駅までの最短路は十二分、川沿いなら十八分。差は六分、距離にして三百八十メートルある。
俺は四日続けて、長いほうを歩いていた。
健康のためではない。九月半ばの午後はまだ暑く、川は見た目ほど涼しくない。制服の背中を湿らせてまで歩く者は、健康より先に判断力を疑われるべきである。それでも俺は、校門を出ると商店街へ向かう生徒の列を離れ、堤防の低い道へ下りた。
散歩だった。少なくとも、三日目まではそう呼んでいた。
一日目は三日月堂の前を通り過ぎ、二日目は店の平台を眺め、三日目は時計を見ないようにして二度見た。散歩というものは、同じ店の戸が開くたび足を遅くするのだろうか。俺の知る散歩は、もっと景色に公平だった。
四日目だけは条件が違った。前日、先輩が店を出る時刻を俺へ言った。だから俺は時計を見た。見ないふりをするために、まず見た。
四日目の九月十六日、三日月堂書店の引き戸が開いた。
三枝哲先輩が出てきた。
先輩は紺色の本袋を肩に掛け、右手の人差し指に黒い薔薇の指輪をしていた。校内では見たことのない指輪だった。俺を見ると、少しだけ目を細めた。笑う前に口元が一度止まる。その間を、俺はもう知っていた。
「偶然だな」
「実験です」
用意していなかった言葉が出た。散歩より悪かった。
「何の」
「この道が本当に六分長いのか」
「四日かけて?」
「誤差があるので」
先輩は俺の言い分をすぐには潰さなかった。手にした文庫本を本袋へ入れ、店先の自転車を一台よける。それから俺と駅の方向を見比べた。
「昨日、俺がこの店を五時十分に出るって言った」
「言いましたね」
「それを聞いて、榊が道を変えた」
「道は昨日より前から変えています」
「今日は、聞いたあとだ」
返事を探すあいだ、川面の光を数えた。風で崩れるので三つより先へ進めない。
先輩は、正解を待つ教師の顔をしなかった。
「道を選んだのは榊。時刻を言ったのは俺。ここにいたことまで全部、偶然の取り分にすると、俺たちのしたことがなくなる」
「先輩が時刻を言ったのは、偶然じゃないんですか」
「言わなくてもよかったからな」
右手の黒い薔薇が、夕方の光を吸っていた。
俺は、なぜ言ったのかを訊かなかった。先輩も、なぜ来たのかを重ねて訊かなかった。代わりに本袋を持ち直し、駅へ向かって歩き出す。
「行く?」
行きます、と答えた。理由ではなく、同行を選ぶ答えだった。
川沿いは二人で歩いても十八分だった。俺がいつもより速く歩き、先輩が少し遅く歩いたので、正確には十七分四十二秒だった。
駅前の信号で、先輩が本袋の外ポケットを探った。
「これ、部室に忘れてた」
差し出されたのは、図書委員用の受領印だった。丸い持ち手に「図書」と彫られ、赤いインクが端へ残っている。
俺がそれを哲学部へ置き忘れたのは、四日前だった。
*
九月十二日、俺は黒瀬ミサトと辞書を運んでいた。
俺たちは一年三組の図書委員で、二学期最初の仕事として、旧版になった辞書を図書室の隣へ移すよう頼まれていた。国語辞典三冊、漢和辞典二冊、古い百科事典が四冊。どれも蔵書印の横に除籍済の印があり、学校の本を生徒が勝手に救出するという美談ではない。犬飼先生が教材用に正式に引き取った物だった。
「ガク、上二冊持てる?」
「持てる」
「今、百科事典の重さを目で量ったでしょ」
「量ってない。棚まで何歩か見ただけ」
「それを量るっていうんだよ」
ミサトは小柄だが歩くのが速い。花柄のブックカバーを脇へ挟み、漢和辞典を二冊抱えて、先に図書室を出た。俺は百科事典を三冊重ねて追った。
旧館二階の廊下は、西日が床の傷を一本ずつ照らしていた。図書室から隣の準備室まで二十三歩。扉の上には、白い札で「哲学部」とあった。括弧も、同好会の但し書きもない。
ミサトが肘で扉を押す。
「ただいま。追加の老人たちです」
「本を年齢で呼ぶな」
中から低い声がした。
入口を越えたところで、いちばん上の百科事典が滑った。支え直そうと右腕を上げ、二冊目まで傾いた。床へ落ちる前に、横から伸びた手がいちばん下を押さえた。
「一回、置こう」
声の主が、俺と同時に本を机へ下ろした。
それが三枝哲先輩だった。
背は俺より少し高く、細い。姿勢はまっすぐなのに、前髪の左側だけ長さが揃っていなかった。声と髪のどちらを自分で作ったのかは、その時の俺には分からなかった。
「すみません」
「落ちてない。まだ謝るところじゃない」
先輩は百科事典の角を確かめ、俺の顔ではなく、俺が見ていた壁際へ目をやった。古い木の棚が六段あり、上から二段目だけ空いている。
「棚、数えてた?」
当てられたことより、疑問形だったことに引っかかった。
「六段です。空いてるのは二段目だけ。でも百科事典を横にすると、三冊までしか入らない」
「じゃあ残りは下。重い本を上へ置かないほうがいい」
先輩は俺の癖の理由を決めず、数えた結果だけを使った。
「この人が三枝哲。二年。部長。私は黒瀬美智。一年。編集と会計」
「同じクラスだから、後半は知ってる」
「部室で会う私は、編集と会計なの」
ミサトは胸を張り、机の上の薄い冊子を一冊取った。灰色の表紙に『愛智』とある。活字の「智」だけ、黒がわずかに濃い。
「哲学は、愛智。知恵を愛するっていうでしょ。で、私の智も入ってる」
「自分で言うんだ」
「気づかれないよりいいから」
先輩は口元を止めたあと、少し高い声で笑った。その声だけは、最初に聞いた低さより年相応だった。
部屋には紙と古い糊の匂いがした。西向きの窓の下に三つの机、壁に過去の部誌、鍵付きの保管庫。黒板の端には白いチョークで「論破禁止」と書かれていた。
「哲学部なのに?」
俺が言うと、先輩は辞書を持ち上げたまま答えた。
「議論は禁止してない。勝ち負けにするのを禁止してる」
「誰が決めたんですか」
「俺」
「何かあった顔だね」
ミサトが横から言った。
「黒瀬は、聞いても答えないと知ってる質問をするな」
「質問権は平等です」
「答えない権利も平等だ」
二人の応酬は速かったが、どちらも勝とうとしていなかった。少なくとも、俺にはそう見えた。
辞書を棚へ収めると、ミサトは除籍前の棚番号を小さな札へ書き写した。
「もう図書室の本じゃないんだろ」
「だから書くの。どこにいたかまで消えたら、ずっとここにいたみたいになる」
スマートフォンを取り出し、棚へ向ける。画面の端に俺の肩が入ったところで、ミサトは指を止めた。
「作業記録にガクも入るけど、撮っていい?」
「顔は?」
「入らない」
「ならいい」
一枚だけシャッター音がした。
その時、廊下から鍵の鳴る音が近づいた。
「終わりましたか」
入ってきた犬飼志乃先生は、四十代の現代文教師で、哲学部の顧問だった。腕に出席簿ではなく、角の折れていない一枚の調査票を抱えている。
先輩がその紙を見て、わずかに姿勢を固くした。
「部員調査ですか」
「ええ。終わったふりをするには、二人では少なすぎました」
犬飼先生は机へ調査票を置いた。現役部員の欄には、三枝哲、黒瀬美智の二名だけが書かれていた。
*
「三年生が夏前に引退して、現役が二人になりました」
犬飼先生は、空いている三つ目の机へ調査票を置いた。
「月白高校の部活動規程では、正式部の最低人数は三人。哲学部は今年度末の継続審査に入ります」
「年度末までは使えるんですよね」
ミサトが訊く。
「今すぐ廃部ではありません。最低人数へ戻し、活動を続けた記録を出す。それができるかを年度末に見ます。今日はそこまで。細目は、人数が戻ったら計画表で確認しましょう」
先生は、俺を見て言ったのではない。けれど部屋の三つの机のうち、一つだけ椅子が引かれていた。
「三人目、いた」
ミサトが俺を指した。
「運んできただけ」
「哲学部へ辞書を運ぶ人は、だいたい哲学部に向いてる」
「全国で何人調べたんだ」
「いま一人目」
先輩が、調査票を裏返した。
「黒瀬。見学と入部を一緒にするな」
「でも、あと一人」
「だから余計に、一緒にしない」
低い声だった。俺を拒んだのではなく、人数のために俺を採ることを拒んだのだと分かった。それは正しい。正しいのに、俺の中では何かが一段だけ沈んだ。
誘われたら断る理由を考えていた。誘われなかった時に使う理由は、用意していなかった。
空いている椅子を見た。座れば三人目になり、立ったままなら辞書を運んだ図書委員でいられる。先輩はそのどちらにも俺を押さなかった。押されないことは自由で、自由には、自分がどちらを欲しがっているかを隠せない不便があった。
「哲学、知らないです」
先輩へ言うと、彼は調査票から顔を上げた。
「知ってから来る部なら、俺も入れなかった」
「先輩も?」
「最初は」
「今は知ってる顔してる」
「黒瀬よりは」
「そこで勝とうとするの、部則違反じゃない?」
先輩の声がまた少し高くなった。
犬飼先生は三人を見回し、鍵を机の端へ置いた。
「見学は活動に数えません。入部しなくても、見に来ることはできます。それから三枝くん、活動終了時刻を守ってください」
「はい」
「それは授業の答えにはしませんが、戸締まりの答えは一つです」
先生が隣の図書室へ戻ると、部屋が急に広くなった。
俺は受領印をポケットへ入れたつもりで、空の手を握った。
「今日は帰ります」
「うん」
先輩は引き止めなかった。
扉へ手をかけたところで、俺は振り返った。
「次は、いつやってますか」
訊いてから、辞書の残りを理由にすればよかったと思った。棚にはもう何も残っていない。
先輩は机の横の予定表を見なかった。
「次の図書当番の日、放課後に開けておく。委員の予定表、受領簿に挟まってたから」
「俺が来るとは言ってません」
「開けておくと言っただけ」
選ぶのは俺だと返された。
廊下へ出たあとも、紙と糊の匂いが制服に残った。受領印だけは、部室の机に残った。
*
翌日の放課後、俺は開いていると言われた扉を開けた。
中には先輩一人しかいなかった。ミサトは図書委員会で、犬飼先生は隣の図書室にいるらしい。机の上には、細い紙を挟んだ二冊の本と、白い紙が一枚あった。
「辞書はもうないですよ」
「知ってる」
「受領印を取りに来ました」
「昨日、机にあった」
先輩は引き出しから丸い印を出した。俺は受け取ったが、立ったままでいた。
「帰る?」
「本は何ですか」
先輩は、椅子を勧める代わりに向かいの椅子を少し引いた。俺は自分で座った。
一冊目は、九鬼周造の文章を収めた薄い本だった。開かれた頁の題に「偶然の諸相」とある。もう一冊は、それより厚い『偶然性の問題』だった。
「名前だけは知ってる?」
「九鬼周造を?」
「偶然を」
「それは知ってます」
「じゃあ、どこからが偶然だと思う」
質問の意味が広すぎた。俺は窓の外の楠を見た。葉が一枚落ち、それが窓枠へ当たらず地面まで行った。
「起きると思ってなかったこと」
「珍しいこと?」
「たぶん」
先輩は首を振らず、紙に一本の線を引いた。
「九鬼は、偶然を珍しさの大きさで考えなかった。すごく乱暴に言えば、必ずそうなる関係がないことから考えた」
「必ずじゃないことを、三種類に分けた人ですか」
目次に、定言的、仮説的、離接的という見慣れない語が並んでいた。
「そこまで一度に読むと、たぶん帰ってこなくなる」
「どこから?」
「九鬼から」
俺は、少し笑った。先輩も笑い、低く作っていた声が一音だけ上がった。
先輩は紙にもう一本、最初の線と離れた場所から線を引いた。二本は途中の一点で交わった。
「今日は、ここだけ。別々の理由で進んでいた二つの出来事が、一点で交わる」
左の線の始点に「図書委員」、右の線に「哲学部」と書く。
「榊は辞書を運ぶ。俺は部室で待つ。理由は別だった。でも準備室で会った」
「会わなかった可能性もある」
「俺が遅刻したら会わない。榊が百科事典を一冊ずつ運んでいたら、俺が先に帰ったかもしれない。どちらかから見て、もう一方が必ずそこにいる理由はない」
「だから偶然」
「そういう交わり方を、九鬼は仮説的偶然のほうで考える。難しい名前は今日、覚えなくていい」
覚えなくていいと言われると、覚えてしまう。仮説的。俺は本の頁番号と一緒に頭へ置いた。
「『偶然の諸相』と、この厚い本は同じ話ですか」
「短いほうは入口に近い。『偶然性の問題』は、偶然って一語で呼んでいるものを、関係の違いまで分けようとした本。全部分かるつもりで読むと負ける」
「論破禁止なのに、本には負けるんですね」
「本は降参してくれないから」
先輩は厚いほうを俺の前へ押した。図書館の透明なカバーが掛かり、貸出票が挟まっている。
「貸す。線を引くのは禁止。付箋は一枚なら可」
「一枚だけ?」
「分からないところ全部に貼ると、本が元の厚さの倍になる」
「経験ですか」
「質問に質問で返すな」
「答えない権利は平等なんでしょう」
先輩は口元を止めた。今度は笑わなかったが、目だけがわずかに細くなった。
その日から、俺は見学へ行った。毎日ではない。図書委員の仕事が終わり、隣の扉が開いていた日だけである。そう決めておけば、先輩に会うためではなく、委員会と九鬼の本のためだと言えた。
十三日、先輩は二本の線の片方へ、俺の最短路を描いた。十四日、俺は川沿いの線を自分で足した。十五日、先輩は『偶然性の問題』の「運命」という文字を指し、偶然と同じ意味ではないと言った。
「偶然が、その人の生に大きな意味を持って、あとから運命として受け取られることはある。でも会ったばかりで貼る札じゃない」
「会ったばかりで運命って言う人はいます」
「自由だよ。九鬼の説明として言わなければ」
俺は付箋を一枚、二本の因果の線が交わる頁へ使った。分からない頁ではなく、分かった気になった頁へ貼った。先輩はそれを見て、何も言わなかった。
帰りに校門を出ると、先輩は本袋の内側のファスナーを開けた。小さな黒い物を取り出し、右手の人差し指へ通す。黒い薔薇のリングだった。
「学校では駄目なんですね」
「装身具は校則で禁止」
「なくしそう」
「だから本袋の中。祖母にもらった」
先輩は薔薇を親指で一度なぞった。
「似合うか、答えなくていいと言われた。欲しいなら持って帰れって」
それ以上は説明しなかった。俺も、祖母が今どこにいるのかは訊かなかった。
駅へ行く道が二つに分かれるところで、先輩は川沿いへ向かった。
「三日月堂に寄るんですか」
「予約した本が来てる。明日は五時十分くらいに出る」
「訊いてません」
「そうだな」
先輩は引き返さなかった。
時刻だけが、俺の側へ残った。
翌日、俺は川沿いを選び、五時十分に三日月堂の前へ着いた。そうして、章の最初の場所へ戻る。
最初に準備室で会った時、俺は先輩がいると知らなかった。四日目の川沿いでは知っていた。先輩も、自分が店を出る時刻を俺へ知らせていた。
「最初と今日を、同じ偶然って呼ぶのは無理ですね」
駅前の信号で俺が言うと、先輩は黒い薔薇の指を折った。
「偶然だった部分まで消す必要はないけどな」
「どこですか」
「最初に榊が辞書を三冊いっぺんに持ったところ」
「そこ?」
「一冊ずつなら、俺は受け止めてない」
俺たちが会ったことは、一語で片づかなかった。俺が道を選んだことも、先輩が時刻を言ったことも、その前に百科事典が滑ったことも、同じ箱へは入らない。
分けて考えると、会いたかった部分だけが、こちらへ残った。
俺はそれを、まだ口にはしなかった。
*
九月十八日、俺は哲学部の入部届へ名前を書いた。
用紙には、氏名、学年、組、保護者確認、入部理由の欄があった。部員を登録するための紙なので、俺がなぜ三枝先輩のいる道を選んだかまでは要求しない。
「榊学」
ミサトが横から読んだ。
「三枝哲。黒瀬美智。哲と学と智が揃った」
「名前で採らない」
先輩がすぐに言う。
「採ったあとだから、喜ぶのはいいでしょ」
「まだ犬飼先生が受理してない」
「そこまで慎重だと、プロポーズの返事も受理印待ちになりそう」
「何の話だ」
先輩の声が一音高くなった。俺は入部理由の欄へ視線を戻した。
部を存続させたいから、と書けばきれいだった。人数は実際に足りない。けれど、それだけなら俺でなくてもよかった。九鬼周造を読みたいから、も嘘ではない。それでも九鬼の本は図書室で借りられる。
俺は、「まだ名前のない問いを、ここで続けて考えたいから」と書いた。
先輩は覗き込まなかった。俺が用紙を裏返して渡してから、初めて受け取った。
「ありがとう」
「人数のためですか」
「榊が選んだことに」
俺は左の袖口を握りかけ、指を離した。
先輩は用紙を調査票へ重ねなかった。俺の名前が、足りない一名の欄へ吸い込まれないように、別の透明なファイルへ入れた。事務上はあとで一緒になる紙だった。それでも、その一手間を俺は見た。
犬飼先生が届を受理し、日付の欄へ九月十八日と書いた。これで部員は三人になったが、先生は継続審査の紙を一緒に机へ置いた。
「人数は一項目、戻りました。ただし三人になれば自動的に継続、ではありません」
年間計画の枠には、通常活動、部誌、公開活動、年度報告、安全運営とあった。犬飼先生は項目を読み上げず、空の計画表を三人の側へ向けた。
「何をする部か、今年何をしたか、失敗があればどう直したか。それを年度末に示してください」
「失敗、前提なんですか」
ミサトが訊く。
「無いほうがいいですね。ただ、無かったふりはもっと困ります」
先生が隣室へ戻ったあと、ミサトは昨年の『愛智』を机へ広げた。
計画表は俺たちの前に残った。月曜、水曜、金曜の活動欄。秋の部誌。冬の校内放送。二月の公開活動。年度末報告。空欄だったものへ日付候補を入れるたび、俺が部屋にいる時間が九月十八日より先へ伸びていった。
先輩は俺に作業を振る前に、一度ずつ訊いた。過去号を読むか。見出し案を出すか。今週は図書委員と重ならないか。部員になった途端、こちらの時間まで所有した顔をしない。その慎重さへ安心しながら、もう少し勝手に予定へ入れられてもよかったと思った。人間は自分で選びたいくせに、選ばれた証拠も欲しがる。少なくとも俺はそうだった。
「秋号、今年は三人の入部記念にしたい。企画は『偶然に会った二人の相性』」
「相性はやめて」
俺はすぐ言った。
ミサトが眉を上げる。
「まだ何も診断してないよ」
「診断される前から、答えの形が決まってる」
先輩はペンの後ろで計画表を二度叩いた。
「相性じゃなくて、どれくらい知れば、その人を知ってると言えるか、なら?」
「普通すぎない?」
「普通の問いに答えられないから、哲学が残ってる」
ミサトは少し考え、白紙へ大きく「十問」と書いた。
「相手のことを、どこまで知っている? 十問で確認する。内面禁止、家族禁止、恋愛禁止。見れば分かることだけ。答え合わせは本人。載せるのは全員が見ていいと言った範囲だけ」
「俺と先輩だけ?」
「私もやる。三人分。でも目玉はテツとガク」
「名前で採らないんじゃなかったの」
「名前で編集するのは禁止されてない」
「今、禁止する」
三人で話し、質問を作り、最後に一人ずつ署名した。ミサトは、俺が写り込む写真にも訊いてからシャッターを切った。その事実を俺は覚えていた。
この時は、それで十分だと思った。
*
九月の最後の活動日、ミサトは赤い丸を十個つけた。
「全問正解」
机の上に、俺の回答用紙と、先輩の答えが並んでいた。丸は最初、ただの記号だった。五つを越えたあたりから、俺が先輩を見た回数へ形を変えた。
「一問目。三日月堂で最初に見る棚」
「日本思想」
「正解」
「二問目。部室で飲んでいるもの」
「水筒の温かいほうじ茶。砂糖なし」
「正解」
「三問目。栞に使うもの」
「買った本のレシート。日付が見えない向きで挟む」
「正解」
「日付の向きまで問題にない」
先輩が言った。
「見えたので」
「四問目。三つの席で、いちばんよく座る場所」
「窓から一つ離れた席。西日が本に当たらないから」
「正解。理由も正解」
ミサトが丸を二重にした。
「勝手に配点を増やすな」
先輩は答え合わせのたび、少し居心地が悪そうに本の角を撫でた。その仕草も、問題にしようと思えばできた。
五問目は、分からない頁へ鉛筆でつける記号。疑問符。六問目は、辞書を運ぶ時に最初に持つ場所。背ではなく底。七問目は、笑う前に止まる場所。口元。八問目は、校門を出て指輪をつける指。右手の人差し指。九問目は、部室を出る前に最後に見る場所。窓ではなく鍵。十問目は、『偶然性の問題』で俺へ最初に見せた頁だった。
七問目で、先輩は初めて答え合わせを止めた。
「俺、そんなところで止まる?」
「止まります」
「何秒」
「そこまでは数えてません」
「数えてる顔だけど」
「毎回ちがうので」
ミサトが赤丸の横へ、小さく「観察者の抗弁」と書いた。
「余計な注釈を載せるな」
俺と先輩の声が重なった。先輩がこちらを見て、今度は口元を止めずに笑った。俺の答えが当たった直後に、その答えから外れる笑い方をした。
八問目の指輪は、質問に入れてよいか先に確認してあった。先輩は由来を載せず、校門外で右手人差し指につける事実だけならよいと言った。俺は正解を知っていたのに、赤丸がつくまで右手を見られなかった。
九問目で鍵を答えると、先輩は廊下側の扉を見た。
「窓だと思ってた」
ミサトが言う。
「最後に部屋を見るなら、窓のほうが絵になる」
「鍵を忘れたら、絵より犬飼先生に怒られる」
正解は、先輩が自分をどう見せたいかではなく、実際に繰り返した動作の側にあった。だから俺は答えられた。
十問目の頁番号を書いた時、先輩は本を開いて確かめた。俺が一枚だけ許された付箋を貼った頁だった。
「ここ、分かったの?」
「分かった気になったところです」
「それは、いちばん危ない付箋だな」
「先輩が剥がさなかったから」
「榊の付箋だから」
その言葉へ赤丸はつかなかった。
十個目の丸が閉じた時、嬉しさより先に、紙が重く見えた。
「すごい。これ、もうかなり知ってるってことじゃない?」
ミサトは俺と先輩を交互に見た。
「十問は十問だよ」
先輩が答える。
「でも全部だよ」
「全部当てたことと、全部知ってることは違う」
正しい。俺は先輩の父親の名前も、化学の計算をどこで間違えるのかも、祖母からリングをもらった日のことも知らない。知らない項目は、質問になっていない。
「じゃあ逆」
ミサトが、白い回答用紙を先輩へ差し出した。
「テツがガクについて十問。公平に」
先輩は紙を受け取らなかった。
「やらない」
赤い丸が、いっせいに俺の側へ傾いた気がした。
「なんで?」
「同じ十問に答えられるほど、榊を知らない」
先輩は俺を見て言った。分かったふりをしない人だと、俺は知っている。その正直さが、今は薄い刃物みたいに働いた。
「十対ゼロ?」
ミサトが言う。
「点数にするな。知っている量は、親密さの得点じゃない」
「でも、ガクは答えた」
「榊のことを、榊が答える。その正解を俺が決める席に座るのも違う」
「本人が答え合わせすればいい」
「それでも、俺が問題を作った範囲が榊になる」
俺は、先輩の説明を聞きながら、ゼロだけを拾っていた。
見てほしかったのだと思う。十問正解したことを褒めてほしかったのではない。俺が先輩の背表紙や指や声を見ていたあいだ、先輩の視界にも俺がいたという証拠が欲しかった。
そんな証拠を欲しがること自体が、十個の赤丸より恥ずかしかった。
先輩は、白紙の回答用紙を俺へ戻そうとした。俺は受け取らなかった。
「捨てていいです」
「俺が捨てるのも違う」
先輩は紙を机の中央へ置いた。どちらの側にも寄せない置き方だった。
「知らないと言ったけど、何も知らないとは言ってない」
続きが来ると思った。だが先輩は、そこで止めた。俺を慰めるため、その場で見つけた事実を並べることをしなかった。正しさは分かった。傷は減らなかった。
「分かりました」
左の袖口を握った。分かっていない時ほど、俺は丁寧に返事をする。
ミサトは赤いペンの蓋を閉めた。いつもの速さなら次の企画へ飛びつくところで、俺の袖と先輩の白紙を一度ずつ見た。
「十対ゼロって言ったのは、取り消す」
「点にしたことを?」
「ゼロって決めたことを。採点しないと、ゼロは違う」
謝る代わりの理屈に聞こえたが、ミサトなりに記録を直そうとしていた。赤いペンで「0」と書いた自分のメモへ二本線を引き、その横は空けた。
先輩は何か言いかけたが、ミサトが白紙へ勢いよく円を描いた。
「じゃあ、知識量じゃなくて、二人を一組にできる別の根拠」
「まだ一組にするのか」
「編集上の仮説です」
丸の両側に顔が二つ描かれた。上と下から腕が四本、脚が四本伸びる。人間というより、体育祭のマスコットが設計に失敗した姿だった。
「何、それ」
「次回。プラトン」
ミサトは赤いペンで、円の中央に縦線を引いた。
*
次の活動日、机の上には、前回の丸い生き物と、はさみがあった。
「先に言っとくけど、恋愛診断じゃないからね」
ミサトは紙を俺たちの間へ置いた。
「プラトンの『饗宴』っていう対話篇に、宴会で愛について順番に話す場面がある。その中で、喜劇を書いたアリストパネスがする話」
「プラトン本人の最終回答じゃない」
先輩が言う。
「まだそこまで説明してない」
「そこを先に言わないと、プラトンが人間を丸いと思ってたみたいになる」
「じゃあ注釈ありがとう。続けます」
ミサトは丸い生き物の二つの顔を指した。
「昔の人間は、二人分がくっついた丸い形だった。顔が二つ、耳も手足も四つ。男と男で一人、女と女で一人、男と女で一人の三種類がいて、力も強かった」
紙の両面に描かれた顔は、互いを見られなかった。ミサトが紙を回すたび、一方が俺を向き、もう一方が先輩を向いた。
「移動は?」
「必要なら、手足で輪みたいに回る」
「目立ちますね」
「ものすごく。でも神々に逆らおうとしたから、ゼウスが罰として二つに切った」
ミサトは、赤い縦線にはさみを入れた。
紙の繊維が、短く裂ける音を立てた。
二つの顔は、一枚ずつになった。腕は二本、脚も二本。俺たちが人間と呼ぶ形へ近づいたのに、切られる前より頼りなく見えた。
ミサトは、切れた縁を指でなぞった。
「アポロンが傷口の皮をお腹へ集めて、結んだ跡が臍になる。元から今の姿だったんじゃなくて、切られたあとを整えた姿なんだって」
俺は自分の腹を見なかった。見ると神話を信じたみたいになるし、見ないようにすると、もっと信じたみたいになった。
「臍は、切られた記憶。二つになった人間は、失った相手を探して、見つけると抱き合った。離れたくなくて、何もしなくなって、食べることもやめて、死にかけた」
甘い話だと思っていた部分が、途中から生存の失敗になった。
ミサトは二枚を向かい合わせ、切れた腕を重ねた。
「鍛冶の神が、もう一度二人を溶かして一人にしてやろうかって訊いたら、二人は断らない。ずっと一つでいたいから。失った全体を求めることを、この演説では愛と呼ぶ」
そこで初めて、ミサトは言った。
「この切られた片方を、今はよく半身って呼ぶ。運命の半分、みたいに」
先輩の顔を見た。先輩も俺ではなく、切られた紙を見ていた。
先輩は『饗宴』を開き、ミサトが話した箇所へ細い紙を挟んだ。
「ここで話は終わらない。宴会では、このあとも別の人が愛について話す。ソクラテスは、愛する者は自分に欠けたものを欲する、と問い直していく」
「じゃあ、丸い話は間違い?」
俺が訊くと、先輩は本を閉じた。
「対話の中に置かれた一つの演説。間違いとして捨てるなら、こんなに残らない。でもプラトンの答えだと一枚札にするのも雑だ」
「便利な話ほど、出典の中で一人にしておかないほうがいいんだね」
ミサトは切った二枚を見た。人を一組にするため持ち出した話が、話そのものも一つではなかった。
「十問全部知ってたら、失った片方を見つけたって言えない?」
ミサトが訊く。
「言えない」
俺は思ったより早く答えた。
「即答だ」
「俺と先輩が昔一人だった証拠はない。俺が十問知ってることと、先輩も俺を知ってることも別です」
最後の一つは、口に出すとまだ痛かった。
「でも、一つに戻らないなら、ずっと足りないままじゃない?」
「最初から別なら、足りないことにならない」
俺は二枚の紙を離した。机の端と端ではなく、同じ本一冊分だけ間を空けた。
中学二年の時、同じ図書委員の女子を好きだった。彼女が薦める作家を読み、当番の日を覚え、返却台で本を積む仕草を真似た。友人に「どこが好きなの」と訊かれ、答えられなかった。「それなら本気じゃない」と言われた。
俺は、好きではなかったことにしなかった。ただ、答えられない者の気持ちは、答えられる者に採点されるのだと覚えた。
彼女を好きだった時、俺は彼女と一つになりたかったわけではない。彼女が返却台の向こうにいて、俺がこちらにいて、同じ本を別々の速さで読めることがよかった。そういう答えは、当時の俺には後からも思いつかなかった。今、切られた紙を前にして初めて出てきた。
先輩は、離された紙の片方を指で押さえた。
「九鬼の二本の線も、人間は別々でいるべきだっていう教えじゃない」
「分かってます。独立してるのは、まず因果の流れでしょう」
「人格の話へそのまま移すと、九鬼に言わせてないことまで言わせる」
「じゃあ、これは俺の読み替えです」
「どういう?」
「一人でいる時も一人だった二人が、会った。片方だったから戻るんじゃなくて、別々だったのに近くにいる」
先輩は正しいとも、間違いとも言わなかった。紙を押さえた指を離し、自分の側の一枚を俺の側へ少し寄せた。重ねはしなかった。
「その読み方なら、俺は残したい」
ミサトが、はさみを机へ置いた。
「じゃあ十問企画の結論は、半分探し失敗?」
「企画名にしないで」
「まだしてないよ」
「今後も」
先輩が口元を止めた。笑いそうになったのをやめたらしい。
俺は先輩へ言った。
「一問だけ、訊いてください」
「何を?」
「俺のこと。先輩が決めた十問じゃなくて、今知りたいことを一つ」
部屋の時計が秒を一つ進めた。先輩は質問を選ぶ時、いつもより長く黙った。
「どうして川沿いを選んだ?」
十問のどれより答えが難しかった。
好きな飲み物や本なら、答えは物の側にある。道を選んだ理由は、俺が言わなければ正解にならない。先輩は、その一問だけを選んだ。
「今は答えません」
「分かった」
「でも、偶然ではないです」
先輩の右手が、机の下で一度だけ握られた。リングは校内なのでない。何もない指が開くまで、俺は見ていた。
ミサトは紙の余白に、「自分で書く紹介」と記した。
「相手を説明するんじゃなくて、自分の紹介は自分で書く。写真も、撮る人と使う場所を先に決める。これならどう?」
「駅の証明写真機なら、同じ写真が四枚出る」
先輩が言う。
「部誌、部の記録、本人二人で一枚ずつ」
「二人で撮るの?」
ミサトの声が一段明るくなった。
「嫌なら別々」
先輩は俺に決めさせる顔をした。
「二人でいいです」
俺は、今度はすぐ答えた。
*
十月上旬、その次の活動日、俺たちは駅の証明写真機の前にいた。
自己紹介文は一人百二十字。掲載は『愛智』二十部と部室の記録だけ。写真は一回選んだ同じ画像を小判四枚で出し、部誌原稿、部の封筒、俺、先輩へ一枚ずつ。ミサトは確認事項を手帳へ書き、最後に俺たちへ読み返した。
部室を出る前、三人で自己紹介文も読み合わせた。ミサトは「編集担当。好きなものは、直す前の文章と直した後の文章」と書いた。先輩は「分からない頁に疑問符をつけます。分かった頁にも、あとでつけます」。俺は五回書き直し、「図書委員。本は読む前に匂いを確かめます」とだけ書いた。
「榊、これで二十字に届いてない」
先輩が言った。
「上限でしょう」
「一人百二十字以内。下限はない」
ミサトが俺の紙を持ち上げた。
「短いけど、本人がこれでいいなら削らないし足さない。写真の横へ、このまま載せる」
先輩は俺の文章を読み、机にあった古い国語辞典へ鼻を近づけた。
「本当に匂いで分かる?」
「新しい紙と古い糊くらいは」
「俺の本袋は?」
答えそうになり、やめた。乾いた紙の匂いだと、もう知っていた。
「自己紹介の範囲を越えてます」
先輩は、自分で訊いておきながら耳の近くを赤くした。
「私は外で待つ。画面も見ない。私物二枚は本人が切って持つ。これでいい?」
「いい」
先輩が答え、俺もうなずいた。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「写真を撮るだけだろ」
「狭い密室へ二人で入る人への挨拶」
「黒瀬」
「画面は見ないって約束したから。音も聞かないよう離れます」
ミサトは本当に、コンビニの入口まで離れた。
カーテンの中は、一人用の椅子と白い背景でほとんど埋まっていた。先輩が先に入り、椅子を低くする。俺は横へ立ったが、画面の案内枠には顔が一つ分しかない。
先輩の本袋は足元へ置かれた。カーテンの内側には消毒液と古いビニールの匂いがあり、その下に本袋の紙の匂いがした。外では気づかない程度だったのに、狭い場所では逃げ場がない。
「入らないですね」
「二人用じゃないからな」
「今さら」
「別々にする?」
俺はカーテンへ手を伸ばさなかった。先輩の隣へ半歩寄り、椅子の端へ腰を掛けた。画面の中で、俺たちの顔が不自然に近づく。
「先輩、少し下」
「これ以上下げると膝が上がる」
「じゃあ、俺が上」
「どうやって」
機械の音声が、撮影まで五秒と告げた。
俺は背筋を伸ばした。先輩が少しだけ首を傾ける。四、三、二、と数字が減る。シャッターが切れた瞬間、先輩の肩と俺の肩が触れた。
布越しだった。すぐ離れた。機械は、その一瞬を同じ枠へ閉じ込めた。
一枚目の確認画面で、俺は正面を向き、先輩は少しこちらを見ていた。
「前、見てください」
「榊が枠から出そうだったから」
「機械が教えます」
「機械より先に見えた」
撮り直しのボタンへ手を伸ばすと、先輩の指と近づいた。触れる前に、先輩が引いた。
「榊が押して」
二枚目は、二人とも正面を向いた。肩が触れたかどうかは写真から分からない。先輩の前髪の左だけが少し不揃いで、俺の右の髪だけが跳ねていた。
「一枚目でもいい」
先輩は言ったが、決定ボタンを押さなかった。
「二枚目にします」
「理由は?」
「二人とも、同じ時に前を見てるから」
先輩は、うなずいた。どちらの髪も直さなかった。
外へ出ると、ミサトは約束どおり画面を訊かず、印刷を待つ時間だけ測った。
同じ画像が四枚つながって出てきた。四つの別の表情ではない。一回選んだ俺たちが、同じ顔で四つ並んでいた。
「切る?」
先輩が訊いた。
「俺がやります」
写真の間へはさみを入れた。紙の丸い人間を切った時とは違い、どこを切っても俺たちの間には線が入らない。四枚とも同じ二人が残る。
部誌用をミサトへ渡し、記録用を茶封筒へ入れた。残る二枚の一方を先輩へ、もう一方を俺の財布へ入れた。
ミサトは部誌用の一枚だけを自己紹介文の封筒へ入れた。俺と先輩の私物分には触れず、十問の回答紙と自己紹介の原紙を別の透明袋へ移す。
「預かるのは、掲載に使っていいって三人で決めた分だけ。活動中に私が見たことを編集メモへ足す時は、原稿になる前に見せる」
「そこまで決める?」
先輩が訊く。
「決めたほうが、私が自由に作れるから。どこまで自由か分かるし」
ミサトはそう言い、バスの時刻が近いからと先に駅へ向かった。封筒を胸へ抱え、振り返らなかった。
「川沿いの答え、今してもいいですか」
俺が言うと、先輩は写真を本袋へ入れる手を止めた。
「うん」
「先輩に会えるかもしれないと思ったから、道を変えました」
言ったあと、駅前の音が一度に戻ってきた。自転車のベル、信号機の案内音、コンビニの扉。世界は何も止まらなかった。
「散歩でも、実験でもないです」
「四日とも?」
「最初の三日は、会える時刻を知らなかった。四日目は知ってた。だから同じ理由ではないです」
「九鬼をちゃんと使うな」
「先輩が貸したんでしょう」
先輩は笑った。作っていた低い声ではなく、少し高い声が出た。
笑ったあと、先輩はすぐに話を継がなかった。本袋の外から、入れたばかりの写真の位置を確かめた。俺の財布にも同じ画像がある。そのことを、互いに確認はしなかった。
「俺も、答えていい?」
「何を」
「逆の十問をやらなかったこと」
俺の左手が、袖口へ動いた。
先輩はそこを見た。
「榊は、答えに困ると左の袖を握る。辞書は分類番号じゃなく、表紙の手触りが似た順に戻す。甘い物を飲まない。寒くなくても、温かい無糖の茶を選ぶ」
「四問です」
「丸はつけない」
「どうして」
「榊の正解を俺が決めたくないから。でも、見ていないわけじゃない」
指が袖口へ着く前に止まった。
十問の時に欲しかった証拠は、丸の数ではなかった。先輩は俺が正解として差し出していないことを知っていた。しかも、知っていることを、俺を説明し切るためではなく、見ていたと知らせるために使った。
それで安心した、と言うには、左手があまりに急に止まった。身体だけが先に信じた。
「古本屋を出る時刻を言ったのも」
先輩は本袋の紐を持ち直した。
「榊が来るかもしれないと思ったから言った。来いとは言えなかった」
「どうして」
今度は俺が訊いた。
先輩は信号の向こうを見た。答えを作るためではなく、今は答えない場所を選ぶように見えた。
「それは、まだ一問の外」
俺は追わなかった。答えない権利は平等だった。
駅前のコンビニで、俺たちは中華まんを二個買った。先輩は肉まん、俺はあんまんではなく同じ肉まんにした。甘い物を選ばないことを知られた直後にあんまんを買うほど、俺は反抗に熟達していない。
先輩が会計を一緒にしようとしたので、自分の分は自分で払った。写真機の料金は部誌の私費扱いとして三人で割っていたが、中華まんは活動費ではない。
「そこまで別にする?」
「一個ずつなので」
「一個を半分にしても、会計は別にできる」
「今日は二個です」
先輩は反論せず、自分の紙袋を受け取った。
ベンチへ並んで座り、一人一個ずつ紙を剥いた。分ける必要はなかった。先輩の肉まんから出る湯気と、俺のものから出る湯気が、風に押されて同じ方向へ流れた。
肩の間には、写真機より拳一つ分ほど広い隙間があった。狭くしようと思えば狭くできた。広げようと思えば立てた。どちらもしないで、俺たちはそれぞれの一個を食べた。
「明日は三日月堂へ行かない」
先輩が言った。
「訊いてません」
「金曜は行く。五時十分」
俺は、自分の肉まんを持ったまま、金曜の五時十分を覚えた。
俺は四日続けて、長いほうを歩いていた。
健康のためではない。九月半ばの午後はまだ暑く、川は見た目ほど涼しくない。制服の背中を湿らせてまで歩く者は、健康より先に判断力を疑われるべきである。それでも俺は、校門を出ると商店街へ向かう生徒の列を離れ、堤防の低い道へ下りた。
散歩だった。少なくとも、三日目まではそう呼んでいた。
一日目は三日月堂の前を通り過ぎ、二日目は店の平台を眺め、三日目は時計を見ないようにして二度見た。散歩というものは、同じ店の戸が開くたび足を遅くするのだろうか。俺の知る散歩は、もっと景色に公平だった。
四日目だけは条件が違った。前日、先輩が店を出る時刻を俺へ言った。だから俺は時計を見た。見ないふりをするために、まず見た。
四日目の九月十六日、三日月堂書店の引き戸が開いた。
三枝哲先輩が出てきた。
先輩は紺色の本袋を肩に掛け、右手の人差し指に黒い薔薇の指輪をしていた。校内では見たことのない指輪だった。俺を見ると、少しだけ目を細めた。笑う前に口元が一度止まる。その間を、俺はもう知っていた。
「偶然だな」
「実験です」
用意していなかった言葉が出た。散歩より悪かった。
「何の」
「この道が本当に六分長いのか」
「四日かけて?」
「誤差があるので」
先輩は俺の言い分をすぐには潰さなかった。手にした文庫本を本袋へ入れ、店先の自転車を一台よける。それから俺と駅の方向を見比べた。
「昨日、俺がこの店を五時十分に出るって言った」
「言いましたね」
「それを聞いて、榊が道を変えた」
「道は昨日より前から変えています」
「今日は、聞いたあとだ」
返事を探すあいだ、川面の光を数えた。風で崩れるので三つより先へ進めない。
先輩は、正解を待つ教師の顔をしなかった。
「道を選んだのは榊。時刻を言ったのは俺。ここにいたことまで全部、偶然の取り分にすると、俺たちのしたことがなくなる」
「先輩が時刻を言ったのは、偶然じゃないんですか」
「言わなくてもよかったからな」
右手の黒い薔薇が、夕方の光を吸っていた。
俺は、なぜ言ったのかを訊かなかった。先輩も、なぜ来たのかを重ねて訊かなかった。代わりに本袋を持ち直し、駅へ向かって歩き出す。
「行く?」
行きます、と答えた。理由ではなく、同行を選ぶ答えだった。
川沿いは二人で歩いても十八分だった。俺がいつもより速く歩き、先輩が少し遅く歩いたので、正確には十七分四十二秒だった。
駅前の信号で、先輩が本袋の外ポケットを探った。
「これ、部室に忘れてた」
差し出されたのは、図書委員用の受領印だった。丸い持ち手に「図書」と彫られ、赤いインクが端へ残っている。
俺がそれを哲学部へ置き忘れたのは、四日前だった。
*
九月十二日、俺は黒瀬ミサトと辞書を運んでいた。
俺たちは一年三組の図書委員で、二学期最初の仕事として、旧版になった辞書を図書室の隣へ移すよう頼まれていた。国語辞典三冊、漢和辞典二冊、古い百科事典が四冊。どれも蔵書印の横に除籍済の印があり、学校の本を生徒が勝手に救出するという美談ではない。犬飼先生が教材用に正式に引き取った物だった。
「ガク、上二冊持てる?」
「持てる」
「今、百科事典の重さを目で量ったでしょ」
「量ってない。棚まで何歩か見ただけ」
「それを量るっていうんだよ」
ミサトは小柄だが歩くのが速い。花柄のブックカバーを脇へ挟み、漢和辞典を二冊抱えて、先に図書室を出た。俺は百科事典を三冊重ねて追った。
旧館二階の廊下は、西日が床の傷を一本ずつ照らしていた。図書室から隣の準備室まで二十三歩。扉の上には、白い札で「哲学部」とあった。括弧も、同好会の但し書きもない。
ミサトが肘で扉を押す。
「ただいま。追加の老人たちです」
「本を年齢で呼ぶな」
中から低い声がした。
入口を越えたところで、いちばん上の百科事典が滑った。支え直そうと右腕を上げ、二冊目まで傾いた。床へ落ちる前に、横から伸びた手がいちばん下を押さえた。
「一回、置こう」
声の主が、俺と同時に本を机へ下ろした。
それが三枝哲先輩だった。
背は俺より少し高く、細い。姿勢はまっすぐなのに、前髪の左側だけ長さが揃っていなかった。声と髪のどちらを自分で作ったのかは、その時の俺には分からなかった。
「すみません」
「落ちてない。まだ謝るところじゃない」
先輩は百科事典の角を確かめ、俺の顔ではなく、俺が見ていた壁際へ目をやった。古い木の棚が六段あり、上から二段目だけ空いている。
「棚、数えてた?」
当てられたことより、疑問形だったことに引っかかった。
「六段です。空いてるのは二段目だけ。でも百科事典を横にすると、三冊までしか入らない」
「じゃあ残りは下。重い本を上へ置かないほうがいい」
先輩は俺の癖の理由を決めず、数えた結果だけを使った。
「この人が三枝哲。二年。部長。私は黒瀬美智。一年。編集と会計」
「同じクラスだから、後半は知ってる」
「部室で会う私は、編集と会計なの」
ミサトは胸を張り、机の上の薄い冊子を一冊取った。灰色の表紙に『愛智』とある。活字の「智」だけ、黒がわずかに濃い。
「哲学は、愛智。知恵を愛するっていうでしょ。で、私の智も入ってる」
「自分で言うんだ」
「気づかれないよりいいから」
先輩は口元を止めたあと、少し高い声で笑った。その声だけは、最初に聞いた低さより年相応だった。
部屋には紙と古い糊の匂いがした。西向きの窓の下に三つの机、壁に過去の部誌、鍵付きの保管庫。黒板の端には白いチョークで「論破禁止」と書かれていた。
「哲学部なのに?」
俺が言うと、先輩は辞書を持ち上げたまま答えた。
「議論は禁止してない。勝ち負けにするのを禁止してる」
「誰が決めたんですか」
「俺」
「何かあった顔だね」
ミサトが横から言った。
「黒瀬は、聞いても答えないと知ってる質問をするな」
「質問権は平等です」
「答えない権利も平等だ」
二人の応酬は速かったが、どちらも勝とうとしていなかった。少なくとも、俺にはそう見えた。
辞書を棚へ収めると、ミサトは除籍前の棚番号を小さな札へ書き写した。
「もう図書室の本じゃないんだろ」
「だから書くの。どこにいたかまで消えたら、ずっとここにいたみたいになる」
スマートフォンを取り出し、棚へ向ける。画面の端に俺の肩が入ったところで、ミサトは指を止めた。
「作業記録にガクも入るけど、撮っていい?」
「顔は?」
「入らない」
「ならいい」
一枚だけシャッター音がした。
その時、廊下から鍵の鳴る音が近づいた。
「終わりましたか」
入ってきた犬飼志乃先生は、四十代の現代文教師で、哲学部の顧問だった。腕に出席簿ではなく、角の折れていない一枚の調査票を抱えている。
先輩がその紙を見て、わずかに姿勢を固くした。
「部員調査ですか」
「ええ。終わったふりをするには、二人では少なすぎました」
犬飼先生は机へ調査票を置いた。現役部員の欄には、三枝哲、黒瀬美智の二名だけが書かれていた。
*
「三年生が夏前に引退して、現役が二人になりました」
犬飼先生は、空いている三つ目の机へ調査票を置いた。
「月白高校の部活動規程では、正式部の最低人数は三人。哲学部は今年度末の継続審査に入ります」
「年度末までは使えるんですよね」
ミサトが訊く。
「今すぐ廃部ではありません。最低人数へ戻し、活動を続けた記録を出す。それができるかを年度末に見ます。今日はそこまで。細目は、人数が戻ったら計画表で確認しましょう」
先生は、俺を見て言ったのではない。けれど部屋の三つの机のうち、一つだけ椅子が引かれていた。
「三人目、いた」
ミサトが俺を指した。
「運んできただけ」
「哲学部へ辞書を運ぶ人は、だいたい哲学部に向いてる」
「全国で何人調べたんだ」
「いま一人目」
先輩が、調査票を裏返した。
「黒瀬。見学と入部を一緒にするな」
「でも、あと一人」
「だから余計に、一緒にしない」
低い声だった。俺を拒んだのではなく、人数のために俺を採ることを拒んだのだと分かった。それは正しい。正しいのに、俺の中では何かが一段だけ沈んだ。
誘われたら断る理由を考えていた。誘われなかった時に使う理由は、用意していなかった。
空いている椅子を見た。座れば三人目になり、立ったままなら辞書を運んだ図書委員でいられる。先輩はそのどちらにも俺を押さなかった。押されないことは自由で、自由には、自分がどちらを欲しがっているかを隠せない不便があった。
「哲学、知らないです」
先輩へ言うと、彼は調査票から顔を上げた。
「知ってから来る部なら、俺も入れなかった」
「先輩も?」
「最初は」
「今は知ってる顔してる」
「黒瀬よりは」
「そこで勝とうとするの、部則違反じゃない?」
先輩の声がまた少し高くなった。
犬飼先生は三人を見回し、鍵を机の端へ置いた。
「見学は活動に数えません。入部しなくても、見に来ることはできます。それから三枝くん、活動終了時刻を守ってください」
「はい」
「それは授業の答えにはしませんが、戸締まりの答えは一つです」
先生が隣の図書室へ戻ると、部屋が急に広くなった。
俺は受領印をポケットへ入れたつもりで、空の手を握った。
「今日は帰ります」
「うん」
先輩は引き止めなかった。
扉へ手をかけたところで、俺は振り返った。
「次は、いつやってますか」
訊いてから、辞書の残りを理由にすればよかったと思った。棚にはもう何も残っていない。
先輩は机の横の予定表を見なかった。
「次の図書当番の日、放課後に開けておく。委員の予定表、受領簿に挟まってたから」
「俺が来るとは言ってません」
「開けておくと言っただけ」
選ぶのは俺だと返された。
廊下へ出たあとも、紙と糊の匂いが制服に残った。受領印だけは、部室の机に残った。
*
翌日の放課後、俺は開いていると言われた扉を開けた。
中には先輩一人しかいなかった。ミサトは図書委員会で、犬飼先生は隣の図書室にいるらしい。机の上には、細い紙を挟んだ二冊の本と、白い紙が一枚あった。
「辞書はもうないですよ」
「知ってる」
「受領印を取りに来ました」
「昨日、机にあった」
先輩は引き出しから丸い印を出した。俺は受け取ったが、立ったままでいた。
「帰る?」
「本は何ですか」
先輩は、椅子を勧める代わりに向かいの椅子を少し引いた。俺は自分で座った。
一冊目は、九鬼周造の文章を収めた薄い本だった。開かれた頁の題に「偶然の諸相」とある。もう一冊は、それより厚い『偶然性の問題』だった。
「名前だけは知ってる?」
「九鬼周造を?」
「偶然を」
「それは知ってます」
「じゃあ、どこからが偶然だと思う」
質問の意味が広すぎた。俺は窓の外の楠を見た。葉が一枚落ち、それが窓枠へ当たらず地面まで行った。
「起きると思ってなかったこと」
「珍しいこと?」
「たぶん」
先輩は首を振らず、紙に一本の線を引いた。
「九鬼は、偶然を珍しさの大きさで考えなかった。すごく乱暴に言えば、必ずそうなる関係がないことから考えた」
「必ずじゃないことを、三種類に分けた人ですか」
目次に、定言的、仮説的、離接的という見慣れない語が並んでいた。
「そこまで一度に読むと、たぶん帰ってこなくなる」
「どこから?」
「九鬼から」
俺は、少し笑った。先輩も笑い、低く作っていた声が一音だけ上がった。
先輩は紙にもう一本、最初の線と離れた場所から線を引いた。二本は途中の一点で交わった。
「今日は、ここだけ。別々の理由で進んでいた二つの出来事が、一点で交わる」
左の線の始点に「図書委員」、右の線に「哲学部」と書く。
「榊は辞書を運ぶ。俺は部室で待つ。理由は別だった。でも準備室で会った」
「会わなかった可能性もある」
「俺が遅刻したら会わない。榊が百科事典を一冊ずつ運んでいたら、俺が先に帰ったかもしれない。どちらかから見て、もう一方が必ずそこにいる理由はない」
「だから偶然」
「そういう交わり方を、九鬼は仮説的偶然のほうで考える。難しい名前は今日、覚えなくていい」
覚えなくていいと言われると、覚えてしまう。仮説的。俺は本の頁番号と一緒に頭へ置いた。
「『偶然の諸相』と、この厚い本は同じ話ですか」
「短いほうは入口に近い。『偶然性の問題』は、偶然って一語で呼んでいるものを、関係の違いまで分けようとした本。全部分かるつもりで読むと負ける」
「論破禁止なのに、本には負けるんですね」
「本は降参してくれないから」
先輩は厚いほうを俺の前へ押した。図書館の透明なカバーが掛かり、貸出票が挟まっている。
「貸す。線を引くのは禁止。付箋は一枚なら可」
「一枚だけ?」
「分からないところ全部に貼ると、本が元の厚さの倍になる」
「経験ですか」
「質問に質問で返すな」
「答えない権利は平等なんでしょう」
先輩は口元を止めた。今度は笑わなかったが、目だけがわずかに細くなった。
その日から、俺は見学へ行った。毎日ではない。図書委員の仕事が終わり、隣の扉が開いていた日だけである。そう決めておけば、先輩に会うためではなく、委員会と九鬼の本のためだと言えた。
十三日、先輩は二本の線の片方へ、俺の最短路を描いた。十四日、俺は川沿いの線を自分で足した。十五日、先輩は『偶然性の問題』の「運命」という文字を指し、偶然と同じ意味ではないと言った。
「偶然が、その人の生に大きな意味を持って、あとから運命として受け取られることはある。でも会ったばかりで貼る札じゃない」
「会ったばかりで運命って言う人はいます」
「自由だよ。九鬼の説明として言わなければ」
俺は付箋を一枚、二本の因果の線が交わる頁へ使った。分からない頁ではなく、分かった気になった頁へ貼った。先輩はそれを見て、何も言わなかった。
帰りに校門を出ると、先輩は本袋の内側のファスナーを開けた。小さな黒い物を取り出し、右手の人差し指へ通す。黒い薔薇のリングだった。
「学校では駄目なんですね」
「装身具は校則で禁止」
「なくしそう」
「だから本袋の中。祖母にもらった」
先輩は薔薇を親指で一度なぞった。
「似合うか、答えなくていいと言われた。欲しいなら持って帰れって」
それ以上は説明しなかった。俺も、祖母が今どこにいるのかは訊かなかった。
駅へ行く道が二つに分かれるところで、先輩は川沿いへ向かった。
「三日月堂に寄るんですか」
「予約した本が来てる。明日は五時十分くらいに出る」
「訊いてません」
「そうだな」
先輩は引き返さなかった。
時刻だけが、俺の側へ残った。
翌日、俺は川沿いを選び、五時十分に三日月堂の前へ着いた。そうして、章の最初の場所へ戻る。
最初に準備室で会った時、俺は先輩がいると知らなかった。四日目の川沿いでは知っていた。先輩も、自分が店を出る時刻を俺へ知らせていた。
「最初と今日を、同じ偶然って呼ぶのは無理ですね」
駅前の信号で俺が言うと、先輩は黒い薔薇の指を折った。
「偶然だった部分まで消す必要はないけどな」
「どこですか」
「最初に榊が辞書を三冊いっぺんに持ったところ」
「そこ?」
「一冊ずつなら、俺は受け止めてない」
俺たちが会ったことは、一語で片づかなかった。俺が道を選んだことも、先輩が時刻を言ったことも、その前に百科事典が滑ったことも、同じ箱へは入らない。
分けて考えると、会いたかった部分だけが、こちらへ残った。
俺はそれを、まだ口にはしなかった。
*
九月十八日、俺は哲学部の入部届へ名前を書いた。
用紙には、氏名、学年、組、保護者確認、入部理由の欄があった。部員を登録するための紙なので、俺がなぜ三枝先輩のいる道を選んだかまでは要求しない。
「榊学」
ミサトが横から読んだ。
「三枝哲。黒瀬美智。哲と学と智が揃った」
「名前で採らない」
先輩がすぐに言う。
「採ったあとだから、喜ぶのはいいでしょ」
「まだ犬飼先生が受理してない」
「そこまで慎重だと、プロポーズの返事も受理印待ちになりそう」
「何の話だ」
先輩の声が一音高くなった。俺は入部理由の欄へ視線を戻した。
部を存続させたいから、と書けばきれいだった。人数は実際に足りない。けれど、それだけなら俺でなくてもよかった。九鬼周造を読みたいから、も嘘ではない。それでも九鬼の本は図書室で借りられる。
俺は、「まだ名前のない問いを、ここで続けて考えたいから」と書いた。
先輩は覗き込まなかった。俺が用紙を裏返して渡してから、初めて受け取った。
「ありがとう」
「人数のためですか」
「榊が選んだことに」
俺は左の袖口を握りかけ、指を離した。
先輩は用紙を調査票へ重ねなかった。俺の名前が、足りない一名の欄へ吸い込まれないように、別の透明なファイルへ入れた。事務上はあとで一緒になる紙だった。それでも、その一手間を俺は見た。
犬飼先生が届を受理し、日付の欄へ九月十八日と書いた。これで部員は三人になったが、先生は継続審査の紙を一緒に机へ置いた。
「人数は一項目、戻りました。ただし三人になれば自動的に継続、ではありません」
年間計画の枠には、通常活動、部誌、公開活動、年度報告、安全運営とあった。犬飼先生は項目を読み上げず、空の計画表を三人の側へ向けた。
「何をする部か、今年何をしたか、失敗があればどう直したか。それを年度末に示してください」
「失敗、前提なんですか」
ミサトが訊く。
「無いほうがいいですね。ただ、無かったふりはもっと困ります」
先生が隣室へ戻ったあと、ミサトは昨年の『愛智』を机へ広げた。
計画表は俺たちの前に残った。月曜、水曜、金曜の活動欄。秋の部誌。冬の校内放送。二月の公開活動。年度末報告。空欄だったものへ日付候補を入れるたび、俺が部屋にいる時間が九月十八日より先へ伸びていった。
先輩は俺に作業を振る前に、一度ずつ訊いた。過去号を読むか。見出し案を出すか。今週は図書委員と重ならないか。部員になった途端、こちらの時間まで所有した顔をしない。その慎重さへ安心しながら、もう少し勝手に予定へ入れられてもよかったと思った。人間は自分で選びたいくせに、選ばれた証拠も欲しがる。少なくとも俺はそうだった。
「秋号、今年は三人の入部記念にしたい。企画は『偶然に会った二人の相性』」
「相性はやめて」
俺はすぐ言った。
ミサトが眉を上げる。
「まだ何も診断してないよ」
「診断される前から、答えの形が決まってる」
先輩はペンの後ろで計画表を二度叩いた。
「相性じゃなくて、どれくらい知れば、その人を知ってると言えるか、なら?」
「普通すぎない?」
「普通の問いに答えられないから、哲学が残ってる」
ミサトは少し考え、白紙へ大きく「十問」と書いた。
「相手のことを、どこまで知っている? 十問で確認する。内面禁止、家族禁止、恋愛禁止。見れば分かることだけ。答え合わせは本人。載せるのは全員が見ていいと言った範囲だけ」
「俺と先輩だけ?」
「私もやる。三人分。でも目玉はテツとガク」
「名前で採らないんじゃなかったの」
「名前で編集するのは禁止されてない」
「今、禁止する」
三人で話し、質問を作り、最後に一人ずつ署名した。ミサトは、俺が写り込む写真にも訊いてからシャッターを切った。その事実を俺は覚えていた。
この時は、それで十分だと思った。
*
九月の最後の活動日、ミサトは赤い丸を十個つけた。
「全問正解」
机の上に、俺の回答用紙と、先輩の答えが並んでいた。丸は最初、ただの記号だった。五つを越えたあたりから、俺が先輩を見た回数へ形を変えた。
「一問目。三日月堂で最初に見る棚」
「日本思想」
「正解」
「二問目。部室で飲んでいるもの」
「水筒の温かいほうじ茶。砂糖なし」
「正解」
「三問目。栞に使うもの」
「買った本のレシート。日付が見えない向きで挟む」
「正解」
「日付の向きまで問題にない」
先輩が言った。
「見えたので」
「四問目。三つの席で、いちばんよく座る場所」
「窓から一つ離れた席。西日が本に当たらないから」
「正解。理由も正解」
ミサトが丸を二重にした。
「勝手に配点を増やすな」
先輩は答え合わせのたび、少し居心地が悪そうに本の角を撫でた。その仕草も、問題にしようと思えばできた。
五問目は、分からない頁へ鉛筆でつける記号。疑問符。六問目は、辞書を運ぶ時に最初に持つ場所。背ではなく底。七問目は、笑う前に止まる場所。口元。八問目は、校門を出て指輪をつける指。右手の人差し指。九問目は、部室を出る前に最後に見る場所。窓ではなく鍵。十問目は、『偶然性の問題』で俺へ最初に見せた頁だった。
七問目で、先輩は初めて答え合わせを止めた。
「俺、そんなところで止まる?」
「止まります」
「何秒」
「そこまでは数えてません」
「数えてる顔だけど」
「毎回ちがうので」
ミサトが赤丸の横へ、小さく「観察者の抗弁」と書いた。
「余計な注釈を載せるな」
俺と先輩の声が重なった。先輩がこちらを見て、今度は口元を止めずに笑った。俺の答えが当たった直後に、その答えから外れる笑い方をした。
八問目の指輪は、質問に入れてよいか先に確認してあった。先輩は由来を載せず、校門外で右手人差し指につける事実だけならよいと言った。俺は正解を知っていたのに、赤丸がつくまで右手を見られなかった。
九問目で鍵を答えると、先輩は廊下側の扉を見た。
「窓だと思ってた」
ミサトが言う。
「最後に部屋を見るなら、窓のほうが絵になる」
「鍵を忘れたら、絵より犬飼先生に怒られる」
正解は、先輩が自分をどう見せたいかではなく、実際に繰り返した動作の側にあった。だから俺は答えられた。
十問目の頁番号を書いた時、先輩は本を開いて確かめた。俺が一枚だけ許された付箋を貼った頁だった。
「ここ、分かったの?」
「分かった気になったところです」
「それは、いちばん危ない付箋だな」
「先輩が剥がさなかったから」
「榊の付箋だから」
その言葉へ赤丸はつかなかった。
十個目の丸が閉じた時、嬉しさより先に、紙が重く見えた。
「すごい。これ、もうかなり知ってるってことじゃない?」
ミサトは俺と先輩を交互に見た。
「十問は十問だよ」
先輩が答える。
「でも全部だよ」
「全部当てたことと、全部知ってることは違う」
正しい。俺は先輩の父親の名前も、化学の計算をどこで間違えるのかも、祖母からリングをもらった日のことも知らない。知らない項目は、質問になっていない。
「じゃあ逆」
ミサトが、白い回答用紙を先輩へ差し出した。
「テツがガクについて十問。公平に」
先輩は紙を受け取らなかった。
「やらない」
赤い丸が、いっせいに俺の側へ傾いた気がした。
「なんで?」
「同じ十問に答えられるほど、榊を知らない」
先輩は俺を見て言った。分かったふりをしない人だと、俺は知っている。その正直さが、今は薄い刃物みたいに働いた。
「十対ゼロ?」
ミサトが言う。
「点数にするな。知っている量は、親密さの得点じゃない」
「でも、ガクは答えた」
「榊のことを、榊が答える。その正解を俺が決める席に座るのも違う」
「本人が答え合わせすればいい」
「それでも、俺が問題を作った範囲が榊になる」
俺は、先輩の説明を聞きながら、ゼロだけを拾っていた。
見てほしかったのだと思う。十問正解したことを褒めてほしかったのではない。俺が先輩の背表紙や指や声を見ていたあいだ、先輩の視界にも俺がいたという証拠が欲しかった。
そんな証拠を欲しがること自体が、十個の赤丸より恥ずかしかった。
先輩は、白紙の回答用紙を俺へ戻そうとした。俺は受け取らなかった。
「捨てていいです」
「俺が捨てるのも違う」
先輩は紙を机の中央へ置いた。どちらの側にも寄せない置き方だった。
「知らないと言ったけど、何も知らないとは言ってない」
続きが来ると思った。だが先輩は、そこで止めた。俺を慰めるため、その場で見つけた事実を並べることをしなかった。正しさは分かった。傷は減らなかった。
「分かりました」
左の袖口を握った。分かっていない時ほど、俺は丁寧に返事をする。
ミサトは赤いペンの蓋を閉めた。いつもの速さなら次の企画へ飛びつくところで、俺の袖と先輩の白紙を一度ずつ見た。
「十対ゼロって言ったのは、取り消す」
「点にしたことを?」
「ゼロって決めたことを。採点しないと、ゼロは違う」
謝る代わりの理屈に聞こえたが、ミサトなりに記録を直そうとしていた。赤いペンで「0」と書いた自分のメモへ二本線を引き、その横は空けた。
先輩は何か言いかけたが、ミサトが白紙へ勢いよく円を描いた。
「じゃあ、知識量じゃなくて、二人を一組にできる別の根拠」
「まだ一組にするのか」
「編集上の仮説です」
丸の両側に顔が二つ描かれた。上と下から腕が四本、脚が四本伸びる。人間というより、体育祭のマスコットが設計に失敗した姿だった。
「何、それ」
「次回。プラトン」
ミサトは赤いペンで、円の中央に縦線を引いた。
*
次の活動日、机の上には、前回の丸い生き物と、はさみがあった。
「先に言っとくけど、恋愛診断じゃないからね」
ミサトは紙を俺たちの間へ置いた。
「プラトンの『饗宴』っていう対話篇に、宴会で愛について順番に話す場面がある。その中で、喜劇を書いたアリストパネスがする話」
「プラトン本人の最終回答じゃない」
先輩が言う。
「まだそこまで説明してない」
「そこを先に言わないと、プラトンが人間を丸いと思ってたみたいになる」
「じゃあ注釈ありがとう。続けます」
ミサトは丸い生き物の二つの顔を指した。
「昔の人間は、二人分がくっついた丸い形だった。顔が二つ、耳も手足も四つ。男と男で一人、女と女で一人、男と女で一人の三種類がいて、力も強かった」
紙の両面に描かれた顔は、互いを見られなかった。ミサトが紙を回すたび、一方が俺を向き、もう一方が先輩を向いた。
「移動は?」
「必要なら、手足で輪みたいに回る」
「目立ちますね」
「ものすごく。でも神々に逆らおうとしたから、ゼウスが罰として二つに切った」
ミサトは、赤い縦線にはさみを入れた。
紙の繊維が、短く裂ける音を立てた。
二つの顔は、一枚ずつになった。腕は二本、脚も二本。俺たちが人間と呼ぶ形へ近づいたのに、切られる前より頼りなく見えた。
ミサトは、切れた縁を指でなぞった。
「アポロンが傷口の皮をお腹へ集めて、結んだ跡が臍になる。元から今の姿だったんじゃなくて、切られたあとを整えた姿なんだって」
俺は自分の腹を見なかった。見ると神話を信じたみたいになるし、見ないようにすると、もっと信じたみたいになった。
「臍は、切られた記憶。二つになった人間は、失った相手を探して、見つけると抱き合った。離れたくなくて、何もしなくなって、食べることもやめて、死にかけた」
甘い話だと思っていた部分が、途中から生存の失敗になった。
ミサトは二枚を向かい合わせ、切れた腕を重ねた。
「鍛冶の神が、もう一度二人を溶かして一人にしてやろうかって訊いたら、二人は断らない。ずっと一つでいたいから。失った全体を求めることを、この演説では愛と呼ぶ」
そこで初めて、ミサトは言った。
「この切られた片方を、今はよく半身って呼ぶ。運命の半分、みたいに」
先輩の顔を見た。先輩も俺ではなく、切られた紙を見ていた。
先輩は『饗宴』を開き、ミサトが話した箇所へ細い紙を挟んだ。
「ここで話は終わらない。宴会では、このあとも別の人が愛について話す。ソクラテスは、愛する者は自分に欠けたものを欲する、と問い直していく」
「じゃあ、丸い話は間違い?」
俺が訊くと、先輩は本を閉じた。
「対話の中に置かれた一つの演説。間違いとして捨てるなら、こんなに残らない。でもプラトンの答えだと一枚札にするのも雑だ」
「便利な話ほど、出典の中で一人にしておかないほうがいいんだね」
ミサトは切った二枚を見た。人を一組にするため持ち出した話が、話そのものも一つではなかった。
「十問全部知ってたら、失った片方を見つけたって言えない?」
ミサトが訊く。
「言えない」
俺は思ったより早く答えた。
「即答だ」
「俺と先輩が昔一人だった証拠はない。俺が十問知ってることと、先輩も俺を知ってることも別です」
最後の一つは、口に出すとまだ痛かった。
「でも、一つに戻らないなら、ずっと足りないままじゃない?」
「最初から別なら、足りないことにならない」
俺は二枚の紙を離した。机の端と端ではなく、同じ本一冊分だけ間を空けた。
中学二年の時、同じ図書委員の女子を好きだった。彼女が薦める作家を読み、当番の日を覚え、返却台で本を積む仕草を真似た。友人に「どこが好きなの」と訊かれ、答えられなかった。「それなら本気じゃない」と言われた。
俺は、好きではなかったことにしなかった。ただ、答えられない者の気持ちは、答えられる者に採点されるのだと覚えた。
彼女を好きだった時、俺は彼女と一つになりたかったわけではない。彼女が返却台の向こうにいて、俺がこちらにいて、同じ本を別々の速さで読めることがよかった。そういう答えは、当時の俺には後からも思いつかなかった。今、切られた紙を前にして初めて出てきた。
先輩は、離された紙の片方を指で押さえた。
「九鬼の二本の線も、人間は別々でいるべきだっていう教えじゃない」
「分かってます。独立してるのは、まず因果の流れでしょう」
「人格の話へそのまま移すと、九鬼に言わせてないことまで言わせる」
「じゃあ、これは俺の読み替えです」
「どういう?」
「一人でいる時も一人だった二人が、会った。片方だったから戻るんじゃなくて、別々だったのに近くにいる」
先輩は正しいとも、間違いとも言わなかった。紙を押さえた指を離し、自分の側の一枚を俺の側へ少し寄せた。重ねはしなかった。
「その読み方なら、俺は残したい」
ミサトが、はさみを机へ置いた。
「じゃあ十問企画の結論は、半分探し失敗?」
「企画名にしないで」
「まだしてないよ」
「今後も」
先輩が口元を止めた。笑いそうになったのをやめたらしい。
俺は先輩へ言った。
「一問だけ、訊いてください」
「何を?」
「俺のこと。先輩が決めた十問じゃなくて、今知りたいことを一つ」
部屋の時計が秒を一つ進めた。先輩は質問を選ぶ時、いつもより長く黙った。
「どうして川沿いを選んだ?」
十問のどれより答えが難しかった。
好きな飲み物や本なら、答えは物の側にある。道を選んだ理由は、俺が言わなければ正解にならない。先輩は、その一問だけを選んだ。
「今は答えません」
「分かった」
「でも、偶然ではないです」
先輩の右手が、机の下で一度だけ握られた。リングは校内なのでない。何もない指が開くまで、俺は見ていた。
ミサトは紙の余白に、「自分で書く紹介」と記した。
「相手を説明するんじゃなくて、自分の紹介は自分で書く。写真も、撮る人と使う場所を先に決める。これならどう?」
「駅の証明写真機なら、同じ写真が四枚出る」
先輩が言う。
「部誌、部の記録、本人二人で一枚ずつ」
「二人で撮るの?」
ミサトの声が一段明るくなった。
「嫌なら別々」
先輩は俺に決めさせる顔をした。
「二人でいいです」
俺は、今度はすぐ答えた。
*
十月上旬、その次の活動日、俺たちは駅の証明写真機の前にいた。
自己紹介文は一人百二十字。掲載は『愛智』二十部と部室の記録だけ。写真は一回選んだ同じ画像を小判四枚で出し、部誌原稿、部の封筒、俺、先輩へ一枚ずつ。ミサトは確認事項を手帳へ書き、最後に俺たちへ読み返した。
部室を出る前、三人で自己紹介文も読み合わせた。ミサトは「編集担当。好きなものは、直す前の文章と直した後の文章」と書いた。先輩は「分からない頁に疑問符をつけます。分かった頁にも、あとでつけます」。俺は五回書き直し、「図書委員。本は読む前に匂いを確かめます」とだけ書いた。
「榊、これで二十字に届いてない」
先輩が言った。
「上限でしょう」
「一人百二十字以内。下限はない」
ミサトが俺の紙を持ち上げた。
「短いけど、本人がこれでいいなら削らないし足さない。写真の横へ、このまま載せる」
先輩は俺の文章を読み、机にあった古い国語辞典へ鼻を近づけた。
「本当に匂いで分かる?」
「新しい紙と古い糊くらいは」
「俺の本袋は?」
答えそうになり、やめた。乾いた紙の匂いだと、もう知っていた。
「自己紹介の範囲を越えてます」
先輩は、自分で訊いておきながら耳の近くを赤くした。
「私は外で待つ。画面も見ない。私物二枚は本人が切って持つ。これでいい?」
「いい」
先輩が答え、俺もうなずいた。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「写真を撮るだけだろ」
「狭い密室へ二人で入る人への挨拶」
「黒瀬」
「画面は見ないって約束したから。音も聞かないよう離れます」
ミサトは本当に、コンビニの入口まで離れた。
カーテンの中は、一人用の椅子と白い背景でほとんど埋まっていた。先輩が先に入り、椅子を低くする。俺は横へ立ったが、画面の案内枠には顔が一つ分しかない。
先輩の本袋は足元へ置かれた。カーテンの内側には消毒液と古いビニールの匂いがあり、その下に本袋の紙の匂いがした。外では気づかない程度だったのに、狭い場所では逃げ場がない。
「入らないですね」
「二人用じゃないからな」
「今さら」
「別々にする?」
俺はカーテンへ手を伸ばさなかった。先輩の隣へ半歩寄り、椅子の端へ腰を掛けた。画面の中で、俺たちの顔が不自然に近づく。
「先輩、少し下」
「これ以上下げると膝が上がる」
「じゃあ、俺が上」
「どうやって」
機械の音声が、撮影まで五秒と告げた。
俺は背筋を伸ばした。先輩が少しだけ首を傾ける。四、三、二、と数字が減る。シャッターが切れた瞬間、先輩の肩と俺の肩が触れた。
布越しだった。すぐ離れた。機械は、その一瞬を同じ枠へ閉じ込めた。
一枚目の確認画面で、俺は正面を向き、先輩は少しこちらを見ていた。
「前、見てください」
「榊が枠から出そうだったから」
「機械が教えます」
「機械より先に見えた」
撮り直しのボタンへ手を伸ばすと、先輩の指と近づいた。触れる前に、先輩が引いた。
「榊が押して」
二枚目は、二人とも正面を向いた。肩が触れたかどうかは写真から分からない。先輩の前髪の左だけが少し不揃いで、俺の右の髪だけが跳ねていた。
「一枚目でもいい」
先輩は言ったが、決定ボタンを押さなかった。
「二枚目にします」
「理由は?」
「二人とも、同じ時に前を見てるから」
先輩は、うなずいた。どちらの髪も直さなかった。
外へ出ると、ミサトは約束どおり画面を訊かず、印刷を待つ時間だけ測った。
同じ画像が四枚つながって出てきた。四つの別の表情ではない。一回選んだ俺たちが、同じ顔で四つ並んでいた。
「切る?」
先輩が訊いた。
「俺がやります」
写真の間へはさみを入れた。紙の丸い人間を切った時とは違い、どこを切っても俺たちの間には線が入らない。四枚とも同じ二人が残る。
部誌用をミサトへ渡し、記録用を茶封筒へ入れた。残る二枚の一方を先輩へ、もう一方を俺の財布へ入れた。
ミサトは部誌用の一枚だけを自己紹介文の封筒へ入れた。俺と先輩の私物分には触れず、十問の回答紙と自己紹介の原紙を別の透明袋へ移す。
「預かるのは、掲載に使っていいって三人で決めた分だけ。活動中に私が見たことを編集メモへ足す時は、原稿になる前に見せる」
「そこまで決める?」
先輩が訊く。
「決めたほうが、私が自由に作れるから。どこまで自由か分かるし」
ミサトはそう言い、バスの時刻が近いからと先に駅へ向かった。封筒を胸へ抱え、振り返らなかった。
「川沿いの答え、今してもいいですか」
俺が言うと、先輩は写真を本袋へ入れる手を止めた。
「うん」
「先輩に会えるかもしれないと思ったから、道を変えました」
言ったあと、駅前の音が一度に戻ってきた。自転車のベル、信号機の案内音、コンビニの扉。世界は何も止まらなかった。
「散歩でも、実験でもないです」
「四日とも?」
「最初の三日は、会える時刻を知らなかった。四日目は知ってた。だから同じ理由ではないです」
「九鬼をちゃんと使うな」
「先輩が貸したんでしょう」
先輩は笑った。作っていた低い声ではなく、少し高い声が出た。
笑ったあと、先輩はすぐに話を継がなかった。本袋の外から、入れたばかりの写真の位置を確かめた。俺の財布にも同じ画像がある。そのことを、互いに確認はしなかった。
「俺も、答えていい?」
「何を」
「逆の十問をやらなかったこと」
俺の左手が、袖口へ動いた。
先輩はそこを見た。
「榊は、答えに困ると左の袖を握る。辞書は分類番号じゃなく、表紙の手触りが似た順に戻す。甘い物を飲まない。寒くなくても、温かい無糖の茶を選ぶ」
「四問です」
「丸はつけない」
「どうして」
「榊の正解を俺が決めたくないから。でも、見ていないわけじゃない」
指が袖口へ着く前に止まった。
十問の時に欲しかった証拠は、丸の数ではなかった。先輩は俺が正解として差し出していないことを知っていた。しかも、知っていることを、俺を説明し切るためではなく、見ていたと知らせるために使った。
それで安心した、と言うには、左手があまりに急に止まった。身体だけが先に信じた。
「古本屋を出る時刻を言ったのも」
先輩は本袋の紐を持ち直した。
「榊が来るかもしれないと思ったから言った。来いとは言えなかった」
「どうして」
今度は俺が訊いた。
先輩は信号の向こうを見た。答えを作るためではなく、今は答えない場所を選ぶように見えた。
「それは、まだ一問の外」
俺は追わなかった。答えない権利は平等だった。
駅前のコンビニで、俺たちは中華まんを二個買った。先輩は肉まん、俺はあんまんではなく同じ肉まんにした。甘い物を選ばないことを知られた直後にあんまんを買うほど、俺は反抗に熟達していない。
先輩が会計を一緒にしようとしたので、自分の分は自分で払った。写真機の料金は部誌の私費扱いとして三人で割っていたが、中華まんは活動費ではない。
「そこまで別にする?」
「一個ずつなので」
「一個を半分にしても、会計は別にできる」
「今日は二個です」
先輩は反論せず、自分の紙袋を受け取った。
ベンチへ並んで座り、一人一個ずつ紙を剥いた。分ける必要はなかった。先輩の肉まんから出る湯気と、俺のものから出る湯気が、風に押されて同じ方向へ流れた。
肩の間には、写真機より拳一つ分ほど広い隙間があった。狭くしようと思えば狭くできた。広げようと思えば立てた。どちらもしないで、俺たちはそれぞれの一個を食べた。
「明日は三日月堂へ行かない」
先輩が言った。
「訊いてません」
「金曜は行く。五時十分」
俺は、自分の肉まんを持ったまま、金曜の五時十分を覚えた。
