後宮のガリレオ3

 主殿を出ると、麗麗と冥焔は人の流れに逆らうようにして裏側へと回った。鳳宝殿の正門は人であふれかえっている。この人混みの中を突っ切り、後宮へと向かうわけにはいかないのだ。よって、裏門から出て、ぐるっと大回りして帰ることになる。

 牛車に乗り込み、麗麗はぐったりと背もたれに背を預けた。

 (にしても、疲れた……!)

 皇帝やその他客人を差し置いて座り込むわけにもいかなかったので、ずっと立ちっぱなしだったのだ。

 「行儀が悪いな」

 向かいに座った冥焔が、疲れを見せない顔で冷たく言い放つ。麗麗はその涼しげな顔をじろりと見た。

 「ずっと黙って立ってるのは初めてだったんです」

 上級女官になったとはいえ、仕事の内容はほぼ雑用だ。肉体労働には慣れている。しかし、微動だにせず立ち続けるのは動き回るのとはまた違った疲れ方をするものだ。

 そもそも瑛琳妃の住む深藍宮は女官が少ないので、黙って立っているという習慣がない。常にくるくると動いているし、食事も小主と一緒に取るため、基本、給仕に立つ必要がない。小主主催の宴のときもなんやかんやでばたついているので、立ちっぱなしの状況はまれなのである。

 足ががくがくで生まれたての子鹿のようだ。よくもまあ、冥焔以下宦官たちはじっと立ち尽くしていられるものだと感心してしまう。

 冥焔は(あき)れたように微苦笑すると、そのまま黙って牛車の外を見つめている。てっきり先ほどのことを聞かれるのかと思ったが、どうやらまだ話すつもりはないらしい。麗麗もくたびれきっていたので、ありがたく沈黙に身を委ねた。

 牛車が進み、後宮を取り囲む壁が見えてきたあたりで、冥焔が牛車を止める指示を飛ばす。

 その声で麗麗ははっと目をまたたかせた。

 「ここから先は歩きだ」

 「……っ、はい」

 しまった、意識が飛んでいた。あまりに疲れていたもので、つい。

 「麗麗」

 冥焔が呆れたように指で自身の口元をとんとんと叩く。

 「だらしない」

 (やば)

 慌てて口元のよだれをぬぐった麗麗である。

 再び冥焔の手を借り輿から降りると、麗麗はぶるりと体を震わせた。見れば、後宮の門はまだまだずっと先である。こんな寒空の下、そこまで歩けとはやはり鬼畜か、と隣の鬼上司を見上げると、付き添っていた官吏に素知らぬ顔で牛車を預けていた。

 どうせなら門まで乗せてくれればいいものを。

 「顔に出てるぞ」

 牛車を見送った冥焔は、眉間にしわを寄せて苦笑いする。

 「本当は後宮の中まで乗せていってもよかったんだがな」

 「本当ですよ」

 行きはそうしたのに、帰りは歩けとはこれいかに。

 「だがこうでもしないと、お前とふたりで話せないだろう」

 その言葉を聞いて、なるほど、と麗麗はうなずく。

 「……あの、仙術のことですか」

 「そうだ」

 歩けと促され、麗麗はゆっくりと歩を進めた。その隣を冥焔も歩く。

 あの輿の中で話をしなかったのは、官吏たちに話を聞かれたくなかったからに違いない。

 こんな真冬の夜遅くに、後宮の外壁近くをふらふらしている者はいない。周囲は開けていて、聞き耳を立てる場所もなさそうだ。内緒話にはうってつけである。

 冥焔はちらりと麗麗を一瞥すると、端的に言葉を放った。

 「あれは本当に仙術だったのか」

 「いいえ」

 返す麗麗の答えも簡潔である。

 「水を一瞬で氷にする術ですが、あれは自然現象です」

 麗麗は手のひらをこすり合わせながら言葉を紡ぐ。

 「ものすごく純度の高い……ええと、つまり、混ざり物がない水は、本来凍るはずの冷たさになっても凍らずに、液体のままでいることがあるんです。で、そこに衝撃が加わると、一気に水が凍る。先ほどの仙術は、それを利用した()(づま)ですね」

 過冷却という仕組みだ。水の分子がゆっくりと冷やされることで、氷点下になっても水が凍らず、水のままでいる状態を指す。

 甜甜が使った水は、何度も煮沸して混じりけを少なくしたものなのだろう。運んできたときもやたらとゆっくり動いていると思ったが、あれは不要な衝撃が加わって、凍り始めないようにするためだったに違いない。

 その状態の水に宝玉を落とし衝撃を加えることで、水が凍り始めるための燃料を与えたのだろう。

 「では、あの炎はどうなのだ。氷から炎をおこすことができるのは以前お前に教えてもらったが。その方法を使うことはできなかったはずだ。日の光がないからな」

 冥焔が言っているのは、以前麗麗が話した内容に違いない。氷をレンズの代わりにして、日の光を集めて火をつけるという方法である。

 確かに、そもそも宴は夜であるし、蝋燭の光を集めて火をつけるのは難しい。しかも、あんな短時間で火をおこすのは不可能だ。

 麗麗は顎に人差し指を添えて、冥焔を見上げる。

 「あれは、またちょっと違う方法なんですよ。えっと……まだできるかな……」

 そう言うと、麗麗は自分の衣服に垂れ下がっている玉の飾りをぷちりとむしり取った。小指の関節ほどの大きさで、平たい形をしているそれは、まさしくコインのようだ。

 「では冥焔様。この玉を、今から私が消してみせましょう」

 麗麗は玉を右手の親指と中指でつかみ、冥焔に見せた。右手の上を左手で覆い、持ち替えるような動きをする。そして、左手を開くと……。

 「消えた……」

 冥焔の目が軽く見開かれる。

 「どうなっているんだ。左手に持ち替えたのではなかったのか」

 「よかった、成功です」

 麗麗はほっと息をつき、にかっと笑う。

 「もちろん、消えてませんよ。飾りはここに」

 麗麗は右手をすっと差し出した。そこには手のひらにぱたんと倒れた玉の飾りがある。

 「これは、目の錯覚を利用した手妻です」

 「手妻だと?」

 「はい」

 麗麗は冥焔の隣に立つと、手の内側が見えるようにする。

 「親指と中指で、この飾りを指で挟むように持ちます。すると、手のひらに少しだけくぼみができますよね」

 「ああ」

 「で、左手で飾りを覆い隠す瞬間に、このくぼみに飾りを落とすんです」

 と言いながら、麗麗は実演する。左手で右手を覆った瞬間に手の内側に飾りを落としてみせると、冥焔はあっけにとられたような顔をした。

 「……こんな簡単な動きで、玉が消えたように見えたのか?」

 「はい」

 麗麗がやってみせたのは、手品のひとつである。人の錯覚を利用したシンプルなものだが、実演するとなると意外と難しい。

 ちなみになぜ麗麗がこんな手品が使えるのかというと、やはり自分の生前、佐々木愛子のおかげである。

 所属していた大学院のゼミで新入生歓迎会が行われた際に、古き慣習に則り出し物をしなければならなかったのである。『なぜこんな面倒くさいことを。悪しき風習だ!』と散々文句を言いながらも、それでも見せるからには恥ずかしくないものを、という負けず嫌い精神を発揮して、めちゃくちゃ猛特訓したのを覚えている。

 (まさか、今になって役に立つとは思わなかったよ)

 『芸は身を助く』とはまさにこのことである。

 ほんの少し感傷に浸りながらも、麗麗はなおも言葉を重ねる。

 「人の見え方っておもしろいんですよ。自分の中の常識に当てはめて物事を考えるんです。この玉の飾りも、左手で持ち替えているように見えるので、そこに飾りがあるはずだって自分の中で補完してしまうんですよね」

 麗麗は自分の顔を指さす。

 「あとは、視線です。私は敢えて大きく顔を動かし、さも『左手になにかがあるぞ』というように目を動かしました。人は急に大きな動きをするとそちらの方に無意識に視線が行ってしまうんですよ。その隙に、飾りを手の中に落とした、というわけです」

 言いつつ、麗麗は冥焔に玉の飾りを手渡した。

 「……なるほどな」

 冥焔は玉の飾りを手の中でもてあそびながら、眉を寄せた。

 「お前の話は理解した。あの仙術師は、わざと大仰に動き、周囲の人間の視線を逸らさせた。そしてなんらかの方法で蝋燭に火をつけた。そういうことだろう」

 「当たりです」

 やはり冥焔は頭がいい。一を言えば十わかってくれるのは大変ありがたい話である。

 「あの甜甜という方の衣服を覚えていらっしゃいますか。宴の場なので当たり前ではあるのですが、それにしてはやたらきらきらしていましたよね。ああいうのが流行りなのかと思いきや、霜国の使節団の方たちはまったく違う意匠でした」

 立場が違うとはいえ、同じ国出身であれば服装の傾向はそこそこ似るものだ。特に、宴に参列するときの服装はいわば正装。同じような雰囲気になるのが一般的だ。現に、麗麗の今着ているよそゆきの襦裙(じゅくん)は巫仕様だが、妃たちの襦裙と似た雰囲気である。文化とは、そういうところににじみ出るものだ。

 「甜甜様の服装は大変煌びやかでいらっしゃいました。蝋燭の火の下で光を反射するように計算して作られていたのだと思います。……視線を衣服に集めるために。人は見たいものを見るようにできています。その仕組みを利用した演技(パフォーマンス)ですね」

 「ははあ……」

 冥焔は納得したようにうなずいた。

 「では、あの甜甜とやらの仙術は、すべて手妻ということか」

 「今のところは、それで説明がつきます」

 麗麗は軽くうなずく。

 「けれど……」

 口を開きかけて、麗麗はぐっと唾を飲み込んだ。

 (あの人の表情)

 視線が合った、確実に。そしてあの、ぞっとするような笑みである。思い出すと、麗麗の背筋に冷たい氷が走る。

 「どうした」

 言いよどんでいる麗麗を見て、冥焔が歩を止める。

 「いえ。……今お伝えしたふたつの手妻なんですが、成功率が低いんです。火付けのほうはともかく、瞬間冷凍に関しては、ほとんど運だと言ってもいいくらい」

 過冷却を成功させるには、慎重かつ丁寧な作業が求められる。水は何度も沸かし直して蒸留し、不純物を取り除かなければならないし、そのあとに冷やすときも決して不用意な衝撃を加えてはならない。宴の会場に持ち運ぶ際も同様だ。

 「そんな不確かなものを、あの衆人環視の中で……絶対に成功させなければならない環境で、見事やってのけたんです。恐ろしいまでの舞台度胸だと思います。もちろん失敗したときの対策はなにかしら取っていたでしょうが……。私は、あの仙術師が少し……恐ろしいと感じました」

 甜甜の振る舞いは完璧だった。優雅で、そして余裕に満ちていた。

 緊張していただろうに、それをおくびにも出さないあの姿勢。自分だったら、あんなふうに堂々とできるだろうか。

 「なるほどな。やはり、お前の意見は参考になる」

 冥焔は感心したようにうなずくと、手中でもてあそんでいた玉の飾りを懐にしまい込んだ。

 (あっ、ねこばば)

 今さら返してくださいとは言えない。また香鈴に叱られてしまうだろうが、許してもらおう。

 冥焔は再び歩き出す。麗麗もそのあとをついて歩く。

 「あの者が妃になるなら、やはり油断はできない。霜国との因縁もあることだし、さすがに対策を取ったほうがいいだろう」

 「なんですって?」

 あの甜甜とやらが、妃に?

 思わず問い返した麗麗に、冥焔は呆れたような視線を送った。

 「そう使節団の者が言っていただろう。あの甜甜という仙術師は、大家への朝貢品のひとつだ。これから手続きを経て、正式に妃として後宮に入ることになる」

 「ああ……」

 あの、不穏な響きの言葉の数々か。

 「あの使節団の方のお言葉は、そういう意味だったんですね」

 なるほど、やっと合点がいった。なぜわざわざ特別な手続きまでして自分が外廷に呼ばれたのかと思っていたが、例の仙術師が後宮に入る予定だったからなのだろう。

 「だから、私が呼ばれたんですか」

 「その通りだ。これから後宮に入る妃のひとりになるだろうから、ガリレオのお前に人となりを見てほしいと大家はお考えだったようだ」

 「ははあ……」

 そんなやりとりをしているうちに、そろそろ後宮の入り口だ。

 「ずいぶん遅くなってしまったな」

 本当にね、と麗麗は隣の宦官をちらりと見る。

 「ところで、私、このまま門をくぐって大丈夫ですか」

 行きは牛車だった。麗麗の装いを隠すためだったのだと認識しているので、それゆえの質問だったが、冥焔は軽く首をかしげた。

 「問題ない。今日、後宮の門を見張っているのは俺の配下だ。お前のことは言い含めてあるからなんにも問題はないはずだが」

 「ん? じゃあ、行きはなんで牛車に? この格好を見られないように、じゃないんですか」

 「それもあるが……」

 冥焔は急に口ごもる。

 「長丁場になるとわかっていたからな」

 それだけ言うと、黙って早歩きになる。

 (あれ、もしかして)

 この宦官は、最初から親切で牛車を用意してくれたのか。麗麗の体力を(おもんばか)ってくれていたということか?

 (にしても、最近やけに優しいなぁ)

 むしろ、こちらが本質なのだろうか。この気遣いや優しさが他に向けられているのだとしたら恐ろしい。めろついている方々の心臓が持つのだろうかと大変心配である。

 そんなことを考えていると、振り返った冥焔が大変不愉快だという表情を隠さずに、ひとこと。

 「さっさと歩け、麗麗」

 (前言撤回)

 やはりこの宦官は、性格が悪いのだ。

 そうして、宦官様のお望み通りせっせと歩き、後宮の門の近くまで来たときである。

 「冥焔様」

 不意に後ろから声をかけられる。振り向けば、宦官のひとりが駆け寄ってくるのが見えた。宦官はすばやく冥焔に駆け寄ると、その耳にささやきを落とす。

 その言葉を聞いた冥焔の表情がわずかに変わった。

 「麗麗、すまないが俺はここで失礼する。宮へは帰れるな?」

 「はい」

 麗麗はうなずいた。もう門は視界の先に見えているし、そこをくぐれば勝手知ったる後宮だ。さすがに道に迷うことはないだろう。

 麗麗のうなずきを確認した冥焔は、その宦官を引き連れて回れ右をする。外廷の方へと向かっていくので、なにか皇帝関係で緊急の用事でもできたのだろう。

 (こんな夜遅くまでお疲れ様ですねっと)

 なんにしても麗麗もくたくたである。早く後宮に戻ろうと、足を進めようとした、そのとき。

 「うおっ……!」

 袖をくんっと後ろから引かれて、思わず倒れそうになる。

 (な、なにすんのさ! てか、誰だよ!)

 振り返ったその先にいたのは、予想もしない人物だった。

 「こんばんは。さっきはどうも」

 金魚のような服をひらひらとさせ、大きな目をきゅるるんと輝かせて小首をかしげる姿を見て、麗麗は絶句した。

 「なっ……」

 甜甜だ。

 宴の主殿で見た仙術師が、なぜこんな場所に、しかも供も連れずに……!

 「しっ、静かに。門番に見つかっちゃう」

 甜甜は唇に人差し指を当てると、麗麗の袖をぐいぐいと引いた。

 「あ、あのっ……?」

 困惑する麗麗を気にも留めず、甜甜は門から少し離れた茂みに麗麗を引っ張り込んだ。そして、好奇心にきらきらと輝く瞳で、麗麗の姿を頭からつま先までじっくりと見回すと、なにを思ったのか、突然抱きついたのである。

 「ちょっ……!」

 「嬉しい」

 甜甜は麗麗の体をぎゅっと抱きしめると、濡れたような声を出す。

 「ようやく会えた。本当に嬉しいの」

 「あの、誰かと勘違いなさっているのでは……っ?」

 (なにが起こってるんだ!?)

 大混乱である。自分と甜甜は確実に初対面だ。先ほどの宴で初めて顔を見たとはっきり言えるので、『ようやく会えた』ような関係ではない。念のため記憶をたどっても、生き別れた姉妹などがいるわけでもなかった。

 しかし、麗麗の『勘違いなさっている』という発言を聞いても、甜甜は動じなかった。一度麗麗の体を離すと、両肩に手を置いた。そして泣き笑いの表情で、こう告げたのである。

 「あなたも転生者でしょ」

 まるで時が止まったかのようだ。

 麗麗の背中にすっと冷たい氷が走る。視線が揺れた。同意したほうがいいのか、否定したほうがいいのか咄嗟に判断に迷った。

 (転生者……転生者って、言った? この人)

 目の前の甜甜は心の底から嬉しそうな笑みを浮かべている。

 「隠さなくてもいいって。あなただけあの宴の中で妙に冷静だったし。さっきもあのイケメンの宦官と、ガリレオ……とか話してたしさ。そんな言葉、こっちに来てから初めて聞いたもん!」

 甜甜は再び目尻に涙を浮かべた。

 「だから、絶対にあなたと話さなきゃいけないって思った。めちゃくちゃ探したのよ。ようやく牛車に乗り込むところを見つけて。方角的に後宮だってわかったから、先回りしてここで待ち伏せしてたの。いきなり話しかけて、ごめんなさい」

 もうなんと返答すればいいのかわからない。

 「嬉しい。私、ようやく仲間ができた。私たち、きっと仲良くなれるわね」

 甜甜はくるっと踵を返した。

 「きっとまた会えるって信じてる。じゃあ、またね」

 金魚の尾がひらりと揺れる。

 麗麗は呆然(ぼうぜん)としたまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。