◇◇◇
翌朝七時、早く寝たおかげか目覚ましよりも先に目を覚ました。
カーテンを開けて見える空は雲一つない快晴で、日中は今日も暑くなりそうなことが窺える。
さて、今日の予定は夏葉との勉強会だが、いつも通り、と言う訳にはいかない。
昨晩気が付いた自分の気持ち。そして、夏葉に釣り合う男になろうという決意。
すぐに大きく変わることは出来ずとも、勉強と同じで日々の少しずつの積み重ねがいつかの役に立つはず。
そうなれば、まず出来ることは……身だしなみ、だろう。
思い返してみれば、夏葉がパッとしない格好をしているところを見た記憶がない。
女子のお洒落とか、流行とかそう言った物には全くと言っていいほど知識のない俺でも、きっと夏葉はその辺りにもしっかりと注意しているんだろうということは何となく分かる。
しかし、それに比べて俺と来たら……着合わせだとか、シルエットだとか、そう言う所を気にして服を選んだことなど数えるほどしかない。それに、普段夏葉と一緒に居る時はほぼパジャマのような部屋着だったり、着古したTシャツと中学時代に部活で使っていたサイドボタンパンツを着ている。
改めて考えると酷いものだ。素を見せられるという言い方でもギリギリ取り繕えないかもしれない。
収納のスライドドアを開き、ハンガーに架かったまま随分と着ていなかった黒のポロシャツにいつか何となく気分で購入した、これまた黒のテーパードパンツを穿いてみる。
「……黒」
そしてその恰好で姿見を見てみれば、そこにはどこぞの犯人役にも等しいほどに全身が黒一色の男が立っていた。
さすがにこれは……どうなんだ? と思って、もう一度収納の中を眺めていくが、すると見事なまでに黒や寒色系の物しかない。辛うじて一枚だけ白い襟付きの半そでシャツが見つかったため、今日のところはそちらに着替えておく。
「まぁ……今日出来る最大限ではあるか?」
着替えて姿見に映った自分は、まあ、街を歩いていれば普通に見かけるかな? 位の格好にはなった気がする。若干、自宅で勉強するだけなのに襟付き着るか? と、思わなくもないが、その辺りの知識に関しては偏差値四十以下間違いなしなので諦めた。
さて、着る服が決まれば、次は……と言うことで姿見に映る自分の顔に目を向ける。
そこに映るのは寝ぐせ頭の寝ぼけ顔。服がきちんとしている(俺基準)なだけに、異様なほどにそこがアンバランス見えた。
とりあえず、シャワーは浴びておこう。さすがの俺も人を招く前に寝汗の一つも流さないなんてことはない。本当は髪のセットも出来るといいのだろうが、残念なことにそんな知識はないし、SNSやら何やらで調べたところでマネキンとは別物の現代アートが完成するであろうことは目に見えているため、今日は綺麗に梳かす程度に収めておくことに決めた。
シャワーを浴びながら、歯を磨き、髪をいつも以上に丁寧に乾かして、そこまで長くない髪をそれでもしっかりと梳かし、選んだ服に着替えてみれば、どうしてそこそこ、見れる男になっている自分がいた。
傍目からどう見えるかは分からないが、こういうものは気持ちが重要だと聞く。
その点、自分で満足できる程度なら、悪くないのではないだろうか?
なんて、そう思っていたところでインターホンが鳴った。
「夏葉か?」
呟きながらモニターを確認すれば、画面いっぱいに表示されるのは夏葉の顔。
そんな顔を見た途端、心臓がうるさいほどに大きく鳴り出した。
しかし、待たせるのも悪いと、モニターの応答ボタンを押して、今から出て行く旨を伝え、すぐに通話状態を解除する。
ゆっくりと玄関へ向かいながら大きく深呼吸を二回。
大丈夫、大丈夫、いつもと何ら変わらない。
今日はただ、いつも通りに勉強するだけだ。
深呼吸をしながら自身にそう言い聞かせれば、ありがたいことに鼓動は落ち着いてきた。
鍵に手を掛け一思いに開錠し、変に緊張が戻ってくる前にドアも開けてしまう。
「あ、龍樹。おはよ……う?」
俺がドアを開ければ、夏葉はいつも通りに軽く挨拶を口にしながらウチへ上がろうとして、止まった。
「おはよう、夏葉。入らないのか?」
「え、あ、いや……お邪魔、します?」
なぜか少しよそよそしくしながら、いつもより体感ゆっくりと我が家へ足を踏み入れる夏葉。
その足取りは何かを警戒しているかのような、そんな不自然さを感じさせるものだった。
だが、俺は俺でここに来て緊張がぶり返していた。
改めて考えるとこの状況は……かなりすごい。
今日は日曜日、同じ部活にでも所属していなければ、俺のようなインドア派は誰かに会うことはない。だと言うのに、目の前に、何なら自分の部屋に好きな人がいる。
……今まで良く自然体でいられたな俺。
「あ、そうだ。龍樹、私のスマホ知らない? 昨日置いて行っちゃったみたいでさ」
玄関で固まったままの俺を振り返った夏葉がスマホのことを聞いてくる。
この会話なら、大丈夫だ。シミュレーション通りに。
「スマホ? 悪い、見てないな。ウチにあったか?」
「うん、昨日膝枕したでしょ? その時にポッケから出してそのままだったんだよね」
「あ、ああ! なるほどな」
自然に発された膝枕と言う言葉にビクンと肩が跳ねる。
そうだよ。昨日、俺、膝枕とかされてたわ。
でも夏葉、膝枕のことを何ともなさそうに口にしてくる辺り、あまり気にしていないのか?
「……ねえ、龍樹」
そんなことを考えていれば、ジトっとした目をこちらへ向けた夏葉が切り出して来た。
「なんか、あった? 今日ちょっと変じゃない?」
これは夏葉が鋭いのだろうか? それとも俺がボロを出し過ぎているのだろうか?
何にせよ、明らかに昨日と様子が違うことは、玄関でのちょっとしたやり取りだけで気付かれてしまったらしい。
「いや、そんなことないと思うが。それより、スマホだろ。膝枕した時なら、リビングだよな。とりあえず探すか」
「……うん」
一先ず落ち着いて話を逸らす。ここで「膝枕」を噛まずに言えた自分を今だけは褒めてやりたいと思った。
探すと言っても昨日の時点でテーブルの上に普通に置いてあったそのスマホは何の手間もかからずに見つかった。
「あ、普通にあるじゃん! もう、こんなに普通に置き忘れるなんて……」
「悪いな。俺も見慣れてたせいか、普通に置いたままでも気付かなかったわ」
「なるほど確かにそれはあるかもね。基本的にいつもこの辺りにスマホ置いてるし」
「な。気づいてれば届けたんだが……」
何とか普通にやり過ごせている、よな?
大丈夫、大丈夫だ。
「いや、今日みたいな日はわざわざ届けてもらわなくても大丈夫だけど……」
内心で自分を落ち着けている俺を傍目に、サッとスマホへ目を通していく夏葉。
俺は夏葉の視線がスマホに向いているうちに彼女に背を向けて、もう一度軽く深呼吸をした。
「うん。特に緊急の連絡もなさそうだったし、問題なし。じゃあ、勉強しますか」
「おう」
よし、とりあえず切り抜けたな。と、俺が安心して姿勢を戻せば――。
「と、言いたいところだけど、流石にツッコませて。今日、何かあるの? さすがにその恰好を無視はできないよ」
いつの間にかすぐ後ろに立っていた夏葉が俺の足元から顔までをゆっくりと見上げながら、そう言ってきたのだった。
「さてと、一体今日はどうしちゃったんですか? 龍樹サン?」
いつも通り向かい合う形でテーブルに座る。だが、その様相はさながら裁判官と被告人だ。一体何がどうしてこんなことになっているのかと言えば、恐らく俺の恰好が悪いのだろうが、それと今の状態がどうしてもつながって来ない。
「ちょっと……まともな服を着てみようかなと、思っただけだよ」
別に悪いことはしていないと思うのだが、被告人気分で答える俺。
「ふぅん。いつもはほぼジャージしか着てない龍樹が急にねぇ……。玄関で見たときはいきなり知らない人が出て来たかと思ったよ」
夏葉はびっくりしたんだからと、何故かちょっとお怒りのご様子だ。
「そんなに違うか?」
「違うよ! 制服だっていつもテキトーな感じに着てるのに今日は――」
俺のぼやきに勢いよく反応してきたかと思えば、語尾に近づくに連れて段々と語気が弱くなっていく夏葉。
そんな様子を不思議に思って夏葉の顔を見てみれば、何故か微かに顔が赤くなっていた。
「今日は……なんだよ?」
いきなりそんな顔を見せられたせいか、俺の方が恥ずかしくなってしまい、ぶっきらぼうに続きを問う。
「……ねえ、これ、膝枕の意趣返しとかじゃないよね?」
すると、ふぅっと大きく息を吐きだした夏葉が真剣な顔をして聞いてきた。
「……ん? 意趣返しって?」
それに対して俺は全く意図するところが分からずにそのまま聞き返す。
「はぁ……」
すると、夏葉は大きくため息を吐いて、前のめりになっていた姿勢を一度直した。
そして意を決したとでも言うように今一度俺としっかり目線を合わせる。
「今日は……その……すごいカッコいいよ」
一言一言を噛み締めるように言い放つ夏葉。
それを聞かされた俺は、急すぎるその発言に思考が宇宙へ跳んだ。
◇◇◇
朝の九時前。まだ早いかも、と思ったが、忘れたスマホも気になることだし、と自分に言い訳をして私は龍樹の部屋のインターホンを押した。
ちょうど近くに居たのだろうか? ほとんどラグを感じないタイミングで龍樹が応答する。
「すぐに開けるよ」
その声は全くのいつも通りで、私は安堵するとともに少しだけショックを覚えていた。
昨晩の私と言えば、恥ずかしさやら興奮やらでテンションがおかしくなってしまい、なかなか寝付けなかった。今朝も目覚ましより先に目が覚めてしまったし、いてもたってもいられずこうしていつもより早く龍樹の部屋にやって来てしまうほどだ。
だと言うのに、昨日膝枕までした相手である龍樹はと言えば、特に変わりのなさそうな声をしていたのだ。
上がっていたテンションが徐々に引いていくのを感じる。
そうだ、私は何を一人ではしゃいでいたのだろう。相手はあの龍樹だ。
確かに膝枕では照れてくれていたようだが、そんなもの同級生の女子にされれば誰だって照れるだろう。それもいきなりなのだ。照れない方がおかしい。
「はぁ……」
龍樹の声で冷静に戻った私は一気にやって来た現実に思わず落胆のため息を漏らしてしまった。
ちょうどそのタイミングで内側からドアを開錠する音が聞こえ、私は咄嗟に表情を引き締める。
そうして開けられたドアになるべくいつも通りを装って声を掛けた。
「あ、龍樹。おはよ……う?」
だが、言い切る直前、私を迎えてくれた龍樹の顔を見た途端、思わず一瞬硬直してしまう。
目の前に現れたのはいつもの龍樹とは似ても似つかない恰好をした好青年。
お洒落には全く興味がない龍樹からは考えられないような、シンプルでもしっかりと背格好にあった服装で、どことなく髪にも艶があるような気がする。
顔と声はいつも通りなのに、服が違うだけでこんなに変わるんだと驚きながら、少し感心してしまった。
「おはよう、夏葉。入らないのか?」
「え、あ、いや……お邪魔、します?」
なんて、そんな風に感心していたせいで思わず口調が丁寧になってしまった。
このままでは良くない。どういう風邪の吹き回しかは分からないが、このままでは昨日のように興奮のままにぬか喜びする結果になってしまいかねない。落ち着いて、風見夏葉。
大丈夫、大丈夫。
自分にそう言い聞かせた私は、とりあえず会話で場をつなごうと話題を探す。
そして咄嗟に私の口から出たのは昨日のスマホのことだった。
「あ、そうだ。龍樹、私のスマホ知らない? 昨日置いて行っちゃったみたいでさ」
予想よりも案外すんなりと私の口を吐いた言葉に内心安堵する。
「スマホ? 悪い、見てないな。ウチにあったか?」
そう答える龍樹はやっぱりいつもとは別人のように見える。
別にいつもが格好悪いと言うつもりはない。何せ……その……好き、な人なのだ。普段の身だしなみに無頓着な姿もそれはそれで良いと思っている。
だが、こればかりはそう言う問題ではないのだ。
他人のことはあまり詳しくは分からないが、好きな人がお洒落な恰好をしている。それも何の脈絡もなく、急に。そんな状態でいつも通りと言うのはかなり難易度の高いことだろう。
そう思うと……なんだか少し腹が立ってきた。昨晩に引き続き、私だけこんな風に意識させられて――と、考えていれば私の脳裏に昨晩の照れた龍樹の顔がよぎる。
そうだ、私ばかり振り回されていては不公平だ。
そう思った私は努めて平静を装いながら、
「うん、昨日膝枕したでしょ? その時にポッケから出してそのままだったんだよね」
会話の中で自然と膝枕のことを口にして昨日のこと思い出させる。
すると龍樹の方が僅かにビクンと跳ねたのが見えた。
そんな龍樹の姿を見た途端、私の胸に湧き上がったのは少しの嗜虐心。
こんな朝早くから私をドキドキさせた罰だ、なんて、そんなことを考えながら私は聞いた。
「ねぇ、龍樹。なんか、あった? 今日ちょっと変じゃない?」
質問と言うより、断定の意を込めたこの言葉に龍樹がごくりとつばを飲み込むのが窺えた。
しかし、これだけでは龍樹の牙城を崩すには至らなかったらしい。
「いや、そんなことないと思うが。それより、スマホだろ。膝枕した時なら、リビングだよな。とりあえず探すか」
さらりと流しながら、自然と話を逸らされる。
ふーん、なるほど。そう来るんだ。
「……うん」
私はここでは流されるフリをしながら、内心で確信する。
どうやら、昨日のことで龍樹は私のことをしっかりと意識してくれているようだ。
そうと分かればもう少し小突いてみよう。
そう心に決めて、私はリビングの方へ足を向けた。
私のスマホは探すまでもなく見つかった。
私の忘れたスマホについて感想を募れば、どうしてこんなとこに忘れるんだという感想と、なんで気が付かないんだという感想が同じ数集まりそうなほど目に留まりやすい場所に置かれていた。
「あ、普通にあるじゃん! もう、こんなに普通に置き忘れるなんて……」
「悪いな。俺も見慣れてたせいか、普通に置いたままでも気付かなかったわ」
「なるほど確かにそれはあるかもね。基本的にいつもこの辺りにスマホ置いてるし」
「な。気づいてれば届けたんだが……」
「いや、今日みたいな日はわざわざ届けてもらわなくても大丈夫だけど……」
龍樹と軽口を叩き合いながら一晩放置したスマホを確認していく。
悠月からお節介なメッセージが二件ほど届いていたが、それ以外には特に変わったところはなかった。
そんな確認をしていれば、何故か龍樹が私に背を向けた。
そしてその顔の方に目を向けてみれば、恐らく深呼吸をしているであろう姿が目に入った。
その姿を見て、私はここだ! と思った。
「うん。特に緊急の連絡もなさそうだったし、問題なし。じゃあ、勉強しますか――」
「おう」
龍樹のすぐ後ろに立って、振り返りざまにバッチリ目が合うようにする。
そうすれば安心しきった表情の龍樹は無警戒にこちらを振り返った。
「と、言いたいところだけど、流石にツッコませて。今日、何かあるの? さすがにその恰好を無視はできないよ」
一度目を合わせてから、もう一度足元から見上げていくようにしてその全身を見ていく。
意趣返しのつもりか何なのかは知らないけど、私だってやられっぱなしじゃいられない。しっかりと言葉にさせて、今度こそ龍樹に意識してもらおう。
「さてと、今日は一体どうしちゃったんですか? 龍樹サン?」
気持ちはさながら裁判官。龍樹の内心を何としても暴いてやろうと口調にもノリが現れる。
「ちょっと……まともな服を着てみようかなと、思っただけだよ」
龍樹は私からスッと視線を外しながら答える。
「ふぅん。いつもはほぼジャージしか着てない龍樹が急にねぇ……。玄関で見たときはいきなり知らない人が出て来たかと思ったよ」
私はそんな外された視線を追いかけるようにしながら少しだけ自分の感情も見せてみる。これはある種の駆け引きだ。龍樹は真面目な性格。素直な相手には素直になってくれるだろうという経験則から私はそう言ってみた。
すると、龍樹は少しだけ嬉しそうにして言う。
「そんなに違うか?」
あまり見たことのない顔。
嬉しそうで、でもどこか恥ずかしそうに照れていて、そんなもどかしい表情が何とも私の心をくすぐった。
「違うよ! 制服だっていつもテキトーな感じに着てるのに今日は――」
そのせいだろうか。抑えていた感情が予想以上に言葉に乗ってしまい、言うつもりのなかったことのごく手前までを口にしてしまった。
顔がカッと熱くなる。
そしてそれを察したかのようにこちらを向き直った龍樹が私の顔を見た。
「今日は……なんだよ?」
そして何故か私と同じように顔を赤くした龍樹が再度顔を背けながら言葉の続きを促してくる。
そんなぶっきらぼうな反応をしてくる龍樹を見て私は思った。ここだ、と。
「……ねえ、これ、膝枕の意趣返しとかじゃないよね?」
念のため、あと、逃げ道を塞ぐ意味を込めて、そう確認する。
「……ん? 意趣返しって?」
すると、一体何の話だ? とでも言いたげな顔でそのまま質問が返って来た。
「はぁ……」
これだから……でも、変わるために。
この鈍感男に、明確に私のことを意識してもらうためには、私から動かなければだめだ。
腰を深く座りなおし、正面の龍樹としっかりと目を合わせる。
怖がるな。昨日の照れた顔を思い出せ風見夏葉。大丈夫、相手は龍樹。私の好きな人は絶対、私のことを無下に扱ったりはしない。
「今日は……」
もつれそうになる舌をゆっくりと動かしながら、確実に言葉を紡ぐ。
「その……」
告白するわけじゃないんだ。大丈夫。素直な感想、感情を見せるそれだけ。
そう自分に言い聞かせて、噛み締めるように最後の一言を口に出した。
「すごいカッコいいよ」
言い切ってからギュっと目を瞑る。
やっぱり怖い。
龍樹は普段から私のことを軽々と綺麗だとか美人とか言ってくれる。けどそれは軽口。
私のこれは本心からの本音だ。
だから、どんな反応が返って来るのか、すごく怖くて目があけられない。
………………。
………………。
………………。
しかし、いつまで経っても返ってこない反応に、恐る恐る目を開けてみれば――
「……え⁉ ちょっと、龍樹⁉」
そこにはぽかんと口を開けたまま瞬きすらしなくなった龍樹が居た。
◇◇◇
ぺちぺちと頬を触られる感触で俺は思考の宇宙旅行から帰還することが出来た。
「龍樹? ちょっと、大丈夫?」
耳元に聞こえて来るは先ほど俺の思考を凄まじい衝撃でトばして見せた夏葉の声。
なんだ? 何を言われた?
脳が受けた衝撃を数十秒遅れで処理していく。
いや、言語的に理解はしている。だが、そう言う問題ではない。
……落ち着け、落ち着くんだ。
カッコいい、別段特に変わった言葉ではない。
普通に生きていればどこかしらで耳にするし、自分で口にすることもあるだろう。だが、こうして正面を切って言われるということは珍しい言葉でもある。
それに……さっきの夏葉の姿を思い出す。
照れて逸らしそうになる視線を何とかこちらへ戻し、テーブル上に軽く置かれていた手には力が入り、僅かに震えてすらいた。
そんな姿を見ていなければ、いくら昨日自身の感情を自覚した俺だろうと意識が飛んだような感覚に見舞われることもなかっただろう。
だが、夏葉のソレは正しく内に秘めたる内心を告白するような口ぶりで、冗談だと受け流せる類のものではなかった。
「た、龍樹? ほんとに大丈夫?」
一瞬だけびくりと身体を動かしてから再び動いていなかった俺の顔を今度は覗き込んでくる夏葉。
……これもう、わざとか? いや、夏葉に限ってそんなことはないだろうけど、これが素なのだとしたら、それはもうモテるだろう。
「ちょっと顔洗ってくる」
「え? きゃっ!」
夏葉にぶつからないように、しかし出来るだけ早く椅子を引き、勢いよく立ち上がると俺は洗面所へ飛び込んだ。
「龍樹⁉」
急にどうしたの? という夏葉の声には耳を貸さずに勢いのままに俺は水を被った。
飲むにはぬるく感じるこの水道水も表皮に浴びれば十分に冷たい。
今はこの冷たさが思考の冷静さを取り戻してくれることを願って俺は二度、三度と繰り返し顔に水をぶつけた。
水が跳ねることも、足元まで水が垂れてくることも構わずに水を被っていると鏡越しに夏葉が洗面所に入って来たのが分かった。
「ちょ、ちょっと龍樹! ストップストップ! もうびしゃびしゃだから!」
洗面所の惨状を目にした途端に俺を止めに入ってくる夏葉。
おそらく彼女も咄嗟だったのだろう。俺の両腕を背後から掴み止める形で夏葉は俺を押さえた。
すると、体勢はどうなるだろう? そう、まるで後ろから抱きしめているようなそんな体勢になった。
動きを止めた俺と俺を押さえる夏葉の目が鏡越しにバッチリと合う。
そしてその視線は二人して現状把握に動き……俺たちの頬は同じくらい赤く染まっていた。
「……悪い、夏葉。ちょっと取り乱した」
「……う、うん。とりあえず着替えたら? 服びしょびしょだし。洗面所は私が拭いておくから」
「あ、ああ。悪い。すぐ着替えてくる」
悪いと思ったが、このまま洗面所に二人でいても気まずくなること間違いなしだったため、俺はその場を夏葉に任せ、自室へと戻った。
姿見を見る。
そこに映るのは前髪までびしょびしょに濡らした俺の姿。
何をやっているんだ俺は……。
大きく水の跡を残したシャツを脱ぎ、いつもの部屋着へと着替える。ズボンも足首の辺りが濡れてしまっていたので、一緒に着替えた。
タオルを引っ張り出し、髪も拭く。
大体の水気が取れるまでごしごしと拭いていれば、せっかく綺麗に梳かした髪もいつも通りへと落ち着いた。
……急に色々とやりすぎたか。
着替えが終わり姿見に映ったいつもの自分を見て呟く。
身だしなみを整える程度、普通の人からすればそう大がかりなことではない。
しかし、こうして普段通りにしてみれば、今朝からずっと高鳴っていた心臓も夏葉に良く見られたいという感情も段々と落ち着いてきた。
よくよく考えてみれば当然かもしれない。
俺と夏葉はもう、一緒に居ることが普通で、当たり前になっていた。
素を見せても、少しだらしない姿を見せても、笑い合える関係。
そんな状態の俺たちに違和をもたらしたとすれば、それは今日の俺の服装だろう。
もちろん、昨晩の決心に、夏葉に釣り合うようになりたいという感情自体が変わったわけではない。
だが、今はそれ以上に夏葉との今の関係を狂わせたくないという俺がいる。
張りつめていた心に余裕が生まれたような気がする。
きっとこの余裕はさっきの夏葉の言葉が由来なのだろう。
そう考えれば、急な身だしなみも悪さばかりをしたわけじゃなかったな。
そうだ、焦ることはない。
慢心はしない。自分も磨く。だが――
――その過程で心地よさを捨てるようでは意味がない。
もっとゆっくり、一歩ずつ確かめながら、自分を高めて行こう。
きっとその方が、ためになる。
自室とリビングを隔てる扉に手を掛け、開く。
「あ、いつもの龍樹だ」
すると、目を合わせて一言目に夏葉はそう呟いた。
「悪いな。洗面所の後処理任せちゃって」
言葉にも緊張は宿らない。
「ううん。大丈夫。使ったタオルは洗濯籠に入れちゃったけど、せっかくならさっき濡れた服と一緒に洗ったら?」
「そうだな。洗ってくるわ」
「うん」
そうだ。これでいい。確かに俺は夏葉が好きだ。
だが、俺が好きなのはやっぱり、みんなにモテる風見夏葉ではない。
素を晒し、一緒に居ればどこか肩の力が抜けて行くような、そんな雰囲気を纏う夏葉なんだ。
なら、俺もいつも俺を、普段通りの八峰龍樹を好きになって貰えるように頑張るべきだ。
濡れた服を洗濯ネットにいれ、テーパードパンツと夏葉の言っていたタオルも一緒に洗濯機に入れる。洗剤と柔軟剤を目分量でサッと流し込み、慣れた手つきで洗濯スタートのボタンを押した。
この一年半で染みついた動作。
俺の普段通りが段々と確かな実感を持って、身体に戻ってくる。
「さて、ちょっとドタバタしたけど、勉強会、始めるか」
リビングへと戻り、夏葉の方を見て言う。
「そうだね。あ、一応サンドイッチ作って来たんだけど、食べる?」
「お、じゃあ食べながら世界史の問題でも出し合うか」
「ちょっとお行儀は良くないけど……まあ、いっか! いいよ、受けて立つ」
「ははっ」
「ふふっ」
笑い合いながら夏葉の正面へと腰を掛ける。
まだ、俺の胸には確かな炎が灯っている。
だが、それは先ほどまでのような激しい強火の炎ではない。柔らかく、それでも確かに熱いそんな焚火のような炎だ。
「こっちがツナときゅうりでこっちはジャムサンドだよ」
「美味そうだ。いただきます」
「召し上がれ」
サンドイッチを手に取り、昨日片づけずにそのままにしておいた教材の山から世界史の一問一答集を取り出す。
「じゃあ、ルネサンス期の……」
「そこ、今回の範囲じゃないよ」
「まあ、復習ってことで」
「歴史系も確かに復習は大事だけど、せめて地域くらいは合わせないと混乱するよ」
「……それもそうか」
気が付けば、すぐにいつも通りが訪れる。
そうだ、これでいい。
こうして、俺たちの勉強会は一時慌ただしい出来事に見舞われるも、ゆっくりと始まるのだった。
◇◇◇
夏葉の作ってきてくれたサンドイッチを食べながら世界史の問題を出し合うこと三十分と少し。すっかりサンドイッチも食べ終わり、お互いに問題にひねりを加え始めた所で無機質な機械音が洗面所の方から響いてきた。
「お、洗濯終わったか」
「じゃあ、三十分くらい経ったね。結構問題出し合えたんじゃない?」
「そうだな。一旦干してくるから休憩しててくれ」
「手伝うよ?」
「タオルと服二枚なんだから手伝ってもらうほどじゃないって」
「それもそっか」
夏葉の返事を聞きながら洗面所の方へ向かい、洗濯物を取り出してベランダへ向かう。
窓を開ければ、もはや夏と言われても信じてしまえるほどの熱気に梅雨を控える時期特有のムンとした高い湿度に全身が包まれる。蒸し暑く感じるほどではないが、こうして晴れているなら、どうせならカラッと晴れて欲しいものだ。
なんてことを考えながらタオルとシャツをハンガーにかけ、ズボンはピンチ付きのハンガーに留めて干すと早々に窓を閉めた。
「なんか今日、すごい熱い日らしいよ。勉強会にして正解だったね」
俺が干し終わったことを見計らってスマホで天気予報を見ていたらしい夏葉が声を掛けて来た。
「やっぱそうだよな。今、少し外に出ただけで若干汗かいた気がする。まあ、なんにせよ再来週……いや、もう来週の月曜日からはテストなんだからなんだかんだで勉強会になってた気がするけどな」
「確かにね。そう言えば龍樹は今回のテストの目標とかある?」
洗濯籠を洗面所へと置いて、夏葉の向かい側に戻ってきた俺にそんな質問が投げられる。
なるほど目標か……。
「うーん、そうだな。今のところ明確な苦手はないし、二十番以内とかかな」
俺たちの通う私立松波高校は一学年八クラス程度のいわゆる普通高校だ。
しかし、スポーツには力を入れていることもあり、うち二クラスはスポーツ科、残りの六クラスが普通科となっている。
学年全体では確か二百五十名程度が在籍しており、大体五十人がスポーツ科の生徒だと考えれば、俺の目標の二十番以内とは普通科内での上位十パーセントを指すことになる。
「おお! 二十番以内! 珍しく結構やる気?」
「まあ、メインは一年時の総復習だって話だし、これまでも定期的に勉強してきたからな。そう言う夏葉は? そろそろトップ狙いか?」
「トップは流石に……けど、龍樹がそんなにやる気出すなら、私もトップ十くらい狙っちゃおうかな」
「おお! って……いや、まて。一年の三学期期末、夏葉六位とかじゃなかったか?」
「……てへ」
「こんにゃろ。夏葉は五位以上を目指して頑張れ」
お茶目を装って軽く舌を出して見せる夏葉に無責任にそんなことを言う。
だが、夏葉なら五位以内だって全然狙えるはずだ。
「じゃあ、今日から勉強漬けだね」
そう言うと夏葉はスマホをいつもの位置に置き、長い髪を腕に付けていたヘアゴムでまとめる。すると途端に彼女の纏う雰囲気が変わる。
そして俺より一足先に勉強モードになって問題を解き始めた。
夏葉はかなり勉強が出来る。
どのくらいかと言われれば、一年の夏休みに一緒に勉強をするようになってから八十番台で燻っていた俺の成績が五十番以内が固くなるほどには出来る。
夏葉自身の成績で言えば、一年生の頃の一学期のことはあまり覚えていないが、夏休み明けからは基本十番台前半から一桁後半あたりをうろうろしているイメージだ。
そんな彼女に釣り合うようになるために少しでも高い目標を達成したい。個人的ないつも通りを崩すのは先ほどのような事態を招きかねないが、付属的な要素を高めるのはいつも通りを崩す要因にはならないだろう。目の前で真剣に問題集へと向かう夏葉を見ながら俺も夏葉と同じ数学の問題集を開き、筆箱でページを押さえると目の前の夏葉を倣って解き始める。
数学は嫌いではない。
現状以上に難しいものについては分からないが、現時点の問題には必ず解き方が存在し、いくつかの公式こそ覚える必要はあれど、その他は解き方にさえ辿り着ければあとは計算ミスに気を付けるだけだ。
もちろん、その公式を覚えるのが難しいのだが、それこそそこは努力次第と言うところだろう。
シャーペンがノートを滑る音だけが耳に響く。
時折挟まれるシャーペンのノックの音とページをめくる音が心地よくなる。
そんな風に音を感じられるようになってくると俺は集中が出来ている気がする。
問題文がするすると頭に流れ込み、ノートを走るペン先ではみるみる芯が減っていく。
そして、開いたページの問題を一通り解き終わったところでペンをノートの中心へ向かって転がし、真上に大きく伸びをした。
「あ、終わった?」
すると、先に問題を一通り解き終わり俺の終了を待っていたらしい夏葉がそう言いながら自分のノートを差し出して来た。
「待たせたか?」
俺も自分のノートを夏葉の方へ差し出しながら聞き返す。
「ううん。十分も待ってない。やっぱ龍樹、数学得意だよね」
「いや、俺的にはそんなに得意なつもりもないんだが……どちらかと言えば国語の方が得意だし」
「でも、古文は苦手じゃん」
「うっ」
「ふふっ、まあ、取り敢えず答え合わせしよっか。間違えたとこは一緒に復習ね」
「分かってるよ」
痛いところを突かれながら、今度はペンを赤ペンに持ち替えて採点をしていく。
夏葉と勉強会をするようになって、俺の成績が大きく向上した理由がこの交換採点だ。
はじめはかなり抵抗があった。
誰だって間違えた問題を人に見せたくはないだろう。
しかし、夏葉は俺がどれだけ間違えても笑ったりしない。丁寧に教えてくれるし、二人して間違えればああだこうだと議論をしながら回答を理解できるまで一緒に考えてくれる。
そんな夏葉のおかげで間違えることへの恥じらいが小さくなっていくにつれて、俺の成績も向上していったのだ。
相変わらずの正答率。
英語に続き、夏葉のノートには数学でもミスというミスが見当たらない。
そして最後の問題までたどり着いたところで俺は勢いよく顔を上げた。
「やっぱ夏葉の方が数学得意だろ……ほらこれ、満点だったぞ」
「え! ほんと⁉ やったー! 龍樹ははい、これね。多分余弦定理の係数間違えてる。一個目でズレたからこの大問はやっちゃってるね」
夏葉は俺の採点を見て満足そうにしながら、俺の回答にはしっかりと忌憚のない意見をくれる。
夏葉からノートを受け取り確かめると、確かに図形問題の(1)を間違えた結果、残りの回答にも大きなずれが出てしまっていた。
「うわ、余弦定理のミスはまずいな。しかもこれ公式から間違ってんじゃん」
「まあまあ。今分かってよかったね。でも、それ以外は龍樹も完璧だったよ。ケアレスミスもなし!」
そう言って励ましながら、解答集の該当箇所を指さしてくれる。
俺は今一度しっかりと解説を読み、そしてもう一度今の問題に向き合う。
この勉強法が本当に良い。
個人差はあるかもしれないが、しっかり間違いを認め、その時点で理解できるように直すこと。勉強の鉄則はこれだと思う。
「……よし。これで、正解か?」
「うん! 大丈夫。でも、また夜に解いて見なきゃだね」
「おう。理解と反復だな」
「そうそう。分かったつもりが一番危険だからね」
そんなことを言い合いながら時計を見れば、時刻は十一時半に差し掛かろうかという所だった。
「意外といい時間か。数学はやっぱり時間食うな」
「そうだね。今度は時間測りながらテスト形式でやろっか」
俺が時計を見ながら呟けば、完全に勉強モードの夏葉は次の計画を立てている。
だが、俺が時間について発言したのはそう言う意図ではない。
「そうだな。と、まあ、それは良いとして。どうする昼は?」
「あ、そっか、もうお昼だね。龍樹お腹空いた?」
完全に忘れていたとでも言いたげな顔で呟くと、改めて俺にそう聞いてきた。
「んー、そうだな。空いていないこともないって感じ。夏葉がまだいらないならもう少し後でもいいか」
「大丈夫? 私はまだそんなにお腹空いてないから、そうしてくれるとありがたいけど」
「問題なし。じゃあ、次はどの教科やるか」
「生物はどう? これは完全に二年生になってからの範囲しかないし。六十分で練習問題解くとか」
「ありだな。そうしよう」
「よし、じゃあ、時間測るね!」
夏葉はそう言って置いてあったスマホでタイマーをセットし、俺にも時間が確認しやすいように横に向けて置いてくれる。
「準備おっけー?」
「おっけーだ」
「よし、じゃあ、スタート!」
夏葉がタイマーを動かし始めると同時に生物の問題に目を通していく。
生物は理科だが、どちらかと言えば暗記科目に近い。化学や物理のような計算はないため、覚えてさえいれば特に苦労することなく解き進めることが出来た。
サクッとすべての問題を解き終える。
二つ程思い出せない物があったが、それに関してはもう仕方がない。時間いっぱい思い出せるように努力はしてみるが、しっかりと問題に印をつけて、後で復習できるようにしておく。
そして一通り見直しも終わり、タイマーを確認してみれば経過時間は四十分に辿り着こうかと言う所。
分からない問題は潔く飛ばしたおかげか、見直しをしても二十分も時間が余ってしまった。
邪魔をしないように夏葉の方に目を向けてみれば、夏葉はまだ問題を解いている途中なのか、ペンの先でノートをトントンと叩いている。
……髪を一つにまとめた夏葉はいつもの清楚美人系とはまた違い、どこかスポーティーな雰囲気を纏っている。しかし、表情やしぐさはどこか知的で……簡単に言えばすごくきれいだ。
視力は良かったはずだが、この様子なら眼鏡をかけても良く似合うのではないだろうか……と、俺は一体何を考えているんだ。
頭を過った眼鏡姿の夏葉をかき消しながら、そっと視線をタイマーの方へとスライドする。
経過時間は四十三分と少し。
まだ後十五分か……なんて考えながら視線を自分の問題の方へ戻そうとした時だった。
夏葉のスマホが震える。
そしてその上部には、昨晩も見てしまったメッセージアプリの通知が届いていた。
俺と夏葉の視線がその通知に集中する。
そこに表示された内容は――
「そういえば、デートとかってしたことあるの?」
「お弁当作ってあげるくらいだし、当然かな? 笑」
立て続けに二件そんな内容のメッセージが表示された。
さすがの夏葉もペンを放り出し、パッとスマホへ手を伸ばした。
そして、ジッとこちらを見て一言。
「見た?」
どうすべきだ?
一瞬の逡巡。ここで見てないと答えた場合、それはおそらくこの場をやり過ごすことは出来るだろう。夏葉も外面では言葉のままに受け取ってくれるはずだ。
しかし、人間とは外的な要素のみで構成されるものではない。確実に夏葉の内心には見たよね? 気を使ってくれたのかな? という疑念が残るだろう。
それはいつも通りを望む俺からすれば、好ましい結果ではない。
ならば、答えは一つ。
「……見た、すまん」
正直に言うこと、そして謝ること。
今回とて状況的に致し方ない状況ではあった。だが、感情と状況はまた別の話。
悪気がなくても不利益を与えれば謝るべきだ。
「いや、通知を切ってなかった私が悪いから、良いんだけど……」
気まずい沈黙。
せっかく早朝の気まずさが抜けていつも通りが戻ったところだったと言うのに、これでは逆戻りだ。
「とりあえず、生物解き切ったらどうだ? そんなあれじゃないかもだけど」
「……うん。あと十五分くらいだったよね」
「ああ、とりあえずタイマーは俺のスマホの方にしとくな」
「ありがと」
いそいそとポケットからスマホを取り出し、十五分にセットしてテストをリスタートさせる。
再びペンを手に取り問題に向かい始める夏葉。
だが、その姿は心なしか集中しきれていないように見えた。
十五分が経ち、タイマーのアラームが鳴る。
ギリギリまでペンを置かなかった夏葉がフッと息を吐いて伸びをした。
「じゃあ、採点頼む」
「こっちもお願い」
通例通りお互いの回答を交換し、採点をしていく。
小気味良く赤のボールペンがノートの上を滑っていく。
しかし、終盤に差し掛かって夏葉の正答率が急に下がった。
それまでは確実に正当を重ねていた夏葉だったが、恐らくあの通知以降の回答がボロボロだ。
「龍樹、すごいじゃん! 間違えたのは飛ばしてあった一個だけだよ」
口調は普段通りの夏葉が先に採点を終えたようで、そう言いながら俺のノートを返して来た。そしてそのままの流れで夏葉は自分の回答を見て――
「……やっぱ、集中切れるとダメだね」
そう呟いた。
「ま、まあ、さっきのは不幸な事故だったし、いつもの調子なら大丈夫だとは思うが……」
俺も夏葉にノートを返す。
点数に起こせば、俺は九割越え、夏葉は七割に届くかどうかと言う結果。
これが逆ならかなりいつも通りなのだが、やはり、それだけ夏葉のいつも通りは崩れてしまっているということだろう。
夏葉は俺から受け取ったノートをジッと見つめている。
……何か言った方が良いだろうか?
いや、ここは敢えて俺だけでも普段通りに振る舞うべきか?
ぐるぐるぐるぐると取り留めのない思考が脳を染め上げて行く。
だが、どれだけ考えた所でこの状況を打開する策を思いつくことはなかった。
ならば、
「夏葉、飯にしよう」
未だ、ノートを見つめたままの夏葉に俺はそう声を掛ける。
「え、あ、うん。いいけど……何食べるの? と言うか食材あったっけ?」
「とっておきが残ってる」
「え?」
不思議そうな顔をする夏葉に座って待っててくれと伝え、一人でキッチンへ向かう。
そして、最近は空けていなかった部分のキッチン収納を開けた。
中から二人分の箱いや、カップを取りだす。
夏葉と一緒に過ごすようになってから、どれだけ簡単な物でも二人で料理をすることが多かった。とは言え、俺に作れるのは家にある具材を鍋で煮込んだだけの鍋やら、市販のソースをかけたパスタ、揚げ焼きにしたから揚げ程度。
それも、本当に夏葉と過ごすようになってから覚えたものだ。
では、それ以前の俺は何を食べていたのか?
その答えが、これだ。
最近は使っていなかったやかんに水を入れコンロにかける。
沸くのを待つ間にカップの蓋を半分ほど開けて、中のかやくやらスープの元やらタレやらを取り出した。
チラッと夏葉の方を見てみれば、珍しく心ここに在らず、と言った様子でぼうっとしていた。
カタカタとやかんの蓋が震えだし、沸騰を告げる甲高い音が静寂な部屋に響く。
スープの素をカップに空け、上からお湯を流し込んだ。
スマホで五分のタイマーをセットし、スタートする。
そして俺は二つのカップ麺をお盆に載せ、夏葉の待つテーブルまで運んだ。
「……カップ麺」
「カップ麺だ」
「なんか、意外かも。龍樹ってこういうの食べたっけ?」
「ああ。夏葉と会うまでは三日に一食はこれを食ってたな」
俺がそう言えば驚いた顔をする夏葉。
「俺たち、結構一緒に居るけどさ。意外と知らないこともあるし、言ってないことだってある」
昨晩、メッセージを覗いてしまったことと先ほどのこと、その両方への謝罪と、対等な関係を目指して語る。これは一方的な押し付けだ。しかし、今はこうすべきなんじゃないかと、俺の中の何かが言っていた。
「これはさ、このカップ麺は中学の時に食べるようになったんだ。あんまり話したことなかったけど、母さんが亡くなってな。それで色々あって、バタバタした中で親父が買って来たんだ。それから結構好きでさ」
あくまで軽めに。でも、これは今まで俺が話してこなかった話をする。
一から百まで全て自己満足だ。しかし、フェアに、これからもいつも通りを夏葉も望んでくれるなら、この話を聞いて欲しいとそう思った。
「……そっか。……ごめん、気を使わせちゃったね」
夏葉が力なく笑う。
でも、その表情には先ほどのような取り繕った感じはない。
「いや、聞いて欲しかっただけだよ」
「ふふっ、優しいよね。龍樹は」
なり始めたタイマーを止める。
決して、真っすぐな言葉に照れた訳じゃない。
「さ、食おうぜ。意外と美味いんだ」
「うん。いただきます」
蓋を開ければ、油と特有の香りが部屋いっぱいに広がる。
ズズズっと一口すすれば、懐かしい味が胸に広がった。
夏葉も俺に続いてひと口すする。
「ほんとだ。意外とおいしい」
「もしかして、初めてか?」
「うん。インスタントラーメンは食べたことあったけどカップは初めて」
「そっか。あ、くどかったら言えよ? 無理して食うもんでもないから」
「ふふっ、大丈夫だよ。私の場合、無理なら無理しても食べれないから」
自然な笑みがこぼれだす。
そうだ、これでいいんだ。
お互いに気を使いすぎず、しかし、ちゃんと配慮もする。
そんな関係が心地よい。
カップ麺をすすりながら、俺は改めてそう思った。
しばらく二人でずるずるとカップ麺をすすり合う。
決して早食いをしているつもりはないが、こういう一人一皿の物を食べるとどうしても俺の方が早く食べ終わってしまう。
箸を置いてぼうっと夏葉を見つめる。
こうしていることも少なくないが、さっきの話然り、俺たちは意外とお互いのことを知らないのかもしれない。
釣り合い云々ばかりが先行していたが、それ以上に俺は夏葉のことがもっと知りたい。
俺が境遇の話をしたのは、状況や衝動的な面ももちろんあるが、俺のことを知って欲しいと思ったからだ。
テストが終わったら……。
「ねぇ、龍樹」
俺がそう思うとほぼ時を同じくして、カップ麺から顔を上げた夏葉が俺を呼んだ。
「どうした?」
「……テストが終わったらさ、で、デート、しようよ」
「おう、いい……え?」
条件反射的に了承しかけて言葉を疑う。
急にどうしたのかと夏葉を見れば、その顔は耳まで赤く染まっており、プルプルと震えている様子だった。
「……聞き間違いじゃ、ないみたいだな」
そんな様子を見せられては自分の頭を疑うことはできない。
これは現実だ。俺の楽観的な脳によって作り出された極めて都合の良い妄想、ではなく、物理的で完全な現実の出来ごと。
不意によぎるのは昨日と先ほどに見てしまったメッセージ。
これは……そう、思っても良いのだろうか?
「ど、どうかな?」
以降、固まったまま返事のない俺に夏葉が確認をしてくる。
その手元からは箸が置かれ、どうやら夏葉も食べ終わったらしい。
「……もちろん。行こうか」
俺の答えはもちろんイエス一択。
断る理由なんて一つもない。
「良かった。……ふぅ、緊張した」
ホッと胸をなでおろすような仕草を見せる。
デート、デートか。
仲の良い男女間にて、いや、昨今はその限りではないのかもしれないが、まぁ、基本的には男女間において用いられるお出かけの標語。
友達から夫婦間まで多様な関係に置いて用いられるそれだが、今回のデートが意味するところはつまり……。
先ほどの夏葉の緊張の面持ちが蘇る。
いつものちょっとしたお出かけや外食とは違う。明らかに次を意識した誘いだった。
と言うことは、だ。
俺からではなく、夏葉が俺のことをいつも通りにではなく、改めてデートに誘う意味。
それは、きっと……。
その思考に至った途端俺は自分の顔が茹でだこも顔負けに赤くなっていくのを自覚する。
今朝、かっこいいと言われた時とは別ベクトルの破壊力。
先の一件を意識外からの不意打ちだとするならば、今回のこれは明確に理解させる決め技。
思考の余地も残さぬほどの大振り。
「じゃあ、午後の勉強しよ。せっかくデートに行くんなら、二人そろって目標達成して、気分よく行きたいでしょ?」
気が付けば、俺と同じくらい顔を赤くしていたはずの夏葉はすっかりいつも通りを取り戻し、こちらのやる気をこれでもかと奮い立たせてくる。
「そうだな。よし、午後一発目は何から行く?」
「昨日からの消去法的に国語じゃない? あ、龍樹の苦手な古文からね」
「……いいぜ。受けて立つ」
「ふふっ、別に勝負じゃないよ」
「いいだろ。じゃあ、古文、漢文、現代文全部含めて勝った方はデートの時に相手に好きなことをさせられる権利を掛けて勝負、ってのはどうだ?」
「お、良いね! 何してもらおうかな」
「おいおい、現代文で俺に勝てるのか? 俺の唯一の得意科目に」
「今回は勝たせてもらうよ。そもそも龍樹は現代文は出来るけど今、自分で全部含めてって言ったのが間違いだったね」
カップ麵を片付けて軽く台拭きをしてから再び向かい合う。
卓上には国語関係の問題集と、丁度俺たちの中心には俺のスマホを置いた。
「じゃあ、始めるぞ?」
「いつでもいいよ!」
俺の手がタイマーのスタートボタンに触れる。
問題集をめくる音が重なる。
こうして俺たちの勉強会は色々と予想外の事態を起こしながら、だが、着実に進んで行った。
◇◇◇
――一週間後、五月四週目の月曜日朝。
八時前のいつもの時間にインターホンが鳴り響く。
俺はすぐに準備を終わらせ、鞄を肩に掛ける。
「おはよ。今日も準備できてるんだ」
「ああ。勉強も大事だが、テスト前は睡眠も重要だからな。昨日はしっかり早く寝て、朝から一限の最終確認してた」
「ふふっ、ほんとにやる気だね。それにやっぱり龍樹、ちょっと変わった」
俺の頭から足元までをゆっくりと見渡す夏葉。
その目に映る俺には寝ぐせもなければ、制服のヨレもない。
いつも通り、だが、身支度は今まで以上にきちんと整えられている。
「目標が出来たからな。少しはちゃんとしようと思ってさ」
「そっか。……あ、そう言えばあれは決めた?」
「あれって?」
「ほら、先週の日曜日からいろんな教科で勝負して、勝って負けての繰り返しでさ。結局デートでお互いに一つずつ好きなことさせるってことになったやつ」
悪戯っぽく、微笑を携えた夏葉が聞いてくる。
「いや、俺はテストが終わってから考えることにした」
「えー、そうなの?」
「ああ、今は目標に集中したいからな」
「む。それって色々と考えてた私が目標に集中できてないってこと?」
「そう言う訳じゃないけど……」
「ふふっ、嘘嘘。私も特に決めてない」
「なんだよ」
玄関前でのほんの些細なやり取り。
特に変わらないいつも通り。
だが、今の俺たちの間には確かに、繋がっているものがあるように思える。
「じゃ、行こっか。改めて、龍樹、目標は?」
先に一歩踏み出した夏葉が振り返り聞いてきた。「学年の上位十パーセント。二十位以内に入ること。夏葉は?」
「学年の五位以内に入ること!」
それだけ言い終えるとこちらに向かって夏葉は軽く手を上げた。
俺も、それに合わせるように片手を上げる。
「よしっ! じゃあ、今日から三日、がんばろー!」
「おう!」
パチンといい音のハイタッチ。
じんわりと熱を持った右手を固く握る。
今日も夏に顔負けな暑さらしい。
だが、それ以上に今は俺の真ん中で熱いものが燃えていた。
◇◇◇
「ったはぁ~、終わった……」
テストの終了を告げるチャイムが鳴り、解答用紙を後ろの人から回して回収をし終えたところで俺の横までやって来た篤人が複数の意味を含んでいそうな声を響かせた。
「終わったな。……その様子、今回は特別ダメだったのか?」
「いや、別に、いつも通りだけどさ。今回は一応夏予選の前だろ? 本番は夏休み前の期末だけど、その頃には練習試合とか多くなりそうだし、余裕を持っておきたかったなって」
「そう思うなら、普段から授業はちゃんと聞いておけよ」
「それはそうなんだけどさ~。今回は珍しく龍樹が面倒見てくれなかったから~」
くねくねと気味の悪い動きをしながら泣きごとを垂れる篤人。
確かにいつもはテスト前になると、放課後は篤人の勉強に付き合ったりしていた。
しかし、今回は、今回ばかりは断らせてもらった。
「それは悪かったな。今回はちょっと目標があったんだよ」
「大丈夫。元より、いつも龍樹のことばっか当てにしてたツケが回って来たようなもんだし」
「それはそう」
「うへぇ。でも、どうして急にそんなやる気なんだ? いつもだって悪くないだろ?」
不思議そうな顔で篤人が聞いてくる。
「まあな。ちょっと色々あるんだよ。頑張りたくなったっていうか、な」
言いながら、俺は視界の端に彼女の姿を捉える。
いつも通り仲の良い相田さんたちと談笑をしている彼女の姿。
「へぇ~、ま、何でもいいけどよ。いい顔してんじゃねぇか!」
バシンと背中を叩かれる。
「何すんだよ!」
衝撃で反射的に見た篤人の顔は何故かニヤついて居るように見える。
「……何だよ?」
「いーや、なんでも。けど……いい顔になってるぜほんと。あーあ、俺も彼女欲しいな~」
「か、彼女って。何の話だよ?」
「え、龍樹お前……バレてないとでも思ってんのか? 最近妙に身綺麗にしてるし、ここ数日はいつも一緒に帰ってた夏葉さんとも妙に話さなくなってたし、あーこれはって感じだぞ?」
「ち、違うからな。俺と夏葉は別にまだ……あ」
「ほぉう。まだ、ね。まだ。」
ニヤニヤと顔を歪めてこちらを見てくる篤人。
無性に腹が立ったので、篤人の脇腹を小突いておいた。
「まあ、ほんと、なんにせよ、だ。俺はお前が昔見た龍樹に戻ってるみたいで嬉しいぜ」
小突かれた脇腹を軽くさすりながら、いつも以上の爽やかイケメンフェイスで爽やかイケメンなことを言って見せる篤人。
「ぅるせ。お前は追試頑張れよ」
「なっ! 良いこと言ってやったのにお前! 俺が追試になったら、勉強教えてもらうからな!」
「どんな脅し文句だよ、それ」
テスト後の賑やかな教室で俺と篤人は笑い合う。
「昼はどうすんだ? 食ってから帰るのか?」
「いや、特に決めてないけど」
「じゃ、学食行こうぜ。俺はこれから部活だから付き合ってくれ」
「いいぜ。そうとなれば、さっさと行くか。テストの後の学食は混みそうだ」
「そうだな」
俺は篤人と共に学食へ向かいながら、夏葉にメッセージを送る。
「昼は篤人と学食で食べてから帰る」
するとすぐに既読が付き、オッケーと言うスタンプが返って来た。
◇◇◇
「夏葉~今回は気合入ってたね」
他の友人たちがそれぞれ解散していくタイミングを見計らって悠月が言った。
「そう? いつも通りじゃない?」
私はそんな悠月にいつも通りを装って答える。
スマホには龍樹からメッセージが届いていたが、特に緊急性のあるような話でもなさそうだったのでスタンプを一つ返すと、すぐに画面を消した。
「またまたー。ま、いいけどね。それで、夏葉、これから暇?」
「それは、うん。暇だけど」
「じゃあさ、今日はカフェいかない? 実は絵が行き詰っててさ。気分転換、付き合ってよ」
「いいよ。どこのカフェ?」
「駅前のとこ。もう少しすればお昼時も過ぎるでしょ? ちょっと空きそうじゃない?」
「確かに。お昼時は混んでそうだけど、過ぎれば入れそうかもね」
「よーし。じゃあ、行こー!」
テスト後の校舎を出て行く生徒たちの顔ぶれは皆どこか晴れやかだ。
もちろんその顔ぶれの中には私も含まれている。
悠月に誘われたカフェに向かう道中、私の脳内は珍しくテストのことで一杯になっていた。
無論、心配ではない。達成感だ。
私はそれなりに勉強が出来る方だ。今も隣を歩く友人のように入学当初より学年一位の座を譲っていない程ではないにしろ、自分がそこそこ上位に位置している自覚はあった。
「悠月は今回も一位取れそう?」
「ん~? どうだろうね? 夏葉に負けてなければそうかもね」
「え? 私」
世間話のつもりで悠月にテストの話題を振ってみれば、眼鏡越しにこちらを見透かしたような悠月がそんな風に返して来た。
「そう。夏葉。だって夏葉、普段テスト終わっても私にそんな風に言ってこないでしょ? だから今回は自信あるんだろうな~って」
雰囲気からも達成感が滲んでるぞなんて言って悠月は顔を綻ばせた。
「そんな……こと……」
「ない、とは言えないんじゃない?」
ジッとこちらを見つめる悠月。
本当にこの友人には敵わない。
「……降参、ちょっとテンション上がってた」
「ふふーん、まあ、結果が出るまでは夢を見るといいよ。天才悠月サマの壁は高いぞよ?」
「言ったな~。今回は私が一位を貰うんだから!」
あはは、と、楽しい声が木霊する。
「でも、夏葉がテストに自信を持つって相当じゃない? 何々、もしかしてテストが終わったら、何かイイことでもあるのかな?」
ひとしきり笑い合った後で、いつものにんまり顔をした悠月が尻すぼみに声を小さくして言ってくる。
「悠月、またおじさんみたくなってるよ」
「あー! 直接言った! 花のJKには絶対禁句の一言直接言った!」
「はいはいごめんごめん。でも、これくらいは言わせてもらわないと。悠月のせい、と言うかおかげで危うく大変なことになるところだったんだから!」
「ほう? 一体何があったのか気になりますな。……もしかして最近八峰くんと一緒に帰らなくなったこととか関係してたり?」
きらりと眼鏡を光らせて、探偵染みた仕草をして見せる悠月。
「……とりあえず、カフェ入ろ」
私は何も答えずに目前に見えて来たカフェへと少しだけ足を速める。
「はーい。じっくり聞かせてもらうからね~」
すると悠月も駆け足気味に後を追ってきた。
カフェの店内は物静かと言うよりは、昼過ぎになり、時間に余裕のある人たちがメインとなったことで騒がしく感じない程度の賑やかさがあった。
一歩踏み入れた瞬間からコーヒーの香ばしい香りが漂い、賑やかな中にも確かな安らぎを感じられる。
「テーブル席へどうぞ」
案内された二人掛けのテーブル席へ向かい合って座る。
二人してメニューを眺め、ああだこうだと言いながら注文を終え、私のコーヒーと悠月の紅茶が運ばれてきたところで話は先ほどの続きへ戻った。
「それでそれで。一体最近はどうしちゃったのさ? もしかして押してダメなら引いて見ろ作戦?」
妙に様になる格好で紅茶をすすったあとで身を乗り出して話を切り出す悠月。
「違うよ。テストに集中しようってことになっただけ。朝は一緒に来てるし」
実際は違う。悠月から送られたあのメッセージを見てしまったことをこの勘の鋭い友人に悟られたくなくてなるべく学校では話さないようにしていただけだ。あれからもテストの前日まで毎日勉強会はしていた。
「確かに。朝は一緒だよね。……っていうかさ、ずっと思ってたんだけど、夏葉って家、この辺じゃないよね?」
「え?」
急に何の話をされるかと思えば、家?
私の家は学校まで歩いて行ける距離なんだけど……と思っていると、悠月は続ける。
「まだ入学する前にさ、学校説明会みたいなのあったでしょ? その時夏葉のこと見かけてさ。着てた制服がこの辺の学校のじゃないな~って思ったことがあって」
「なるほど? でも、高校だし、そんなものじゃない?」
「まあね? だけど、夏葉、歩いて学校来るじゃん。それってつまりさ、一人暮らしってことだよね?」
「⁉」
なるほど。そう繋がるのか。
まさかこんな風に誰かに一人暮らしがバレるとは思わなかった。
「実はずっと怪しんでたんだよね。あの、夏葉が食べるの遅いことを八峰くんが知ってた時から」
「怪しむって。別に高校生だし、珍しくても聞かない話でもないでしょ」
「いーや。私が言いたいのはそう言うことじゃないんだよね~。夏葉と八峰くんさ、じつはご近所さんだったりするんじゃない?」
口調は疑問形だが、その表情は既に確信づいているかのような明確さを宿している。
まさか、そこまで見抜かれているとは。
少しだけ、誤魔化すことも考える。
しかし、なんだかんだと話しているうちに私の方がボロを出してしまいそうだ。
そう思った私は、
「……ほんと、天才を自称するだけはあるね。そうだよ。私と龍樹はご近所さん。偶に夜ご飯とか一緒に食べてるから龍樹は知ってたってわけ」
変に隠さず話すことにした。
ここに他の友人が居たらまた違う対応をしたはずだが、この相田悠月と言う友達には嘘は通じないし、嘘を吐きたくないと思った。
「ふっふー、そうでしょうとも! それで、八峰くんとは一体どうして距離を取っているのカナ? もしかして夜に秘密の逢瀬をしているから学校でボロを出さないように敢えて距離を取っているとか?」
またもおじさんくさい口調でニヤニヤと推理を披露する悠月。
だが、大体あっているので強く否定することが出来ない。
「……まあ、逢瀬というか勉強会だけど」
「ほほう!! 良いですな勉強会! そう言えば、あれから進展はありました? 家を知ってるならハグとか膝枕とかもっとすごいことしちゃったり?」
私が否定をしなかったのを見て、口元の笑みを一ミリも隠そうとしなくなった悠月が矢継ぎ早に質問を投げてくる。
「別に……特に何もないけど……」
「けど……?」
「ひ、膝枕はしたよ」
「うっひょ~! 美少女のデレ顔膝枕宣言いただきました!」
私が顔を逸らしながら言えば、大興奮の様子で鼻息荒く奇声を上げる悠月。
ちゃんと迷惑にならない声量なのは良いんだけど、悠月ってこんなキャラだったんだと私の中の悠月像が一挙に崩れた。
「それでそれで? 他に進展は?」
「ちょ、ちょっと一旦落ち着いて。他には特に……あ」
「その『あ』は何かあるやつじゃん! 聞かせてよ!」
「いや、その、まだ、何かあったわけじゃないんだけど」
「……」
悠月がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた気がする。
「今回のテストが終わったら、その、で、デートしようってことに」
「゛なっっっ!」
「ゆ、悠月?」
奇声と共に目を閉じた悠月の肩を揺する。
「何という青春! 夏葉、可愛すぎる!」
すると、再び目を開いたかと思えば今度は私の手を両手で包み込むようにして掴みそんなことを言ってきた。
「ちょ、ほんといきなりどうしちゃったの? 今日、様子変だって!」
その後もしばらく様子のおかしな悠月に可愛い可愛いと連呼され続け、流石に恥ずかしくなった私は急いで会計を済ませて、悠月を引っ張ってカフェを後にした。
「もう、悠月、そろそろ落ち着いた?」
駅前のベンチに腰を掛け、トランス状態の悠月に水を渡す。
「ご、ごめん。あまりに夏葉が青春し過ぎてて、私の中の青春センサーが振り切れちゃった」
青春センサーとは一体、と思ったが、敢えてツッコまないでおいた。
「落ち着いたなら、良いけど……っていうか、もとはと言えば悠月の気分転換に付き合うって話だったのに私が話すだけになっちゃったね。……なんかごめん」
「いいのいいの! と言うか、新鮮な恋バナなんて気分転換に最適だし!」
こちらに向けて手を合わせて「ごちそうさまでした」なんて言って見せる悠月。
まあ、気分転換になったのならいいけど……。
少しづつ日が傾いている。いつもならまだ授業を受けている時間だからか、よく通るこの駅前にも見かけない格好の人が多く見えた。
「……それで、話を戻すけど、デートってどこ行くの?」
深呼吸をして、いつもの雰囲気に戻った悠月がさっきの話の続きを始めた。
「え、まだ考えてないけど……龍樹と話して決めようと思ってたし」
「そっか~。八峰くんと夏葉ってお似合いだけどさ、どういう繋がりなの?」
「うーん、ご近所さん繋がり?」
「八峰くんの好きなものは?」
「……スポーツドリンク?」
「そ、そうなんだ。他には知らないの?」
悠月にそう言われ、少し考える。
龍樹の好きな物、か。スポーツドリンクだって聞いたことがあるわけじゃない。良く飲んでいるからそう思っただけだ。
そう考えると、私は意外と龍樹のことを知らないのかもしれない。
「……知らないかも。あんまり」
「そっか。じゃあ、私に出来ることはこれくらいかな」
「え?」
悠月はそう言うとベンチに置いていたスクールバッグからチケットのような何かを取り出し、こちらへ手渡してくる。
「はい、これ。もしよければ、だけど。近くの美術館の絵画展のチケット。脱スランプのために明日から通おうかと思っていっぱい取ったけど、そんなに要らないから」
「え、え? 悪いよこんなもの。ただでさえ、私の話聞いてもらってばっかりなのに」
「良いの良いの! 実は私は私で気分転換と共に脱スランプに繋がりそうなインスピレーションを貰ったから!」
そう言って悠月は半ば強引に私の手へ二枚のチケットを手渡して来た。
「もちろん、行かなくても良いからね! あくまで候補の一つとして考えてみてよ。好きな物を知らないなら思い切って二人とも全く知らないことに挑戦するっていうのもいいかなって。ほんとにそう思っただけだからさ」
「悠月……ありがと。龍樹と相談してみるね」
「うん! あ、でもほんとに気を遣ったりとか良いからね?」
「分かってるよ」
思わず笑みがこぼれる。
すると、悠月が珍しく少し真面目な顔をしてこちらをまっすぐに見つめて来た。
「ねえ、夏葉」
「なに?」
「……今度さ、家、遊びに行ってもいい?」
「……改まって何を言うかと思ったら、そんなこと?」
「そ、そんなことって。勢いで八峰くんとの関係とか暴いちゃったけど、ほんとはちょっと悪かったかなって思ってたんだよ」
「あははっ! 何それ! 私よりよっぽど悠月のが可愛いじゃん!」
「や、止めてよ! それで、いいの?」
「いいよ。悠月なら大歓迎」
「やったー!」
「あ、でも」
「え? なに?」
嬉しそうに笑う悠月に今度は私がにやけ顔を浮かべながら告げる。
「今度は悠月の恋バナ、聞かせてもらうからね」
「……そ、それじゃあまた明日ね~」
「絶対だからねー!」
そそくさと駅の方へ逃げて行く悠月の背中に声を掛けながら手を振る。
少し行ったところで悠月もこちらを振り返り、大きく手を振ってくれた。
私の手の中には悠月のくれた二枚のチケットが握られている。
「……もちろん、龍樹には聞いてみないと、だけど」
悠月が階段の先へ昇って行くのを見送ってから、私はそのチケットを詳しく見てみた。
どうやら人物画、風景、現代アートなど、様々な美術品が飾られているらしい。
普段なら、そこまで興味は持たなかったかもしれない。
けれど今日は、少し違った。
「ちょっと、行ってみたいな」
悠月の昇って行った階段の方をもう一度見る。
もうそこには悠月の影も見えないが、私の脳内にはその言葉が強く残っていた。
「好きなものを知らないのなら二人で新しいものに挑戦してみる」
確かに龍樹のことはもっと知りたいと思う。
だけど、龍樹と一緒に何かを好きになる、そんな瞬間を共有するのもすごく良いものだと私には思えた。
◇◇◇
篤人と昼食を取ってから、テストやら諸々について駄弁り、元気よく体育館へ走っていく姿を見送って、歩き慣れた道を一人歩く。
先週の月曜日から夏葉と別々に帰り始めて、いつの間にかあの部屋だけでなく、帰り道ですら夏葉がいないと途端に温かみに欠けるようになっていたことを実感する。
「さっさと帰るか」
感傷に浸るくらいならばつまらない帰り道など早く歩いてしまうに越したことはない。
偶には走って帰ってみるのも面白いかもしれない。
篤人にあてられた、と言う訳ではないが、これでも俺も元運動部。
考えれば考えるほど、今の自分がどのくらい鈍っているのかも気になってくる。
「……いや、ないな。ここは地元じゃないし」
だが、もうあと一歩で走り出そうという所で僅かに理性が好奇心を上回った。
俺の地元は見渡す限りの田畑、立っているものと言えば電柱に電波塔、カーブミラーに案山子と時間によっては自分以外の人が見えないこともざらだった。
そんな中だから鞄を背負ってどんなに不格好なフォームだろうと気にせずに走れたが、ここはそれなりな都会。いつもより早い時間で他校の生徒の影は見えないが、それでも多くの人通りがある。
そんな中を制服姿で走り抜ける勇気は俺にはなかった。
走り出すために背負い直した鞄をだらしなくかけ直し、早足で歩いて行く。
なんだかんだで、マンションはもうすぐだった。
「ただいま」
返事のない部屋に俺の声が響く。
リビングの方へ鞄を放り投げ、洗面所で手洗いとうがいを済ませるとちょうどポケットのスマホが震えた。
送信者は夏葉だ。
「私、今駅の辺りなんだけど龍樹はもう帰った?」
「俺はもう家。駅の辺りにいたんだな」
「そっか。私は悠月とカフェにいたよ」
「そっかそれじゃあすれ違ってたかもな」
「そうだね。あ、これから行くけどいい?」
「良いぞ。待ってる」
「はーい。じゃあ今から帰りまーす」
心なしか文面から楽し気な感情が窺える気がする。
何か良いことでもあったのだろうか?
カフェのメニューがおいしかったとか? それともテストの出来が相当良かったとかだろうか?
夏葉のことを考え出せば、自然と俺も頬が緩む。
先ほどまで感じていたこの部屋の冷たさも、まだ彼女が来ていないのにどうしてかもう充足感があった。
「ただいま!」
事前に鍵を開けておくことを伝えておけば、玄関から明るい声が聞こえて来た。
「おかえり」
出迎えに玄関まで足を向ければ、夏葉の右手には何やらチケットのようなものが握り締められていた。
「あ、龍樹。あのさ、これ」
夏葉はそのチケットをこちらに差し出してくる。
「今度のデートでさ、行ってみない?」
俺はその一枚を受け取り見てみると近くの美術館で行われる絵画展のチケットらしかった。
ふむ、美術館デートとは、中々趣深く感じる……じゃなくって、まずは――
「もちろん、良いぞ。絵画展とか行ったことないけど、面白そうだ」
目の前で緊張した面持ちの夏葉に言ってやれば、スッと緊張がほぐれて行くのが見て取れた。
「ほんと! 実はこれ悠月に貰ったんだ」
「なるほど。それで絵画展なのか」
俺は一先ず夏葉の荷物を受け取ると彼女が手洗いやうがいを済ませている間に荷物を移動させておく。
そして改めてその絵画展を調べてみた。
どうやら西洋美術の総合展らしい。テーマと言えるテーマは地域柄程度で中世より前に描かれた物から最近のものまでいろいろな作品を見ることが出来るらしい。
もちろん、その他美術館に飾られている従来の作品も見ることが出来るとのことだった。
「あ、その絵画展調べてみてくれた?」
洗面所から戻って来た夏葉がこちらのスマホを覗き込みながら聞いてくる。
「ああ、西洋美術だって。何がどういう風に西洋美術なのかは分からんが、勉強していった方が良いのか?」
俺は夏葉にも画面が見やすいようにテーブルへスマホを置きながら聞いた。
「いや、そんなこともないみたいだよ。悠月がね、言ってたんだよ。『二人で新しいものに挑戦してみるのはどうか』って。だから、逆に何も知らないまま行った方が面白そうじゃない?」
「なるほどな。確かに、そう言う楽しみ方もあるのか」
「うん。ふふっ、楽しみだね」
「そうだな。……けど、テストの結果によっては楽しめるものも楽しめなくなるかもだけど」
「もう、あんなに勉強したんだから大丈夫だよ! そうだ、自己採点する?」
「いや、どうせ明日から返ってくるものは返って来るだろうし、解答出てからの方が良くないか?」
「それもそうだね。解答がないと効率悪いもんね」
そう言いながら夏葉はいつも通り俺の正面に座った。
「今日はどうする? なんかしたいことあるか?」
「うーん……テスト明けだしな~特にこれってのはないけど……あ、そうだ! せっかく時間あるし、ちょっと遠くの大きいスーパーでお惣菜とか買ってさ、テストお疲れ様会しない?」
「おお、それはいいかもな」
夏葉の提案を聞いて時計を見ればまだ十五時過ぎ。今から買い物に行っても十七時前には帰って来れるだろう。それなら明日にも響かない程度でちょうどよさそうだ。
「じゃ、早速行こ!」
「おう、けど、着替えなくていいのか?」
「いいの! テストから解放されたんだから制服で自由にしたいじゃん」
「そうか?」
珍しくハイテンションな夏葉を追いかけて俺も玄関へ向かう。スマホに財布、鍵をしっかりと確認し、昨年のエントランスでの出来事の再来とならないようにエコバッグも持つと、俺たちは制服のままもう一度家を出た。
中学生の頃までは買い物を楽しいと思うことはなかったが、一人暮らしを始めてからは意外と面白いと思うようになった。行き慣れたスーパーは物の値段なんかを覚えていて、また値上がりしたな、だとか、お、安いみたいな発見があるし、慣れないスーパーでは陳列の仕方や売り出したい商品の違いが見られて面白い。
俺と夏葉がやってきたスーパーはいつも行くスーパーより一キロほど先まで歩いた場所にあるこの辺りでは一番大きなスーパーだ。
平日の午後ということで主婦やお年寄りの姿が目立つ。
そんな中に制服姿の高校生二人はかなり浮いていた。
「あ、あの辺りじゃない? 美味しそうだよ」
「ほんとだな。数品だけでも自分で作ろうと思ったら、かなり時間がかかりそうだ」
「ね。いつかはやってみたい気もするんだけど、平日じゃちょっとね」
「そりゃそうだ」
そんなことを言いながら俺たちは少しお高めのお惣菜を見て回りお互いに食べたいものを二三品ずつ選び取った。
「こんな感じで色々を少しずつ食べれるのって私からすると嬉しいんだよね」
「ああ、夏葉は食が細いもんな」
「体格相応だと思うけど」
「その辺りは俺がコメントして良い領分を超えてる気がする」
「あはは! 別に気にしないけどね。私は、だけど」
他にもいくつかのお菓子やらジュースやらを購入し、俺たちは帰路についた。
「なんか、制服なのに鞄持ってないのって違和感あるね」
「確かにな。でも、この前篤人の試合見に行った時もそうじゃなかったか」
「あー、確かに。でも、あの時は目的地が学校だったから」
慣れない道を二人で歩く。
あまり外出を好まない俺だが、夏葉と二人で歩くこの時間は一歩一歩がワクワクしている気がする。
会話がなくともこうしているだけで楽しい、なんて、そんなことを考えていれば、
「……ねえ、龍樹。今度の、その、デートさ。土曜日と日曜日、どっちにする?」
不意を突くように、少し恥ずかしそうにしながら夏葉が聞いてきた。
「……そうだな。美術館は日曜日の方が混むらしいから土曜日はどうだ?」
改めてこの話題を口にすると緊張や諸々で心臓が跳ねる。
「そっか。じゃあ、土曜日だね。……ご褒美は、考えた?」
「夏葉は?」
「む、逆質問」
「言い出しっぺの法則だ」
視線が交錯する。ジッとお互いの目を見つめ合っていれば、夏葉の顔が段々と紅潮していき、彼女の方が先に視線を逸らした。
「……私は考えたよ」
「聞いても良いのか?」
「それはダメ。まだ、目標達成できるか分からないし。それで、龍樹は?」
もう一度、視線を向けられる。
ご褒美……テストの目標を達成したらデートの時にご褒美を一つ叶えてもらえるそんな約束に俺が望むもの。
それは……。
一度目を閉じて、自身の中でしっかりと確認してから答える。
「俺も決めたよ」
「でも、教えは?」
「しないな」
「そっか。お互いに達成できるといいね」
「ああ」
俺たちはまだテストの手応えについては話し合っていない。
お互いに分かっているのだ。
このテストが返って来て、もし、目標が達成されていたら……俺たちの関係が大きく変わるかもしれない、と。
だからこそ、敢えて触れない。
楽しみなような、少し怖いようなそんな感覚の中で、俺たちは今のこの微妙な関係を存分に味わい、楽しんでいた。
◇◇◇
買って来たお惣菜を温め、せっかくだからと器を変えて盛り付けてみれば、中々に豪勢なオードブルへと姿を変えた。
「洗い物は増えちゃうけど、こうするといい感じじゃない?」
「ああ、何かのパーティー会場みたいだな」
「ふふっ、そこまでじゃないけどね」
買って来たジュースをお互いのコップへ注ぎあい、持ち上げる。
「それじゃあ、テスト終了を祝って――」
「「乾杯!」」
カツンとコップ同士が優しくぶつかり合い、中のジュースが揺れる。
スポーツドリンクよりも甘いそれは一日の疲れをリフレッシュさせてくれるような気がした。
「じゃあ、早速いただきます」
「いただきます」
お互いに好きなものを取り、好きなように食べる。
まさに気分はパーティーだった。
「そうだ。土曜日は外食するか?」
春巻きを取りながら聞く。
「お昼は外食したいかな。夜はどっちでもいいけど。龍樹は?」
「夜はゆっくり家で食べたいかもな。俺はほら、インドアだから」
「ふふっ、じゃあ、そうしよ。出前とか、頼んでみるのもいいかもね」
「お、それはアリだな」
「それで、お昼なんだけどさ……」
そう言いながら夏葉はスマホを取り出し、何やら地図アプリを見せて来た。
「ここは?」
「美術館の周辺を調べてたら出て来たカフェなんだけど、その、男女限定メニューがあるんだって」
「……なるほど。じゃあ、そこにするか」
「うん。予約できるみたいだから、十二時半とかに予約しちゃっていい?」
「ああ、任せていいか?」
「大丈夫」
夏葉が見せてくれたカフェのサイトにはデカデカとカップル限定と書かれたメニューが載っていた。
夏葉は敢えて、男女限定と言い換えていたが、そうだよな。
次のお出かけ、デートはつまりそう言うことだ。
キュッと口を結び、緩みそうになる頬を抑える。
夏葉も同様に少し顔を背けていた。
「……エビチリ、ちょっと貰っていいか?」
「あ、うん。じゃあ、私もこっちのから揚げ貰うね」
チリソースの辛みが辛うじてこの甘酸っぱい空気を中和してくれている。
だが、不思議とこんな微妙な雰囲気も居心地は悪くなかった。
◇◇◇
金曜日、朝。夏葉とのテストお疲れ様会から二日後のこの日は、いつもはさびれて、誰もほとんど見向きもしない掲示板前に人だかりが出来ていた。
「順位、出てるみたいだね」
「ああ」
俺たちの高校では上位二十名までがテスト後にこうして成績を貼り出される。
つまり、俺と夏葉、二人の名前が入っていることはお互いに目標達成の最低条件だ。
木曜日の時点でテストはあらかた返って来ていた。
間違いなく、過去最高の出来、残りの現代文で大きなやらかしをしていない限り、目標達成は十分可能な点数に思えた。
点数を見終わった生徒が少しずつ離れて行き、俺たちにも見えるところまで順番が回ってくる。
「やった!」
隣で小さく呟く声が聞こえた。
それに反応するように上から名前を見て行けば――
一位:相田悠月
三位:風見夏葉
見知った名前が立て続けに並んでいる。
流石は夏葉だ。五位以内目標でいきなり三位に入って来るとは。
これで夏葉は目標達成。あとは、俺の名前があれば――。
十八位:――
十九位:八峰龍樹
「……あった」
目が滑りかけた二十位の手前、ギリギリの十九位に間違いなく俺の名前が載っている。
「やったね!」
夏葉が人一倍大きな声を上げて、バッと手を広げる。
しかし、寸でのところで踏みとどまって、不自然なガッツポーズに見せていた。
そんな夏葉の姿を見て、ようやく実感が湧いてくる。
間違いない、俺も無事二十位以内の目標を達成できたんだ!
中学生の頃、部活で地区予選決勝を勝った時と同じくらいの高揚感がやってくる。
久しく感じていなかったこの感覚。
乾いた心に恵みの感情が降り注ぐような、そんな感情で胸がいっぱいになる。
「……夏葉のおかげだ。ありがとう」
夏葉にだけに聞こえる声量でお礼を口にする。
「龍樹が頑張った結果だよ。おめでとう」
すると、夏葉も同じように俺にだけに聞こえるようにそう囁きながら、小さく手を掲げた。
「夏葉もおめでとう」
俺は夏葉にも祝いの言葉をかけて、その手に軽くハイタッチをした。
音もない、ただ、指先が触れ合う程度のハイタッチ。だが、今はそれで十分なほどに俺は満たされていた。
「お、龍樹! 十九位ってすげえな!」
教室に入れば、珍しく俺たちより先に席についていた篤人が駆け寄ってくる。
「サンキュな。頑張って甲斐があったわ」
「スかしやがって、喜んでるのが丸わかりだぞ」
「……ぅるせ」
気を抜けば、頬が緩みそうになる。
一年前は八十位前後をさまよっていた俺がまさか、掲示板入りするとは。
「夏葉もおめでと~」
そうこうしていれば、相田さんもこちらへやって来た。
「悠月には勝てなかったけどね」
「ふっふー、どやぁ」
「さすがは天才悠月サマ。でも、背中は見えたよ、次こそ勝つんだから」
「いつでもかかってきなされ」
賢い女子二人はもう次のテストを見据えているらしい。
そんな二人を前にして篤人がぽつりと呟く。
「……俺は追試、免れられるかな」
場の空気がシンと凍る。
「大丈夫だ篤人。追試に順位は関係ない。赤点なら、一位だろうが二百位だろうが問答無用で追試だからな」
「そうだよな! ……ってちょっと待て龍樹。それ俺のフォローじゃねーだろ!」
あははは、と、賑やかな笑い声が戻る。
そんな中で俺と夏葉は今一度視線を合わせた。
そして二人で頷き合う。
確かに人生は都合よくいかないことも多いかもしれない。けど、こうして努力で何とか出来ることはあるのだと、俺は改めて胸に刻んだ。
放課後には全生徒の元へ順位と各得点の記されたテスト結果表が渡された。
中間テスト七科目(英語が二科目、古文と漢文は合同だ)で満点は七百点。
俺の得点は現代文百点を含む六百二十四点だった。
「た、龍樹ぃ~数学の平均点って六十点切ってたよな~?」
ホームルームが終わるとすぐにこちらを振り返った篤人がそんなことを聞いてきた。
「確か六十二点じゃなかったか?」
「なっ⁉ 嘘だよな⁉ 五十六点とかだったよな!」
「あ~悪い悪い、そうだったわ」
「おいっ! 余裕な顔しやがって、ちょっと見せろよ」
篤人に悪戯を仕掛けてみれば、仕返しとでも言うかのように俺の結果表を覗き込んでくる篤人。
だが――
「うそだろ……俺の倍あって十九位なのかよ。悠月さんとか夏葉さん何点なんだこれ」
篤人はショックを受けた様子で俺の机に自身の結果表を放り出し、頭を抱えた。
そして見えた篤人の点数はと言えば合計三百十四点、順位は百四十八位と書かれていた。
「篤人、数学と現代文は追試免れても復習しっかりした方が良いぞ」
俺は打ちのめされている篤人に追撃を入れておく。他は五十点近くは取れているのだが、数学と現代文だけは三十点台とかなり低い成績になってしまっている。
「止めてくれ、その話は俺に効き過ぎる」
「臭いものに蓋をして、さらに腐ったら困るのは自分だぞ?」
「うわぁー! 良いんだ! 今度は龍樹に教えてもらうからよ!」
「なにを勝手な」
「いいだろ! 頼む!」
「……今度ラーメンな」
「いいのか! 恩に着るぜ! じゃ、俺部活行くから!」
「はいよ。じゃあな」
「おう!」
何故か結果表は俺の机に置いたまま元気よく部活へと走っていく篤人を見送りながら、俺はその結果表を篤人の机に入れておいてやる。
あんな反応をしていた割に、意外と気にしていないのかもしれない。
「や~つみ~ねく~ん」
篤人の席を元に戻したところで別の人影が現れる。
顔を上げれば、そこには満面の笑みの相田さんと悔しそうな夏葉の姿があった。
「どうかした?」
「いやいや、掲示板入り改めておめでと~って思って」
「ああ、相田さんこそ連続一位おめでとう」
「ふっふー、もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
「いや、ほんとにすごいと思う。今回は特に結構しっかりと勉強したからこそ、一位の壁の高さを感じたよ」
なんて当たり障りのないことを言って相田さんを褒めていると、夏葉がこちらをジト目で見つめていた。
「八峰くんはどんな感じだったの? 点数?」
だが、そんなことには気づかない相田さんはこちらへ距離を詰めて俺の手の結果表をジッと見つめた。
覗いてこない辺りに篤人とは違った配慮を感じる。
「ああ、俺はこんな感じ」
俺としても、夏葉との勉強のおかげか自分の成績を見せることに抵抗はかなり少なくなっていたので、二人にも見えるように点数を開示した。
「ふむふむ……って、現代文満点⁉ 凄くない⁉」
「ああ、それは正直俺もびっくりしてる。元々得意ではあったけど今回は上振れたかな」
「いやいや、上振れで満点は無理でしょ。ねー、夏葉?」
俺の現代文の点数に驚いた相田さんがここでようやく黙っていた夏葉の方を振り返って同意を求める。
「……そうだね。龍樹は時々謙遜し過ぎるところがあるから。過ぎた謙遜は嫌味だよ」
つーん、なんて効果音のしそうな態度をして見せる夏葉。
これには相田さんも「やらかした」とでも言いたげな表情をしていた。
「あ、あはは。私はこんな感じ。現代文と数学は満点取り損ねちゃったけど概ね満足な結果だね!」
そして話題をいち早く逸らすように、自分の結果表を見せてくれる。
するとそこに並ぶのは五科目の満点。
現代文も九十七点で最も低い数学ですら九十一点と言う超高得点。合計六百八十八点という堂々たる一位の成績が記されていた。
「すっご……」
これには思わず本音からの反応が漏れる。
「でしょでしょー。数学以外は夏葉に勝ったからね」
そんな俺の反応を聞いて一瞬悪い顔をした相田さんは俺ではなく夏葉の方を見ながらそう言って見せた。
「……でも、三教科は私も満点で、現代文の一位は龍樹だし、後二教科ならすぐに追いつくんだから!」
すると夏葉は何故か俺の方へ結果表を突き付けながら、相田さんにそう宣言する。
だが、時折チラチラとこちらへ視線を送ってきていた。
「夏葉も凄いな。また古典、漢文、教えてくれ」
その視線の意味するところを理解することは叶わなかったが、とりあえず素直に思ったことを口にしておく。
すると――
「おぉ、これが、八峰くんのやり方なのね」
「いいよ! 古典、漢文は満点だったから何でも聞いてね!」
相田さんは何やら一人で納得したような表情をして、夏葉はすっかり機嫌を良くした様子。
「そう言えば相田さん。部活の方は良いの?」
「おっと、そうでした。テストが終わってから筆がノッてるからね~。これは賞も狙えちゃうかも?」
「そう言えば、コンクール用の作品って言ってたね」
「そうなんだよ。特に、この間夏葉と話したおかげで道が開けたんだよね」
「え、私の話を聞いてもらっただけなのに?」
「そう、それが私には大きかったのだよ」
相田さんはそう言いながら空に筆で絵を描くような仕草をして見せる。
「……順調なら良かったよ。月並みだけど、頑張って」
「うん! もし受賞したら二人も見に来てね~」
「それはもちろん。なぁ、夏葉?」
「そうだね。それはぜひ見に行かせてもらう」
夏葉と頷き合って二人して相田さんの方を見た。
「なるほどなるほど。これは、秒読みですな~」
すると相田さんは今までに見た中でも一番のにやけ顔をした後で、
「ご馳走様! じゃあ、私部活行くね~」
そう言って走り去っていった。
「ご馳走さまってどういうこと?」
「さぁ……? まあ、気分良さそうだったし、なんでもいいんじゃないか」
「それもそっか。……それで、今日は一緒に帰る?」
「あ、ああ。そうだな。これでテストも終わったことだし……」
先週までの当たり前がなぜか気恥しく感じる。
少しでも勉強時間を増やそうと、帰り道に割く時間を減らすために始めた別々の下校だったが、一体どうしてこんなに気恥しく感じるようになってしまっているのだろうか?
それに何だか教室中の空気が静かに、まるでこちらを見守っているかのようにも感じられる。
その中には諦観や悲嘆の感情も感じられ、また、好奇の視線に晒されているかのような気もしてくる。
「と、とりあえずもう帰ろうぜ。復習もあるし」
「そ、そうだね!」
互いに結果表を鞄にしまい込み、何となく居心地の悪い教室からそそくさと逃げ出した。
何故か気恥しい感覚も昇降口の辺りまで歩いて来れば、もうどうと言うことはない。染みついた当たり前はそう簡単に忘れてしまうものではないようだ。
「なんか、久しぶりな気がしてたけど、水曜日も買い物行ったし、意外とそうでもないかも」
「そうだな。ただ、まあ、こうして二人で昇降口を出るのは一週間ぶりな訳で」
「それはそうだけど」
下駄箱から取り出したローファーを夏葉は丁寧に置いてから履き、俺は放り出すようにして履く。
ただ、どうと言うことのない当たり前にも、少し日を置いてみればそんな少しの違いが見えてくることを知った。
「そういえばさ、龍樹。明日のことなんだけど」
「おう? どうかしたか?」
校門を出て、歩き出す帰り道。
ちょうど十六時の夕日が俺たちを見守るように輝いている。
「時間、何時からがいいかな?」
「……そういえば、決めてなかったか」
「うん。お昼はカフェの予約入れちゃったから、それに間に合うようには行くとして、美術館の開館時間はどのくらいだっけ?」
「……十一時っぽいな。となると、先にカフェでランチ、それから美術館コースか?」
「そうだね。それでさ……」
夏葉が急に立ち止まる。
そして、一歩先から振り返った俺にこう言った。
「明日は現地集合にしてみない?」
「ん? 良いけど、なんでだ?」
「だって……」
一瞬恥ずかしそうに顔を背けかけた夏葉が自分を奮い立たせるようにギュっと拳を握り込むのが見える。
「せっかくのデートだから、いつもとは違うことしてみたくない?」
「……! なるほど。……確かに、そうだな」
いつもとは違うこと。本来、俺の求めるものとは違うであろうそれは、だが、どうしてか、非常に魅力的に聞こえる。
いつも通りに落ち着きを覚え、安らぎを感じていたのに。
今の俺は、心の底からそうして見たいと、そう思う。
急に服装を変えたあの時とはまた違った感覚、俺だけが先走るのではなく、二人の足並みをそろえて挑戦してみようという、そんな感覚だ。
「カフェの場所、分かりそう?」
「大丈夫。ちゃんと全部頭には入れてある」
「そ、そっか。じゃあ、明日は十一時半にカフェの前に集合でいいかな?」
「ああ。そうしよう」
頭の中で明日の計画がどんどん具体的になって行く。
「あ、でも、二人で同じ時間を目指したら、電車とか被るかもね」
「そうなったらそうなったで、それは良いんじゃないか? いつもは基本俺の部屋から一緒にいるわけだし」
「それもそっか。ふふっ、楽しみだね、龍樹」
「ああ、そうだな。夏葉」
俺たちはどちらからともなくぴったり一致したタイミングでお互いの顔を見合い、笑い合う。
そんな夏葉の顔を見ていると、思わず感情が溢れだしそうになる。
だが、今じゃない。
これは明日、掴み取った権利を用いて、はっきりと伝えたい。
いつも通りを変える覚悟を見せるためには、そこにはこだわりたい。
いつの間にか、マンションのエントランス前までやって来ていた。
夏葉の押したエレベーターのボタンが点滅し、到着を告げる。
中には誰もおらず、俺たちは順番にエレベーターへと乗り込んだ。
「じゃあ、龍樹、今日は私そのまま部屋に帰るね」
俺の押した四階のランプが点灯すると、、一歩壁側へ足を引いた夏葉がそう言った。
「おう。じゃあ、また明日、だな」
なんだかんだここで別れるのも、珍しい気がする。
俺が下りれば程なくして、扉が無機質に閉まっていく。
俺と夏葉はその扉が完全に締め切られるまで互いに手を振り続けていた。
◇◇◇
五月の最終週、土曜日。
来るデートに備え、俺は普段よりもさらに一時間早い六時半に目を覚ました。
意外なことに、昨晩は特に緊張することもなければ、眠れないということもなかった。
今日の服装は、既に決まっている。
あの時は失敗に終わったが、あの恰好を夏葉は間違いなくカッコいいと言ってくれた。
代り映えしないというのは若干悪い気もするが、こればかりは仕方がない。
だがこれからは少し、気を使っていこう。
シャワーを浴びて、薄い髭も入念に剃っていく。
あの時と同じように髪をしっかりと整え、セット、とはいかないまでもきちんと見えるように丁寧に仕上げる。
鏡に映る自分の姿に納得できれば、早めの朝食を取り、荷物の準備をする。
と言っても、持ち物と言えば、財布にスマホ、ハンカチ程度でこれと言って気にすべきことではなかった。
それらすべてを終わらせた俺は、昨晩確認した電車の時間をもう一度確認し、家を出る時間に念のためアラームを掛けると、一枚の紙を持ってソファへと腰を掛けた。
その紙は昨日配られたテストの結果表。
普段は一度見ればその日以外に見返すことのないこの結果表だが、今の俺にとっては間違いなく目標を達成したという証でもあった。
二十位以内を目指しての十九位。ギリギリだと評す自分もいれば、よくやったと評す自分もいる。どちらかと言えば、いつもの俺は前者の思考でいることの方が多いだろう。
だが、今日は、今日だけは、後者の思考でいたい。
自分を認める。今の俺にはそれが必要なんだろう。
昨日、夏葉が言っていた言葉が蘇る。
「龍樹は過度に謙遜するところがある」
客観的に自分を見てもいまいちパッとは思い浮かばない。
だが、俺が夏葉の細かい仕草までを知っているように、誰よりも夏葉のことを知っていると思っているように、そんな相手が言う言葉ならば、きっとそれは誇張のない真実なのだろう。
だから、俺は俺を認める。
夏葉が一緒に居てくれる、そんな俺を、夏葉視点から見た八峰龍樹と言う人間を認めるのだ。
もう一度手元に目を落とせば、変わらず見える十九と言う数字。
「よし」
一番先に浮かんでくるのは有言実行したなと言う肯定的な感情。
もちろん、ギリギリだろ、と思うネガティブな思考が無くなったわけではない。
ただ、今の俺ならば、確かに自信を持って言えるだろう。
敢えて、タイミングなどは考えていない。
だが、この漠然とした自信は、確かなものだとそう感じていた。
十時半。セットしたアラームを鳴り出したその瞬間に止めた。
今一度、自室の姿見で恰好を確認して、鏡の中の自分と頷き合う。
自分で言うと嫌な感じだが、良い顔をしていると、そう思った。
「よし、行くか」
玄関で靴を履き、鞄の外ポケットから財布へと移した鍵でしっかりと部屋の鍵を閉める。
もう、梅雨が迫り、テスト期間中は雨の日もあったが、今日は運のいいことに快晴だった。
駅について時間を確認すれば十時四十五分を少し過ぎたあたり。
俺の乗る電車は五十二分発なので、完璧なタイミングだ。
もしかしたら、夏葉と会うかもしれないと思っていたが、この時間は数分の頻度で電車が行き交うため、そんなこともなかった。
予定通りの電車に乗り、到着時刻を確認する。ここから十五分程で到着。
駅からカフェまでは地図上ではかなり近いため、五分もかからないだろう。
計算通り二十分前には集合場所に着けそうだ。
普段は電車に乗らないせいか、都会の電車には未だに慣れない。
席は両側一列になっており、田舎では当たり前にあったボックス席はない。
心なしか、電車自体も小さい気がするのは人が多いせいだろうか?
それとも、妙な高ぶりで落ち着けていないのかもしれない。
そんなことを考えていれば、目的地の駅へはすぐにたどり着いた。
人の流れに沿うように電車を降りて階段を上がり、改札を出れば、正午を前に輝きを強める太陽が俺を出迎えた。
地図アプリを起動し、事前に目印として覚えておいたコンビニなどを逐一確認しながら、歩けば表示通り五分も掛からずに到着する。
「さて、夏葉は……」
そう呟いたところで視線が止まる。
てっきり自分の方が早く着くだろうと油断していたことも否めない。
だが、それ以上の衝撃だった。
「あ、龍樹。早かったね」
目が合い、彼女はこちらへ歩を進める。
その一歩一歩に俺を風が吹き抜けていくようなそんな感覚を味わう。
初夏を思わせる水色、と言うより薄い青のワンピース、髪はいつもよりさらにフワッと柔らかく毛先は微かに巻かれている。
意識しなければ、視線を外させないかのような圧倒的な美少女が、どうやら俺を待っていたようだった。
「わ、悪い。待たせたか?」
「ううん。多分、一本前の電車だったんじゃないかな? 私もさっき来たところだよ」
「そうか」
「うん。龍樹はその恰好で来たんだね。やっぱり似合ってるよ」
一度見せて慣れているからだろうか。この間は恥ずかしそうにしていたことを今日は事も無げに言って見せる夏葉。
「夏葉も、すごく似合ってる。……悪い、これ以上言葉が見当たらないんだが、その、綺麗だ」
「――っ! あ、ありがと」
しかし、言われる方は準備がなかったのか、相応に照れた表情をみせてくれる。
そんなおかげで、何とか俺も普段通りの調子を取り戻すことが出来た。
すると、周りの視線の多くが夏葉の方へ向いていることに気が付く。
「とりあえず、カフェ入るか? あ、予約時間よりはまだ早いか」
「ううん。それは大丈夫。メニューの予約だから、入る時間はいつでも問題ないよ」
「そっか。じゃあ、行こうぜ」
「うん」
隣りにいるのは思わず気後れしてしまいそうになるほどの美少女。
だが、こうして会話をしてみれば相手が夏葉であると分かる。
なるほど、服装一つでこうもインパクトが違うとは。
先日の俺もこんな風に衝撃を与えたのだろうか?
「龍樹~入ろーよ」
「おう」
先に入口の扉へ手を掛けた夏葉がこちらを振り返り俺を呼ぶ。
こうして俺たちのデートは幕を開けた。
お昼時だが、大賑わいと言うよりは馴染みのお客さんがぽつりぽつりとコーヒーを嗜んでいる様なそのカフェはウェブサイトを見てきたとはいえ、男女限定メニューをやっているようには思えない。
シック調で落ち着いたトーンの内装に穏やかなBGMで雰囲気はとても良く、個人的には非常に好ましい空間だった。
「どう? 良い感じのカフェだよね」
通されたテーブル席で提供されたお冷を一口呷ってから夏葉がそう言ってきた。
「ああ、写真以上に雰囲気が良くて落ち着くな」
「でしょ? 龍樹はこういうとこ好きそうだと思ったんだよね」
「……もしかして、それでこのカフェに?」
「……うん。前に一人で寄ってみて一緒に来たいなって思ってた」
恥ずかしそうに、だが、いつもより感情を表に出して伝えてくる夏葉に、俺の顔に熱が宿っていくのが分かる。
咄嗟に俺もお冷を一口飲んで頭を冷やした。
注文はドリンクのみ。
メニューの方は予約済みのため、俺たちはお互いに温かい紅茶を注文した。
「そういえば、龍樹がコーヒー飲んでるとこ見たことないかも」
「……実は苦手なんだよな」
「えぇ⁉ 意外かも。龍樹良く本とか読んでるからコーヒーも好きなのかな~って思ってた」
「なんだそれ。夏葉の中では本好きとコーヒーが結びつくのか?」
「なんか、そんな感じしない?」
「まあ、言わんとすることは分かるが」
いつものように流れるように会話は続く。
特に弾むでもなく、緩やかに落ち着いた会話、だが、場所と恰好が違うだけでなんとなく特別感を覚える。
「お待たせいたしました」
目に優しそうな緑色のエプロンを付けた店員さんが、静かに、こちらの会話の邪魔にならないようにと注文を運んでくる。
「こちら紅茶と、――」
店員さんは夏葉の方に軽く視線を送った。
すると夏葉は何かを察したようにコクリと頷く。
そんな夏葉に軽く笑みを浮かべて、店員さんはその巨大なパフェを俺たちの前に差し出した。
「カップル限定の季節のフルーツパフェカップル盛りになります」
カップル限定のカップル盛り⁉
あまりにも雰囲気とは違ったその単語に思わず吹き出しそうになるのを何とかこらえる。
その衝撃のおかげで自然と発されたカップルと言う単語はスルーすることが出来た。
「生で見ると迫力があるね」
「そうだな。これは生じゃなきゃ味わえない迫力だ」
俺たちの間に置かれると相手の顔の半分が隠れてしまうほどに巨大なパフェを前に舌を巻く。
なんて、俺たちが一通り驚いたところで店員さんがもう一度口を開いた。
「こちら、カップルの証明のためにお写真を撮らせていただいておりますので、よろしいでしょうか?」
写真? そんな注意書きなかったような……?
「あ、はい! 大丈夫です!」
だが、夏葉は分かってますと言うようにスマホのカメラアプリを起動して、店員さんへ手渡した。
「ほら龍樹、寄って」
「お、おう」
流されるままにパフェを中心にしてテーブル越しに夏葉と顔を並べる。
上から見たパフェは正しくカップル限定というようにふんだんにハート型に切り抜かれたフルーツやらチョコレートやらが見えた。
そんな中でも店員さんはパフェの角度や画格を丁寧に調整して、落ち着いた声でこちらにカメラを向ける。
「では、撮ります。三、二、一」
パシャリとシャッター音が静謐なカフェに響く。
写真を撮るなんていつぶりだろうか?
鏡では毎日自分の顔を見ているが、写真に写った自分なんて生徒手帳くらいでしか最近は見ていない。
「もう一枚行きます。三、二――」
「龍樹、笑顔笑顔」
「あ、ああ」
カウントダウンの直前で夏葉に言われ、咄嗟に笑顔を作る。
「一」
パシャリ、二度目のシャッター音は笑顔に意識を割いたせいか少し小さめに聞えた。
「はい、大丈夫です。ご協力ありがとうございました」
「いえいえ、ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべた夏葉が店員さんからスマホを受け取り、俺も軽く頭を下げる。
「ふふっ、龍樹いい顔してるよ」
「ほんとか? なんか笑ってないか?」
「笑ってないよ。ほら」
こちらに画面を突き出して写真を見せてくる夏葉。
写真に写る夏葉もやっぱりものすごく美少女で、その隣の男は……まあ、確かに悪い顔はしていなかった。
「まあ、こんなもんか」
「ふふっ、送っておくね」
「ああ」
楽しそうにはにかむ夏葉の顔を見ながら、俺はひと口紅茶を飲む。
銘柄には詳しくないが、紅みの濃い鮮やかな紅茶は口に含んだとたんに豊かな香りが優しく鼻を抜け、ジンと体に沁み込むような深い味わいだった。
「じゃあ、食べよっか。それにしてもこのメロンすごいよね」
「ああ、一玉分とは言わないけど半玉分以上は確実に使われてそうだよな」
俺たちに挟まれたパフェは季節の、と言うことでこれ以外も種類があるのだろう。
今回俺たちに提供されたのはメロンを使ったパフェだった。
食べ合わせとしてメロンとチョコレートはあまり見ない気もするが、そんな感想が出てくる以前にとにかくメロンが凄まじい。
写真を撮る前にも思ったことだが、ハートの形に切り抜かれたメロンがゴロゴロと見え、頂点には八分の一サイズのメロンがそのまま悠然と構えていた。
「そもそも一人じゃ頼めない物だけど……私ひとりじゃ絶対食べきれない」
「ははっ、そうだな。でも、食べたかったんだろ?」
「うん。実は果物の中でもメロンが一番好きなんだよね」
「そうなのか。それは、一度は食べてみたいものだろうなこれは」
「そう! だから、それもあってここを選んだんだ」
「なるほどな。じゃあ、早速食べるか」
「そうだね。ふふっ、最近こうやって分けて食べることが多いね」
「そう言われてみれば、そうかもな」
食べきれないから、ではなく、先日のテストお疲れ様会でも好きなものを分け合ったりと、同じものをシェアしていたかもしれない。
「それじゃあ、これはいつも通りかな?」
「いや、パフェは初めてだから、これも新しい挑戦じゃないか」
そんな会話をしながら二人で一つのパフェを食べて行く。
チョコレートはメロンの甘さを邪魔しないようになのか、ビターなくどくない味わいをしていた。だが、それ以上に何とも言えない甘さが空間に充満していた。
◇◇◇
「ふぅ。いくら好きな物でも、あのサイズは年一でいいかな」
「だな。でも、美味かったな」
「そうだね」
小一時間程かけて、巨大メロンパフェを食べ終えた俺たちは追加で紅茶をもう一杯頼み、しっかりと食休みを取ってからカフェを出た。
食べてすぐでは正直動くのも億劫なほどには満腹になっていたが、紅茶を啜りながら駄弁っているうちに何とか腹ごなしをすることが出来ていた。
「じゃあ、今度は美術館だね」
「そうだな。本当に事前知識とか何もないから、結構ワクワクするな」
「うん。よくよく考えてみると絵とか美術品とかをしっかり見た経験ってほぼないかも」
「確かに。学校の社会科見学で博物館とか歴史資料館とかには行くことはあっても、美術館ってあんまり行かないよな」
「ね。雰囲気とかも想像つかないや」
十三時を前にした丁度お昼時。
人通りが最も多くなり、おのずと隣を歩く夏葉との距離が普段より近くなる。
小指の一本でも伸ばせばその手に触れられるほどに近い距離。
だが、まだこの手は伸ばさない。
「あ、見えて来たね」
「美術館って外観も何て言うか芸術的だよな」
「そうだね」
普通の建物ではまず見ないような形の建物に足を踏み入れれば、まるで知らない世界に迷い込んでしまったかのような不思議な感覚を覚える。
見覚えのない模様のベンチやオブジェが並び、独特な世界観を形成していた。
「あ、入場口あっちだ」
呟き歩き出す夏葉を追って俺たちは美術館へと入館した。
「……何というか、圧倒されるね」
入口でチケットを切ってもらい足を踏み入れたその空間は確かに夏葉の言う通り、言葉にはしがたい感覚、凄み、とでも言うのだろうか? ただの絵が飾られているだけの空間には思えない世界が広がっていた。
この建物に足を踏み入れた時以上の異質感。
そんな初めての空間を俺たちは歩き始めた。
「パッと見た感じ、ある程度時代ごとに並べられてる感じかな?」
独特の雰囲気に静謐な空間は、周りに人が少なくとも、おのずと小声になってしまう。
こそこそと耳打ちをするように夏葉が言った。
「そうだな。とりあえずゆっくりと見て行くか」
夏葉は小さく頷き、手近な絵の方へ近寄っていく。
まず俺たちの目に留まったのは、ひと際大きな額縁に飾られた人物画だった。
綺麗だとか、美しいだとか、そんな感想を抱いたわけではない。だが、どうにも視線を引き寄せられる、そんな顔をしている。
俺が足を止めてジッとその人物画と見つめ合っていれば、夏葉が俺の服の裾を引っ張り、そしてスマホを指さしている。
「?」
よくわからなかったが、夏葉の示すがままにスマホを取り出してみれば、夏葉からメッセージが送られてきた。
「この絵、どの角度から見ても目が合う気がする」
そう言われてハッと顔を上げてみれば、確かに絵の中の人物と目が合った。
試しに数歩歩いてから見てみたりもしたが、確かにどの角度から見ても目が合っている気がする。
「本当だな。これは一体どういう仕掛け何だろう?」
どうやら、この館内の空気間に配慮して言葉を最低限にしたいらしい夏葉に合わせて、俺もメッセージを送り返す。
「分からないけど……ちょっと絵の楽しみ方が分かったかも」
「確かにな。視点を変えるって主観、客観に使われがちだけど、実際の意味でもこんなに違うことってあるんだな」
静寂の中で常夜灯よりもだいぶ明るい橙色の照明に照らされる絵画たち。
そんな空間にコツコツと言う足音だけが響いている。
見る絵の一つ一つに様々な発見があり、集中しているうちにまるで絵画の中の世界を味わっているかのような気さえしてくる。
気が付けば俺たちはそれぞれ気になった絵を見ることに集中して、お互いのタイミングで見て回るようになっていた。
俺がそのことに気が付いたのは、次の展示場への扉が見えてからだった。
夏葉を待とうと振り返る。
その瞬間だった。
「……っ!」
思わず息が止まりそうになるほどの衝撃が全身を駆け抜けていく。
視点や物の見方について考えていたせいなのだろうか?
色々な美術について、知らないながらに精一杯考察をしてみようとしていた俺の目に絵画を見つめる夏葉の横顔が飛び込んできた。
綺麗、可愛い、美しい、様々な形容詞が脳内を飛び変っていく。
だが、中でも最も強く俺が抱いた感情は――
「好きだ」
好感、いや、愛情と言う名の感情だった。
「え?」
唐突に静寂を引き裂いた言葉に、虚を突かれたような表情の夏葉がこちらを振り向く。
今しかないと、俺は思った。
未だ呆然としたままの夏葉の手を取り、今いる展示場の外へ出る。
すると暗めの雰囲気からは一変、大きなガラス張りの開けた空間へと出て来た。
「ちょっと、龍樹? 急にどうしたの?」
不思議そうな顔をしてこちらを見ている夏葉の手を俺は痛まない程度にしっかりと握り、にいて歩き出す。
どうやら先ほどの言葉はしっかりとは聞こえていなかったらしい。
だが、それならばなおのこと好都合だ。
俺はそのまま、ガラス張りの向こう側、中庭になっている方へ向けて歩き出す。
夏葉も急にどうしたの? と言う顔こそしているものの、抵抗はせず俺の手を引くままに付いてきてくれた。
快適な温度に保たれていた館内も中庭まではそう言う訳にはいかない。
正午過ぎの真上の太陽がこれでもかと言わんばかりに燃え滾り、一歩外に出ただけで汗ばみそうなほどの空の下で俺は足を止めた。
「龍樹? 何かあった?」
俺のことを心配するかのような色を含んだ声で言う夏葉の手を話し、俺はゆっくりと彼女の方を振り返る。
「夏葉。目標達成のご褒美、今でいいか?」
俺がそう言えば、夏葉は一瞬何のことだ? と言う顔をしてからあっと声を漏らすと
「……良いよ」
何かを察したかのように少しだけ頬を朱色に染めながら優しくそう言った。
この炎天下では皆中庭には出たがらないのか、周りに人の姿は見えない。
ガラス張りの向こうに見える人たちも皆、絵画の方に集中して俺たちのことなど気にも留めていない様子だった。
「龍樹はご褒美に何を望むの?」
何かを待つかのような、求めるかのような表情で夏葉は聞いてくる。
それに対して、俺は――
「俺は、権利が欲しい。この感情を口にする権利が、欲しい」
これは酷く我儘で見当違いなら酷く恥ずかしい願いだ。それに、傍から見ればあまりに抽象的だろう。
だが、だからこそ、俺はこう望んだ。
ありのままの自分を伝えるために、俺のすべてを曝け出すために。
飾らない、八峰龍樹のそのすべてで伝えたいから。
そんな俺の言葉を聞いた夏葉は、まるですべてを理解したような顔をして、柔和な笑みを浮かべた。
「いいよ。じゃあ、龍樹にその権利をあげる」
そして、すべてを受け止めるかのようにほんの少し、変に見えない程度に軽く手を広げながらそう言った。
震える拳を握り締め、その痛みで意識を落ち着ける。
これを伝えれば、俺たちの関係は大きく変わってしまうかもしれない。
だが、それでも、俺はその権利を貰った。
もう、後戻りはできない。
「夏葉」
名前を呼ぶ。
愛しさに震えそうになる声で必死に言葉を紡ぐ。
「夏葉が好きだ。俺と……付き合ってほしい」
紡ぎ出された告白の言葉は、あまりにあり触れた特別感のないものだった。
色々と考えていたのに、土壇場でそのすべては彼方へと消え、残ったのは本心の、本音からの感情だけだった。
ギュッと、不意に軽く、だが、確かに力の籠った衝撃が全身へとかかる。
「龍樹っ!」
衝撃の正体は正面に立っていたはずの夏葉。
「私も、私も龍樹が好きだよ」
ギュッと抱きしめる手にさらに力を込めて、ありったけの感情を表すかのようにそう言ってくれる。
「夏葉」
俺も名前を呼び返しながら、彼女の身体を強く抱きしめ返した。
十秒ほど抱きしめ合っていた俺たちは、ほぼ同じタイミングで我に返り、ここが美術館であることを思いだしスッと離れた。
幸い、こちらを見ている人は見つけられなかったが、木陰になっているわけでもなければ、何か展示物の影になっているわけでもない場所で抱き合ってしまったという事実は思う以上に恥ずかしい。
だが、それ以上に、
「龍樹、好きだよ」
「俺も好きだ、夏葉」
温かくむず痒いような感情に包まれていた。
◇◇◇
あれから、気を取り直して俺たちはしっかりと絵画展を鑑賞して回った。
あの後すぐはお互いが気になり、中々絵に集中できなかったが、夏葉の提案で手をつなぎながら同じペースで同じ絵を見ようということになってからは、確かなつながりに満足感を覚えたおかげか、再び絵画に集中することが出来ていた。
「絵のことはさ、何も知らなかったけど、楽しかったね」
日も下がり始めた午後、下校時間より少し早いくらいの時間を並んで歩いていれば、夏葉がおもむろにそんなことを言った。
「そうだな。知らないなりに色々と考えるのも面白かった」
お昼過ぎに比べれば人通りの少ない道を、先ほどよりも近い距離で歩く。
「そうだね。また、別の美術館とかも行ってみよっか」
「いいな。相田さんには感謝だな」
「うん。悠月には後でお礼を言っておくね」
二人で知らないことに挑戦してみるというのは、とても良いものだった。
特に一緒に見ているのに、持つ感想は違ったりするという経験は、中々に得難いものだと感じた。
「そういえばさ」
すると、夏葉が一歩先へ踏み出して足を止め、こちらを振り向いた。
「どうかしたか?」
「いや、ちょっと気になってさ。どうしてあのタイミングだったのかなって」
ジッと真っすぐに俺を見て夏葉が聞いてくる。
夏葉が言っているのは間違いなく告白のタイミングのことだろう。
冗談めかした口調とは裏腹にその目には真剣さが宿っていた。
「なんでかって言われると難しいんだけど……」
「うん」
「色んな絵を見てさ、色々思うことがあっただろ?」
「そうだね」
「綺麗とか、ちょっと不気味とか……そんな色々を見た後にさ。夏葉のことを見て思ったんだよ」
真っすぐにこちらを見つめる夏葉の視線を俺も真っすぐに見返して言う。
「ああ、好きだなって」
「………………」
固まった夏葉の頬がみるみる赤くなっていくのが分かる。
「な、なるほどね。そういうことだったんだ」
少し強がって余裕ぶって見せるがその顔は耳まで真っ赤に染まり、照れていることはきっと誰の目からも明らかだろう。
「そう言えば、夏葉のご褒美は何なんだ?」
そんな可愛い夏葉を見ていたら、もう少し揶揄ってみようといういたずら心が湧いてしまい、俺はそう聞いてみた。
すると夏葉は赤くなって熱くなった顔を手でパタパタと扇ぎながらこう言った。
「私を揶揄う悪い龍樹に、やり返せる機会が来るまでは保留にしておこうかな」
「なっ⁉ 保留ってありかよ。確か約束ではデートの時に一つご褒美を叶えるってはずじゃ……」
言いかけて気が付く。
だが、それより先に夏葉が言った。
「うん。だってこれからはいつでもデート、出来るでしょ?」
カッと顔が熱を帯びて行くのが分かる。
「だって私たち、もう恋人だもんね」
だが、夏葉はそんな俺に構うことなく、最後までそれを言ってのけた。
「……そうだな」
照れ隠しにぶっきらぼうな反応を返すことしかできないが、そんな俺を見て夏葉は満足そうに笑う。
「ふふっ、楽しいね。なんか、青春って感じがする」
青春。
確かに言われてみれば、何となく分かる気がする。
だが、これは夏葉との関係が変わったからだとか、そう言う感覚ではない。
もっと、普段から、日常的に感じていた感覚で、当たり前にすぐそばにあった、そんなもののような気がする。
「なるほど。これが青春か」
「……今日は考え事して、私の話、聞いてないとかなしだからね?」
「ははっ、分かってるよ」
「ほんとに?」
「ほんとにほんと。でも、あの日だって俺は夏葉のことを考えてたんだけどな」
「なっ⁉ ……また、そうやって照れさせようとして来るし」
「違うって。これはほんとの話」
俺たちの微妙だった関係はこうして今日名前を持つ関係に変わった。
しかし、蓋を開けてみれば、変わったのは名前と少しの距離感だけ。
この会話はいつもの帰り道と変わらない。
でも、あの日の俺にはこう言ってやりたいと思う。
これを青春と呼ばずして何と呼ぶ、と。
翌朝七時、早く寝たおかげか目覚ましよりも先に目を覚ました。
カーテンを開けて見える空は雲一つない快晴で、日中は今日も暑くなりそうなことが窺える。
さて、今日の予定は夏葉との勉強会だが、いつも通り、と言う訳にはいかない。
昨晩気が付いた自分の気持ち。そして、夏葉に釣り合う男になろうという決意。
すぐに大きく変わることは出来ずとも、勉強と同じで日々の少しずつの積み重ねがいつかの役に立つはず。
そうなれば、まず出来ることは……身だしなみ、だろう。
思い返してみれば、夏葉がパッとしない格好をしているところを見た記憶がない。
女子のお洒落とか、流行とかそう言った物には全くと言っていいほど知識のない俺でも、きっと夏葉はその辺りにもしっかりと注意しているんだろうということは何となく分かる。
しかし、それに比べて俺と来たら……着合わせだとか、シルエットだとか、そう言う所を気にして服を選んだことなど数えるほどしかない。それに、普段夏葉と一緒に居る時はほぼパジャマのような部屋着だったり、着古したTシャツと中学時代に部活で使っていたサイドボタンパンツを着ている。
改めて考えると酷いものだ。素を見せられるという言い方でもギリギリ取り繕えないかもしれない。
収納のスライドドアを開き、ハンガーに架かったまま随分と着ていなかった黒のポロシャツにいつか何となく気分で購入した、これまた黒のテーパードパンツを穿いてみる。
「……黒」
そしてその恰好で姿見を見てみれば、そこにはどこぞの犯人役にも等しいほどに全身が黒一色の男が立っていた。
さすがにこれは……どうなんだ? と思って、もう一度収納の中を眺めていくが、すると見事なまでに黒や寒色系の物しかない。辛うじて一枚だけ白い襟付きの半そでシャツが見つかったため、今日のところはそちらに着替えておく。
「まぁ……今日出来る最大限ではあるか?」
着替えて姿見に映った自分は、まあ、街を歩いていれば普通に見かけるかな? 位の格好にはなった気がする。若干、自宅で勉強するだけなのに襟付き着るか? と、思わなくもないが、その辺りの知識に関しては偏差値四十以下間違いなしなので諦めた。
さて、着る服が決まれば、次は……と言うことで姿見に映る自分の顔に目を向ける。
そこに映るのは寝ぐせ頭の寝ぼけ顔。服がきちんとしている(俺基準)なだけに、異様なほどにそこがアンバランス見えた。
とりあえず、シャワーは浴びておこう。さすがの俺も人を招く前に寝汗の一つも流さないなんてことはない。本当は髪のセットも出来るといいのだろうが、残念なことにそんな知識はないし、SNSやら何やらで調べたところでマネキンとは別物の現代アートが完成するであろうことは目に見えているため、今日は綺麗に梳かす程度に収めておくことに決めた。
シャワーを浴びながら、歯を磨き、髪をいつも以上に丁寧に乾かして、そこまで長くない髪をそれでもしっかりと梳かし、選んだ服に着替えてみれば、どうしてそこそこ、見れる男になっている自分がいた。
傍目からどう見えるかは分からないが、こういうものは気持ちが重要だと聞く。
その点、自分で満足できる程度なら、悪くないのではないだろうか?
なんて、そう思っていたところでインターホンが鳴った。
「夏葉か?」
呟きながらモニターを確認すれば、画面いっぱいに表示されるのは夏葉の顔。
そんな顔を見た途端、心臓がうるさいほどに大きく鳴り出した。
しかし、待たせるのも悪いと、モニターの応答ボタンを押して、今から出て行く旨を伝え、すぐに通話状態を解除する。
ゆっくりと玄関へ向かいながら大きく深呼吸を二回。
大丈夫、大丈夫、いつもと何ら変わらない。
今日はただ、いつも通りに勉強するだけだ。
深呼吸をしながら自身にそう言い聞かせれば、ありがたいことに鼓動は落ち着いてきた。
鍵に手を掛け一思いに開錠し、変に緊張が戻ってくる前にドアも開けてしまう。
「あ、龍樹。おはよ……う?」
俺がドアを開ければ、夏葉はいつも通りに軽く挨拶を口にしながらウチへ上がろうとして、止まった。
「おはよう、夏葉。入らないのか?」
「え、あ、いや……お邪魔、します?」
なぜか少しよそよそしくしながら、いつもより体感ゆっくりと我が家へ足を踏み入れる夏葉。
その足取りは何かを警戒しているかのような、そんな不自然さを感じさせるものだった。
だが、俺は俺でここに来て緊張がぶり返していた。
改めて考えるとこの状況は……かなりすごい。
今日は日曜日、同じ部活にでも所属していなければ、俺のようなインドア派は誰かに会うことはない。だと言うのに、目の前に、何なら自分の部屋に好きな人がいる。
……今まで良く自然体でいられたな俺。
「あ、そうだ。龍樹、私のスマホ知らない? 昨日置いて行っちゃったみたいでさ」
玄関で固まったままの俺を振り返った夏葉がスマホのことを聞いてくる。
この会話なら、大丈夫だ。シミュレーション通りに。
「スマホ? 悪い、見てないな。ウチにあったか?」
「うん、昨日膝枕したでしょ? その時にポッケから出してそのままだったんだよね」
「あ、ああ! なるほどな」
自然に発された膝枕と言う言葉にビクンと肩が跳ねる。
そうだよ。昨日、俺、膝枕とかされてたわ。
でも夏葉、膝枕のことを何ともなさそうに口にしてくる辺り、あまり気にしていないのか?
「……ねえ、龍樹」
そんなことを考えていれば、ジトっとした目をこちらへ向けた夏葉が切り出して来た。
「なんか、あった? 今日ちょっと変じゃない?」
これは夏葉が鋭いのだろうか? それとも俺がボロを出し過ぎているのだろうか?
何にせよ、明らかに昨日と様子が違うことは、玄関でのちょっとしたやり取りだけで気付かれてしまったらしい。
「いや、そんなことないと思うが。それより、スマホだろ。膝枕した時なら、リビングだよな。とりあえず探すか」
「……うん」
一先ず落ち着いて話を逸らす。ここで「膝枕」を噛まずに言えた自分を今だけは褒めてやりたいと思った。
探すと言っても昨日の時点でテーブルの上に普通に置いてあったそのスマホは何の手間もかからずに見つかった。
「あ、普通にあるじゃん! もう、こんなに普通に置き忘れるなんて……」
「悪いな。俺も見慣れてたせいか、普通に置いたままでも気付かなかったわ」
「なるほど確かにそれはあるかもね。基本的にいつもこの辺りにスマホ置いてるし」
「な。気づいてれば届けたんだが……」
何とか普通にやり過ごせている、よな?
大丈夫、大丈夫だ。
「いや、今日みたいな日はわざわざ届けてもらわなくても大丈夫だけど……」
内心で自分を落ち着けている俺を傍目に、サッとスマホへ目を通していく夏葉。
俺は夏葉の視線がスマホに向いているうちに彼女に背を向けて、もう一度軽く深呼吸をした。
「うん。特に緊急の連絡もなさそうだったし、問題なし。じゃあ、勉強しますか」
「おう」
よし、とりあえず切り抜けたな。と、俺が安心して姿勢を戻せば――。
「と、言いたいところだけど、流石にツッコませて。今日、何かあるの? さすがにその恰好を無視はできないよ」
いつの間にかすぐ後ろに立っていた夏葉が俺の足元から顔までをゆっくりと見上げながら、そう言ってきたのだった。
「さてと、一体今日はどうしちゃったんですか? 龍樹サン?」
いつも通り向かい合う形でテーブルに座る。だが、その様相はさながら裁判官と被告人だ。一体何がどうしてこんなことになっているのかと言えば、恐らく俺の恰好が悪いのだろうが、それと今の状態がどうしてもつながって来ない。
「ちょっと……まともな服を着てみようかなと、思っただけだよ」
別に悪いことはしていないと思うのだが、被告人気分で答える俺。
「ふぅん。いつもはほぼジャージしか着てない龍樹が急にねぇ……。玄関で見たときはいきなり知らない人が出て来たかと思ったよ」
夏葉はびっくりしたんだからと、何故かちょっとお怒りのご様子だ。
「そんなに違うか?」
「違うよ! 制服だっていつもテキトーな感じに着てるのに今日は――」
俺のぼやきに勢いよく反応してきたかと思えば、語尾に近づくに連れて段々と語気が弱くなっていく夏葉。
そんな様子を不思議に思って夏葉の顔を見てみれば、何故か微かに顔が赤くなっていた。
「今日は……なんだよ?」
いきなりそんな顔を見せられたせいか、俺の方が恥ずかしくなってしまい、ぶっきらぼうに続きを問う。
「……ねえ、これ、膝枕の意趣返しとかじゃないよね?」
すると、ふぅっと大きく息を吐きだした夏葉が真剣な顔をして聞いてきた。
「……ん? 意趣返しって?」
それに対して俺は全く意図するところが分からずにそのまま聞き返す。
「はぁ……」
すると、夏葉は大きくため息を吐いて、前のめりになっていた姿勢を一度直した。
そして意を決したとでも言うように今一度俺としっかり目線を合わせる。
「今日は……その……すごいカッコいいよ」
一言一言を噛み締めるように言い放つ夏葉。
それを聞かされた俺は、急すぎるその発言に思考が宇宙へ跳んだ。
◇◇◇
朝の九時前。まだ早いかも、と思ったが、忘れたスマホも気になることだし、と自分に言い訳をして私は龍樹の部屋のインターホンを押した。
ちょうど近くに居たのだろうか? ほとんどラグを感じないタイミングで龍樹が応答する。
「すぐに開けるよ」
その声は全くのいつも通りで、私は安堵するとともに少しだけショックを覚えていた。
昨晩の私と言えば、恥ずかしさやら興奮やらでテンションがおかしくなってしまい、なかなか寝付けなかった。今朝も目覚ましより先に目が覚めてしまったし、いてもたってもいられずこうしていつもより早く龍樹の部屋にやって来てしまうほどだ。
だと言うのに、昨日膝枕までした相手である龍樹はと言えば、特に変わりのなさそうな声をしていたのだ。
上がっていたテンションが徐々に引いていくのを感じる。
そうだ、私は何を一人ではしゃいでいたのだろう。相手はあの龍樹だ。
確かに膝枕では照れてくれていたようだが、そんなもの同級生の女子にされれば誰だって照れるだろう。それもいきなりなのだ。照れない方がおかしい。
「はぁ……」
龍樹の声で冷静に戻った私は一気にやって来た現実に思わず落胆のため息を漏らしてしまった。
ちょうどそのタイミングで内側からドアを開錠する音が聞こえ、私は咄嗟に表情を引き締める。
そうして開けられたドアになるべくいつも通りを装って声を掛けた。
「あ、龍樹。おはよ……う?」
だが、言い切る直前、私を迎えてくれた龍樹の顔を見た途端、思わず一瞬硬直してしまう。
目の前に現れたのはいつもの龍樹とは似ても似つかない恰好をした好青年。
お洒落には全く興味がない龍樹からは考えられないような、シンプルでもしっかりと背格好にあった服装で、どことなく髪にも艶があるような気がする。
顔と声はいつも通りなのに、服が違うだけでこんなに変わるんだと驚きながら、少し感心してしまった。
「おはよう、夏葉。入らないのか?」
「え、あ、いや……お邪魔、します?」
なんて、そんな風に感心していたせいで思わず口調が丁寧になってしまった。
このままでは良くない。どういう風邪の吹き回しかは分からないが、このままでは昨日のように興奮のままにぬか喜びする結果になってしまいかねない。落ち着いて、風見夏葉。
大丈夫、大丈夫。
自分にそう言い聞かせた私は、とりあえず会話で場をつなごうと話題を探す。
そして咄嗟に私の口から出たのは昨日のスマホのことだった。
「あ、そうだ。龍樹、私のスマホ知らない? 昨日置いて行っちゃったみたいでさ」
予想よりも案外すんなりと私の口を吐いた言葉に内心安堵する。
「スマホ? 悪い、見てないな。ウチにあったか?」
そう答える龍樹はやっぱりいつもとは別人のように見える。
別にいつもが格好悪いと言うつもりはない。何せ……その……好き、な人なのだ。普段の身だしなみに無頓着な姿もそれはそれで良いと思っている。
だが、こればかりはそう言う問題ではないのだ。
他人のことはあまり詳しくは分からないが、好きな人がお洒落な恰好をしている。それも何の脈絡もなく、急に。そんな状態でいつも通りと言うのはかなり難易度の高いことだろう。
そう思うと……なんだか少し腹が立ってきた。昨晩に引き続き、私だけこんな風に意識させられて――と、考えていれば私の脳裏に昨晩の照れた龍樹の顔がよぎる。
そうだ、私ばかり振り回されていては不公平だ。
そう思った私は努めて平静を装いながら、
「うん、昨日膝枕したでしょ? その時にポッケから出してそのままだったんだよね」
会話の中で自然と膝枕のことを口にして昨日のこと思い出させる。
すると龍樹の方が僅かにビクンと跳ねたのが見えた。
そんな龍樹の姿を見た途端、私の胸に湧き上がったのは少しの嗜虐心。
こんな朝早くから私をドキドキさせた罰だ、なんて、そんなことを考えながら私は聞いた。
「ねぇ、龍樹。なんか、あった? 今日ちょっと変じゃない?」
質問と言うより、断定の意を込めたこの言葉に龍樹がごくりとつばを飲み込むのが窺えた。
しかし、これだけでは龍樹の牙城を崩すには至らなかったらしい。
「いや、そんなことないと思うが。それより、スマホだろ。膝枕した時なら、リビングだよな。とりあえず探すか」
さらりと流しながら、自然と話を逸らされる。
ふーん、なるほど。そう来るんだ。
「……うん」
私はここでは流されるフリをしながら、内心で確信する。
どうやら、昨日のことで龍樹は私のことをしっかりと意識してくれているようだ。
そうと分かればもう少し小突いてみよう。
そう心に決めて、私はリビングの方へ足を向けた。
私のスマホは探すまでもなく見つかった。
私の忘れたスマホについて感想を募れば、どうしてこんなとこに忘れるんだという感想と、なんで気が付かないんだという感想が同じ数集まりそうなほど目に留まりやすい場所に置かれていた。
「あ、普通にあるじゃん! もう、こんなに普通に置き忘れるなんて……」
「悪いな。俺も見慣れてたせいか、普通に置いたままでも気付かなかったわ」
「なるほど確かにそれはあるかもね。基本的にいつもこの辺りにスマホ置いてるし」
「な。気づいてれば届けたんだが……」
「いや、今日みたいな日はわざわざ届けてもらわなくても大丈夫だけど……」
龍樹と軽口を叩き合いながら一晩放置したスマホを確認していく。
悠月からお節介なメッセージが二件ほど届いていたが、それ以外には特に変わったところはなかった。
そんな確認をしていれば、何故か龍樹が私に背を向けた。
そしてその顔の方に目を向けてみれば、恐らく深呼吸をしているであろう姿が目に入った。
その姿を見て、私はここだ! と思った。
「うん。特に緊急の連絡もなさそうだったし、問題なし。じゃあ、勉強しますか――」
「おう」
龍樹のすぐ後ろに立って、振り返りざまにバッチリ目が合うようにする。
そうすれば安心しきった表情の龍樹は無警戒にこちらを振り返った。
「と、言いたいところだけど、流石にツッコませて。今日、何かあるの? さすがにその恰好を無視はできないよ」
一度目を合わせてから、もう一度足元から見上げていくようにしてその全身を見ていく。
意趣返しのつもりか何なのかは知らないけど、私だってやられっぱなしじゃいられない。しっかりと言葉にさせて、今度こそ龍樹に意識してもらおう。
「さてと、今日は一体どうしちゃったんですか? 龍樹サン?」
気持ちはさながら裁判官。龍樹の内心を何としても暴いてやろうと口調にもノリが現れる。
「ちょっと……まともな服を着てみようかなと、思っただけだよ」
龍樹は私からスッと視線を外しながら答える。
「ふぅん。いつもはほぼジャージしか着てない龍樹が急にねぇ……。玄関で見たときはいきなり知らない人が出て来たかと思ったよ」
私はそんな外された視線を追いかけるようにしながら少しだけ自分の感情も見せてみる。これはある種の駆け引きだ。龍樹は真面目な性格。素直な相手には素直になってくれるだろうという経験則から私はそう言ってみた。
すると、龍樹は少しだけ嬉しそうにして言う。
「そんなに違うか?」
あまり見たことのない顔。
嬉しそうで、でもどこか恥ずかしそうに照れていて、そんなもどかしい表情が何とも私の心をくすぐった。
「違うよ! 制服だっていつもテキトーな感じに着てるのに今日は――」
そのせいだろうか。抑えていた感情が予想以上に言葉に乗ってしまい、言うつもりのなかったことのごく手前までを口にしてしまった。
顔がカッと熱くなる。
そしてそれを察したかのようにこちらを向き直った龍樹が私の顔を見た。
「今日は……なんだよ?」
そして何故か私と同じように顔を赤くした龍樹が再度顔を背けながら言葉の続きを促してくる。
そんなぶっきらぼうな反応をしてくる龍樹を見て私は思った。ここだ、と。
「……ねえ、これ、膝枕の意趣返しとかじゃないよね?」
念のため、あと、逃げ道を塞ぐ意味を込めて、そう確認する。
「……ん? 意趣返しって?」
すると、一体何の話だ? とでも言いたげな顔でそのまま質問が返って来た。
「はぁ……」
これだから……でも、変わるために。
この鈍感男に、明確に私のことを意識してもらうためには、私から動かなければだめだ。
腰を深く座りなおし、正面の龍樹としっかりと目を合わせる。
怖がるな。昨日の照れた顔を思い出せ風見夏葉。大丈夫、相手は龍樹。私の好きな人は絶対、私のことを無下に扱ったりはしない。
「今日は……」
もつれそうになる舌をゆっくりと動かしながら、確実に言葉を紡ぐ。
「その……」
告白するわけじゃないんだ。大丈夫。素直な感想、感情を見せるそれだけ。
そう自分に言い聞かせて、噛み締めるように最後の一言を口に出した。
「すごいカッコいいよ」
言い切ってからギュっと目を瞑る。
やっぱり怖い。
龍樹は普段から私のことを軽々と綺麗だとか美人とか言ってくれる。けどそれは軽口。
私のこれは本心からの本音だ。
だから、どんな反応が返って来るのか、すごく怖くて目があけられない。
………………。
………………。
………………。
しかし、いつまで経っても返ってこない反応に、恐る恐る目を開けてみれば――
「……え⁉ ちょっと、龍樹⁉」
そこにはぽかんと口を開けたまま瞬きすらしなくなった龍樹が居た。
◇◇◇
ぺちぺちと頬を触られる感触で俺は思考の宇宙旅行から帰還することが出来た。
「龍樹? ちょっと、大丈夫?」
耳元に聞こえて来るは先ほど俺の思考を凄まじい衝撃でトばして見せた夏葉の声。
なんだ? 何を言われた?
脳が受けた衝撃を数十秒遅れで処理していく。
いや、言語的に理解はしている。だが、そう言う問題ではない。
……落ち着け、落ち着くんだ。
カッコいい、別段特に変わった言葉ではない。
普通に生きていればどこかしらで耳にするし、自分で口にすることもあるだろう。だが、こうして正面を切って言われるということは珍しい言葉でもある。
それに……さっきの夏葉の姿を思い出す。
照れて逸らしそうになる視線を何とかこちらへ戻し、テーブル上に軽く置かれていた手には力が入り、僅かに震えてすらいた。
そんな姿を見ていなければ、いくら昨日自身の感情を自覚した俺だろうと意識が飛んだような感覚に見舞われることもなかっただろう。
だが、夏葉のソレは正しく内に秘めたる内心を告白するような口ぶりで、冗談だと受け流せる類のものではなかった。
「た、龍樹? ほんとに大丈夫?」
一瞬だけびくりと身体を動かしてから再び動いていなかった俺の顔を今度は覗き込んでくる夏葉。
……これもう、わざとか? いや、夏葉に限ってそんなことはないだろうけど、これが素なのだとしたら、それはもうモテるだろう。
「ちょっと顔洗ってくる」
「え? きゃっ!」
夏葉にぶつからないように、しかし出来るだけ早く椅子を引き、勢いよく立ち上がると俺は洗面所へ飛び込んだ。
「龍樹⁉」
急にどうしたの? という夏葉の声には耳を貸さずに勢いのままに俺は水を被った。
飲むにはぬるく感じるこの水道水も表皮に浴びれば十分に冷たい。
今はこの冷たさが思考の冷静さを取り戻してくれることを願って俺は二度、三度と繰り返し顔に水をぶつけた。
水が跳ねることも、足元まで水が垂れてくることも構わずに水を被っていると鏡越しに夏葉が洗面所に入って来たのが分かった。
「ちょ、ちょっと龍樹! ストップストップ! もうびしゃびしゃだから!」
洗面所の惨状を目にした途端に俺を止めに入ってくる夏葉。
おそらく彼女も咄嗟だったのだろう。俺の両腕を背後から掴み止める形で夏葉は俺を押さえた。
すると、体勢はどうなるだろう? そう、まるで後ろから抱きしめているようなそんな体勢になった。
動きを止めた俺と俺を押さえる夏葉の目が鏡越しにバッチリと合う。
そしてその視線は二人して現状把握に動き……俺たちの頬は同じくらい赤く染まっていた。
「……悪い、夏葉。ちょっと取り乱した」
「……う、うん。とりあえず着替えたら? 服びしょびしょだし。洗面所は私が拭いておくから」
「あ、ああ。悪い。すぐ着替えてくる」
悪いと思ったが、このまま洗面所に二人でいても気まずくなること間違いなしだったため、俺はその場を夏葉に任せ、自室へと戻った。
姿見を見る。
そこに映るのは前髪までびしょびしょに濡らした俺の姿。
何をやっているんだ俺は……。
大きく水の跡を残したシャツを脱ぎ、いつもの部屋着へと着替える。ズボンも足首の辺りが濡れてしまっていたので、一緒に着替えた。
タオルを引っ張り出し、髪も拭く。
大体の水気が取れるまでごしごしと拭いていれば、せっかく綺麗に梳かした髪もいつも通りへと落ち着いた。
……急に色々とやりすぎたか。
着替えが終わり姿見に映ったいつもの自分を見て呟く。
身だしなみを整える程度、普通の人からすればそう大がかりなことではない。
しかし、こうして普段通りにしてみれば、今朝からずっと高鳴っていた心臓も夏葉に良く見られたいという感情も段々と落ち着いてきた。
よくよく考えてみれば当然かもしれない。
俺と夏葉はもう、一緒に居ることが普通で、当たり前になっていた。
素を見せても、少しだらしない姿を見せても、笑い合える関係。
そんな状態の俺たちに違和をもたらしたとすれば、それは今日の俺の服装だろう。
もちろん、昨晩の決心に、夏葉に釣り合うようになりたいという感情自体が変わったわけではない。
だが、今はそれ以上に夏葉との今の関係を狂わせたくないという俺がいる。
張りつめていた心に余裕が生まれたような気がする。
きっとこの余裕はさっきの夏葉の言葉が由来なのだろう。
そう考えれば、急な身だしなみも悪さばかりをしたわけじゃなかったな。
そうだ、焦ることはない。
慢心はしない。自分も磨く。だが――
――その過程で心地よさを捨てるようでは意味がない。
もっとゆっくり、一歩ずつ確かめながら、自分を高めて行こう。
きっとその方が、ためになる。
自室とリビングを隔てる扉に手を掛け、開く。
「あ、いつもの龍樹だ」
すると、目を合わせて一言目に夏葉はそう呟いた。
「悪いな。洗面所の後処理任せちゃって」
言葉にも緊張は宿らない。
「ううん。大丈夫。使ったタオルは洗濯籠に入れちゃったけど、せっかくならさっき濡れた服と一緒に洗ったら?」
「そうだな。洗ってくるわ」
「うん」
そうだ。これでいい。確かに俺は夏葉が好きだ。
だが、俺が好きなのはやっぱり、みんなにモテる風見夏葉ではない。
素を晒し、一緒に居ればどこか肩の力が抜けて行くような、そんな雰囲気を纏う夏葉なんだ。
なら、俺もいつも俺を、普段通りの八峰龍樹を好きになって貰えるように頑張るべきだ。
濡れた服を洗濯ネットにいれ、テーパードパンツと夏葉の言っていたタオルも一緒に洗濯機に入れる。洗剤と柔軟剤を目分量でサッと流し込み、慣れた手つきで洗濯スタートのボタンを押した。
この一年半で染みついた動作。
俺の普段通りが段々と確かな実感を持って、身体に戻ってくる。
「さて、ちょっとドタバタしたけど、勉強会、始めるか」
リビングへと戻り、夏葉の方を見て言う。
「そうだね。あ、一応サンドイッチ作って来たんだけど、食べる?」
「お、じゃあ食べながら世界史の問題でも出し合うか」
「ちょっとお行儀は良くないけど……まあ、いっか! いいよ、受けて立つ」
「ははっ」
「ふふっ」
笑い合いながら夏葉の正面へと腰を掛ける。
まだ、俺の胸には確かな炎が灯っている。
だが、それは先ほどまでのような激しい強火の炎ではない。柔らかく、それでも確かに熱いそんな焚火のような炎だ。
「こっちがツナときゅうりでこっちはジャムサンドだよ」
「美味そうだ。いただきます」
「召し上がれ」
サンドイッチを手に取り、昨日片づけずにそのままにしておいた教材の山から世界史の一問一答集を取り出す。
「じゃあ、ルネサンス期の……」
「そこ、今回の範囲じゃないよ」
「まあ、復習ってことで」
「歴史系も確かに復習は大事だけど、せめて地域くらいは合わせないと混乱するよ」
「……それもそうか」
気が付けば、すぐにいつも通りが訪れる。
そうだ、これでいい。
こうして、俺たちの勉強会は一時慌ただしい出来事に見舞われるも、ゆっくりと始まるのだった。
◇◇◇
夏葉の作ってきてくれたサンドイッチを食べながら世界史の問題を出し合うこと三十分と少し。すっかりサンドイッチも食べ終わり、お互いに問題にひねりを加え始めた所で無機質な機械音が洗面所の方から響いてきた。
「お、洗濯終わったか」
「じゃあ、三十分くらい経ったね。結構問題出し合えたんじゃない?」
「そうだな。一旦干してくるから休憩しててくれ」
「手伝うよ?」
「タオルと服二枚なんだから手伝ってもらうほどじゃないって」
「それもそっか」
夏葉の返事を聞きながら洗面所の方へ向かい、洗濯物を取り出してベランダへ向かう。
窓を開ければ、もはや夏と言われても信じてしまえるほどの熱気に梅雨を控える時期特有のムンとした高い湿度に全身が包まれる。蒸し暑く感じるほどではないが、こうして晴れているなら、どうせならカラッと晴れて欲しいものだ。
なんてことを考えながらタオルとシャツをハンガーにかけ、ズボンはピンチ付きのハンガーに留めて干すと早々に窓を閉めた。
「なんか今日、すごい熱い日らしいよ。勉強会にして正解だったね」
俺が干し終わったことを見計らってスマホで天気予報を見ていたらしい夏葉が声を掛けて来た。
「やっぱそうだよな。今、少し外に出ただけで若干汗かいた気がする。まあ、なんにせよ再来週……いや、もう来週の月曜日からはテストなんだからなんだかんだで勉強会になってた気がするけどな」
「確かにね。そう言えば龍樹は今回のテストの目標とかある?」
洗濯籠を洗面所へと置いて、夏葉の向かい側に戻ってきた俺にそんな質問が投げられる。
なるほど目標か……。
「うーん、そうだな。今のところ明確な苦手はないし、二十番以内とかかな」
俺たちの通う私立松波高校は一学年八クラス程度のいわゆる普通高校だ。
しかし、スポーツには力を入れていることもあり、うち二クラスはスポーツ科、残りの六クラスが普通科となっている。
学年全体では確か二百五十名程度が在籍しており、大体五十人がスポーツ科の生徒だと考えれば、俺の目標の二十番以内とは普通科内での上位十パーセントを指すことになる。
「おお! 二十番以内! 珍しく結構やる気?」
「まあ、メインは一年時の総復習だって話だし、これまでも定期的に勉強してきたからな。そう言う夏葉は? そろそろトップ狙いか?」
「トップは流石に……けど、龍樹がそんなにやる気出すなら、私もトップ十くらい狙っちゃおうかな」
「おお! って……いや、まて。一年の三学期期末、夏葉六位とかじゃなかったか?」
「……てへ」
「こんにゃろ。夏葉は五位以上を目指して頑張れ」
お茶目を装って軽く舌を出して見せる夏葉に無責任にそんなことを言う。
だが、夏葉なら五位以内だって全然狙えるはずだ。
「じゃあ、今日から勉強漬けだね」
そう言うと夏葉はスマホをいつもの位置に置き、長い髪を腕に付けていたヘアゴムでまとめる。すると途端に彼女の纏う雰囲気が変わる。
そして俺より一足先に勉強モードになって問題を解き始めた。
夏葉はかなり勉強が出来る。
どのくらいかと言われれば、一年の夏休みに一緒に勉強をするようになってから八十番台で燻っていた俺の成績が五十番以内が固くなるほどには出来る。
夏葉自身の成績で言えば、一年生の頃の一学期のことはあまり覚えていないが、夏休み明けからは基本十番台前半から一桁後半あたりをうろうろしているイメージだ。
そんな彼女に釣り合うようになるために少しでも高い目標を達成したい。個人的ないつも通りを崩すのは先ほどのような事態を招きかねないが、付属的な要素を高めるのはいつも通りを崩す要因にはならないだろう。目の前で真剣に問題集へと向かう夏葉を見ながら俺も夏葉と同じ数学の問題集を開き、筆箱でページを押さえると目の前の夏葉を倣って解き始める。
数学は嫌いではない。
現状以上に難しいものについては分からないが、現時点の問題には必ず解き方が存在し、いくつかの公式こそ覚える必要はあれど、その他は解き方にさえ辿り着ければあとは計算ミスに気を付けるだけだ。
もちろん、その公式を覚えるのが難しいのだが、それこそそこは努力次第と言うところだろう。
シャーペンがノートを滑る音だけが耳に響く。
時折挟まれるシャーペンのノックの音とページをめくる音が心地よくなる。
そんな風に音を感じられるようになってくると俺は集中が出来ている気がする。
問題文がするすると頭に流れ込み、ノートを走るペン先ではみるみる芯が減っていく。
そして、開いたページの問題を一通り解き終わったところでペンをノートの中心へ向かって転がし、真上に大きく伸びをした。
「あ、終わった?」
すると、先に問題を一通り解き終わり俺の終了を待っていたらしい夏葉がそう言いながら自分のノートを差し出して来た。
「待たせたか?」
俺も自分のノートを夏葉の方へ差し出しながら聞き返す。
「ううん。十分も待ってない。やっぱ龍樹、数学得意だよね」
「いや、俺的にはそんなに得意なつもりもないんだが……どちらかと言えば国語の方が得意だし」
「でも、古文は苦手じゃん」
「うっ」
「ふふっ、まあ、取り敢えず答え合わせしよっか。間違えたとこは一緒に復習ね」
「分かってるよ」
痛いところを突かれながら、今度はペンを赤ペンに持ち替えて採点をしていく。
夏葉と勉強会をするようになって、俺の成績が大きく向上した理由がこの交換採点だ。
はじめはかなり抵抗があった。
誰だって間違えた問題を人に見せたくはないだろう。
しかし、夏葉は俺がどれだけ間違えても笑ったりしない。丁寧に教えてくれるし、二人して間違えればああだこうだと議論をしながら回答を理解できるまで一緒に考えてくれる。
そんな夏葉のおかげで間違えることへの恥じらいが小さくなっていくにつれて、俺の成績も向上していったのだ。
相変わらずの正答率。
英語に続き、夏葉のノートには数学でもミスというミスが見当たらない。
そして最後の問題までたどり着いたところで俺は勢いよく顔を上げた。
「やっぱ夏葉の方が数学得意だろ……ほらこれ、満点だったぞ」
「え! ほんと⁉ やったー! 龍樹ははい、これね。多分余弦定理の係数間違えてる。一個目でズレたからこの大問はやっちゃってるね」
夏葉は俺の採点を見て満足そうにしながら、俺の回答にはしっかりと忌憚のない意見をくれる。
夏葉からノートを受け取り確かめると、確かに図形問題の(1)を間違えた結果、残りの回答にも大きなずれが出てしまっていた。
「うわ、余弦定理のミスはまずいな。しかもこれ公式から間違ってんじゃん」
「まあまあ。今分かってよかったね。でも、それ以外は龍樹も完璧だったよ。ケアレスミスもなし!」
そう言って励ましながら、解答集の該当箇所を指さしてくれる。
俺は今一度しっかりと解説を読み、そしてもう一度今の問題に向き合う。
この勉強法が本当に良い。
個人差はあるかもしれないが、しっかり間違いを認め、その時点で理解できるように直すこと。勉強の鉄則はこれだと思う。
「……よし。これで、正解か?」
「うん! 大丈夫。でも、また夜に解いて見なきゃだね」
「おう。理解と反復だな」
「そうそう。分かったつもりが一番危険だからね」
そんなことを言い合いながら時計を見れば、時刻は十一時半に差し掛かろうかという所だった。
「意外といい時間か。数学はやっぱり時間食うな」
「そうだね。今度は時間測りながらテスト形式でやろっか」
俺が時計を見ながら呟けば、完全に勉強モードの夏葉は次の計画を立てている。
だが、俺が時間について発言したのはそう言う意図ではない。
「そうだな。と、まあ、それは良いとして。どうする昼は?」
「あ、そっか、もうお昼だね。龍樹お腹空いた?」
完全に忘れていたとでも言いたげな顔で呟くと、改めて俺にそう聞いてきた。
「んー、そうだな。空いていないこともないって感じ。夏葉がまだいらないならもう少し後でもいいか」
「大丈夫? 私はまだそんなにお腹空いてないから、そうしてくれるとありがたいけど」
「問題なし。じゃあ、次はどの教科やるか」
「生物はどう? これは完全に二年生になってからの範囲しかないし。六十分で練習問題解くとか」
「ありだな。そうしよう」
「よし、じゃあ、時間測るね!」
夏葉はそう言って置いてあったスマホでタイマーをセットし、俺にも時間が確認しやすいように横に向けて置いてくれる。
「準備おっけー?」
「おっけーだ」
「よし、じゃあ、スタート!」
夏葉がタイマーを動かし始めると同時に生物の問題に目を通していく。
生物は理科だが、どちらかと言えば暗記科目に近い。化学や物理のような計算はないため、覚えてさえいれば特に苦労することなく解き進めることが出来た。
サクッとすべての問題を解き終える。
二つ程思い出せない物があったが、それに関してはもう仕方がない。時間いっぱい思い出せるように努力はしてみるが、しっかりと問題に印をつけて、後で復習できるようにしておく。
そして一通り見直しも終わり、タイマーを確認してみれば経過時間は四十分に辿り着こうかと言う所。
分からない問題は潔く飛ばしたおかげか、見直しをしても二十分も時間が余ってしまった。
邪魔をしないように夏葉の方に目を向けてみれば、夏葉はまだ問題を解いている途中なのか、ペンの先でノートをトントンと叩いている。
……髪を一つにまとめた夏葉はいつもの清楚美人系とはまた違い、どこかスポーティーな雰囲気を纏っている。しかし、表情やしぐさはどこか知的で……簡単に言えばすごくきれいだ。
視力は良かったはずだが、この様子なら眼鏡をかけても良く似合うのではないだろうか……と、俺は一体何を考えているんだ。
頭を過った眼鏡姿の夏葉をかき消しながら、そっと視線をタイマーの方へとスライドする。
経過時間は四十三分と少し。
まだ後十五分か……なんて考えながら視線を自分の問題の方へ戻そうとした時だった。
夏葉のスマホが震える。
そしてその上部には、昨晩も見てしまったメッセージアプリの通知が届いていた。
俺と夏葉の視線がその通知に集中する。
そこに表示された内容は――
「そういえば、デートとかってしたことあるの?」
「お弁当作ってあげるくらいだし、当然かな? 笑」
立て続けに二件そんな内容のメッセージが表示された。
さすがの夏葉もペンを放り出し、パッとスマホへ手を伸ばした。
そして、ジッとこちらを見て一言。
「見た?」
どうすべきだ?
一瞬の逡巡。ここで見てないと答えた場合、それはおそらくこの場をやり過ごすことは出来るだろう。夏葉も外面では言葉のままに受け取ってくれるはずだ。
しかし、人間とは外的な要素のみで構成されるものではない。確実に夏葉の内心には見たよね? 気を使ってくれたのかな? という疑念が残るだろう。
それはいつも通りを望む俺からすれば、好ましい結果ではない。
ならば、答えは一つ。
「……見た、すまん」
正直に言うこと、そして謝ること。
今回とて状況的に致し方ない状況ではあった。だが、感情と状況はまた別の話。
悪気がなくても不利益を与えれば謝るべきだ。
「いや、通知を切ってなかった私が悪いから、良いんだけど……」
気まずい沈黙。
せっかく早朝の気まずさが抜けていつも通りが戻ったところだったと言うのに、これでは逆戻りだ。
「とりあえず、生物解き切ったらどうだ? そんなあれじゃないかもだけど」
「……うん。あと十五分くらいだったよね」
「ああ、とりあえずタイマーは俺のスマホの方にしとくな」
「ありがと」
いそいそとポケットからスマホを取り出し、十五分にセットしてテストをリスタートさせる。
再びペンを手に取り問題に向かい始める夏葉。
だが、その姿は心なしか集中しきれていないように見えた。
十五分が経ち、タイマーのアラームが鳴る。
ギリギリまでペンを置かなかった夏葉がフッと息を吐いて伸びをした。
「じゃあ、採点頼む」
「こっちもお願い」
通例通りお互いの回答を交換し、採点をしていく。
小気味良く赤のボールペンがノートの上を滑っていく。
しかし、終盤に差し掛かって夏葉の正答率が急に下がった。
それまでは確実に正当を重ねていた夏葉だったが、恐らくあの通知以降の回答がボロボロだ。
「龍樹、すごいじゃん! 間違えたのは飛ばしてあった一個だけだよ」
口調は普段通りの夏葉が先に採点を終えたようで、そう言いながら俺のノートを返して来た。そしてそのままの流れで夏葉は自分の回答を見て――
「……やっぱ、集中切れるとダメだね」
そう呟いた。
「ま、まあ、さっきのは不幸な事故だったし、いつもの調子なら大丈夫だとは思うが……」
俺も夏葉にノートを返す。
点数に起こせば、俺は九割越え、夏葉は七割に届くかどうかと言う結果。
これが逆ならかなりいつも通りなのだが、やはり、それだけ夏葉のいつも通りは崩れてしまっているということだろう。
夏葉は俺から受け取ったノートをジッと見つめている。
……何か言った方が良いだろうか?
いや、ここは敢えて俺だけでも普段通りに振る舞うべきか?
ぐるぐるぐるぐると取り留めのない思考が脳を染め上げて行く。
だが、どれだけ考えた所でこの状況を打開する策を思いつくことはなかった。
ならば、
「夏葉、飯にしよう」
未だ、ノートを見つめたままの夏葉に俺はそう声を掛ける。
「え、あ、うん。いいけど……何食べるの? と言うか食材あったっけ?」
「とっておきが残ってる」
「え?」
不思議そうな顔をする夏葉に座って待っててくれと伝え、一人でキッチンへ向かう。
そして、最近は空けていなかった部分のキッチン収納を開けた。
中から二人分の箱いや、カップを取りだす。
夏葉と一緒に過ごすようになってから、どれだけ簡単な物でも二人で料理をすることが多かった。とは言え、俺に作れるのは家にある具材を鍋で煮込んだだけの鍋やら、市販のソースをかけたパスタ、揚げ焼きにしたから揚げ程度。
それも、本当に夏葉と過ごすようになってから覚えたものだ。
では、それ以前の俺は何を食べていたのか?
その答えが、これだ。
最近は使っていなかったやかんに水を入れコンロにかける。
沸くのを待つ間にカップの蓋を半分ほど開けて、中のかやくやらスープの元やらタレやらを取り出した。
チラッと夏葉の方を見てみれば、珍しく心ここに在らず、と言った様子でぼうっとしていた。
カタカタとやかんの蓋が震えだし、沸騰を告げる甲高い音が静寂な部屋に響く。
スープの素をカップに空け、上からお湯を流し込んだ。
スマホで五分のタイマーをセットし、スタートする。
そして俺は二つのカップ麺をお盆に載せ、夏葉の待つテーブルまで運んだ。
「……カップ麺」
「カップ麺だ」
「なんか、意外かも。龍樹ってこういうの食べたっけ?」
「ああ。夏葉と会うまでは三日に一食はこれを食ってたな」
俺がそう言えば驚いた顔をする夏葉。
「俺たち、結構一緒に居るけどさ。意外と知らないこともあるし、言ってないことだってある」
昨晩、メッセージを覗いてしまったことと先ほどのこと、その両方への謝罪と、対等な関係を目指して語る。これは一方的な押し付けだ。しかし、今はこうすべきなんじゃないかと、俺の中の何かが言っていた。
「これはさ、このカップ麺は中学の時に食べるようになったんだ。あんまり話したことなかったけど、母さんが亡くなってな。それで色々あって、バタバタした中で親父が買って来たんだ。それから結構好きでさ」
あくまで軽めに。でも、これは今まで俺が話してこなかった話をする。
一から百まで全て自己満足だ。しかし、フェアに、これからもいつも通りを夏葉も望んでくれるなら、この話を聞いて欲しいとそう思った。
「……そっか。……ごめん、気を使わせちゃったね」
夏葉が力なく笑う。
でも、その表情には先ほどのような取り繕った感じはない。
「いや、聞いて欲しかっただけだよ」
「ふふっ、優しいよね。龍樹は」
なり始めたタイマーを止める。
決して、真っすぐな言葉に照れた訳じゃない。
「さ、食おうぜ。意外と美味いんだ」
「うん。いただきます」
蓋を開ければ、油と特有の香りが部屋いっぱいに広がる。
ズズズっと一口すすれば、懐かしい味が胸に広がった。
夏葉も俺に続いてひと口すする。
「ほんとだ。意外とおいしい」
「もしかして、初めてか?」
「うん。インスタントラーメンは食べたことあったけどカップは初めて」
「そっか。あ、くどかったら言えよ? 無理して食うもんでもないから」
「ふふっ、大丈夫だよ。私の場合、無理なら無理しても食べれないから」
自然な笑みがこぼれだす。
そうだ、これでいいんだ。
お互いに気を使いすぎず、しかし、ちゃんと配慮もする。
そんな関係が心地よい。
カップ麺をすすりながら、俺は改めてそう思った。
しばらく二人でずるずるとカップ麺をすすり合う。
決して早食いをしているつもりはないが、こういう一人一皿の物を食べるとどうしても俺の方が早く食べ終わってしまう。
箸を置いてぼうっと夏葉を見つめる。
こうしていることも少なくないが、さっきの話然り、俺たちは意外とお互いのことを知らないのかもしれない。
釣り合い云々ばかりが先行していたが、それ以上に俺は夏葉のことがもっと知りたい。
俺が境遇の話をしたのは、状況や衝動的な面ももちろんあるが、俺のことを知って欲しいと思ったからだ。
テストが終わったら……。
「ねぇ、龍樹」
俺がそう思うとほぼ時を同じくして、カップ麺から顔を上げた夏葉が俺を呼んだ。
「どうした?」
「……テストが終わったらさ、で、デート、しようよ」
「おう、いい……え?」
条件反射的に了承しかけて言葉を疑う。
急にどうしたのかと夏葉を見れば、その顔は耳まで赤く染まっており、プルプルと震えている様子だった。
「……聞き間違いじゃ、ないみたいだな」
そんな様子を見せられては自分の頭を疑うことはできない。
これは現実だ。俺の楽観的な脳によって作り出された極めて都合の良い妄想、ではなく、物理的で完全な現実の出来ごと。
不意によぎるのは昨日と先ほどに見てしまったメッセージ。
これは……そう、思っても良いのだろうか?
「ど、どうかな?」
以降、固まったまま返事のない俺に夏葉が確認をしてくる。
その手元からは箸が置かれ、どうやら夏葉も食べ終わったらしい。
「……もちろん。行こうか」
俺の答えはもちろんイエス一択。
断る理由なんて一つもない。
「良かった。……ふぅ、緊張した」
ホッと胸をなでおろすような仕草を見せる。
デート、デートか。
仲の良い男女間にて、いや、昨今はその限りではないのかもしれないが、まぁ、基本的には男女間において用いられるお出かけの標語。
友達から夫婦間まで多様な関係に置いて用いられるそれだが、今回のデートが意味するところはつまり……。
先ほどの夏葉の緊張の面持ちが蘇る。
いつものちょっとしたお出かけや外食とは違う。明らかに次を意識した誘いだった。
と言うことは、だ。
俺からではなく、夏葉が俺のことをいつも通りにではなく、改めてデートに誘う意味。
それは、きっと……。
その思考に至った途端俺は自分の顔が茹でだこも顔負けに赤くなっていくのを自覚する。
今朝、かっこいいと言われた時とは別ベクトルの破壊力。
先の一件を意識外からの不意打ちだとするならば、今回のこれは明確に理解させる決め技。
思考の余地も残さぬほどの大振り。
「じゃあ、午後の勉強しよ。せっかくデートに行くんなら、二人そろって目標達成して、気分よく行きたいでしょ?」
気が付けば、俺と同じくらい顔を赤くしていたはずの夏葉はすっかりいつも通りを取り戻し、こちらのやる気をこれでもかと奮い立たせてくる。
「そうだな。よし、午後一発目は何から行く?」
「昨日からの消去法的に国語じゃない? あ、龍樹の苦手な古文からね」
「……いいぜ。受けて立つ」
「ふふっ、別に勝負じゃないよ」
「いいだろ。じゃあ、古文、漢文、現代文全部含めて勝った方はデートの時に相手に好きなことをさせられる権利を掛けて勝負、ってのはどうだ?」
「お、良いね! 何してもらおうかな」
「おいおい、現代文で俺に勝てるのか? 俺の唯一の得意科目に」
「今回は勝たせてもらうよ。そもそも龍樹は現代文は出来るけど今、自分で全部含めてって言ったのが間違いだったね」
カップ麵を片付けて軽く台拭きをしてから再び向かい合う。
卓上には国語関係の問題集と、丁度俺たちの中心には俺のスマホを置いた。
「じゃあ、始めるぞ?」
「いつでもいいよ!」
俺の手がタイマーのスタートボタンに触れる。
問題集をめくる音が重なる。
こうして俺たちの勉強会は色々と予想外の事態を起こしながら、だが、着実に進んで行った。
◇◇◇
――一週間後、五月四週目の月曜日朝。
八時前のいつもの時間にインターホンが鳴り響く。
俺はすぐに準備を終わらせ、鞄を肩に掛ける。
「おはよ。今日も準備できてるんだ」
「ああ。勉強も大事だが、テスト前は睡眠も重要だからな。昨日はしっかり早く寝て、朝から一限の最終確認してた」
「ふふっ、ほんとにやる気だね。それにやっぱり龍樹、ちょっと変わった」
俺の頭から足元までをゆっくりと見渡す夏葉。
その目に映る俺には寝ぐせもなければ、制服のヨレもない。
いつも通り、だが、身支度は今まで以上にきちんと整えられている。
「目標が出来たからな。少しはちゃんとしようと思ってさ」
「そっか。……あ、そう言えばあれは決めた?」
「あれって?」
「ほら、先週の日曜日からいろんな教科で勝負して、勝って負けての繰り返しでさ。結局デートでお互いに一つずつ好きなことさせるってことになったやつ」
悪戯っぽく、微笑を携えた夏葉が聞いてくる。
「いや、俺はテストが終わってから考えることにした」
「えー、そうなの?」
「ああ、今は目標に集中したいからな」
「む。それって色々と考えてた私が目標に集中できてないってこと?」
「そう言う訳じゃないけど……」
「ふふっ、嘘嘘。私も特に決めてない」
「なんだよ」
玄関前でのほんの些細なやり取り。
特に変わらないいつも通り。
だが、今の俺たちの間には確かに、繋がっているものがあるように思える。
「じゃ、行こっか。改めて、龍樹、目標は?」
先に一歩踏み出した夏葉が振り返り聞いてきた。「学年の上位十パーセント。二十位以内に入ること。夏葉は?」
「学年の五位以内に入ること!」
それだけ言い終えるとこちらに向かって夏葉は軽く手を上げた。
俺も、それに合わせるように片手を上げる。
「よしっ! じゃあ、今日から三日、がんばろー!」
「おう!」
パチンといい音のハイタッチ。
じんわりと熱を持った右手を固く握る。
今日も夏に顔負けな暑さらしい。
だが、それ以上に今は俺の真ん中で熱いものが燃えていた。
◇◇◇
「ったはぁ~、終わった……」
テストの終了を告げるチャイムが鳴り、解答用紙を後ろの人から回して回収をし終えたところで俺の横までやって来た篤人が複数の意味を含んでいそうな声を響かせた。
「終わったな。……その様子、今回は特別ダメだったのか?」
「いや、別に、いつも通りだけどさ。今回は一応夏予選の前だろ? 本番は夏休み前の期末だけど、その頃には練習試合とか多くなりそうだし、余裕を持っておきたかったなって」
「そう思うなら、普段から授業はちゃんと聞いておけよ」
「それはそうなんだけどさ~。今回は珍しく龍樹が面倒見てくれなかったから~」
くねくねと気味の悪い動きをしながら泣きごとを垂れる篤人。
確かにいつもはテスト前になると、放課後は篤人の勉強に付き合ったりしていた。
しかし、今回は、今回ばかりは断らせてもらった。
「それは悪かったな。今回はちょっと目標があったんだよ」
「大丈夫。元より、いつも龍樹のことばっか当てにしてたツケが回って来たようなもんだし」
「それはそう」
「うへぇ。でも、どうして急にそんなやる気なんだ? いつもだって悪くないだろ?」
不思議そうな顔で篤人が聞いてくる。
「まあな。ちょっと色々あるんだよ。頑張りたくなったっていうか、な」
言いながら、俺は視界の端に彼女の姿を捉える。
いつも通り仲の良い相田さんたちと談笑をしている彼女の姿。
「へぇ~、ま、何でもいいけどよ。いい顔してんじゃねぇか!」
バシンと背中を叩かれる。
「何すんだよ!」
衝撃で反射的に見た篤人の顔は何故かニヤついて居るように見える。
「……何だよ?」
「いーや、なんでも。けど……いい顔になってるぜほんと。あーあ、俺も彼女欲しいな~」
「か、彼女って。何の話だよ?」
「え、龍樹お前……バレてないとでも思ってんのか? 最近妙に身綺麗にしてるし、ここ数日はいつも一緒に帰ってた夏葉さんとも妙に話さなくなってたし、あーこれはって感じだぞ?」
「ち、違うからな。俺と夏葉は別にまだ……あ」
「ほぉう。まだ、ね。まだ。」
ニヤニヤと顔を歪めてこちらを見てくる篤人。
無性に腹が立ったので、篤人の脇腹を小突いておいた。
「まあ、ほんと、なんにせよ、だ。俺はお前が昔見た龍樹に戻ってるみたいで嬉しいぜ」
小突かれた脇腹を軽くさすりながら、いつも以上の爽やかイケメンフェイスで爽やかイケメンなことを言って見せる篤人。
「ぅるせ。お前は追試頑張れよ」
「なっ! 良いこと言ってやったのにお前! 俺が追試になったら、勉強教えてもらうからな!」
「どんな脅し文句だよ、それ」
テスト後の賑やかな教室で俺と篤人は笑い合う。
「昼はどうすんだ? 食ってから帰るのか?」
「いや、特に決めてないけど」
「じゃ、学食行こうぜ。俺はこれから部活だから付き合ってくれ」
「いいぜ。そうとなれば、さっさと行くか。テストの後の学食は混みそうだ」
「そうだな」
俺は篤人と共に学食へ向かいながら、夏葉にメッセージを送る。
「昼は篤人と学食で食べてから帰る」
するとすぐに既読が付き、オッケーと言うスタンプが返って来た。
◇◇◇
「夏葉~今回は気合入ってたね」
他の友人たちがそれぞれ解散していくタイミングを見計らって悠月が言った。
「そう? いつも通りじゃない?」
私はそんな悠月にいつも通りを装って答える。
スマホには龍樹からメッセージが届いていたが、特に緊急性のあるような話でもなさそうだったのでスタンプを一つ返すと、すぐに画面を消した。
「またまたー。ま、いいけどね。それで、夏葉、これから暇?」
「それは、うん。暇だけど」
「じゃあさ、今日はカフェいかない? 実は絵が行き詰っててさ。気分転換、付き合ってよ」
「いいよ。どこのカフェ?」
「駅前のとこ。もう少しすればお昼時も過ぎるでしょ? ちょっと空きそうじゃない?」
「確かに。お昼時は混んでそうだけど、過ぎれば入れそうかもね」
「よーし。じゃあ、行こー!」
テスト後の校舎を出て行く生徒たちの顔ぶれは皆どこか晴れやかだ。
もちろんその顔ぶれの中には私も含まれている。
悠月に誘われたカフェに向かう道中、私の脳内は珍しくテストのことで一杯になっていた。
無論、心配ではない。達成感だ。
私はそれなりに勉強が出来る方だ。今も隣を歩く友人のように入学当初より学年一位の座を譲っていない程ではないにしろ、自分がそこそこ上位に位置している自覚はあった。
「悠月は今回も一位取れそう?」
「ん~? どうだろうね? 夏葉に負けてなければそうかもね」
「え? 私」
世間話のつもりで悠月にテストの話題を振ってみれば、眼鏡越しにこちらを見透かしたような悠月がそんな風に返して来た。
「そう。夏葉。だって夏葉、普段テスト終わっても私にそんな風に言ってこないでしょ? だから今回は自信あるんだろうな~って」
雰囲気からも達成感が滲んでるぞなんて言って悠月は顔を綻ばせた。
「そんな……こと……」
「ない、とは言えないんじゃない?」
ジッとこちらを見つめる悠月。
本当にこの友人には敵わない。
「……降参、ちょっとテンション上がってた」
「ふふーん、まあ、結果が出るまでは夢を見るといいよ。天才悠月サマの壁は高いぞよ?」
「言ったな~。今回は私が一位を貰うんだから!」
あはは、と、楽しい声が木霊する。
「でも、夏葉がテストに自信を持つって相当じゃない? 何々、もしかしてテストが終わったら、何かイイことでもあるのかな?」
ひとしきり笑い合った後で、いつものにんまり顔をした悠月が尻すぼみに声を小さくして言ってくる。
「悠月、またおじさんみたくなってるよ」
「あー! 直接言った! 花のJKには絶対禁句の一言直接言った!」
「はいはいごめんごめん。でも、これくらいは言わせてもらわないと。悠月のせい、と言うかおかげで危うく大変なことになるところだったんだから!」
「ほう? 一体何があったのか気になりますな。……もしかして最近八峰くんと一緒に帰らなくなったこととか関係してたり?」
きらりと眼鏡を光らせて、探偵染みた仕草をして見せる悠月。
「……とりあえず、カフェ入ろ」
私は何も答えずに目前に見えて来たカフェへと少しだけ足を速める。
「はーい。じっくり聞かせてもらうからね~」
すると悠月も駆け足気味に後を追ってきた。
カフェの店内は物静かと言うよりは、昼過ぎになり、時間に余裕のある人たちがメインとなったことで騒がしく感じない程度の賑やかさがあった。
一歩踏み入れた瞬間からコーヒーの香ばしい香りが漂い、賑やかな中にも確かな安らぎを感じられる。
「テーブル席へどうぞ」
案内された二人掛けのテーブル席へ向かい合って座る。
二人してメニューを眺め、ああだこうだと言いながら注文を終え、私のコーヒーと悠月の紅茶が運ばれてきたところで話は先ほどの続きへ戻った。
「それでそれで。一体最近はどうしちゃったのさ? もしかして押してダメなら引いて見ろ作戦?」
妙に様になる格好で紅茶をすすったあとで身を乗り出して話を切り出す悠月。
「違うよ。テストに集中しようってことになっただけ。朝は一緒に来てるし」
実際は違う。悠月から送られたあのメッセージを見てしまったことをこの勘の鋭い友人に悟られたくなくてなるべく学校では話さないようにしていただけだ。あれからもテストの前日まで毎日勉強会はしていた。
「確かに。朝は一緒だよね。……っていうかさ、ずっと思ってたんだけど、夏葉って家、この辺じゃないよね?」
「え?」
急に何の話をされるかと思えば、家?
私の家は学校まで歩いて行ける距離なんだけど……と思っていると、悠月は続ける。
「まだ入学する前にさ、学校説明会みたいなのあったでしょ? その時夏葉のこと見かけてさ。着てた制服がこの辺の学校のじゃないな~って思ったことがあって」
「なるほど? でも、高校だし、そんなものじゃない?」
「まあね? だけど、夏葉、歩いて学校来るじゃん。それってつまりさ、一人暮らしってことだよね?」
「⁉」
なるほど。そう繋がるのか。
まさかこんな風に誰かに一人暮らしがバレるとは思わなかった。
「実はずっと怪しんでたんだよね。あの、夏葉が食べるの遅いことを八峰くんが知ってた時から」
「怪しむって。別に高校生だし、珍しくても聞かない話でもないでしょ」
「いーや。私が言いたいのはそう言うことじゃないんだよね~。夏葉と八峰くんさ、じつはご近所さんだったりするんじゃない?」
口調は疑問形だが、その表情は既に確信づいているかのような明確さを宿している。
まさか、そこまで見抜かれているとは。
少しだけ、誤魔化すことも考える。
しかし、なんだかんだと話しているうちに私の方がボロを出してしまいそうだ。
そう思った私は、
「……ほんと、天才を自称するだけはあるね。そうだよ。私と龍樹はご近所さん。偶に夜ご飯とか一緒に食べてるから龍樹は知ってたってわけ」
変に隠さず話すことにした。
ここに他の友人が居たらまた違う対応をしたはずだが、この相田悠月と言う友達には嘘は通じないし、嘘を吐きたくないと思った。
「ふっふー、そうでしょうとも! それで、八峰くんとは一体どうして距離を取っているのカナ? もしかして夜に秘密の逢瀬をしているから学校でボロを出さないように敢えて距離を取っているとか?」
またもおじさんくさい口調でニヤニヤと推理を披露する悠月。
だが、大体あっているので強く否定することが出来ない。
「……まあ、逢瀬というか勉強会だけど」
「ほほう!! 良いですな勉強会! そう言えば、あれから進展はありました? 家を知ってるならハグとか膝枕とかもっとすごいことしちゃったり?」
私が否定をしなかったのを見て、口元の笑みを一ミリも隠そうとしなくなった悠月が矢継ぎ早に質問を投げてくる。
「別に……特に何もないけど……」
「けど……?」
「ひ、膝枕はしたよ」
「うっひょ~! 美少女のデレ顔膝枕宣言いただきました!」
私が顔を逸らしながら言えば、大興奮の様子で鼻息荒く奇声を上げる悠月。
ちゃんと迷惑にならない声量なのは良いんだけど、悠月ってこんなキャラだったんだと私の中の悠月像が一挙に崩れた。
「それでそれで? 他に進展は?」
「ちょ、ちょっと一旦落ち着いて。他には特に……あ」
「その『あ』は何かあるやつじゃん! 聞かせてよ!」
「いや、その、まだ、何かあったわけじゃないんだけど」
「……」
悠月がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた気がする。
「今回のテストが終わったら、その、で、デートしようってことに」
「゛なっっっ!」
「ゆ、悠月?」
奇声と共に目を閉じた悠月の肩を揺する。
「何という青春! 夏葉、可愛すぎる!」
すると、再び目を開いたかと思えば今度は私の手を両手で包み込むようにして掴みそんなことを言ってきた。
「ちょ、ほんといきなりどうしちゃったの? 今日、様子変だって!」
その後もしばらく様子のおかしな悠月に可愛い可愛いと連呼され続け、流石に恥ずかしくなった私は急いで会計を済ませて、悠月を引っ張ってカフェを後にした。
「もう、悠月、そろそろ落ち着いた?」
駅前のベンチに腰を掛け、トランス状態の悠月に水を渡す。
「ご、ごめん。あまりに夏葉が青春し過ぎてて、私の中の青春センサーが振り切れちゃった」
青春センサーとは一体、と思ったが、敢えてツッコまないでおいた。
「落ち着いたなら、良いけど……っていうか、もとはと言えば悠月の気分転換に付き合うって話だったのに私が話すだけになっちゃったね。……なんかごめん」
「いいのいいの! と言うか、新鮮な恋バナなんて気分転換に最適だし!」
こちらに向けて手を合わせて「ごちそうさまでした」なんて言って見せる悠月。
まあ、気分転換になったのならいいけど……。
少しづつ日が傾いている。いつもならまだ授業を受けている時間だからか、よく通るこの駅前にも見かけない格好の人が多く見えた。
「……それで、話を戻すけど、デートってどこ行くの?」
深呼吸をして、いつもの雰囲気に戻った悠月がさっきの話の続きを始めた。
「え、まだ考えてないけど……龍樹と話して決めようと思ってたし」
「そっか~。八峰くんと夏葉ってお似合いだけどさ、どういう繋がりなの?」
「うーん、ご近所さん繋がり?」
「八峰くんの好きなものは?」
「……スポーツドリンク?」
「そ、そうなんだ。他には知らないの?」
悠月にそう言われ、少し考える。
龍樹の好きな物、か。スポーツドリンクだって聞いたことがあるわけじゃない。良く飲んでいるからそう思っただけだ。
そう考えると、私は意外と龍樹のことを知らないのかもしれない。
「……知らないかも。あんまり」
「そっか。じゃあ、私に出来ることはこれくらいかな」
「え?」
悠月はそう言うとベンチに置いていたスクールバッグからチケットのような何かを取り出し、こちらへ手渡してくる。
「はい、これ。もしよければ、だけど。近くの美術館の絵画展のチケット。脱スランプのために明日から通おうかと思っていっぱい取ったけど、そんなに要らないから」
「え、え? 悪いよこんなもの。ただでさえ、私の話聞いてもらってばっかりなのに」
「良いの良いの! 実は私は私で気分転換と共に脱スランプに繋がりそうなインスピレーションを貰ったから!」
そう言って悠月は半ば強引に私の手へ二枚のチケットを手渡して来た。
「もちろん、行かなくても良いからね! あくまで候補の一つとして考えてみてよ。好きな物を知らないなら思い切って二人とも全く知らないことに挑戦するっていうのもいいかなって。ほんとにそう思っただけだからさ」
「悠月……ありがと。龍樹と相談してみるね」
「うん! あ、でもほんとに気を遣ったりとか良いからね?」
「分かってるよ」
思わず笑みがこぼれる。
すると、悠月が珍しく少し真面目な顔をしてこちらをまっすぐに見つめて来た。
「ねえ、夏葉」
「なに?」
「……今度さ、家、遊びに行ってもいい?」
「……改まって何を言うかと思ったら、そんなこと?」
「そ、そんなことって。勢いで八峰くんとの関係とか暴いちゃったけど、ほんとはちょっと悪かったかなって思ってたんだよ」
「あははっ! 何それ! 私よりよっぽど悠月のが可愛いじゃん!」
「や、止めてよ! それで、いいの?」
「いいよ。悠月なら大歓迎」
「やったー!」
「あ、でも」
「え? なに?」
嬉しそうに笑う悠月に今度は私がにやけ顔を浮かべながら告げる。
「今度は悠月の恋バナ、聞かせてもらうからね」
「……そ、それじゃあまた明日ね~」
「絶対だからねー!」
そそくさと駅の方へ逃げて行く悠月の背中に声を掛けながら手を振る。
少し行ったところで悠月もこちらを振り返り、大きく手を振ってくれた。
私の手の中には悠月のくれた二枚のチケットが握られている。
「……もちろん、龍樹には聞いてみないと、だけど」
悠月が階段の先へ昇って行くのを見送ってから、私はそのチケットを詳しく見てみた。
どうやら人物画、風景、現代アートなど、様々な美術品が飾られているらしい。
普段なら、そこまで興味は持たなかったかもしれない。
けれど今日は、少し違った。
「ちょっと、行ってみたいな」
悠月の昇って行った階段の方をもう一度見る。
もうそこには悠月の影も見えないが、私の脳内にはその言葉が強く残っていた。
「好きなものを知らないのなら二人で新しいものに挑戦してみる」
確かに龍樹のことはもっと知りたいと思う。
だけど、龍樹と一緒に何かを好きになる、そんな瞬間を共有するのもすごく良いものだと私には思えた。
◇◇◇
篤人と昼食を取ってから、テストやら諸々について駄弁り、元気よく体育館へ走っていく姿を見送って、歩き慣れた道を一人歩く。
先週の月曜日から夏葉と別々に帰り始めて、いつの間にかあの部屋だけでなく、帰り道ですら夏葉がいないと途端に温かみに欠けるようになっていたことを実感する。
「さっさと帰るか」
感傷に浸るくらいならばつまらない帰り道など早く歩いてしまうに越したことはない。
偶には走って帰ってみるのも面白いかもしれない。
篤人にあてられた、と言う訳ではないが、これでも俺も元運動部。
考えれば考えるほど、今の自分がどのくらい鈍っているのかも気になってくる。
「……いや、ないな。ここは地元じゃないし」
だが、もうあと一歩で走り出そうという所で僅かに理性が好奇心を上回った。
俺の地元は見渡す限りの田畑、立っているものと言えば電柱に電波塔、カーブミラーに案山子と時間によっては自分以外の人が見えないこともざらだった。
そんな中だから鞄を背負ってどんなに不格好なフォームだろうと気にせずに走れたが、ここはそれなりな都会。いつもより早い時間で他校の生徒の影は見えないが、それでも多くの人通りがある。
そんな中を制服姿で走り抜ける勇気は俺にはなかった。
走り出すために背負い直した鞄をだらしなくかけ直し、早足で歩いて行く。
なんだかんだで、マンションはもうすぐだった。
「ただいま」
返事のない部屋に俺の声が響く。
リビングの方へ鞄を放り投げ、洗面所で手洗いとうがいを済ませるとちょうどポケットのスマホが震えた。
送信者は夏葉だ。
「私、今駅の辺りなんだけど龍樹はもう帰った?」
「俺はもう家。駅の辺りにいたんだな」
「そっか。私は悠月とカフェにいたよ」
「そっかそれじゃあすれ違ってたかもな」
「そうだね。あ、これから行くけどいい?」
「良いぞ。待ってる」
「はーい。じゃあ今から帰りまーす」
心なしか文面から楽し気な感情が窺える気がする。
何か良いことでもあったのだろうか?
カフェのメニューがおいしかったとか? それともテストの出来が相当良かったとかだろうか?
夏葉のことを考え出せば、自然と俺も頬が緩む。
先ほどまで感じていたこの部屋の冷たさも、まだ彼女が来ていないのにどうしてかもう充足感があった。
「ただいま!」
事前に鍵を開けておくことを伝えておけば、玄関から明るい声が聞こえて来た。
「おかえり」
出迎えに玄関まで足を向ければ、夏葉の右手には何やらチケットのようなものが握り締められていた。
「あ、龍樹。あのさ、これ」
夏葉はそのチケットをこちらに差し出してくる。
「今度のデートでさ、行ってみない?」
俺はその一枚を受け取り見てみると近くの美術館で行われる絵画展のチケットらしかった。
ふむ、美術館デートとは、中々趣深く感じる……じゃなくって、まずは――
「もちろん、良いぞ。絵画展とか行ったことないけど、面白そうだ」
目の前で緊張した面持ちの夏葉に言ってやれば、スッと緊張がほぐれて行くのが見て取れた。
「ほんと! 実はこれ悠月に貰ったんだ」
「なるほど。それで絵画展なのか」
俺は一先ず夏葉の荷物を受け取ると彼女が手洗いやうがいを済ませている間に荷物を移動させておく。
そして改めてその絵画展を調べてみた。
どうやら西洋美術の総合展らしい。テーマと言えるテーマは地域柄程度で中世より前に描かれた物から最近のものまでいろいろな作品を見ることが出来るらしい。
もちろん、その他美術館に飾られている従来の作品も見ることが出来るとのことだった。
「あ、その絵画展調べてみてくれた?」
洗面所から戻って来た夏葉がこちらのスマホを覗き込みながら聞いてくる。
「ああ、西洋美術だって。何がどういう風に西洋美術なのかは分からんが、勉強していった方が良いのか?」
俺は夏葉にも画面が見やすいようにテーブルへスマホを置きながら聞いた。
「いや、そんなこともないみたいだよ。悠月がね、言ってたんだよ。『二人で新しいものに挑戦してみるのはどうか』って。だから、逆に何も知らないまま行った方が面白そうじゃない?」
「なるほどな。確かに、そう言う楽しみ方もあるのか」
「うん。ふふっ、楽しみだね」
「そうだな。……けど、テストの結果によっては楽しめるものも楽しめなくなるかもだけど」
「もう、あんなに勉強したんだから大丈夫だよ! そうだ、自己採点する?」
「いや、どうせ明日から返ってくるものは返って来るだろうし、解答出てからの方が良くないか?」
「それもそうだね。解答がないと効率悪いもんね」
そう言いながら夏葉はいつも通り俺の正面に座った。
「今日はどうする? なんかしたいことあるか?」
「うーん……テスト明けだしな~特にこれってのはないけど……あ、そうだ! せっかく時間あるし、ちょっと遠くの大きいスーパーでお惣菜とか買ってさ、テストお疲れ様会しない?」
「おお、それはいいかもな」
夏葉の提案を聞いて時計を見ればまだ十五時過ぎ。今から買い物に行っても十七時前には帰って来れるだろう。それなら明日にも響かない程度でちょうどよさそうだ。
「じゃ、早速行こ!」
「おう、けど、着替えなくていいのか?」
「いいの! テストから解放されたんだから制服で自由にしたいじゃん」
「そうか?」
珍しくハイテンションな夏葉を追いかけて俺も玄関へ向かう。スマホに財布、鍵をしっかりと確認し、昨年のエントランスでの出来事の再来とならないようにエコバッグも持つと、俺たちは制服のままもう一度家を出た。
中学生の頃までは買い物を楽しいと思うことはなかったが、一人暮らしを始めてからは意外と面白いと思うようになった。行き慣れたスーパーは物の値段なんかを覚えていて、また値上がりしたな、だとか、お、安いみたいな発見があるし、慣れないスーパーでは陳列の仕方や売り出したい商品の違いが見られて面白い。
俺と夏葉がやってきたスーパーはいつも行くスーパーより一キロほど先まで歩いた場所にあるこの辺りでは一番大きなスーパーだ。
平日の午後ということで主婦やお年寄りの姿が目立つ。
そんな中に制服姿の高校生二人はかなり浮いていた。
「あ、あの辺りじゃない? 美味しそうだよ」
「ほんとだな。数品だけでも自分で作ろうと思ったら、かなり時間がかかりそうだ」
「ね。いつかはやってみたい気もするんだけど、平日じゃちょっとね」
「そりゃそうだ」
そんなことを言いながら俺たちは少しお高めのお惣菜を見て回りお互いに食べたいものを二三品ずつ選び取った。
「こんな感じで色々を少しずつ食べれるのって私からすると嬉しいんだよね」
「ああ、夏葉は食が細いもんな」
「体格相応だと思うけど」
「その辺りは俺がコメントして良い領分を超えてる気がする」
「あはは! 別に気にしないけどね。私は、だけど」
他にもいくつかのお菓子やらジュースやらを購入し、俺たちは帰路についた。
「なんか、制服なのに鞄持ってないのって違和感あるね」
「確かにな。でも、この前篤人の試合見に行った時もそうじゃなかったか」
「あー、確かに。でも、あの時は目的地が学校だったから」
慣れない道を二人で歩く。
あまり外出を好まない俺だが、夏葉と二人で歩くこの時間は一歩一歩がワクワクしている気がする。
会話がなくともこうしているだけで楽しい、なんて、そんなことを考えていれば、
「……ねえ、龍樹。今度の、その、デートさ。土曜日と日曜日、どっちにする?」
不意を突くように、少し恥ずかしそうにしながら夏葉が聞いてきた。
「……そうだな。美術館は日曜日の方が混むらしいから土曜日はどうだ?」
改めてこの話題を口にすると緊張や諸々で心臓が跳ねる。
「そっか。じゃあ、土曜日だね。……ご褒美は、考えた?」
「夏葉は?」
「む、逆質問」
「言い出しっぺの法則だ」
視線が交錯する。ジッとお互いの目を見つめ合っていれば、夏葉の顔が段々と紅潮していき、彼女の方が先に視線を逸らした。
「……私は考えたよ」
「聞いても良いのか?」
「それはダメ。まだ、目標達成できるか分からないし。それで、龍樹は?」
もう一度、視線を向けられる。
ご褒美……テストの目標を達成したらデートの時にご褒美を一つ叶えてもらえるそんな約束に俺が望むもの。
それは……。
一度目を閉じて、自身の中でしっかりと確認してから答える。
「俺も決めたよ」
「でも、教えは?」
「しないな」
「そっか。お互いに達成できるといいね」
「ああ」
俺たちはまだテストの手応えについては話し合っていない。
お互いに分かっているのだ。
このテストが返って来て、もし、目標が達成されていたら……俺たちの関係が大きく変わるかもしれない、と。
だからこそ、敢えて触れない。
楽しみなような、少し怖いようなそんな感覚の中で、俺たちは今のこの微妙な関係を存分に味わい、楽しんでいた。
◇◇◇
買って来たお惣菜を温め、せっかくだからと器を変えて盛り付けてみれば、中々に豪勢なオードブルへと姿を変えた。
「洗い物は増えちゃうけど、こうするといい感じじゃない?」
「ああ、何かのパーティー会場みたいだな」
「ふふっ、そこまでじゃないけどね」
買って来たジュースをお互いのコップへ注ぎあい、持ち上げる。
「それじゃあ、テスト終了を祝って――」
「「乾杯!」」
カツンとコップ同士が優しくぶつかり合い、中のジュースが揺れる。
スポーツドリンクよりも甘いそれは一日の疲れをリフレッシュさせてくれるような気がした。
「じゃあ、早速いただきます」
「いただきます」
お互いに好きなものを取り、好きなように食べる。
まさに気分はパーティーだった。
「そうだ。土曜日は外食するか?」
春巻きを取りながら聞く。
「お昼は外食したいかな。夜はどっちでもいいけど。龍樹は?」
「夜はゆっくり家で食べたいかもな。俺はほら、インドアだから」
「ふふっ、じゃあ、そうしよ。出前とか、頼んでみるのもいいかもね」
「お、それはアリだな」
「それで、お昼なんだけどさ……」
そう言いながら夏葉はスマホを取り出し、何やら地図アプリを見せて来た。
「ここは?」
「美術館の周辺を調べてたら出て来たカフェなんだけど、その、男女限定メニューがあるんだって」
「……なるほど。じゃあ、そこにするか」
「うん。予約できるみたいだから、十二時半とかに予約しちゃっていい?」
「ああ、任せていいか?」
「大丈夫」
夏葉が見せてくれたカフェのサイトにはデカデカとカップル限定と書かれたメニューが載っていた。
夏葉は敢えて、男女限定と言い換えていたが、そうだよな。
次のお出かけ、デートはつまりそう言うことだ。
キュッと口を結び、緩みそうになる頬を抑える。
夏葉も同様に少し顔を背けていた。
「……エビチリ、ちょっと貰っていいか?」
「あ、うん。じゃあ、私もこっちのから揚げ貰うね」
チリソースの辛みが辛うじてこの甘酸っぱい空気を中和してくれている。
だが、不思議とこんな微妙な雰囲気も居心地は悪くなかった。
◇◇◇
金曜日、朝。夏葉とのテストお疲れ様会から二日後のこの日は、いつもはさびれて、誰もほとんど見向きもしない掲示板前に人だかりが出来ていた。
「順位、出てるみたいだね」
「ああ」
俺たちの高校では上位二十名までがテスト後にこうして成績を貼り出される。
つまり、俺と夏葉、二人の名前が入っていることはお互いに目標達成の最低条件だ。
木曜日の時点でテストはあらかた返って来ていた。
間違いなく、過去最高の出来、残りの現代文で大きなやらかしをしていない限り、目標達成は十分可能な点数に思えた。
点数を見終わった生徒が少しずつ離れて行き、俺たちにも見えるところまで順番が回ってくる。
「やった!」
隣で小さく呟く声が聞こえた。
それに反応するように上から名前を見て行けば――
一位:相田悠月
三位:風見夏葉
見知った名前が立て続けに並んでいる。
流石は夏葉だ。五位以内目標でいきなり三位に入って来るとは。
これで夏葉は目標達成。あとは、俺の名前があれば――。
十八位:――
十九位:八峰龍樹
「……あった」
目が滑りかけた二十位の手前、ギリギリの十九位に間違いなく俺の名前が載っている。
「やったね!」
夏葉が人一倍大きな声を上げて、バッと手を広げる。
しかし、寸でのところで踏みとどまって、不自然なガッツポーズに見せていた。
そんな夏葉の姿を見て、ようやく実感が湧いてくる。
間違いない、俺も無事二十位以内の目標を達成できたんだ!
中学生の頃、部活で地区予選決勝を勝った時と同じくらいの高揚感がやってくる。
久しく感じていなかったこの感覚。
乾いた心に恵みの感情が降り注ぐような、そんな感情で胸がいっぱいになる。
「……夏葉のおかげだ。ありがとう」
夏葉にだけに聞こえる声量でお礼を口にする。
「龍樹が頑張った結果だよ。おめでとう」
すると、夏葉も同じように俺にだけに聞こえるようにそう囁きながら、小さく手を掲げた。
「夏葉もおめでとう」
俺は夏葉にも祝いの言葉をかけて、その手に軽くハイタッチをした。
音もない、ただ、指先が触れ合う程度のハイタッチ。だが、今はそれで十分なほどに俺は満たされていた。
「お、龍樹! 十九位ってすげえな!」
教室に入れば、珍しく俺たちより先に席についていた篤人が駆け寄ってくる。
「サンキュな。頑張って甲斐があったわ」
「スかしやがって、喜んでるのが丸わかりだぞ」
「……ぅるせ」
気を抜けば、頬が緩みそうになる。
一年前は八十位前後をさまよっていた俺がまさか、掲示板入りするとは。
「夏葉もおめでと~」
そうこうしていれば、相田さんもこちらへやって来た。
「悠月には勝てなかったけどね」
「ふっふー、どやぁ」
「さすがは天才悠月サマ。でも、背中は見えたよ、次こそ勝つんだから」
「いつでもかかってきなされ」
賢い女子二人はもう次のテストを見据えているらしい。
そんな二人を前にして篤人がぽつりと呟く。
「……俺は追試、免れられるかな」
場の空気がシンと凍る。
「大丈夫だ篤人。追試に順位は関係ない。赤点なら、一位だろうが二百位だろうが問答無用で追試だからな」
「そうだよな! ……ってちょっと待て龍樹。それ俺のフォローじゃねーだろ!」
あははは、と、賑やかな笑い声が戻る。
そんな中で俺と夏葉は今一度視線を合わせた。
そして二人で頷き合う。
確かに人生は都合よくいかないことも多いかもしれない。けど、こうして努力で何とか出来ることはあるのだと、俺は改めて胸に刻んだ。
放課後には全生徒の元へ順位と各得点の記されたテスト結果表が渡された。
中間テスト七科目(英語が二科目、古文と漢文は合同だ)で満点は七百点。
俺の得点は現代文百点を含む六百二十四点だった。
「た、龍樹ぃ~数学の平均点って六十点切ってたよな~?」
ホームルームが終わるとすぐにこちらを振り返った篤人がそんなことを聞いてきた。
「確か六十二点じゃなかったか?」
「なっ⁉ 嘘だよな⁉ 五十六点とかだったよな!」
「あ~悪い悪い、そうだったわ」
「おいっ! 余裕な顔しやがって、ちょっと見せろよ」
篤人に悪戯を仕掛けてみれば、仕返しとでも言うかのように俺の結果表を覗き込んでくる篤人。
だが――
「うそだろ……俺の倍あって十九位なのかよ。悠月さんとか夏葉さん何点なんだこれ」
篤人はショックを受けた様子で俺の机に自身の結果表を放り出し、頭を抱えた。
そして見えた篤人の点数はと言えば合計三百十四点、順位は百四十八位と書かれていた。
「篤人、数学と現代文は追試免れても復習しっかりした方が良いぞ」
俺は打ちのめされている篤人に追撃を入れておく。他は五十点近くは取れているのだが、数学と現代文だけは三十点台とかなり低い成績になってしまっている。
「止めてくれ、その話は俺に効き過ぎる」
「臭いものに蓋をして、さらに腐ったら困るのは自分だぞ?」
「うわぁー! 良いんだ! 今度は龍樹に教えてもらうからよ!」
「なにを勝手な」
「いいだろ! 頼む!」
「……今度ラーメンな」
「いいのか! 恩に着るぜ! じゃ、俺部活行くから!」
「はいよ。じゃあな」
「おう!」
何故か結果表は俺の机に置いたまま元気よく部活へと走っていく篤人を見送りながら、俺はその結果表を篤人の机に入れておいてやる。
あんな反応をしていた割に、意外と気にしていないのかもしれない。
「や~つみ~ねく~ん」
篤人の席を元に戻したところで別の人影が現れる。
顔を上げれば、そこには満面の笑みの相田さんと悔しそうな夏葉の姿があった。
「どうかした?」
「いやいや、掲示板入り改めておめでと~って思って」
「ああ、相田さんこそ連続一位おめでとう」
「ふっふー、もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
「いや、ほんとにすごいと思う。今回は特に結構しっかりと勉強したからこそ、一位の壁の高さを感じたよ」
なんて当たり障りのないことを言って相田さんを褒めていると、夏葉がこちらをジト目で見つめていた。
「八峰くんはどんな感じだったの? 点数?」
だが、そんなことには気づかない相田さんはこちらへ距離を詰めて俺の手の結果表をジッと見つめた。
覗いてこない辺りに篤人とは違った配慮を感じる。
「ああ、俺はこんな感じ」
俺としても、夏葉との勉強のおかげか自分の成績を見せることに抵抗はかなり少なくなっていたので、二人にも見えるように点数を開示した。
「ふむふむ……って、現代文満点⁉ 凄くない⁉」
「ああ、それは正直俺もびっくりしてる。元々得意ではあったけど今回は上振れたかな」
「いやいや、上振れで満点は無理でしょ。ねー、夏葉?」
俺の現代文の点数に驚いた相田さんがここでようやく黙っていた夏葉の方を振り返って同意を求める。
「……そうだね。龍樹は時々謙遜し過ぎるところがあるから。過ぎた謙遜は嫌味だよ」
つーん、なんて効果音のしそうな態度をして見せる夏葉。
これには相田さんも「やらかした」とでも言いたげな表情をしていた。
「あ、あはは。私はこんな感じ。現代文と数学は満点取り損ねちゃったけど概ね満足な結果だね!」
そして話題をいち早く逸らすように、自分の結果表を見せてくれる。
するとそこに並ぶのは五科目の満点。
現代文も九十七点で最も低い数学ですら九十一点と言う超高得点。合計六百八十八点という堂々たる一位の成績が記されていた。
「すっご……」
これには思わず本音からの反応が漏れる。
「でしょでしょー。数学以外は夏葉に勝ったからね」
そんな俺の反応を聞いて一瞬悪い顔をした相田さんは俺ではなく夏葉の方を見ながらそう言って見せた。
「……でも、三教科は私も満点で、現代文の一位は龍樹だし、後二教科ならすぐに追いつくんだから!」
すると夏葉は何故か俺の方へ結果表を突き付けながら、相田さんにそう宣言する。
だが、時折チラチラとこちらへ視線を送ってきていた。
「夏葉も凄いな。また古典、漢文、教えてくれ」
その視線の意味するところを理解することは叶わなかったが、とりあえず素直に思ったことを口にしておく。
すると――
「おぉ、これが、八峰くんのやり方なのね」
「いいよ! 古典、漢文は満点だったから何でも聞いてね!」
相田さんは何やら一人で納得したような表情をして、夏葉はすっかり機嫌を良くした様子。
「そう言えば相田さん。部活の方は良いの?」
「おっと、そうでした。テストが終わってから筆がノッてるからね~。これは賞も狙えちゃうかも?」
「そう言えば、コンクール用の作品って言ってたね」
「そうなんだよ。特に、この間夏葉と話したおかげで道が開けたんだよね」
「え、私の話を聞いてもらっただけなのに?」
「そう、それが私には大きかったのだよ」
相田さんはそう言いながら空に筆で絵を描くような仕草をして見せる。
「……順調なら良かったよ。月並みだけど、頑張って」
「うん! もし受賞したら二人も見に来てね~」
「それはもちろん。なぁ、夏葉?」
「そうだね。それはぜひ見に行かせてもらう」
夏葉と頷き合って二人して相田さんの方を見た。
「なるほどなるほど。これは、秒読みですな~」
すると相田さんは今までに見た中でも一番のにやけ顔をした後で、
「ご馳走様! じゃあ、私部活行くね~」
そう言って走り去っていった。
「ご馳走さまってどういうこと?」
「さぁ……? まあ、気分良さそうだったし、なんでもいいんじゃないか」
「それもそっか。……それで、今日は一緒に帰る?」
「あ、ああ。そうだな。これでテストも終わったことだし……」
先週までの当たり前がなぜか気恥しく感じる。
少しでも勉強時間を増やそうと、帰り道に割く時間を減らすために始めた別々の下校だったが、一体どうしてこんなに気恥しく感じるようになってしまっているのだろうか?
それに何だか教室中の空気が静かに、まるでこちらを見守っているかのようにも感じられる。
その中には諦観や悲嘆の感情も感じられ、また、好奇の視線に晒されているかのような気もしてくる。
「と、とりあえずもう帰ろうぜ。復習もあるし」
「そ、そうだね!」
互いに結果表を鞄にしまい込み、何となく居心地の悪い教室からそそくさと逃げ出した。
何故か気恥しい感覚も昇降口の辺りまで歩いて来れば、もうどうと言うことはない。染みついた当たり前はそう簡単に忘れてしまうものではないようだ。
「なんか、久しぶりな気がしてたけど、水曜日も買い物行ったし、意外とそうでもないかも」
「そうだな。ただ、まあ、こうして二人で昇降口を出るのは一週間ぶりな訳で」
「それはそうだけど」
下駄箱から取り出したローファーを夏葉は丁寧に置いてから履き、俺は放り出すようにして履く。
ただ、どうと言うことのない当たり前にも、少し日を置いてみればそんな少しの違いが見えてくることを知った。
「そういえばさ、龍樹。明日のことなんだけど」
「おう? どうかしたか?」
校門を出て、歩き出す帰り道。
ちょうど十六時の夕日が俺たちを見守るように輝いている。
「時間、何時からがいいかな?」
「……そういえば、決めてなかったか」
「うん。お昼はカフェの予約入れちゃったから、それに間に合うようには行くとして、美術館の開館時間はどのくらいだっけ?」
「……十一時っぽいな。となると、先にカフェでランチ、それから美術館コースか?」
「そうだね。それでさ……」
夏葉が急に立ち止まる。
そして、一歩先から振り返った俺にこう言った。
「明日は現地集合にしてみない?」
「ん? 良いけど、なんでだ?」
「だって……」
一瞬恥ずかしそうに顔を背けかけた夏葉が自分を奮い立たせるようにギュっと拳を握り込むのが見える。
「せっかくのデートだから、いつもとは違うことしてみたくない?」
「……! なるほど。……確かに、そうだな」
いつもとは違うこと。本来、俺の求めるものとは違うであろうそれは、だが、どうしてか、非常に魅力的に聞こえる。
いつも通りに落ち着きを覚え、安らぎを感じていたのに。
今の俺は、心の底からそうして見たいと、そう思う。
急に服装を変えたあの時とはまた違った感覚、俺だけが先走るのではなく、二人の足並みをそろえて挑戦してみようという、そんな感覚だ。
「カフェの場所、分かりそう?」
「大丈夫。ちゃんと全部頭には入れてある」
「そ、そっか。じゃあ、明日は十一時半にカフェの前に集合でいいかな?」
「ああ。そうしよう」
頭の中で明日の計画がどんどん具体的になって行く。
「あ、でも、二人で同じ時間を目指したら、電車とか被るかもね」
「そうなったらそうなったで、それは良いんじゃないか? いつもは基本俺の部屋から一緒にいるわけだし」
「それもそっか。ふふっ、楽しみだね、龍樹」
「ああ、そうだな。夏葉」
俺たちはどちらからともなくぴったり一致したタイミングでお互いの顔を見合い、笑い合う。
そんな夏葉の顔を見ていると、思わず感情が溢れだしそうになる。
だが、今じゃない。
これは明日、掴み取った権利を用いて、はっきりと伝えたい。
いつも通りを変える覚悟を見せるためには、そこにはこだわりたい。
いつの間にか、マンションのエントランス前までやって来ていた。
夏葉の押したエレベーターのボタンが点滅し、到着を告げる。
中には誰もおらず、俺たちは順番にエレベーターへと乗り込んだ。
「じゃあ、龍樹、今日は私そのまま部屋に帰るね」
俺の押した四階のランプが点灯すると、、一歩壁側へ足を引いた夏葉がそう言った。
「おう。じゃあ、また明日、だな」
なんだかんだここで別れるのも、珍しい気がする。
俺が下りれば程なくして、扉が無機質に閉まっていく。
俺と夏葉はその扉が完全に締め切られるまで互いに手を振り続けていた。
◇◇◇
五月の最終週、土曜日。
来るデートに備え、俺は普段よりもさらに一時間早い六時半に目を覚ました。
意外なことに、昨晩は特に緊張することもなければ、眠れないということもなかった。
今日の服装は、既に決まっている。
あの時は失敗に終わったが、あの恰好を夏葉は間違いなくカッコいいと言ってくれた。
代り映えしないというのは若干悪い気もするが、こればかりは仕方がない。
だがこれからは少し、気を使っていこう。
シャワーを浴びて、薄い髭も入念に剃っていく。
あの時と同じように髪をしっかりと整え、セット、とはいかないまでもきちんと見えるように丁寧に仕上げる。
鏡に映る自分の姿に納得できれば、早めの朝食を取り、荷物の準備をする。
と言っても、持ち物と言えば、財布にスマホ、ハンカチ程度でこれと言って気にすべきことではなかった。
それらすべてを終わらせた俺は、昨晩確認した電車の時間をもう一度確認し、家を出る時間に念のためアラームを掛けると、一枚の紙を持ってソファへと腰を掛けた。
その紙は昨日配られたテストの結果表。
普段は一度見ればその日以外に見返すことのないこの結果表だが、今の俺にとっては間違いなく目標を達成したという証でもあった。
二十位以内を目指しての十九位。ギリギリだと評す自分もいれば、よくやったと評す自分もいる。どちらかと言えば、いつもの俺は前者の思考でいることの方が多いだろう。
だが、今日は、今日だけは、後者の思考でいたい。
自分を認める。今の俺にはそれが必要なんだろう。
昨日、夏葉が言っていた言葉が蘇る。
「龍樹は過度に謙遜するところがある」
客観的に自分を見てもいまいちパッとは思い浮かばない。
だが、俺が夏葉の細かい仕草までを知っているように、誰よりも夏葉のことを知っていると思っているように、そんな相手が言う言葉ならば、きっとそれは誇張のない真実なのだろう。
だから、俺は俺を認める。
夏葉が一緒に居てくれる、そんな俺を、夏葉視点から見た八峰龍樹と言う人間を認めるのだ。
もう一度手元に目を落とせば、変わらず見える十九と言う数字。
「よし」
一番先に浮かんでくるのは有言実行したなと言う肯定的な感情。
もちろん、ギリギリだろ、と思うネガティブな思考が無くなったわけではない。
ただ、今の俺ならば、確かに自信を持って言えるだろう。
敢えて、タイミングなどは考えていない。
だが、この漠然とした自信は、確かなものだとそう感じていた。
十時半。セットしたアラームを鳴り出したその瞬間に止めた。
今一度、自室の姿見で恰好を確認して、鏡の中の自分と頷き合う。
自分で言うと嫌な感じだが、良い顔をしていると、そう思った。
「よし、行くか」
玄関で靴を履き、鞄の外ポケットから財布へと移した鍵でしっかりと部屋の鍵を閉める。
もう、梅雨が迫り、テスト期間中は雨の日もあったが、今日は運のいいことに快晴だった。
駅について時間を確認すれば十時四十五分を少し過ぎたあたり。
俺の乗る電車は五十二分発なので、完璧なタイミングだ。
もしかしたら、夏葉と会うかもしれないと思っていたが、この時間は数分の頻度で電車が行き交うため、そんなこともなかった。
予定通りの電車に乗り、到着時刻を確認する。ここから十五分程で到着。
駅からカフェまでは地図上ではかなり近いため、五分もかからないだろう。
計算通り二十分前には集合場所に着けそうだ。
普段は電車に乗らないせいか、都会の電車には未だに慣れない。
席は両側一列になっており、田舎では当たり前にあったボックス席はない。
心なしか、電車自体も小さい気がするのは人が多いせいだろうか?
それとも、妙な高ぶりで落ち着けていないのかもしれない。
そんなことを考えていれば、目的地の駅へはすぐにたどり着いた。
人の流れに沿うように電車を降りて階段を上がり、改札を出れば、正午を前に輝きを強める太陽が俺を出迎えた。
地図アプリを起動し、事前に目印として覚えておいたコンビニなどを逐一確認しながら、歩けば表示通り五分も掛からずに到着する。
「さて、夏葉は……」
そう呟いたところで視線が止まる。
てっきり自分の方が早く着くだろうと油断していたことも否めない。
だが、それ以上の衝撃だった。
「あ、龍樹。早かったね」
目が合い、彼女はこちらへ歩を進める。
その一歩一歩に俺を風が吹き抜けていくようなそんな感覚を味わう。
初夏を思わせる水色、と言うより薄い青のワンピース、髪はいつもよりさらにフワッと柔らかく毛先は微かに巻かれている。
意識しなければ、視線を外させないかのような圧倒的な美少女が、どうやら俺を待っていたようだった。
「わ、悪い。待たせたか?」
「ううん。多分、一本前の電車だったんじゃないかな? 私もさっき来たところだよ」
「そうか」
「うん。龍樹はその恰好で来たんだね。やっぱり似合ってるよ」
一度見せて慣れているからだろうか。この間は恥ずかしそうにしていたことを今日は事も無げに言って見せる夏葉。
「夏葉も、すごく似合ってる。……悪い、これ以上言葉が見当たらないんだが、その、綺麗だ」
「――っ! あ、ありがと」
しかし、言われる方は準備がなかったのか、相応に照れた表情をみせてくれる。
そんなおかげで、何とか俺も普段通りの調子を取り戻すことが出来た。
すると、周りの視線の多くが夏葉の方へ向いていることに気が付く。
「とりあえず、カフェ入るか? あ、予約時間よりはまだ早いか」
「ううん。それは大丈夫。メニューの予約だから、入る時間はいつでも問題ないよ」
「そっか。じゃあ、行こうぜ」
「うん」
隣りにいるのは思わず気後れしてしまいそうになるほどの美少女。
だが、こうして会話をしてみれば相手が夏葉であると分かる。
なるほど、服装一つでこうもインパクトが違うとは。
先日の俺もこんな風に衝撃を与えたのだろうか?
「龍樹~入ろーよ」
「おう」
先に入口の扉へ手を掛けた夏葉がこちらを振り返り俺を呼ぶ。
こうして俺たちのデートは幕を開けた。
お昼時だが、大賑わいと言うよりは馴染みのお客さんがぽつりぽつりとコーヒーを嗜んでいる様なそのカフェはウェブサイトを見てきたとはいえ、男女限定メニューをやっているようには思えない。
シック調で落ち着いたトーンの内装に穏やかなBGMで雰囲気はとても良く、個人的には非常に好ましい空間だった。
「どう? 良い感じのカフェだよね」
通されたテーブル席で提供されたお冷を一口呷ってから夏葉がそう言ってきた。
「ああ、写真以上に雰囲気が良くて落ち着くな」
「でしょ? 龍樹はこういうとこ好きそうだと思ったんだよね」
「……もしかして、それでこのカフェに?」
「……うん。前に一人で寄ってみて一緒に来たいなって思ってた」
恥ずかしそうに、だが、いつもより感情を表に出して伝えてくる夏葉に、俺の顔に熱が宿っていくのが分かる。
咄嗟に俺もお冷を一口飲んで頭を冷やした。
注文はドリンクのみ。
メニューの方は予約済みのため、俺たちはお互いに温かい紅茶を注文した。
「そういえば、龍樹がコーヒー飲んでるとこ見たことないかも」
「……実は苦手なんだよな」
「えぇ⁉ 意外かも。龍樹良く本とか読んでるからコーヒーも好きなのかな~って思ってた」
「なんだそれ。夏葉の中では本好きとコーヒーが結びつくのか?」
「なんか、そんな感じしない?」
「まあ、言わんとすることは分かるが」
いつものように流れるように会話は続く。
特に弾むでもなく、緩やかに落ち着いた会話、だが、場所と恰好が違うだけでなんとなく特別感を覚える。
「お待たせいたしました」
目に優しそうな緑色のエプロンを付けた店員さんが、静かに、こちらの会話の邪魔にならないようにと注文を運んでくる。
「こちら紅茶と、――」
店員さんは夏葉の方に軽く視線を送った。
すると夏葉は何かを察したようにコクリと頷く。
そんな夏葉に軽く笑みを浮かべて、店員さんはその巨大なパフェを俺たちの前に差し出した。
「カップル限定の季節のフルーツパフェカップル盛りになります」
カップル限定のカップル盛り⁉
あまりにも雰囲気とは違ったその単語に思わず吹き出しそうになるのを何とかこらえる。
その衝撃のおかげで自然と発されたカップルと言う単語はスルーすることが出来た。
「生で見ると迫力があるね」
「そうだな。これは生じゃなきゃ味わえない迫力だ」
俺たちの間に置かれると相手の顔の半分が隠れてしまうほどに巨大なパフェを前に舌を巻く。
なんて、俺たちが一通り驚いたところで店員さんがもう一度口を開いた。
「こちら、カップルの証明のためにお写真を撮らせていただいておりますので、よろしいでしょうか?」
写真? そんな注意書きなかったような……?
「あ、はい! 大丈夫です!」
だが、夏葉は分かってますと言うようにスマホのカメラアプリを起動して、店員さんへ手渡した。
「ほら龍樹、寄って」
「お、おう」
流されるままにパフェを中心にしてテーブル越しに夏葉と顔を並べる。
上から見たパフェは正しくカップル限定というようにふんだんにハート型に切り抜かれたフルーツやらチョコレートやらが見えた。
そんな中でも店員さんはパフェの角度や画格を丁寧に調整して、落ち着いた声でこちらにカメラを向ける。
「では、撮ります。三、二、一」
パシャリとシャッター音が静謐なカフェに響く。
写真を撮るなんていつぶりだろうか?
鏡では毎日自分の顔を見ているが、写真に写った自分なんて生徒手帳くらいでしか最近は見ていない。
「もう一枚行きます。三、二――」
「龍樹、笑顔笑顔」
「あ、ああ」
カウントダウンの直前で夏葉に言われ、咄嗟に笑顔を作る。
「一」
パシャリ、二度目のシャッター音は笑顔に意識を割いたせいか少し小さめに聞えた。
「はい、大丈夫です。ご協力ありがとうございました」
「いえいえ、ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべた夏葉が店員さんからスマホを受け取り、俺も軽く頭を下げる。
「ふふっ、龍樹いい顔してるよ」
「ほんとか? なんか笑ってないか?」
「笑ってないよ。ほら」
こちらに画面を突き出して写真を見せてくる夏葉。
写真に写る夏葉もやっぱりものすごく美少女で、その隣の男は……まあ、確かに悪い顔はしていなかった。
「まあ、こんなもんか」
「ふふっ、送っておくね」
「ああ」
楽しそうにはにかむ夏葉の顔を見ながら、俺はひと口紅茶を飲む。
銘柄には詳しくないが、紅みの濃い鮮やかな紅茶は口に含んだとたんに豊かな香りが優しく鼻を抜け、ジンと体に沁み込むような深い味わいだった。
「じゃあ、食べよっか。それにしてもこのメロンすごいよね」
「ああ、一玉分とは言わないけど半玉分以上は確実に使われてそうだよな」
俺たちに挟まれたパフェは季節の、と言うことでこれ以外も種類があるのだろう。
今回俺たちに提供されたのはメロンを使ったパフェだった。
食べ合わせとしてメロンとチョコレートはあまり見ない気もするが、そんな感想が出てくる以前にとにかくメロンが凄まじい。
写真を撮る前にも思ったことだが、ハートの形に切り抜かれたメロンがゴロゴロと見え、頂点には八分の一サイズのメロンがそのまま悠然と構えていた。
「そもそも一人じゃ頼めない物だけど……私ひとりじゃ絶対食べきれない」
「ははっ、そうだな。でも、食べたかったんだろ?」
「うん。実は果物の中でもメロンが一番好きなんだよね」
「そうなのか。それは、一度は食べてみたいものだろうなこれは」
「そう! だから、それもあってここを選んだんだ」
「なるほどな。じゃあ、早速食べるか」
「そうだね。ふふっ、最近こうやって分けて食べることが多いね」
「そう言われてみれば、そうかもな」
食べきれないから、ではなく、先日のテストお疲れ様会でも好きなものを分け合ったりと、同じものをシェアしていたかもしれない。
「それじゃあ、これはいつも通りかな?」
「いや、パフェは初めてだから、これも新しい挑戦じゃないか」
そんな会話をしながら二人で一つのパフェを食べて行く。
チョコレートはメロンの甘さを邪魔しないようになのか、ビターなくどくない味わいをしていた。だが、それ以上に何とも言えない甘さが空間に充満していた。
◇◇◇
「ふぅ。いくら好きな物でも、あのサイズは年一でいいかな」
「だな。でも、美味かったな」
「そうだね」
小一時間程かけて、巨大メロンパフェを食べ終えた俺たちは追加で紅茶をもう一杯頼み、しっかりと食休みを取ってからカフェを出た。
食べてすぐでは正直動くのも億劫なほどには満腹になっていたが、紅茶を啜りながら駄弁っているうちに何とか腹ごなしをすることが出来ていた。
「じゃあ、今度は美術館だね」
「そうだな。本当に事前知識とか何もないから、結構ワクワクするな」
「うん。よくよく考えてみると絵とか美術品とかをしっかり見た経験ってほぼないかも」
「確かに。学校の社会科見学で博物館とか歴史資料館とかには行くことはあっても、美術館ってあんまり行かないよな」
「ね。雰囲気とかも想像つかないや」
十三時を前にした丁度お昼時。
人通りが最も多くなり、おのずと隣を歩く夏葉との距離が普段より近くなる。
小指の一本でも伸ばせばその手に触れられるほどに近い距離。
だが、まだこの手は伸ばさない。
「あ、見えて来たね」
「美術館って外観も何て言うか芸術的だよな」
「そうだね」
普通の建物ではまず見ないような形の建物に足を踏み入れれば、まるで知らない世界に迷い込んでしまったかのような不思議な感覚を覚える。
見覚えのない模様のベンチやオブジェが並び、独特な世界観を形成していた。
「あ、入場口あっちだ」
呟き歩き出す夏葉を追って俺たちは美術館へと入館した。
「……何というか、圧倒されるね」
入口でチケットを切ってもらい足を踏み入れたその空間は確かに夏葉の言う通り、言葉にはしがたい感覚、凄み、とでも言うのだろうか? ただの絵が飾られているだけの空間には思えない世界が広がっていた。
この建物に足を踏み入れた時以上の異質感。
そんな初めての空間を俺たちは歩き始めた。
「パッと見た感じ、ある程度時代ごとに並べられてる感じかな?」
独特の雰囲気に静謐な空間は、周りに人が少なくとも、おのずと小声になってしまう。
こそこそと耳打ちをするように夏葉が言った。
「そうだな。とりあえずゆっくりと見て行くか」
夏葉は小さく頷き、手近な絵の方へ近寄っていく。
まず俺たちの目に留まったのは、ひと際大きな額縁に飾られた人物画だった。
綺麗だとか、美しいだとか、そんな感想を抱いたわけではない。だが、どうにも視線を引き寄せられる、そんな顔をしている。
俺が足を止めてジッとその人物画と見つめ合っていれば、夏葉が俺の服の裾を引っ張り、そしてスマホを指さしている。
「?」
よくわからなかったが、夏葉の示すがままにスマホを取り出してみれば、夏葉からメッセージが送られてきた。
「この絵、どの角度から見ても目が合う気がする」
そう言われてハッと顔を上げてみれば、確かに絵の中の人物と目が合った。
試しに数歩歩いてから見てみたりもしたが、確かにどの角度から見ても目が合っている気がする。
「本当だな。これは一体どういう仕掛け何だろう?」
どうやら、この館内の空気間に配慮して言葉を最低限にしたいらしい夏葉に合わせて、俺もメッセージを送り返す。
「分からないけど……ちょっと絵の楽しみ方が分かったかも」
「確かにな。視点を変えるって主観、客観に使われがちだけど、実際の意味でもこんなに違うことってあるんだな」
静寂の中で常夜灯よりもだいぶ明るい橙色の照明に照らされる絵画たち。
そんな空間にコツコツと言う足音だけが響いている。
見る絵の一つ一つに様々な発見があり、集中しているうちにまるで絵画の中の世界を味わっているかのような気さえしてくる。
気が付けば俺たちはそれぞれ気になった絵を見ることに集中して、お互いのタイミングで見て回るようになっていた。
俺がそのことに気が付いたのは、次の展示場への扉が見えてからだった。
夏葉を待とうと振り返る。
その瞬間だった。
「……っ!」
思わず息が止まりそうになるほどの衝撃が全身を駆け抜けていく。
視点や物の見方について考えていたせいなのだろうか?
色々な美術について、知らないながらに精一杯考察をしてみようとしていた俺の目に絵画を見つめる夏葉の横顔が飛び込んできた。
綺麗、可愛い、美しい、様々な形容詞が脳内を飛び変っていく。
だが、中でも最も強く俺が抱いた感情は――
「好きだ」
好感、いや、愛情と言う名の感情だった。
「え?」
唐突に静寂を引き裂いた言葉に、虚を突かれたような表情の夏葉がこちらを振り向く。
今しかないと、俺は思った。
未だ呆然としたままの夏葉の手を取り、今いる展示場の外へ出る。
すると暗めの雰囲気からは一変、大きなガラス張りの開けた空間へと出て来た。
「ちょっと、龍樹? 急にどうしたの?」
不思議そうな顔をしてこちらを見ている夏葉の手を俺は痛まない程度にしっかりと握り、にいて歩き出す。
どうやら先ほどの言葉はしっかりとは聞こえていなかったらしい。
だが、それならばなおのこと好都合だ。
俺はそのまま、ガラス張りの向こう側、中庭になっている方へ向けて歩き出す。
夏葉も急にどうしたの? と言う顔こそしているものの、抵抗はせず俺の手を引くままに付いてきてくれた。
快適な温度に保たれていた館内も中庭まではそう言う訳にはいかない。
正午過ぎの真上の太陽がこれでもかと言わんばかりに燃え滾り、一歩外に出ただけで汗ばみそうなほどの空の下で俺は足を止めた。
「龍樹? 何かあった?」
俺のことを心配するかのような色を含んだ声で言う夏葉の手を話し、俺はゆっくりと彼女の方を振り返る。
「夏葉。目標達成のご褒美、今でいいか?」
俺がそう言えば、夏葉は一瞬何のことだ? と言う顔をしてからあっと声を漏らすと
「……良いよ」
何かを察したかのように少しだけ頬を朱色に染めながら優しくそう言った。
この炎天下では皆中庭には出たがらないのか、周りに人の姿は見えない。
ガラス張りの向こうに見える人たちも皆、絵画の方に集中して俺たちのことなど気にも留めていない様子だった。
「龍樹はご褒美に何を望むの?」
何かを待つかのような、求めるかのような表情で夏葉は聞いてくる。
それに対して、俺は――
「俺は、権利が欲しい。この感情を口にする権利が、欲しい」
これは酷く我儘で見当違いなら酷く恥ずかしい願いだ。それに、傍から見ればあまりに抽象的だろう。
だが、だからこそ、俺はこう望んだ。
ありのままの自分を伝えるために、俺のすべてを曝け出すために。
飾らない、八峰龍樹のそのすべてで伝えたいから。
そんな俺の言葉を聞いた夏葉は、まるですべてを理解したような顔をして、柔和な笑みを浮かべた。
「いいよ。じゃあ、龍樹にその権利をあげる」
そして、すべてを受け止めるかのようにほんの少し、変に見えない程度に軽く手を広げながらそう言った。
震える拳を握り締め、その痛みで意識を落ち着ける。
これを伝えれば、俺たちの関係は大きく変わってしまうかもしれない。
だが、それでも、俺はその権利を貰った。
もう、後戻りはできない。
「夏葉」
名前を呼ぶ。
愛しさに震えそうになる声で必死に言葉を紡ぐ。
「夏葉が好きだ。俺と……付き合ってほしい」
紡ぎ出された告白の言葉は、あまりにあり触れた特別感のないものだった。
色々と考えていたのに、土壇場でそのすべては彼方へと消え、残ったのは本心の、本音からの感情だけだった。
ギュッと、不意に軽く、だが、確かに力の籠った衝撃が全身へとかかる。
「龍樹っ!」
衝撃の正体は正面に立っていたはずの夏葉。
「私も、私も龍樹が好きだよ」
ギュッと抱きしめる手にさらに力を込めて、ありったけの感情を表すかのようにそう言ってくれる。
「夏葉」
俺も名前を呼び返しながら、彼女の身体を強く抱きしめ返した。
十秒ほど抱きしめ合っていた俺たちは、ほぼ同じタイミングで我に返り、ここが美術館であることを思いだしスッと離れた。
幸い、こちらを見ている人は見つけられなかったが、木陰になっているわけでもなければ、何か展示物の影になっているわけでもない場所で抱き合ってしまったという事実は思う以上に恥ずかしい。
だが、それ以上に、
「龍樹、好きだよ」
「俺も好きだ、夏葉」
温かくむず痒いような感情に包まれていた。
◇◇◇
あれから、気を取り直して俺たちはしっかりと絵画展を鑑賞して回った。
あの後すぐはお互いが気になり、中々絵に集中できなかったが、夏葉の提案で手をつなぎながら同じペースで同じ絵を見ようということになってからは、確かなつながりに満足感を覚えたおかげか、再び絵画に集中することが出来ていた。
「絵のことはさ、何も知らなかったけど、楽しかったね」
日も下がり始めた午後、下校時間より少し早いくらいの時間を並んで歩いていれば、夏葉がおもむろにそんなことを言った。
「そうだな。知らないなりに色々と考えるのも面白かった」
お昼過ぎに比べれば人通りの少ない道を、先ほどよりも近い距離で歩く。
「そうだね。また、別の美術館とかも行ってみよっか」
「いいな。相田さんには感謝だな」
「うん。悠月には後でお礼を言っておくね」
二人で知らないことに挑戦してみるというのは、とても良いものだった。
特に一緒に見ているのに、持つ感想は違ったりするという経験は、中々に得難いものだと感じた。
「そういえばさ」
すると、夏葉が一歩先へ踏み出して足を止め、こちらを振り向いた。
「どうかしたか?」
「いや、ちょっと気になってさ。どうしてあのタイミングだったのかなって」
ジッと真っすぐに俺を見て夏葉が聞いてくる。
夏葉が言っているのは間違いなく告白のタイミングのことだろう。
冗談めかした口調とは裏腹にその目には真剣さが宿っていた。
「なんでかって言われると難しいんだけど……」
「うん」
「色んな絵を見てさ、色々思うことがあっただろ?」
「そうだね」
「綺麗とか、ちょっと不気味とか……そんな色々を見た後にさ。夏葉のことを見て思ったんだよ」
真っすぐにこちらを見つめる夏葉の視線を俺も真っすぐに見返して言う。
「ああ、好きだなって」
「………………」
固まった夏葉の頬がみるみる赤くなっていくのが分かる。
「な、なるほどね。そういうことだったんだ」
少し強がって余裕ぶって見せるがその顔は耳まで真っ赤に染まり、照れていることはきっと誰の目からも明らかだろう。
「そう言えば、夏葉のご褒美は何なんだ?」
そんな可愛い夏葉を見ていたら、もう少し揶揄ってみようといういたずら心が湧いてしまい、俺はそう聞いてみた。
すると夏葉は赤くなって熱くなった顔を手でパタパタと扇ぎながらこう言った。
「私を揶揄う悪い龍樹に、やり返せる機会が来るまでは保留にしておこうかな」
「なっ⁉ 保留ってありかよ。確か約束ではデートの時に一つご褒美を叶えるってはずじゃ……」
言いかけて気が付く。
だが、それより先に夏葉が言った。
「うん。だってこれからはいつでもデート、出来るでしょ?」
カッと顔が熱を帯びて行くのが分かる。
「だって私たち、もう恋人だもんね」
だが、夏葉はそんな俺に構うことなく、最後までそれを言ってのけた。
「……そうだな」
照れ隠しにぶっきらぼうな反応を返すことしかできないが、そんな俺を見て夏葉は満足そうに笑う。
「ふふっ、楽しいね。なんか、青春って感じがする」
青春。
確かに言われてみれば、何となく分かる気がする。
だが、これは夏葉との関係が変わったからだとか、そう言う感覚ではない。
もっと、普段から、日常的に感じていた感覚で、当たり前にすぐそばにあった、そんなもののような気がする。
「なるほど。これが青春か」
「……今日は考え事して、私の話、聞いてないとかなしだからね?」
「ははっ、分かってるよ」
「ほんとに?」
「ほんとにほんと。でも、あの日だって俺は夏葉のことを考えてたんだけどな」
「なっ⁉ ……また、そうやって照れさせようとして来るし」
「違うって。これはほんとの話」
俺たちの微妙だった関係はこうして今日名前を持つ関係に変わった。
しかし、蓋を開けてみれば、変わったのは名前と少しの距離感だけ。
この会話はいつもの帰り道と変わらない。
でも、あの日の俺にはこう言ってやりたいと思う。
これを青春と呼ばずして何と呼ぶ、と。



