「あ、今日もいる」
通路を歩いていた芽衣さんが、三塁側の決まった席を指さして言った。そこには、白髪の混じった帽子をかぶった、おじいさんが一人、静かに座っていた。
「知り合いですか」
「知り合いっていうか、常連さん。うちが売り子始めたときから、ずっとあの席にいる」
芽衣さんの話によると、そのおじいさんは、平日のナイターも休日のデーゲームも、ほとんど欠かさずあの席に来ているのだという。
「毎回、同じ飲み物頼むんだよ。ホットのお茶」
「試合中でも、ホットなんですか」
「うん。暑い日でも、絶対ホット」
理由を聞いたことはないと言いながらも、芽衣さんは慣れた様子で、そのおじいさんの席へ向かっていった。僕もついでに、近くの通路の見回りを兼ねて後を追った。
「こんにちは、いつものでいいですか」
「ああ、頼むよ。今日もありがとうね」
おじいさんは穏やかな声でそう言うと、芽衣さんが差し出したホットのお茶を、両手で受け取った。
「――お連れさん?」
僕のほうを見て、おじいさんが聞いた。
「同僚です。スタッフの樋口です」
「そうかい。芽衣ちゃんは、いつも元気にやってるかい」
「元気すぎるくらいです」
「ちょっと、それどういう意味」
芽衣さんが横から抗議したけれど、おじいさんは楽しそうに笑うだけだった。
「わしはね、もう何年もここに通ってるんだけど、正直、試合の中身なんて半分も覚えとらんのだよ」
「そうなんですか」
「勝った負けたより、ここに来て、いつもの席に座って、いつもの一杯を飲む。それだけで、もう十分なんだ」
言葉自体は何気ないものだったけれど、僕の中に静かに残るものがあった。
「特別なことがなくても、いいんですか」
「特別なことなんて、そう毎回あるもんじゃないよ。それでも通ってしまうのが、好きってことなんだろうね」
おじいさんはそう言って、湯気の立つお茶を一口飲んだ。
芽衣さんと二人で持ち場に戻る途中、僕は何となく、その言葉を頭の中で繰り返していた。
「――律、なんか考え込んでる?」
「少しだけ」
「なに考えてたの」
「特別なことがなくても、通いたくなる場所があるっていいなと思って」
芽衣さんは一瞬きょとんとしたあと、「律って、たまに変なとこで感動するよね」と笑った。
けれど、その笑い方は、いつものからかい方とは、少しだけ違って聞こえた。
三月二十八日は、僕の誕生日だった。
特別なことをする習慣もないので、いつも通り出勤して、いつも通り仕事をこなすつもりでいた。けれど、休憩室のドアを開けた瞬間、その予定は崩れた。
「――誕生日おめでとー!」
蓮さんの声とともに、小さなクラッカーの音が鳴った。テーブルの上には、ホールケーキと、不揃いに切られた紙皿が並んでいる。
「な、なんですか、これ」
「律の誕生日でしょ。彩乃ちゃんが調べてくれた」
「シフト表の生年月日、こっそり見ちゃいました」
彩乃さんが少し照れくさそうに言った。個人情報の扱いとしてはどうなのだろうと思いつつ、そんな指摘をする空気ではなかった。
「僕、誰かに祝ってもらうの、久しぶりです」
「なにその切ない発言」
芽衣さんが呆れたように言いながらも、テーブルの隅からラッピングされた小さな箱を差し出してきた。
「――これ、うちから」
「開けていいですか」
「早く開けて。恥ずかしいから」
中に入っていたのは、革のカバーがついた、少し厚めのノートだった。
「これ……」
「律、いつもノートに書いてるって言ってたから。ちゃんとしたやつ、使ってないのかなと思って」
普段使っているノートは、コンビニで買った安いものだった。それを見抜かれていたことに、まず驚いた。
「ありがとうございます。大事に使います」
「大げさ。ただのノートだから」
そう言いながらも、芽衣さんの表情は、いつものからかい顔ではなく、どこか落ち着かなそうな柔らかい表情だった。
蓮さんが切り分けてくれたケーキは、切り口がかなり不格好だったけれど、味は素直に美味しかった。彩乃さんが淹れてくれたコーヒーの香りが、休憩室にゆっくりと広がっていく。
「――律、来年もここにいるといいね」
蓮さんが、何気ない調子でそう言った。深い意味はなかったのだと思う。それでも、その言葉は僕の中に、思っていたより長く残った。
「そうですね。いられたら、いいなと思います」
「いられたら、じゃなくて、いてよ」
芽衣さんが、少し強い口調でそう言い直した。
「――はい。います」
自分でも驚くくらい、すんなりとその言葉が出た。
ノートの最初のページに、僕はその日のうちに、こう書いた。
〈三月二十八日。四人に、誕生日を祝ってもらった。悪くない一日だった。〉
短い一文だったけれど、しばらくの間、僕はその文字を何度も読み返していた。
* * *
「今日から入る、新人さんです」
先輩にそう紹介されたのは、大学生だという女の子だった。緊張した面持ちで、深々とお辞儀をしている。
「樋口です。分からないことがあれば、なんでも聞いてください」
「よ、よろしくお願いします……!」
声が裏返るくらい緊張しているその様子に、僕は少しだけ懐かしい気持ちになった。数ヶ月前の自分を見ているようだった。
「まず、在庫の数え方からいきましょうか」
「は、はい」
表を見せながら説明していると、彼女は真剣な顔でメモを取っていた。あの頃の僕も、こんな顔をしていたのだろうか。
「――あ、それ、たぶん数え忘れると思う」
通りかかった芽衣さんが、横から口を挟んできた。
「まだ何も間違えてないですよ」
「律が最初にやったとき、絶対そこで数え忘れてた。搬入口の分」
「その節はお世話になりました」
新人さんは、僕たちのやり取りを不思議そうに眺めていた。
「お二人は、もう長いんですか?」
「僕は、まだ半年経ってないくらいです」
「え、そうなんですか。もっとベテランかと」
「よく言われます」
芽衣さんが横で小さく笑っていた。
その日の午後、新人さんは案の定、搬入口の分を数え忘れていた。僕が最初にやったのと、まったく同じミスだった。
「――ほら、言った通り」
「本当にありがとうございます、助かりました」
慌てる新人さんを見ながら、僕は数ヶ月前、同じように蓮さんに助けてもらった日のことを思い出していた。
仕事終わり、新人さんが帰ったあとの休憩室で、芽衣さんがぽつりと言った。
「律も、ちょっとは先輩っぽくなったね」
「そうですか?」
「うん。最初の頃は、なんか危なっかしかったし」
「今は危なっかしくないですか」
「今も多少はあるけど、前よりはマシ」
微妙な言い回しだったけれど、褒められていることは分かったので、素直に受け取ることにした。
「――律が誰かに教えてる姿、初めて見た」
「変でしたか」
「ううん。ちゃんとしてて、ちょっと意外だった」
その言葉に、僕は少しくすぐったい気持ちになった。教えられる側から、教える側へ。気づかないうちに、自分の立ち位置は、少しずつ変わっていたらしい。
それでも、芽衣さんに数え忘れを指摘される立場だけは、変わらないままだった。
