ、そして──自身に向けて刃を振りかざした。
悲鳴があちこちからあがる。
「やめろ!」
冥焔の足が地を蹴った。
女官の手首をつかみ上げ、力を込める。女官の手からぽろりと刃が落ちた。ひとりは間に合った。だが、もうひとりいる……!
そこにすかさず走り出した者がいた。
(黎蘭様!?)
貴妃・黎蘭の金の髪が翻り一瞬で距離を詰めると、女官の腹に一打。呻いたところを羽交い絞めにし、鋭く宦官に指示を出す。
「なにを呆けているんです!」
鋭い叱責に、宦官たちははっと目を瞬かせると女官の手から刃を奪い取った。
すぐに別の宦官が女官たちに縄をかける。刃を奪われた女官たちは、まるで生気の抜けた人形のように立ち尽くしていた。
「連れていきなさい」
冥焔の指示で、ふたりの女官は宦官に引っ立てられていく。おそらく、このまま暴室──問題のある貴人や女官を収容する房である──へと連れていかれるのだろう。
瑛琳妃はそこでようやく緊張の糸を解いたようである。麗麗を認めてまなじりをゆるめると、黎蘭妃に声をかけた。
「ありがとうございます」
「あなたもよく引き留めてくださいました」
無表情のまま、黎蘭妃も軽く頭を下げた。
「お前たち、なにをしている。持ち場へ戻れ!」
驚愕とおびえの表情を張り付けた女官、宦官たちに、冥焔が鋭い視線を飛ばした。
「わかっているだろうが、ここで見聞きしたことは口外禁止だ。破った者にはそれ相応の処罰を受けてもらう。いいな、わかったら、すぐに戻れ!」
ぎくしゃくと動き始めた周囲の者たちの、どれほどが冥焔の言葉を守るだろうか。口さがないのが後宮だ。おそらく、今日、明日中には後宮内のすべてにこの話が広まってしまうに違いない。
それでもなんとか人払いをし、その場には黎蘭妃と瑛琳妃、その妃に仕える女官たち、そして麗麗と冥焔、その配下のみが残った。
「此度の件、まずは深く御礼申し上げます。駆けつけるのが遅れましたこと、誠に申し訳ございません」
冥焔が揖礼を捧げ、ふたりの妃に頭を垂れる。
「いったい、なにがあったのでしょう。お聞きしてもよろしいですか」
冥焔の言葉に、ふたりの妃は視線を交わす。そして、瑛琳妃が口を開いた。
「見てもらったほうが早いな」
瑛琳妃はそう言うと、すっと視線を前方横へずらした。
広場の奥には、外廷と後宮を隔てる巨大な門がある。大人数人がかりでようやく手を回せるような太い柱に、鋲の打たれた堅牢な門扉。丹塗りの屋根に龍の彫り物も麗しく、華々しい印象の門である。
その門から横に続くのは、後宮を取り囲む漆喰の壁だ。その壁に、なにやら赤い文字が書きつけられていた。
(なんだ、あれ……)
麗麗は目を凝らし、そして、息を呑んだ。
妖氛生理外 妖氛理の外より生じ
自爾漸陵夷 これより漸く陵夷す
血文字である。
麗麗の喉がごくりと鳴った。
(仏像の……涙を流すっていう、あの伝承……!)
なぜ、その一節がこんな場所に書かれているのだ。しかも、血文字で!
冥焔もこれにはかなり動揺したらしい。目を見開き、瑛琳妃に問いかけの視線を向けた。瑛琳妃は眉間にしわを寄せながら、再度口を開く。
「今日は『珊瑚宮』で茶会の予定だったんだが」
瑛琳妃、黎蘭妃の話を要約すると、こうである。
今日は四夫人とその他有志での茶会が、珊瑚宮──賢妃・玉璇の宮で行われる予定なのだそうだ。黎蘭妃、瑛琳妃の宮から玉璇妃の宮に行くにはこの門前を通る必要がある。それで、輿で通りかかったところ、なにやら騒ぎが起きていた。
女官に見に行かせたところ、女官ふたりが門前で突然刃を抜き払い、自身を傷つけながら泣き叫んでいたという。
「壁の文字は、その女官が書いたのですか」
冥焔の質問に、瑛琳妃は首を横に振った。
「どうやら、最初はあの文字が突然現れたと騒ぎになっていたようなのだ」
(突然現れた?)
「そして、その文字を見た女官たちが取り乱して……」
自らを傷つけ始めたのだ、と、そういう話のようである。
(あの文字が先に現れて、それから女官たちが取り乱した……)
これはいったい、どういうことなのだろう。
「自らに刃を向けたと聞いて、止めねばと判断した。あとは、見ての通りだ」
瑛琳妃はそこで麗麗に目を向ける。
「これはただごとではないと思ったのでな、麗麗を呼ぶようにとうちの子に頼んだのだが、よかっただろうか」
冥焔は軽く目を伏せ、ちらりと麗麗に視線を移した。だがしかし、その視線はすぐに外され、そのまま瑛琳妃に深く揖礼を捧げる。
「……ありがとう存じます」
(おや?)
冥焔の表情と口調に、麗麗は軽く違和を覚える。普段の堂々とした態度はなりをひそめ、奥歯に物が挟まったかのような口ぶりである。
同じことを瑛琳妃も感じ取ったらしい。かの妃は一瞬眉を寄せ、怪訝そうな表情をするも、ここで問いただすことではないと思ったようである。心配そうな視線を一度麗麗に向けただけで口を閉じた。
黎蘭妃は目を細め、なにか言いたげに麗麗に視線を飛ばす。だがしかし、口を開くことなく瑛琳妃に向き直る。
「瑛琳妃。そろそろ刻限です。珊瑚宮の小主が癇癪を起す前に向かいましょう」
「そうですね。では、冥焔、麗麗、あとは頼んだぞ」
ふたりの妃と女官たちが去り、その場には冥焔と彼の配下、麗麗だけが残った。
妃たちがその場を辞したからだろう、冥焔の表情がすっと消えた。まるで作り物めいたような、面を張り付けたような無表情で、じっと壁の血文字を眺めている。
「冥焔様?」
声をかけても、無反応である。
「あの、冥焔様……!」
冥焔は麗麗の声かけをまるっと無視した。そして配下に向き直ると、厳しい声ですばやく命じた。
「お前たちはその文字を消せ。すぐにだ」
「は、はいっ」
(おいおいまじかよっ!)
「ちょっと、冥焔様!」
麗麗はすかさず冥焔に食ってかかる。
「消す前に、調べないとだめじゃないですか!」
突然文字が現れたのなら、それは怪異である。怪異が起きている以上、調べるのが麗麗たちの仕事のはずだ。だから瑛琳妃は麗麗をここに呼んだのだろうに、なに勝手なことしてくれてんだ!
だがしかし、麗麗の声が聞こえているはずの冥焔は面のような表情をぴくりとも動かさず、別の配下たちに指示を出す。
「お前たちはこの場に残れ。文字を消すまで誰も近づけるな。いいな」
「承知いたしました」
あたふたと掃除用具を取りに走る配下と、命令を遂行せんと壁の前で目を光らせる配下の姿を確認すると、冥焔はくるりと踵を返してしまう。
(おい! 私は無視かよっ!)
なんだなんだ。急に虫の居所が悪くなりすぎではなかろうか。
さすがに腹が立ち、もう一度声をかけようとしたときである。
「麗麗」
冥焔の妙に平坦な声が、薄い唇から発せられた。
「この件は俺が預かる。お前は戻れ」
「はあっ!?」
予想外の言葉に、思わず声が漏れる。だが冥焔は知らぬ存ぜぬで再び歩を進めようとする。
「ちょっと、冥焔様、なに言ってんですか」
「聞こえなかったのか。一度戻れ」
「んなわけにはいかないでしょうが。なんで文字が急に現れたかの調査が──」
「黙れ」
思わぬ冷酷な声に、麗麗は咄嗟に口をつぐんだ。まるで切りつけるような刃のごとき鋭い声である。
体が強張った。驚きを顔に張り付けたまま、麗麗は呆然と冥焔を見る。冥焔ははっとしたように片手で口を押さえた。そのまま目を伏せ、絞り出すような声で呟く。
「必ずお前を呼びに行く。それまで待て」
そう言い残すと、冥焔は今度こそその場を去った。
(冥焔様が、なんか、変だ)
残された麗麗は、仕方なく足を風雅宮へと向ける。
(なんか……すごく、変だった)
今までだって冷たい態度を取られたことはあったし、それこそ毒の歩揺を実験するため獄へ行こうとする冥焔に『お供させてほしい』と頼んだときも同じように厳しく叱られた。
けれど、今はあのときとは状況が違う。
なにかがおかしい。けれど、問いただすべき相手はもういない。
こうなっては、冥焔のほうから訪ねてくるのを待つしかなさそうだ。
重い足取りで風雅宮へと戻る。前門にも院子にも、依然として女官の姿は見えなかった。



