***
急に後宮に入内した甜甜妃の評判は悪くない。
悪くないどころか、むしろ好評だった。
甜甜妃は仙術師だという噂は、あっという間に後宮中に広まった。当の本人が自称していることもあり、気軽に仙術を見せてくれと頼みに来る妃や女官、宦官たちが連日、風雅宮を訪れる。
甜甜妃は嫌な顔ひとつせず、仙術を披露し、やんややんやの喝采を受けた。また、仙術由来の特別な霊薬と称したものを無償で配り、これがまたよく効くと評判を取った。(女官たちにも配られていたが、当然麗麗はスルーである。そんな怪しげなもの、誰が飲むか!)
仙術師というと、事件を起こした白蓮妃のことを連想するためだろう。さらに因縁の霜国出身という事実も相まって、最初はあまりいい印象を持たなかった後宮の者たちだった。しかし、そんな彼・彼女らが甜甜妃を受け入れたのには理由がある。
甜甜妃は霜国の話を秘匿することなく提供するのである。
「北国はお寒いのでしょう? いったいどんな方法で寒さを凌いでいらっしゃるの?」
妃に質問された甜甜妃は、小首をかしげて丁寧に答える。
「確かにとても寒いのですが、その分宮の造りに工夫があるんです。壁は厚くてどんな風も通さないし、冬は宮の至るところで常に火が焚かれていて温かさを保っているんですよ。敷物も温かな動物の毛皮を使うので、素足で歩いても冷たさを感じさせないほどなんです」
「まあ、素足で……」
焱国では、女性は素足を見せるのは伴侶のみという律がある。ゆえに、質問をしてきた妃は信じられないといった風情で眉を寄せたが、甜甜妃は一向に気にしない。
「素足で毛皮の上を歩くと、とても気持ちがいいんですよ。霜国ではどの季節も、素足が基本だったんです。そうだ!」
そう言いながら、甜甜妃は女官に頼んで、房の奥から毛皮の敷物を持ってこさせる。
「よければお近づきのしるしに、差し上げます」
甜甜妃は妃の耳元に唇を寄せて、ひそひそとささやく。
「ぜひ、大家がいらっしゃったときに一緒にお試しになっては? それなら素足でも問題ありませんものね」
「っ……甜甜様!」
「わたくしはまだ試す機会に恵まれていないんです。もしあなたが試してくださったら、ぜひ感想をお聞かせくださいな」
「しょうがないですわね! ありがたくいただきますわ……っ」
真っ赤な顔になった妃は、しどろもどろになりながらもその毛皮を受け取って帰っていく。
別の妃とは、服装の話になった。
「霜国の服はとてもおもしろい作りですのね。とても優雅ですわ」
その話を振ってきた妃は、中級妃の中でも洒落者として名を馳せていた。だからだろうが、甜甜妃の着ている金魚の尾のように見える服に興味津々のようである。
「ありがとうございます。この服はこのように動けば……」
甜甜妃はその場で立ち上がるとふわりと回ってみせた。
「裾がとても綺麗に広がるんですよ。わたくしもお気に入りなんです。それに……」
すっと妃に近寄って、甜甜妃はにやっと笑う。
「この背中のところに、実は紐があって。それを引くと……」
ごにょごにょごにょ。耳元でささやかれた妃は、ぼんっと爆発したかのように顔を赤らめた。
「まあっ、そ、そんな仕掛けがっ……」
「大家のお気に召したらと思っていたのですが、まだ機会がございませんの。もしよろしければ、わたくしが懇意にしている商人をご紹介しますけど、いかが? 霜国の者なので、信頼していただければというお話にはなりますけれど──」
「ぜ、ぜひお願いするわ!」
(やり口がうますぎるんだよな)
一連の流れを、壁の花として見守っていた麗麗は感心してしまう。
後宮の花たちの一番の関心は、誰が皇帝の寵愛を得るか、というところに終始している。甜甜妃に会いに来た妃たちは、つまるところ新しい妃が皇帝にとってどういう人物であるのか、自分の好敵手になりえるかどうかというところを見定めに来ていると言ってもいい。
甜甜妃は会話の中で、皇帝は自分に興味を示していない事実をさりげなくほのめかしてみせた。しかも妃たちに自身の情報を惜しみなく明け渡すだけでなく、皇帝と(大人な意味で)仲よくなるための品物を贈るのだ。
彼女の人たらしは妃相手にはとどまらない。
人当たりがよく親しみやすいという評価を得ている甜甜妃は、よく女官たちを集めて茶を嗜む。もちろん、茶をいただいているのは甜甜妃ひとりなのだが、その周囲には取り巻きのようにたくさんの女官たちが控えるようになっていった。
その理由が。
「へえ~、そうなの!? あなた、あの宦官と……! その方のどこが好きなの?」
可愛らしい顔を好奇心いっぱいに染めて、甜甜妃は女官のひとりにちょっかいを出している。その女官は頬を赤らめ、もじもじと服の裾をいじっていた。
「はい、その……優しいところとか、その、ちょっと強引なところも、いいんです」
「大切にされてるのね。羨ましい!」
甜甜妃の言葉に、女官も、周囲にいた他の女官たちも「きゃあっ」と黄色い悲鳴をあげる。
恋バナである。
本来なら、皇帝の所有物である女官が他の宦官とそういう関係になるのはよろしくないが、おおっぴらにさえしなければ目こぼしをしてもらえるというのが、後宮内の不文律だ。けれど、大目に見てもらっているだけであるので、当然発覚したら処罰対象になりかねない。
ゆえに、恋愛はこっそりと内密に、が信条だったのだが、この甜甜妃という方は堂々とおおっぴらに艶事──いわゆる、〝恋バナ〟をするのである。
じっと耐えるだけの恋をしている女官たちは、堂々と話す甜甜妃に最初は戸惑いこそすれ、自ら話すようになっていった。
恋愛の話は、誰かに聞いてもらいたいというのが世の常だ。それが秘しているならなおのこと。しかも、聞いてくれるのは自分よりも明らかに格上の妃である。
適度に茶化し、盛り上げ、けれど本当に聞いてほしくないところには切り込まない。『羨ましい、いいなあ!』とまるきり市井の少女のような態度の甜甜妃の話術に、女官たちが骨抜きにされたのは言うまでもない。
(すごい妃だよほんと)
今日も盛大に恋バナをしている甜甜妃たちを房の入り口越しに眺めて、麗麗は息を吐いた。
初日の、あの衝撃的な花瓶の水ぶっかぶり事件から数日。あっという間に周囲を味方につけた甜甜妃は、生き生きと過ごしているようである。
初手でやらかしてしまった(というよりも、はめられた)麗麗は、すっかり女官たちに〝関わってはいけない女官〟の烙印を押されてしまったようだ。遠巻きにヒソヒソとされることが増え、嫌な空気なことこの上ない。
しかも、唯一といってもいい味方、雪梅と別の仕事を仰せつかることになった。麗麗が掃除を主に担当する雑用係、雪梅は厨関係。そうなってくると、労働時間が変わってくるため、当然、房も別である。
ただでさえ人間関係の構築が苦手な麗麗はあっという間に孤立した。
別に、それはいい。ひとりは好きだし、慣れている。
けれど、どうもその背景に、あの甜甜妃の悪意が絡んでいるように思えて仕方がないのである。
雪梅とは初日の事件以来、話していない。話す機会を完全に奪われたと言ってもいい。他の宮から来た女官たちはそれぞれ顔見知り同士で同じ仕事を請け負っているようであり、その事実がよりいっそう疑惑を強めている。
自分がいったいなにをしたっていうんだ。
最初に会話をしたときは、転生者だということを喜んでいたように見受けられた。仲間ができて嬉しいとまで言っていたのに、一転してこの扱いである。
なにが彼女をそうさせたのかはわからない。けれど、麗麗のなにかがひどく甜甜妃の癇に障っているのだけは、はっきりとわかる。
ふうっと重いため息が出て、麗麗は一度天井を仰いだ。まあ綺麗な装飾ですこと、と意味もないことを考えながら、水を張った桶に雑巾を浸し、絞る。
(どうでもいいけど、仕事してくんないかな)
雑巾を握りしめて、麗麗は回廊の床を磨き始めた。
ここ最近、というか初日以降、麗麗の周囲にはまともに仕事をしている女官がほとんどいなかった。雑用係の女官たちと、甜甜妃がよろしくやっているからである。
今日はこの回廊のすべてを磨き上げなければならないらしい。そう命じられているのに、掃除担当の女官たちはほとんどが甜甜妃の周囲に侍ってしまい、麗麗はひとり取り残されている始末。
もともと人数が少なく、ひとりひとりに割り当てられた仕事量が膨大な深藍宮で鍛えられていることもあり、このくらいの業務ならなんてことはない。けれど、それは女官全員が全力で働いているから許されることである。ひとりだけが働き、他の女官すべてがくっちゃべってるこの状況。理不尽にもほどがある。
どういうことだ。甜甜妃、いいのかそれで。女官は仕事してなんぼでしょうが。小主として嗜めたりなんなりしてくれよと文句が出そうになるが、それをぐっと呑み込んで再び房の中をちらっと見ると……。
「あれ、麗麗!」
げっ。甜甜妃と目が合った。彼女はにこっと魅惑的に笑い、小首をかしげる。
「お掃除、ありがとう。ひとりでやってるの?」
ここで周囲の女官たちがギクッと互いに視線を交わした。そして気まずそうにうつむいたり、あからさまにそっぽを向いたり、青ざめたりしている。サボっていることを叱られないかと懸念しているのだ。
(ほらほら、注意しろ)
妃としてきちんと責務を果たせ。
しかし、甜甜妃は目をきらっと輝かせて、思いもよらないことを言った。
「こんな広い回廊をひとりで磨けるなんて、すごいわね。だから皆も安心して任せているんでしょ?」
おい!? と麗麗は思わず雑巾を握りしめる。
ほっとしたのは周囲の女官たちである。まるで初めからそうであったかのように、「そうなんです」「あの子ったらひとりでやるって聞かなくて」など嘘八百を並び立てる。
「でも、かわいそうだわ。ひとりで掃除だなんて。そうだ!」
甜甜妃はにこっと笑うと、おもむろに立ち上がった。
「私がお手伝いしてあげる!」
「甜甜様!」
周囲の女官が焦った声を出した。甜甜はその声を無視してずんずん歩き、房を出ると、床にかがみ込んでいる麗麗にずいっと近づいた。
(ちょっ……なんだよ急に!)
甜甜妃は麗麗の手に握られていた雑巾に手を伸ばし──そして、にやりと笑った。
(え、なに!?)
「きゃあっ!」
甜甜妃が、急に前につんのめるような動きをする。大きな声をあげて倒れると同時に、汚水を入れた桶を足で蹴り上げた。桶は見事にひっくり返り、汚水がふたりの上に降り注ぐ。
「甜甜様……!」
女官たちがすかさず駆け寄り、汚水まみれのふたりを見て絶句した。そして、なぜか麗麗に非難の目を向けたのである。
「ちょっとあなた! なにしてるの!」
「甜甜様の腕を引っ張ったわね!」
「はあっ!?」
思わず反論する。
「違います! 私はなにも──」
そこで麗麗ははっと気づいた。
(さっきの動き!)
急に前につんのめるような動き方。あれは、死角を利用した手妻だ。
自分の体でうまく隠しながら、まるで誰かに腕を引っ張られたような動きをする。その動きに人の視線を集め、その隙をついて足で桶を蹴り上げたのだ。
女官たちの角度から見たら、麗麗が甜甜妃の腕を引っ張ったように見えたに違いない。
やられた。また、この妃にはめられた!
甜甜妃は大きな目をうるうると潤ませながら、必死で女官たちに訴えかける。
「違うわ、麗麗を責めないで」
「でも、甜甜様!」
「私が悪いの。勝手に雑巾を取ろうとしたから。麗麗は妃である私に雑巾を触らせたくなかったのよ。だから、私のせいなの!」
そう言って、甜甜妃はさめざめと涙を見せる。
(おいおいさすがに……)
なんなんだこの妃は。ぶちぶちぶちっと堪忍袋の緒が切れる音が聞こえ始めた。
(私がいったい、なにをしたっていうんだ)
雑巾を握りしめて、麗麗は立ち上がった。多分、相当ブチ切れた顔をしていたのだろう、甜甜妃の周囲にいた女官たちがひっと小さく悲鳴をあげて一歩後ずさる。
「麗麗!」
不意に、回廊の奥から悲鳴のような声が聞こえた。
雪梅だ。同僚の女官たちと配給に行っていたらしく、手に食材が詰まっているであろう籠を持ち、ぎょとした顔でこちらを見つめている。
雪梅は青ざめた顔で籠を同僚に預けると、駆け足で麗麗の元へとやってきた。そして、ざっとあたりを見て状況を把握したのだろう。真っ白な顔で深く額づき、甜甜妃に礼をする。
「申し訳ございません、甜甜様……っ!」
「雪梅。あなたはなにも悪くないでしょう?」
甜甜妃は泣きはらした瞳で雪梅を見て小首をかしげる。しかし、雪梅は首を横に振ってなおも深く額づいた。
「この女官の教育は、私が行っておりました。ゆえに、麗麗の失態は私の失態です!」
ずきん、と胸が痛んだ。
「どうか、どうか獄行きだけは……! お許しください、甜甜様!」
(雪梅……っ)
麗麗はその様子を見て、らしからぬことに泣きそうになった。
自分のためにこんなに頭を下げてくれる友がいる。そんな友の前で、自身のちっぽけな自尊心などがいかほどのものか。
理不尽だ。許せない。けれどこの友の心を、とても無視することはできない。
麗麗は深呼吸し、膝を折る。汚水にまみれた床に額づき、礼の形を取った。
「誠に、申し訳ございません」
「ほらやっぱり」「最初から素直に謝りなさいよ」と周囲の女官たちが水を得たように騒ぎ始める。
腸が煮えくり返りそうなほど腹が立つ。唇を噛みしめるだけでは足りない。柔らかな唇に歯を立て、必死で己を律する。
この頭は友の名誉を、そして仕える真の小主を守るために下げている。ならばいくらだって下げてやる。
甜甜妃が鼻をすすり、口を開きかけたときである。
「これはいったい、なんの騒ぎです」
聞き覚えのある重低音。無駄によい声が耳に届き、麗麗ははっと息を呑んだ。
「冥焔様!」
周囲の女官たちが一斉に頬を赤らめる。
冥焔はその場の状況を見て、一瞬驚いたように息を呑んだ。
「甜甜妃?」
「私が悪いの」
甜甜妃は目を潤ませ、眉をハの字に下げて冥焔にすり寄る。
「私が身分を考えずに、女官の仕事を手伝おうとしたから。麗麗は私に敢えて厳しく当たったのよ」
そう言って、甜甜妃は涙ぐんだ。
嫌なやり方だ。今この場には雪梅もいて、同じように頭を下げている。しかし、敢えて甜甜妃は麗麗の名を出した。麗麗こそが主犯であると暗に示したのだ。
周囲の女官たちもここぞとばかりに声をあげた。
「だとしても甜甜様に狼藉を働く理由にはなりません」
「そうです! 甜甜様はなにも悪くありません」
「冥焔様、この女官が甜甜様のご厚意を無視して、乱暴したんです! 処罰を与えるべきではないですか?」
冥焔は一瞬だけ麗麗に視線を送ると、眉を軽く寄せた。そして甜甜妃に向き直り、冷静な声を落とす。
「甜甜妃、処罰を望みますか」
「えっ」
甜甜妃の眉がぴくっと動いた。
「わたくしはただの宦官でございます。霜では違う風習かもしれませんが、焱では仕えている女官の処罰は妃が行うものと律で定められています」
「あら、そうなの」
甜甜妃の顔が、きらっと輝いた。
「それじゃあ──」
「ただし」
冥焔が鋭い声をあげる。
「お恥ずかしいことではございますが、過去に数回、妃が気に入らない女官を排除するために、わざと失態を犯させるといった事例がございました。わたくしたちはこの事実を重く見ております。もちろん、処罰なさるとお決めになるのは結構ですが、その前に必ず監査が入ることはご了承くださいませ」
一瞬、甜甜妃の瞳が泳いだ。しかし、周囲の女官たちは冥焔の言葉に反感を持ったようである。
「甜甜様が嘘をついていらっしゃるというのですか」
「私たち、見ました。その女官が腕を引っ張っているところを!」
しかし、冥焔はたじろがない。甜甜妃をまっすぐに見つめて、なおも言葉を重ねた。
「疑っているわけではありません。甜甜妃はこの国に来て日が浅い。ゆえに、律をご存じでない可能性があると判断いたしました。それに、甜甜妃は先ほどこの女官をかばっておられましたので」
冥焔は一度言葉を区切ると、再度口を開く。
「女官の処罰を望まないものだとばかり思っておりましたが、いかがですか」
甜甜妃は言葉に詰まったかのように息を呑んだ。しかし、それも一瞬のことである。すぐににこやかな笑顔になり、冥焔に小首をかしげてみせる。
「もちろんよ。処罰は望みません」
隣の雪梅がほんの少しだけ緊張を解いた。かくいう麗麗も心の中でふーっと安堵の息を吐く。
どうやら、この首はまだ飛ばずにすむらしい。
冥焔は軽くうなずくと、ほんの少しだけ口調を変えた。
「甜甜妃。まずは湯浴みをし、お召し替えをしてはいかがです?」
先ほどの口調と比べると、かなり柔らかな響きである。周囲の女官たちは一斉にとろけたような顔つきになった。それは甜甜妃も例外ではない。
ぽかんと冥焔を見上げた頬には、朱が指している。
「そのような格好では、さぞご気分が悪いかと存じます。ちょうど、大家からの贈り物を持参しました。房に運ばせますので、まずは身を清め、お着替えなさってはいかがでしょうか」
『贈り物』と聞いて、甜甜妃はぱあっと明るい顔をする。
「そうなの。じゃあ、せっかくだからそうしようかな」
「お前たちも行きなさい。湯浴みの支度と、お召し替えの手伝いを」
「はい、冥焔様!」
甜甜妃は先ほどの様子はどこへやら、浮かれた足取りで回廊をあとにする。彼女の後ろを女官たちがぞろぞろと続き、その場には麗麗と雪梅、冥焔だけが取り残された。
周りに誰もいなくなったことを確かめた雪梅は、ふーっと大きく息を吐く。そして、冥焔に向かってぺこりと頭を下げた。
「冥焔様。ありがとうございました」
「かまわん」
「かまわんついでに、あの、ちょっとだけ聞かなかったふりをしていただけませんか」
雪梅はそう言うと、麗麗をぎろっとにらみつける。
(ひえっ)
麗麗の中の危険信号がびっかびかに光り始める。
怒ってる。はちゃめちゃに、怒っている!
「麗麗!」
流石に声は小さいが、鋭い叱責である。
「あんた、ほんとになにやってんの! こないだからどうしちゃったのよ!? もうっ……命がいくつあっても足りないわ!」
「あの、すみません」
「謝ってすむ問題じゃないわよ!」
雪梅は涙目になっている。
「あんたが処刑されちゃったらどうしようって……ほんと、私っ……こんな心配、させないでよ!」
ぐうの音も出ない。麗麗は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい。ありがとう、雪梅。一緒に頭を下げてくれて」
「そんなこたあ別にいいのよ。でも麗麗」
雪梅は鼻をすすると、真剣な目で麗麗を見つめる。
「こないだの騒ぎもそうだけど、ちょっとおかしいわ。ねえ、あんた、本当に甜甜様に狼藉を働いたの?」
「いいえ」
きっぱりと答えた。
「私はなにもしていません。けれど……」
甜甜妃の行いを、この場で同僚に告げていいものか。麗麗は迷った。雪梅のことだから、『理不尽だわ!』と言い出して、甜甜妃に直談判しに行かないとも限らない。
甜甜妃の行動原理はわからないが、彼女が麗麗を目の敵にしているのは間違いない。その不毛な争いに、この気のいい同僚を巻き込みたくはなかった。
ましてや、ここには冥焔もいる。大事になり、皇帝の耳に入るのはご勘弁願いたい。
「なにかが原因で、甜甜妃の不興を買ってしまったのかもしれません。その点は、申し訳ありません」
これ以上雪梅に心配をかけたくない。麗麗がもっと注意深く接していれば、避けられる類いの嫌がらせには違いないのだ。
麗麗の表情を見て、雪梅は苦笑いする。
「いいわ。あんたがやってないって言うなら、やってないんでしょ」
肩をすくめて、雪梅はくすっと笑う。
「その床、手伝ってあげたいけど、流石にそろそろ戻らないと。……麗麗」
ぽんっと頭に手を置かれた。
「よく我慢したわね。えらかったわ」
麗麗の頭から手を離して、雪梅は一度冥焔にぺこりとお辞儀をする。そして、踵を返して元の持ち場へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、麗麗はほっと息を吐く。
(雪梅が一緒でよかった)
「よい同僚だな」
ずっと黙っていた冥焔が、ぽつりと言葉を落とした。
「はい。私もそう思います」
味方がいるという事実が、こんなにも心強いとは。佐々木愛子時代を含めるとそれなりに長い月日を生きてきたはずだが、人間、いつになっても新鮮な驚きがあるというものだ。
冥焔は口の端に笑みを浮かべると、瞬時に真剣な顔になる。
「お前に話したいことがあったんだが、今は無理そうだな」
汚水にまみれている麗麗の姿を見ての発言だろう。麗麗は軽く頭を下げる。
「この女官服自体は洗えばいいので、あまり気にはしてないのですが、確かに今はちょっと」
どちらかというと、床にぶちまけられた水のほうが問題だ。特に片付けを言いつけられたわけではないが、犯人が麗麗であるとされているものを放置するのはよろしくない。状況が状況なだけに、あまりあの妃に隙を見せたくはなかった。
「そうか。では」
冥焔は少し迷ったようだが、麗麗にすっと近づいた。
「夜、抜けられるか」
「夜ですか」
抜け出すとなると、周囲に気づかれないようにしなければならないな、と麗麗は頭の中に風雅宮の造りを思い浮かべた。
宮の規模が四夫人のそれより小さいとはいえ、ここは立派な離宮である。宮全体を照らし出すような明かりはない。暗闇に紛れて門を抜けるのは容易なはずだ。
同房の女官たちが心配だが、寝入ったあとなら問題ないだろう。
「大丈夫だと思います」
「そうか」
冥焔の口元がゆるんだ。
「抜け出したら門を出て右へ曲がれ。道なりにまっすぐ進むと小さな池がある」
「はい、ではそこで」
麗麗がうなずくと、冥焔はふっと笑みをこぼす。そして、麗麗の唇をそっと親指で押さえた。
「噛んだな。痕がついている」
(うえっ!?)
「あまり自分を犠牲にするな。なにかあったら言え。いいな」
そう告げると冥焔は踵を返し、その場を立ち去った。
残された麗麗の心境たるや。
なんなんだ、あの宦官は。今までそんなに気軽に触れてきやしなかったくせに、なにを急に。仲間意識だかなんだか知らないが、以前と態度が違いすぎやしないか。
(距離感バグってんだよ!)
こっちは彼氏いない歴イコール年齢を地で行ってんだぞ。耐性がないんだ、いい加減にしろ!
心の中で悲鳴をあげながらも、麗麗は息を整えた。
(こうなったら、この回廊、徹底的に磨き上げてやる)
なにが『こうなったら』なのかは自分でもわかっていないが、どこかにこのうわーっと駆け出したい熱量を叩きつけなければ気が収まらない。
濡れた女官服なぞどうでもいい、今は目の前の回廊だ。
麗麗は腕まくりをすると、掃除を始める前よりも汚れてしまった回廊をせっせと磨き始めた。
急に後宮に入内した甜甜妃の評判は悪くない。
悪くないどころか、むしろ好評だった。
甜甜妃は仙術師だという噂は、あっという間に後宮中に広まった。当の本人が自称していることもあり、気軽に仙術を見せてくれと頼みに来る妃や女官、宦官たちが連日、風雅宮を訪れる。
甜甜妃は嫌な顔ひとつせず、仙術を披露し、やんややんやの喝采を受けた。また、仙術由来の特別な霊薬と称したものを無償で配り、これがまたよく効くと評判を取った。(女官たちにも配られていたが、当然麗麗はスルーである。そんな怪しげなもの、誰が飲むか!)
仙術師というと、事件を起こした白蓮妃のことを連想するためだろう。さらに因縁の霜国出身という事実も相まって、最初はあまりいい印象を持たなかった後宮の者たちだった。しかし、そんな彼・彼女らが甜甜妃を受け入れたのには理由がある。
甜甜妃は霜国の話を秘匿することなく提供するのである。
「北国はお寒いのでしょう? いったいどんな方法で寒さを凌いでいらっしゃるの?」
妃に質問された甜甜妃は、小首をかしげて丁寧に答える。
「確かにとても寒いのですが、その分宮の造りに工夫があるんです。壁は厚くてどんな風も通さないし、冬は宮の至るところで常に火が焚かれていて温かさを保っているんですよ。敷物も温かな動物の毛皮を使うので、素足で歩いても冷たさを感じさせないほどなんです」
「まあ、素足で……」
焱国では、女性は素足を見せるのは伴侶のみという律がある。ゆえに、質問をしてきた妃は信じられないといった風情で眉を寄せたが、甜甜妃は一向に気にしない。
「素足で毛皮の上を歩くと、とても気持ちがいいんですよ。霜国ではどの季節も、素足が基本だったんです。そうだ!」
そう言いながら、甜甜妃は女官に頼んで、房の奥から毛皮の敷物を持ってこさせる。
「よければお近づきのしるしに、差し上げます」
甜甜妃は妃の耳元に唇を寄せて、ひそひそとささやく。
「ぜひ、大家がいらっしゃったときに一緒にお試しになっては? それなら素足でも問題ありませんものね」
「っ……甜甜様!」
「わたくしはまだ試す機会に恵まれていないんです。もしあなたが試してくださったら、ぜひ感想をお聞かせくださいな」
「しょうがないですわね! ありがたくいただきますわ……っ」
真っ赤な顔になった妃は、しどろもどろになりながらもその毛皮を受け取って帰っていく。
別の妃とは、服装の話になった。
「霜国の服はとてもおもしろい作りですのね。とても優雅ですわ」
その話を振ってきた妃は、中級妃の中でも洒落者として名を馳せていた。だからだろうが、甜甜妃の着ている金魚の尾のように見える服に興味津々のようである。
「ありがとうございます。この服はこのように動けば……」
甜甜妃はその場で立ち上がるとふわりと回ってみせた。
「裾がとても綺麗に広がるんですよ。わたくしもお気に入りなんです。それに……」
すっと妃に近寄って、甜甜妃はにやっと笑う。
「この背中のところに、実は紐があって。それを引くと……」
ごにょごにょごにょ。耳元でささやかれた妃は、ぼんっと爆発したかのように顔を赤らめた。
「まあっ、そ、そんな仕掛けがっ……」
「大家のお気に召したらと思っていたのですが、まだ機会がございませんの。もしよろしければ、わたくしが懇意にしている商人をご紹介しますけど、いかが? 霜国の者なので、信頼していただければというお話にはなりますけれど──」
「ぜ、ぜひお願いするわ!」
(やり口がうますぎるんだよな)
一連の流れを、壁の花として見守っていた麗麗は感心してしまう。
後宮の花たちの一番の関心は、誰が皇帝の寵愛を得るか、というところに終始している。甜甜妃に会いに来た妃たちは、つまるところ新しい妃が皇帝にとってどういう人物であるのか、自分の好敵手になりえるかどうかというところを見定めに来ていると言ってもいい。
甜甜妃は会話の中で、皇帝は自分に興味を示していない事実をさりげなくほのめかしてみせた。しかも妃たちに自身の情報を惜しみなく明け渡すだけでなく、皇帝と(大人な意味で)仲よくなるための品物を贈るのだ。
彼女の人たらしは妃相手にはとどまらない。
人当たりがよく親しみやすいという評価を得ている甜甜妃は、よく女官たちを集めて茶を嗜む。もちろん、茶をいただいているのは甜甜妃ひとりなのだが、その周囲には取り巻きのようにたくさんの女官たちが控えるようになっていった。
その理由が。
「へえ~、そうなの!? あなた、あの宦官と……! その方のどこが好きなの?」
可愛らしい顔を好奇心いっぱいに染めて、甜甜妃は女官のひとりにちょっかいを出している。その女官は頬を赤らめ、もじもじと服の裾をいじっていた。
「はい、その……優しいところとか、その、ちょっと強引なところも、いいんです」
「大切にされてるのね。羨ましい!」
甜甜妃の言葉に、女官も、周囲にいた他の女官たちも「きゃあっ」と黄色い悲鳴をあげる。
恋バナである。
本来なら、皇帝の所有物である女官が他の宦官とそういう関係になるのはよろしくないが、おおっぴらにさえしなければ目こぼしをしてもらえるというのが、後宮内の不文律だ。けれど、大目に見てもらっているだけであるので、当然発覚したら処罰対象になりかねない。
ゆえに、恋愛はこっそりと内密に、が信条だったのだが、この甜甜妃という方は堂々とおおっぴらに艶事──いわゆる、〝恋バナ〟をするのである。
じっと耐えるだけの恋をしている女官たちは、堂々と話す甜甜妃に最初は戸惑いこそすれ、自ら話すようになっていった。
恋愛の話は、誰かに聞いてもらいたいというのが世の常だ。それが秘しているならなおのこと。しかも、聞いてくれるのは自分よりも明らかに格上の妃である。
適度に茶化し、盛り上げ、けれど本当に聞いてほしくないところには切り込まない。『羨ましい、いいなあ!』とまるきり市井の少女のような態度の甜甜妃の話術に、女官たちが骨抜きにされたのは言うまでもない。
(すごい妃だよほんと)
今日も盛大に恋バナをしている甜甜妃たちを房の入り口越しに眺めて、麗麗は息を吐いた。
初日の、あの衝撃的な花瓶の水ぶっかぶり事件から数日。あっという間に周囲を味方につけた甜甜妃は、生き生きと過ごしているようである。
初手でやらかしてしまった(というよりも、はめられた)麗麗は、すっかり女官たちに〝関わってはいけない女官〟の烙印を押されてしまったようだ。遠巻きにヒソヒソとされることが増え、嫌な空気なことこの上ない。
しかも、唯一といってもいい味方、雪梅と別の仕事を仰せつかることになった。麗麗が掃除を主に担当する雑用係、雪梅は厨関係。そうなってくると、労働時間が変わってくるため、当然、房も別である。
ただでさえ人間関係の構築が苦手な麗麗はあっという間に孤立した。
別に、それはいい。ひとりは好きだし、慣れている。
けれど、どうもその背景に、あの甜甜妃の悪意が絡んでいるように思えて仕方がないのである。
雪梅とは初日の事件以来、話していない。話す機会を完全に奪われたと言ってもいい。他の宮から来た女官たちはそれぞれ顔見知り同士で同じ仕事を請け負っているようであり、その事実がよりいっそう疑惑を強めている。
自分がいったいなにをしたっていうんだ。
最初に会話をしたときは、転生者だということを喜んでいたように見受けられた。仲間ができて嬉しいとまで言っていたのに、一転してこの扱いである。
なにが彼女をそうさせたのかはわからない。けれど、麗麗のなにかがひどく甜甜妃の癇に障っているのだけは、はっきりとわかる。
ふうっと重いため息が出て、麗麗は一度天井を仰いだ。まあ綺麗な装飾ですこと、と意味もないことを考えながら、水を張った桶に雑巾を浸し、絞る。
(どうでもいいけど、仕事してくんないかな)
雑巾を握りしめて、麗麗は回廊の床を磨き始めた。
ここ最近、というか初日以降、麗麗の周囲にはまともに仕事をしている女官がほとんどいなかった。雑用係の女官たちと、甜甜妃がよろしくやっているからである。
今日はこの回廊のすべてを磨き上げなければならないらしい。そう命じられているのに、掃除担当の女官たちはほとんどが甜甜妃の周囲に侍ってしまい、麗麗はひとり取り残されている始末。
もともと人数が少なく、ひとりひとりに割り当てられた仕事量が膨大な深藍宮で鍛えられていることもあり、このくらいの業務ならなんてことはない。けれど、それは女官全員が全力で働いているから許されることである。ひとりだけが働き、他の女官すべてがくっちゃべってるこの状況。理不尽にもほどがある。
どういうことだ。甜甜妃、いいのかそれで。女官は仕事してなんぼでしょうが。小主として嗜めたりなんなりしてくれよと文句が出そうになるが、それをぐっと呑み込んで再び房の中をちらっと見ると……。
「あれ、麗麗!」
げっ。甜甜妃と目が合った。彼女はにこっと魅惑的に笑い、小首をかしげる。
「お掃除、ありがとう。ひとりでやってるの?」
ここで周囲の女官たちがギクッと互いに視線を交わした。そして気まずそうにうつむいたり、あからさまにそっぽを向いたり、青ざめたりしている。サボっていることを叱られないかと懸念しているのだ。
(ほらほら、注意しろ)
妃としてきちんと責務を果たせ。
しかし、甜甜妃は目をきらっと輝かせて、思いもよらないことを言った。
「こんな広い回廊をひとりで磨けるなんて、すごいわね。だから皆も安心して任せているんでしょ?」
おい!? と麗麗は思わず雑巾を握りしめる。
ほっとしたのは周囲の女官たちである。まるで初めからそうであったかのように、「そうなんです」「あの子ったらひとりでやるって聞かなくて」など嘘八百を並び立てる。
「でも、かわいそうだわ。ひとりで掃除だなんて。そうだ!」
甜甜妃はにこっと笑うと、おもむろに立ち上がった。
「私がお手伝いしてあげる!」
「甜甜様!」
周囲の女官が焦った声を出した。甜甜はその声を無視してずんずん歩き、房を出ると、床にかがみ込んでいる麗麗にずいっと近づいた。
(ちょっ……なんだよ急に!)
甜甜妃は麗麗の手に握られていた雑巾に手を伸ばし──そして、にやりと笑った。
(え、なに!?)
「きゃあっ!」
甜甜妃が、急に前につんのめるような動きをする。大きな声をあげて倒れると同時に、汚水を入れた桶を足で蹴り上げた。桶は見事にひっくり返り、汚水がふたりの上に降り注ぐ。
「甜甜様……!」
女官たちがすかさず駆け寄り、汚水まみれのふたりを見て絶句した。そして、なぜか麗麗に非難の目を向けたのである。
「ちょっとあなた! なにしてるの!」
「甜甜様の腕を引っ張ったわね!」
「はあっ!?」
思わず反論する。
「違います! 私はなにも──」
そこで麗麗ははっと気づいた。
(さっきの動き!)
急に前につんのめるような動き方。あれは、死角を利用した手妻だ。
自分の体でうまく隠しながら、まるで誰かに腕を引っ張られたような動きをする。その動きに人の視線を集め、その隙をついて足で桶を蹴り上げたのだ。
女官たちの角度から見たら、麗麗が甜甜妃の腕を引っ張ったように見えたに違いない。
やられた。また、この妃にはめられた!
甜甜妃は大きな目をうるうると潤ませながら、必死で女官たちに訴えかける。
「違うわ、麗麗を責めないで」
「でも、甜甜様!」
「私が悪いの。勝手に雑巾を取ろうとしたから。麗麗は妃である私に雑巾を触らせたくなかったのよ。だから、私のせいなの!」
そう言って、甜甜妃はさめざめと涙を見せる。
(おいおいさすがに……)
なんなんだこの妃は。ぶちぶちぶちっと堪忍袋の緒が切れる音が聞こえ始めた。
(私がいったい、なにをしたっていうんだ)
雑巾を握りしめて、麗麗は立ち上がった。多分、相当ブチ切れた顔をしていたのだろう、甜甜妃の周囲にいた女官たちがひっと小さく悲鳴をあげて一歩後ずさる。
「麗麗!」
不意に、回廊の奥から悲鳴のような声が聞こえた。
雪梅だ。同僚の女官たちと配給に行っていたらしく、手に食材が詰まっているであろう籠を持ち、ぎょとした顔でこちらを見つめている。
雪梅は青ざめた顔で籠を同僚に預けると、駆け足で麗麗の元へとやってきた。そして、ざっとあたりを見て状況を把握したのだろう。真っ白な顔で深く額づき、甜甜妃に礼をする。
「申し訳ございません、甜甜様……っ!」
「雪梅。あなたはなにも悪くないでしょう?」
甜甜妃は泣きはらした瞳で雪梅を見て小首をかしげる。しかし、雪梅は首を横に振ってなおも深く額づいた。
「この女官の教育は、私が行っておりました。ゆえに、麗麗の失態は私の失態です!」
ずきん、と胸が痛んだ。
「どうか、どうか獄行きだけは……! お許しください、甜甜様!」
(雪梅……っ)
麗麗はその様子を見て、らしからぬことに泣きそうになった。
自分のためにこんなに頭を下げてくれる友がいる。そんな友の前で、自身のちっぽけな自尊心などがいかほどのものか。
理不尽だ。許せない。けれどこの友の心を、とても無視することはできない。
麗麗は深呼吸し、膝を折る。汚水にまみれた床に額づき、礼の形を取った。
「誠に、申し訳ございません」
「ほらやっぱり」「最初から素直に謝りなさいよ」と周囲の女官たちが水を得たように騒ぎ始める。
腸が煮えくり返りそうなほど腹が立つ。唇を噛みしめるだけでは足りない。柔らかな唇に歯を立て、必死で己を律する。
この頭は友の名誉を、そして仕える真の小主を守るために下げている。ならばいくらだって下げてやる。
甜甜妃が鼻をすすり、口を開きかけたときである。
「これはいったい、なんの騒ぎです」
聞き覚えのある重低音。無駄によい声が耳に届き、麗麗ははっと息を呑んだ。
「冥焔様!」
周囲の女官たちが一斉に頬を赤らめる。
冥焔はその場の状況を見て、一瞬驚いたように息を呑んだ。
「甜甜妃?」
「私が悪いの」
甜甜妃は目を潤ませ、眉をハの字に下げて冥焔にすり寄る。
「私が身分を考えずに、女官の仕事を手伝おうとしたから。麗麗は私に敢えて厳しく当たったのよ」
そう言って、甜甜妃は涙ぐんだ。
嫌なやり方だ。今この場には雪梅もいて、同じように頭を下げている。しかし、敢えて甜甜妃は麗麗の名を出した。麗麗こそが主犯であると暗に示したのだ。
周囲の女官たちもここぞとばかりに声をあげた。
「だとしても甜甜様に狼藉を働く理由にはなりません」
「そうです! 甜甜様はなにも悪くありません」
「冥焔様、この女官が甜甜様のご厚意を無視して、乱暴したんです! 処罰を与えるべきではないですか?」
冥焔は一瞬だけ麗麗に視線を送ると、眉を軽く寄せた。そして甜甜妃に向き直り、冷静な声を落とす。
「甜甜妃、処罰を望みますか」
「えっ」
甜甜妃の眉がぴくっと動いた。
「わたくしはただの宦官でございます。霜では違う風習かもしれませんが、焱では仕えている女官の処罰は妃が行うものと律で定められています」
「あら、そうなの」
甜甜妃の顔が、きらっと輝いた。
「それじゃあ──」
「ただし」
冥焔が鋭い声をあげる。
「お恥ずかしいことではございますが、過去に数回、妃が気に入らない女官を排除するために、わざと失態を犯させるといった事例がございました。わたくしたちはこの事実を重く見ております。もちろん、処罰なさるとお決めになるのは結構ですが、その前に必ず監査が入ることはご了承くださいませ」
一瞬、甜甜妃の瞳が泳いだ。しかし、周囲の女官たちは冥焔の言葉に反感を持ったようである。
「甜甜様が嘘をついていらっしゃるというのですか」
「私たち、見ました。その女官が腕を引っ張っているところを!」
しかし、冥焔はたじろがない。甜甜妃をまっすぐに見つめて、なおも言葉を重ねた。
「疑っているわけではありません。甜甜妃はこの国に来て日が浅い。ゆえに、律をご存じでない可能性があると判断いたしました。それに、甜甜妃は先ほどこの女官をかばっておられましたので」
冥焔は一度言葉を区切ると、再度口を開く。
「女官の処罰を望まないものだとばかり思っておりましたが、いかがですか」
甜甜妃は言葉に詰まったかのように息を呑んだ。しかし、それも一瞬のことである。すぐににこやかな笑顔になり、冥焔に小首をかしげてみせる。
「もちろんよ。処罰は望みません」
隣の雪梅がほんの少しだけ緊張を解いた。かくいう麗麗も心の中でふーっと安堵の息を吐く。
どうやら、この首はまだ飛ばずにすむらしい。
冥焔は軽くうなずくと、ほんの少しだけ口調を変えた。
「甜甜妃。まずは湯浴みをし、お召し替えをしてはいかがです?」
先ほどの口調と比べると、かなり柔らかな響きである。周囲の女官たちは一斉にとろけたような顔つきになった。それは甜甜妃も例外ではない。
ぽかんと冥焔を見上げた頬には、朱が指している。
「そのような格好では、さぞご気分が悪いかと存じます。ちょうど、大家からの贈り物を持参しました。房に運ばせますので、まずは身を清め、お着替えなさってはいかがでしょうか」
『贈り物』と聞いて、甜甜妃はぱあっと明るい顔をする。
「そうなの。じゃあ、せっかくだからそうしようかな」
「お前たちも行きなさい。湯浴みの支度と、お召し替えの手伝いを」
「はい、冥焔様!」
甜甜妃は先ほどの様子はどこへやら、浮かれた足取りで回廊をあとにする。彼女の後ろを女官たちがぞろぞろと続き、その場には麗麗と雪梅、冥焔だけが取り残された。
周りに誰もいなくなったことを確かめた雪梅は、ふーっと大きく息を吐く。そして、冥焔に向かってぺこりと頭を下げた。
「冥焔様。ありがとうございました」
「かまわん」
「かまわんついでに、あの、ちょっとだけ聞かなかったふりをしていただけませんか」
雪梅はそう言うと、麗麗をぎろっとにらみつける。
(ひえっ)
麗麗の中の危険信号がびっかびかに光り始める。
怒ってる。はちゃめちゃに、怒っている!
「麗麗!」
流石に声は小さいが、鋭い叱責である。
「あんた、ほんとになにやってんの! こないだからどうしちゃったのよ!? もうっ……命がいくつあっても足りないわ!」
「あの、すみません」
「謝ってすむ問題じゃないわよ!」
雪梅は涙目になっている。
「あんたが処刑されちゃったらどうしようって……ほんと、私っ……こんな心配、させないでよ!」
ぐうの音も出ない。麗麗は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい。ありがとう、雪梅。一緒に頭を下げてくれて」
「そんなこたあ別にいいのよ。でも麗麗」
雪梅は鼻をすすると、真剣な目で麗麗を見つめる。
「こないだの騒ぎもそうだけど、ちょっとおかしいわ。ねえ、あんた、本当に甜甜様に狼藉を働いたの?」
「いいえ」
きっぱりと答えた。
「私はなにもしていません。けれど……」
甜甜妃の行いを、この場で同僚に告げていいものか。麗麗は迷った。雪梅のことだから、『理不尽だわ!』と言い出して、甜甜妃に直談判しに行かないとも限らない。
甜甜妃の行動原理はわからないが、彼女が麗麗を目の敵にしているのは間違いない。その不毛な争いに、この気のいい同僚を巻き込みたくはなかった。
ましてや、ここには冥焔もいる。大事になり、皇帝の耳に入るのはご勘弁願いたい。
「なにかが原因で、甜甜妃の不興を買ってしまったのかもしれません。その点は、申し訳ありません」
これ以上雪梅に心配をかけたくない。麗麗がもっと注意深く接していれば、避けられる類いの嫌がらせには違いないのだ。
麗麗の表情を見て、雪梅は苦笑いする。
「いいわ。あんたがやってないって言うなら、やってないんでしょ」
肩をすくめて、雪梅はくすっと笑う。
「その床、手伝ってあげたいけど、流石にそろそろ戻らないと。……麗麗」
ぽんっと頭に手を置かれた。
「よく我慢したわね。えらかったわ」
麗麗の頭から手を離して、雪梅は一度冥焔にぺこりとお辞儀をする。そして、踵を返して元の持ち場へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、麗麗はほっと息を吐く。
(雪梅が一緒でよかった)
「よい同僚だな」
ずっと黙っていた冥焔が、ぽつりと言葉を落とした。
「はい。私もそう思います」
味方がいるという事実が、こんなにも心強いとは。佐々木愛子時代を含めるとそれなりに長い月日を生きてきたはずだが、人間、いつになっても新鮮な驚きがあるというものだ。
冥焔は口の端に笑みを浮かべると、瞬時に真剣な顔になる。
「お前に話したいことがあったんだが、今は無理そうだな」
汚水にまみれている麗麗の姿を見ての発言だろう。麗麗は軽く頭を下げる。
「この女官服自体は洗えばいいので、あまり気にはしてないのですが、確かに今はちょっと」
どちらかというと、床にぶちまけられた水のほうが問題だ。特に片付けを言いつけられたわけではないが、犯人が麗麗であるとされているものを放置するのはよろしくない。状況が状況なだけに、あまりあの妃に隙を見せたくはなかった。
「そうか。では」
冥焔は少し迷ったようだが、麗麗にすっと近づいた。
「夜、抜けられるか」
「夜ですか」
抜け出すとなると、周囲に気づかれないようにしなければならないな、と麗麗は頭の中に風雅宮の造りを思い浮かべた。
宮の規模が四夫人のそれより小さいとはいえ、ここは立派な離宮である。宮全体を照らし出すような明かりはない。暗闇に紛れて門を抜けるのは容易なはずだ。
同房の女官たちが心配だが、寝入ったあとなら問題ないだろう。
「大丈夫だと思います」
「そうか」
冥焔の口元がゆるんだ。
「抜け出したら門を出て右へ曲がれ。道なりにまっすぐ進むと小さな池がある」
「はい、ではそこで」
麗麗がうなずくと、冥焔はふっと笑みをこぼす。そして、麗麗の唇をそっと親指で押さえた。
「噛んだな。痕がついている」
(うえっ!?)
「あまり自分を犠牲にするな。なにかあったら言え。いいな」
そう告げると冥焔は踵を返し、その場を立ち去った。
残された麗麗の心境たるや。
なんなんだ、あの宦官は。今までそんなに気軽に触れてきやしなかったくせに、なにを急に。仲間意識だかなんだか知らないが、以前と態度が違いすぎやしないか。
(距離感バグってんだよ!)
こっちは彼氏いない歴イコール年齢を地で行ってんだぞ。耐性がないんだ、いい加減にしろ!
心の中で悲鳴をあげながらも、麗麗は息を整えた。
(こうなったら、この回廊、徹底的に磨き上げてやる)
なにが『こうなったら』なのかは自分でもわかっていないが、どこかにこのうわーっと駆け出したい熱量を叩きつけなければ気が収まらない。
濡れた女官服なぞどうでもいい、今は目の前の回廊だ。
麗麗は腕まくりをすると、掃除を始める前よりも汚れてしまった回廊をせっせと磨き始めた。



