夜。宮を抜け出した麗麗は、教えられた通り道を右へ曲がり、池へと向かった。
冥焔はすでに到着していた。池のほとりの木に体を預け、静かに天を見つめている。麗麗が来たことに気づいたのであろう、冥焔は視線を麗麗に向けゆったりと微笑する。
「来たか」
「お待たせしました」
「本当にな。夜が明けるかと思ったぞ」
さっき向けた微笑はどこへやら。豪外不遜な口調で冥焔は言い放った。
そんなふんぞり返ったような態度でなくともいいではないか。こちとら、同房の女官たちが寝入るのを待っていたんだぞ。こういうところは前と変わらないのだから、やはりこの宦官が優しくなったというのは気のせいなんじゃなかろうか。
とはいえ、ここで言い争っても仕方ない。麗麗は文句を呑み込んで、冥焔の隣に立った。
「それで、お話とは」
「甜甜妃のことだ。お前の見解を聞きたい」
だろうな、と麗麗はうなずく。
わざわざ異動までさせて風雅宮の女官にしたのだ。このタイミングで冥焔が聞きたいことなど、甜甜妃のことくらいだろうとあたりをつけていたのだが、大正解だったようだ。
冥焔は苦々しい顔で口を開く。
「実は先日、宦官のひとりが失踪した」
「失踪ですか……!?」
おいおい、と麗麗は目をひんむく。突然、予想もしなかった重たい話である。思わず居住まいを正し、冥焔の瞳を見上げた。
「ああ。門の警護をしていた宦官だったのだが、刻限になっても持ち場に現れない。それどころか、房からは荷物一式が消えていた。同房の誰もが行き先を知らず、姿が見えなくなった」
「大変じゃないですか」
冥焔はうなずき、再度口を開く。
「その宦官が、甜甜妃の宮で見つかった」
「……はっ!?」
麗麗が想像していたのは、甜甜妃の宮で息絶えている宦官の姿である。そんなの大事件ではなかろうか、こんな道端でほいほいと話していい内容ではないだろう……と思ったが、どうやら想像と違うらしい。
「その宦官は、甜甜妃の下で働いていたのだ」
「……はいっ?」
思わず聞き返す。
「つまり? その方は、勝手に持ち場を離れたどころか、仕える先を勝手に変えた、と、そういうことなんです?」
「そういうことなのだ」
なんという強心臓の持ち主なんだ。
宦官、女官が勝手に持ち場を離れることは許されていない。ましてや、行き先を告げずどこぞへ行くなど、懲罰ものではないか。
「話を聞くと、甜甜妃に命令されたのだといって聞かないのだ。『自分の宮で警護をしてほしいと頼まれたので、そうせざるを得なかった』『上に判断を仰いでいる暇はなかったのだ』と繰り返すばかりで話にならん」
「ほえええ」
「しかし、肝心の甜甜妃に話を聞けば、確かにその宦官と親しく話はしたが、そんな指示は出した覚えがないという。周囲の女官たちも同じ場にいたようで、同様の証言をしている始末。皆は、あの宦官がしかるべき手続きを経て鳳雅宮の警護をしているのだとばかり思っていたようだ。これを、お前はどう見る」
なんというか、変な話である。仮に双方の話に誤解があったのだとしても、そもそも配置換えは、自分の上官からの指示が必要だ。甜甜妃から『警護を』というような話が出たとて、宦官のほうがすんなりその指示に従うのはおかしな話である。
(そうせざるを得なかった、ってのが、引っかかるんだよな)
顎に指を添えて考えていると、冥焔がさらに言葉を重ねた。
「それと、もうひとつ。甜甜妃が調合しているという仙薬は知っているか?」
「ああ……」
あの怪しげな薬か、と麗麗は記憶を反芻する。女官や宦官、妃たちがこぞってもらいに来ているところを目撃したことがあるし、甜甜妃にべったりな女官たちの間で噂になっているのも知っている。
曰く、それを飲むと頭痛があっという間に治るだとか、気持ちが落ち着くだとか、そういった類いのものである。
「なんだかすごい人気ですよね」
「ああ」
冥焔は苦い顔だ。
「この流行り方はさすがに看過できん。その仙薬を手に入れ、しかるべき調査を行ったのだが……」
そこで、冥焔はひどく困ったような表情をした。
「薬効成分はほとんどないだろう、と侍医の見解があったのだ」
「へえっ」
なるほどなあ、と麗麗はうなずく。
「薬として機能していないということですか」
「そうだ。使われている主な材料は葛の粉だそうだ。それに香りづけのためにいくばくかの香辛料を混ぜているらしい。侍医の見解では、『体に害はないが、これだけで病状がよくなるとはとても言えない』ということらしい」
「はっはあ」
「しかし、実際に服用した者は効果を実感しているということもあり、より甜甜妃の評価が高まっているのだ。曰く、病状がよくなるものが入っていないにもかかわらず、体調が改善している。これぞまさしく、仙術のなせる業──」
麗麗は「あー」と天を仰いだ。そうか、そうかそうなるのか。
納得しながらうなずく麗麗を一瞥すると、冥焔はさらに苦い顔をする。
「思うところがありそうだな」
「はい」
「では、先にその話を聞こう。甜甜妃は、本当に仙薬を煎じることができるのか?」
麗麗は親指を唇に添えて、軽く目を閉じる。
「はい、と言えばはい。いいえ、と言えばいいえ、ですね」
冥焔がむっとしたように顔をしかめる。
「言葉遊びをしている場合じゃないぞ」
「わかってますよ。でも、そうとしか言えないんです」
麗麗は一度目を開けると、足元に転がっていた小石を拾った。
「冥焔様」
「なんだ」
「受け取ってくださいね。ほいっ!」
麗麗はその小石を冥焔に向かって放り投げる。慌てた冥焔が受け取ろうとした瞬間。
「熱いですよ! 気をつけて!」
麗麗は鋭く叫ぶ。
小石を受け取ったばかりの冥焔は「うおっ」と小さく悲鳴をあげて小石を放り投げた。
「な、なんだ!?」
冥焔は呆然と自分の手のひらを見つめ、驚いたように顔を上げて麗麗を凝視した。
「ほ……本当に熱かったぞ。ただの小石のはずなのに……」
「熱かったんですか」
「だからそう言っているだろう」
「でも、その小石は私が今さっき拾ったものです。熱いわけがありませんね」
冥焔は顔中に不機嫌な表情を張り付けた。
「そんなことはわかっている。だから驚いているのではないか」
ぷんすこと怒り始めてしまった冥焔を見て、麗麗は内心にまにまが止まらない。
「冥焔様は、私のことを信頼してくださっているんですね」
「……はあっ!?」
今度は一気に赤くなる冥焔である。
「どうしてそうなるんだ」
「私の暗示にかかったからですよ」
冥焔はぽかんと麗麗を見つめ、「暗示?」と繰り返した。
「はい。もちろんただの小石が熱いわけではない。冥焔様はそのことを、体の記憶としてよくご存じのはずです。それと同時に、熱い物に触れたときの衝撃もまた、記憶として持っている。私の『熱い』という声を聞いて、冥焔様は咄嗟に後者の記憶を思い出したのです。だから体が反応し、熱を帯びていない小石が本当に熱く感じたのでしょう」
冥焔はむっと唇を引き結ぶ。
「つまり、俺の勘違いだったと?」
「勘違いというよりも、思い込みですね。そして、その思い込みは、仕掛けた側が信頼されているという前提のもとに成り立ちます」
麗麗はにんまりと笑いながら、冥焔が放り投げた小石をもう一度拾って、冥焔に手渡した。
「ですから、冥焔様は私が考えている以上に、私のことを信じてくださっているのだなあと思ったんですよ」
石を受け取った冥焔は無言で一度石を握りしめると、ぽいと地面に放り投げそっぽを向いた。
「そんなことはどうでもいい。俺が聞いているのは、仙薬のことだ。小石のことではない」
(んだとこのやろ)
せっかくちょっとだけいい気分になったのに、この言い草である。とはいえ、説明もなしでは確かに意味がわからないだろう。
麗麗はふうと息を吐き、口調を変えた。
「この小石も、仙薬も、根本は変わりません。つまるところ、人は思い込みだけで体に変化が生じるという話なんです」
冥焔も真剣な表情になる。
「この小石が熱く感じたように、ということか?」
「はい。本物の薬じゃなくても、『これは効く薬です』と言われて飲むだけで症状が軽くなることがあります。その薬を処方しているのが、信頼に足るだけの人物であるという条件はありますが。これを、『偽薬効果』といいます」
冥焔は軽く目を見張った。
「甜甜妃の仙薬のことか」
「はい」
麗麗はうなずき、木に背中を預ける。
「体は案外、頭に騙されるんですよ。熱くないものでも、熱いと思い込んでしまえば実際に熱を感じるし、よく効く薬だと信じれば、体にとって有益な効果が出ることもあります」
「ははあ……」
佐々木愛子の世界では、実際に効果が出ることを期待された薬と、偽薬効果との違いをはっきりさせるための臨床試験が行われていたはずだ。
本当に薬の成分が効いたのか否か、それが〝薬を飲んだ〟という安心感から来る偽薬効果とどの程度差が出るのかといったようなことを観察、記録し、実際の薬の効果を確かめるための実験である。
「甜甜妃が仙術使いであるという話は、周知の事実です。しかも、実際に手妻を使って皆さんの前で不思議な技を披露している。そんな不思議な術を持っている方が効くと宣言しているのだから効くはずだ、そう強く信じて薬を服用すれば、暗示により体調が改善することもあるのだと思います」
「なるほどな……」
「これが仙薬の正体です。なので、ああいう言い方しかできないんですよ。甜甜妃は仙薬を煎じたわけではない。けれど、飲んで回復しているのであれば、それはその人にとって〝仙薬〟ということになりますね」
しかし、恐るべきは甜甜妃の信頼度である。侍医が『薬としての効果がないはず』と評したのであれば、そこで『詐欺だ!』となるのが定石だろうに。それを逆手に取り、『実際に効果が出ているのだからやはり仙術だ』とねじ伏せてしまうのは、甜甜妃の力量によるところがある。さすが人たらし妃であるといったところか。
「あとは、宦官の失踪の件ですが……」
麗麗は「うーん」と唸りながら、ごそごそと服をまさぐり、なにやら取り出すと、両手を握りしめたままの状態で冥焔の前に差し出した。
「どうぞ」
「なにが、どうぞ、なんだ?」
「この手の中のどちらかに、乾果が入っています。どちらかは空です。さて、当ててみてください。乾果を見つけたら冥焔様の勝ちです」
「待て。なぜ乾果が袖から出てくるのだ」
(やべっ)
「大丈夫です。盗んだわけじゃありません」
夕餉に配られたのを、あとでゆっくり食べようとしまっておいたのである。最近の風雅宮は視線が痛い。貴重な甘味は、皆の視線を気にせず味わいたかっただけだ。
「そういう問題じゃない。食べ物をそんなところから出すなと言っているんだ」
「まあまあ気にせず。さ、どっちか選んでください」
冥焔はうろんな視線を麗麗に送った。『子どもの遊びをしているわけではないんだぞ』とでも言いたげな表情だが、ここは黙って付き合ってもらわないと話が進まない。
『仕方がない』という態度を隠そうともせずに、冥焔は麗麗の右手を指さした。
麗麗はうなずき、口を開く。
「右手を選びましたね? こっちが空ということでいいですか?」
冥焔は一瞬怪訝な顔をしたが、「ああ」とうなずく。
「それでは御開帳。はい、残念でした! 冥焔様の負けです」
両手を開けると、右手側にころんと乾果が転がっている。
冥焔はものすごい顔である。眉間のしわは深まり、目つきも鋭く、麗麗をじろりとにらみつけて言い放った。
「納得できん」
「なにがです?」
「俺が『負け』であることだ。違和感がある。釈然としない」
麗麗は感心したように冥焔を見上げた。
「お、流石です、冥焔様。冥焔様くらいになると簡単には騙されてくれませんね」
冥焔は顔を思いきりしかめると、ぎろりと麗麗をにらみつける。
「どういう意味だ。説明しろ」
「今からしますってば。本当、短気なんだから……っと」
いけないいけない。また口が悪さを始めそうだ。
麗麗は手のひらの中で乾果を転がしながら、言葉を探した。
「つまり、今のは誘導尋問なんですよ」
「誘導尋問?」
冥焔が眉をひそめる。
「相手が特定の答えを返しやすいように、質問の仕方を工夫することです」
麗麗は乾果を指先でつまみ上げ、右手に置き直す。
「冥焔様は最初、『乾果が入っているのは右手だ』というつもりで右手を選びました」
「その通りだ」
「でもわたしは、その直後に『右手を選びましたね? こっちが空ということでいいですか?』と聞いたんです」
冥焔は少し考え込み、やがてむっとした顔をする。
「……そもそもの問いが変わっているではないか」
「正解です」
麗麗はニヤッと笑う。
「最初は『当たりはどちらか』を聞いていたのに、次は『空なのはどちらか』を聞いている。何食わぬ顔をして、自分の得するほうに話を持っていく手法です。秘訣は、さらっと言うことですね。話が切り替わったことに気づきにくいですから」
「違和感の正体はそれか」
「そういうことです。冥焔様は違和を感じながらも、私がすり替えた質問を肯定しました。質問の枠組みに引きずり込まれたんですよ」
麗麗は再び乾果をつまみ上げると冥焔の手を取り、その手のひらにぽとりと落とす。
「これも一種の暗示です。誘導尋問の基本ですね。というわけで、こちらを差し上げます」
冥焔は苦い顔をすると、乾果をつまんで麗麗の口元に押しつけた。
「いらん。お前が食え」
「んう!?」
むぐっとねじ込まれた。せっかく分けてあげようと思ったのに、薄情な宦官である。口の中のものをもぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから麗麗はさらに言葉を重ねた。
「宦官の失踪の件は、おそらくこのような言葉の手妻が使われたのだと思います。宦官自身は甜甜妃に強制されたように感じたけれど、傍から聞けば宦官の意志で警備を買って出たのだと判断されるような、そんな言葉遣いをしたんじゃないですかね。どんな話し方をしているか聞かないと断言はできませんけれど」
実際、甜甜妃はこのような話し方や振る舞いをよくする。麗麗は自身がはめられたときのことを思い出し、また悔しさが湧き上がってくる。
あの妃は脳科学に関する知識や経験が豊富なのだと思う。そして、人の視線というものをよく知っている。先天的か後天的かまではわからないが、人がどう感じ、どう動くのかを察知する能力に長けているのだ。
(転生者って言ってたけど、死ぬ前はなにしてたんだあの人は)
詐欺師か、はたまたイリュージョニストか。なんにしても、敵に回すとやっかいな人なのは間違いないが、時すでに遅し。
(ばりばり敵認定されてんだよな……)
しかし、と麗麗は内心首をひねる。
(なんでわざわざ、宦官を警護にしたんだ?)
特にその宦官にご執心というわけでもあるまいに。しかも、宦官が失踪すればすぐに監査が入る。おのずと自分の宮にいることがばれるはずだ。にもかかわらず、なぜ暗示をかけてまで宦官を動かしたのか。
(……わからん!)
あーだこーだ考えてても仕方がない。甜甜妃に関してはあまりにも情報が少なすぎる。
とはいえ、と麗麗は冥焔に向き直る。
「宦官の件はともかくとして、あの仙薬が害ではないと聞いて安心しました。頭痛が治るのも気持ちが落ち着くのもよいことではありますし、問題はないのではと存じますが」
だがしかし、冥焔は苦い顔である。
「それを、後宮内だけで留めておくならまだよかったんだがな」
「えっ」
まさか、と麗麗は目をしばたかせる。
「外廷でも人気なのですか」
「ああ。霜国きっての仙術師が煎じた薬で、飲めばすぐに体がよくなると官吏たちの間で大評判を博している。特にあの宴で実際に甜甜妃を見ている官吏は熱心だな。目の前で奇跡を見せられたようなものだから」
ああ、と麗麗も苦い顔になった。そりゃあ、目の前で水を氷にしたり、火をおこしたりと派手な演技をされたら信じてしまうのも無理はないか。
「でも、後宮の薬をどうやって手に入れているんです?」
外廷の人たちは当然後宮には入れない。外と中では流通が違うし、欲しいからといって、はいどうぞと渡せる環境ではない。外から後宮になにか品物を入れる場合も、中から外へ出す場合も、厳しい検閲があるはずなのに。
冥焔はただひたすらに苦い顔をした。
「霜の使節団だ」
「えっ?」
「大家の命があるにもかかわらず、帰国せずに宮城の近くに居座っている。官吏が何度も帰国を促してはいるものの、あれが足りぬこれが足りぬと準備に追われている様子を見せているらしい。その者たちがどうやら仙薬を配っているようなのだ。あらかじめ煎じてあるものを秘密裏に流通させているらしく、手に負えん」
それはかなりまずいのではないか。麗麗の言葉にしない問いを肯定するかのように、冥焔はこめかみを押さえて顔をしかめた。
「それはそれとして、此度の件は助かった。甜甜妃にそのような特技があるということを、俺も肝に銘じておこう」
「お役に立ててなによりです」
麗麗は揖礼を捧げた。冥焔は麗麗を一瞥すると、目を細めて微笑する。
(……よく笑うようになったよなあ)
出会った当初の塩対応を思い出すと、感慨深い。なんにしても、気を許してもらえているようで、なによりである。
と、そのとき。
「……?」
ふと視線を感じて麗麗は振り返った。
もちろん、誰もいない。静かな池は静寂が広がっているし、ここに来た道のどこにも人の気配はない。だがしかし、確実に誰かに見られている。最近修羅場をくぐり抜けてきた身が、危険信号を感じ取っている。
「……冥焔様」
「わかっている。見られているな」
冥焔は麗麗の腕をぐいっと引っ張った。踏鞴を踏む体をいともたやすく抱き寄せると、麗麗を隠すようにすばやく腕の中に抱え込んだ。
「ちょっ……!」
「黙れ」
(なっ、なっ……)
なにすんじゃボケ! と言いたくても、もちろん言えない。冥焔の胸に思いきり顔を押しつけられているからである。
「見~ちゃった!」
聞こえてきた声に、麗麗は心臓が凍りそうになった。
(甜甜様!)
絶対に聞こえてはいけない声が、聞こえてくる。体を固くした麗麗を守るように、冥焔はたっぷりとした袖で麗麗の顔を覆うようにする。
「甜甜妃。こんな刻限に、おひとりでなにをなさっているのです」
冥焔の声は鋭い。対する甜甜妃の声は朗らかである。
「眠れないから、お散歩してたの。……ねえ、冥焔」
甜甜妃の声が、不自然に明るくなった。
「誰と逢い引きしてるの?」
(やばい)
今ここで、見つかるわけにはいかない。
そもそもふたりはそういう関係ではない。しかし、この状況は傍から見たら完全に恋人同士の逢瀬なのも間違いない。
甜甜妃は宦官と女官の関係に寛容であるが、それが麗麗にも適用されるかはかなり怪しいだろう。おもしろおかしく吹聴されて、攻撃材料にされるのは目に見えている。
「わたくしが誰と会っていようと、あなた様には関係のないことでございます」
きっぱりと冥焔が言う。しかし、甜甜妃は納得していないようである。
「いいじゃない。内緒にするから教えてよ」
「甜甜妃」
冥焔の声が一段階低くなった。
「わたくしのことよりもご自身のことをお考え下さい。このような夜におひとりで外出するのは、妃としての自覚が足りないと敢えて申し上げます。いらぬ誤解を招くことにもなりましょう。あなた様はすでに焱の妃。身勝手な行動は大家の顔に泥を塗るものだとご承知おきいただけますよう、お願い申し上げます」
「ふうん」
甜甜妃は意味ありげに言葉を発する。そうして、がらっと口調を変え、甘く柔らかな声でささやいた。
「ねえ、冥焔。その子が大切なら、もっと気をつけてあげないと」
「どういう意味でしょう」
「後宮って怖いじゃない? なにもしてなくても疑われた時点で負けなんだから、本当に女官ってかわいそうだって、私、いっつも思ってるの」
(うっわ)
麗麗の喉がごくっと鳴る。冥焔も警戒を強めたようで、麗麗を抱く腕に力が入った。
「やだ、あんまりにらまないで。怖いわ冥焔」
甜甜妃は大げさに肩を震わせる。
「ごめんなさい。私ったら、つい余計なことを。けれど本当に心配だったの。だって、その子がいなくなって困るのは、きっと冥焔でしょう? あなたたちのことが心配で」
「我々のことは、問題ございません。おかまいなく」
切りつけるような声色である。甜甜妃は一瞬言葉に詰まったようだが、ややあってふふっと笑みをこぼした。
「お節介だったみたいね。じゃあ、私は帰るわ」
「お気をつけてお戻りください」
「送ってくれないの?」
挑戦的な声に、冥焔はなおも鋭い声で答える。
「妃と逢い引きをしたと噂になるのは御免こうむります」
さすがの甜甜妃も、これにはむっときたようである。「ああ、そう」と冷たい声色を残し、踵を返した。
「後悔しないといいわね」
そう言い残し、甜甜妃はその場を去る。足音が完全に消えたことを確認し、冥焔はようやく緊張を解く。
「……行ったか。麗麗、大丈夫か」
「…………」
「麗麗?」
はっと麗麗は瞬きをする。瞬間、勢いよく冥焔から距離を取った。
「あ、ありがとうございました」
(なんだこれ)
危機を脱出したという安心感があるからだろうか、動きを止めていた心臓が一気に活動を始めたようである。かーっと全身に血が上るような火照りを覚えて、麗麗は手のひらで自分の顔をあおいだ。
かたや、冥焔は涼しい顔である。
「しかし、やっかいな相手に見られたな」
それはまったく同意だったので、麗麗もうなずいた。
「私だってことが見破られてなければいいんですが」
「……どうだろうな」
実際、冥焔が麗麗を抱き寄せる前に視線を感じていた。しかも、去り際の不穏なひとこと。
(まさか、ばれてたんじゃないだろうな)
夜の闇は深い。ましてやこんな池のほとりだ。すぐに冥焔が隠してくれたこともあるし、事なきを得たと思いたいが、嫌な予感がぬぐえない。
(にしても)
ほんの少しだけ先ほどの動揺から立ち直り、麗麗は冥焔に向き直った。
「冥焔様。いくら緊急事態だからって、人をっ……のべつまくなしにだっ……抱き寄せたり、しないほうがいいですよ」
「失礼なことを言うな」
眉間に思いきりしわを寄せ、冥焔はきっぱりと断言した。
「お前だからだ」
「へっ」
これには、ぽかんとしてしまった麗麗である。
「他の誰かをかばう必要はない」
一度落ち着いた心臓が、再びうるさく鳴り始める。
それはいったい、どういう意味なんだ。というかこのやりとり、まったく真逆なことがあったような。いやそれよりも、『お前だから』とはいったいどういう……。
(あーっ! もうわからん!)
頭が破裂しそうになり、麗麗はすんっと考えるのをやめた。これ以上考えたら、脳みそが沸騰してしまう。
「……お話がおすみのようなので、私は帰らせていただきます」
「ああ。宮まで送ろう」
「……結構です」
頼むからひとりにしてくれ。麗麗は大きく息を吐き、念のため周囲に気をつけながらその場をあとにした。
冥焔はすでに到着していた。池のほとりの木に体を預け、静かに天を見つめている。麗麗が来たことに気づいたのであろう、冥焔は視線を麗麗に向けゆったりと微笑する。
「来たか」
「お待たせしました」
「本当にな。夜が明けるかと思ったぞ」
さっき向けた微笑はどこへやら。豪外不遜な口調で冥焔は言い放った。
そんなふんぞり返ったような態度でなくともいいではないか。こちとら、同房の女官たちが寝入るのを待っていたんだぞ。こういうところは前と変わらないのだから、やはりこの宦官が優しくなったというのは気のせいなんじゃなかろうか。
とはいえ、ここで言い争っても仕方ない。麗麗は文句を呑み込んで、冥焔の隣に立った。
「それで、お話とは」
「甜甜妃のことだ。お前の見解を聞きたい」
だろうな、と麗麗はうなずく。
わざわざ異動までさせて風雅宮の女官にしたのだ。このタイミングで冥焔が聞きたいことなど、甜甜妃のことくらいだろうとあたりをつけていたのだが、大正解だったようだ。
冥焔は苦々しい顔で口を開く。
「実は先日、宦官のひとりが失踪した」
「失踪ですか……!?」
おいおい、と麗麗は目をひんむく。突然、予想もしなかった重たい話である。思わず居住まいを正し、冥焔の瞳を見上げた。
「ああ。門の警護をしていた宦官だったのだが、刻限になっても持ち場に現れない。それどころか、房からは荷物一式が消えていた。同房の誰もが行き先を知らず、姿が見えなくなった」
「大変じゃないですか」
冥焔はうなずき、再度口を開く。
「その宦官が、甜甜妃の宮で見つかった」
「……はっ!?」
麗麗が想像していたのは、甜甜妃の宮で息絶えている宦官の姿である。そんなの大事件ではなかろうか、こんな道端でほいほいと話していい内容ではないだろう……と思ったが、どうやら想像と違うらしい。
「その宦官は、甜甜妃の下で働いていたのだ」
「……はいっ?」
思わず聞き返す。
「つまり? その方は、勝手に持ち場を離れたどころか、仕える先を勝手に変えた、と、そういうことなんです?」
「そういうことなのだ」
なんという強心臓の持ち主なんだ。
宦官、女官が勝手に持ち場を離れることは許されていない。ましてや、行き先を告げずどこぞへ行くなど、懲罰ものではないか。
「話を聞くと、甜甜妃に命令されたのだといって聞かないのだ。『自分の宮で警護をしてほしいと頼まれたので、そうせざるを得なかった』『上に判断を仰いでいる暇はなかったのだ』と繰り返すばかりで話にならん」
「ほえええ」
「しかし、肝心の甜甜妃に話を聞けば、確かにその宦官と親しく話はしたが、そんな指示は出した覚えがないという。周囲の女官たちも同じ場にいたようで、同様の証言をしている始末。皆は、あの宦官がしかるべき手続きを経て鳳雅宮の警護をしているのだとばかり思っていたようだ。これを、お前はどう見る」
なんというか、変な話である。仮に双方の話に誤解があったのだとしても、そもそも配置換えは、自分の上官からの指示が必要だ。甜甜妃から『警護を』というような話が出たとて、宦官のほうがすんなりその指示に従うのはおかしな話である。
(そうせざるを得なかった、ってのが、引っかかるんだよな)
顎に指を添えて考えていると、冥焔がさらに言葉を重ねた。
「それと、もうひとつ。甜甜妃が調合しているという仙薬は知っているか?」
「ああ……」
あの怪しげな薬か、と麗麗は記憶を反芻する。女官や宦官、妃たちがこぞってもらいに来ているところを目撃したことがあるし、甜甜妃にべったりな女官たちの間で噂になっているのも知っている。
曰く、それを飲むと頭痛があっという間に治るだとか、気持ちが落ち着くだとか、そういった類いのものである。
「なんだかすごい人気ですよね」
「ああ」
冥焔は苦い顔だ。
「この流行り方はさすがに看過できん。その仙薬を手に入れ、しかるべき調査を行ったのだが……」
そこで、冥焔はひどく困ったような表情をした。
「薬効成分はほとんどないだろう、と侍医の見解があったのだ」
「へえっ」
なるほどなあ、と麗麗はうなずく。
「薬として機能していないということですか」
「そうだ。使われている主な材料は葛の粉だそうだ。それに香りづけのためにいくばくかの香辛料を混ぜているらしい。侍医の見解では、『体に害はないが、これだけで病状がよくなるとはとても言えない』ということらしい」
「はっはあ」
「しかし、実際に服用した者は効果を実感しているということもあり、より甜甜妃の評価が高まっているのだ。曰く、病状がよくなるものが入っていないにもかかわらず、体調が改善している。これぞまさしく、仙術のなせる業──」
麗麗は「あー」と天を仰いだ。そうか、そうかそうなるのか。
納得しながらうなずく麗麗を一瞥すると、冥焔はさらに苦い顔をする。
「思うところがありそうだな」
「はい」
「では、先にその話を聞こう。甜甜妃は、本当に仙薬を煎じることができるのか?」
麗麗は親指を唇に添えて、軽く目を閉じる。
「はい、と言えばはい。いいえ、と言えばいいえ、ですね」
冥焔がむっとしたように顔をしかめる。
「言葉遊びをしている場合じゃないぞ」
「わかってますよ。でも、そうとしか言えないんです」
麗麗は一度目を開けると、足元に転がっていた小石を拾った。
「冥焔様」
「なんだ」
「受け取ってくださいね。ほいっ!」
麗麗はその小石を冥焔に向かって放り投げる。慌てた冥焔が受け取ろうとした瞬間。
「熱いですよ! 気をつけて!」
麗麗は鋭く叫ぶ。
小石を受け取ったばかりの冥焔は「うおっ」と小さく悲鳴をあげて小石を放り投げた。
「な、なんだ!?」
冥焔は呆然と自分の手のひらを見つめ、驚いたように顔を上げて麗麗を凝視した。
「ほ……本当に熱かったぞ。ただの小石のはずなのに……」
「熱かったんですか」
「だからそう言っているだろう」
「でも、その小石は私が今さっき拾ったものです。熱いわけがありませんね」
冥焔は顔中に不機嫌な表情を張り付けた。
「そんなことはわかっている。だから驚いているのではないか」
ぷんすこと怒り始めてしまった冥焔を見て、麗麗は内心にまにまが止まらない。
「冥焔様は、私のことを信頼してくださっているんですね」
「……はあっ!?」
今度は一気に赤くなる冥焔である。
「どうしてそうなるんだ」
「私の暗示にかかったからですよ」
冥焔はぽかんと麗麗を見つめ、「暗示?」と繰り返した。
「はい。もちろんただの小石が熱いわけではない。冥焔様はそのことを、体の記憶としてよくご存じのはずです。それと同時に、熱い物に触れたときの衝撃もまた、記憶として持っている。私の『熱い』という声を聞いて、冥焔様は咄嗟に後者の記憶を思い出したのです。だから体が反応し、熱を帯びていない小石が本当に熱く感じたのでしょう」
冥焔はむっと唇を引き結ぶ。
「つまり、俺の勘違いだったと?」
「勘違いというよりも、思い込みですね。そして、その思い込みは、仕掛けた側が信頼されているという前提のもとに成り立ちます」
麗麗はにんまりと笑いながら、冥焔が放り投げた小石をもう一度拾って、冥焔に手渡した。
「ですから、冥焔様は私が考えている以上に、私のことを信じてくださっているのだなあと思ったんですよ」
石を受け取った冥焔は無言で一度石を握りしめると、ぽいと地面に放り投げそっぽを向いた。
「そんなことはどうでもいい。俺が聞いているのは、仙薬のことだ。小石のことではない」
(んだとこのやろ)
せっかくちょっとだけいい気分になったのに、この言い草である。とはいえ、説明もなしでは確かに意味がわからないだろう。
麗麗はふうと息を吐き、口調を変えた。
「この小石も、仙薬も、根本は変わりません。つまるところ、人は思い込みだけで体に変化が生じるという話なんです」
冥焔も真剣な表情になる。
「この小石が熱く感じたように、ということか?」
「はい。本物の薬じゃなくても、『これは効く薬です』と言われて飲むだけで症状が軽くなることがあります。その薬を処方しているのが、信頼に足るだけの人物であるという条件はありますが。これを、『偽薬効果』といいます」
冥焔は軽く目を見張った。
「甜甜妃の仙薬のことか」
「はい」
麗麗はうなずき、木に背中を預ける。
「体は案外、頭に騙されるんですよ。熱くないものでも、熱いと思い込んでしまえば実際に熱を感じるし、よく効く薬だと信じれば、体にとって有益な効果が出ることもあります」
「ははあ……」
佐々木愛子の世界では、実際に効果が出ることを期待された薬と、偽薬効果との違いをはっきりさせるための臨床試験が行われていたはずだ。
本当に薬の成分が効いたのか否か、それが〝薬を飲んだ〟という安心感から来る偽薬効果とどの程度差が出るのかといったようなことを観察、記録し、実際の薬の効果を確かめるための実験である。
「甜甜妃が仙術使いであるという話は、周知の事実です。しかも、実際に手妻を使って皆さんの前で不思議な技を披露している。そんな不思議な術を持っている方が効くと宣言しているのだから効くはずだ、そう強く信じて薬を服用すれば、暗示により体調が改善することもあるのだと思います」
「なるほどな……」
「これが仙薬の正体です。なので、ああいう言い方しかできないんですよ。甜甜妃は仙薬を煎じたわけではない。けれど、飲んで回復しているのであれば、それはその人にとって〝仙薬〟ということになりますね」
しかし、恐るべきは甜甜妃の信頼度である。侍医が『薬としての効果がないはず』と評したのであれば、そこで『詐欺だ!』となるのが定石だろうに。それを逆手に取り、『実際に効果が出ているのだからやはり仙術だ』とねじ伏せてしまうのは、甜甜妃の力量によるところがある。さすが人たらし妃であるといったところか。
「あとは、宦官の失踪の件ですが……」
麗麗は「うーん」と唸りながら、ごそごそと服をまさぐり、なにやら取り出すと、両手を握りしめたままの状態で冥焔の前に差し出した。
「どうぞ」
「なにが、どうぞ、なんだ?」
「この手の中のどちらかに、乾果が入っています。どちらかは空です。さて、当ててみてください。乾果を見つけたら冥焔様の勝ちです」
「待て。なぜ乾果が袖から出てくるのだ」
(やべっ)
「大丈夫です。盗んだわけじゃありません」
夕餉に配られたのを、あとでゆっくり食べようとしまっておいたのである。最近の風雅宮は視線が痛い。貴重な甘味は、皆の視線を気にせず味わいたかっただけだ。
「そういう問題じゃない。食べ物をそんなところから出すなと言っているんだ」
「まあまあ気にせず。さ、どっちか選んでください」
冥焔はうろんな視線を麗麗に送った。『子どもの遊びをしているわけではないんだぞ』とでも言いたげな表情だが、ここは黙って付き合ってもらわないと話が進まない。
『仕方がない』という態度を隠そうともせずに、冥焔は麗麗の右手を指さした。
麗麗はうなずき、口を開く。
「右手を選びましたね? こっちが空ということでいいですか?」
冥焔は一瞬怪訝な顔をしたが、「ああ」とうなずく。
「それでは御開帳。はい、残念でした! 冥焔様の負けです」
両手を開けると、右手側にころんと乾果が転がっている。
冥焔はものすごい顔である。眉間のしわは深まり、目つきも鋭く、麗麗をじろりとにらみつけて言い放った。
「納得できん」
「なにがです?」
「俺が『負け』であることだ。違和感がある。釈然としない」
麗麗は感心したように冥焔を見上げた。
「お、流石です、冥焔様。冥焔様くらいになると簡単には騙されてくれませんね」
冥焔は顔を思いきりしかめると、ぎろりと麗麗をにらみつける。
「どういう意味だ。説明しろ」
「今からしますってば。本当、短気なんだから……っと」
いけないいけない。また口が悪さを始めそうだ。
麗麗は手のひらの中で乾果を転がしながら、言葉を探した。
「つまり、今のは誘導尋問なんですよ」
「誘導尋問?」
冥焔が眉をひそめる。
「相手が特定の答えを返しやすいように、質問の仕方を工夫することです」
麗麗は乾果を指先でつまみ上げ、右手に置き直す。
「冥焔様は最初、『乾果が入っているのは右手だ』というつもりで右手を選びました」
「その通りだ」
「でもわたしは、その直後に『右手を選びましたね? こっちが空ということでいいですか?』と聞いたんです」
冥焔は少し考え込み、やがてむっとした顔をする。
「……そもそもの問いが変わっているではないか」
「正解です」
麗麗はニヤッと笑う。
「最初は『当たりはどちらか』を聞いていたのに、次は『空なのはどちらか』を聞いている。何食わぬ顔をして、自分の得するほうに話を持っていく手法です。秘訣は、さらっと言うことですね。話が切り替わったことに気づきにくいですから」
「違和感の正体はそれか」
「そういうことです。冥焔様は違和を感じながらも、私がすり替えた質問を肯定しました。質問の枠組みに引きずり込まれたんですよ」
麗麗は再び乾果をつまみ上げると冥焔の手を取り、その手のひらにぽとりと落とす。
「これも一種の暗示です。誘導尋問の基本ですね。というわけで、こちらを差し上げます」
冥焔は苦い顔をすると、乾果をつまんで麗麗の口元に押しつけた。
「いらん。お前が食え」
「んう!?」
むぐっとねじ込まれた。せっかく分けてあげようと思ったのに、薄情な宦官である。口の中のものをもぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから麗麗はさらに言葉を重ねた。
「宦官の失踪の件は、おそらくこのような言葉の手妻が使われたのだと思います。宦官自身は甜甜妃に強制されたように感じたけれど、傍から聞けば宦官の意志で警備を買って出たのだと判断されるような、そんな言葉遣いをしたんじゃないですかね。どんな話し方をしているか聞かないと断言はできませんけれど」
実際、甜甜妃はこのような話し方や振る舞いをよくする。麗麗は自身がはめられたときのことを思い出し、また悔しさが湧き上がってくる。
あの妃は脳科学に関する知識や経験が豊富なのだと思う。そして、人の視線というものをよく知っている。先天的か後天的かまではわからないが、人がどう感じ、どう動くのかを察知する能力に長けているのだ。
(転生者って言ってたけど、死ぬ前はなにしてたんだあの人は)
詐欺師か、はたまたイリュージョニストか。なんにしても、敵に回すとやっかいな人なのは間違いないが、時すでに遅し。
(ばりばり敵認定されてんだよな……)
しかし、と麗麗は内心首をひねる。
(なんでわざわざ、宦官を警護にしたんだ?)
特にその宦官にご執心というわけでもあるまいに。しかも、宦官が失踪すればすぐに監査が入る。おのずと自分の宮にいることがばれるはずだ。にもかかわらず、なぜ暗示をかけてまで宦官を動かしたのか。
(……わからん!)
あーだこーだ考えてても仕方がない。甜甜妃に関してはあまりにも情報が少なすぎる。
とはいえ、と麗麗は冥焔に向き直る。
「宦官の件はともかくとして、あの仙薬が害ではないと聞いて安心しました。頭痛が治るのも気持ちが落ち着くのもよいことではありますし、問題はないのではと存じますが」
だがしかし、冥焔は苦い顔である。
「それを、後宮内だけで留めておくならまだよかったんだがな」
「えっ」
まさか、と麗麗は目をしばたかせる。
「外廷でも人気なのですか」
「ああ。霜国きっての仙術師が煎じた薬で、飲めばすぐに体がよくなると官吏たちの間で大評判を博している。特にあの宴で実際に甜甜妃を見ている官吏は熱心だな。目の前で奇跡を見せられたようなものだから」
ああ、と麗麗も苦い顔になった。そりゃあ、目の前で水を氷にしたり、火をおこしたりと派手な演技をされたら信じてしまうのも無理はないか。
「でも、後宮の薬をどうやって手に入れているんです?」
外廷の人たちは当然後宮には入れない。外と中では流通が違うし、欲しいからといって、はいどうぞと渡せる環境ではない。外から後宮になにか品物を入れる場合も、中から外へ出す場合も、厳しい検閲があるはずなのに。
冥焔はただひたすらに苦い顔をした。
「霜の使節団だ」
「えっ?」
「大家の命があるにもかかわらず、帰国せずに宮城の近くに居座っている。官吏が何度も帰国を促してはいるものの、あれが足りぬこれが足りぬと準備に追われている様子を見せているらしい。その者たちがどうやら仙薬を配っているようなのだ。あらかじめ煎じてあるものを秘密裏に流通させているらしく、手に負えん」
それはかなりまずいのではないか。麗麗の言葉にしない問いを肯定するかのように、冥焔はこめかみを押さえて顔をしかめた。
「それはそれとして、此度の件は助かった。甜甜妃にそのような特技があるということを、俺も肝に銘じておこう」
「お役に立ててなによりです」
麗麗は揖礼を捧げた。冥焔は麗麗を一瞥すると、目を細めて微笑する。
(……よく笑うようになったよなあ)
出会った当初の塩対応を思い出すと、感慨深い。なんにしても、気を許してもらえているようで、なによりである。
と、そのとき。
「……?」
ふと視線を感じて麗麗は振り返った。
もちろん、誰もいない。静かな池は静寂が広がっているし、ここに来た道のどこにも人の気配はない。だがしかし、確実に誰かに見られている。最近修羅場をくぐり抜けてきた身が、危険信号を感じ取っている。
「……冥焔様」
「わかっている。見られているな」
冥焔は麗麗の腕をぐいっと引っ張った。踏鞴を踏む体をいともたやすく抱き寄せると、麗麗を隠すようにすばやく腕の中に抱え込んだ。
「ちょっ……!」
「黙れ」
(なっ、なっ……)
なにすんじゃボケ! と言いたくても、もちろん言えない。冥焔の胸に思いきり顔を押しつけられているからである。
「見~ちゃった!」
聞こえてきた声に、麗麗は心臓が凍りそうになった。
(甜甜様!)
絶対に聞こえてはいけない声が、聞こえてくる。体を固くした麗麗を守るように、冥焔はたっぷりとした袖で麗麗の顔を覆うようにする。
「甜甜妃。こんな刻限に、おひとりでなにをなさっているのです」
冥焔の声は鋭い。対する甜甜妃の声は朗らかである。
「眠れないから、お散歩してたの。……ねえ、冥焔」
甜甜妃の声が、不自然に明るくなった。
「誰と逢い引きしてるの?」
(やばい)
今ここで、見つかるわけにはいかない。
そもそもふたりはそういう関係ではない。しかし、この状況は傍から見たら完全に恋人同士の逢瀬なのも間違いない。
甜甜妃は宦官と女官の関係に寛容であるが、それが麗麗にも適用されるかはかなり怪しいだろう。おもしろおかしく吹聴されて、攻撃材料にされるのは目に見えている。
「わたくしが誰と会っていようと、あなた様には関係のないことでございます」
きっぱりと冥焔が言う。しかし、甜甜妃は納得していないようである。
「いいじゃない。内緒にするから教えてよ」
「甜甜妃」
冥焔の声が一段階低くなった。
「わたくしのことよりもご自身のことをお考え下さい。このような夜におひとりで外出するのは、妃としての自覚が足りないと敢えて申し上げます。いらぬ誤解を招くことにもなりましょう。あなた様はすでに焱の妃。身勝手な行動は大家の顔に泥を塗るものだとご承知おきいただけますよう、お願い申し上げます」
「ふうん」
甜甜妃は意味ありげに言葉を発する。そうして、がらっと口調を変え、甘く柔らかな声でささやいた。
「ねえ、冥焔。その子が大切なら、もっと気をつけてあげないと」
「どういう意味でしょう」
「後宮って怖いじゃない? なにもしてなくても疑われた時点で負けなんだから、本当に女官ってかわいそうだって、私、いっつも思ってるの」
(うっわ)
麗麗の喉がごくっと鳴る。冥焔も警戒を強めたようで、麗麗を抱く腕に力が入った。
「やだ、あんまりにらまないで。怖いわ冥焔」
甜甜妃は大げさに肩を震わせる。
「ごめんなさい。私ったら、つい余計なことを。けれど本当に心配だったの。だって、その子がいなくなって困るのは、きっと冥焔でしょう? あなたたちのことが心配で」
「我々のことは、問題ございません。おかまいなく」
切りつけるような声色である。甜甜妃は一瞬言葉に詰まったようだが、ややあってふふっと笑みをこぼした。
「お節介だったみたいね。じゃあ、私は帰るわ」
「お気をつけてお戻りください」
「送ってくれないの?」
挑戦的な声に、冥焔はなおも鋭い声で答える。
「妃と逢い引きをしたと噂になるのは御免こうむります」
さすがの甜甜妃も、これにはむっときたようである。「ああ、そう」と冷たい声色を残し、踵を返した。
「後悔しないといいわね」
そう言い残し、甜甜妃はその場を去る。足音が完全に消えたことを確認し、冥焔はようやく緊張を解く。
「……行ったか。麗麗、大丈夫か」
「…………」
「麗麗?」
はっと麗麗は瞬きをする。瞬間、勢いよく冥焔から距離を取った。
「あ、ありがとうございました」
(なんだこれ)
危機を脱出したという安心感があるからだろうか、動きを止めていた心臓が一気に活動を始めたようである。かーっと全身に血が上るような火照りを覚えて、麗麗は手のひらで自分の顔をあおいだ。
かたや、冥焔は涼しい顔である。
「しかし、やっかいな相手に見られたな」
それはまったく同意だったので、麗麗もうなずいた。
「私だってことが見破られてなければいいんですが」
「……どうだろうな」
実際、冥焔が麗麗を抱き寄せる前に視線を感じていた。しかも、去り際の不穏なひとこと。
(まさか、ばれてたんじゃないだろうな)
夜の闇は深い。ましてやこんな池のほとりだ。すぐに冥焔が隠してくれたこともあるし、事なきを得たと思いたいが、嫌な予感がぬぐえない。
(にしても)
ほんの少しだけ先ほどの動揺から立ち直り、麗麗は冥焔に向き直った。
「冥焔様。いくら緊急事態だからって、人をっ……のべつまくなしにだっ……抱き寄せたり、しないほうがいいですよ」
「失礼なことを言うな」
眉間に思いきりしわを寄せ、冥焔はきっぱりと断言した。
「お前だからだ」
「へっ」
これには、ぽかんとしてしまった麗麗である。
「他の誰かをかばう必要はない」
一度落ち着いた心臓が、再びうるさく鳴り始める。
それはいったい、どういう意味なんだ。というかこのやりとり、まったく真逆なことがあったような。いやそれよりも、『お前だから』とはいったいどういう……。
(あーっ! もうわからん!)
頭が破裂しそうになり、麗麗はすんっと考えるのをやめた。これ以上考えたら、脳みそが沸騰してしまう。
「……お話がおすみのようなので、私は帰らせていただきます」
「ああ。宮まで送ろう」
「……結構です」
頼むからひとりにしてくれ。麗麗は大きく息を吐き、念のため周囲に気をつけながらその場をあとにした。



