「徳妃に、ですか!? なにを、そんな無茶なことを!」
冥焔は思わず声を荒らげた。
「冥焔」
皇帝は人差し指をそっと自身の唇に当ててみせる。『落ち着け』と暗に言われて、冥焔ははっと口をつぐみ、ゆっくり息を吐いた。人払いをしてあるとはいえ、どこに耳があるかわからない。そんな当たり前の事実も判断できなくなるほど動揺しているのだと気づき、拳を握りしめ胸に強く押し当てる。
「……失礼いたしました。配慮が足りませんでした」
「いやいや、気持ちはわかるよ。わたしもね、聞いたときは驚いたのなんのでもう、目玉が飛び出て転がり落ちるかと思ったものだ。本当に、困ったことになったね」
全然困っていないような顔をしながら、皇帝は軽く笑った。しかし、つられて笑うわけにはいかない。冥焔は眉間のしわを深くする。
「大家、笑い事ではございません」
「そうなんだ。笑い事ではないんだが」
まだ目元に笑みの余韻を残しながら、皇帝・恩雲は口を開く。
「まさか霜国の使節団が、徳妃不在を知っているだなんて思わなかったから」
その口調にひやりとしたものを感じ、冥焔は拳を握りしめる。
「大家。今一度確認させてください。霜国の使節団は、あの仙術師──甜甜を妃にというだけではなく、我が国の徳妃の座を与えよと、そのように申しているのですね」
「そうだ」
「四夫人の座ではなく、徳妃と」
「そうだ」
冥焔は今度こそ、拳を強く握りしめた。
「……話が伝わるのが、早すぎます」
「その通りだ、冥焔」
焱国の徳妃は、現状不在である。他でもない玲沙妃の処刑──本当は追放であるが──をもってして、その座が空き、現在に至るまで空席のままだ。
後宮内の欠員は、よほどのことがない限り他国には告げない。いらぬ争いの火種になるからだ。ましてや四夫人となればなおのこと、その座にふさわしい者を選定するのに刻がかかるという点も相まって、権力争いの原因となりかねない。
ゆえに、焱国は後宮の妃に関しては公的発言をせず、秘している状態である。
もちろん、風の噂というものがある。この手の話題は黙っていても自ずと知れ渡ってしまうのが常だが、それにしても早すぎる。まだ焱国の宮城内でも知らぬ者が多い話であるのに、他国の、ましてや交流がそこまで盛んではない霜国が知るのは不可能だ。霜国と焱国では、そのくらいの物理的距離がある。
では、なぜ霜国が徳妃の件を持ち出せたのか。
皇帝はさらに口を開いた。
「しかもね、冥焔。あの人たちは、奉納の儀のことも知っていたよ」
「なんですって」
「『芸事を神仙に捧げると伺いました。我が国の仙術師ならばお役目に最適でございましょう。ぜひとも、舞を舞わせていただきたい。神仙もお喜びになるに違いありません』だそうだ」
「……あり得ません」
冥焔は頭を抱えた。徳妃不在を知るだけではなく、儀礼祭典のことまで把握しているとなると、どこからか焱の情報が漏れているとしか考えられない。
では、いったい誰がその情報を霜へともたらしたか。
「まさか」
すうっと背筋に冷たい氷が走る。事情を知り、いち早く他国へ情報を持ち込める者を、冥焔はひとりだけ知っている。
「……あの男ですか……?」
手のひらに食い込む爪の痛みは感じない。それこそ、腸から湧き上がるような憤怒が冥焔を貫く。
「あの男──玄策が、霜国に逃げ込んだということですか……!」
唇を噛みしめ、冥焔は声を絞り出した。
追っ手の目をかいくぐり、どこぞへと逃亡した玄策は、現在に至るまで杳として行方が知れない。
だがもし、生き延び、北へと逃げおおせているのだとしたら。
(あのとき、殺しておけばよかった)
渦巻く殺意が、冥焔の心を焼く。
決して見逃したわけではない。かろうじて残った理性が、今ではないと告げたためだ。私怨で殺してはならぬ。しかるべき手段で捕らえなければならないと判断した。だが今、冥焔は当時の判断をひどく悔やんでいる。
極刑に処せばよかった。この手で、あの男を殺すのは容易だったはずなのに。
冥焔の不穏な気配を感じ取ったのだろう、皇帝はゆっくりと口を開いた。
「早計はいけないよ」
のんびりとした口調である。だがしかし、恩雲は決して憤っていないわけではない。張り付いたような笑みを唇に浮かべながら、底冷えする声色で言葉を重ねた。
「決めつけてかかると足をすくわれる」
「はい、大家」
落ち着け、と自身に言い聞かせながら、冥焔はゆっくりと息を吐いた。
かの男には私怨がある。いつも以上に冷静にならなければと思うのに、なかなか感情が制御できない。
人とは、やっかいなものである。一度死んだ身だというのに情けないものだと苦い思いが込み上げる。
皇帝は今一度、口を開いた。
「けれど、可能性を無視してはならない。霜国とは因縁がある。そんな国にあの男がおり、我が国の情報を流したのだとすれば……此度の朝貢、なにか狙いがあるのだと考えておくに越したことはない」
「しかし、どうします。妃の入内を断るわけにはいきません」
甜甜を拒否すれば、朝貢を断ったということになる。従属国からの貢ぎ物を断るのは言語道断。後ろ指をさされるのは焱国だ。
「甜甜は慣例通り入内させる。奉納の儀も断る必要はないだろう。しかし、徳妃にはできないな。なんの功もない他国の者をほいほい高位につけるわけにはいかないからね。四夫人の座はそこまで甘くない。これはあくまでもわたしの予想だが……」
恩雲はすっと目を細めた。
「霜国が本気で四夫人の座を狙っているとは思えない。我が国の情報を持っているぞと匂わせたいだけなのかもしれないな」
まったく同じことを考えていたので、冥焔もうなずいた。
伝わるはずのないことを知っているぞ、情報網があるぞと暗に示すことで、優位性を保つ外交術だ。
「念のため、甜甜が連れてきている霜国の女官たちはすべて帰国させ、我が国から選別した女官をつけよう。どこから情報が漏れるかわからないからね」
「仰せのままに」
異論はない。揖礼し、手配に移ろうと冥焔が場を辞そうとしたときである。
皇帝はいっそ厳かと感じられる口調で、言葉を放った。
「そして、その女官のひとりに、我が国の懐刀をつける」
冥焔は一瞬、自分がなにを聞いたのかわからなかった。
「大家?」
「聞こえなかったのか? 麗麗をつけると言っているんだ」
瞬間、冥焔の胸に湧き上がったのは、強烈な嫌悪感である。
あろうことか、立場を忘れた。自分の弟弟がなにを言い出したのかわからず、冥焔は目の前の男をぎろりと鋭くにらみつける。
「危険だとわかっているのに、あの女官を利用するのですか」
「そうだよ」
皇帝は冷静な声を落とした。
「物怖じしないし、秘密は守る。事情もある程度察してくれて、なにより勘が鋭い。利用しない手はないだろう。今までだってそうだったじゃないか」
「ふ……ふざけ──!」
「冥焔」
皇帝の鋭い声があがる。
「やめなさい」
冷え冷えとした声に、冥焔ははっと口をつぐんだ。
(俺は……今、なにを……!)
身も心も臣下に染まったと思っていたのに、あろうことか皇帝に刃向かい、そして暴言を吐こうとするなど、あってはならぬ振る舞い。
狼狽する冥焔に、皇帝は困ったような笑みを浮かべる。
「わたしは皇帝だ」
恩雲は噛みしめるように言葉を放つ。
「大切な哥哥から天意を授かる立場を請け負った。その方に恥じぬよう、そしてわたしを信じてくれているあまたの者たちを守るために、最善を尽くさなければならない。あの女官は、わたしにこう言ったぞ。『あなた様は、この国の竜であらせられます』と」
冥焔は唇を噛んだ。
「使える駒はすべて使う。わかってくれるな、冥焔」
その言葉にうなずくには、意志の力が必要だった。なぜこれほどまでに抵抗感を覚えるのか、冥焔にはわからない。それでも強烈に、『嫌だ』と拒否してしまいたくなる。あの女官を危険な目に遭わせたくない。
だが、ここでうなずかないわけにはいかないこともまた、冥焔の理性は承知している。
「…………」
早く〝諾〟を告げねばと、冥焔は拳を握りしめた。
「承知、つかまつりました」
喉が苦い。ひりついて苦しい。それでも精いっぱい礼の形を取り、冥焔はその場を辞した。
***
数日後。使節団、および霜国から連れてきていた女官たちのすべてに、皇帝より帰国の命が下された。
甜甜は手続きを終え、中級妃として後宮に入内。そして、その側付き女官のひとりとして、麗麗があてがわれることになった。
冥焔は思わず声を荒らげた。
「冥焔」
皇帝は人差し指をそっと自身の唇に当ててみせる。『落ち着け』と暗に言われて、冥焔ははっと口をつぐみ、ゆっくり息を吐いた。人払いをしてあるとはいえ、どこに耳があるかわからない。そんな当たり前の事実も判断できなくなるほど動揺しているのだと気づき、拳を握りしめ胸に強く押し当てる。
「……失礼いたしました。配慮が足りませんでした」
「いやいや、気持ちはわかるよ。わたしもね、聞いたときは驚いたのなんのでもう、目玉が飛び出て転がり落ちるかと思ったものだ。本当に、困ったことになったね」
全然困っていないような顔をしながら、皇帝は軽く笑った。しかし、つられて笑うわけにはいかない。冥焔は眉間のしわを深くする。
「大家、笑い事ではございません」
「そうなんだ。笑い事ではないんだが」
まだ目元に笑みの余韻を残しながら、皇帝・恩雲は口を開く。
「まさか霜国の使節団が、徳妃不在を知っているだなんて思わなかったから」
その口調にひやりとしたものを感じ、冥焔は拳を握りしめる。
「大家。今一度確認させてください。霜国の使節団は、あの仙術師──甜甜を妃にというだけではなく、我が国の徳妃の座を与えよと、そのように申しているのですね」
「そうだ」
「四夫人の座ではなく、徳妃と」
「そうだ」
冥焔は今度こそ、拳を強く握りしめた。
「……話が伝わるのが、早すぎます」
「その通りだ、冥焔」
焱国の徳妃は、現状不在である。他でもない玲沙妃の処刑──本当は追放であるが──をもってして、その座が空き、現在に至るまで空席のままだ。
後宮内の欠員は、よほどのことがない限り他国には告げない。いらぬ争いの火種になるからだ。ましてや四夫人となればなおのこと、その座にふさわしい者を選定するのに刻がかかるという点も相まって、権力争いの原因となりかねない。
ゆえに、焱国は後宮の妃に関しては公的発言をせず、秘している状態である。
もちろん、風の噂というものがある。この手の話題は黙っていても自ずと知れ渡ってしまうのが常だが、それにしても早すぎる。まだ焱国の宮城内でも知らぬ者が多い話であるのに、他国の、ましてや交流がそこまで盛んではない霜国が知るのは不可能だ。霜国と焱国では、そのくらいの物理的距離がある。
では、なぜ霜国が徳妃の件を持ち出せたのか。
皇帝はさらに口を開いた。
「しかもね、冥焔。あの人たちは、奉納の儀のことも知っていたよ」
「なんですって」
「『芸事を神仙に捧げると伺いました。我が国の仙術師ならばお役目に最適でございましょう。ぜひとも、舞を舞わせていただきたい。神仙もお喜びになるに違いありません』だそうだ」
「……あり得ません」
冥焔は頭を抱えた。徳妃不在を知るだけではなく、儀礼祭典のことまで把握しているとなると、どこからか焱の情報が漏れているとしか考えられない。
では、いったい誰がその情報を霜へともたらしたか。
「まさか」
すうっと背筋に冷たい氷が走る。事情を知り、いち早く他国へ情報を持ち込める者を、冥焔はひとりだけ知っている。
「……あの男ですか……?」
手のひらに食い込む爪の痛みは感じない。それこそ、腸から湧き上がるような憤怒が冥焔を貫く。
「あの男──玄策が、霜国に逃げ込んだということですか……!」
唇を噛みしめ、冥焔は声を絞り出した。
追っ手の目をかいくぐり、どこぞへと逃亡した玄策は、現在に至るまで杳として行方が知れない。
だがもし、生き延び、北へと逃げおおせているのだとしたら。
(あのとき、殺しておけばよかった)
渦巻く殺意が、冥焔の心を焼く。
決して見逃したわけではない。かろうじて残った理性が、今ではないと告げたためだ。私怨で殺してはならぬ。しかるべき手段で捕らえなければならないと判断した。だが今、冥焔は当時の判断をひどく悔やんでいる。
極刑に処せばよかった。この手で、あの男を殺すのは容易だったはずなのに。
冥焔の不穏な気配を感じ取ったのだろう、皇帝はゆっくりと口を開いた。
「早計はいけないよ」
のんびりとした口調である。だがしかし、恩雲は決して憤っていないわけではない。張り付いたような笑みを唇に浮かべながら、底冷えする声色で言葉を重ねた。
「決めつけてかかると足をすくわれる」
「はい、大家」
落ち着け、と自身に言い聞かせながら、冥焔はゆっくりと息を吐いた。
かの男には私怨がある。いつも以上に冷静にならなければと思うのに、なかなか感情が制御できない。
人とは、やっかいなものである。一度死んだ身だというのに情けないものだと苦い思いが込み上げる。
皇帝は今一度、口を開いた。
「けれど、可能性を無視してはならない。霜国とは因縁がある。そんな国にあの男がおり、我が国の情報を流したのだとすれば……此度の朝貢、なにか狙いがあるのだと考えておくに越したことはない」
「しかし、どうします。妃の入内を断るわけにはいきません」
甜甜を拒否すれば、朝貢を断ったということになる。従属国からの貢ぎ物を断るのは言語道断。後ろ指をさされるのは焱国だ。
「甜甜は慣例通り入内させる。奉納の儀も断る必要はないだろう。しかし、徳妃にはできないな。なんの功もない他国の者をほいほい高位につけるわけにはいかないからね。四夫人の座はそこまで甘くない。これはあくまでもわたしの予想だが……」
恩雲はすっと目を細めた。
「霜国が本気で四夫人の座を狙っているとは思えない。我が国の情報を持っているぞと匂わせたいだけなのかもしれないな」
まったく同じことを考えていたので、冥焔もうなずいた。
伝わるはずのないことを知っているぞ、情報網があるぞと暗に示すことで、優位性を保つ外交術だ。
「念のため、甜甜が連れてきている霜国の女官たちはすべて帰国させ、我が国から選別した女官をつけよう。どこから情報が漏れるかわからないからね」
「仰せのままに」
異論はない。揖礼し、手配に移ろうと冥焔が場を辞そうとしたときである。
皇帝はいっそ厳かと感じられる口調で、言葉を放った。
「そして、その女官のひとりに、我が国の懐刀をつける」
冥焔は一瞬、自分がなにを聞いたのかわからなかった。
「大家?」
「聞こえなかったのか? 麗麗をつけると言っているんだ」
瞬間、冥焔の胸に湧き上がったのは、強烈な嫌悪感である。
あろうことか、立場を忘れた。自分の弟弟がなにを言い出したのかわからず、冥焔は目の前の男をぎろりと鋭くにらみつける。
「危険だとわかっているのに、あの女官を利用するのですか」
「そうだよ」
皇帝は冷静な声を落とした。
「物怖じしないし、秘密は守る。事情もある程度察してくれて、なにより勘が鋭い。利用しない手はないだろう。今までだってそうだったじゃないか」
「ふ……ふざけ──!」
「冥焔」
皇帝の鋭い声があがる。
「やめなさい」
冷え冷えとした声に、冥焔ははっと口をつぐんだ。
(俺は……今、なにを……!)
身も心も臣下に染まったと思っていたのに、あろうことか皇帝に刃向かい、そして暴言を吐こうとするなど、あってはならぬ振る舞い。
狼狽する冥焔に、皇帝は困ったような笑みを浮かべる。
「わたしは皇帝だ」
恩雲は噛みしめるように言葉を放つ。
「大切な哥哥から天意を授かる立場を請け負った。その方に恥じぬよう、そしてわたしを信じてくれているあまたの者たちを守るために、最善を尽くさなければならない。あの女官は、わたしにこう言ったぞ。『あなた様は、この国の竜であらせられます』と」
冥焔は唇を噛んだ。
「使える駒はすべて使う。わかってくれるな、冥焔」
その言葉にうなずくには、意志の力が必要だった。なぜこれほどまでに抵抗感を覚えるのか、冥焔にはわからない。それでも強烈に、『嫌だ』と拒否してしまいたくなる。あの女官を危険な目に遭わせたくない。
だが、ここでうなずかないわけにはいかないこともまた、冥焔の理性は承知している。
「…………」
早く〝諾〟を告げねばと、冥焔は拳を握りしめた。
「承知、つかまつりました」
喉が苦い。ひりついて苦しい。それでも精いっぱい礼の形を取り、冥焔はその場を辞した。
***
数日後。使節団、および霜国から連れてきていた女官たちのすべてに、皇帝より帰国の命が下された。
甜甜は手続きを終え、中級妃として後宮に入内。そして、その側付き女官のひとりとして、麗麗があてがわれることになった。



