これを青春と呼ばずして何と呼ぶ。

高校生活。世間一般的に青春と呼ばれるこの年齢は、どうにも多感な時期らしい。
 かくいう俺も何らかのSNSかニュース記事で目についた程度の知識でこんなことを考えているのだから、世間一般と言うのは中々に正しいものであるように思える。
 だが、青春と言うのはなかなかどうしてつかみどころがない物だと思う。
 恋愛をしていたら青春? 部活に励んでいたら青春? どれもこれも要領を得ない気がしてならない。
 ならば、どちらもしていない俺は青春を送れていないのか?
 帰りのホームルームをぼうっと聞き流しながら、取り留めもない思考の海を漂っていると、日直が帰りの挨拶を終えた。
 沈みかけの太陽と春の爽やかさを微かに残した緩い風が俺の頬を撫で、髪を揺らす。
「龍樹~帰ろ」
 高校二年生へ進級してからもうすぐ二か月になろうかと言うこの日。
 いつも通りの軽い雰囲気で俺に声をかけてきたのは、同じクラスの女子生徒、風見夏葉だ。
「はいよ」
 俺も慣れたように軽く返事をすると、手早く教科書等を鞄にしまい込んで立ち上がる。
「うし、帰るか」
「うん」
 俺たちはそれから特に会話をするでもなく、二人並んで歩き、昇降口を出る。
 高校二年、世間的に青春真っ只中と言われるこの時期を同級生女子と二人で帰り道を歩く。
 これは青春ではないのだろうか?
「ねぇ、なに難しい顔してるの?」
「ん? いや、なに、ちょっと青春について考え事をな」
「青春? 青春って考える様なこと?」
 変なの~とでも言いたげな感情が伝わって来る表情をして、夏葉は続けた。
「まあでも、私たちはそれなりに送れてるんじゃない? 青春」
 スタスタと何歩か進み出てこちらを振り返りながらそう言う夏葉。
 夕日を背に受けながら、にこりと笑いかける彼女の姿を見ながら、やはり青春は難しいと、そう思う。
 だが、夏葉の言う通りこの日常が青春だというのなら、俺たちの妙な関係が始まったあの日から俺は青春を謳歌しているということになる。

 時は遡り、昨年の夏休み直前。
 高校生になると同時に始めた一人暮らしにもようやく慣れて、学校帰りに買い物をして帰れるくらいの余裕が出来始めた頃。
 始めたては疲れすぎて、買い物に休日を消費せざるを得ない状況だったのだから、これは大きな進歩だった。
 あの日は、夏休みに部屋ごもりを極めるために、スーパーで大量の買い込みをして帰って来たところだったと覚えている。
 いくら家から出たくないからとはいえ、スポーツドリンクの二リットルペットボトル三本をビニール袋で持ち帰るのはかなりの重労働で、俺の手とビニール袋の底のどちらが先に力尽きるかの戦いをしていたところだった。
 マンションのエントランスでエレベーターを待っていたその時、ついに決着は訪れた。
 ペットボトルと一緒に包装がしっかりとして四隅の尖ったパスタソースを詰めていたのが勝負の分かれ目だったのだろうか。
 エントランスにゴンっという鈍い音が響き、同時に俺の手は継続的な痛みから解放された。
 だが、それは解決ではなく、更なる戦いの始まりでもあった。
 俺の右手に残ったのは穴が開いてしまったビニール袋、ただそれのみ。
おそらく割と鋭利なパスタソースの包装がペットボトルの重さによって凶器と化し、ごく薄く、かつ重さによって張り詰められたビニール袋を突き破ってしまったのだろう。
 背負うスクールバッグには学期末と言うことで持ち帰らされたプリントやら教科書やらがパンパンに詰まっている。
 抱えようにも、三本と言うあまりに微妙なペットボトルの数。
 最悪、その他の物についてはスクールバッグにねじ込めば……何とかなりそうだが、二リットルペットボトルは流石に無理だ。
 とりあえず、散らばってしまったペットボトル以外の商品たちをスクールバッグに詰め込み、ペットボトルは一度諦めて、荷物を部屋に置いてから戻ってこようと思ったその時、彼女に話しかけられた。
「あの~八峰くん、だよね? 大丈夫?」
 その彼女こそ、今、俺の隣を歩いている風見夏葉だ。
「あ、ああ、風見さん。……見ての通り、腕が二本しかないという人間の限界に直面してるところ」
 情けない姿を晒してしまった……。
 彼女とはあまり関わりはないが、この状況は同じクラスの女子に進んで見られたい状況ではない。
 そんな感情が訳の分からない状況説明につながってしまい、二重に恥をかく。
 だが――
「……だよね。私で良ければ一本運ぼうか?」
「……お願いしても、よろしいでしょうか?」
「いいよ、どうせ私も上いくし」
 どうやら風見さんは百パーセントの善意で声をかけてくれたらしい。
 この世の中も捨てたもんじゃないな。
 俺が一度呼んだエレベーターは既に行ってしまったようで、次のエレベーターを待ちながら優しい世界に感謝した。
「八峰くんって運動部だったっけ?」
 すると、聖人風見さんが両脇に二リットルペットボトルを抱える間抜けな男に話を振って来た。
「いや、全然帰宅部だよ」
「だよね、……じゃあ、なんでこんなに?」
 風見さんは俺の両脇と自らの両手を交互に見ながら怪訝そうな顔をする。
「……最近は室内でも熱中症のリスクがあるから」
「…………もしかしてだけど、夏休み、部屋から出ずに過ごそうとか考えてない?」
 苦し紛れの言い訳に冷めた顔をする風見さん。
 ……もしかしてエスパーなのだろうか?
「そうとも言う」
 そこまで言い当てられてしまえば、もはや隠す方が情けなく、開き直って認めた。
「あんまり言いたくないけど、ちゃんと日光浴びて適度な運動とバランスの取れた食事が健康のためだよ?」
「おっしゃる通りです……」
 入れ違いにエレベーターを降りてきた人からも、おかしな奴を見る目で見られながら、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。
「友達とは遊んだりしないの? ほら、よく話してるよね。バスケ部の……軽沢くん? とかと」
「あいつは部活が忙しいんだと」
 友達と言うか俺が一方的に絡まれているだけのような暑苦しい男を思い出しながらそう答える。
「あぁー確かに運動部は忙しそうだもんねぇ」
 そんな世間話をしていれば四階の表示が点滅し、エレベーターが停止した。
「あ、俺ここだから。ありがとう風見さん、助かったよ」
 開き始める扉を横目に確認しながら、風見さんにお礼を伝えて、ペットボトルを受け取ろうとするが、風見さんは何言ってるの? という顔をしてこう言った。
「いや、どうやって部屋に入るの? 別にすぐそこなんだし、部屋まで持つよ?」
「いや、そこまでしてもらうのは流石に……」
「いいからいいから! ほら、エレベーター閉まっちゃうよ」
 うーん、もしかしたら風見さんは聖人を超えて天使か何かなのかもしれない。
 お言葉に甘えて部屋の前まで運んでもらうと、今度は俺がお礼を言う前に風見さんが切り出した。
「鍵どこ? 開けてあげる」
 ……女神だ。どうやら同じクラスに女神が居たらしい。
「スクバの外ポケットに入ってるんだけど……取りづらいと思うからいいよ」
「もう! ここまで来て遠慮しないでよ。外ポケットね? んしょ」
 風見さんは両手で持っていた二リットルペットボトルを片手に持ち替えて、俺が背負ったままのスクールバッグから器用に鍵を取り出した。
「あった! 私が開けちゃっていい?」
 ここまでしてもらって今更遠慮することもないか。
「うん。何から何まで悪いね」
 ガチャリと小気味いい音が響き、俺の部屋の扉が開く。
「お邪魔しまーす、うーんやっぱりあっついねぇ……」
 もはや普通に上がって来た風見さんには何も思わない。
 ここまでしてもらってお茶の一杯も出さない方が失礼だ。
 ……残念ながら我が家にあるのは、買いたてほやほやのスポーツドリンクだけだが。
「部屋の中までほんと助かったよ。気の利いたものはないけどスポーツドリンクくらい飲んでいってよ」
「いいの? 部屋ごもり用なんでしょ?」
「いいさ。この歳で不健康は勘弁だからね」
「ふふっ、じゃあ、お言葉に甘えて」
 俺は手早く買ってきたものを冷蔵庫や棚にしまい込むと、洗い物から逃れるために買っておいたプラスチックのコップにスポーツドリンクを注ぎ、風見さんへ手渡した。
「お、ありがと! じゃあ、そっちのコップ貸して」
「? はい」
 俺の注いだコップを受け取ると何故かこちらのコップを要求する風見さん。
 言われるがままにコップを渡すと、そのコップにスポーツドリンクを注ぎ、俺へと手渡して来た。
「はい、じゃあ乾杯!」
「なるほど。乾杯」
 どうやら俺の分も注いで乾杯がしたかったらしい。
 これを素でやっているとしたら、風見さんは気遣いの鬼、いや、気遣いの女神だな。
「うーん、一仕事終えたあとの一杯は格別だね」
「若干ぬるいな……ごめん」
「気にしないで。それにスポーツドリンクは常温の方が体にいいって聞くよ」
 少しの自虐も許さない本当にとんでもないフォロー力。風見さんと一緒に居ると勝手に脱力していい気がしてくる。
 さすがはクラスカーストで上位に君臨しているだけのことはある。
「ねえ、八峰くん」
 俺が感心していると改まった様子で風見さんが俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「もしかしなくてもだけど……一人暮らし、だよね?」
「ああ、そうだよ。見ての通り。おかげで部屋が広いったらない」
「確かに、この部屋全然物ないよね。食器もプラコップだし」
 ふふっと何故か無性に嬉しそうに笑う風見さん。
 何か面白いことがあっただろうか? まあ、笑っているなら何でもいいか。
 一瞬疑問がよぎったが、彼女のさわやかな笑顔の前では、その程度の疑問は即座に流れ去った。
「正直、キッチンとか風呂、トイレみたいな場所を除けば、自分の部屋で完結するからね」
「でも、寂しくならない?」
「まあ、ならないってことはないけど……別にいつも通りだしなぁ」
「ふーん、そっか」
 何かを考える様な顔をした風見さんが突然、残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「じゃあ、私帰るね!」
「ん、そっか。悪いね、大したもてなしも出来ず」
「いやいや、十分だよ! 私、ペットボトルを持ってエレベーターに乗っただけだし」
「風見さんがそう言うなら、まあいいか。じゃあ、ほんと助かったよ」
「うん! また、学校でね!」
 そう言うと元気な足音を響かせて風見さんはエレベーターの方へ走って行った。
 この時はこれっきりになると思っていたのだが、これを機に度々、風見さんこと夏葉が俺の部屋を訪ねてくるようになり、現在の付かず離れずな妙な関係になっている。

 ううむ、思い出してみてもやはり青春の実態を掴みかねる。
 確かに、あの日だけを切り取れば青春と言えなくもなさそうだが、それからの日々はもう日常だ。
 こんな日常を青春と言っていいならば、青春時代を高校生活と重ねる意味はあまりないような気がする。
「……つき~、龍樹ってば」
「ん? どうした夏葉?」
 再び思考の海へ潜っていた俺をジト目の夏葉が見つめている。
「いや、どうした? じゃなくて、もう部屋の前なんですケド……」
 言われて気が付いた。
 そこは、もう実家よりも慣れてしまったと感じられる我が家。
 いや、我が部屋の目の前だった。
 ……エレベーターに乗っているのにも気が付かないって、どれだけ集中して考え事をしていたんだろうか俺は。
「悪い……今開ける」
「暑いんだから早くしてよね~」
 おもむろにスクールバッグの側面に手を突っ込むと慣れ親しんだ金属の感触を確かめて引き抜く。
 それから手元を確かめる間もなく、俺は部屋の鍵を開けた。
「鍵の場所、変わらないね」
「まあ、こういうのは慣れもあるからな。突然変えたら、無くしたと思って焦るかもだし」
「それもそっか」
 勝手知ったる様子で俺が開けた扉に家主より先に入っていく夏葉。
「うわ~蒸してるね~エアコンエアコン!」
「エアコン付けたら手洗いとうがいはちゃんとしろよ」
「もうっ! 分かってるよ!」
 靴を脱ぎ、きれいに踵を揃えてからリビングの方へ駆け足で向かう夏葉。
 言動は先走っていても、こういう律儀なところは一年前から変わらない。
 エアコンは夏葉に任せて俺は先に洗面所で手洗いとうがいを済ませる。
 コップには当然のように青とピンク、二本の歯ブラシが立てられていて、こういう細かい部分からも俺の日常が感じられる。
 ……やはり、青春とは違うような。
「ちょっと、いつまで鏡の前で立ち尽くしてるの? 今日ちょっとおかしくない? ほんとに大丈夫?」
 短い間に三度目となるこのやり取り。
 先ほどまでは怪訝そうにしていた夏葉の顔も、三度目となっては少し心配そうな表情になっている。
 その表情を見ていたら、なんだか無性に――
「ちょ、ちょっと待った! ストップストップ! なになに、ほんとに今日大丈夫?」
 彼女の長い髪をさらりと流して、その頬に触れようとしたところで、夏葉からストップが入った。
 ………………いや、突然何をしているんだ俺は……。
「わ、悪い」
「べ、別に嫌ってわけじゃないけど……。でも、ちょっと、急すぎ」
 悪びれる俺を見て、微かに頬を上気させながら、その頬に触れかけていた俺の手を身体の横に戻す。
「はい、行った行った! そろそろエアコンも効いてきたんじゃない?」
「……ああ」
 今日の俺はどうしてしまったというのか。
 そもそもなぜ青春という言葉をこれほど引き摺っているのか?
 リビングに向かう途中、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、二人分を注ぐ。
 一つはテーブルの向こう側に置いて、俺はグイっとコップを傾けた。
 汗ばんだ身体に冷たいスポーツドリンクの程よい甘みが染み渡る。
 そのままの勢いで一杯を飲み干すと、取り留めのなかった思考からは解き放たれたような感覚があった。
「ふいー、龍樹~私にもスポドリ頂戴~」
「はいよ、もう入れてあるぞ」
 洗面所から歩いてきた夏葉に入れておいたスポーツドリンクを手渡し、俺はテーブルについた。
 その場でひと口コップを呷った夏葉も俺の正面に移動し、椅子に腰かける。
「やっぱりこれだよねぇ」
「まあ、飲みすぎると糖分過多だけどな」
「汗かいた後は大丈夫ですー」
 そう言って、再びコップを傾ける夏葉を、特に何の気もなくただ見つめる。
 これはもう当たり前になってしまった日常で、俺には見慣れた光景だ。
 コップを持つときに立つ小指も、最後のひと口は口に含んでからゆっくりと飲み込む飲み方も全て知っている。
 おそらく彼女のこんな細かいところを知っているのは世界でも俺だけだ。
 そう考えると途端にこの日常が特別なものに感じられる……ような気がする。
「ちょっと龍樹サン? そんなに熱い視線を向けられると飲みにくいんですけど」
「悪い悪い」
 ……どうやら今日の俺は少し、いやかなり考え込みすぎているようだ。
 夏葉から無理やり視線を逸らすようにポケットからスマホを取り出してSNSアプリを眺める。
 せいぜい十二、三センチの板の中に三センチから七センチ程度の情報の粒が数え切れんばかりに流れていく。
 普段ならこのくらいてきとうに生きているのだが、いったい今日はどうしたというのか。
「そういえば今日さ、私告白されちゃった」
 SNSを流し見していた俺に夏葉が突然切り出した。
 そして、ようやく合点がいった。
「……そうか。さすがによくモテるな」
 俺はこれを聞く前から知っていた。
 知っていたというか、たまたま見てしまったというのが正確か。
「えーそれだけ? 反応薄ーい」
「そうか? こんなものだろ?」
 表面上ではそう取り繕うが、俺の内心では点と点とが線となって繋がっていく。
 
 それは今日の昼休みのこと。
 購買から教室に戻るまでの道でなんとなく遠回りがしたくなった俺は、普段はあまり通らない技術系科目教室が並ぶ実習棟を歩いていた。
 そして一年時に何度か使用しただけの被服室の横を通ろうとした時、微妙にズレた扉が気になってそこに近づき、それを聞いてしまった。
「夏葉さん、好きです!」
 悪いとは思ったが、なぜか足が動かず、聞き耳を立ててしまった。
「えーっと、ありがとう?」
 夏葉は曖昧な様子で反応としては微妙そうだったが、告白をしている方の男子生徒は止まらず言葉を続ける。
「俺はあなたと高校生活を、青春を送りたいんです!」
 なんとも青臭く、まっすぐな告白だと思った。
 そして俺はこの言葉を聞いて、何故かものすごい違和感を覚えたのだ。
 だが同時に現状のマズさも理解し、そこから先は聞かず、足早に教室へ戻ったのだった。
 
「結果とか気にならないの?」
 淡白な俺の反応に不満そうな表情の夏葉。
「まあ、気にならないこともないけど、これまでの統計的に断っているだろうことは分かるからな」
 だが実際、夏葉が告白されることはよくあり、俺は彼女がそれを一度も了承していないことを知っているので、この反応になるのも仕方がないだろう。
「今回は……違うかもよ?」
「じゃあ、違うのか?」
 尚も引き下がってくる夏葉に逆に質問をしてみれば――
「……違わないけど」
 挑戦的だった視線を下げて、小さくそう呟く。
「ほらな?」
 この通りだ。
 だが、今日はいつもよりも安心感を覚えた。
「ちぇーつまんない。龍樹は恋バナとかないの?」
「ないな、残念ながら……」
「ですよね~まあ、知ってたけど……」
「じゃあ、聞くなよ……」
 何だか安心したかのような表情の夏葉を見てぼそっと恨み節を吐いた。
 それからはいつも通りの俺に戻った、と思う。
 少なくとも自分ではそう思った。
「さて、さっさと今日の課題を片付けよう」
「そうだねー、そう言えば今日の夜はあの映画やるらしいよ!」
「じゃあ、夕食遅めにして食べながら見るか?」
「いいね。じゃあ、なんかお菓子開けよっか。さすがにお腹空いちゃって集中できないかもだし」
「おう、夏葉の好きなのでいいぞ」
「やったー! 何がいいかな~」
 こうして今日もいつも通りの日常が過ぎて行った。

 翌朝、俺はインターホンの音で目を覚ました。
 時計に目を向ければ七時三十分の表示が目に入る。カーテンを開けて太陽の光を浴びてから、インターホンに出た。
「おはよ」
 インターホンのカメラ越しに映るのは昨日と同じ笑みを携えた夏葉の姿。
 こっちは映画を見たままリビングで寝落ちしていたと言うのに……というか、帰るならその前に起こしてくれればいいものを。
 なんて、あまりに自分勝手な感情が浮かんでくるが、それは飲み込んで玄関のドアを開けた。
「……おはよ、俺今起きたから先に行くか部屋で待ってるかしててくれ」
「あ、やっぱりあれから起きなかったんだ? 昨日感想戦したかったのに龍樹途中で寝ちゃうんだもん」
「悪い悪い、なんか疲れてたのかも」
「そういえば、なんかずっと考え込んでたもんね?」
「ああ、なんだったんだろうな?」
「なにそれー自分のことでしょ?」
 口ではそう言いながらもくすくすと楽しそうにしている夏葉。
「なんだよ? 何か面白いことあったか?」
 尚も笑い続ける夏葉に聞き返せば、こちらを見ながら話し終わった後で彼女は言った。
「いや、龍樹の寝ぐせがすごいから。確かに自分のことってわからないのかもって思ってさ」
 そう言われて玄関の隣の洗面所の扉を開ければ、すぐ先の鏡に映ったのは現代アートの如く先鋭芸術的な髪形をした寝ぼけ面の男の姿。
「……シャワー浴びてくる」
「はーい。朝ご飯簡単なもので良ければ作ってあげるけど?」
「時間なさそうだし、食パンでもかじるからいいよ」
 自室に着替えを取りに走りながら答える。
「もう、ちゃんと食べなきゃだめなんだよ?」
「そうしたいところだがな……」
 それからも夏葉は何かを言っていた気がしたが、本格的に時間がまずそうだったため、反応もそこそこに俺は風呂場へ飛び込んだ。

 ◇◇◇

 烏の行水のように最適化された動きを持って最速でシャワーを浴び終えた俺は、シャワーと同じくらいの時間をかけてしっかりと髪の毛を整え、洗面所を出る。
「夏葉、今何時だ?」
「後四十秒で八時!」
 何とかギリギリ遅刻はせずに済みそうだ。
 最悪の場合電車を使えば何とでもなるが、この時間の電車は通勤ラッシュの真っただ中。
 あの満員電車は出来ることなら避けたいところ。
「はい、食パン。齧るんでしょ?」
 昨日課題をやった後そのままにしておいた鞄を拾い上げ肩にかけると、食パンを口元に差し出してくる夏葉。
「ん、サンキュ」
 差し出された食パンを手を使わずにそのまま口で受け取ると二人して玄関に向かう。
「あんまり行儀良くないから、玄関出る前に食べちゃってよね」
「わかってる」
 俺はなんとかローファーを履いているうちに食べきることに成功し、無事いつも通りの時間に家を出ることができた。

「もう、あっついねぇ」
 昨日と同じ通学路も少し時間が変われば見せる顔を変える。
 午後はゆっくりと動く人波も、朝はいささか足早に感じられ、一日の始まりを思わせる。
「まぁ、もう六月になるからな。この辺の梅雨は輪をかけて蒸すから嫌いなんだよなぁ」
「そう言えば、龍樹はこっちに来たの高校からなんだもんね」
「ああ、そうだな俺の地元は夏は涼しくていいぞ」
「冬は寒そうだけどね」
「違いないな」
 とりとめのない会話をしながら高校までの道のりを歩く。
 徒歩約三十分の距離と言われると若干長さを感じるが、こんな会話をしていれば案外すぐについてしまうものだ。
「みんなおはよ~」
 夏葉がクラスカースト上位の肩書に恥じない人あたりの良さと明るさを全力で発揮しながら教室に入っていく。
「はよっす」
 俺もそれに続いて控えめに教室へ入った。
 夏葉が自分の席に着く前に彼女の周りには多くの人が集まり、彼女の凄まじいコミュニケーション力を改めて感じさせられる。
 そんな姿を横目に見ながら俺は自分の席に着いた。
 ふぅっと一息ついて鞄を机の横にかけると、中から読みかけの小説を取り出して、ページをめくる。
 まだ、朝のホームルームまでは十五分ほどの時間があった。
 読み始めの数行を流し読みしていると段々と周りの音が遠くなり、俺は本の世界に落ちていく……はずだった。
「お、龍樹! はよっ!」
 パシンと軽い衝撃と共に暑苦しい声が耳に木霊する。
「篤人……おはよう。珍しく速いな。部活は良いのか?」
「ああ、今朝はミーティングだけだったんだよ。だから片付けしなくていい分早かったんだ」
 俺に声をかけて来たこの長身の爽やかイケメンは軽沢篤人。
 容姿こそ爽やかイケメン系なのだが、かなりの熱血漢で暑苦しい男だ。
 毎朝バスケットボール部で汗だくになるまで朝練をしてくるのだが、今日はどうやらミーティングの日だったらしい。
「そりゃあよかったな?」
 俺は心から言葉を贈る。
「よくはねーよ。もうすぐ練習試合だってのに」
「でも、お前練習後の一限が古典だと寝るだろ?」
 そう、まさにこれが理由だ。
 テスト前になると毎回教えてくれと言われ、一から教えなくてはならないのは確かに復習にはなるがさすがに面倒なのだ。
「ふっ、甘いな龍樹」
 だが、そんな俺の思惑なぞ知ったことかと、不敵な笑みを浮かべる篤人。
「なにがだよ?」
「一限の古典は無条件で睡眠だ!」
 胸を張って言うことでは断じてない。
「……もう、教えないからな」
「なっ!? それは話が違うだろ!」
 俺と篤人がそんなあほなやり取りをしていれば、二つの影が俺たちにかかる。
「ねね、何の話してるの?」
「ふふっ、二人とも仲いいよね」
 俺たちの元にやって来たのは先ほどまでたくさんの生徒たちに囲まれていた夏葉と彼女の友達の相田悠月さんだった。
「お、夏葉さんに悠月さんおはよう!」
「おはよう軽沢くん、八峰くんもおはよ」
「おはよう相田さん。今は篤人に古典の授業を寝ないように言い聞かせていたところ」
 相田さんに挨拶を返しながら夏葉の質問に答える。
「あー、一限の古典って眠いよね~」
「そうだろ? ほらみろ龍樹! 相田さんも眠いって言ってるぞ!」
 同意者を得たことで途端に勝気になる篤人。
「いやいや、眠いと実際に眠るのは話が別だろ? 篤人お前、相田さんが授業中に寝てるとこ見たことあるか?」
 だが、相田さんといえばテストの度に学年でもトップレベルで優秀な成績を残している。
 席も一番前だし、寝ているところは見たことがない。
「いや、知らないな。俺は授業中基本寝てるから」
 そうだった……こいつは別に部活後じゃなくても寝てるタイプの男だった。
「……はぁ、夏葉はどうなんだ?」
「私も眠いけど寝ないかな~」
 どうでも良かったが、なんとなく二対一だから俺の勝ちな! とか馬鹿なことを言われる気がしたので、夏葉にも話を振ってみればこの通り。
「ほらな?」
「ぐぅ……二対二、引き分けか」
「いやだから、相田さんは寝てないんだって」
 頑なに引き下がらない篤人を認めさせるために、もう相田さん本人の口から言い切って終わろうと相田さんの方を見ると、彼女は怪訝そうな表情を浮かべ俺を見つめている。
「今、ふと思ったんだけどさ、八峰くんって女子の名前、苗字呼びだよね?」
「え、あ、うん? 夏葉以外はそう、かな?」
「なんで夏葉だけ下の名前呼びなの?」
 若干の含みを感じさせるような疑問。
 その証左の如く、クラス中の男子の視線がこちらに向いたのが分かった。
 首筋にジワリと汗が浮くのを感じる。
「なんでって言われてもなぁ……普通に仲が良いからじゃないか? 篤人みたいに同性の友達は下の名前で呼んでるし」
 とりあえず波風を立てないように当たり障りのない答えを返しておく。
「そっか……じゃあ、夏葉もおんなじ?」
 俺の話を聞き終えると相田さんは夏葉に標的を変え、面白い物を見つけたかのような声音でそう聞いた。
「そりゃそうでしょ。急にどうしたのよ悠月? あ、昨日の恋愛映画見たんでしょ? もうっ、すぐに影響されるんだから!」
 だが、夏葉はそれを完璧に躱し、さりげなく話題を逸らした。
「あ、あれ夏葉も見たの? 良かったよねー!」
 コミュ力強者恐るべし。
 いや、これに至っては相田さんが流されやすすぎるのだろうか?
 だが、確かにこちらへ向けられていた男子連中の目も、もう気にならない程度になっている。
 そして、まるでそこまで読み切っていたのではないかというタイミングでホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「あ、もう時間だ。二人ともまた後でね~」
 軽く手を振りながら自分の席へ戻って行く相田さんと夏葉。
 それに手を振り返しながら、俺はさりげなく胸をなでおろした。
 あのまま男子連中の嫉妬の目を受け続けるのは、ゴリゴリと精神力をすり減らされるからな。
 それからは早速、俺の目の前の席で居眠りを始めた篤人の椅子を定期的に蹴って起こしながらホームルーム、一限の古典、二限と授業をこなしていった。

 太陽が真上から降り注ぎ、再び段々と角度をつけ始めた頃合い。つまり四限の授業は体育だった。
「よし、龍樹! 今日はバスケだぞ!」
 ホームルームから一、二、三限とがっつりと睡眠をとって朝以上の暑苦しさとなった篤人から数秒目を離している隙に、いつのまにかもう着替えを終えている。
「お前なぁ……というか部活でもバスケやってるのに授業でもやりたいもんか?」
 鼻息を荒くして、俺に早く着替えを済ませるように催促してくる。
「当たり前だろ! 部活もいいが友達と楽しくバスケをするのもまさに青春って感じだろ?」
 青春……なんだかここ数日でよく聞く言葉だ。
 いや、俺が意識するようになっただけで、もしかしたら日常の中に青春は溢れていたのだろうか?
「でも、どうせお前の無双で終わりじゃねぇか」
「ははっ! そりゃあこう見えてエースだからな!」
 そう言って体育館へ走っていく篤人の背を追う。
 まあ、別に俺だってバスケが嫌なわけではない。
 ありがたいことに特に苦手のないタイプなので大ミスをして目立つこともなく、さらっと流して終わらせればいいだろう。

「よっしゃ龍樹! 決めてやれ!」
 蒸し暑い体育館でも爽やかさと熱血を同居させる篤人の声はよく通る。
 スリーポイントラインより少し内側に入っていた俺に篤人から胸元へ真っ直ぐ、いいパスが飛んでくる。
 さすがはバスケ部レギュラーの男なだけはあって、俺のような帰宅部にも取りやすく、だがしっかりと速いそのパス一つで実力を知らしめてくる。
 俺はボールを受け取ってすぐにシュートモーションへ入るが、相手チームのディフェンスも甘くない。
 すぐに視界を遮るようにディフェンスの手が伸びた。
 ……これは、外れる。
 そう思いながらも、すでに体勢はシュートの形をとってしまっている。
 打つしかないか、と諦めようとした時――
「龍樹! くれっ!」
 ゴールの直線状に自分のディフェンスを振り切ってカットインしてくる篤人からパスコールが掛かった。
「っ! 頼む、篤人!」
 俺は咄嗟にシュートからパスへ切り換える。
 お世辞にも良いパスとは言えないが、バスケ部のレギュラー様なら取ってくれるだろう。
 そうして俺の手から離れたバスケットボールはワンバウンドして走ってくる篤人の手に渡った。
「おらっ! どうだっ!」
 体勢を崩しながらも放たれた篤人のシュートは正確にゴールウィンドウの角を捉える。
 するとボールはゴールへ吸い込まれるように跳ね返り、俺たちの頭上のネットを揺らした。
「おおおぉっ!!」
 他のチームメイトから歓声が上がる。
 俺達からすればまごうことなくスーパープレイだった。
「龍樹! ナイスパス!」
「いや、お前がすごいだけだろ」
「謙遜すんなって! ま、その調子で勝つぞ! さ、ディフェンスディフェンス!」
 俺の背中をバシンと叩き、自陣へ戻って行く篤人。
 くそっ……ちょっとかっこいいじゃねぇか。
 何とも言えない感情を胸に抱きながら俺も自陣に戻り、それからも何とかうまくバスケの試合をこなした。

 ◇◇◇

「おおぉ! 男子は盛り上がってるねぇ」
 体育館の隣のコート。
 龍樹たちがバスケをしている横では同じクラスの女子が自分たちのバレーボールもそこそこにネット越しに彼らのプレーを観戦していた。
「見てみて夏葉! 八峰くんに軽沢くんからいいパス入ったね!」
「そうね……けどディフェンスも一筋縄じゃ行かなそう」
「あちゃ~あれは捕まっちゃったかな?」
 夏葉と悠月は完全に観戦者だ。
 そんな中、二人の耳にもはっきりと聞こえる声が響いた。
「龍樹! くれっ!」
 篤人が自身のディフェンスを振り切ってゴール目掛けて飛び込んでいく。
 そこに龍樹からの苦し紛れでも、きちんと手元に渡るパスが届き、篤人のシュートがゴールネットを揺らした。
「おおっ! かっこいいねぇ」
 悠月は難しい体勢からシュートを決めて見せた篤人を見て言った。
「そうね。龍樹は視野が広いから。ああいうパスも得意なんでしょうね」
「え? 龍樹って八峰くん?」
「え? そうだけど?」
「……あぁ、そう。そうだよね~」
 だが、隣りの夏葉が見ていたのはシュートを決めた篤人ではなかったようだ。
「おい! お前たち! 観戦もほどほどにしろー! 今日の授業はバレーボールだぞ!」
 何気ない一幕に親友の本心を見てしまった悠月は少しからかってやろうと親友の横顔を見る。
 すると、親友の口元には普段は見せない柔らかな笑みが浮かんでいた。
「もうっ! 夏葉ってば可愛いなぁ~」
「え? 急に何よ? それより戻らないと、先生怒ると長いんだから」

 ◇◇◇

 体育後の購買はかなりの苦戦を強いられる。
 何故なら授業後に着替えという必須作業が挟まれるからである。
 それにしたって、うちの学校にはこんなにも人がいたのだろうか?
 購買前に出来上がった気が遠くなるほどの人の群れを見ながら俺はそんなことを考えた。
「こりゃあ購買は無理だな……よしっ! 龍樹! 学食行こうぜ!」
 一緒に購買まで来た篤人が言う。
「いや、俺は良いけどお前は弁当があるだろ?」
「バカ野郎、運動したんだからその分食べなきゃだめに決まってんだろ?」
 ……運動部の食欲は凄まじいようだ。
 俺や夏葉とは違い、篤人は実家から通ってきている。
 そのため篤人には毎日弁当があるのだが、ほぼ毎日昼食の度に俺と一緒に購買へやって来て何かしらのパンを弁当のプラスアルファとして食べるのだ。
 だが、まさか学食までとは……。
「俺は弁当持ってくるから先に席でも取っておいてくれ! あ、俺はラーメンな!」
 ……菓子パンならまだしも弁当プラスラーメンとは。
 運動部の食欲は本当に凄まじい……。
 教室へ走って戻って行く篤人の背を見送りながら、つくづくそう思う。
 ……いや、篤人の食欲に戦慄している場合ではない。
 利用者が少ないとはいえ、学食は席に制限があるのだ。
 財布の中身を確認しつつ、バスケで疲れた足に鞭を打って学食へ早足で向かった。

 お昼の学食は大分利用者が少ない。
 購買前と比べるとガラリとしている学食前の券売機でラーメンの食券を二つ購入するとそれを持って数人しか並んでいない列に並んだ。
 この学食が本格的に混むのは放課後だ。
 食堂の閉鎖までたっぷりと時間のある放課後はサイドメニューのポテトなどをつまみながら課題をしたり、おしゃべりに興じたりする生徒で溢れる。
 昼時にいるのは、俺より頭一つ分背が高いような強豪運動部の生徒だったり、四限に授業のなかった教師たちくらいだ。
 まあ、時間以上に量が多すぎて昼休み中に食べきれないというのもこの人の少なさの理由の一つなのだろうが。
「お、良かった! まだ受け取り前か!」
 背後から声をかけられそちらを向けば、声の主である篤人に加えて、なぜか夏葉と相田さんの姿もあった。
「ああ。ほらこれ。それよりなんで夏葉たちが?」
 篤人に食券を手渡し、代わりに食券分の金額を受け取りながら聞く。
「いや、軽沢くんが珍しくお弁当持ってどこかに行こうとしてたからどこ行くの? って聞いたら龍樹と学食だ! って言うから私たちもお邪魔しようかなって」
 篤人の声を真似しながら相田さんが答えた。
「なるほど? いつも一緒に食べてる友達たちは良いのか?」
 女子ってその辺も意外と繊細だったりするという噂を聞いたことがあったのだが、迷信だったのだろうか? いや、あれは小学生の話だったか?
「たまにはいいんだよ! ねっ夏葉!」
 と、心配する俺だったが、どうにも大丈夫らしい。
 楽しそうな表情で相田さんが夏葉に会話を振る。
「そうね。学食って使ったことなかったし。龍樹は何にしたの?」
 すると夏葉は食券の券売機を見ながらそう聞いてきた。
「ラーメンだけど」
「じゃあ、私もそれにしよ」
 俺が答えると即座に小銭を投入し発券ボタンを押す夏葉。
「いや、夏葉。お前食べるの遅いだろ? 間に合うのか?」
「こんなに安いラーメンならそんなに量も多くないでしょ? 大丈夫」
「ん?」
 どうやら夏葉は学食の超初心者らしい。
「いや、夏葉さん。ここの学食は低価格、超ボリュームだぜ」
 俺に変わって篤人が無慈悲に夏葉へ現実を突きつけた。
「えっ? そうなの?」
 発券されてきた券を取り出しながら、半信半疑な声を出す夏葉。
「ああ、だからこんなに人がいないんだよ」
 それにとどめを刺すように篤人がさらなる現実を叩き込んだ。
「……龍樹」
 夏葉が怯えた猫のような顔をして俺を見てくる。
 夏葉とは幾度となく外食をしているが、彼女は体型通りというか、俺から見ればかなり食が細い方だ。
 たまに逆写真詐欺にあってはこの顔をしてくる。
「……俺と篤人で麺を半分くらい貰うよ」
 だが、流石の俺も、うちの学食のラーメンを一杯半、昼休み中に食べきる自信はなく勝手にだが篤人を巻き込んでおいた。
「いいのか!?」
 うむ、どうやら篤人は余裕みたいだな。
「……ありがと。いつもごめんね」
「気にしなくていいって」
「んん?」
 そんなやり取りをする横で唸るような声を上げる相田さん。
 ……そういえばさっきから相田さんが疑問符を浮かべるような顔をして俺と夏葉を交互に見ている気がする。
「えっと、相田さん? どうかした?」
「おい、龍樹! 順番来たぞ!」
 だが、質問の答えを貰う前に篤人に急かされ、ラーメンを受け取った。

「むむむ?」
 四人で席について、それぞれラーメンや弁当……ラーメンと弁当を広げながら若干急ぎ気味に箸を動かしていく。
 夏葉のどんぶりから麺を分けたことで、以前食べたときより迫力の増したラーメンと格闘していると俺の頭上にまた、相田さんの唸り声が聞こえて来た。
「ちょっと悠月? 食べながら何か考えごとしてる? 声に出ちゃってるよ」
 どうやら相田さんの隣に座る夏葉にはよりはっきりと聞こえていたようだ。
 俺の疑問を代弁してくれた。
 すると、弁当を食べていた箸を置いて相田さんが口を開いた。
「いや、あのね? さっきの券売機前にいたときからちょっと気になってたんだけど、八峰くんはどうして夏葉の食べるスピードが遅いことを知ってたの?」
「ゴフッ」
 突然飛んできた想定外の速球に思わずむせてしまう。
「その後、麺を分けるって言った後も夏葉がいつもごめんねって言ってたし……」
「エフッ」
 ひとまず落ち着こうとコップの水に口をつけるも続けて飛んできた二の矢に額を正面から打ち抜かれたような衝撃を受けてさらにむせた。
 胸を叩いて呼吸を整えながら夏葉の方へ目をやってみれば、コミュ強の彼女には珍しくやらかしたという表情を隠せていなかった。
 おいおい、これはまずくないか?
 思考が急速回転を始める。
 ここは教室じゃないし、最悪俺たちが同じマンションに住んでいることくらいバレてもいいか?
 ……いや、それはあくまで俺の都合。
 ここまで隠してきている以上、夏葉は言いたくないかもしれない。
「もしかしなくても、二人って付き合って――」
「そういや篤人! 今度の練習試合っていつなんだ?」
 俺は相田さんが話し始めてなお、食べるのに夢中だった篤人に話を振って相田さんの言葉を遮った。
「ん? 練習試合か? ウチの体育館で土曜だぞ。お、そうだ! 龍樹も夏葉さんも悠月さんも暇なら見に来てくれよ!」
 かなり無理のある手段だったが、爽やか風熱血大食漢に助けられた。
 篤人はそれまでの会話のことなど全く聞いていなかったようにぶった切ってくれる。
「い、良いね! どう悠月? 私は暇なんだけど」
 そしてすかさず助け舟に乗る夏葉。
 この反射神経は流石というほかない。
「え、行きたいけど……私も美術部で作品コンクールに出す絵を仕上げないとなんだよね」
 問題の相田さんはと言えばこの通り。
 すぐにこちらの話へ乗って来た。
……いや、相田さんはもっと自分の疑問を大事にしようよ。
 こちらとしては助かったんだけどね?
 そんなに切り換え早くていいのか?
「でも、学校には来るんだよね? なら、一試合分だけ見に来るとかどう?」
 と、思ったが自分に不利な状況をわざわざ掘り返す必要もない。
 時間を決めて見に来る提案をして、完全に会話を篤人の練習試合へシフトさせた。
「なるほど確かに! 軽沢くん、試合の時間とかってわかる?」
「ああ、教室に戻ればタイムテーブルがあると思う。戻ったら確認するわ!」
「お願い! いや~友達の部活の観戦なんて、青春って感じだねぇ」
 一通り会話が終わり自分の弁当へ箸を向けた相田さんが呟く。
 なるほど、言われてみればなんとなく青春という感じがするかもしれない。
 ……やはり部活が関わっているせいか?
 それとも友達と何かしているという点?
 昨日、一度は飲み込んだ疑問が再び湧き上がる。
 だが、どうにもバチンとハマるような理解は訪れない。
「おい、龍樹! その調子じゃ、間に合わないぞ!」
 篤人に声をかけられハッとする。
 危ない危ない。
 また思考の海に沈んでしまう所だった。
 それからは特に会話もなく、それぞれ目の前のどんぶりの中身を減らすことに注力した。

 放課後、前後に並ぶ俺たちの席に夏葉と相田さんが集まっていた。
「あれ……おかしいな。確か、この辺に……お、あったあった!」
 篤人はガサゴソと机の引き出しを漁り、角の曲がった一枚の紙を引っ張り出した。
「お前……引き出しは片付けておけよ」
「見つかったんだからいいだろ! それよりこれだ。俺の試合は……十一時からだな」
 篤人が見せてくれたタイムテーブルによると普通の他校を招いて行う練習試合のようだ。
 ただうちの高校は部員が多いためチームを二つに分けているらしい。
 最初から行くなら第一試合の開始は九時だが篤人の試合を見るなら十一時で良さそうだな。
「十一時ね! それなら大丈夫だと思うよ! お昼休憩がてら見に行かせてもらおうかな」
 相田さんの休憩にも確かにちょうどよさそうだ。
「じゃあ、俺たちも相田さんに合わせて十時半とかに来る感じでいいか?」
「そうだね」
 どうせ一緒に来るだろうが、これ以上疑われないためにあくまで学校で落ち合う体で夏葉と話を合わせる。
「おおっ! みんな来れそうなんだな! よしっ! やる気出て来たぁ!」
 そう言うと篤人はおもむろに鞄を肩にかけ一気に立ち上がる。
「そんじゃ俺、部活行くから! また明日な!」
 それだけ言い残すと体育館へ向けて一直線に走り出す。
 暑苦しくて騒がしい奴だ。
 だが、悪い奴ではない。
「ふふっ、楽しみだね明日!」
「そうだねぇ。正しく青春の一ページだよ!」
 夏葉も相田さんも楽しそうだ。
 高校生同士のスポーツ観戦なんて、たまに夏葉とテレビで流し見する程度でほとんど経験がないが、篤人の本気のプレーがみられるなら確かに楽しそうだなと思う。
「それじゃあ、私も部活行くから。八峰くんも夏葉もまた明日ね~」
「うん! ばいばい悠月!」
「お疲れ様相田さん」
 作品コンクールがあるという相田さんも忙しいながら充実した雰囲気を纏って去っていった。
 ……あれが青春か?
 俺は二人の姿を見てなんとなくそんなことを思うのだった。
「じゃあ、私たちも帰ろっか」
「おう」
 スクールバッグを肩にかけ二人とは反対方向へ歩き出す。
 俺にはあの二人ほどの充実感はない。
 だが、今日は確かに、なんだかいつもとは違うようなそんな気分だった。

「ねぇ龍樹、明日の試合さ、お昼じゃん」
 帰宅途中、最寄りのスーパー付近で夏葉が唐突に呟いた。
「ん? そうだな」
 俺は一瞬、何が言いたいのかわからず適当に相槌を打った。
 だがどうやら夏葉にはそれがお気に召さなかったようで、ムッと頬を膨らませると俺の手を引く。
「明日、お弁当持って行かない? せっかくだし一緒に作ろうよ」
「俺、弁当なんて作れないぞ?」
「だから一緒にやるんでしょ! ほら、買い物してこ!」
 どうやら夏葉はお弁当を作っていきたいらしい。
 まあ、確かに明日の篤人の試合時間はちょうどお昼時を跨ぐ時間帯だ。
 ……もちろん、弁当を作るのは良いだろう。普段から料理はしているし、何となく勝手の想像はつく。
 だが、少し離れているとはいえまだ徒歩圏内のスーパーで、それも制服で二人で買い物って……いいのか?
 昼食中に相田さんが言いかけた言葉が脳内にフラッシュバックする。
 制服で買い物なんて光景、誰に見られてもそう思われるんじゃないだろうか?
 気になったが、夏葉はもう買い物する気満々だといわんばかりに入口の自動ドアに向けて歩き出している。
「まあ、いいか」
「龍樹! はやく!」
「はいはい」
 クラスカーストトップの夏葉と俺ではそんな勘違いは起こらないのが普通かもしれない。
 俺はそう思い込んで夏葉の背を追った。

 食品を片手に買い物カートを押す夏葉の姿はなんというか、こう、男心にグッとくるものがある。
「ねぇ、お弁当何入れよっか? やっぱり定番はハンバーグかな?」
夏葉は人差し指を唇に当てて少し考えるように首を傾げる。
 ……そんな姿でこんなことを言われれば誰でも俺と同じ想像をしてしまうんじゃないだろうか?
 全男の理想的な奥さん像だろこんなもん!
「ねぇ龍樹? なんかまた考えごとしてる?」
 そんなことを考えながらボーっと夏葉を見つめていた俺の顔を夏葉が下から覗き込む。
 いちいち仕草がそれっぽいのが想像に拍車をかけるのだ。
 うん。夏葉がモテる理由はきっと顔やスタイルだけでなく、こういう仕草にもあるんだろう。
「い、いや、何でもない。それよりメニューだったか?」
「うん! ハンバーグとかウインナーとか卵焼きとか! 龍樹は何か食べたいものある?」
「そうだなぁ……」
 手作り弁当とはあまりなじみがない生活をして来た俺からしてみれば、弁当のイメージはコンビニのそれだ。
 しかし、今日の昼に相田さんが持っていたように、手作り弁当を詰める弁当箱は大きくない。
 そうするとコンビニのハンバーグ弁当のようなサイズは難しくないだろうか?
 小さいサイズのハンバーグを作るのか?
 言われてみれば、創作物で見かける弁当には一口サイズのハンバーグがあった気がする。
「じゃあ、そうだな。ハンバーグが食べたいかな」
「おっけー! じゃあひき肉とタマネギだね!」
 そう言って夏葉は野菜売り場の方へ歩き出す。
 だが、二、三歩進んだところで再び俺の方へ振り返った。
「あ、作るのは二人だからね? ちゃんと手伝ってよ? 私だってお弁当作るの初めてなんだから!」
 制服でいること以外、特別なところはなかった。
 夏葉と買い物をすることはそう多くはないが、経験がなかったわけでもない。
 なのに、なのになぜか、たったこの一言に俺の心臓は早鐘を打ち始めた。
「あ、ああ。たまに夕食も一緒に作ってるだろ。……それにあと、あれだな。卵とかパン粉もいるよな」
 強く跳ねる心臓を隠すように、少し大きな声で話を逸らす。
「そうだね。でも、パン粉も卵も家になかったっけ?」
「パン粉は忘れたけど、卵は昨日の夜に使い切らなかったか?」
 何なのだろう?
 なぜか夏葉の顔をまっすぐに見つめることが酷く恥ずかしい気がする。
「あれ? そうだったっけ? じゃあとりあえず、六個入りのやつ買って行こっか」
「ああ。もし余ったら卵焼きでも作ればいいんじゃないか?」
 でも、決して嫌な気分ではない。
「それもそうだね! じゃあ、この調子で他のおかずも考えよ!」
「おう」
 普段通りのやり取りのおかげか、段々と鼓動が落ち着いてくる。
 一体何だったのか?
 熱病のように熱く、酷くもどかしいようなそんな感情だった。
 だと言うのに、気分は悪くないという不思議な感覚。
「龍樹? おにぎりとサンドイッチはどっちがいい?」
「おにぎりだな」
「いいね。じゃあ中身は?」
「そうだな……」
 だが、何となく今考えるべきではないと思った。
 この続きはもっと落ち着いたところで、一人で考えたい。
 それからは明日の篤人の試合の話や相田さんのコンクールの話、そうしてもちろんお弁当のおかずについて話しながら普通に買い物をして帰った。
 これまでの帰り道で翌日のことを考えるなんて憂鬱なばかりだったと言うのに、今日は少し浮足立っている俺がいた。

「さて、早速作っていきますか!」
 いつもとは違って先に一度自室に戻り、着替えを済ませてから再びウチへやって来た夏葉がエプロンを付けてキッチンに立っている。
 無論、俺は普段通りの恰好で横にいる。
 何と言うか……うん、良い。かなり良いなこれ。
「エプロンなんて持ってたのか」
 内心のにやけ顔が止まらないが平静を装って言った。
「逆に龍樹はなんで持ってないのよ。別に料理しないわけじゃないんだからエプロンくらい置いておけばいいのに」
「いや、別にわざわざつける必要もないかなーと。と言うか、夏葉も普段は着けてないだろ?」
 俺がそう言うと、夏葉は冗談めかして人差し指を立て左右に振りながらも、なぜか少し頬を赤らめながらこう言った。
「お弁当を作るって言うとなんか、さ?」
 何も明言はされていない。
 ただ、俺は夏葉の言いたいことがよく分かった気がした。
「ま、まぁ、たまには形から入るのも大事だよな」
「う、うん」
 キッチンに微妙な空気が流れる。
 コンロの上の換気扇の音をこれほど感じたのは後にも先にも今日くらいかもしれない。
「と、とりあえず始めよっか!」
「お、おう! 何から作るんだ?」
 そんな微妙な空気を振り払うように俺たちは料理に取り掛かった。
「まずはハンバーグから作ろっか。あ、龍樹は私が諸々準備している間にご飯炊いて。夜ご飯も一緒に作っちゃおうと思ってお肉は多めに買ってきたから!」
「はいよ」
 普段、夕食を作るときに何度も交わされたこのやり取り。
 だと言うのに、今日は不思議と特別感がある。
 冷蔵庫からいつもより多めに三合分を測り取り、夏葉と入れ替わる形でシンクの前に立って米を研いでいく。
 冬場は寒すぎて無洗米を使いがちだが、もう夏がすぐそばまで迫るこの時期は精白米を使うことで節約している。
 最近の米の値段上昇は馬鹿にならないからな。
 さっと三、四回ほど米を研ぎ、水の入れ替えを行うと、俺は慣れた手つきで米を炊飯器にセットして炊飯ボタンを押す。
「米はこれで大丈夫だ」
「りょうかーい。こっちも玉ねぎ切り終わるよ」
 夏葉はと言えば、俺が米を研いでいる横で肉の解凍やら玉ねぎのみじん切りやらを済ませてくれていたらしい。
「夏葉さ、玉ねぎ切ってて、目、痛くならないのか?」
 確か夏葉の視力はかなり良かったはずだ。
 だから、コンタクトをしている訳ではないだろうに、全く目を痛がる素振りがない。
「これ、さっき着替えに行く前に冷蔵庫に入れておいてもらったでしょ? 多分三十分くらい冷やしたから沁みないよ」
「どういうことだ?」
「いや、詳しくは私も知らないんだけど、玉ねぎを切る前に三十分くらい冷やしておくと目に沁みないんだって!」
「へぇ、そうなのか」
 知らなかった。
 普段の料理で玉ねぎを使うときは俺のブルーライトカット眼鏡を切る人が使っている。
 それでも涙が出るほどだから、何らかの成分が空気と反応して目を刺激しているのだろうが、まさか冷やすことで対処できるとは。
「調べておいたんだよ。いつも玉ねぎを切る度にあの眼鏡かけて、なのに泣いてるのはさすがにあほらしいかなって思ってさ」
「まあ、それは確かにな」
 二人してそんな姿を思い出して、吹き出してしまう。
 言われて思い返してみると、夏葉の言う通りあほらしい光景だ。
「……ふぅ、笑った笑った! じゃあ、早速ハンバーグ作り始めよっか!」
 ひとしきり笑い終えると、夏葉は切り換えてコンロにフライパンを取り出し、火にかけながら油を垂らす。
「ハンバーグはまず、玉ねぎを炒めます」
 油が熱されてきたところで玉ねぎを投入すると夏葉がなにやら解説を始めた。
「ほう」
 俺もそのノリに乗っかって、生徒役に回る。
「この時、じっくりと飴色になるまで炒めるのがポイントです!」
 飴色、なんだか遠い昔に家庭科の調理実習で聞いたきり、聞き覚えのない言葉が出て来た。
 そもそも現代に生きる我々のイメージする飴と言えば、おそらくフルーツ味の色が着いた飴や清涼飲料水の色をした飴なので一概に表現するのは難しそうだが、飴色と言う言葉はおそらく水あめの色を指すのだろう。
 じっとフライパンを見つめていると、白かった玉ねぎが段々と透き通った色合いに変化していく。
「はい、このくらい!」
 みじん切りにしたほぼすべての玉ねぎが飴色になったところで夏葉は火を止めて、炒めた玉ねぎをバットに移した。
「じゃあ龍樹くん。これを冷蔵庫へ入れておいてください」
「了解、夏葉先生」
 俺は言われるがままに炒めた玉ねぎの乗ったバットを冷蔵庫に移した。
「じゃあ、次に行くよ」
「おう」
 俺が冷蔵庫に玉ねぎを仕舞い終わると肉の入ったボウルを片手に夏葉がそう言った。
 先生と言われ少し気をよくしたのか、所作も何だかそれっぽくなっている。
「使うのは牛豚の合い挽き肉だよ。そしてここに塩コショウと卵もいれます」
 慣れた手つきで卵を割って落とすと肉をこね始めた。
 こねこねこねこねと肉だねをこねていく夏葉をじっと見つめていると、何もしていない自分がなんだか悪い気がしてきて、俺は夏葉に聞いた。
「この時間に俺が何かやることあるか?」
 すると夏葉はちょうど声を掛けようとしていたと言わんばかりの顔をして言った。
「じゃあ牛乳とパン粉を出して! そしたらパン粉を牛乳で浸してね」
「? 分かった」
 パン粉を牛乳で浸すのか?
 せっかくパン粉なのに?
 と思ったが、今の俺は生徒。
 先生に逆らう訳にはいかない。
 俺は言われたとおりに牛乳とパン粉を取り出すとボウルにパン粉を出してそこに牛乳を注いだ。
「これでいいか?」
「うん! かんぺき! じゃあ、ちょっとしたらそれをこの肉だねに混ぜてね」
「なるほど! これがツナギってやつか!」
 分かった! といったような雰囲気で俺が言うと夏葉は嬉しそうな顔をする。
「大正解。牛乳がしみこむまでもうちょっとかかるからそれまでは待機で」
「了解」
 そうして、パン粉の全体に牛乳がしみこんだであろう頃合いに肉だねへ、ひたひたになったパン粉を投入する。
 すると水分が加わったせいで固まりつつあった肉だねが再び若干緩めになってしまった。
「おお? なんかまたちょっと緩んじゃってないか?」
「うん、でもまたこねれば大丈夫だから」
 そう言って夏葉は再び肉だねをこねだす。
「ツナギって繋げるからツナギなんじゃないのか?」
 俺がそう言うと夏葉は少し首をかしげながら答えてくれた。
「うーん、名前の由来は分からないけど、これ入れるとハンバーグがふわふわ系になるんだよね。ほら、お弁当って冷めちゃうでしょ? だから、冷めても固くならないように、的な?」
「なるほど……夏葉、ほんとに弁当作ったことないのか?」
「……内緒」
「なんだよそれ……」
 若干、頬を赤らめる夏葉に今度は俺が首をかしげた。
 そうして調理開始から大体十五分程たった頃合いだろうか。
「じゃあ、龍樹くん、今度は冷蔵庫に入れた玉ねぎを取り出してください」
「了解」
 俺は玉ねぎを取り出し、夏葉がこねている肉だねに混ぜた。
「よし、これでまたしっかりこねて――」
 そう言う夏葉の仕草を見守ることさらに数分。
「できた! これでハンバーグのたね完成だよ!」
 そう言った夏葉の手元には大体ひとかたまりになった肉だねがあった。
「おおぉ!」
 パチパチパチと拍手を贈ってみれば、夏葉は誇らしげに少し胸を張ってみせた。
「じゃあ、今日の夕ご飯の分と明日のお弁当用に分けて小判形に整えるよ。龍樹はまずフライパンに油ひいて熱しといて」
「おっけー。温度は?」
「中火で!」
 俺がフライパンの準備をして油を仕舞おうとすると、夏葉が水を掬うときのような手をこちらに向けて来た。
「なんだ?」
「ほんのちょっと、油、垂らしてもらえる?」
「? ああ、良いけど」
 よくわからなかったが、今日の料理に関しては夏葉のほうが完全に詳しいので、言われたとおりに夏葉の手へ数滴、油を垂らした。
「これでいいのか?」
「うん! じゃあ龍樹も同じようにしてね」
「え?」
「言ったでしょ小判型に整形するよって! 手に油塗っておくと肉だねが付きにくくなるからさ」
「そういうことか」
 なんだか本当に今日の夏葉は段取りがいい。
 別に普段あたふたしているわけではないが、今日はレシピを完璧に頭に入れてきているかのような、そんな風に感じる。
 もしかしてハンバーグを作り慣れているのだろうか?
 と、色々考えたが、今はハンバーグ作りを手伝わねばと思考を切り替える。
「じゃあ、龍樹は夕ご飯の分をお願い。その大きいの二つね」
「任せろ」
 大きめに分けられた肉だねは、俺の手のサイズにギリギリ収まるほどで、確かにこれを夏葉がやるのは大変だろうと思った。
 空気を抜きながら適宜形を整えていくと、段々と知っているハンバーグの形になっていく。
「じゃあ、先にこのお弁当用のやつ焼いちゃうね。 こっちの方が火の通り早いし」
 そう言ってフライパンへ可愛いサイズのハンバーグたちが並べられる。
 弁当箱への収まりもよさそうなちょうどいいサイズだ。
「ふふ」
 そう思っていると、夏葉が楽しそうに笑った。
「楽しいね」
「ああ、そうだな」
 別に何度もこのキッチンで料理はしている。
 ハンバーグのような手のかかるものこそ作って来なかったが、初めてではないのだ。
 なのに、なぜか不思議といつもより楽しいと思ってしまう。
 これがお弁当マジックなのか? いや、お弁当マジックってなんだよ……。
 こうして一人でボケとツッコミをしてしまうくらいには楽しいのだから本当に不思議だ。
「これで明日が一層楽しみになったよ」
「俺もだ」
 こうして夏葉が整形したハンバーグを焼き終わると、次は俺の整形した夕ご飯用のハンバーグも焼いた。
 夏葉の方は綺麗な形をしていたが、俺のはどうにも不格好だった。
「……なんか悪い」
「ふふっ、あははっ! なんでそんなに落ち込んでるの? いいじゃん! おいしそうだよ!」
「そうか?」
「うん! それに龍樹が作ってくれたと思うともっとおいしそうに感じる」
 焼きあがったハンバーグを前に夏葉がそう言ってくれる。
「……そうか、なら、良かった」
 こんなに励ましてくれていると言うのに、俺がいつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
 そう思いなおし、笑いかける夏葉に俺も笑顔を返した。
 それとは別に、今度自分で作って練習しようとも思う俺だった。

 ちなみに、夕食はハンバーグ作りに集中したせいで別メニューを作り忘れ、ハンバーグとご飯だけになってしまったが、それはそれでいい思い出の味になった。

 翌日、朝。
 時刻は九時を少し過ぎたあたり。
 いつも通り俺の部屋に帰って来た夏葉と俺は、篤人の練習試合を見に行く準備をしていた。
「さて、最終確認! お弁当は?」
「持った」
「応援兼暑さ対策用のうちわは?」
「持った」
「あとは……まあ、学校に行くだけだしこんなところだよね?」
「そうだな。とりあえずせっかく作った弁当を忘れなければいいだろ」
「それもそうだね。あ、ハンバーグ以外のおかずも楽しみにしてくれていいからね!」
 一通りの確認を済ませて、時間までソファでくつろぐ。
 今朝は六時過ぎにもう準備万端の夏葉がやって来て、昨日作りそびれた弁当の他のおかずを作ってくれたのだが、如何せん早朝すぎて今日はいつもより眠い。
 平日はともかく、普段の俺と言えば土曜日は基本、昼まで寝ているのだ。
 ソファに身を預けながら、ぼーっとテレビを眺めて微睡んでいると、隣りに腰かけていた夏葉が不意に立ち上がる。
「……あっ!」
「どうした? 何か忘れものでもあったか?」
 急な大声に若干驚き、微睡んでいた意識が覚醒する。
 そうして改めて見た夏葉の顔は、なんだか焦っているように見える。
「……夏葉? 体調でも悪いか?」
 俺がそう聞くと首を横に振って夏葉が答える。
「違うの。体調は万全なんだけど……このお弁当さ、悠月たちに見られたら……」
 夏葉のその一言で俺は全てを察した。
「……確かに。誰がどう見ても同じ中身だもんな……」
 と言うか先日の買い物で弁当箱まで一緒に買ったせいで、俺たちの弁当は本当にただの色違いでしかない。
「……どうしよ。ああ、なんで気が付かなかったんだろ……」
 正直俺としては、別にこの関係がバレてしまっても構わないのだが、やはり夏葉は違うらしい。
 何だか胸に微かな痛みが走る。
「いつも購買パンばかりの俺を見かねて、夏葉が作ってくれた――そう言えば辻褄は合うんじゃないか? 二人は部活だから自分のがあるだろうし」
 ただ、気にするほどでもない。
「それは……そうかもだけど。(……せっかく二人で作ったのに)」
 俺の提案を夏葉は微妙そうな顔で受け入れた。
 その後にボソッと何かを呟いていた気もするが、テレビから流れる音声にかき消されて聞こえなかった。
「そろそろいい時間だな。行くか?」
「……っ! そうだね!」
 夏葉は何か言いたげな表情だったが、もし言いたいことがあれば素直に言ってくるのが彼女だ。
 俺はそこまで気にせずに、玄関へ向かった。

 家の外に出ると、すでに夏を感じさせるような太陽が照り付ける。
「今日は暑くなりそうだな」
「うん。でも、蒸してないだけましだよね」
「確かにな」
 休日に歩く通学路はなんだか不思議な感覚だ。
 今日はいつも見かける、焦って駅方面に走っていくサラリーマンや自転車の後ろに子どもを乗せたママさんの姿はない。
 その代わりランニングしている人や犬の散歩をしている人を多く見かける気がする。
「そう言えば龍樹ってバスケのルールは知ってるの?」
 何気ない雑談。
 これだけはいつもと変わらないようだ。
「ああ、まあ一応な」
「そっか! じゃあ今日の解説は任せたよ!」
「解説って……ルール知ってるくらいじゃ、どうしようもないだろ」
「まあまあ、ノリと勢いで、ね? せっかくなんだからスポーツ観戦っぽく楽しもうよ!」
「なんで解説ありきの観戦になってるんだよ。それはテレビの前でする観戦だろ? 生は音とか迫力とかを直に感じる物じゃないのか?」
「……確かに」
 神妙な面持ちで納得した顔をする夏葉。
 こうして俺たちは休日の通学路をいつも通りのやり取りをしながら歩いて行った。

 学校の体育館はすでに熱気に包まれていた。
 見覚えのないユニフォームを着た選手たちとウチの高校の選手たちが激しく競り合いボールを追いかける。
 体育館の床とバスケットボールシューズの擦れるキュッと言う音が色々なところから聞こえてくる。
「おぉ! やってるね!」
 俺たちは体育館に入り、入口のすぐ横にある階段を上がって二階のギャラリー席へ向かった。
 ギャラリー席は練習試合とはいえ、特に混雑しているでもなく、至っていつも通りだ。
「何気にこのギャラリーに来るの初めてじゃない?」
「俺は一回授業で跳ねたボールを取りに来たことがあるな」
 そんな話をしながら、篤人の試合が行われる側のコートの相手側のベンチの方へ腰を下ろした。
 どうやら篤人たちの前の試合が丁度終わったらしい。
「こっち側でいいの?」
「ああ、こっちだと攻めてくる篤人たちが良く見えるだろ」
「なるほど!」
 本当は横から見れるのが一番なのだが、篤人の試合は体育館の入口から奥側。
 つまり、ステージ側で行われるため、上からではどちらかのゴール側に座るしかなかった。
「私、悠月についたって連絡しちゃうね!」
「おう。じゃあ俺も念のため篤人に連絡入れておくかな」
 そうして二人してスマホに顔を落とすと下から声が掛けられた。
「龍樹! ちゃんと来てくれたか!」
 下、とはまさに階下のことだ。
 急に名前を呼ばれた俺は驚いてスマホを落としそうになるも、何とか掴みなおす。
 そしてギャラリーから少し身を乗り出して下を見た。
 するとそこにはこちらに手を振っている篤人の姿。
 ……どうやら、試合間のモップ掛けの途中で俺たちの姿を見つけたらしい。
 終わらせてから声を掛けてくれればいいのに……。
 俺は話しかけず、軽くてだけ振ってそれに応えた。
 篤人は不服そうな顔で何かを言いたげにしていたが、顧問らしき先生に「早くしろ!」と怒鳴られて、すぐにモップ掛けに戻って行った。
 ほらな、案の定だ。
 試合前でもいつも通りな篤人の様子に呆れつつも、そんな篤人が試合ではどんなプレーを見せてくれるのかさらに楽しみになって来た。
「悠月ももうすぐ来るって!」
「お、そうか。ちょっと巻いてるみたいだけどちょうどよさそうだな」
 スマホの時計に目をやれば、まだ丁度十時半になろうかと言うところ。
 だと言うのに階下ではすでに篤人たちのチームがベンチに座っていた。
 確か試合開始は十一時だと言っていたはずだが、この調子ならそれより前に始まりそうだ。
 そう考えていると今度は夏葉が立ち上がる。
 そして昇って来た階段の方を向いて手を振った。
「おーい! 悠月! こっちだよ!」
 するとビニール袋を手に下げた相田さんがこちらに駆け寄ってくる。
「二人ともおはよう! いやぁ~休日の体育館ってなんか緊張しちゃった」
「おはよう悠月、部活の方は大丈夫?」
「うん。私たちは個人製作だからね。結構融通は利くから大丈夫だよ」
「そっか、じゃあ座って座って! もうすぐ始まるっぽいよ!」
 俺たちは夏葉を中心にして三人並んで腰を下ろした。
「八峰くん。お昼ご飯持ってきた?」
 すると相田さんが今度は俺に話しかけて来た。
「ああ、実は夏葉が作ってくれたんだ。だからお弁当がある」
「えぇっ!? 夏葉、作ってあげたの!? いいな~」
 相田さんはにんまりとした笑みを浮かべながら、夏葉へ視線を移す。
 良かった、いいタイミングで言い出せた。
 これで心配する必要は――と思ったところで、夏葉がゲシッと俺の足を蹴ってきた。
「まあね。悠月の分もお弁当がないなら作ってくればよかったね」
 そう言う夏葉の表情に変化はない。
 ただ、尚も夏葉のつま先が俺のふくらはぎを捉えていた。
 
 夏葉からの攻撃が止んだのは、整列のホイッスルが聞こえてからだった。
「お、始まりそうだね!」
 俺の足が的になっていたことなど知る由もない相田さんが期待のこもった声でそう言うと、コートでは中心の円に二人、ジャンプボールのジャンパーが入った。
 バスケは圧倒的に身長が高い方が有利なスポーツである。
 国内リーグならばまだしもスターだけが集まるアメリカのプロリーグでは身長百九〇センチメートルでも小さいと言われるほどだ。
「あの人、すごい背が高いね」
 相田さんがそう声を漏らす。
 誰かを指さして言ったわけではないのに、それが誰なのか俺たちにもよくわかった。
 篤人のチームと相手チームの平均身長はだいたい同じだろう。
 ただ、相手チームに一人、日本人離れした体躯の選手がいる。
 篤人のチームのジャンパーも百九〇センチ程度はありそうだが、その相手は二百センチには確実に到達しているであろうサイズだった。
 ジャッジによってボールが高くトスされる。
 ジャンプボールのルールはボールが最高到達点に達してから触ること。
 つまり、落下軌道のボールに触らなければならない。
 そのため、ここで比較されるのはジャンプのタイミングとそのジャンプ力だけだ。
 技の介在しない身体勝負。
 無論勝ったのは――
「相手ボールからだ」
 目算二百センチ越えの相手選手。
 軽々と自分チームのガードへボールを弾いた。
「バスケって確かポジションの名前が色々あったよね?」
 コートを見たまま夏葉がそう言って話を振ってくる。
「ああ、でも基本的には三つだな」
 そんな会話をしているうちに先ほどのジャンパーを務めた二百センチ越えのセンターにボールが回り、あっさり初得点を奪われてしまう。
「あー決められたー」
「まあ、バスケはどんどん点が入るスポーツだから大丈夫だよ」
 相田さんのショックそうな声に反応しながら夏葉の質問に答える。
 ちょうど、攻守が切り替わり解説しやすくなった。
「それで、ポジションの話だけど、今、ボールを運んでいるのがいわゆるガードって言うポジション。正確にはポイントガードとシューティングガードに分かれるんだけど、とりあえず上で試合を回すポジションって思ってもらえば大丈夫」
「ほうほう」
「ふむふむ」
「それでゴール下にいるのがセンター。基本的にゴールの一番近くで一番大きい選手にあてがわれるポジションだな。主に得点と外れたシュートのリバウンドを担当する」
「なるほど。それで、軽沢君のポジションは?」
「篤人のポジションはフォワードだな。足が速かったり、突破力があったり、一芸に秀でる選手が多い。このフォワードもパワーフォワードとスモールフォワードに分かれたりするんだが……篤人はおそらくパワーフォワードだろうね」
「あ、丁度、軽沢君にボールが行ったよ」
 右サイド、スリーポイントラインの外側でボールを貰った篤人は、そのまま流れるようにドリブルを始める、ようなフェイクを入れ相手ディフェンスを逸らすと、その隙を授業では見たことのない鋭さのドライブでインサイドへ切り込んでいく。
 バスケではインサイドへのドリブル突破はディフェンスにとって致命的だ。
 ゴールに直線的に進ませてしまうため、基本アウトサイドを開く形でディフェンスされる。
 しかし、篤人はそんなディフェンスを視線でのフェイク一つで強引に抜き去った。
「行けっ!」
 思わず声が漏れる。
 夏葉と相田さんは固唾を呑んで見守っているようだ。
 篤人の前に相手チームのセンター、つまりあの二百センチ越えの選手がヘルプディフェンスに割って入る。
 まだゴールまではもうひと距離ある。
 しかし、トップスピードの篤人はもう止まらなかった。
 ボールを持ち右足で大きく外側にステップを踏んだと思えばゴールと平行に左足をだし、ディフェンスを左右に振るユーロステップで相手を躱すと、その隙間を縫うようにゴールへ手を伸ばす。
 ただ、相手選手もただではやられてくれない。
 ヘルプに入ったセンターの選手はその長い腕を伸ばし、後ろから篤人のシュートをブロックにかかる。
 だが、篤人はさらに一枚上手だった。
 それすら読んでいたと言うように飛び上がった空中で右手から左手へボールを移してブロックのタイミングをずらし、回避すると今度こそシュートを放つ。
 見事なダブルクラッチだ。
「「おおぉ!」」
 篤人の技ありプレーはゴールネットを揺らし、すぐに二-二の同点に追いついた。
「やるねぇ軽沢君。普段の感じからは考えられないけど」
「確かに凄いギャップだね」
 女子陣に褒められる? 篤人。
 いや、間違いなくかなりかっこいいプレーだっただろう。
 ただ、普段のあいつを知っている側からすれば驚くべきギャップだったというだけだ。
 それからも相手チームは二メートル越えのセンターを中心に、篤人のチームはエースの篤人のドライブを中心に他選手もスリーポイントやカットインなどと多彩な攻撃で試合は続いていく。
「……ふぅ、バスケって息つく暇がないね」
「ほんとにねぇ。試合を見てるだけなのにこっちまで疲れちゃいそうだよ」
 そう言う二人は暑そうにパタパタとうちわを扇ぎながら、疲れた顔をしている。
「攻守の切り替わりが一瞬だからね。相当しんどいスポーツだよ」
 言いながら俺も体に疲れを感じた。
 ようやく訪れたハーフタイムになって、自身の身体、その全身に力が入っていたことを知る。
 すごいなスポーツ観戦って。
 高校生の部活の練習試合でこれなのだから、プロのスポーツ観戦に熱狂してしまう人がいるのも理解できる。
「疲れたらお腹空いたね。お昼ご飯食べよっか」
 夏葉が言いながら鞄から弁当の入った袋を取り出した。
 言われてみれば確かに俺の意が空腹を訴えている。
「そうだね。丁度試合もまだ再開しないみたいだし。それに、実はずっと気になってたんだよね。夏葉が作ったって言うお弁当!」
「ちょっと、そんなに期待されるようなものでもないよ」
 開かれようとする弁当を覗き込む相田さんに照れた顔で夏葉は謙遜するが、実際夏葉の作る料理は上手い。
 正直俺もハンバーグ以外の弁当のおかずにかなり期待している。
「えーでも、人に食べさせるものを作るって結構自信がいるんじゃない?」
 相田さんが夏葉を茶化すようにそう言った。
「も、もういいでしょ! さ、早く食べよ」
 すると夏葉は恥ずかしそうに頬を染めながら、手早く弁当を開くと一人で手を合わせて食べ始めてしまう。
「うわぁ! すごい! メインはハンバーグだけど色合いにも気を使ってるし、やっぱり夏葉、すごい気合入ってるじゃん!」
 しかし、相田さんの攻撃は止まらない。
夏葉の弁当を覗き込みながらニマニマとした視線をこれでもかと夏葉に向けている。
「いいなぁ八峰くん。愛されてるねぇ~」
「「なっ!?」」
 何気なく発されたであろうその言葉に俺と夏葉は思わず同時に反応してしまう。
「お、その反応は? ん? もしかして?」
 これは非常によろしくない流れだ。
 かくなるうえは……!
「美味いっ! これは……素揚げしたカボチャか? 弁当に黄色が入ると彩りが出て良いな。うん! 味も最高だ!」
 これまでの経験から相田さんの尋常ではないノリの良さは知っている。
 だから俺はそれに賭けて弁当の感想を矢継ぎ早に並びたてる。
 いわゆるゴリ押しだ。
「……」
 一瞬の沈黙。
 そして――
「そんなに美味しいんだ! いいなー。ねぇ夏葉、私にもひと口頂戴~」
「し、仕方ないなー。はい、これ。今、龍樹が食べたかぼちゃのやつだよ」
 そう言いながらあーんと口を開ける相田さんの元へ夏葉がかぼちゃを運ぶ。
「おぉ、これは本当においしいやつだ!」
 ……どうやらいけたらしい。
 いやいや、いやいやいや。
 ゴリ押しした側の俺が言うのもなんだけど、相田さんのこの切り替えとノリの良さはなんなんだ?
 ノリが良すぎて、一周回って心配になってくるレベルなんだが……。
「ねぇ夏葉~、私のホットスナックのから揚げあげるからそのハンバーグも一個頂戴~」
 なんて俺の内心の心配など意に介さず、どうやら本気で夏葉のおかずが気に入ったらしい。
 次はハンバーグに目を付けたようだ。まあ、副菜の次に主菜が気になるというのは順当ではある。
 そしてハンバーグの評価は俺も気になる。
 ほとんど夏葉が作ったようなものだが、一応俺も調理に関わっている。
 昨晩も食べたため、味のことは分かっているとは言え、やはり第三者の意見という物は気になってしまうものだ。
 と、そう思ったのだが……。
「いや、ハンバーグは……だめ」
 それまではホイホイとおかずをあげていた夏葉が、ここに来て初めて否定を示した。
 ……夏葉はそこまでよく食べるタイプではない。
 普通の量も食べられるが人より食事に時間がかかるタイプで、学食でもあったように俺に食べ物を分けることも多い。
 だから、夏葉とはかなり長い時間を過ごして来た俺も、こんな夏葉の反応を見るのは初めてだった。
「あ、ごめんね。そうだよねメインのおかずはダメだよね~」
 突然の反対に驚いたのか相田さんはすぐに謝罪をする。
「……ううん、そうじゃないの。でも、今日はだめ。もし食べたければ、また今度悠月にも作ってあげるね」
 だが、メインだからだとか、そういう訳ではなかったらしい。
 あくまで今日のハンバーグがだめということだ。
「ほんと!? ありがと夏葉!」
嬉しそうに夏葉に抱き着く相田さん。
 そんな相田さんを軽く受け止めながら、夏葉が控えめな視線で俺を見て来た。
 何だよその顔……。
 俺は何の気なしにハンバーグへ箸を伸ばし、弁当用に一口サイズに作られたそれを口へ放り込んだ。
「……うん、美味いな。これが一番美味い」
 すると、夏葉の顔にはほんのりと赤みが差し、相田さんはそれを見てニヤニヤとしていた。
 やっぱりこの人、実は全部分かってるんじゃ?
 いや、分かってるって、俺たちに隠すような関係があるわけではないんだが。
 ただお互いの家を行き来しているだけだし。
「はいはい、なるほど。ご馳走様。さ、後半戦が始まる前にさっさと食べちゃお~」
 そんな俺の思考を見透かしたかの如くそう言うと、相田さんは手に持っていたコンビニのホットスナックのから揚げに楊枝を指し噛り付いた。
 それからはしばらく三人とも無言で自身の昼食に集中し、第三ピリオド中盤頃には食べるのが遅い夏葉も一通り食事を終えていた。

「うーん、かなり接戦だねぇ」
 そもそもの量が少なかった相田さんは転落防止用の柵に手をかけて身を乗り出し、じっくりと試合を観ていた。
 俺も弁当を片付け、その隣に立つ。
 第三ピリオド残り三分。スコアは四十二―四十六で篤人のチームが四点を追いかける形になっていた。
やっぱり二メートル越えの選手がいるときつそうだ。
 篤人たちは高さで負けている分、必死に足を動かして足元を攻めるディフェンスで耐えているが、それはかなりの体力を消耗するディフェンスだ。
 後半に入って疲労がたまっている現状で、あのディフェンスを続けるのは厳しいだろう。
 このままズルズルいくと、第四ピリオドで追いつけなくなる点差になってしまうだろう。
「どう? 軽沢くんたち勝てそう?」
 最後に弁当の片付けを終えた夏葉がこちらへやって来た。
 そして俺と相田さんの間に体を滑り込ませる。
「いや、厳しそうだ。何か、状況を変えられるようなプレーが出て、今の試合の流れが変われば、もしかするかもしれないが……」
 言いながら自分でもばかばかしいと思う。
そんなマンガやアニメのようなプレーなどという物は現実には存在しない。
 ハーフコートより後ろからのスリーポイントやあり得ない体勢からの曲芸シュート、リングを大幅に超えるジャンプから繰り出されるダンクシュートなんて、そんなスーパープレ―はフィクションだからこそ成立する話なのだ。
 結局、篤人たちは必死のディフェンスで第三ピリオド終了時点の得点差は四十四―五十二の八点差で終えていた。
「八点差か~。見てて思ったけどバスケの八点差って近いようで遠いよね」
 柵から身を乗り出した相田さんが手をぶらぶらと遊ばせながら言った。
「そうだね。バスケの得点って基本二点ずつだし、攻守の切り替えも激しいから意外とすぐに追いつけるかもって思ってたけど、やっぱりあの大きい選手が強いね」
 夏葉は相田さんに危ないから止めなさいと言いながら答える。
 その通りなのだ。
 実際、第四ピリオドを残しての八点差は全然逆転可能な点差だ。
 単純計算ならばフィールドゴール四回、スリーポイントなら三回決めるだけで追いつくことが出来る。
 しかし、身長差という完全なステータス面での差はそんな単純計算を狂わせてくる。
 まず、スリーポイントライン内でのジャンプシュートは余程フリーにならなければブロックが間に合ってしまうだろう。
 特に篤人のチームの得点源は篤人のドライブからのプレー。
 既に三十分以上全力で動き続けているため、最初の頃に比べればそのキレは間違いなく落ちている。
 慣れと合わせて余計に相手ディフェンスが追い付きやすくなっているはずだ。
 と、すれば、篤人のチームが逆転するためにはシュートの得意な選手を起用して、スリーポイントを主体に攻めるしかない。
 しかし、そのような選手がいないのか、どうやら選手交代はしないらしい。
「始まるね」
 二分間のインターバルはあっという間だ。
 大して休めないまま、選手たちがコートに戻る。
「ん?」
 だが、俺は戻って来た選手たちを見て、少し違和感を覚えた。
「龍樹? どうかした?」
「いや、なんていうか……結構ピンチだと思うんだけど、選手が皆笑ってるというか、
良い顔をしてるって言うか」
「言われてみれば確かに! なんかやってくれそうじゃん!」
「ほんとだ。もちろん真剣さは感じるけど、それ以上に何か企んでる? みたいな顔に見えるね」
 企んでいる、か。
 言い得て妙だな。
 正しく何か逆転の一手を企んでいるような表情だ。
 ああいう時の選手は強い。俺は懐かしい感覚を思い出しながら、ラスト十分の篤人たちのプレーに期待した。

 第四ピリオド開始のホイッスルが吹かれ、篤人チームのボールで試合が再開された。
 相手チームは残り十分、本気で勝ちに来ているようで、ゾーンディフェンスからハーフコートマンツーマンのディフェンスに切り替えプレスを強くして来た。
「うわっ! いきなり迫力が変わった!?」
 相田さんが相手チームの圧迫感のあるプレスディフェンスに慄いている。
 だが、それも無理のないことだろう。
 しっかりと動きを止める良いディフェンスだった。
 あれでは中々パスも出せまい。
 篤人のチームは何とかバックコートまで下がってボールを受け取り、試合が再開された。
 出鼻をくじかれてしまった形だが、どうなることか。
 俺たちは固唾を呑んで試合の動向を見守る。
 時間を使いながら、マークを離すように残り少ない体力を振り絞り、選手たちは駆け回っている。
 すると、右ウイング、スリーポイントラインより一歩下がった篤人の最も得意なポジションでちょうど彼にボールが渡った。
 しかし、流石にもう第四ピリオドとなり、オフェンス方法もだいぶ掴まれてしまっている。
 篤人のマークについたディフェンスはドライブへの反応が一瞬遅れても間に合うようにバックステップをして、ドライブを最大限警戒した位置でディフェンスポジションを取っていた。
 あれではいくら篤人の鋭いドライブでも抜き去るのは難しいだろう。
 しかし、篤人はそれを待っていたとでもいうかのようににやりと笑った。
 そして、ドリブルフェイクを一つ入れたかと思えば、その場でシュートの体勢に入り、ここまで一度も見せていないスリーポイントシュートを放った。
 美しい放物線を描く七号球が、ゴールリングに吸い込まれるように飛んでいく。
「よしっ!」
 篤人の声が俺たちの耳に届くと同時に、放たれていたボールはゴールネットを揺らしていた。
「おおっ!」
 他の観戦者や別チームの選手からも歓声があがる。
「やるねぇ軽沢くん、かっこいいじゃん」
 ヒューと相田さんがはやし立てた。
「ねぇ、龍樹。軽沢君たちはスリーポイントシュートを隠してたってこと?」
「どうやらそうみたいだな。確かに、あれだけキレの良いドライブがあるなら、スリーを隠しておくのも理解できる」
 試合を劇的に変化させるフィクションのようなプレーは存在しない。
 しかし、味方の士気を最大限に高めるような雰囲気や空気を変えるプレーと言うのは間違いなく存在していた。
 篤人のスリーポイント以降、試合の流れは大きく変わった。
 相手チームとしては勝負に出たハーフコートマンツーをいきなり崩されたのがかなり効いたのだろう。
 疲れと集中力の欠如が合わさり、途端にプレーの精度が落ちてしまっていた。
 二メートル越えの圧倒的なインサイドプレイヤーも無理にシュートを狙いに行くことが増え、オフェンスファールを連発してしまう。
 ディフェンスも篤人にダブルチームをかけて何とか止めようとしていたが、冷静な篤人はしっかりとノーマークになった味方にパスを回し、着実に得点を重ねていった。
「すごいすごい! これ、勝てるよ!」
「うん! ほんとにすごい! ね、龍樹!」
 相田さんと一緒に興奮した様子の夏葉。
「……っ!」
 俺も二人に反応しようとしてそちらを見た瞬間、右手が柔らかい感触に掴まれた。
 どうやら無意識に手を握られてしまったようだ。
 思わず声を出しそうになるのを、俺は必死でこらえた。
 偶に家で映画鑑賞などをしている時も夏葉はこうして手を握ってくることがある。
 だが、今は家どころか二人きりでもない学校の体育館だ。
「……ああ、いけそうだな」
 努めて冷静に答えながら、握られた手に少し力を入れて夏葉に気付いてもらえるように誘導する。
 しかし、何を思ったか彼女はそんな俺に答えるようにギュっとさらに強く手を握り返して来た。
 ………………。
 それからも試合終了まで夏葉が俺の手を離すことはなく、気が気でない俺はせっかく盛り上がった第四ピリオドに全く集中できなかった。
「はぁ~、いい試合だったね~」
 試合終了のホイッスルが鳴り響き、整列する選手たちを見ながら相田さんがしみじみと言った。
「ほんと、来てよかったね」
 夏葉も満足したという表情だ。
 終わってみれば、六十八―五十九と篤人たちのチームが完勝を決めていた。
 やはり篤人のスリーポイントが一番大きな転換点だった。
 あのシュートの成否によっては全く逆の結果もありえただろうに、作戦通りにスリーポイントを決めた篤人は流石、二年にしてチームを背負うエースと言うだけのことはある。
「俺は篤人に声を掛けてこようと思うけど、二人は来る?」
 さすがにあんなプレーを見せられたら直接労ってやりたくなるのが、男というものだろう。
 まあ、そんなことに関係なく試合後に声を掛けようと思っていたのだが。
「ん~、どうする夏葉?」
 相田さんは夏葉に合わせるようだ。
 俺と相田さんの視線が夏葉に集まる。
 すると夏葉も、ん~、と声に出して悩んだ後、こう答えた。
「私たちは良いかな。悠月はまだこれから部活だし、変に声かけられたくないからね」
「ああ~、それは確かに。じゃあ、八峰くん! 私たちの分もお疲れさまって言っておいてよ」
 なるほど。
 確かに、数人のマネージャー以外女子のいない中にこの二人を連れて降りれば声を掛けられるのは必至。
 いくら学校と言えど、リスクヘッジは大切だ。
「了解。じゃあちょっと行ってくる」
「うん」
「お願いね~」
 二人に見送られながら、俺はギャラリーを降りて、篤人の元へ走って行った。
 ギャラリーを降りた先、体育館のピロティを出た所にある自販機でスポーツドリンクと水を買うと、体育館のステージの上でチームメイトと談笑している篤人の元へ向かった。
「おつかれさん」
 俺は背後から篤人の首筋に、買ったばかりのスポーツドリンクを押し付けながら声を掛けた。
「うおっ! って、龍樹! どうだ? 俺、活躍しただろ?」
 俺の渡したスポーツドリンクを受け取りながら白い歯を見せて笑う篤人。
「ああ、特に四ピリのスリー、あれは正直痺れたよ。ナイスシュートだった。夏葉も相田さんも褒めてたぞ」
「ははっ! そうだろ? 俺たちいつも四ピリの決め手に欠けてたから練習してたんだ。ま、まだ俺のスリーポイント確率がノーマークで六割位って言う微妙な数字だからギリギリまで使わないってのもあるんだけどな」
 あっけらかんと笑って見せる篤人。
 成功率六割を本番で決めたのか……本当に凄い選手だ。
「毎日授業を寝た甲斐があったな」
「おう! 睡眠学習ってやつだな!」
 ……皮肉のつもりだったのだが、それを上回る馬鹿を返されてしまった。
 どうにも今日は絶好調みたいだ。
「なあ、龍樹」
 そんな絶好調な篤人が少しだけ真剣な顔をして、俺を見つめてくる。
「なんだよ? あ、水もいるか?」
 俺は続く言葉をなんとなく察して、わざと話をそらしてみる。
「それは貰っておくが、そうじゃない。なあ、まだ遅くない。ウチに入らないか? 俺とお前ならきっと――」
 しかし、相田さんとは違いすべてに乗ってくれるわけではないみたいだ。
 隣に置いてあったボールを俺に向けて差し出しながら、篤人は大真面目な顔で俺を勧誘してくるも、俺は最後まで言わせずに遮る。
「――正直、今日の試合は揺さぶられたよ」
 しかし、こんなに真剣な顔を向けられてしまえば、いくら篤人相手とはいえ、これ以上茶化すのは失礼な気がした。
「ならっ……!」
「だが、悪い。やっぱり俺には無理だ」
 俺は差し出されたボールを受け取り、手で遊ばせながら誘いを断った。
「なんでそこまで……!」
 篤人の声が周りに響く。
 いくら隣で次の試合が始まっているとはいえ、大声は響いてしまう。
「場所、変えるか」
「……ああ、悪い」
 こんなつもりではなかったのだが、俺たちは二人で体育館の外に向かった。

 ◇◇◇

 龍樹が篤人に声を掛けに行ったあとのギャラリー。
 女子二人だけになったその空間では男子には聞かせられない女子トークがおもに悠月によって繰り広げられていた。
「ねえ、夏葉。ほんとは八峰くんと付き合ってるんでしょ?」
 隣同士に腰かけ、周りに人が来ても聞こえない程度の声量で悠月は聞いた。
「ま、前も言ったでしょ。付き合ってないよ」
「えー、でも八峰くんのためだけに作ったハンバーグだから、私にはくれなかったんでしょ~?」
 普段は完璧なコミュニケーション能力で感情を隠していた夏葉も、正直今日の行動には思い当たる節があったのか、珍しく動揺が声に現れる。
 そんな隙を見逃す悠月ではない。
 的確に夏葉の弱点を突いていった。
「ち、違うよ。お腹空いてただけ!」
「へぇ~、まあ、じゃあそれは良いとして……試合の最後、第四ピリオド、だっけ? その間中ずっと手をつないでたのは?」
「えっ!?」
 にやりと獲物を逃さないとでも言うような笑みを浮かべた悠月はさらなる決定的証拠を突き付けた。
「……気付いてたの?」
 さすがの夏葉もあれを見られてしまっては言い訳のしようもないと判断し、弱々しく上目遣いで確認した。
「そりゃあ気付くでしょ~。結構饒舌に解説してくれてた八峰くん、途端に静かになってたし」
「う……」
 それは夏葉目線でも、もうどうしようもないほどの根拠だった。
「それで? 付き合ってるの?」
「……付き合ってない」
「……あの感じで?」
「あの感じで……」
 悠月は夏葉の話し方から、今回は誤魔化されていないことにすぐ気が付いた。
 しかし、だからこそ信じられなかった。
悠月は観戦中ずっと手をつないでいるような男女が付き合っていないとは何事か、と言う、至極真っ当な感性をしていた。
「……告白は? しないの?」
「だって、もうあの感じのまま一年経っちゃうし……もし、ダメだったら」
 あの感じでダメなことがあってたまるか、と悠月は思った。
 ただ――
「なんていうか、夏葉って可愛いね」
 普段は全然弱みを見せない友人を応援してあげたいと、そうも思ったのだった。
「や、止めてよっ! もうっ!」
「ふふっ、可愛いなぁ夏葉。夏葉可愛い~」
「止めてってばー!」
 一人を除いて、全員に薄い一枚壁を張っていたこの友人の、そんな薄い壁をようやく破れたような感覚が悠月にはあった。
「ねえ、夏葉」
 隣に座る可愛らしい友人の手を握る。
「なに? 悠月」
「私で良ければいつでも話を聞くからさ。もっと教えてよ。恋愛関係以外にも」
「……うん。ありがと悠月」
 突然行われた練習試合の観戦と言うイベントは意図せず彼女たちの友情を深めるきっかけになった。

 ◇◇◇

 場所を移して体育館裏の避難階段。
 ちょうど日陰になる階段に並んで腰を掛ける。
 せっかくの日陰だが、それまでさんざんに日光を浴びていた金属の階段はしっかりと熱を持っていた。
「それで、場所移したってことはようやく聞かせてもらえるってことでいいのか?」
 普段とは違う、真面目な顔で篤人が聞いてくる。
「ようやくって……別に今まで事情を聴いてきたことはなかっただろ?」
 大した内容でもないため、真面目過ぎる空気を変えようと額面通りには答えて来たという意味を込めてそう返した。
「……」
 しかし、帰って来たのは無言の視線のみ。
 仕方ない。腹を括るか。
 ……本当に大した話ではないのだが。
「篤人、お前が聞きたいのはどうして俺がバスケを辞めたかってことでいいのか?」
 こちらをジッと見つめてくる篤人を見返して、切り出した。
「ああ」
 篤人は表情を変えず、至って真面目な顔で頷いた。
「分かった。……お前は俺が別の県の出身ってことは知ってるよな?」
「ああ、中学時代の遠征先で何回か練習試合したことあるからな」
 そう。これまでのやり取りからもわかると思うが、俺は中学時代までバスケをやっていた。
 それも、そこそこ強豪の中学バスケ部で夏休みなんかは二泊三日、三泊四日程度の遠征が複数回あるのが当然のようなところだった。
 篤人と初めて会ったのは実際には中学一年生の時だったらしい。
 俺は三年になってからしか覚えていなかったが、高校に入学してすぐ、篤人からそう声を掛けられた。
「それで、そんな他県出身の俺がこの全く近くもない県の高校に来た理由は分かるか?」
「……両親の転勤とかか?」
 まあ、それが普通の反応だろう。
 しかし、それは違う。
「いや、違うんだ。実は俺、今一人暮らしなんだ」
「一人暮らし⁉」
 驚いた様子で篤人が声を上げる。
「ああ、今時そう珍しいことでもないんじゃないか? ウチにだって寮暮らしのやつはいるだろ? それと似たようなものさ」
「いや、違うだろ……まあ、その話はまた聞くとして、一人暮らしを始めた理由は? これは言いたくなければ言わなくてもいいけどよ」
 おおよその事情は察したのか気を使ってくれる。
「ああ、まあ、聞いてあまり気分の良い話しではないかもしれないが、それでも良ければ聞いてくれ」
 俺の言葉に篤人は小さく頷いた。
「中三の夏終わり、まあ、丁度部活の引退の頃だな。母さんが逝っちまったんだ。まあ、ずっと病気してたんだけどよ」
「……っ!」
「ああ、ほんとに大丈夫だから。そりゃ哀しかったけど。今は何とか割り切って乗り越えたんだ……俺はな」
 俺の言葉に篤人の表情が曇る。
 ああ、だから話したくなかったんだ。
 でも、ここまで話しておいてから、中途半端に有耶無耶にして忘れられるような男ではない。この篤人と言う友人は。もう、一年半ほど関わっているのだ。そのくらいのことは分かる。
「まあ、察したかもしれないけど、親父がな……。それで、色々話し合って別々に暮らそうってことになったんだ」
 別に親父のことは恨んでもいなければ嫌いでもない。
 父親だって人間だ。ダメージを受ければ回復する必要があるし、感情があって何かを遠ざけたいと思うのも当たり前のことだ。
 その対象が家族だからって誰にも文句を言う権利はない。
 それに放逐されたわけではなく、家賃やら生活費は毎月謝罪のように必要以上に振り込まれているし、たまに親父自身も変わろうとしているのかメッセージのやり取りもしている。
 ただ、一人暮らしをしながら部活もやるというのは俺にとってはかなりの重労働なのだ。
 バイタリティに溢れる人ならば余裕なのかもしれないが、俺は授業の帰りに買い物をして帰れるようになるまで半年近くかかるような男だ。
 とてもじゃないが、そこまで自分の面倒を見切れる自信がない。
「まあ、それで、チームスポーツって個々の精神が味方にも影響するだろ? 俺が負のオーラを撒き散らすとかそんなことは思わないけど、何かあっても嫌だし、それに……今の生活が結構気に入ってるんだ。だから、悪い篤人。やっぱり部活は出来ない。まあ、偶にジャンプシュ―トの壁役くらいにはなっても良いけどな」
 軽く笑って言葉を閉じる。
 こんな話、探せばいくらでもあるだろうし、俺は自分を不幸だとは思わないため、敢えて話してこなかったが、篤人に話したらなんだか少しすっきりとした気がする。
「龍樹……俺……」
「あー、そう言うの良いって言っただろ? ……お前には感謝してるんだ。全く知らない土地に来た俺に、ただ顔を見たことがあるってだけでフランクに話しかけてくれたりな。だから、良いんだよ。俺こそ、誘ってもらってんのに悪いな」
「くっ……分かった。お前がいいって言ってるなら謝るのは逆に違う気がするしな。でも、これだけは言わせてくれ。何か困ったら言ってくれよ」
「おう、ありがとな」
 俺と篤人はなんだか気恥しくなりお互いの肩を叩き合った。
「おい、篤人! お前次の試合スコアシートやるって言っただろ! 早く来い!」
 ちょうどそこに先ほどの試合で篤人のチームメンバーだった一人が篤人を呼びに来た。
「やべっ! じゃあ、俺行くわ! またな龍樹! 今度は一人暮らしの話聞かせてくれよ!」
「おう! スコアつけながら寝るなよ!」
 階段を駆け下りていく篤人を見送る。
 なぜだか少し、青春を掴んだような気がした。

◇◇◇

「あ、八峰くんおかえりー」
「お、おかえり。龍樹……」
 篤人との話を終え、ギャラリーに戻ると何故か満足げな顔をした相田さんと気まずそうな顔をした夏葉に出迎えられた。
「……二人ともなんかあった?」
「ふっふーん、気になる? あのねぇ、夏葉がねぇ」
「ゆ、悠月!」
「ふふっ、冗談だよ冗談。ごめんね八峰くん、何でもないよ」
「そ、そう。何でもないから!」
 確実に何かありそうな反応をされたが、まあ、良いだろう。
「分かった。でも何かあったら、言ってくれよ? それで、この後はどうする? 相田さんはもう部活に戻る感じ?」
 俺は気まずそうな夏葉のことも考えて、二人の話をさらっと流すと、この後の予定についてへ話しを切り替えた。
「そうだね~。とりあえず軽沢君の試合は見られたし、時間的にもちょうどよさそうだから私は部活に戻ろっかな」
「あ、そうだったね! ごめん悠月、引き留めちゃって」
「いいのいいの。別に大した時間でもなかったでしょ? それに、またちょっと夏葉と仲良くなれちゃったし!」
「もうっ!」
 俺がいない間に二人はさらに仲良くなったようだ。
 俺と篤人みたいに何か身の上話でもして盛り上がったりしたのだろうか?
 まあなんにせよ、みんな楽しかったみたいで良かった。
「じゃあ、私は一足先に戻らせてもらいまーす! 夏葉! また夜連絡するからね!」
「はいはい。じゃあ部活頑張ってね」
「また月曜日」
 バイバイと手を振ってギャラリーを走っていく相田さんを見送ると下ではちょうど次の試合が始まっていた。
 篤人はテーブルオフィシャル席のタイマーの横に座って、眠そうにスコアシートを付けている。
「俺たちも帰るか?」
「そうだね。夕飯の買い物でもして帰ろっか」
「おう」
 さっと席の周りにゴミなどが落ちていないかを確認し、俺たちも帰ることにした。
 それにしても……やっぱりバスケは面白いな。
 部活を再びやるつもりはないが、今度どこかにやりに行くのもありかもしれない。
「そう言えばさっき軽沢君と外に行ってたよね? 何してたの?」
ピロティで靴を履き替えていると夏葉が思い出したように聞いてきた。
「まあ、ちょっとな。俺と篤人が腐れ縁と言うか仲良くなったきっかけについて話してたんだよ」
 俺の家の事情は夏葉にも話したことはない。
 これまで何度か聞かれてもおかしくない空気になったことはあったが、その一歩を夏葉が越えてくることはなかった。
 そして、それは俺も同じだ。
 俺が一人暮らしをしているように夏葉もまた一人暮らしをしている。
 だが俺は、夏葉がなぜ一人暮らしをしているのかについては何も知らないし、聞かない。
「そっか。何て言うか、いい試合だったね!」
「ああ、そうだな」
 顔を見合わせて笑い合い、校舎を出る。
 まだまだ照り付ける日差しがじりじりと地面を焼き、頭頂部から足元までじっとりとした暑さに包まれる。
 だいぶ長いこと試合を観ていたような気がしたが、そう言えばまだ昼過ぎだ。
「さてと、夕ご飯は何食べよっか?」
 帰り道を歩き出しながら夏葉が聞いてくる。
「昨日ハンバーグ食べたし、魚?」
 まだ、昼食を終えてから一時間も経っていない。
 食べたいものが中々思い浮かばず、適当にそんな提案をしてみた。
「魚はグリル掃除が面倒だよ。龍樹、あの家のグリル使ったことないでしょ?」
「確かにないな……」
「まあでも、昨日しっかり作ったし、今日はお刺身とか買って手巻き寿司にでもしようか」
「おお! それは良さそうだ。意外とやったことないよな手巻き寿司とか」
「そうだね。まあ、お刺身も海苔も高いし、そう頻繁には出来ないけど」
「おっと、そんな問題が……まあ、今日はいいよな。気分いいし」
「ふふっ、そうだねっ!」
 なんて会話を交わしながら俺たちは昨日と同じスーパーに二人で寄って帰った。

 篤人の試合を観終わって、夜。
二人で厳選し、お財布事情と好みを照らし合わせた最高の刺身盛り合わせに細切りのきゅうりや卵焼き、定番の納豆にシーチキンなど様々な種類の寿司ネタを用意した。
「すごいなこりゃ。華やかだ」
「ねー。大した調理はしてないのに」
「いやいや、卵焼きも酢飯も作ってくれたじゃんか。ありがとう」
 謙遜する夏葉に改めてお礼を言う。
 そう言えば弁当のお礼もちゃんと言えてなかったな。
「き、急に止めてよ! 龍樹だってきゅうり切ったりしてくれたでしょ?」
「そのくらいは小学校低学年でもできるレベルだから……それに弁当もありがとう。改めてめちゃくちゃ美味かった」
「そ、そっか。それは良かった」
 照れた夏葉が恥ずかし気に視線を逸らす。
 そんな顔を見せられてはこちらも照れ臭くなってくる。
「……さて、じゃあ手巻き寿司だ。いただきます!」
「いただきます」
 俺は熱くなってきた顔を誤魔化すように海苔を手に取り、ボウルで作った酢飯をよそう。
「寿司桶があったらもっと良かったのにね」
「中々一人暮らしの家に寿司桶は置かないだろ」
「それはそうだけど。あ、生ものから先に食べてよ! もし残ったらもったいないから」
「あいよ」

 手巻き寿司は毎回海苔にご飯をのせてネタを選ぶという工程が発生するため、普段はどうしても俺の方が先に食べ終わってしまう夏葉との食事が同タイミングで進んでいく。
 そして、そんな風に手を動かしている時間が多いからか、普段よりも口数も多くなった。
「そう言えば龍樹ってさ、もしかして昔バスケやってたりした?」
 今日の会話の中心は当然篤人たちの試合のことだった。
 夏葉はちゃんとしたバスケの試合を観たのは初めてだったらしく、色々と疑問に思ったことを聞いてきた。
 そしてそれに丁寧に答えていたところ、唐突にそう聞かれた。
「ああ。中学まではバスケ部だったよ。実はその頃にあった遠征とか合宿で、こっちに来る前から篤人とは顔見知りだったんだ。まぁ俺は名前も知らなかったんだけどな」
「へぇ~すごい偶然もある物だね。あ、もしかしてさっき軽沢君と話してたってのもその関係の話?」
「そうそう。実は前からまたバスケはやらないのかって誘われててさ」
「えー! 良いじゃん! やらないの?」
「まあ、やらないかな。部活はもう満足したし。それに放課後も練習して疲れて帰って来た後すぐに洗濯して干してって意外と一人暮らしじゃ大変そうだろ? 俺にはそんなバイタリティはない」
「ふふっ、自慢げに言うなし」
「まあ、それに――」
 言いかけて止まる。
 何となく、これを言うのは照れくさい。
「え? それに、どうしたの?」
 急に言葉を止めた俺を不思議そうな顔で夏葉が見つめる。
「いや、何でも。この後はなんかするか?」
「あ、話し逸らしたな~。まあ、良いけどね。ん~この後は……そう言えば、もうすぐテストじゃない?」
 俺は夏葉のその一言で一気に現実へ引き戻された。
「そう言えば、五月最終週が中間テストか……」
「なんか、二人の部活の話ばっかり聞いてたせいですっかり忘れてたね」
 夏葉の言う通りだ。
 何となく、二人とも部活頑張ってて忙しそうだなと言う意識ばかりが先行し、自分の予定がすっかり頭から抜け落ちていた。
「この後は勉強するか?」
「……そうだね。二年生になってから一回目のテストだし、多分範囲も一年の総復習プラス最近までの範囲だよね」
「だろうな。何からやる?」
「とりあえず、英語とか? 暗記系はテスト前に詰めるとして、数学と英語は復習大事だし」
「よし、だるいけど頑張りますか」
「おー!」
 こうして再来週に控える二年生第一回中間テストに向けての勉強計画を練りながら、俺たちは食事を終えた。

 ◇◇◇

 食事を終え、食器を洗い終えた俺たちは再びリビングのテーブルに向かい合い、今度は料理ではなく教科書を広げていた。
 教科は英語。
 とりあえず最近習った文法を復習しながら問題を出し合おうと言うことになった。
「じゃあ、まずはこれ」「じゃあ、こっちは?」と言ったように日本語訳の部分を指や赤シートで隠し合ったりしながらクイズ形式に問題を出し合って文法を確認していく。
 幸いなことに、お互い勉強にはかなり真面目なタイプなため、最近習った部分は特に問題なくすらすらと答え合った。
「まあ、最近のは大丈夫だよな」
「そうだね。英語って最初に躓くと難しいけど、一回分かるようになればとりあえず何とかなって行く気がする」
「難しい文法もあるんだろうけど、語学だからな。細かいところはともかく、大雑把に意味を取るくらいは何となくできるようになるよな」
 実際、英語に関しては文法の形を覚えたら一気に読めるようになった。
 中学時代は勘と言うか、雰囲気で長文を読んでいたのだが、一年の途中で急に読めるようになったのは夏葉とこの勉強方法を始めたからだろう。
「じゃあ、次はこの練習問題、三十分で点数高い方の勝ちね!」
 文法確認を一通り終えると今度は問題集を取り出した夏葉がおもむろにページを開いて言った。
「お、良いぞ?」
 この勉強法も夏葉が部屋に来るようになってから始めたものだ。
 時間を決めて同じ問題を解き、片方が正解で片方が間違いの時は正解の方が解説、二人で間違えたときはお互いが理解できるように二人で考えるという、正直かなり効率が良いと思っている方法だ。
「今って勝ち負けどんな感じだったっけ?」
 急に夏葉がそんなことを聞いてきた。
「去年の二学期中間からたくさんやったからな……まあ、間違いなく英語は俺が負けてる」
「じゃあ、今回龍樹が勝てたら何かご褒美を上げましょう」
「ご褒美? 急にどうして?」
「まlまーたまにはこういうも良いかなって。その代わり私が勝ったら龍樹も私にご褒美頂戴。どう?」
 いったいどういう風の吹き回しなのだろう?
 だが、確かに張り合いは出て良いかもしれない。
「まあ、良いぞ。夏葉なら無理を言ってきたりはしないだろうしな」
「おっけー。じゃあ、ご褒美は無理のない範囲でってことで」
「おう」
 夏葉がスマホで三十分のタイマーをセットする。
「じゃあ、よーい、スタート!」
 掛け声に合わせてペンを持ち、問題文に向かっていく。
 どうやらこのページは一年生の総復習にあたる部分のようだ。
 所々怪しい部分もある気がするが概ねスラスラと解き進めていく。
 正面に座る夏葉もペンが止まる様子がなく、かなり余裕を持って解き終わっているような雰囲気を醸し出していた。

 三十分が経ちスマホのアラームが鳴る。
夏葉は流れるような手つきでそれを止めると「はい、ここまで!」と言った。
 俺は掛け声と同時にペンを置き、もはや慣れ親しんだ動きで互いの回答を交換する。
「じゃあ、採点しよう」
「おう。今回は割と自信あるぞ」
「私もかなり自信あるよ!」
 それだけ言い合うと赤ペンを取り出し、互いのノートに採点をしていく。
 さすがは夏葉だ。
 元々英語が得意な彼女だが、今回に関しては消しゴムの跡も見つからないほどにペンが走っていたようだ。
 それにしっかりと正答率も高い。
 ボールペンで円を描く小気味の良い音だけが部屋に響く。
 そうして答え合わせは俺の方が先に終わった。
 何せ、夏葉が間違えていたのは一問だけ。
 五つの空欄に当てはまる語句をいくつかの単語の中から選んで並び替える問題だけだった。
 しばらくして夏葉が顔を上げる。
「はい、終わったよ~」
「俺も終わった。すごいな一ミスだけだったぞ」
 言いながら夏葉にノートを返す。
「えー! 結構自信あったからもしかしたら満点行けるかと思ったのに」
 すると夏葉は少しだけ悔しそうな顔をしてそう言った。
「いや、実際かなり惜しかったと思うぞ。ほらこの単語、日本語訳ならこれでも読めそうだけど文意的にこっちの方が適してる」
「うわ、ほんとだ。こういう意地悪な問題苦手だなぁ」
「まあ、中々満点とはいかないよな」
「そうだね。あ、龍樹はこれね。長文のとこ一つと並び替えの私と違うとこ」
 続いて返された俺のノートには二つのチェックマークがついていた。
「まず並び替えのこれは、語順が変なやつだよ。これ前も間違えてなかった?」
「う……」
 夏葉に指摘された問題を確認すると、確かに以前に間違えた覚えのある問題だった。
「言われてみれば……ここは反復練習だな」
「うん。そうしましょう龍樹くん」
「はい、夏葉先生」
 フッと軽く笑うと次に移る。
「で、長文のこれだけど――」
 その後も夏葉先生のありがたい解説を受け、お互いに分かりにくかったところなどを洗い出し、しっかりと確認するとちょうど問題を解き始めてから一時間ほどが過ぎた。
「ふぅ、今日の問題はこんなところかな」
「そうだな。いや、今日も勝てなかったか」
 答え合わせ兼復習が一通り終わり、そう呟くと夏葉が立ち上がりソファの方に移動して座ると自分の隣をパンパンと叩きながら言う。
「じゃあ、休憩がてらご褒美ね」
 俺は指示された通り夏葉の横に座る。
「それで、ご褒美って今でいいのか? コンビニでなんか奢るとかそう言うのだと思ってたんだけど」
 適当に付けたテレビを見ながら質問する。
 家の中で、それもこんなところに座って出来るご褒美なんて何かあるだろうか?
 そんなことを思っていると不意に、夏葉の方へ体が引っ張られた。
「え?」
 突然のことに何が起きたか分からず、俺はされるがままに夏葉の膝を枕にする形で倒れ込んだ。
「え? は? 夏葉? これは一体?」
 焦りながら起き上がろうとするも、上になっている方の肩に手が置かれ、それを遮られる。
「はい、これが私の選んだご褒美。龍樹は私が満足するまで膝枕されてください」
 はい? これがご褒美? 確かに俺からしたらご褒美なのは間違いないが、これが夏葉にとってのご褒美とは如何に?
「えっと――」
「質問は禁止です。今の龍樹は私の膝枕使い」
「膝枕使い……」
 なんか絶妙に嫌な感じのネーミングだが、これが夏葉にとってのご褒美だというのならば俺は甘んじて膝枕使いに徹しよう。
「どう? 気持ちいいですか?」
 勘違いだろうか? 普段より七割増しくらいに甘い声に聞こえる。
「そりゃ、まあ……」
 膝枕なんて記憶のある限りされた覚えはないが、夏葉の膝は元バスケ部な俺のそれとは違い、心地の良い柔らかさがある……いやいや、何普通にレビューしてるんだ俺。
 落ち着け、落ち着くんだ。
 一旦深呼吸、深呼吸でもして――スゥっと大きく息を吸うと鼻腔を突くのは夏葉の使う柔軟剤の匂い。
 今となっては嗅ぎ慣れているはずの匂いがこの状況も相まって、酷く心臓を高鳴らせる。
 ……まずい、深呼吸もダメだ。
「龍樹。ふふっ、顔真っ赤だよ」
 完全に冷静さを失っている俺にとどめの一撃と言わんばかりの二の矢が放たれた。
「……うるせ」
 柔らかさと甘い匂いに包まれた俺が何とか絞り出せたのはそんな言葉だけだった。
 それから俺は約十分間、髪をいじられたり顔を覗き込まれたりするという羞恥を乗り切った。
「よし、もう良いよ」
 永遠とも思える十分間で夏葉はようやく満足したのか、俺の肩に置かれていた左手を退かした。
 俺は夏葉にぶつからないようにゆっくりと、それでいてなるべく早く離れられるように起き上がる。
「急に、何がしたかったんだ?」
 頭を冷やすために冷たいものが欲しくなり、キッチンへ向かいながら、背を向けたままの恰好で夏葉にそう聞いた。
「ふふっ、なんだと思う?」
 余裕染みた声でそう言う夏葉。
 一体なんでなんだ?
 ……そう言えば、今日は試合中にも手をつながれたり、何かと身体的な接触が多い気がする。
「今日は人恋しい日、とかか?」
 類推から俺はそんな答えをはじき出した。
 しかし――
「龍樹……まあ、いっか」
 夏葉が何かを言いかけて、止める。
 振り返ると酷くもどかしそうで、それでいて安堵したかのような表情の夏葉が見えた。
「じゃあ、今日はそろそろお開きかな?」
 コップ一杯の水を飲んで頭を冷やした俺がソファに戻ると夏葉がそう切り出した。
「お、そうか? まあ、確かに今日は朝から外出して疲れたしな」
 口ではこう言っている俺だが、内心では少し不思議に思っていた。
 いつもの夏葉ならば土曜日は、日付が変わるギリギリまで居たり、普通に泊まって行ったりもする。
 確かに普通ならばもういい時間だが、俺と夏葉に限って言えば、今日はいささか早い気がした。
「うん。明日はどうする? どこか行く?」
「うーん、テスト意識しちゃったからなぁ。勉強しようぜ」
「おっけー。じゃあ、また明日ね。ちゃんと寝なよ?」
「おう」
 普段ならば、お開きにしようかと提案してからも話が盛り上がり、そこからが長いということもざらにあるのだが、今日はそんな雰囲気を微塵も感じさせないほどにあっさりと会話が終了した。
 夏葉が荷物をまとめて玄関へ向かう。
「じゃあ、おやすみ龍樹」
「ああ、おやすみ夏葉」
 また明日と軽く手を振って夏葉を見送る。
 こうして凄まじく濃かった俺と夏葉の一日は不思議な終わり方をした。

 ◇◇◇

 龍樹の部屋の扉が閉じて、鍵の閉まる音がするのを確認する。
 そうして龍樹の気配が玄関から離れた瞬間に私はその場にしゃがみ込んだ。
「やっちゃった、やっちゃったぁ!」
 近所迷惑にならないように抱え込んだ膝の中で私は小さく悲鳴のような声を上げた。
 顔が熱い、龍樹の前では平静を装えていただろうか? 急にあんなことをして変に思われなかっただろうか?
 張りつめていた緊張の糸がほどけ、一気に感情が溢れ出てくる。
 ノリと勢いに任せてとんでもないことをしてしまったかもしれない。
 もちろん、思い返すのは膝枕。
先ほどのご褒美は悠月からのアドバイスを参考にして、実践に移したものだ。
 私がどうして突然あんな行動に出たのかと言えば――
 時は少し遡り、買い物後。
 一度それぞれの家に戻り、シャワーを浴びている時に私のスマホへ悠月からメッセージが入っていた。
「さっきの話の続きだけどさ、夏葉は八峰くんと付き合いたいって認識でいいんだよね?」
 軽沢君たちの試合と跡から続いていた会話の中で、あまりにも直球なその問いは逆に清々しく、私も本音から答えることが出来た。
「それは……うん。出来ることなら」
 このメッセージを打ち込みながら、改めて自分でも認識する。
 私は龍樹のことが好きなんだ、と。
 もちろんこれまでだって何度も意識したことはあった。
 つい先日だって、龍樹が急に私の髪を撫でてきて……うぅ、思い出したら恥ずかしくなってきた。でもあれについては龍樹が悪いと思う。あの時の私、良く止めた!
 なんて回想をしているうちにすぐ返信が来る。
「ほうほう、今日は珍しく素直ですな夏葉サン」
「からかわないでよ!」
 画面越しにでも悠月のニヤニヤとした顔が目に浮かぶ。
 ……こんな会話をして、次に学校で顔を合わせるのが恥ずかしい。
「ごめんごめん。夏葉可愛いんだもん。まあ、じゃあ可愛い夏葉は一旦置いておくとして、ここは私が親友として恋愛アドバイスをしてあげよう!」
「ありがたいけどさ……悠月の方は恋愛の経験があるの?」
 散々からかわれた仕返しにこれまであまり踏み込んでこなかった悠月の個人的な話を訪ねてみる。
 すると――
「……」
 それまで即レスだった悠月の反応が少し遅くなった。
「あれ? 悠月?」
「……ンンッ、私の話はまた今度ね。それで、夏葉へのアドバイスだけど、やっぱ男の子にはボディータッチでしょ!」
「悠月、なんかおじさんくさいよ、その言い方」
 何か濁されたような気もするが、もしかしたら触れられたくないところなのかも、と思い直し、私も悠月のノリに合わせた。
「華のJKにおじさんは禁句でーす。それにこれ、冗談じゃないよ?」
「冗談じゃないって……私と龍樹はまだ付き合ってないんだよ? それなのにボディータッチなんて……」
 付き合っていたとしても、私たちの年齢で気安くそんなことをしていいのだろうか?
 なんて、私はそう思っていたのだけど……。
「んぅ? あれあれ夏葉サン? 私の言ってるボディータッチって手をつなぐとかそう言うことだったんだけど? 実際夏葉も今日やってたし。それなのに付き合ってないのにって、一体何を想像したのかな~?」
 ……ボッと顔が熱くなるのを感じる。
 やられた。最悪だ。ついつい思考がおかしな方向に飛んで行ってしまっていた。
「……悠月、その言い方もおじさんくさいよ」
「ふっふっふー何とでも言いなさい。でも、その代わり今の発言をこの先ずっとネタにさせてもらっちゃうけどね~」
 苦し紛れに放った私の言い返しも、いともたやすくいなされてしまう。
「……もうやめて。今のは私のミスだった」
「ふふっ、冗談だよ。もう、ほんと可愛いな~夏葉~」
 また、画面の向こうではニヤニヤしているであろう悠月に、私は怒った顔のスタンプを一つ送っておいた。

「……それで、真面目な話だけどさ。ボディータッチ、手をつなぐところまで出来るならもう少し進んでみたら?」
 スタンプを機に切り替えた悠月が改めてボディータッチをおすすめしてくる。
 確かに、今日の観戦中には自然と龍樹の手を握ることが出来ていた。
 あんな感じで距離を詰めていけば、もっと私を意識させることが出来るかもしれない。
「……でもさ、もう少し進むとなると、何をしたらいいのかな?」
 だが、これが問題なのだ。
 手をつなぐ。そこまではなんとか仲のいい男女の距離感でやってもおかしくないと私の中の恋愛判定脳が言っている。
 しかし、そこから関係を進めるために行動するとなると何をしたらいいのか全く分からなくなる。
「うーん、一般的なところだとハグとか? でもハグは相手側からも来てもらわなきゃダメか……となると膝枕とか? いや、学校でやるわけにもいかないし、それも流石に難しいか~」
 きっかけはこの何気なく発せられた膝枕という言葉。
 悠月は、私と龍樹がお互いの家を行き来する仲ということを知らない。
 確かに、お互いの家でもなければ膝枕は難易度が高いだろう。
 だが、傍目がないという状況さえ整えられてしまえば、膝枕は手をつなぐ次くらいにはハードルが低いと私には思えた。
「まあ、取り敢えずもう少し積極的にいってみたら?」
 画面越しでは私の葛藤も気付きも伝わらない。
 悠月はそう言ってサムズアップしたカエルのスタンプを送って来た。
 ……そのスタンプのカエルはにんまりと目を細めた微妙な笑みで、画面の向こうの悠月の顔を表しているんじゃないかと思えるようだった。
 私はそのスタンプには敢えて何も返事をせずに悠月との会話を終えた。
 ――そして、勉強後の膝枕を終え、現在に至る。
「と、とりあえず、帰ろう」
回想を終えた所で現在の自分を客観視してみると、今の私はマンションの廊下でしゃがみ込むという、不審者か、もしくは体調不良の人のように見えていることに気が付き、サッと立ち上がるとエレベーターの方へ走った。

一階から上がってくるエレベーターのランプをジッと見つめながら、自分の膝に乗っていた温かい重みを思い出す。
「……龍樹、照れてたよね。ふふっ、ちょっと可愛かったな」
 急な膝枕で顔を赤くして、でも反抗するでもなくその状況を受け入れてくれた龍樹のことを思いだすと思わず笑みが漏れてしまう。
 やって来たエレベーターには乗客はおらず、私は乗り込んですぐに六階のボタンを押すと立て続けに『閉』のボタンを押した。
「明日はどんなことを……って、ちょっと待って」
 エレベーターの駆動音を聞きながら、私は穿いているロングスカートのポケットの辺りを探る。このロングスカートには大きめのポケットがついていて、それでいてそれなりにいいデザインだからお気に入りの部屋着(龍樹の部屋用)として重宝していたのだが……いつもそこにいれていたスマホの重さがないことに気が付いた。
「そっか。膝枕するためにポケットから出してそれから……」
 どうしよう? 取りに行く? でも、ちょっと今顔を合わせるのは――そう考えたとき、私の脳裏に浮かぶのは先ほどのちょっと可愛かった龍樹の顔。
……無理だ。さすがに今は冷静に顔を合わせられる気がしない。
まあ、明日も勉強の約束をしたし、今日はゆっくり落ち着いて寝ればいいか。
 正直まだ興奮していて今日はベッドに入ってもすぐに寝付ける気はしない。なら、余計に寝付きにくくなりそうなスマホが物理的にない方がいいか。と、私はそう結論付けて、自分の部屋へと戻るのだった。

◇◇◇

 夏葉が去ったこの部屋は少し温度が下がったような感覚を覚える。
 もちろん、俺が一人でいることの方が多いこの部屋だが、それは物理的な、睡眠時間などを含めた話であり、基本的に夕食は一緒に取るし、休日も少なくとものどちらか一日は彼女が俺の部屋にいることがもはや普通だ。
 だが、今日感じているこの室温の低下はそんな日常が崩れたから、という訳でもなさそうだ。
「……とりあえず、片付けるか」
 明日もウチで勉強会をする約束をした手前、いくら気心の知れた夏葉とて、掃除もしないままに迎え入れるのは申し訳ない。

 台拭きでテーブルを拭きながら、暇つぶしにテレビでもつけようかとリモコンを探したところで俺は意外な物を見つけた。
「これ、夏葉の、だよな?」
 高校生、特に女子にとってはなくてはならない物とも言えよう必須アイテムであるスマホ。水色のケースに入れられたそれは間違いなく俺の物ではなく夏葉の物だった。
「届ける? いや、それより先に連絡か?」
 呟きながらメッセージアプリを立ち上げメッセージを送ると、テーブルから受信を知らせるバイブレーション音が聞こえて来た。
「……いや、そうだよな。スマホ忘れてるのに、スマホに連絡してどうするって話だよな……」
 スマホとは個人情報の塊のような物だ。
 いくら俺と夏葉が部屋を行き来するような仲だからと言って、そう易々と触れて良いものではない。だが、そんな意識ばかりが先行した結果、何ともアホらしいミスをやらかしてしまった。
 さすがに明日も来るとは言え、ここに置いておくのはまずいだろうと思い、夏葉の部屋まで届けに行こうとスマホを手に取った時、再びメッセージの受信を告げるバイブレーションが立て続けに二件、今度は俺の右手に振動を伝えて来た。
 反射的に画面を見てしまう。
 すると、そこには――。
「さっきの話だけどさ。デート先で手をつなぐとかでもいいかも!」
「頑張れ! 恋する乙女よ! 相談、恋バナいつでも歓迎だからね~」
 悠月という送信者名と共に、確実に俺が見てはならない類のメッセージが表示されていた。
 デート、手をつなぐ、恋する乙女、恋バナ……送信先がグループ名などではなく夏葉個人になっている時点で夏葉の話であることは確定。つまり俺は夏葉と相田さんの恋愛相談を覗き見してしまったということらしい。
 ……非常に気まずい。
いや、別に状況的には仕方なかったところもある。だが、こう毎日顔を合わせている夏葉の恋愛事情に思わぬ形で首を突っ込むことになってしまったというこの状況が気まずさを加速させていた。
 どうする? 今からでも素知らぬフリをして忘れ物あったぞ~みたいな感じで届けるか?
 いや、ここは気が付かなかったフリをして、明日自然と夏葉が気が付く方に賭けた方がいいか?
 突如訪れた慣れない状況に俺の思考は勉強中以上にフル回転する。
 そして、俺が導き出した答えは――。
 俺はそっと、元あった場所へ夏葉のスマホを戻す。
「……大丈夫、大丈夫。俺は何も見ていない」
 俺は今の一連の流れをなかったことにした。
 俺が送ってしまったメッセージについては送信を取り消しておけばいいだろう。
 それについて何かを聞かれたら、誤送信をしたと言って誤魔化せばいいのだ。
 そしてあたかも気が付かなかったことを装うように、それ以上はテーブル周りの片付けはせずに、その場から逃げるように洗面所へと引っ込んだ。

 洗面所の電気をつけて鏡に映る自分の顔を見れば、なんだか不思議な顔をしていた。
 想像ではメッセージを見てしまったことや、それを隠そうとする現状について罪悪感を抱いていそうな表情をしているのだろうと思っていたのだが、存外そんなことはなかった。
 ただ、何となく表情が暗い。
 別に、自分が常に明るい顔をしているだとか、篤人のように爽やかなイケメンフェイスをしているなんて思っていない。
ただ、たまに鏡を見て、太ったか? と思ってみたり、ニキビが出来ているのを見つけるくらいの感覚でなんとなく暗い表情をしているように見えた。
「……なんだ?」
 そして、そんな暗い表情を自覚した途端、心臓の鼓動が激しくなる。
 酷く緊張している時の如く、盗み聞きをしてしまった時の如く、心臓が拍動する。
 落ち着こうとコップを手に取り、冷水を注いで一息に飲み干す。
 都会の水道水はあまり好きではない。匂いや味もそうだが、何より夏場は想像以上にぬるいのだ。地元ならば、こうはいかなかった。
 だが、今はぬるい水が逆に体へ沁み込んでくる。
 ふぅ、と息を吐き歯ブラシを手に取る。
 夏葉の物と並んだ自身の歯ブラシに歯磨き粉を乗せて口へと運べば、ぬるい水道水とは比べ物にならない爽やかなミントのフレーバーが鼻を突き抜けていった。
 落ち着いた思考がミントのフレーバーでリフレッシュされていく。
 もう一度、鏡に映る自分を見た。
 口の端に歯磨き粉を付けた間抜け顔。
相変わらず暗さは抜けない。だが、ぬるい水道水と歯磨き粉のミントのおかげでつっかえていた疑問の答えにはたどり着けた。
「……夏葉の好きな人、か」
 口に出せばはっきりと理解できる。
 この暗い表情の理由はきっとそれなのだろう。
 ああ、一体どうして今まで気が付かなかったのだろうか?
 これだけ長く、一緒に時間を過ごして、お互いに素を見せることにすらほとんど抵抗を抱かない相手。
 告白をされている現場を目撃すれば、何故か無性に気になってしまう。
 青春なんて形のないものを形容しようと思考の海に沈んでしまうほどに――。
 口の中の歯磨き粉と唾液を吐きだし、コップに水を入れて口をゆすぐ。
 歯磨き粉の清涼感のおかげで、都会のぬるい水道水が田舎のキレのある水道水のように感じられる。
 こんな感情を抱くのはいつぶりだろうか? 少なくとも母さんが亡くなってからは始めてだ。
もしかしたら無意識にそう言う感情を抱かないようにしていたのかもしれない。
でも、経験がないわけではない、だから分かる。
――俺は夏葉が好きだ。
歯ブラシとコップを軽く洗い流し、洗面所を出る前にもう一度鏡を見る。
そこに映った自分にはもう先ほどまでの暗さは見えない。
 鏡の中に映る俺は口内に残る歯磨き粉の清涼感のようにスッキリとした顔をしていた。

 自室へと戻り、ベッドへ入る。
 普段よりもだいぶ早い時間だが、俺はリモコンで部屋の電気を消して布団を被り目を閉じた。
 すると、湧き上がってくるのは夏葉の好きな人とはいったい誰なのだろう? という恋愛をする人ならば誰もが抱いて当然の疑問。
 今日だけでも手をつないだり、膝枕をされたりと、改めて考えてみればかなり身体的な接触の多い日だったように感じる。
 だが、それだけで夏葉も自分のことが好きだろうと断定するのは些か性急過ぎるというものだろう。
 夏葉は良くモテる。
 不意に実習棟で告白現場に遭遇してしまえる程度には彼女はモテるのだ。
 付き合ったという話は聞いたことがないが、俺の知らない告白だっていくらでもあるだろう。
 それに、そもそも夏葉に好きな人がいるということについても今日、いや、つい先ほど偶然知ったほどだ。
 確かに俺は誰よりも彼女に近い位置にいる自覚はあるが、それだけでは断定できない。
 世の中は都合の良いことばかりではないということを俺は母の死をきっかけに人並み以上に理解しているつもりだ。
 だが、分からないから諦めるのか? と言われればそれはもちろん否だ。
 努力をしよう。
 夏葉はモテる。それもちょっとやそっとではない。すごく、だ。
 だから、そんな彼女に釣り合う相手になりたい……いや、なろう。
 見た目は仕方ない。俺が今更、篤人になることはない。だが、人間、顔がすべてではない。
 深く吸って、深く吐く。
 昂った思考を深呼吸で整えていく。
 せめて、夏葉に正面から告白出来る程度には、自分に自信を付けよう。
 横になったまま暗い天井を見つめて決心する。
 すると、段々と体が重たくなっていく。
 一気に感情が行ったり来たりを繰り返して疲れてしまったのだろうか?
 だが、悪くない心地でもある。
 俺は急激にやって来た睡魔へ身体を預け、そのまま夢の世界へ旅立った。