ドームの中では、僕らの恋も売り切れません。


  その日、僕は珍しくミスをした。
  発注の数量を一桁間違えて入力してしまい、翌日届くはずの商品が、予定の十倍近く届くことになってしまったのだ。先輩に報告したときの空気は、正直、あまり良いものではなかった。
「まあ、次から気をつければいいから」
  そう言ってもらえたものの、頭の中では何度も同じ場面がリプレイされて、なかなか離れてくれなかった。
  数字を扱うのが苦手なわけではない。むしろ得意なほうだと思っていた分、余計に自分の失敗が受け入れがたかった。
  仕事中は、なるべくいつも通りに振る舞っていたつもりだった。
  けれど、休憩時間、自販機の前に座っていた僕の隣に、芽衣さんが黙って腰を下ろした。
「――律、今日、静かすぎ」
「いつも静かですよ、僕は」
「いつもの静かさと違う。今日のは、なんか、内側にこもってる感じ」
  言い当てられて、僕は何も言えなくなった。誰にも気づかれないように振る舞っていたつもりだったのに、いともあっさり見抜かれてしまった。
「発注のミス、聞いたよ」
「もう広まってるんですか」
「広まったっていうか、蓮さんが心配して聞き回ってた」
  蓮さんらしい行動だと思いながらも、僕は小さくため息をついた。
「そんなに気にすることなくない? 誰だってミスくらいするし」
「分かってはいるんです。分かってはいるんですけど」
「頭で分かってても、気持ちが追いつかない、みたいな?」
  図星だった。僕は黙って頷くことしかできなかった。
  芽衣さんは立ち上がると、自販機のほうへ歩いていき、しばらくしてから、温かい缶をふたつ持って戻ってきた。片方を、僕の膝の上にそっと置く。
「――前に、律がうちにやってくれたやつ」
「覚えてたんですか」
「忘れるわけないでしょ。あのとき、地味に嬉しかったし」
  同じ仕草を、今度は自分がされる番になるとは思っていなかった。僕は温かい缶を両手で包みながら、じんわりと熱が伝わってくるのを感じていた。
「理由、それだけですか」
  以前、僕が言った台詞を、そのまま芽衣さんに投げ返してみた。
「それだけだよ。文句ある?」
「ないです」
  芽衣さんは満足そうに笑うと、隣にもう少しだけ長く座っていてくれた。
  言葉はそれ以上多くなかったけれど、隣にいてくれるというだけで、頭の中で繰り返されていた失敗の場面が、少しずつ静かになっていくのが分かった。
  温かい缶がひとつあるだけで、こんなにも救われることがあるのだと、その日、僕は初めて知った。

  *  *  *

  その日は閉店作業が長引いて、ドームを出る頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
  裏口の照明を落として振り返ると、ちょうど同じタイミングで、私服に着替えた芽衣さんが出てくるところだった。
「あ、律もこんな時間?」
「今日、片付けが多くて」
「うちも。売上の集計、いつもより時間かかった」
  どちらからともなく、駅までの道を並んで歩き始めた。蓮さんも彩乃さんも、今日は先に上がっていて、二人きりで帰り道を歩くのは、これが初めてだった。
「律って、家帰ったら何してるの?」
「特に何も。本を読んだり、思いついたことをノートに書いたりくらいです」
「ノートって、日記的な?」
「日記でもないんですけど。……うまく説明できないです」
  言葉にしようとすると、急に恥ずかしくなって、僕は歯切れの悪い答え方をしてしまった。芽衣さんはそれ以上深く聞かず、「ふうん」とだけ返した。
「芽衣さんは、休みの日、何してるんですか」
「うちは、だらだらするか、彩乃と出かけるか。それくらいかな」
「一人の時間は、あまり好きじゃないんでしたっけ」
  以前の会話を覚えていたことに、芽衣さんは少し驚いた顔をした。
「――覚えてたんだ」
「覚えてます。忘れっぽいほうじゃないので」
「便利なんだか不便なんだか分かんないね、それ」
  夜道を歩きながらの会話は、仕事中よりもずっとゆっくりと進んだ。街灯の光が等間隔に並ぶ道を、僕たちは特に急ぐこともなく歩いた。
「――律って、将来何になりたいとか、あるの?」
  急に聞かれて、僕は少し考え込んだ。
「まだ、はっきりとは決めてないです。ただ、いつか、自分の書いたものを誰かに読んでもらえたらいいな、とは思ってます」
  自分で言っておきながら、こんな話を人にしたのは久しぶりだった。
「なにそれ、初めて聞いた」
「初めて言いました」
「――うちにだけ?」
  その聞き方に、少しだけ含みがある気がして、僕は返事に詰まった。
「たぶん、そうだと思います」
「ふうん」
  芽衣さんは前を向いたまま、それだけ言った。表情はよく見えなかったけれど、声のトーンが、いつもより少しだけ柔らかい気がした。
  駅の分かれ道まで来ると、芽衣さんが先に足を止めた。
「うちは、こっち」
「僕は、あっちです」
「じゃあ、また明日」
「はい、また明日」
  その言葉を交わして別れるのは初めてではなかったけれど、今日の「また明日」は、いつもより少しだけ、心に長く残った。

  *  *  *

  事件は、休憩室の冷蔵庫から始まった。
「――なあ、これ、誰のプリン?」
  蓮さんが、名前も書かれていない小さなプリンを一つ手に持って、休憩室にいた僕たちに聞いてきた。誰も名乗り出なかった。
「持ち主不明ってことは、早い者勝ちだよな」
  そう言いながら、蓮さんはスプーンを取り出し、実に楽しそうにプリンを食べ始めた。ほんの数分後、休憩室に戻ってきた彩乃さんが、それを見て静かに固まった。
「……蓮さん、それ」
「ん? どうした」
「私のです」
  蓮さんの手が、スプーンごと止まった。
「……あの、名前書いてなかったから」
「書き忘れてただけです」
  彩乃さんの声は、いつも通り穏やかだった。けれど、その穏やかさが逆に、蓮さんをじわじわと追い詰めているように見えた。
「べ、弁償する。今度なんか奢るから」
「大丈夫ですよ。次から名前ちゃんと書きます」
  彩乃さんはあっさりそう言って、それ以上蓮さんを責めることはなかった。けれど、その日の午後、僕は妙な現場を目撃することになる。
  蓮さんの作業用エプロンのポケットに、いつの間にか小さな付箋が貼られていたのだ。
「これ、たちばな」
  シンプルな一言だけが書かれた付箋を見て、蓮さんが「なんだこれ」と首をかしげていた。近くにいた芽衣さんが、それを見て小さく吹き出した。
「彩乃、根に持つタイプなんだ」
「持ってません。これはただの、忘れ物防止です」
  彩乃さんは涼しい顔でそう言ったけれど、蓮さんのエプロンには、その日一日、ずっとその付箋が貼られたままだった。
「――なあ律、これ、どう思う?」
「彩乃さんなりの、穏やかな仕返しだと思います」
「怖くない? この静かな感じ」
「怖いというより、丁寧、だと思います」
  僕がそう言うと、芽衣さんが「律、変な擁護の仕方する」と笑った。
  夕方、片付けを終えたところで、彩乃さんが小さな袋を蓮さんに差し出した。
「これ、お詫びの分です。プリン」
「え、いいの? もう気にしてないって」
「気にしてます。でも、蓮さんが美味しそうに食べてたので、ついでにもうひとつ買ってきました」
  その言い方に、怒っているのか許しているのか、どちらとも取れる絶妙さがあった。蓮さんは戸惑いながらも、素直にお礼を言って受け取っていた。
  一部始終を見ていた芽衣さんが、僕にだけ聞こえる声でつぶやいた。
「彩乃って、ほんと敵に回したくないタイプだよね」
「同感です」
  短いやり取りだったけれど、僕たちはその日、彩乃さんという人の、新しい一面をひとつ知ることになった。