後宮のガリレオ3

 さて。そんなこんなで異動である。

 女官ごときのために輿は用意されない。重たい荷物を背負い、徒歩でえっちらおっちら歩き、ようやく後宮のはずれまでやってきた。

 甜甜妃の住まう宮はその昔、皇帝の寵(ちょう)愛(あい)を得た中級妃のためにあつらえたこぢんまりとした離宮である。

 宮の名前は『風(フォン)雅(ヤー)宮』。四夫人の宮ではないので、色の名前は使われない。

 正門を抜けた先にはそこそこ広い院子(にわ)があり、妃の暮らす殿舎はそのすぐ奥にある。女官たちが寝起きする房は、同じ殿舎内のどこかにあるのだろう。

 四夫人の宮では女官の房は別棟に用意されているのが通常なので、やはり規模感は比べものにならないほど小さい。しかし、そこはさすがに妃の住まう宮らしく、丹塗りの柱や鮮やかに彩色された彫りが美しい屋根など、装飾性の高さには目を見張るものがある。

 すでに他の宮から集められた女官たちは働き始めているらしく、前門を箒(ほうき)で掃く者、柱を磨く者の姿が目にとまった。

 「へえ、結構いい待遇なのね」

 門をくぐった雪梅がひそひそと麗麗に耳打ちする。

 「中級妃なのに、おひとりでお住まいになるのってすごく珍しいわよね。特別扱いじゃない。もしかしたら出世を期待されているのかしら」

 (いやあああ、それはどうかな)

 麗麗は内心で首をひねりながら、雪梅の耳打ちを相づちで流した。

 本来であれば中級妃以下は自身の宮を持たず、他の妃と共同で生活を送る。しかし、この離宮は単独で建てられているし、場所も後宮のはずれで、あまり人通りがない場所である。本当に、文字通り〝離宮〟なのだ。

 (出世を期待……っていうよりも、警戒されてんだろうな)

 後宮にいる妃たちと甜甜妃をなるべく一緒にさせないようにという思惑が透けてみえるようで、麗麗はさすがに微苦笑する。霜国との因縁についてはよくわからないけれど、ここまであからさまだと流石に同情を禁じ得ない。好きで後宮に入内したわけでもあるまいに。

 殿舎へと足を踏み入れたふたりが行ったことは、これからしばらくお世話になる小主への挨拶である。

 甜甜妃の房の門扉を叩く瞬間は、さしもの麗麗も緊張をした。ごくりと唾を飲み込み、慣例に従って戸を軽く打ち鳴らす。

 「はぁ~い!」

 軽やかな声が聞こえて、戸が内側へと大きく開いた。

 「よいしょ」と扉を開けて出てきたのは、金魚のようにひらひらとした煌びやかな服に身を包んだ、見目麗しい女性──というか。

 (ご本人じゃん!)

 てっきり女官が開けたのだと思いきや、なんと甜甜妃本人である。

 なぜ妃が自分で扉を開けるのか。ほら見ろ、雪梅が驚きのあまり固まっているぞ。

 麗麗は急いで雪梅を肘でつつき、揖礼を捧げた。雪梅もはっと息を呑み、麗麗にならう。

 「ぶ、不調法をお許し、ください! 甜甜様にご挨拶を申し上げましゅっ!」

 雪梅が盛大に噛んだ。このしっかり者の女官をここまで慌てさせた小主は、ぱちくりとお人形のような目を瞬かせる。

 「あれえっ! あなた、こないだの!」

 しまった、顔を覚えられていたか。あの暗闇だったし、装いも違うし、ばれないと思っていたのに……と内心ほぞを噛む。

 さすがに、ここでぺろっと『そうです、私がこの間お会いした者です』とは名乗れない。

 (ええい、しらばっくれたろ)

 麗麗は深く礼の形を取った。

 「甜甜様にご挨拶を申し上げます。麗麗と申します」

 「同じく、雪梅です。精いっぱいお仕え申し上げます」

 雪梅も続けて名乗った。

 甜甜妃は二、三度まばたきをし、麗麗を見て意味深に笑った。

 「どこかで見たと思ったけど、ごめんなさい。勘違いだったみたい。よろしくね、麗麗、雪梅」

 片目をぱちっとつぶってみせるさまは大変愛らしいが、麗麗はその視線に彼女の『黙っててあげる(※ただしあとで覚えとけ)』という意図を感じ取った。

 (ばれてんだよなあ)

 勘がよろしいようで、なによりである。

 「それじゃあ早速。雪梅はお掃除得意? 他の女官たちにもお願いしているんだけど、厨がね、しばらく使われてなかったみたいでお掃除が大変みたいなの」

 「承りました」

 「麗麗は、そうね、私の房を一緒に整えてくれない?」

 (うわあ)

 先ほどの様子を見ると、どうやら房に女官はいないらしい。初手からふたりきりはいろいろとまずいのではなかろうか。かといって、『嫌です』とはもちろん言えないので、麗麗はおとなしく揖礼を捧げた。

 足を踏み入れた甜甜妃の房は、すでに整えるところがないくらい整っていた。

 真新しい寝台。花鳥風月の彫りが施された衝立(ついたて)が置かれ、視線よけのために天井からは絹の紗幕が垂れ下がっている。床には毛皮でできた敷物が敷かれており、戸の近くに設置された卓子も椅子も、見ただけでわかる高級品だ。卓子の上には小ぶりの花瓶がちょこんと置かれ、可憐な花が活けられている。

 皇帝が、この妃をむげに扱えないと思っているのが手に取るようにわかった。

 (で、このどこを整えろって言うんだ?)

 麗麗が首をかしげた、そのとき。

 麗麗の後ろで、房の戸がぎいっと音を立てて閉じた。

 背筋にぞわっとした気配を感じて振り返ると、満面の笑みの甜甜妃が房の戸を塞ぐように立っている。そして身を乗り出し目をきらきらさせて、声をひそめた。

 「ねえ、麗麗に聞きたいことがあるんだけどお」

 「……はい」

 (なんだなんだ、なんだ急に)

 「後宮のガリレオ」

 「……!?」

 「って、呼ばれてるんだって?」

 (……えっ!?)

 胸がどくどくと鳴り始める。

 「大家直々に命を受けて、あのイケメン宦官と一緒に大活躍してるって話を聞いたんだよね~。なんでも、ふたりで仲良く後宮で起こった怖い出来事を解決しているんでしょう?」

 甜甜妃は笑みを崩さない。その張り付いたような完璧なスマイルで、さらに言葉を重ねた。

 「たくさん噂を聞いちゃった。入内したばかりの私の耳にも届くんだから、きっと麗麗は、この後宮ですごく重用されてるんだね」

 (落ち着け……!)

 麗麗はふーっと自分に言い聞かせる。ここまでの情報は、後宮に住む者なら手に入れられる情報だ。突然の発言で驚いたが、彼女が知っていてもなんら不自然ではない。

 麗麗は揖礼を捧げて口を開く。

 「……もったいないお言葉でございます」

 甜甜妃は小首をかしげて、その愛らしい唇を再度開いた。

 「だからでしょ? 宴に来てたのは」

 「えっ」

 「仙術が本物かどうか確かめろとか言われたんじゃないのかなって」

 すーっと冷汗が背中を伝う。

 「すごいなあ、転生してるのをいいことにチートし放題ってやつだよね。羨ましい!」

 麗麗は心の中で悲鳴をあげた。甜甜妃の意図がわからない。先日初めて言葉を交わしたときは、あんなに好意的だったのに。なぜ随所に棘(とげ)が見えるのだろう。

 こんなの、まともに答えていい質問ではない。

 転生者だと確信しているような甜甜妃の口調に、麗麗は『落ち着け』とふうっと息をついた。

 「申し上げます。私はその……てんせい? というものは知りませんし、聞いたこともございません。甜甜様にお会いしたのは今日が初めてでございますので、どなたかと勘違いなさっているのではないでしょうか」

 それを聞いた甜甜妃は目をきらっと光らせた。

 「ふうん、あくまでも知らぬ存ぜぬを貫く感じね」

 「事実ですから」

 ぱちっと視線が合った。甜甜妃の眉が、困ったように下を向く。そんな顔をされても本当のことなど言えないのだから勘弁してほしい。

 「……わかったわ。じゃあ、関係ない話をしていい?」

 「どうぞ」

 「麗麗はどこの宮から来たんだっけ」

 よかった! まともな質問だ。麗麗はほっとしながら揖礼し、答える。

 「淑(しゅく)妃(ひ)・瑛琳様の宮でございます」

 「すごい! 四夫人の女官なんだ! 瑛琳様ってどんな人なの?」

 「とてもお優しくて、気高い方でいらっしゃいます」

 「へえ……」

 甜甜妃はふわっと柔らかく笑う。

 「私、仲良くできるかな」

 「もちろんですとも」

 答えながら、麗麗は内心で自分を恥じた。

 (この人だって、緊張してんだよな)

 いきなり外国から連れてこられて、ひとりきりであれよあれよと後宮に入れられて、心細いに決まっているのだ。此度の入内が本人の意志か否かはわからないが、あの宴の使節団の言い方的にも、まるで物品のように扱われていたのは間違いない。

 焱から警戒され、このような離宮に押し込まれてなお、明るく振る舞っている。女官に対する態度も居丈高ではなく、かといってやけっぱちな印象も受けず、親しみやすい方なのだ。手妻を使い、仙術師と名乗っている点は不可解だが、なにか理由があるのかもしれない。

 そう、麗麗がほんの少しだけ警戒を解いたときだった。

 「それで、麗麗はきのこ派? たけのこ派?」

 「たけのこです。……あっ」

 しまった!

 にんまりと笑う甜甜妃を前に、麗麗は思わず口を押さえた。

 やってしまった。こんな罠(わな)に引っかかるとは、自分で自分が信じられない……!

 麗麗が軽く天を仰いだ。そのときである。

 ぱしゃっと軽い音がした。なんだ、と思う間もなく細かな滴が手のひらにかかった。

 「……へっ?」

 さっきまでにこにこ笑っていた甜甜妃の手には、花瓶が握られていた。卓子の上に飾ってあったものだ。

 活けられていた花が、甜甜妃の肩元や足元に散らばっている。妃の前髪から滴り落ちる水を見て、麗麗は呆然と立ち尽くした。

 (み……水を、かぶった?)

 「甜甜様? なにをなさって──」

 「あのね」

 まだ衝撃から立ち直れない麗麗を見て、甜甜妃は肩に垂れ下がった花の残骸を床に放った。そして、妃のお手本のような可愛らしさでにこりと笑む。

 「麗麗。私、やっぱりあなたとすっごく仲良くなれそう」

 (なっ……)

 ぞっとするような声色だった。

 可憐な少女の声である。しかし、先ほどまでの明るい様子とは違う。底知れぬ闇を感じさせる響きだ。

 甜甜妃は白く長い指で花瓶の細口をつまんだ。そして、悲鳴をあげながらそれを思いきり卓子に叩きつけたのである。

 無視できない音が、宮中に響き渡る。

 どたばたと足音が聞こえて、房の前に女官たちが集まってくる。

 「失礼いたします! 甜甜様、先ほどの音は!」

 雪梅の声だ。麗麗はまだ、自分になにが起こったのか理解できていない。

 「お騒がせしてごめんなさい、大丈夫よ」

 甜甜妃は自ら房の戸を開ける。飛び込んできた雪梅、以下女官たちはぎょっとしたように目をむいた。

 「甜甜様! どうなさったんです!? 髪も服もびしょ濡れではないですか!」

 「あまり騒がないで。私は大丈夫だから」

 そう言いながら、甜甜妃は体を戸から少しずらすようにする。房の中を検めた女官たちは一度床を見て、そして一斉に麗麗に目を向けた。

 (えっ)

 雪梅が真っ青な顔で、甜甜妃に膝を折った。

 「も……申し訳ありません! この子は、まだそのっ……経験が浅くて! 本当に……申し訳……っ」

 「いいのよ。彼女も一生懸命やってくれたんだから」

 気遣うように向けられた視線を受けて、ここでようやく麗麗にもわかった。

 (はめられた!)

 甜甜妃は自分で水をかぶって花瓶を割っておきながら、それを麗麗のせいにしているのだ。

 (ふ、ふざけんなっ……!)

 なぜそんなことをされなきゃならない。瞬間的にぶち切れそうになった麗麗を黙らせたのは、雪梅である。普段の彼女らしからぬものすごい力で頭を押さえつけられ、無理やり膝を折らされる。

 「雪梅っ……」

 嫌だ! こんな理不尽なこと、あってたまるかと抵抗する麗麗に、雪梅は鋭い視線を送り、すばやくささやく。

 「いいから。あとで聞くから」

 「でも」

 「瑛琳様の顔に泥を塗らないで!」

 ひゅっと心臓が冷えたような気がした。

 今まで、やられたらやり返してきた。納得のいかないことをされて我慢するなんて馬鹿らしいと思っていたけれど。

 麗麗は瑛琳妃の側仕えである。もしここで麗麗が反抗的な態度をとったら、その主人である瑛琳妃の恥となってしまう。

 (くそっ)

 麗麗はぐっと腹に力を込めた。頭を下げたくない。自分はなにもやってない。それでも今ここで折れなければ、あの主人を悲しませてしまう。

 唇を噛みしめ、拳を握りしめて、麗麗は膝を──折った。

 頭を下げた麗麗に、甜甜妃は天女の笑みを浮かべてみせる。

 「誰にでも失敗はあるわ。大丈夫よ」

 勝者の笑みである。

 周りの女官たちは安心したように息を吐く。「素敵な方ね」「とてもお優しくていらっしゃるわ」とささやく女官たちの声が麗麗の耳に届いた。

 「それより、着替えたいの。誰か、着替えを手伝ってくれる?」

 数人の女官が進み出て、甜甜妃の手を取った。房に消える瞬間、甜甜妃は一度だけ麗麗に視線を向けた。

 口の端に刻まれた、明確な嘲笑。揖礼した隙間から見たその笑みに、麗麗は息を呑んだ。あれは、悪意だ。未だかつてないほどの悪意。

 (……なんで)

 今までだって、玉璇妃の女官たちを筆頭に、いろいろな嫌がらせを受けてきた。転生前だって、それはそれは『壮絶ないじめ』という名の犯罪を受けてきてはいた。

 けれど、その裏にある感情は嫉妬や妬み、逆恨みがほとんどである。

 あそこまで純粋な悪意を向けられたことはあっただろうか?

 麗麗はしばらくその場から動けなかった。それほどまでに、甜甜妃の強烈な笑みが頭から離れなかった。