三月になってすぐの日曜日。
ダラダラと漫画を読んでいた風宇の携帯電話に、文燈からメッセージが入った。
『今から風宇の家の前に行ってもいいか?』
正月に釘を刺したのでこんな聞き方をするんだろう、と風宇はすぐにピンと来る。
約束を守るのは結構だが、家に来るのは辞めさせなければならない。
『家には来るな、マンションのエントランスで待て』
風宇はそう返して起き上がる。
するとすぐに返信音がした。
『わかった(笑)』
『笑ってんじゃねえ!』
我ながらどうでもいいメッセージを送ってしまった。
なんだこのやりとりはと思いながら、とりあえず風宇はその場にあるカーディガンを羽織って家を出た。
「風宇」
エントランスを出ると、茶色いジャケットを着た文燈がすでに待っていた。
相変わらずコイツの私服はかっちりしてんな、と思う。しかも、こんなややフォーマルな装いが似合うのだから面白くない。
「なんの用だよ」
「ああ、うん……」
文燈の言葉は珍しく歯切れが悪かった。
よく見ると手元には小さな紙袋を提げている。
もしかして、バレンタインのお返し?
風宇の胸にはくすぐったいような期待が湧き始めた。
「ちょっと、河川敷まで散歩しない?」
手荷物を少し隠すような仕草で、文燈が誘う。
淡い期待をしてしまっている風宇は断れなかった。
「別にいいけど……」
「うん、行こう」
文燈は嬉しそうに微笑んで歩き出す。
こんな風に笑う男ではなかった。文燈が女子に向けるのは営業スマイルのような張り付いたもので、一緒に遊んでいる時も距離があった。
だけど今は。
飾らない微笑みが増えたような気がしていた。
何故なのかはわからない。それを深く考えるのも、風宇は何となく癪に触るのでしていない。
「少し寒いけど、いい天気だな」
「ん……」
偽装交際を始めてから、連れ立って歩くのはいつも通りだ。
だが、今日に文燈は少し雰囲気が違うような気がする。
声の調子が、少し甘い。
河川敷の桜並木。
すでに蕾がかなり膨らんで、もうすぐ花開きそうになっている。
そんな枝をさわさわと通り抜ける風が、風宇の期待を優しく撫でていった。
「風宇、これ」
「……オレに?」
立ち止まった文燈はおもむろに紙袋を差し出した。
風宇の心臓がドキリと跳ねる。
バレンタインのお返しをもらうってこんな感じなんだと思った。
「見えてたくせに」
苦笑しながら文燈は揶揄う。
風宇も照れ笑いをしつつ、紙袋を受け取った。
「中、見てもいい?」
「もちろん」
何だろう。
結構嬉しいかもしれない。
風宇は袋の中を探ってワクワクしていた。
入っていたのは、ヘアワックスだった。
「うおわ! 『ミント』の店舗限定ワックスじゃん!」
それは、風宇の行く美容院で売っているヘアワックスで、とても高価なものだ。
美容院代は親から出してもらえるが、それ以外は買ってもらえない。
風宇はそこに行くたびに、ヘアワックスに羨望の眼差しを向けていた。
「いいの? メッチャ高いんだぜ、コレ……」
コンビニで二割引のチョコレートとはどう考えても釣り合わない。
風宇は急に手が震え出す。
「うーん、まあ、貯めてあった小遣いは飛んだ」
ハハと乾いた笑いで文燈が答える。文燈なりのユーモアだったのだが、風宇はますますビビっていた。
「えええ……なんか、ごめん」
あんな売れ残りチョコレート。しかも若月からの圧が嫌過ぎて義理で買ったようなもの。
風宇は恥ずかしくて穴があったら入りたい心境だった。
「バカだな、もう買っちゃったし。貰ってくれ」
「あ、ありがとう……」
憧れのヘアワックスは、グリーンシトラスの良い香りがする。
少し苦くて、少し甘い。なんだか文燈みたいだと思った。
「てか、なんでオレの行ってる美容院知ってるんだ?」
言及するか迷ったが、風宇は思い切って聞いてみた。
文燈に美容院の話題をした事はなかったから、少し不思議で。もっと言えば少し怖いかもしれない。
「あ……はは、実は、一昨年の今頃、『ミント』に入っていくお前を見かけた事があって」
「え」
高校入学の前。確かに風宇は美容院に行った。
卒業式に向けて緩めのパーマをかけるためだ。高校デビューも兼ねて、華々しい卒業をしてやろうと思った。
「ちょうどここに引っ越してきたばかりで。街を散策していたら、茶髪ストレートのお前を見た」
「ゲエエ……!」
デビュー前の姿を見られていた。風宇はますます恥ずかしくなる。
いや、恥ずかしいような顔はしていない。中学時代でも風宇は相当なモテメンだったのだから。
だけど今と比べたら、確実にダサい。少なくとも高校からの女子には見せられない。
「そのままで相当格好いいのに、あれで更に美容院に行くんだ、と驚いたんだ」
「えええ……よせよお、お前え」
文燈は丁寧に当時を振り返る。
風宇は気恥ずかしくなるばかりで、その場でモジモジしてしまった。
「その後、図書館に行って帰ってくると、また『ミント』から出てくるお前を見たんだ」
「マジかよ、すごい偶然じゃん」
おどけていないと恥ずかしさで死にそう。風宇は薄ら笑いで切り抜けようとした。
だが、文燈はとても大切な思い出を語るような顔をしている。
「軽いパーマをかけていたお前は、もっと格好良くなってた。驚いたよ、すごい衝撃だった」
「大袈裟だな、お前え……!」
わざと変に笑う風宇の頬に触れて、文燈は真っ直ぐ見つめて言う。
「あれから、俺はお前の顔が好きなんだ」
「……ッ」
ナニソレ。
ドウイウイミ?
告白めいた事を言われて、風宇は頭が真っ白になる。
「……風宇が、承知してくれて良かった」
思考が追いつかない風宇を甘く見つめたまま、文燈はそんな事を呟いた。
「ありがと」
ただの、偽装交際なのに。
なんで、そんな優しい目で言う?
確かに男同士の交際で、色々変な事も嫌な事もあった。
でもそれはお互い様だろ?
そういう「計略」なだけだろう?
「新学期、同じクラスになれるといいな」
それなのに、まるでそれ以外の感情があるみたいな顔をして。
文燈は風宇に、誰にもした事がないような優しい微笑みを向けていた。
新学期。
同じクラスに。
なれたらいいな。
「……うん」
気がつけば、風宇は素直に頷いていた。
文燈の隣が心地よくなっている。
もう少し、こんな関係が続いてもいい。
桜色の風。
グリーンシトラスの香り。
文燈。
風宇の胸に、それらが印のように刻まれた。
ダラダラと漫画を読んでいた風宇の携帯電話に、文燈からメッセージが入った。
『今から風宇の家の前に行ってもいいか?』
正月に釘を刺したのでこんな聞き方をするんだろう、と風宇はすぐにピンと来る。
約束を守るのは結構だが、家に来るのは辞めさせなければならない。
『家には来るな、マンションのエントランスで待て』
風宇はそう返して起き上がる。
するとすぐに返信音がした。
『わかった(笑)』
『笑ってんじゃねえ!』
我ながらどうでもいいメッセージを送ってしまった。
なんだこのやりとりはと思いながら、とりあえず風宇はその場にあるカーディガンを羽織って家を出た。
「風宇」
エントランスを出ると、茶色いジャケットを着た文燈がすでに待っていた。
相変わらずコイツの私服はかっちりしてんな、と思う。しかも、こんなややフォーマルな装いが似合うのだから面白くない。
「なんの用だよ」
「ああ、うん……」
文燈の言葉は珍しく歯切れが悪かった。
よく見ると手元には小さな紙袋を提げている。
もしかして、バレンタインのお返し?
風宇の胸にはくすぐったいような期待が湧き始めた。
「ちょっと、河川敷まで散歩しない?」
手荷物を少し隠すような仕草で、文燈が誘う。
淡い期待をしてしまっている風宇は断れなかった。
「別にいいけど……」
「うん、行こう」
文燈は嬉しそうに微笑んで歩き出す。
こんな風に笑う男ではなかった。文燈が女子に向けるのは営業スマイルのような張り付いたもので、一緒に遊んでいる時も距離があった。
だけど今は。
飾らない微笑みが増えたような気がしていた。
何故なのかはわからない。それを深く考えるのも、風宇は何となく癪に触るのでしていない。
「少し寒いけど、いい天気だな」
「ん……」
偽装交際を始めてから、連れ立って歩くのはいつも通りだ。
だが、今日に文燈は少し雰囲気が違うような気がする。
声の調子が、少し甘い。
河川敷の桜並木。
すでに蕾がかなり膨らんで、もうすぐ花開きそうになっている。
そんな枝をさわさわと通り抜ける風が、風宇の期待を優しく撫でていった。
「風宇、これ」
「……オレに?」
立ち止まった文燈はおもむろに紙袋を差し出した。
風宇の心臓がドキリと跳ねる。
バレンタインのお返しをもらうってこんな感じなんだと思った。
「見えてたくせに」
苦笑しながら文燈は揶揄う。
風宇も照れ笑いをしつつ、紙袋を受け取った。
「中、見てもいい?」
「もちろん」
何だろう。
結構嬉しいかもしれない。
風宇は袋の中を探ってワクワクしていた。
入っていたのは、ヘアワックスだった。
「うおわ! 『ミント』の店舗限定ワックスじゃん!」
それは、風宇の行く美容院で売っているヘアワックスで、とても高価なものだ。
美容院代は親から出してもらえるが、それ以外は買ってもらえない。
風宇はそこに行くたびに、ヘアワックスに羨望の眼差しを向けていた。
「いいの? メッチャ高いんだぜ、コレ……」
コンビニで二割引のチョコレートとはどう考えても釣り合わない。
風宇は急に手が震え出す。
「うーん、まあ、貯めてあった小遣いは飛んだ」
ハハと乾いた笑いで文燈が答える。文燈なりのユーモアだったのだが、風宇はますますビビっていた。
「えええ……なんか、ごめん」
あんな売れ残りチョコレート。しかも若月からの圧が嫌過ぎて義理で買ったようなもの。
風宇は恥ずかしくて穴があったら入りたい心境だった。
「バカだな、もう買っちゃったし。貰ってくれ」
「あ、ありがとう……」
憧れのヘアワックスは、グリーンシトラスの良い香りがする。
少し苦くて、少し甘い。なんだか文燈みたいだと思った。
「てか、なんでオレの行ってる美容院知ってるんだ?」
言及するか迷ったが、風宇は思い切って聞いてみた。
文燈に美容院の話題をした事はなかったから、少し不思議で。もっと言えば少し怖いかもしれない。
「あ……はは、実は、一昨年の今頃、『ミント』に入っていくお前を見かけた事があって」
「え」
高校入学の前。確かに風宇は美容院に行った。
卒業式に向けて緩めのパーマをかけるためだ。高校デビューも兼ねて、華々しい卒業をしてやろうと思った。
「ちょうどここに引っ越してきたばかりで。街を散策していたら、茶髪ストレートのお前を見た」
「ゲエエ……!」
デビュー前の姿を見られていた。風宇はますます恥ずかしくなる。
いや、恥ずかしいような顔はしていない。中学時代でも風宇は相当なモテメンだったのだから。
だけど今と比べたら、確実にダサい。少なくとも高校からの女子には見せられない。
「そのままで相当格好いいのに、あれで更に美容院に行くんだ、と驚いたんだ」
「えええ……よせよお、お前え」
文燈は丁寧に当時を振り返る。
風宇は気恥ずかしくなるばかりで、その場でモジモジしてしまった。
「その後、図書館に行って帰ってくると、また『ミント』から出てくるお前を見たんだ」
「マジかよ、すごい偶然じゃん」
おどけていないと恥ずかしさで死にそう。風宇は薄ら笑いで切り抜けようとした。
だが、文燈はとても大切な思い出を語るような顔をしている。
「軽いパーマをかけていたお前は、もっと格好良くなってた。驚いたよ、すごい衝撃だった」
「大袈裟だな、お前え……!」
わざと変に笑う風宇の頬に触れて、文燈は真っ直ぐ見つめて言う。
「あれから、俺はお前の顔が好きなんだ」
「……ッ」
ナニソレ。
ドウイウイミ?
告白めいた事を言われて、風宇は頭が真っ白になる。
「……風宇が、承知してくれて良かった」
思考が追いつかない風宇を甘く見つめたまま、文燈はそんな事を呟いた。
「ありがと」
ただの、偽装交際なのに。
なんで、そんな優しい目で言う?
確かに男同士の交際で、色々変な事も嫌な事もあった。
でもそれはお互い様だろ?
そういう「計略」なだけだろう?
「新学期、同じクラスになれるといいな」
それなのに、まるでそれ以外の感情があるみたいな顔をして。
文燈は風宇に、誰にもした事がないような優しい微笑みを向けていた。
新学期。
同じクラスに。
なれたらいいな。
「……うん」
気がつけば、風宇は素直に頷いていた。
文燈の隣が心地よくなっている。
もう少し、こんな関係が続いてもいい。
桜色の風。
グリーンシトラスの香り。
文燈。
風宇の胸に、それらが印のように刻まれた。
